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怪我による流血/夢オチの女体化/作中作における死ネタ/非童貞/レイプ/OD描写/etc...

idiom

EPISODE 01能あるタマはやればできる

彼の人の自立心は、その無垢の根源たる感情を端的に自覚すると共にある日唐突にやってきた。 学校の日だった。四葉環はそもそもの普段から勉強は苦手であまり授業そのものにも身が入った試しがないのだが、その日はいつにも増して虫の居所が良くなかった。机に肘をついて延々と窓の外を見て過ごすこの時間中、ずっと苛々と記憶に縛られた。授業が終わり昼の時間になるまでずっとそうしていたわけだが、昼のチャイムが鳴っても動こうとしない環をいぶかしげに振り返った和泉一織は環の鬱屈とした感情の原因をちゃんと知っている。 「四葉さん。いつまでそうしているつもりですか」 「ずーっと。学校終わるまで」 「……はあ…本当にあなたという人は、どこまでも幼稚ですね…」 窓の外から依然として目を離さない環の思いはひとつ、胸に蟠る昨日の言い争いに執着している。 相手はもちろん、逢坂壮五だった。 いつもその様子を見守っているアイドリッシュセブンのメンバーにとってメッゾの言い争いや小さなすれ違いは今に始まったことではないが、本人たちは至って毎回真剣に事を荒立てている。 無論、環の言い草だとか態度に大抵の問題があるのが殆どで壮五の言い分になんら間違いはない。神経質だが温和で我慢強い壮五を最終的に怒らせることの天才なのが四葉環そのものの本質だった。 (能あるタマはやれば出来る) 「…いつまで君はそうなんだ」 時間の話だったと思う。普段から滅法時間を守るスキルが低い環にとってその話は一番の苦痛だ。壮五の小言はなんといってもその話し方が好きではなかった。もっと分かりやすく言ってくれれば一回で済むことを長ったらしくいかにも理知的に遠く遠く話す。そーちゃんの言ってることはさっぱりわからないといつまでも反発的に言い訳を繰り返す環に痺れを切らしてついにそう零した壮五の目は、明らかに苛立ちを含んでいた。いつまで君はそうなんだ。 その鋭い言葉に一瞬で環の言葉は止まり、その後いくら問いかけられてもじっとその口を最後まで開くことはなかった。 見かねて仲裁に入った和泉三月も環の態度には怒っていたが貝の様に固く口を閉ざしてそっぽを向いてしまったら意地でも改めないのを知っていたので、そのまま二人を部屋に帰すことになった。 壮五は自分の言い方がキツかったかもと口を利かなくなった環を気にしていたが、三月にあまり気にするなと諭されながら明日の朝からの仕事の為にはやくに床に入ったようだった。 そして今朝、三月よりも早く起きて支度をし終わっていた壮五は幾分落ち着かない様子で三月になんとか環の世話を妬いてくれと頼むと、足早に仕事へと向かったのだった。 それから数時間後、環は珍しく目ざましで自分で起きると、三月が弁当の支度をし、一織が朝食をとっている最中のリビングを横目にいつもの時間よりかなり早く、無言で玄関を出ていった。 「………」 これには兄弟が顔を見合わせた。今まで、幾度もぶつかり合っている二人の様子を始まりから終わりまで見る機会があったが環が喧嘩の次の日だからと言って普段「頑張ってもやっぱ出来ないこと」の一つである、自分で起きて学校に向かうという行動を自発的にした事自体からとことん頭にきていることが窺えた。 呆気にとられたが三月は二人分の弁当を既に作っていたので、朝食の片付けをしながらやれやれと一織が包みを二つ抱えた。 「兄さん…弁当はわたしが届けますね」 通学用のバッグから弁当を二つ出すと、一織はまだ外を眺めたまま不機嫌そうにする環の机に包みを渡した。ちらっと環はそれに視線を落とすと、いおりん食ってと零す。 「兄さんの弁当を粗末にしたら兄さんが何と言おうと二度と作らせませんからね」 「……。みっきーにはいつもありがとって思ってる」 「当たり前です。あなたの機嫌に兄さんの弁当は関係ないですからね」 「でも、…食いたくない。昨日そーちゃん怒らせたから…腹減らない」 そこで初めて、環が怒りで機嫌が悪いというよりは昨日の出来事に少し反省して精神的に落ち込んでいるのだと分かった。一織はなんて分かりずらいんだと思いながらはあ、とため息をついた。 「反省してるんですか」 「…してる。でも、そーちゃんだって悪いって、ちょっとは分かってほしい」 「逢坂さんが悪いようには思えませんでしたけど」 「……。わかったって何回言ってもずっとおんなじこと言ってくんだもん」 「…………あえて言いますが、わかってない様に見えるから逢坂さんは繰り返すんですよ。本当に分かっているのなら、あんなに強く跳ね付ける様に言わないでもっと落ち着いて伝えれば、逢坂さんも分かってくれたんじゃないんですか」 そういうと、やっと窓の外から戻ってきた視線が一織をじっと見つめた。 「……そーちゃんさ、俺のこと嫌いになったと思う?」 一織は唐突なその質問に、結局は環の中で一番重要なのはそこなのかと思った。ならば話は簡単だった。答えはそんなわけがない。それ一択だった。 「本当にあなたは馬鹿なんですね。逢坂さんがあなたに、一度でも嫌いだと言ったことがあるんですか。大体あなた自身はどうなんです。事あるごとにそーちゃんなんか嫌いだと何度も言っておいて。それとも、自分でもう分かっているのにわざとそんなことはないから元気だしてくださいとでも言って欲しいだけですか」 「…そーちゃん嫌いなんていってねーし」 「どの口が言うんです」 「………うそだってわかるじゃん」 「そうやって、あなたが勢いの軽口のつもりでぶつけたんだとしても逢坂さんに嘘だと言ったことはあるんですか?神経質なあの人のことです。案外本気に捉えて嫌われていると思っているのかもしれませんよ」 もちろん、一織には今更壮五にそんな感情がないのは分かっていた。 出会って間も無い頃のメッゾであれば話は別だが、環のつらいこと、壮五の悲しいこと、それぞれを正しく全力で真正面から受け止め立ち向かい続けてきた二人の関係は好きや嫌いを当然含んだ上での絆だ。その幾重にも折り重なった気持ちの層の作り方は他人がいくら真似ようとしてみてもそう易々とは結べないものと一織は思っていた。 たまにメッゾにしか分からない苦難や喜びがうらやましく思うこともある。しかしこうしてぶつかって嘆いているのを見る度に、関係性に苦労した分、簡単に切れない糸で繋がっているということは、恐らく本人同士にはわからないのだなと思った。仕方がないとは言うが、今までというものがありながら、お互いの気持ちの見えない部分を不安に思いもっと理解し合えたら、と求めるのはどこか贅沢な悩みの様にも感じてしまうのだった。 「素直に謝るのが一番いいですよ」 そう言われ、環はのろのろと弁当の包みを開けながら、んーーという曖昧な言葉で濁した。 煮え切らない態度にやれやれと肩を落とし一織も前に向き直り弁当を広げる。 「どうせ朝に逢坂さんから言い過ぎたとかなんとか連絡、きてるんでしょう」 「……んー、多分。きてたけど見てない」 「既読が付かないと心配かけますよ。まったく本当に子供なんですから…」 「いおりん」 呼ばれて一織が後ろを向いたときには、弁当の半分まで手をつけて箸を持ったまま環はまた外を見ていた。どこかアンニュイな横顔は、環が子供なのは頭の中だけだったと思い知らされる程には大人びていて毎日いつの間にか歳を重ねてしまう自分達の、季節を歩く速度がとてつもないスピードなのを思わせた。なんですか、と一織が言う。 「…そーちゃんに好きになってもらうには、どうすればいいんかな」 「……知りませんよ…。まあ少なくとも、聞き分けのない駄々っ子の様な態度や、時間もろくすっぽ守れない高校生は、嫌いなんじゃないですか」 「……」 「あとは部屋の掃除や自分の洗濯も出来ない人とか。スケジュールの確認も人任せであいさつも一人でできない人とか。まあ一番困っていそうなのは、朝自分で起きてこないことでしょうかね」 「…………」 「いいですか。逢坂さんを頼りにするなとまでは言いません。四葉さんも四葉さんなりに逢坂さんの支えになっていることも少なからずあるでしょうからね。でもだからといっていつまでも逢坂さんにおんぶに抱っこで高校を卒業したら大変なことになりますよ。社会人になるということは自由になることでももちろんありますが、その分自分の自由の責任は自分で持つということです。まあもう半年もないですが、いい機会です。そろそろ自立心を持ったらどうですか」 顔は窓の方へ向いたまま、目線だけこちらにくれていた環が再び窓の外を見ながら言った。 「いおりんなーがい…じりつしんって何」 精一杯分かりやすく噛み砕いて言ったつもりの長文だが、それを聞いた一織の口から盛大なため息が漏れるのも、仕方がないというものだった。 午後の授業が再開し環は窓の外を見るのを止め、スマートフォンで「じりつしん」と打った。 すると平仮名で打ったじりつしんは自立心へと姿を変えいくつか出てきたウェブページの一つをタップした。他の人の力に頼らず自力でやろうとすること。心構え。 難関だった。 そもそも、人に頼るというのはそれほどまでにいけないことだろうか。自分自身は人に頼りにされるのは嬉しいものだと思っていた。しかしここに書かれている通りだとすると自立心を持ったらなるべく人に頼らずに自分だけの力で生きろという風に聞こえた。無理じゃんそんなの。そこに疑問を感じる以上先に進めないと判断した環は続いて壮五からのラビットチャットをようやく開けた。 朝は1件の通知だったが3件に増えている。 環くん。ちゃんと起きれたかな。 遅刻しなかったか心配になって連絡したよ。 学校行けた? それと、昨日は僕が言い過ぎてしまったみたいだ。 ごめんね。 朝にきていた内容は一織の予想通りだった。 だが環には壮五が悪いと思ってないのに謝っていると思わずにはいられなくて少し憂欝になる。 2件目は10時03分にきていた。休憩時間だろうか。 時間が余ったから王様プリン買ったよ。 三月さんに聞いたら学校行けたみたいで安心しました。 文脈がおかしいのは、きっと環は王様プリンという文字を見たら全部読んでくれるに違いないと思ったからに違いない。ほんとずるい大人。と思った。 その10分後のメッセージが最後だ。 環くん。何度もごめんね。 帰ったら、仲直りしたいです。 気を付けて帰ってきてね。 10分、考えたのだろうか、と思うと環は少し苦しくなった。仲直りという言葉にぶつけた言葉の数々を思いだそうとするが依然強く残る「いつまで君はそうなんだ」という壮五の低い声が邪魔をした。 壮五は環が人として最低限ちゃんとしてくれることをいつも心の底から願っている。それは環にも分かっていた。少しづつだけれど努力もした。出来たときに褒めてくれる壮五のことは大好きだった。環が褒められるといつも飛び上がって喜んでくれる。分かっている。 でも先程調べた自立心は、環にいい加減壮五から離れろと言っている様で怖かった。他人の力に頼らず自分で物事をやる心構え。大人になったら、一人で生きていける様にならないといけないのだろうか。 わかった。 環はそう送信してからすぐに、もう一通送った。 そーちゃんはおれがじりつしたら嬉しい? よろこぶ? それからしばらくして最後の授業が終わりスマートフォンを見たが、メッセージに既読のついたままその返信が帰宅までにくることはなかった。 「環くん、おかえり」 「ん。てかなんで返事くんねーんだよ。既読スルーすんな」 「え、…あ、ラビチャ…?ごめんね、…実はその、いろいろ考えてしまって…。打ってるうちにすごく長くなっちゃったから帰ってから話そうと思ったんだ」 「ふーーーーーーん。…傷ついた。ずっと待ってたのに。返信」 帰るなり玄関まで小走りで迎えにきた壮五に環はラビチャの返信を寄こさなかったことを咎めた。傷ついたのも待っていたのも本心だったがそれほど意地悪く言ったつもりはなく、ふと顔をあげると壮五はとてもバツが悪そうにしょんぼりとしてしまっていた。 「ごめん…」 「………べつに、めちゃくちゃ傷ついてはないから、いーし」 環も少し気まずくなった。一織が昼に言っていた「案外本気に捉えて嫌われていると思っているのかもしれませんよ」というのが胸にじわっと不安気に広がった。 環は本来、壮五に不満はあれど嫌いではない。壮五からは嫌われたくないし、困らせていると思った時は環も困った。努力はしている。しかしちゃんと伝えようとしたのに上手く伝わらないことの方が多いのだ。それはお互い様だと思う。 だから、そんなときいつももどかしさに声を荒げてしまうのは、自分が悪いと思っていた。 「……ちょっと傷ついたし待ってたのはほんとだけど…………なんつーか…そーちゃんを謝らせたくて言ったんじゃない…」 環の心が上手く言えなくてごめんなさい、と少しだけ壮五に向けてSOSを告げた。 そのまま壮五にそんな顔をさせてしまった自分の罪悪感が口に出る。 「…ごめん」 壮五がぱっと顔を上げ、たまきくん…と呟くと少しはにかんで 「ぼくもごめんね…」 とやんわりとした穏やかな声で言った。 それから壮五の部屋で話をしようと言われて頷いた環だったが、散々自立心で苦悩したので今日は言われる前にと思い制服から部屋着に着替えてから壮五の部屋へ向かった。 「…着替えたの?えらいね、環くん。はい、プリンどうぞ」 狙い通りすぐに着替えた事を褒めて貰えた環はすっかり目的を忘れてプリンを受け取り頬張った。 二口で半分以上を食べてからはっと今日一日の憂欝を忘れかけていることに恐怖を感じた。単純で馬鹿だと良く言われたが今それを言われても強く言い返せないかもしれない。 そっと壮五を見ると環の視線を受けてにっこり笑うとおいしい?と言った。 「……ん、…………」 「どうしたの?」 「…いや、目的忘れるとこだったから」 逃げ隠れしない代わりに逃げも隠れも出来ない正直なところも環の長所であり短所である。壮五はおかしそうに笑ってそうだよね、ごめんごめんと改めて環に向き直った。 「昨日は言い過ぎてしまって、ごめん。分かってほしくてつい何度も同じことを繰り返してしまった。聞くの苦しかっただろう。うるさく言ってごめんね」 壮五の言葉にまるで優しく撫でられてでもいるかのように、心の蟠りが解けて行くが、壮五が100%悪いわけではないのに、壮五自身の落ち度を自ら反省して丁寧に謝られるのは環にとってとても応えるものだった。誠心誠意やっていると分かっているからこそ、尚更言葉にブレーキがかかる。 「…………」 「…あと、ラビチャ…すぐに返事しなくってごめん」 環は壮五のごめんの度にまた一つ言葉を失う。 壮五は自分が謝ったからといって環に謝罪は求めない。いつもそうだった。まるきりそれに関しては甘やかされていると思った。同時に、これは環の悪癖だがそれは仲直りじゃなくて機嫌取り。そーちゃんは自分が謝って済むんならそれでいいと思ってる。そう思った。思ったが、口には出せなかった。 どう言ったら全部伝わるのかが分からなかった。そこだけ伝えたって何の意味もないことを環はここにきてようやく実感していた。言葉に詰まる。 「たまきくん…」 不安げに壮五が零したのを聞いて顔を上げる。 目があって安心したのか微笑まれてまた環は困った。壮五は今自分の表情から、何を思ったのだろう。環には壮五が一体どんな気持ちで仲直りがしたいと言っているのか少し分からなくなった。 人間関係として、いつまでもむくれる自分は周りにとって迷惑だから?仕事の時に返事をしないと困るから?それともちゃんとしている自分はいい子で好きだから?壮五にとっての自分は、圧倒的に子供だ。 初めてそう、自覚する。 「……そーちゃん」 「なんだい」 「おれが今、何思ってるかわかる?」 壮五は黙った。せっかく合っていた目を逸らしてまた、ごめんねと言った。 「……心同士、見えたら少しは環くんのこと分かってあげられるかもしれないのにね…」 苦しそうに笑った壮五を見た瞬間、環の胸に何か湧き上がる。 漏れ出てくるようにじわじわと湧いてくるその感情は環に羞恥心を生みだした。 「…アンタがわかんないのとおんなじで、おれだってわかんないから」 「……」 「何回も言ってんじゃん、もっとおっきい声でいってくんないとって、おれは馬鹿だから」 「…たまきくん?」 「未だにアンタに好きになって貰う方法がぜんぜんわかんない…!」 自分で聞くに堪えない程幼稚な言葉だった。こんな時一織ならどうやって気持ちを言葉にするのだろう。大和なら、三月なら。陸やナギならば、壮五にどんな言葉を使ってもっと自分のことを好きになって欲しいと言うのだろうか。環は今出来る限りで精一杯伝えようと努力したが恐らく伝わっていないのは肌で感じた。もっと上手く言えたら。 「……嫌いじゃないときは、どうすればいい?」 環が気持ちの表現に苦しんでいると分かった壮五は自身も少し言葉を選びながら模索する。何せ好きになって貰う方法は、壮五も知りたかった。環に好かれるにはどうすればいいのか、それは随分昔からずっとずっと考えてきたことだ。もちろん、今だってそうだ。間違えない様に、環の欲しい言葉を懸命に探している。それが何故、環には伝わってくれないのか。もっと上手く理解できたら。 「その……僕も…環くんに好きになってもらいたいんだけど…方法は確かにわからなくて…環くんが喜んでくれることなら少しわかってきたような気がするんだけど、環くんに好かれる僕って…どういう感じか教えてくれるとうれしいな………」 壮五は環の本当に言って欲しいことが何なのかまるで少しもこれっぽっちも分からなくて戸惑った。好きになって欲しい、ならば、嫌いじゃないことを伝えよう。じゃあ同じ質問をしたら環はどう言うのだろうか。壮五はふとラビチャを思いだす。 「あのね、環くん、ラビチャで環くんが自立したら嬉しいかって聞いてくれたけど、……結論としてはもちろんすごく嬉しいよ。たくさん褒めてあげたいって思うと思った」 壮五は当然環が喜ぶと思ってそう言ったのに反して、環の顔は実に曖昧に濁った。 それからしばらく二人には無言の時間が訪れ、一周回ってぶつかり合うんじゃないかと思うぐらいちぐはぐにすれ違う様はさすがの環にも「おれもっとそーちゃんのこと分かってると思ってた」と言わしめるほどには距離が離れているのであった。 「そーちゃんはやく。遅刻すんぞ」 「うん…」 某日、環は壮五とのレギュラー番組の収録で早い時間から電車で移動していたが、急遽スタジオが変更になったと電車内で連絡を受けた。慌てて方向転換したものの既に元のスタジオに向かっていた二人は乗り継ぎの関係で時間ギリギリになってしまっていた。 幸先が良いとは言えないが気を落としている暇もない。収録後は環だけ2本の取材が待ち構えている。 3月に卒業式を控え、その年の1月に入ると、季節柄雑誌の取材が多くなった。メッゾとしてのインタビューもそこそこあったが今年晴れて高校を上がることの出来る環と一織での取材がそれはもうとにかく多かった。 インタビューは特に環の苦手とするところで、本当の事を言っているだけなのに何故か場の空気が凍るなんてことはままあった。メッゾでの取材時は壮五が上手くカバーしてなんとかなっていたのだが、一織と二人きりの現場に入ると毎分毎秒小言を言われた。 あなたって人は逢坂さんのありがたさをもっと噛み締めて生きるべきですこんなふざけたことばかり言って仕事しているうちにはいりますかこれは自立心が芽生えたとかなんとかで少しだらしがなくなくなったからといってわたしは甘やかしませんからね今からいうフレーズは絶対にいれて次の取材には応じてくださいわかってるんですか返事は がみがみしつこく詰られても一織の言うことは最もだった。 至らない部分を言い訳せずに短所だと思える様になったのも最近だった。誰かに怒られる度に何故そう思われてしまったかをまず考える様にした。そうすることで自然と自分のいけないところが浮き彫りになり、だから相手を怒らせてしまったのかと納得いく。それが分かってから謝罪するのは自分にも相手にもプラス。謝ることがマイナスだと思わなくなったのも、最近の話だ。 環は壮五と「仲直り」をしてからというもの、著しく自立心に傾倒した。 もちろん、最初はとても苦痛だった。一人で誰にも頼らずに生きろだなんて何と残酷な人生だろうと朝目ざましで起きる度に思ったものだが、習慣づいてしまえば案外一人で起きるのは簡単だった。 今でも起きてリビングに行くといのいちばんに壮五が嬉しそうに笑ってたまきくんおはようと言ってくれるが始めのうちはそれはもう驚いて3日も続いた日には少し心配もされた。 しかし、一織に言われた「逢坂さんが嫌いそうな人間像」を根に持って一つ一つ潰していくうちに、少しづつではあったが掃除も洗濯もやるし時間もきちんと守れる様になった。ぎこちなかった挨拶も多少見栄えするようになったし、一人の現場でもようやく安心して任せられる、とメンバーからは言われた。 結果的に自分で何でも出来る様になることで壮五が離れていってしまうといったことも無く、それどころか寧ろ前よりも壮五の不器用な姿が気になるようになり、そーちゃんが失敗すんのやだからという理由で台本とスケジュールを念入りに確認するようにもなった。 同時に。 「っ…環くんちょっと、先行って」 「いや待ってるし。速かった?ごめんな」 「ううん、追いつけなくって、ごめ…」 「でも遅れっし、手引っ張っていい?」 「えっあ」 「先方都合だからいいかもだけど、急いだほうが印象いいよな?」 「そ、そうだけど………!」 環はかつてない距離感で壮五をよく見た。 まず頑張り屋だがそれに付いてくる体力がない。神経質でそのくせ不器用で口下手、頭はいいのにたまに世間知らずでトンチンカンな常識をさらけ出した。 悪意には敏感だが好意にはとことん愚鈍で散々人として好きだと行動で時には言葉で表現したところでその大きさを平気で見誤る。そして、そんな風に好意を少しでも感じた暁には自分がどんな状況であろうと優先順位を他人に出来た。 環にはそれはとても怖いことのように思えた。 実際、疲労で免疫がぐっと落ちた時に限って仲の良い番組スタッフに誘われてしまう飲み会を断れない。結果飲んでも酔えずにそのまま深夜に帰宅して朝まで吐いているような人間だった。 何も見えていなかった頃の自分には壮五はもっと大人で余裕のある風に見えていた。 言われれば、壮五は何でも一人で抱えて考えてぐらぐらに煮詰まってしまうこともあったと思う。 でもそういうときは未熟な自分にもちゃんと理解できる程分かりやすくSOSが出ていたので背中を撫でてやることも難しくなかったが、今考えると想像が付かないぐらい負荷がかかっていたに違いないのだ。 環はそうなってからでないと壮五の苦しいに気が付けなかった自分を恥じた。そして今まで壮五に寄りかかっていた甘えの分をしっかり引き戻してから、壮五をこちらに引き寄せている最中だった。 もっと側に来ても大丈夫。もっと寄りかかっても平気。ただ、それを上手く伝えられているのかは、やはりまだよくわかっていないのだけれど。 スタジオに着いたのは約束の時間の三分前だった。時間的にはギリギリセーフだったが壮五的には大分アウトで少し過呼吸気味になりながら間に合ったね、と言ったが結局その後息が整わずに十分押してからの撮影となった。楽屋でソファに横になる壮五にそーちゃん無理させてごめんなーーと台本で風を送る。一生悔いる勢いで冷たいタオルを額にのせたまま壮五が呻いた。 「………ほんとにごめん……せっかく環くんが急いでくれて間に合ったのに……」 こんな時ですら環に謝る壮五はきっとしばらくは電車の時間を極端に早くするに違いないと思うと、神経質も大変だなと少しおかしくなった。壮五は口癖のように謝る。でも悪いと思ってないことには絶対に謝らない人だった。 「引っ張らないで抱っこすりゃよかったな」 「それは……やめてくれ……」 「おぶるならいい?」 「どちらかといったら………」 この日の撮影は始まりこそ多難だったものの開始してからは順調に進み、14時をまわる頃には全てが無事終了した。 このあと環は雑誌の取材が入っているので、壮五とは別行動だ。 数回に亘る一織のスパルタ特訓のお陰で、随分まともな記事をのせてもらえるようになった環だったがこと恋愛に関する質問には相当気を遣った。というのも一度明け透けに答えてしまった取材の雑誌が、発売直後からSNSで波紋を呼び紡と万里を謝罪地獄へと落としてしまったことがある。 その後メンバーからもこってり絞られ更にアイドルとは何かという恐ろしい程長い社長の講義を聞いてからというもの、恋愛に関する質問にはある程度決められたことしか答えないようにしていた。 今日もアイドル雑誌の取材が入っているので時期的にバレンタインデーの話を聞かれるだろうと踏んでいた環は事前に壮五のインタビュー記事をネットで見つけてブックマークしておいた。 壮五が答えてOKな事が、自分でNGなわけがないと思ったからだ。 「……」 Q1、バレンタインデーの思い出を聞かせてください。 A、学生時代はあまり縁のないイベントだったので特別なエピソードはこれといってないんです…。義理チョコはたくさん頂いていましたが…(笑) Q2、デートでよく行く場所を教えてください。 A、昔の話になりますが、料理の美味しいよい雰囲気のお店を知っていたのでそこに誘って食事をしたり、あとは…映画を見にいくことが多かったです。今はそういったこともないので少し懐かしいです。 Q3、理想の恋人像を教えてください。 A、よく笑ってくれる人がいいかな。あとは僕が優柔不断なので我儘が上手な人がいいです。 Q4、アイドリッシュセブンの中で恋人にするとしたら誰ですか? A、メンバーの中で…。いつも一緒にいるから、環くんかな。お互い気心が知れているし、特に最近すごくしっかりしてきたので頼りがいもあります。オススメです(笑) 「………(笑)ってなんだっつーの…」 控室で一人で読んでいた環はついそうごちてしまった。 デートの場所はリアル過ぎた。壮五は御曹司だし頭のいい高校に行っていたと聞いていたので彼女は無意識にできたことがないものだと思っていたが存外プレイボーイを感じさせる答えで少しもやっとした。理想の恋人像からは遠回しに尻に敷かれたい事をアピールしているようにも感じ、壮五の隣で明るく笑うどちらかというと元気な女の子がぼやんと浮かんだ。快活そうな女性が好きだったなんて意外だ。何故だか、少し学生時代の壮五に嫉妬していた。 環の知らない壮五の顔はまだまだたくさんある。そういう話も今まで少しだってしてこなかった理由は只ひとつ、自分が子供で幼稚で卑屈で壮五に全力で甘えていたからに他ならない。 一方、環に彼女が出来たことはなかった。その多彩な運動神経と大人びた外見に群がられ言い寄られた事は星の数程あったが、そもそもが未熟な環にとって彼女が出来て特別したいことはなかった。 思春期の真っただ中、施設で暮らしながらダンスに傾倒し、妹を探す為にアイドルを目指した。 高校生にもなるとそれなりに同級生は色めきたってきたはずだったが17歳で芸能界入りした環にとって女性はファンか友達以外に区分されることが無くなった。 ごくたまに、環のいる輪で同級生がセクシー女優についてを話すこともあったが、環にとっては境界線の曖昧な世界だった為、あまり理解出来ずに終わっていた。 「……」 そんな中で釈然としないのは、まるで壮五に女性経験がありそうだということ。 男の環にですらぐでんぐでんに甘い壮五なのだから、女性には、増してや彼女なんかにはめちゃくちゃに優しいに違いない。かといってとても頼りがいのある彼氏という感じにはどうしても、思えなかったのだけれど。 普段は真面目な好青年ぶっているが彼女とデートしてセックスは出来るんだ。自分はキスすら意識してまともにしたことが無い。だが待てよ、強くしたいとも正直思ったことが無かった。 環はそんな己の人生経験の乏しさに自分で若干引いてしまったのだった。 インタビューは予想通りバレンタインデー向けの質問が目白押しだった。 一織が用意した回答をそつなく答えているうちに、メッゾは仲がいいということで大人気のグループですが逢坂壮五さんについてどう思っていますか?という質問に行き着いた。 「……そー…ちゃんは……えーと…」 環は殊更先程余計なインタビュー記事をみてしまったことを後悔した。彼女とうまくやれそう、とか優しくしてくれそう、とかそんな事しか思い浮かばず変な汗が浮かんでくる。 「え、っとそれまたあとででもいーですか…」 「はい、大丈夫です。では、次に逢坂壮五さんの好きな所を教えてください」 「す……………」 環の汗は引くタイミングを失った。落ち着こうと水を飲んで深呼吸をする。メッゾは只でさえ仲良しのイメージで売られているし今までされたことがない質問ではないので、その時の回答をひっぱりだして口にする。 「えーと……なんでもそつなくこなせるところです…あと優しいとこ」 「ありがとうございます。次に、逢坂壮五さんと行ってみたい場所はありますか?」 「……」 どうやらしばらくメッゾ絡みの質問が続くと分かった環はもうありのまま答えようと思った。そもそも恋愛の質問にトラウマがあるだけで壮五相手の質問で失敗もなにもないだろう。これは自分に言い聞かせたものだった。 「そーちゃんと。…前、番組の企画で行かせて貰ったカフェかな。でかい犬が居て癒されました」 「もし複数あれば他も是非教えてください」 「……んー。おれは星見るの好きなんで、で、そーちゃんは夜が好きなんで、プラネタリウムとか?」 「ああ、もしかして都内にオープン予定のですか?」 「そうそう。もし時間が合ったら行きたいって話をしました」 「ありがとうございます。では先程の質問よろしいですか?」 「あー、どう思ってるかだったっけ?」 インタビュアーはにっこりと頷いてどんな言葉にも柔和な顔を崩さない。 どう思っているかという質問は少し難しかったので自分なりに思う壮五を並べてみようと思った。 「んー…大人だけど、そーちゃんのキャパって割とぎりぎり。昔よりも色々分かってあげなきゃなってくらい、本当は無理してた。今まで子供でごめんって伝えたい」 「……ありがとうございます。では最後に、」 「はい」 「もしも逢坂壮五さんが彼女だったら、どんな風にしてあげたいですか」 耳に流れる大音量の音楽はそのままに、環は22時を回った頃に帰宅した。 ソファでは明日オフなのだろう、こんな時間まで大和がビールを飲んでいた。こちらに向かって何か言ったがおそらくおかえりという言葉かなと思ったのでイヤホンは外さずにただいまー飲み過ぎんなよーと言うとそのまま部屋に入った。 しばらくぶりにイヤホンを外すと耳の奥に軽快なダンスミュージックがこだました。洗濯かごとして置いた水色のバスケットにシャツを投げ入れると部屋着のTシャツに着替えてパーカーを羽織る。 雑誌の取材は2件目が終わった時点で19時をまわっていた。 今日は好きなアーティストの新譜が発売される日でCDショップへ寄りがてらその隣にある雑貨店でペンケースを新調した。固い素材だとかばんの中で音がしてうるさいんだよねと言った壮五の言葉を思い出しながら小さくてシンプルな黒い布製のものを選んだ。それから、デビュー当時から使用していた壮五のタンブラーが大分年季が入っていたのを思い出して別になんということもない日だったが気分でプレゼントしようと思って購入した。 明日は二人ともオフだったが、今日無理矢理に走らせてしまったからきっともう寝ているだろうと思ったので机の上に箱を置き風呂の準備を始めた。 すると、こんこんと控え目なノック音が響いた。 「…環くん、帰った?」 壮五の声がドア越しに聞こえてあー、今から風呂ーと返事をするとあけてもいい?と言ってきたのでんーとこちらからドアを開けた。壮五はそのまま中に入ってそっと後ろ手にドアを閉めたので話がしたいのかと気付いて持っていた着替えをベッドに一旦置く。 環はベッドに腰掛けるが当の壮五は所在無げに突っ立っていて、そーちゃん、と手招きして王様プリンのクッションに座らせた。 「おつかれさま。遅かったね。インタビュー長引いた?」 「いや。仕事自体は七時には終わった。買い物してたら遅くなった。なんかあった?」 「ううん、帰りが遅かったから少し心配していただけだよ」 「…ん。ごめん。次から一言いれる」 「え…」 「てか心配したの?大丈夫だよおれもう「じりつ」、してんだから」 わざとじりつを強調して言うと、壮五はぐっと不思議な表情をして黙った。 それから目を合わせないままぼそぼそと喋り出す。 「まだ未成年なんだから、あまり遅くなったら心配する…」 「うん。あんがと。今度から遅くなる時はちゃんと連絡するから」 「……うん…」 壮五の曖昧な顔が意味深でじっと見つめた。何か言いたいことがある? 環は思い出してそーちゃん、おみやげ。と言うと机の上から箱を取り壮五に手渡す。 「?どうしたのこれ」 「そーちゃんのタンブラーぼろぼろだったから。気分。でも使って欲しくて買ったからちゃんと使って」 「え、環くんが?わざわざ買ってくれたのか?えと、ありがとう、でも…」 「でもとかいーーじゃん。ありがとで十分だし」 そういうとやっと笑った壮五に一安心すると、なんかもっと言いたいことあった?と素直に聞いてみた。 「言いたいこと?」 「さっき。なんか変な顔してた」 「……ううん。なんでもないよ」 「うそつき。すーぐそうやって誤魔化すんだからそーちゃん」 「……」 「怒んないから言えよ。何でそんな顔すんのか分かんないだけから」 「……………じ…自立…」 「じりつ?」 「…君がいくら自立したっていっても…心配はするからね…………」 環は自分の言葉を思い返して、心配したの?大丈夫だよ、という発言に二重線を入れた。壮五に勘違いされるような言い回しは二度としない。多分。絶対。 「あー……そうか、あれはさ、心配してくんなくっていいって意味じゃなかった。ごめんな。難しいな、そーちゃんと分かり合うの」 「………、むずかしい、かな」 「おれのほうこそ、そーちゃんの心ん中とか頭ん中が見れたらもっとそーちゃんのこと分かってやれんのにな。おれが分かってなかったら分かって欲しいって、ちゃんと言って。お願い」 「………環くん、…もしかしてなにか困ったことあった?取材…」 もしも逢坂壮五さんが彼女だったらどんな風にしてあげたいですか?という質問にはさすがの環も驚いて固まってしまった。彼女だったら?インタビュアーの女性もこれには少し表情を崩して、面白い質問ですよね。失礼があったらすみません。と言った。 「……今日さ。もしそーちゃんが俺の彼女だったらどんな風にしてあげたいかって質問された」 壮五が一瞬目を瞬いて、それはすごい質問だね、と苦笑した。 「なんて答えたんだい?」 「…んー。内緒。そーちゃんは?」 「ん?」 「そーちゃんは俺が彼氏だったら、どうされたい?」 環は、これは我ながら攻めた問いかけだと思った。だがしかし、好意には専ら鈍感な壮五なので恐らく素っ頓狂な答えで返ってくるに違いないと待ち構えていたが、いくら待っても壮五から答えが出てくることは無かった。それどころか、とても動揺した顔で、え、とかえーと、とかまるでインタビューの最中の自分を見ているかの様なしどろもどろな壮五の反応に環の方がもっと動揺してしまった。 「………その、ちがう変な意味じゃ…えーとなんだろう急に照れてきちゃった……」 耳まで赤くなってきている壮五はタンブラーの箱を弄びながら最終的にごめんおもいつかない、と小さく零した。一方の環は壮五がこんな反応をするとは夢にも思っていなかったので、自分がインタビューで答えてしまったことを今更ながらにとてつもなく後悔した。 「そーちゃんマジで照れんなっつーの………恥ずかしくなってきた…」 「た、環くんが内緒なんていうからその、なんというのか、テンションが分からなくなっちゃったじゃないか」 「絶対インタビュー見んなよ。絶対。マジだからこれ」 「……そんなに変なことをインタビューで答えたのかい…」 「変じゃねーし…!真面目に、………」 墓穴だと気が付いてこれ以上この話を広げてはいけないと察した環は、壮五を部屋から追い出しドキドキした心を落ち着かせようと早々に風呂へ向かうのだった。 後日、結局インタビューは無事に掲載されて、「世界一幸せにしてあげたい」という環の言葉は寸分の狂いもなくあの時の質問に答えたものと違いなかった。 教室で雑誌を開いたまま頭を抱えているとトイレから戻ってきた一織がにやっと笑いながら世界一…なんでしたっけと言った。 「もーーー、いおりん!」 「いいじゃないですか。逢坂さんは昨日とても喜んでいましたよ。もう十分幸せだよ、と」 「見たっつってた!?見んなっつったのに……!」 「あなたにそんな一面があったなんて、むくれて兄さんの弁当を半分しか食べない幼稚園児並だった頃のあなたが知ったらさぞ驚くでしょうね…」 「いおりんめちゃくちゃ馬鹿にしてんな………」 「まあ、他の質問はわたしの特訓通りきちんと答えているようですしファンが喜びそうな回答だから別にいいじゃないですか。逢坂さんもまんざらではなさそうですし」 「………」 最近の一織の言葉には一抹の含みを感じた。 このインタビューを受けて以来、壮五に対する好きの感覚が仲間としての友愛の中に徐々に違うものが混ざり始めているのを環は敏感に感じ取ってしまっていた。 壮五の喜んだ顔を見ると自然と自分の心も温められた。小さなことでも律儀に褒められると嬉しくて頭を撫でてやりたくなった。しんどそうな時は抱きしめて安心させてあげたかったし、上手く出来ない時はじっとその姿を静かに見守り頑張ったなと優しく労ってあげたかった。 元々線の細い身体に整った顔立ちで繊細に紡がれた絹糸の様な上品な存在感だ。頼りにされて悪い気は全くしなかったし必要とされたいと強く思うようになったのもこの頃からだ。 側に居て欲しいというよりは、そう思われたかった。一緒に過ごしたい、というよりはそう思って欲しかった。自分といると幸せだと思ってほしくて努力する環にとって壮五の姿は既に「触りたい」方の好きな人だった。 そして該当の二人は気が付いていないが、メンバー間では二人の距離感について様々な憶測が飛び交っていた。 環は自立に成功したことで今までとは比べものにならないほどとてつもなく視野が広くなった。 問題だった子供っぽさは大分治まり元来の肝の据わった大胆で怖気づかない存在感に拍車がかけられ随分と頼りがいのある人間にこの短期間で成長した。 そのことを壮五はまるで無邪気に喜んだし受け入れた。そうなることで、自分の未熟さに時折目を伏せる事があるようだがその分環に助けて貰う割合が増え、結果的にメッゾとしてのバランスは以前よりもよく取れている様に思えた。 問題は、環の感情表現の仕方だった。 気持ちが妙に大人びた所為で持って生まれた色気は更に増した様だった。 どこで覚えてくるのかカメラに向かうと人が変わったようにフェロモンを振り撒いて、若干17歳にして抱かれたい男ランキングの上位に立たされた貫禄は歳を重ねる毎に大きく成長していった。高校を卒業する今年には、18歳になる。 あどけなさの消えた表情作りはとても秀逸でいて、それに本人の意思までもが乗せられると、もう手がつけられなかった。 特に、壮五への過剰とも取れるスキンシップをメンバーは度々目撃していたが仲良しだと微笑む者もあれば大丈夫だろうかと心配する者もいたし、相手が困ってなさそうだからセーフと思う者もいた。 外からみても、壮五は環からの強いアピールを思いの他受け入れているように見えた。 バレンタインシーズンはステージにイベントに取材に撮影と毎年バタバタと忙しなくなる。スタミナのない人間から疲労が見え隠れしてくるのだが、今年は壮五の消耗が特に激しかった。 環がいよいよ高校を卒業するシーズンに入るということで、メッゾ二人で環についての話をすることも多くなり、特集を組む雑誌にひっぱりだこでシーズンで比べると昨年の3倍近く取材を受けることになっていた。隙間の時間も無い程ぎゅうぎゅうなスケジュールには終始マネージャーが平謝りで、これでもお断りしたものがあるほどですと多忙の悲鳴をあげていた。 壮五は大丈夫だよ、マネージャー。任せて。と力強く笑ってみせていたが、環にはこの辺りでそーちゃんはバテるだろうなとおおよその見当はついていた。 「………環くん、次どこだったっけ…」 「A9ブース。だいじょぶか。少し休む?」 「…時間あるっけ…」 「んー、あと7分だからあんまないかも…」 しんどくなると壮五は手放せる物から手放した。昨年も途中から環にタイムキーパーを任せたが、今年は全体のスケジュールの把握を頼ることもあった。重なるインタビューで言葉に詰まってくるといよいよだ。そうなってしまうと帰宅してリビングのソファに座ったが最後、意思とは裏腹に壮五はまどろんで目を閉じてしまう。昨年まではそうなった壮五の側にすら居ない事もあった環だったが、今年は必ずと言っていい程眠った壮五の隣でその様子を窺っていた。それどころか、気を失う様に眠りこける壮五の身体を受け止めて自らの膝に頭を抱えていたり、ソファに居座ったままテレビの音量を極端に低くして静かにしていたりと、明らかに今までのどの環よりも壮五を気遣っている様子が見て取れた。 この日も、風呂から上がった一織が環一人でソファに座っているのを見て声をかけようとすると、ぱっとこちらを振り返り口に人差し指を当ててし、と静かにしろと言ってきた。そっと近づくと環の膝に頭を投げ出し疲れ果てて眠る壮五の髪をまるで猫の毛並みを撫でるかのような手つきでやんわりやんわり上下していた。 「かけるものもってきましょうか」 「…や、かわいそうだけど、明日もあるからもう起こす。風呂入れてあげないと」 環はそう呟くと、細い肩を小さく揺さぶってそーちゃん、と声をかけた。 「………ん」 「そーちゃん。大丈夫か。いおりん上がったから起きて風呂入ろ。少し寝れた?」 「……環くん…ごめんね…寝ちゃった」 「いーよ。声出てねーけど平気?喉いたい?」 「………だいじょうぶ」 免疫が落ちてぶすぶすと酷い鼻声になりながら、まだぼんやりとしている壮五の背中を環は優しくさする。その心地よさにまたかくんと首が落ちまだ眠たくて仕方がない様子を切なげに見ていた環がふと壮五のその無防備な耳元に唇を寄せた。頭をぽんぽんとたたく。 「そーちゃん、一緒入る?」 壮五がくすぐったそうに身をよじってかぶりを振るのを見て、じゃあ先に入ってもう寝たら、と言うと手を取ってソファから立たせる。渋い顔で重たげに歩く壮五を見守る環の目は心配か愛情か、どちらにしろ熱っぽい視線に違いなく、その一部始終を突っ立って見ていた一織はふむと口元に手をやった。 「なんですか今のは」 「…えー…」 「なんだ、あなたも疲れていたんですね」 「当たり前だろ。ぎゅうぎゅうすぎ。あ、今のは文句じゃない。感想」 「感想……。逢坂さん、スタミナが切れてしんどそうですね。四葉さんは大丈夫ですか。キャパオーバーになる前にわたしかマネージャーに相談してください」 んーーという返事のあと、なんでいおりん?と言うのはお決まりで、咳払いでわたしがマネージャーに伝えておきますという意味です。とここまでが常套句だった。 そんな過密なスケジュールを終えてやっと落ち着いた頃、お疲れさん会と称してメンバーだけで打ち上げをした。マネージャーらにも声はかけたが来月の環と一織のスケジュールでてんやわんやしているそうで来られないと連絡があった。 「ソウはしんどそうだったな今年。体調は大丈夫か?」 「すみません…体力がないのは今年も課題ですね…」 「一緒にトレーニングするか~?まあメッゾはスケジュールがキツイからなあ。環はいいとしても壮五はこれ以上身体いじめたらそのまま倒れそうだよなあ」 「あはは……面目ないです……」 「壮五さん!おつかれさまです!」 「陸くん、おつかれさま。ナギくんもね」 「オー…ソウゴ、無理はよくないです。タマキがすごい顔でこっちみています」 「んえ、ああ、…きっと飲み過ぎないように見ててくれてるのかな…」 そういいつつ、注がれたビールを飲んでいた壮五は紙コップ2杯を飲んだだけでかつてない程べろべろになった。疲労の回復仕切っていなかった身体にアルコールがきつく染み意識が保てない程の睡魔が襲う。 その様子を見ていた環は無茶ぶりも出来ないくらい眠そうにふらつく壮五を後ろから支えて水を渡した。 「そーちゃん、もう酔った?平気?水飲め」 「………ねむ、ぃ」 「眠い?酔ってる?まだ大丈夫?」 「たまきくん…」 酔ってない方の呼び方でほやんと笑って体重を預けてくる壮五にぐぐっと環の理性のストッパーがかかる。水をなんとか飲んでもらうと、ソファへ移動して横になるよう促した。そして、横になるよう促しただけで、膝に頭を乗せろとは言っていない、と環は思った。壮五は何の躊躇いも無く環の膝に横になると弛緩しきった表情でたーくん、と一言漏らし、すぐに寝息をたてて眠った。 これには、環の感情が大洪水だった。只でさえ酔っ払った壮五には一際弱いのを自負しているので壮五の飲んだグラスの水を一気に飲み干して息をつくと、身体の中心がむず痒い様な、きゅっと胸が締め付けられる様な柔らかい気持でいっぱいになった。 パーカーのフードを被り、耳が赤くなっているのを隠すと、ためらいながらも頭を緩く撫でつける。他人をこれほどの熱量で好きになったことの無い環は持て余すほど凶悪なこの恋心に頭の中をぐちゃぐちゃに塗り潰されそうになっている。 突飛な行動にでてしまいそうで今は触りたくないのに、壮五の頭を撫でる手は止められなかった。 背後から一織が襲わないでくださいよ、四葉さん。と心を見透かしたかの様なことを言われ環はびくっと身体を震わせたのだった。 とろんと霞んだ春の空の日だった。 涙ぐむ三月と満面の笑みの壮五が見守る中、三月の十五日という日を節目に環と一織は三年間の高校生活に終止符を打った。 卒業を境に、芸能学科とは言え同級生とは恐らく顔を突き合わせる機会もなくなるだろうと、環は写真をたくさん撮った。 とりわけ一緒にいることの多かったダンス仲間とは最後のダンス納めと称して本格的なダンス動画を撮る予定だった。大なり小なりの事務所に所属している連中ばかりだったので気が楽だったし普通科だが将来映画監督志望の友人がカメラを回し編集まで預かってくれることになっていた。 一織には何度も声をかけたがいくら誘っても答えはNOで残念だったがさすがに諦めた。 こうして同じ歳の道は違えど夢を追う仲間達と一緒に過ごすことが出来たのも環にとっては貴重な時間のひとつだった。卒業して、大人になって、もっともっと大きな夢を叶えた時に、それぞれがそれぞれの場所で活躍していることを強く願った。それぐらいには大事な友達だった。 当日、ダンス動画の撮影は屋上ですることになり、衣装は専らの制服で少し風が強かったが天候には恵まれた。 環をセンターにしてはいたがそれぞれメインの見せ場があり、振り付けは各自で考えてくる、という本当に適当な企画だった。にも関わらず、踊り終わった直後は素直に最高の出来栄えになったと確信したほど、全力で、等身大の気持ちの乗ったパフォーマンスが出来て大変満足だった。 またこのメンツで踊りたい、とジュースで乾杯したのは環の心にずっと残って行くであろういい思い出になったのだった。 「きたー」 そんな卒業式から二週間が経った頃、編集を預かってくれていた友人から動画が完成したから見て確認してくれと連絡がありすぐにデータの入ったディスクが届いた。 環は早速見ようとリビングのデッキにディスクを入れていると、そこへ洗濯のかごを持って通りかかった大和が寄ってきて普段映像作品を進んで見ているイメージのない環の行動に興味を示してソファに腰掛けた。 「めずらしいな。何見るんだ?」 「んー卒業記念で撮ったダンス動画。絶対ヤバイ」 「卒業記念?ヤバイ?」 「絶対」 環がにやっと笑って再生ボタンを押すと、黒い画面の中央に一瞬だけ黒光りした丸い球体がツヤっと光る様に映り込んで消え、白む画面があの日のまどろんだ霞みの空中を捉える。サア…という風の音でフェードインしたダンスナンバーの低音が鳴り、環の軽快なステップが足元だけ映された。小気味よく鳴ったギターサウンドに乗って全体で四名の引きの映像に切り替わる。 「…えらい本格的だな…」 大和が驚いた様に言うと、環は頷いてますます興奮した。 聞き慣れたダンスナンバーだったので気分が上がりサビの部分を熱っぽく口ずさんだ映像が一瞬で抜かれブレイクでピタリと止まり高く上がった手にカメラがそのまま空へと昇る。 踊っている時は全く気が付かなかったが横風が実にいい具合に髪を躍らせて目が合う度に笑いあう無邪気な等身大の高校生を爽やかに彩った。 音に気持ち良くハメたノック、揃わないわけがないステップ、無限大な可能性を持つ今の自分達にしか残すことの出来ないこの一秒をどうか目を逸らさずに見ていて欲しい。叶うなら、ずっとこの先、永遠にでも。 終わった直後の肩で息をするプロ然としたクールな姿と、OK!というカメラマンの声でわなわなと破顔した等身大の四人の対比が実によく収められていて再び春に白んでいくと共に談笑の声もが遠のいていった。静かな白のあと、映像は終わった。 5分程度の映像だったが、呆気にとられていた大和はメガネをずりあげて環を見る。 「タマ、すげえ。かっこいいよ。お世辞抜き」 興奮しているのか少し頬が上気した環は、それを聞いてものすごくうれしそうにニカっと笑った。 「ヤバイ?」 「ヤバイ」 「もっかい見る?」 「これは見てもいいかも」 環は嬉しそうに再び再生ボタンを押そうとすると仕事組が揃って玄関をまたぐ音が聞こえ、壮五、ナギ、陸が帰った。待ちきれないというようにそーちゃん!と環は立ち上がり壮五が抱えていた買い物袋を全部持つと、見てほしいやつある、とテレビを指差した。 「ワオ、エキサイティング!」 「たまき!めちゃくちゃかっこいい!本物のミュージックビデオみたい!」 「すごい…ダンサーは高校生とはいえ皆プロだろうけどこの撮り方も編集も決して素人のものじゃないよ」 「身内だけに公開するのはもったいない程の出来だ」 環はたくさん褒められてめちゃくちゃに気分が良かった。卒業してからも雑誌の取材が鳴りやまず疲弊していたが一気に疲れが吹き飛んでしまった。 すぐにカメラマンと編集を兼任してくれた友人と連絡しあうと、せっかくの素晴らしい出来栄えだったし動画チャンネルのサイトに投稿をしたいという話に当然向いた。そこで、ダンサーの三人にも相談しそれぞれ事務所に許可が降りるかを窺うことになった。 環は少し不安だったが、事務所に直接向かうと仕事中だった万里に早速動画を公開したい旨を持ちかけた。いつもよりも丁寧に話し、どうしてもやりたい、と気持ちの丈を相談した。 「え、……公式チャンネル…?」 「そう。環くんはダンス動画が元々好きだったって聞いたから、社長と紡さんと相談して卒業祝いに環くんの公式ウェブチャンネルを作ってあげようって話をしていたんだ」 「そつぎょう…いわい…」 「だから、内容に問題が無くて、その動画に映っている子たちの事務所さんから許可を頂ければ、そこで公開が可能だよ。それから、こちらで一度チェックが入るけどよほど変な動画じゃなければいつでも好きなときに動画をアップロード出来るようになるからね。卒業、おめでとう!」 環はそれが現実だと理解した途端、ぶわわっと全身に鳥肌が立った。嬉しくて嬉しくて感情の表現に困ったのは今日が生まれて初めてだった。万里が言葉に詰まっている環を見てそれから、と言う。 「チャンネル開設は、4月1日から。僕たちからの誕生日プレゼントだよ」 「………ばんちゃん…!!!!」 居ても経ってもいられずに万里に思いきり飛びつくと、あまりの出来事にびっくりしたのか嬉しすぎたのか環の目からじわっと涙がこぼれた。 環の公式チャンネル見た!?卒業記念のダンス動画、記念ってクオリティじゃないよね! 一応皆プロみたいだよ。公式漁ったのでソースどぞ マジでかっこいい…環のダンス世界一 このユニットってもう組まれないのかな?なんか企画してまた踊ってほしい~ 監督って素人らしいよ。信じられない アイナナちゃん達でも踊ってほしい~ え、監督兼編集のひと語学留学してるアメリカ人なの? 監督同級生だってまじやべー 卒業したらますます色っぽいし環サイコー! 予定通りに公開された環の公式ウェブチャンネルは、一回目の投稿が卒業記念のダンス動画だったこともあり、急速に拡散されたSNSではあることないこと様々が囁かれた。しかし、どの口からも一様に揃ったのはクオリティの好評価で瞬く間にチャンネルフォロワーは10万人を超えた。 卒業のお祝いとして環だけでなく一織には公式ブログが開設され、更に紡が一織には内緒で死ぬ気で営業をかけた結果、来期のうさみみフレンズのキャンペーン大使を和泉兄弟でやれることにもなり正に順風満帆の門出となった。 アイドリッシュセブンとしては七月から全国10カ所を巡るアリーナツアーを控えている為、今からその下準備でバタバタと落ち着かない日が続いていた。とはいえ、メンバーとしては環と一織の取材ラッシュもピークを過ぎ、レギュラー番組やラジオの収録と常のサイクルに戻りつつある日常に、ようやっと一息ついたところだった。 「環さん、いらっしゃいますか?」 「いるー。どした?ラビチャで呼んでくれれば行ったのに」 「いえいえ。わたしもこちらに用事がありましたので、寄らせて頂きました。それで」 紡は茶封筒からパンフレットを出して環に渡すとCMのオファーなんですが…とあまり気の進まない様子で話は始まった。 「スポーツ衣料品メーカー?」 「はい。でも、皆さんがよく知っているような有名ブランドではなく、無名のクライアントさんになります。今回環さんの公式チャンネルで例の卒業記念の動画をご覧になってくださったそうで、環さんをピンポイントで起用したいとお話があったんですが…」 側でお茶を飲んでいた大和がひょい、とパンフレットをめくるとたしかに知らないブランドだな…とスマートフォンを取り出した。環は紡の気が進まない話し方が気になって、資料を読みながら複雑な気持ちになる。 「……なんでそんな嫌そうにすんの?別に有名じゃなくってもおれはいいけど」 「はい…環さんがブランドの知名度ではお仕事を選ばないのは分かっているんですが、今回かなり予算がない、と言われていまして…」 「あー。そりゃー…あんまり使ってほしくないよなー」 「………?予算がないと、なんなん?」 「まあ、簡単に言うと、お前さんを良く撮る技術があるかどうかを見極めないといけないってこと」 大和は首を傾げる環に、丁寧に説明した。 CMはただでさえ枠取りだけで予算が嵩んだ。いい時間帯の枠であればある程金額は跳ねあがり放映回数も多くなると結構な費用がかかる。企業のイメージに合った鮮烈なCMが出来、かついい時間帯に何度も放送出来れば、商品の売り上げにダイレクトに貢献される。ただ、放送局やタイミング、出来次第では、ほとんど販促効果に繋がらずに終了することもままある。その為企業はより良いイメージを起用する人物から買うようなものだ。 知名度のある人間、人気のあるグループ、世間に知られている人間であればある程世の中への影響力が強いが、それに伴い出演料も勿論比例した。 もうその時点で目が眩む程の金額になっているにも関わらず、今度はその登場人物を撮影編集するにも拘るとなれば生半可な出資では出演の交渉すら門前払いだ。 「予算がかけられないってことは、お前さんがみすぼらしく撮られたしょぼいCMが世間に流れた挙句、販促効果としてもイマイチで、タマのイメージにも傷がついて終了なんてことになりかねないってこと」 「………」 「お断りしようと思ったのですが、連日お電話頂いておりまして…」 「え…」 「卒業記念の動画が大変素晴らしかった、是非ダンスで撮らせて欲しいと何度もお褒め頂いているので一度環さんにも覗って、それから決めても遅くないかと思いまして」 「……ダンスで、って言ったんだな」 「…そうです。ご連絡頂いた方が監督さんだそうです」 「やる。やらせて」 環に迷いは無かった。元々自分のイメージにそこまでお行儀のいいものは無い。 例えばそのCMでダサイとか格好悪いと世間のレッテルがついたとしても、パフォーマンスを見てくれているファンには分かるはずだった。よく撮れているか、そうでないか。価値があるのか、ないのか。 それに、あの動画を見てダンスで撮らせて欲しいと言われたからにはそこで怖気づくような温い気持ちで今までダンスをしてきたわけじゃない。 環はプライドを持って、この仕事を引き受けよう、と思った。 この時のその覚悟が、後に環の人生観を揺るがす大きな大きなビッグウェーブに乗る為の土台であり、微かだが確かな軌道変更の合図だったとはこの時居合わせた誰にも予測し得なかったのである。

EPISODE 02かわいい四葉さんにはダンスをさせよ

今朝はスタジオ入りが少し早い時間だった為、朝の通勤帯の余韻でいつもより混雑した電車と道のりに環は終始緊張していた。 改札を出てすぐに大きなスクランブル交差点に差し掛かると、赤信号につかまって立ち止まる。内心舌打ちをして目深に被ったキャップで目線を遮ると殊更イヤホンを忘れてきたことが嫌になる。今は少し雑踏が聞きたくない。 「………」 環はここ三週間ほど、例のスポーツ衣料品メーカーである「SENSE」のCM撮影に没頭していた。 撮影自体は一週間より前に無事に終了していてやっと本日テレビでの放映がされている最中だ。 予算の都合で今日一日分しか放映枠が取れていないので万里や紡は勿体ないととても残念そうにしていたが、環は内心それにほっとしていた。 自信は、ずばり無かった。 ただ、出来が悪い映像かと言われると決してそうではない。寧ろクオリティという観点からすれば物凄く良いものが出来あがっていた。 無名の監督が手掛けた今回のコマーシャルは環が客観的に見ても一言では表現できない生きている感情というか、躍動とでもいうべきか、抽象的でありながら無駄の無い洗練された映像に仕上がった。 環は素直にその表現力に圧倒されたが、そんな鮮烈な画面の中の自分は終始迷ったままの表情をしていた。それはこうしてCMが完成してしまったのにも関わらず、未だ心につっかかっている環自身の"葛藤"であるが故に、どこか不思議な気持ちになってしまう。 というのも今回、撮影に至るまでに人生で初めて自分の"踊る"という武器に真正面から向き合った。 その結果、自然にやれば出来ていたことを、意識して無理にコントロールしようとしたせいで、今までの自分という概念を疑うまでに葛藤することとなった。 自分にとって踊ることは何か、では四葉環として出来ることは何か、相手は自分のどこに価値を感じているのか、何もかもが不明瞭で心から悩み続けた。 幸い、見兼ねたメンバーから助け舟を出されてなんとか撮影まではこぎつけたものの、これで良かったのか、納得出来るものだったのか、最後までとても不安に思っていた。 今朝、早速テレビで流れたものを見ても、まだ苦しいイメージが抜けきらずいまいちどう反応も出来なくて困った。きちんと評価されるものになっているだろうかという不安と、反響が無かったらクライアントに申し訳が立たないという罪悪とが入り乱れ、今の環の足取りを重たくしている。 赤信号に堰き止められている間中、周囲の声が敏感に環に刺さる。CMを見た人はいるだろうか。 どうだったろうか。こうもめちゃくちゃに不安だと、普段素直に書き綴っているはずのSNSも開くのが億劫でまだ反響に関しては一切触れていなかった。どうしたことか、やはり、怖い。 「あ、環!」 後方の人混みからの女の子の声に思わず身が竦む。慌てて俯くとその瞬間、最早耳にタコが出来る程聞き飽きたイントロが耳に入る。 ゆっくり顔をあげると目の前の大型ビジョンに自身の葛藤が大きく映し出されていた。 全身黒で統一されたSENSEの商品に身を包み、悩んだままの顔を隠す事もせずに曝け出してステップを踏む。これでいいか、どうすれば正解か、フレキシブルな動きの割に、アンニュイに目線の上がらないその姿は正に葛藤。最後の指定されたセリフである「ザ、センスイズフリー」という言葉と共にやっとカメラを見遣ったが、まだ分からないのだ。誰か教えてくれ。これで合ってるかどうか、今すぐに、はやく。 だがしかし、その鬱蒼とした悩ましい表情の一方で環の後方からは新しい夜が明ける。日の出から差し込む光が環を逆光に沈めた。 大きくSENSEと表示され、CMが明けた。 「、…………」 一瞬、街の喧騒が途切れたかのように多くの人間の視線がビジョンに向いていた。環もそれを見上げていたし、文句なしに凄い映像だとは思う。また、そこに映るのが自分でなければ、とも思う。 「いまのなに!?」 ほとんど叫びに近い声で、先程環だ、と言った女子高生がスマートフォンに手をかけた。 隣の友人らしき女の子も必死になって情報を探っている。 「いまのなんて書いてあった!?」 「センス!?じゃない!?」 「CMだよね?」 「め、…っちゃくちゃにかっこよくなかった!?」 「待って!夜中から流れてるみたい!嘘!」 ト、ト、と環の鼓動が速くなる。信号が変わり人の波が動くのに合わせて歩き出すが浮ついて何度も人にぶつかってしまう。その間も幾人もの声が環の耳に言葉を投げかけてくる。 「あれ、アイドリッシュセブンの子?」 「そう!ダンスがすごく得意だから今のは大正解!」 「あれは何のCMだろうな」 「そういやセンスって、あんま売れてないスポーツメーカーじゃないっけ?」 「俺、持ってるよセンスの商品」 「公式サイトとかないのかな~?」 環は無意識に息が苦しくなっていることに気がついて、少し歩調を緩めた。少しだけ手が震えていて落ち着こうとスマートフォンを取り出す。 勿論、アイドリッシュセブンを背負ってのCMは数多こなしてきた環だったが、今回はその枠組みからぽろっと外れて四葉環ひとりきりとしての仕事だ。無論評価に対してド緊張していたし、これほどまでにダイレクトに人に伝わっているところを目の当たりにして、環は恐怖に似た感情を覚えた。嬉しい。怖い。見てくれている人がいる。たくさんの人に伝わってしまう。 謎の息苦しさに我慢出来ずに、通話ボタンを押す。 「…………、」 「はい」 助けを求めた先の壮五は、すぐに電話に出てくれた。環はその声にピンと緊張の糸が切れて泣きそうになる。 「そーちゃん、」 「どうしたの?…いまどこ?」 「……いま、」 「…………」 「…………」 「環くん?大丈夫か?」 余りの安堵感に、人通りの少ない路地を曲がったところで立ち止まると、ビルの壁によりかかった。時計を見てまだ余裕があることを確認してからふう、と息を吐く。 「環くん?」 「ごめん、すごい、なんか苦しくなってかけた。もう少し切んないで」 「苦しく?体調悪いの?マネージャーには話した?いまどこにいるのか教えて?」 「ううん」 「……体調は悪くない?」 「うん」 「マネージャーには?」 「言わなくてへーき」 「今どこにいるの?」 「スタジオ向かってる。時間まだだから大丈夫」 「…そうか…苦しいっていうのは?」 はじめ壮五は、焦っていたのか問い詰める様に強めの語気だったが、いっぺんに幾つも質問されるのを嫌う環の返答にゆっくり一つずつ確認していく中でどんどん優しく落ち着いた口調になっていった。 穏やかにそう問われる頃には、半ばパニックになりかけて震えていた手も治まり環はとても安心していた。 「CM。駅前のでっかいテレビで流れてて、ちょっとびっくりした」 「…駅前の?すごいじゃないか!予算がないんじゃなかったんだっけ」 「さあ、わかんない。でも流れてた。あとでマネージャーに聞いてみようかな」 「うん、……大丈夫?」 「なにが?」 「朝も、少し緊張していたようだったから。CMが流れるのは不安?」 「………わかんない。でも、今はそーちゃんと話して落ち着いたっぽい。もうへーき」 「…なら、よかった。少し心配していたんだ」 そう優しく言われて心から安心しながら壮五の声を受け入れていると、本当に困った時咄嗟に頼るのが今までと変わらずに壮五であることにほっとした。いくらか一人で歩けるようになったつもりでいても、やはり求めた時にぎゅっと手を握ってくれると確信出来る人がいることは、環にとってとても重要なことだった。 そのまま通話は切らず、歩きながらぽつぽつと話しているとスタジオにはすぐ着いた。帰ったら部屋にいくという約束をして通話を終えると環はどこか満たされた充足感でいっぱいになってまた少し泣きそうになった。 (かわいい四葉さんにはダンスをさせよ) 四葉環さんを是非ダンスで撮らせてください。 そんな熱烈なラブコールを受けて広告搭を引き受けた、スポーツ衣料品メーカー「SENSE]という会社は、歴は長いが経営的にあまり余裕がないようだった。 昨今の有名ブランドの展開に比べると品数も少なくデザインもごくシンプルなものが多かったし、素材の良さから一定のファンは居る様だったが、店舗は縮小の一途を辿っていて現在では本店のみが取り扱い店舗として記載されていた。 実は、紡は二度、この申し入れを断っていた。なぜなら出演料としての金額も撮影期間の短さとしてもSENSEはスポンサーとして余りに不確かで確証の無い会社だったからだ。 予算の都合でたった一日分の枠しか取れないそうで放映のタイミングは深夜帯から始まり、朝のいい時間帯、昼と夕方、勿論ゴールデンタイムにも設けるつもりだと言われた。 期間限定のコマーシャルは珍しくないしやりようによっては話題性もあるが、今回の場合は先に予算がないと言われているだけにあえて一日限定公開にしたいわけでもない。 事務所としては割かし仕事を選り好みしない傾向にあったが、向こうにしっかりした撮影技術がある保障もないし、環をこれほど不毛な条件下で安く見積もられるわけにはいかない。 しかしながら、ともすればしつこいくらいに毎日毎日熱望されてついには監督兼責任者だという御手洗という男に事務所にまで出向かれ頭を下げられてしまっては、それを無碍に出来る程紡は冷酷になれなかった。 一度本人と相談してみます、と渋々引き取ったのだが環はきっとやりたいと言うに違いないと紡は思った。何せ、ダンスで撮らせてください、という環にとって最大級の褒め言葉を携えている。環がこれを断る理由は無かった。 案の定、大和や紡の心配を余所に環自身から「やらせて」と言われてしまったからには持ちかけた紡が責任を持って受け取り引き渡すしかなかった。 後日、詳細な打ち合わせの為に来社した御手洗は随分と年下であろう紡に終始腰を低く保ち、必ず素晴らしい作品にしてみせます、どうか信じて私にお任せ頂けませんでしょうか、と広告プランの一切を御手洗が取り仕切ることをまたもや懇願され、結果として受諾してしまった。四時間以上粘られた末の根負けだった。 紡は何に負けたかというと、「御手洗の熱意」これ一つに尽きた。オファーから交渉まで幾度断ろうとも頷くまで絶対に諦めようとしない御手洗のその姿勢は、ある種病的なものを感じた。まるで今この瞬間にしか絶対に出来ない事を提案されているかのようなその熱弁ぶりに、最低限の約束を守ってもらう事を固く契った上で撮影から放映までの一切をクライアントに任せることになった。 「あなた、何でわたしに一言でも相談しなかったんですか」 当然、事後報告となった一織にはそう鋭く言われ、返す言葉も無い紡はその途方も無いお説教を滾々に延々と聞かされてしまうのだった。 スケジュールが確定し環にダンス用の音源が渡されると、先方からの振り付けの指定は特に無く、自由に踊って欲しいという要望に環は珍しく困った顔をした。 リビングのソファに寝そべり貰った音源をしばらく黙って聞いていた環がため息をついた。 「……難しいこというよなー…」 呟いた難しいという言葉に、おやつの準備をしていた三月が訝しげに首を傾げた。 「なにか悩んでるのか?環らしくないセリフが聞こえたぞー」 「…んー」 「それ、CMの音源聞いてるんだっけ?そんなに変な曲だったのか?」 「シンプル。歌とかは入ってないやつ。振りの指定がないから考えなきゃなんない」 「へえー。でも、環は得意じゃんか。自分で振り付け考えるの好きだろ?」 「好きー…だけど…。なんか、やっぱ緊張してんのかな。わかんなくなってきた」 それには三月が黙った。環の口から緊張しているなどと滅多には聞けない言葉が出てきて少し慎重になる。元々野性的な思考の環は頭で覚えるより体で慣れるタイプで、頭で考えた行動に何とも瞬発力が無い。環には何にも縛られない自由な環境でのびのびと好きなことを得意にする、という天才的な特技があるのに、理性的に頭で考えて動こうとしているなんて勿体ない話だ。 きっとクライアントもそういう環を期待してオファーしたに違いない。 「俺は、多分だけど、先方さんは環に本当に自由に踊って欲しくて振り付け指定してこなかったんだと思うけどな。あんまり難しく考えると、お前のいいとこ消えちゃうんじゃないか?」 「みっきー」 「うーん?」 「俺のさ、いいとこってさ、なに」 「そりゃお前。好き勝手に好きなことする、じゃん?」 そう言って三月がふと顔をあげると、見た事が無いくらい不安そうな表情でじっとこちらを見詰める環に目を瞬いた。 「おれって今までどうやって"好き勝手に好きなこと"、してたかな」 「………」 「無意識にやってることしか褒められたことないから、褒められようとしてやったこと、上手くいかない気がすんだけど、どうすりゃいいんだろ」 寝そべったままにしばらく天井を見詰めて黙ってしまった環を見ながら、これはひと波乱ありそうだな、と三月は渋い顔をしたのだった。 「……はあ、…、はあ…、…」 環は、普段している様に鏡前にスマートフォンを設置して動画を撮りながら踊った。 曲が終わるとすぐにカメラを止め汗も拭わずじっと画面を確認する姿はどこか苛立ちも混じる張り詰めたものだった。 高校を卒業して初めての大きな仕事。それも四葉環としての真価を問われるかもしれない大事な正念場。現実に直面して悩みもがく環は、天才肌が故の、感覚でしか生み出せない、表せないはずの自身の感情を理性的にコントロールしようとしてドツボにはまっていた。 振り付けはお任せしますと言われ頷いたものの、これほどまでに"緊張"している自分は初めてだった。ガチガチの心では何を思っても間違っている気がして、全くイメージのつかないまま時間を忘れてレッスンルームでひたすらに曲を聞き数百回と踊った。 オファーを受けてから、他の仕事以外の全ての時間を費やす程鬼気迫る環の没頭ぶりには、壮五をはじめメンバー全員が固唾を飲んでそっと見守った。 何せ、環の生命とも言える踊ることでの気持ちの表現は、ある種到達して達観してしまっているようなものだ。 呼吸をする様にステップが踏める。湧きだす感情をのせて軽快なノックが出来る。生きるということを実に自然とダンスに注ぎ込んできた環にとって歩き方や喋り方と同じ様に踊り方は存在する。 そんな生命の瞬きの一部を切り取って世に送り出した卒業記念の動画を、褒められ、認められ、見初められたことが、まさかこれほどまでに重く自身にのしかかってくるなどとは、環には全く予想も出来ないことだった。 わからない。どんどんわからなくなる。自由に踊っていいと言われてももうどれが自由かさえわからなくなってしまっていた。 先方は一体自分のどこをそんなに買ってくれたのだろうか。期待に添える自分である為に相手の気持ちが理解したくて堪らない。がっかりさせたくない。でもどんなに考えてもどこにも答えはなかった。 それと同時に「四葉環」という存在が、どんどん遠くなりまるで掴めなくなってしまう。 納得のいく自分とは一体何か、表現のゴールは元から無いのにどこへ行きつけば自分なのか。何をしても苦しい。踊ることが好きで好きで堪らない筈なのに、つらくて足が止まってしまう。 なるべく気負わないでやりたい。ありのままの自分で勝負したい。そう思えば思う程、アイドリッシュセブンの枠組みの中にいる時の自分に勝てる気がしなくなって振り付けを考えながら何度も音楽を止めた。 環は今回初めてソロでのCM出演を果たすわけだが、実はひとつとても重要な思いが心にあった。 クライアントであるSENSEからは「四葉環」として指名されている。 しかも、先方に自分の存在を知って貰ったのはウェブチャンネルにのせた卒業記念の動画だという。つまりそれというのはアイドリッシュセブンというグループを背負わない「四葉環」としての初めての作品を見てオファーをくれたということ。環はそこにとてつもないプレッシャーを感じていた。 アイドリッシュセブンでいる時の自分は無敵だ。誰が何と言おうと、周りには仲間がいて誹謗も中傷も愛情も羨望も全て七等分出来る。皆と分かち合えば痛くて苦しくても眩しくて切なくても、我慢して立っていられた。そこにいる自分にオファーがくるならば納得できる。自信があるからだ。 でも、四葉環となれば話は別だ。環はこの世界にたった一人しか居ない。そこに向けられた感情は、自分一人にしか処理出来ないのだ。嬉しさも悲しさも、全部一人きりで受け止めなければならないのは環にとってはとても大変なことだった。 今だってそうだ。誰にも任せられるはずもない「一人で踊る」という壁に「一人で挑む」。 気がおかしくなってしまいそうだった。 しかしタイムリミットまではあと数日もない。何かしらを形に残さねば終わる事の出来ない苦しみは、環の気持ちをどんどん追い詰めて行った。 そうやって毎日苦しんでいる環の姿を、壮五はとても心配した。 ここ最近ずっと、朝以降の食事をまともにしていない様だったので差し入れのおにぎりとプリンを持って休憩を促そうとやってきた壮五だったが、今日はいつにも増して緊迫した空気に声をかけられずそっと入口で見守るに留まった。 壮五は、なんとかして環に自由に表現させてあげられる方法がないかを模索していた。今の環はがんじがらめだ。何に戸惑い何を悩んでいるのかははっきりと分からないけれど、手足はあんなに自由なのに気持ちは重くて不自由でとても窮屈そうに見えた。 「……、…置いといていいよ、」 首を強く振って何度目かのトライを途中でやめ、音楽を止めた環は入口に座り込んで様子を見守っていた壮五に肩で息をはずませながらそう言った。壮五は色の変わる程汗を吸ってしまった環のTシャツを痛々しく思いながら、床におにぎりののった皿を置く。 「……環くん…」 「…ありがとな……ごめんな、」 そう言って顔を上げた環とふと鏡越しに目が合って、壮五はどき、と一瞬心が止まった。 環はなんとも言えない顔で壮五を見ていた。思わず目を逸らしてしまいそうになったが、ぐっとこらえてその視線の交わりから逃げずに正面から受け止める。 一人で挑み続けた高い壁の真ん中で孤独にぶらさがり揺れている環は、とうとう行き場所がわからなくて途方に暮れていた。迷った瞳でようやっとそーちゃん、と助けを求めるかのように口を開く。 「、うん…?」 「…できっかな、おれ」 「…………」 「苦しい。踊るの好きだけど、つらい」 シャツの首元をひっぱりあげて汗を拭った環は苦しそうに泣いていた。 涙と汗がぼたぼたと顎をつたって床を濡らす。壮五はその弱々しいSOSに信じられないくらい胸が苦しくなり、側に寄り環の背をさすった。上手くいかない苛立ちが環の目からどんどん溢れる。壮五の温かい手すらも今の環には重く感じて、しゃがみ込んで下を向いてしまった。それに合わせて壮五も隣に膝をつくと汗に濡れた髪をゆっくりと撫でる。 「……苦しいのわかるよ…つらそうに踊ってるの、わかってしまうよ」 「、最悪だな、そんなこと分かっちゃうなんて、」 「上手くできない?」 「…、わかんない」 「どうして苦しいのかな」 「………、わ、かんない、」 「……………踊るの…好き?」 「っ、す、……き…っ……」 「……よかった…それも、ちゃんとわかるよ……」 壮五の言葉に環は嗚咽を漏らした。苦しくて苦しくて息が出来ないほどつらいのに、ダンスから逃げられない自分は踊る事をやめられない。だって大好きなのだ。大好きだから、もっと上手く伝えたい。ありのまま、飾らずに。なのに何が一体邪魔をしているのか環にはわかっていない。きっとそれが一番苦しいのだ。 嗚咽が響くレッスンルームの扉は少し開いていて、外には壮五と環を迎えにきた他のメンバー全員がその話を沈痛な面持ちで聞いていた。 環が空回ってしまうのは皆苦しかった。悩んで悩んでそれでもどこにも助けを求められないのは環がダンスにプライドを持って挑んでいることの証拠だ。立派だった。褒めてあげたかったが、環はいつまで経ってもぬかるみで泥まみれになりながら必死になって踊っていて、ちっとも頑張ったとは言わなかった。 こんなに頑張っているのに、自分のことを認めてあげられないのはさぞ苦しいだろう。 それがわかるから、不用意に触れることは許されなかった。 「環くん」 けれど、一番近くで環をずっと見てきた壮五には出会った当初から二人に良く発生した静電気を起こさせない秘訣がもう分かっている。長くいればわかる。遠慮して触れるからそこに電流が走る。決めたら思い切って強く触れるのだ。そして、しっかりと掴むのだ。怖がらず、正面から。 「気分転換に僕たちの曲、やってみない?」 言いながら入口を見ると、そこには既にメンバーの姿があり、大和の手にはCDが一枚。 皆、考えていることは同じだ。大事な仲間が立ち止まった時は優しく強く、その背を支えること。アイドリッシュセブンはそうやって人数分の苦しみを分かち合いながら乗り超えてきたグループだった。 「風向きを変える一曲があるぞタマ」 「タマキ、根詰め過ぎです。ココロをもっと自由にしてあげて」 「そんなびちゃびちゃになったまま居たら風邪ひくぞ~?ほら、上だけでも着換えろ」 「あー!!一織、おれいいことおもいついた!」 「なんですか七瀬さん、あまりはしゃがないで」 「環!」 満面の笑みで走り寄って来た陸に促され、環は戸惑いながらも鏡前に座った。 「たまにはお客さんやってみるのもいいじゃん!」 「あはは、いいかもね。何かヒントが掴めるかもしれないよ」 「…いや、タマが見てる前で踊るのは少し気が引けるけどな……」 「随分と贅沢なショーですね、四葉さん。お金払ってもらいたいぐらいです」 こうして目の前で6人が横並びに揃うと、環は少し照れくさくて言葉に詰まった。改めて思えば、環は自分が居ないアイドリッシュセブンを見るのは初めてだと気付き、そわそわと落ち着かなくなる。 壮五が頃会いを見計らって、オーディオの再生ボタンを押す。 「………」 聞き慣れたイントロ。WISH VOYAGE。 大和は言っていた。風向きを変える一曲、と。 すぐに出だしを歌うはずの陸に目がいくと、早速環の全身にざわっと鳥肌が立つ。陸の吸いこんだ空気が音になって一斉に環を捉えた。 凛とした歌声は恐ろしい程透明で、一秒も目をそらさずに陸は環の目を見て歌った。ぐっと歯を食いしばる。気持ちが揺さぶられる。 Aメロ。Bメロ。環のパートは誰もフォローしてくれず主旋律に空音が鳴る。無論、誰ひとりうろたえずに環を見詰めたまま曲は軽快に進む。環の歌うはずのメロディは抜けたままに。 サビのきっちり合った振り付けは見事だった。主旋律が移り変わる度に環が目線を合わせるとそれぞれが力強く環を見返してくれた。やはりアイドリッシュセブンは美しかった。胸が熱くなる。 2番に入ると、それまで環に届ける様に置かれていた音楽は、急激に環の向こう側へ放たれる。 鏡に映る自分。超えて行くにはまず、さっきの自分を凌駕しなくてはならない。苦しみもがきながら伝える、感じる、この気持ちをがむしゃらに表現できなくってどうする。真剣なまなざしでメロディを、歌詞に乗せたい思いを、6人の個性で前のめりに主張する。 本当に伝えたいことを表現するときに、形に拘る必要なんてない! 圧巻だった。上手く歌うとか格好良く踊るとか、そういうことよりも真っ先に、懸けた熱量が環へとガンガンにぶつかって伝わっている。届け。響け。もっともっと、感じて。 間奏に入った時点で6人は再び環に歩み寄った。最後に必要なのは欠けた右はじ。環のポジションだ。三月の切ない響き、大和の豊かな感性、壮五の奥ゆかしさ、一織の繊細な光、陸のパワフルな生命力、ナギの優雅な誘い。手を差し出され涙に震える唇を堪えて立ち上がった。 その瞬間陸以外の5人がしゃがみ込み、目の前で陸からの強烈な感情を全身に浴びた。陸の手が強く環の背中を押すと堪え切れない蟠りが目から溢れたまま、大サビに向かって環は自分のいるべき場所へ駈け込んで前を見た。 「、」 身体が自然と、身に染みた振り付けで動いた。嗚咽で歌は歌えない。だがしっかりと鏡の中のアイドリッシュセブンを見据えて、大好きなメンバー大好きなダンス、大好きな表現方法で、大好きを伝えられること。迷うことは悪いことじゃない。見つからなくても今の自分の出来る精一杯を伝えることしか叶わないのなら、それを全力でやるのだ。 環は真綿の様なやわらかい愛情に包まれて、ガチガチになっていた自身の心の蟠りが崩されていくのがはっきりと分かった。失敗しても大丈夫。皆見てるよ。頑張ったことは伝わる。まるでそう語りかけてくる。 「環!」 曲が終わるとすぐに三月が涙混じりで背中を強く叩いた。次いで、陸が息を切らしながら飛びついてきてかっこいいよたまき!と笑顔で言った。 「頭で考えるよりも、自分の好きなようにやるのがタマには合ってるんだから。もっとラクにやんなさい」 「そうですよ。四葉さんから感覚でのパフォーマンスをとったら何も残らないんですからね」 隣にいた壮五が、たまきくん、と柔らかく笑った。突如あんまりにも息が自由になったものだから、環の堰き止められていた感情が一気に溢れ出る。堪えれば堪えるほどしゃくりあげてしまう。いつの間にか孤独でいつの間にか追い詰められていて、本当に本当に苦しかった。 「、っ、ぅ、っ…う……っ」 声を殺して嗚咽が漏れる環を、ナギが正面から優しくしっかりと抱きしめた。 「…泣かないで、タマキ。苦しい時はもっとはやく、助けてと言って。ワタシたちは大事な仲間のピンチに必ず背中を支えます。いつもタマキがそうしてくれているように」 穏やかなナギのその言葉に全員がふっと微笑んだ。 何が変わったわけでもない。相変わらず自分で考えた振り付けには自信がなくこれでいいのかさっぱり分からないままだったが、環はついに孤独ではなくなった。四葉環として気張る必要など全く無かった。アイドリッシュセブンの四葉環として一人で踊ればいい。挑む時は一人でも、その背にはメンバー分の温かい手の平が添えられている。これでもう、大丈夫。 環は疑う余地なく強くそう感じて心の底から安心したのだった。 「たーまきー!お風呂はいろう!」 しこたま泣いて目の腫れた環に、後ろから勢いよく飛びついた陸が楽しそうにそう言った。 連日張り詰めていたので今日の練習は切り上げて、リビングでゆったりしていた環はそんな陸の体温に安心しながらいーよ、と笑った。気を遣ってくれているのだ。その優しさに胸が温かくなる。 向かい側のソファで本を読んでいた一織が珍しくふっと笑ったので、いおりんも入る?と環が言うと凄い目つきではいりません!と怒鳴られた。 「ケーチ。りっくん、いおりんにくすぐりの刑しようぜ」 「わかった!」 「なんなんですか!こっちに来ないでください!」 「逃げんなー!」 「つかまえろー!」 「馬鹿じゃないですか!」 ついにソファの周りをどたばたと駆け回る三人に、ドラマを見ていた三月がテレビの音量をあげながら一喝した。 「うーーるせー!お前ら鬼ごっこは外でやれ外で!環も陸も、風呂入るならさっさと入れ!」 三月の鬼の形相に、びくっと走るのを止めた三人はいおりんのせいでおこられた、やかましいです、と小声でこづきあいながらもすごすごとその声に従ったのだった。 この日は比較的早い時間から皆そわそわと起きだしてきて、何ということも無く自然とリビングに集まっていた。朝食の準備や出掛ける準備など、どこか落ち着かない雰囲気で忙しなく動いていたのだがいい時間になるとそれぞれ一旦手を止め、寮のテレビを環以外のメンバーが全員で固唾を飲んで見守っていた。 時刻は午前7時ちょうど。軽快な音楽と共に画面に大きくエンタメというアニメーションのロゴが流れた後、ぱっと環がアップで映し出された 「……きた…!」 「環!!!!」 やや緊張した面持ちで、はにかんで佇む姿に全員が手に汗を握る。 「みなさんおはようございます。本日より、一カ月間エンタメコーナーをサポートして頂きます、アイドリッシュセブンの四葉環さんです!よろしくお願いしまーす!」 「よろしくおねがいします」 「四葉さんといえば、先日わずか一日限定で公開されたにも関わらず直後から超話題沸騰のスポーツ衣料品メーカーのCMですよね。かっこよかったですよね~」 「、ありがとうございます、嬉しい、です」 「たった一日の公開ということでSNSを中心に話題となりましたが、今後の公開予定なんかはあるんでしょうか?気になりますよね」 「……俺も、あるとうれしーです」 「きっとファンのみなさんや見逃してしまった方なんかはもう一度見たいですよね~。そこで!」 なんと本日この時間帯のみ限定で特別に公開して頂けることになりましたー!と女性キャスターがはしゃいだのを尻目に、壮五がふっと肩の力を抜くと、同じ様に全員が脱力した。 「だあああ、めっちゃ緊張してるじゃんか!こっちまで緊張したわ!」 「ほんと面白いぐらいカチカチだな…」 「敬語…ちゃんと出来てる…えらいよ環くん…」 SENSEのCMが公開されたのは四月の下旬だった。 予算の関係で一日限定での公開とはなったが、当初予定していたテレビ枠だけでなく複数の駅の大型ビジョンでのゲリラ公開が行われた為、通勤通学途中のファンを中心にそれはもう大変な話題となった。 それによりSENSEという経営難のスポーツ衣料品メーカーは瞬く間に世間に注目され環が着たウエア一式をはじめ、その他の商品も店舗の在庫がほとんどなくなってしまう事態が起きた。 この異例の大ヒットには当然複数のメディアから取材の依頼があり、女性誌はもちろん普段は滅多に声がかかることのない大手のスポーツ雑誌やメンズ雑誌へ取り上げられたことで、ファンどころか男女問わず注目を浴びる結果となり更に沸騰した。 そうして一躍注目の的となった環を、テレビは見逃さなかった。 すぐに朝のニュース番組の旬のエンタメというひと月の間複数回ゲストとして登場出来るコーナーから声がかかった。空前の大抜擢に、もちろん二つ返事で引き受け、今日がその初回出演日だったのだ。 「あ~怖かった。環も緊張するんだな~」 「朝もとても早かったです。タマキ、頑張りました」 「いいえ、まだまだこれからです。まあ、初回ですし大目にみますがもう少し余裕を持ってもらわないと」 そうは言ったが、一織も大分ほっとした様子でソファを立った。 今日は平日なので仕事のない一織は学校へ行くし、三月と大和は雑誌の取材がある。ナギはどこかへ出かけると言っていたし、陸は事務所へ行く用があった。 壮五は終日オフだった。特に予定もなかったので買い物にでも行こうと思っていたのだが、頑張ったのに帰って誰も居なかったら寂しいかもしれないと環の心情を想像し、帰りを待っていることにした。 今日まで環と一緒になって何度も立ち居振る舞いやトークの特訓をしていたので、多少ぎこちなかったがきちんと敬語を使っているところを見て本当に立派だと思っていた。 その間は風呂場やリビングの掃除をして、洗濯も回しておく。途中でそうだ甘いものでも買っておいてあげようと思い立ち、近くのコンビニでプリンまで調達してきた。壮五も浮足立っていた。 十時過ぎに、やっと環は帰宅した。 部屋の片づけをしていた壮五は、玄関の開いた音に気が付きすぐにドアを開ける。覗いた先にはコンビニのビニール袋を提げとてもくたびれた顔の環がいた。 「…おかえり…!」 「おー。ただいま。あれ、買い物行くっつってなかった?」 「ちょっと面倒になったから、予定変更だよ。テレビ、お疲れさま。すごく緊張してたね」 「………め、っっっっっ、ちゃ、キンチョーした。吐くかと思った」 「そんなに?緊張しているなとは思ったけど、そこまでには見えなかったよ…」 「だって一人だし、誰も知ってる人いねーし、バンちゃん途中でお腹痛いとか言って戻ってこねーし」 環はそう言って自室のドアをあけバッグを投げ捨てると、本当に疲れたのだろう、そのままソファに寝そべりしばらく黙った。壮五はかけるものを持ってこようか迷うが、ベッドで休んだ方がいいと思いなおしてソファに近づきそっと覗きこむ。 「…朝早かったし、少し休んだら?洗濯まわしておいてあげようか」 「……いーよ、自分でやる…あ、そうだ」 そう言って環は身体は起こさず床に置いたコンビニの袋をがさがさと手探りし、おみやげ、とチョコレートの箱を壮五に差し出した。 「おみやげ…?ありがとう…」 「あまくねーからそれ。あげる」 「……」 「はじまるとき、テンパりそうになったけど、ここ出る時そーちゃんがいっぱい練習したから大丈夫って言ったの思い出したら、ちょっと落ち着いたから、おれい。あんがと」 「…、……敬語ちゃんと言えてたよ。…堂々としてたし、すごく頑張ったね。えらいよ」 「……やった」 極度の疲労感からだろうが、"自立"をしてから久方ぶりにちゃんとしていない環を見た気がして壮五に少しだけ庇護欲が湧いた。さわ、と頭を撫でると環の手がぎゅっとその腕を掴んだ。 そのまま無言で見詰められて困惑したが頭を撫でたのが気に入らなかったのかと壮五が咄嗟に謝る。 「…あ、…ごめん……」 「なに。ごほうび?」 「え?いや…そういうつもりじゃ、」 「じゃあごほうびちょうだい」 身体を起こしてそのまま握っていた腕を強く引いた環はバランスを崩して倒れ込む壮五を受け止める。腕の中で強張ったのを感じたが、疲れていることにしよう、と腹をくくってぎゅっと抱きしめたまましんどかったから慰めて、と呟いた。 「、たまきくん、…」 顔も見えないが壮五の語感からも何の感情も読み取れない。怒られるかと思ったが黙ってしばらくそのままでいると、とうとうそっと遠慮がちに背中に回った手の平が優しくそろそろと背中を撫でてくれた。じわっと心が満たされる。それだけでなくかすれた声でえらいね、とまで言ってくれるので流石に良心が働き、腕の力を緩めるとゆっくり離れた壮五の顔は何とも言えない微妙な顔をしていた。環はそれにちょっと傷ついた。目を逸らすと、壮五が俯きながらぽつ、と言った。 「ごほうび、なったかな……?」 その不安そうな顔に、さあっと冷静になった環は掴んでいた腕をぱっと離し急いで謝る。 「、ごめん、…疲れてたかも…やだった…?」 「…ううん、いやじゃないよ…でも、……なんというか、僕で満足した?」 「し、した…!すげえ安心した!」 「……ならよかったけど…。環くん、こういう風に慰められるの好きなのか?」 「え……」 壮五は眉を下げながら、こどもみたい、と優しく笑った。 環は早くなる鼓動を抑えてほっと息をつくと先程の微妙な表情が嫌な顔ではなかったことに安心した。触りたいという下心しかなかった環だが、相変わらず鈍感な壮五の感性に助かったと胸を撫で下ろした。 同時に、こどもみたいだという理由で抱きしめるのが許されるのならば、いつまでも子供扱いされていた方が楽なのかもしれないと環は思った。では、無邪気なこどものようにその端正な薄い唇に触れたら、壮五はどう思うだろう。じゃれつくペットのようにあしらう?それともまた、こどものようだと受け入れてもらえる? 「そうだ、プリン買ってあるんだ。食べない?」 だが、そう言って冷蔵庫に立つ壮五を捕まえてキスをしてみる勇気は、当然ながらまだ環にはないのだった。 環の欲を糧にむくむくと育つ恋の蔓は喉元まで伸びて出かかる度に、強制的に切って捨てられた。嫌われる覚悟もない、かと言って気持ちの肥大を止められるわけでもない。 今はまだ、一線のギリギリ内と外を行ったり来たりしている環の感情を、知ってか知らずか壮五はいつも通りに優しく朗らかに「どうぞ」とプリンを渡してくるのだった。

EPISODE 03花に嵐、環に壮五

某日、アイドリッシュセブンのメンバー全員が事務所の会議室に集まっていた。 今日は終日、初夏から始まるアリーナツアーのメンバー会議で、CM関連の取材で忙しくしていた環にとってはオフも同然の日だ。もちろん話し合いは真剣にするが、メンバーと顔を突き合わせながら話し込むのは日常とさほど変わらない為オンかオフかと言われたらよりオフに近い気持ちだった。 来るツアーは環もとても楽しみだったし、全国をメンバーと一緒に移動するのが大好きな環にとってお祭りの準備という感覚であっという間に時間は過ぎて行った。 ただ、午後からは来客が決まっていて、一時的に環だけ抜けることになっていた。時間の目安は大体14時頃と言われて時計を気にしながらいたつもりだったが、地方の演出で盛り上がっていたので約束の時間をまわってしまっているのに気がつかず紡の連絡でスマートフォンが鳴った瞬間に思い出した環は勢いよく立ちあがった。 「やべ…!今日SENSEの社長と監督来んだった!」 「え?時間は?」 「にじ!いってくる!」 慌てて出て行った環に壮五が少し肩を落とす。環が自分で時間に気をつけるようになってからは遅刻も寝坊もめっきり無くなり安心していた為、特に時間をチェックしていなかったことに勝手に罪悪感を覚えてしまう。それはお節介に過ぎる感情かとも思うがやはり頑張っている環の失敗は少し胸が痛む。 大和がそれをなんとなく察して、苦笑しながらフォローした。 「まあちょっとぐらい大丈夫だよ。ソウもそんながっかりした顔しない」 「…いえ…気をつけてあげてればよかったなと…」 「ほんと壮五は真面目だよな~。遅刻っても5分も経ってないし、平気平気」 そう言った三月の声に六人は気を取り直して、引き続き演出の確認の話を再開したのだった。 (花に嵐、環に壮五) 環はバタバタと応接室前まで走っていくと、手前で息を整えてからコンコンと扉をノックをする。 すると中から紡の声がしてどうぞ、と扉が開いた。遅くなってすみません、と頭を下げると正面に座っていた中年の男性二人が揃って立ち上がりこちらこそ、お忙しい中ありがとうございます、と深く頭を下げた。 向かって右に座った細見で眼鏡をかけた男が監督だ。撮影の時も無口であまり多くを語らない人物だったが心無し眼鏡の奥の瞳が柔和になっている気がする。 「監督、この前はありがとうございました。すごい映像なってて、びっくりしました」 環はソファに座り開口一番、映像サンプルが届いた時からずっとお礼を言おうと思っていたので食い気味にそう言うと監督、基、御手洗は目を丸くした。 「お礼を言うのはこちらですよ。四葉くん、僕は君をカメラで撮っただけだ。あれだけの絵になったのは君が一重に素晴らしかったからです」 「…うす…」 「疑っているね。もしかしたら、今もまだ自信がないかい」 御手洗は眼鏡をずり上げてにこっと笑った。 環はその通りだったので曖昧に濁すと、御手洗の隣で肩幅が広く恰幅の良い男が温和な笑みを絶やさずに懐から名刺を取り出した。 「はじめまして。SENSEの代表取締役を務めます、太川と申します。この度は大変に素晴らしいCMにご協力くださって社員一同、心から感謝しています。今日は改めてお礼に覗いました。少しですが、自社製品を持ってきたので良ければ使ってください」 環は差し出された名刺を壮五から習った貰い方できちんと受け取ると、すぐに大きな紙袋を手渡された。 見ると、インナーやウエアがどっさりと入っている。紡を見るとにっこり笑って頷いたのでありがとうございます、大事にします、と頭を下げた。 それから環は大型ビジョンでのゲリラ公開を知らなかったことや、CMを見たと各所からかけてもらう言葉をありのまま伝え、屈託なく尊敬の念を込めて御手洗の映像が魅力的だったことを褒めたのだがその度に御手洗は首を振って君はもう少し自分の価値を分かった方がいい、と笑った。 そんな風にCMの話題性や反響をゆるっと話していると、実は、と御手洗が切りだしたのは14時を30分に差し掛かる頃で、午後の強い日差しが窓から部屋いっぱいに差し込んでいた。 「四葉くんのおかげで、会社自体に注目してもらえて、店舗に商品の在庫がほとんど無くなったんです」 紡は反響を知っていたのでそれに笑顔で答える。 「はい、覗っております。すごく話題になってもらえたようで」 「ええ。今は予約注文に切り替えてるんですが、制作が間に合わない程で。本当に感謝しかありません」 その言葉にちらと環を見ると、そっと頷いただけで何も言わなかった。紡は少し心配そうな顔をしたがすぐにそう言って頂けてこちらとしても大変嬉しいです。と元気に言った。 御手洗はそんな環にふと表情を緩める。 「…四葉くん」 環はだんだん撮影中のことを思い出して胸が苦しくなっていた。あんなに葛藤したのは人生で初めてだったし、納得しないまま自身が世に出たのも初めてだった。反響を怖いと思ったのも、かといって勝手に注目されてどんどん高い場所に掲げられていくことも。忙しさにかまけてその感情を随分遠くにやってしまっていた。知らず顔に出ていたのか御手洗がやんわりとその思考を遮る。 「あと、マネージャーさんも、今から余り気持ちのいいことではない話をしてしまうのを、お許しください。四葉くんがその価値に疑念を抱いてしまうのは、僕にとっても苦しい。僕があなた方にこの気持ちの全てを伝えるには、どうしても避けて通れないことです」 紡と環が顔を見合わせると御手洗は出したお茶に口をつけて一息ついてから話だした。 「僕は、迷いながらも前に進み、そして終わってからも答えが出なかった君の葛藤に強く共感しました」 「、共感?」 「ええ。SENSEは僕の兄の会社です。兄はちっとも愛想が無い人間で立派な技術はあるのにそれを売り込むことを嫌いました。今思えば単純に不器用だったのかも知れません」 訥々と話始めた御手洗の声は抑揚がなく機械的で、感情をわざと殺しているかのように静かだった。環はその声にじっと耳を傾け、手元の名刺を見る。兄の会社?代表取締役は太川と書いてある。 「実際には本当に経営難で、本来ならば今春で店を畳む予定でした」 紡がえっと声をあげて口元を抑えた。環も驚いて御手洗を見ると、先程の表情から一転し、苦笑を浮かべてちらっと太川を見る。そして穏やかに続けた。 「そんな状況だとは僕も知らず、何せ余り仲がいいわけではなかった兄弟だったので。連絡もほとんど取らなかったし、僕は根なし草で好きなことを自由にしていた。ところが、兄はそのことを苦に、3月に亡くなりました。突然でした」 突如空気感を揺るがした御手洗のその言葉の意味を飲み込むと、余りの衝撃に二人は絶句する。 紡がはっと環を見ると、困惑した表情で固まっていた。御手洗はそんな二人の様子にすみません、と断り、続けていく。 「当然のように会社は倒産の方向へ向き、それで僕は、恥ずかしながら生まれて初めて兄の仕事に興味を持ったんです。死ぬほど立派なプライドだったのかと腹立たしく思いました」 俯き加減で御手洗は自身の両手の甲を見詰めていた。声音は相変わらず嘲笑気味でどこかあきれ果ててしまったかのように仕方なさそうにごちた。それから静かに目を閉じた御手洗は一旦息を吐いてから、再び声にする。自虐的でともすればつらそうに見えた。 なんとも言えないつっかかりが環の喉元に出来る。 「だけど…商品を手に取った時、僕はなぜ売れないのか不思議に思った。いいものでした。兄が人生をかけた作品は、どこに出しても恥ずかしくない立派なものだった。では何故売れなかったかというと、圧倒的に知名度が足りませんでした。いいものなのに、知ってもらう努力が足りなかった。たった、それだけでした」 環は既に胸にこみ上げるものがあった。御手洗は先程「3月に亡くなった」と言った。 即ち、そこで全てが繋がってしまう。御手洗は、その絶望の淵で環に出会うのだ。あの動画を介して。 トクトクと環の心拍数があがる。 「そんなとき、君の動画が本当にたまたま目にはいりました」 御手洗の伏し目がふっと光を帯びた。環は直感で理解してぞくっと鳥肌がたつ。まなざしの向こうに、環がいるのだ。人に影響する、ということの恐ろしさを垣間見る。息が詰まった。 すると実に愉快そうに御手洗は顔を上げて環の目を見ながらまっすぐに褒めた。 「あれはよかった。見ている人に生命力を与えてくれるような、湧き上がる感情を解放させてくれるような、誰が見ても素晴らしいものには、必ず与える力がある。僕も表現者の端くれです。若い君達の生きる躍動を切り取ったあの動画に底知れないパワーを感じました。いよいよ会社を終わらせるという段階になって、僕はこの子に兄の商品を宣伝して欲しいと思ったんです。」 まくしたてた御手洗のその言葉に、環の目がじわっと緩む。怖いが気持ちよかった。お世辞でも大袈裟でもない御手洗の評価は環の固く結び目のついた葛藤の部分を少しずつ少しずつほどいていくように染みていく。 「失礼ながら半ば勢いでオファーするまで君の所属するアイドルグループを存じ上げなかったので、元々多くのファンがいらっしゃって、ステージで歌って踊るのが本業だと、後からきちんと知りました。だから、期間もさながら費用に関しても無理を承知でお願いしました。何度もしつこくして、本当にご迷惑をおかけしました。でも心のどこかでわかっていたんです。君が本気で挑んだものならば、絶対に観た人をこの商品に導いてくれる。だから、どうしても諦められなかったんです。兄の人生を、成功で締めくくらせてあげたかった」 環はどうしようもなく切なくなる。強い信頼を一心に浴びている。 CM自体もたくさん褒めてもらったし結果としては売上という形で恩返しは出来ていたが、自分の納得したものを自信を持って渡したわけではないことを殊更心苦しく思う。こんなに期待されていたのに。 それから、SENSEの創始者である御手洗の兄のこと。3月に亡くなったということは、環が卒業動画を撮っている正にその瞬間、思い悩んで葛藤して、身が切れる程の感情を以てSENSEを抱きしめていたに違いない。さながら全てが起こった後の事だけに、環は悔しくて声を殺して嗚咽した。 紡がそっと背中をさすりながら、環にハンカチを渡す。直接は見ていないが、壮五や三月から撮影までの環の状態を知らされていたので決して褒められて嬉しくて涙を流しているのではないと分かっていた。胸がいっぱいになる。 環がつらそうに泣いたのを見たが御手洗は再度、こんな話をしてすみません、でも、と話をやめなかった。 「だから、撮影のとき、こんなに悩んで苦しいままの自分を曝け出す君に、敬服しました。形格好に拘らず、ありのままで素直な君の姿はまるで、僕たちの…、ともすれば兄の葛藤をそのまま見透かしているかのようだった。一生懸命やってくれたのに申し訳ないのだけれど、いつの間にか夢中で四葉くんを介して、兄の葛藤を表現していることに気がついた。最後、夜が明けたでしょう」 環はとうとうぼろぼろと零れ出して止まらない涙をそのままに頷く。 黒いウエアの衣装を着た1パターン目のCMは踊りきった環の迷った瞳の裏側で地平線から日が昇る映像で終わった。そして、2パターン目、青のアクセントが入ったウエアを着た環に、御手洗はこう告げた。 さあ、夜が明けた。生まれ変わって反撃開始だ。君の考え得る中で最も無敵な表現で踊って。 急に御手洗からそうイメージを強く出されて、その場で何パターンかの振り付けを頭に描いた環の目にきら、と光が宿る。ゆっくりとはやいの、大胆のと繊細の、など二、三言御手洗とのイメージを擦り合わせた後、すぐにいけます、とブースに立った。 明確なイメージを渡されれば、環は考えるまでもなく相手の欲しいものがはっきりと分かった。本能でそこに向かっていける好きが努力と天才の成せる技だ。 悩ましく物憂げに終わった黒の環は青に変わった瞬間、終始カメラから一切目を逸らさずこれ以上ない絶対的な自信に満ちた表情で踊った。大胆で的確でメリハリのある振り付けを選び圧巻のパフォーマンスをぶつけた環は、まるで別人になったかの様な豹変ぶりだった。 テレビで特集される時にも、使われることが多いのが2パターン目だった。あっという間に在庫切れになったのも青のウエアで、明らかに人気の差異が窺える程だった。 御手洗は映像を思い出しているのかどこか恍惚の顔を浮かべると、そのまま目を閉じて大事なアルバムをめくるかのように優しく続ける。 「とても良かった。闇を切り裂くような素晴らしいダンスは心強くて震えました。僕たちは、四葉くんに救われた。売上や知名度のお礼じゃない、僕たちの心を深いところから掬いあげてくれたことに、感謝しているのです。だからどうか、胸を張っていてください。何も恥じることはない。君は人の人生を変えられるパフォーマーだ。本当に、本当に力を貸してくださって、ありがとう」 御手洗と太川が立ちあがって丁寧に深いお時儀を長く続けた。 環と紡もそれに応える。環はもうずっと泣いていた。心が嬉しいと悔しいと悲しい、そしてやっと感じた達成感でぎゅうぎゅうだった。立ったままに涙と鼻水でひどい顔を腕で隠しながら、詰まった声でようやく喋る。 「………嬉しい、……、でも、」 「……」 でもと続いた環を紡が見上げた。鼻をすすりながら一息おきまた、息を詰めた。 「…っ、監督の、兄ちゃんにも……みてほしか、た…」 そのまましゃくりあげた環を見詰めたまま、堪えていた紡の目から大粒の涙が溢れた。 これには御手洗の手が眼鏡を外し両目を抑え、沈痛な面持ちで太川が俯く。 余りにも優しい環の心は、やはり死んでしまった御手洗の兄を一番に悼んだ。直情的が故にその取り返しのつかない悔しさや心情がダイレクトに伝わってきてしまい、必要以上に苦しみを理解してしまった。悔しくて泣いていた。死ぬ前に出会いたかった。そうすればもしかしたら、形は違えど救えたかも知れないのに。 見て欲しかったという言葉でその思いはそこに居合わせた御手洗、太川、そして紡にも痛いくらい全部伝わった。 そんな環の深い感受性に感嘆し、御手洗はありがとう、とまた頭を下げると、テーブルに数滴涙が落ち陽光に反射した。 「…………環さん、お疲れ様でした…」 来客を見送ると、紡がそう言った。もう涙は流していないが目尻が赤くなっていた。使わなかったハンカチを返そうとすると紡のスマートフォンが震え、先に戻っていてくださいと言われとぼとぼと会議室に向かう。 扉を開けると明らかに涙の痕が残る環の顔に驚いた壮五が駆け寄る。それを見て、全員が環の近くによってくる。気恥かしくて顔を隠すように俯くとまた泣いてしまいそうだった。 「どうしたの…?」 「…いや…………」 「泣いてる?怒られた?時間、遅れてしまったから?」 見当違いにおろおろとする壮五に環はなんだかとても安心してまた視界が滲んでしまった。一度泣いているので潤んだ瞳が我慢出来ずに溢れた涙をぽたっと床に零した。 「……環くん……」 「…、そーちゃん、」 メンバーに見られていると思うと咄嗟に後ろを向いて涙を手で拭う。が、拭ったそばからどんどん溢れてきてしまって始末に負えなかった。震える背中に壮五はとんと手を置くと横から覗きこむ。 「怒られた…?」 環は首を振る。その反応に壮五はとりあえず時間のことで叱られたせいで泣いているわけじゃないとほっとすると反対側から陸がティッシュの箱を差し出しながら何で泣いてるの?としょんぼりと問うた。 環は説明しようがない。一番は監督の兄が亡くなったことにショックを受けての悔し涙だ。だが動画の評価には改めて感銘を受けたし、何より環自身に価値を見出してくれたことが嬉しくて嬉しくて、感謝を思う涙もある。CMのオファーを受けてから今までずうっと抱えてきた葛藤に区切りをつけられるかもしれないと思うとようやく重たいものが肩から降りたような気がしてどっと安心したのだ。 何も言わないまま涙だけぼろぼろと落とす環にしばらく全員が見守っていると、何やら階段をかけのぼってくる音が聞こえすぐさま扉がばちんと開いた。 「たっ…環さん…………!」 紡があたふたしながらそれでも興奮気味にスマートフォンを握りしめながら大きな瞳を輝かせた。 「CM出演のご依頼がたくさんきています!」 「…、…?」 弾かれた様に壮五がこちらを見たので反射的に環もそちらを見ると、壮五はまるで自分のことかの様にとてもうれしそうに柔らかく笑ったのを見て、ぽろっと再び環の目から一粒涙が零れた。 それからの環は壮絶なハードスケジュールに見舞われた。 レギュラーの仕事、CMのことを取り上げたい雑誌の取材、撮影、そして朝のニュース番組やバラエティ番組へのゲスト出演、そこへ更にCMへの出演依頼が殺到し、まずは紡が悲鳴を上げた。 既に雑誌の取材や撮影はツアー前を目途に無理のない日程で組んでしまっていた為、そこに急遽CMの依頼を入れていくとなるとどう頑張っても一週間で丸一日の休みは取れそうにない。先を考えてもやはりツアー前まではキツキツの予定にせざるを得なかった。 環は聞いた瞬間だけ顔を曇らせたが、すぐにわかったと言うとスケジュールの調整を一緒になって決めていくことにした。 メッゾでのレギュラー番組に度々穴をあけることや、早朝からの仕事の兼ね合いでWEBで続いている深夜番組には出られないときもあること、ゴールはツアー直前の新曲のMV撮影までと一旦定めること。 そこまで頑張ったら連休が取れるくらいには落ち着くように絶対に調整します、という紡の真剣なまなざしには、とりあえず頷くしかないのだった。 こうして幕を開けた環の忙しない毎日のスタートと共に、それとはまた違う軸で、ひとつ、大きなライフスタイルの変化が起きようとしていた。 「おう、タマ。お疲れさん。ちょっといいか?」 完全オフの無い日が10日目になる環の帰宅を、大和のそんな声が出迎えた。 環としては一人の現場が急に多くなった為緊張しているということもあるが、寝坊や遅刻も一切なく、例の朝のニュース番組も二回目を無事に終えていた。多少は激務に慣れてきた。明日は午後からの取材が一本入っているだけなので久しぶりに気が緩められそうで楽しみだった。 「おつかれ。なに?」 部屋の入り口にバッグを置いてからそちらを見ると、環以外の6人がわいわいとテーブルを囲み何やら冊子を見ているようだった。 壮五もそこに居て何故か少し気まずい顔をしていたが、環が近づくとおかえり、と自分のスペースを少し狭め隣に座るように促された。 「ただいま。…なにしてんの?」 「あのな、まず順を追って話す。聞いてくれな」 そう言った大和の話はまず、連続ドラマの出演オファーを受ける、という事から始まった。 民放の歴史ある枠で重要な役の依頼だった。大和自身は多少慎重になったがアイドリッシュセブンの名前を更に大きくするチャンスだとマネージャーやメンバーから諭されるとそれほど渋る事はなく承諾した。似たような展開が前にもあったが、以前の状況と確実に違うのは、大和の姿勢だ。 やるからには、ちゃんと自分が納得いく結果を出したい。そして話題を取る。と堂々と言いきる。 「それに、長丁場でまた日夜関係ない現場になるだろうから、これを機に寮から出ようかと思って。タマもイチも無事に卒業したことだし、そろそろかなとも思ってたんだ」 環は、大和の言わんとしていることが分かった。壮五の気まずい顔も納得がいった。 自分にこんなに丁寧に説明しているということは、環は嫌がるだろう、と思われているのだ。 確かにこの賑やかで温かな暮らしが長かったせいで、誰かがこの生活を抜けるということに対しては少し卑屈な気持ちにもなった。 しかし、現実的にはそれぞれタイミングがあったら次の新しい環境に移っていくということはおかしい話だとは思っていない。寧ろそうしていくのが普通だともちゃんと思える。 だから、期待に添えずに申し訳ないなーと思いながらもちょっと背伸びをした。本来ならばもっと残念がって子供のように拗ねてやってもいい。けれど、それをするのを少し恥ずかしいと環自身が思えるというのは、環が日々精神的に成長しているに他ならなかった。 「そっか。寂しいけど、ヤマさんずっと出たがってたし、いいよ」 「、え、」 「そーーーちゃん、えってなんだよ。さすがに俺だってここで駄々こねて嫌がってもしょうがないことぐらい分かるし」 「大人になりましたね四葉さん。わたしちょっと感動してます」 「……いおりんうるさい…」 「ヤマト、…寂しいです」 「ありがとなーナギ」 「ん、でな、環」 意外そうにしていた三月が引き継いでこちらも気まずそうに環を見た。 咄嗟に、三月も出るのか、と思った。 「なに。みっきーも?」 「んー、別に、ここが嫌いとかってことじゃないぞ。区切りとして、高校を卒業したら一緒に暮らそうかって一織とずっと言ってたんだ。そうじゃなくても、誰か出るまではって思ってたし、何かこのツアー前のタイミングもちょうどいいのかなってさ」 「いいなあ。俺も天にぃと一緒に住みたい…」 「聞いてみたらいいじゃないですか。今は十さんの家でなく別で暮らしているんでしょう?」 「……でも…絶対断られるもん」 「りっくんも出たい?」 和泉兄弟が一緒に暮らすということに対してとても羨ましがった陸を見て、そう言った環はやはり少し寂しそうな顔になっていた。それを盗み見た壮五の顔が曇る。 「んー、正直、ここに居ると毎日楽しいし、皆といると安心するから、出たくは…ないけど…。でも、天にぃとまた一緒に暮らしたいなあって、素直に思ってるだけだよ。なんて、…そんなこと無理だけど」 頬を掻いてしゅんとしてしまった陸を見て、誰もが一瞬口を噤んだが環だけはあっけらかんと聞かなきゃわかんねーじゃん。と言い放った。 「てんてんだって、もしかしたらりっくんと暮らしたい、って、思ってるかもしんねーよ?」 「……でも、いやだって言われるの、やだもん」 「だーかーら、聞いてもないのに何で怖がってんだよ。嫌だって言われたらなんでって聞いてみたらいいだろ。そしたら、てんてんが何でりっくんと暮らしたくないかが分かるじゃん?それを解決すれば、住めるじゃん」 「…環は俺が出ても寂しくない?」 「そりゃ寂しいよ。でも、りっくんもヤマさんもみっきーも、それが幸せなら別にそれでいいし。俺もずっとここにいられるとは思ってないから、いつかは出るつもりだし」 一番びっくりした顔をしたのはやはり壮五だった。いつかは出るつもり。よもや環から将来の展望が聞ける日がくるなどとは、夢にも思っていなかった。そして、環は頬杖をついてそんな壮五を見る。 「そーちゃんも?」 「………今すぐってわけじゃ、ないけど。皆の話を聞いてたら、僕もそうしようかなと思って」 「ふーん。ナギっちは?」 「タマキ。寂しいですが、いずれはそうすることになるでしょう」 「じゃーほら。りっくん、行くところがないーっててんてんに泣きつく作戦できんじゃん」 陸は目を丸くした。次いで、一織もきょとんと環を見る。 その視線ににやっと笑った環は、席を立って冷蔵庫を開けた。 「環くん、いいの?」 「いーよ。俺は忙しいのまだ終わんないからいつになるかは分かんないけど。あ、でも、引っ越しする日は教えろよ。俺が居ない時にいなくなったらやだ」 「はは。忙しいじゃんお前」 「いーから、絶対だぞ」 そう言って環は立ったまま王様プリンを頬張った。精一杯環なりに気を遣っているのがメンバー全員に伝わった。大和の話を聞いた時、環がこれを聞いたら絶対に機嫌を悪くするか、はたまた泣いて嫌がるんじゃないかとまで思っていた壮五の心配は見事、杞憂に終わった。代わりに、そう思っていた自分が恥ずかしくなるほど環は精神的に大人になっていることに今更ながら気が付いた。 ごほうびちょうだい、という声が壮五の耳の奥に蘇る。抱きしめられた感触を思い出して、胸の辺りがそわっとした。 「そーちゃん」 呼ばれて振り向くと、環の優しい表情に目を奪われすぐに、視線を逸らした。 環はそれを、壮五が寮を出ることに負い目を感じていると勘違いして、勝手に黙る。 「………んー、そーちゃんってば」 「……なに…?」 「引っ越したらさ、遊び行っていい?」 視線を戻すと、変わらずに穏やかな表情でそう言った環に、壮五はほっとして迷わずにうん、いつでもおいで、と笑いかけてしまうのだった。 あれだけ寂しい寂しいと言っていたナギだが、物件を皆で見ている最中に聖地のうんぬんと興奮気味にメモをとったあとあっという間に誰よりも先に引っ越しを決めた。 それから一週間後に大和が、その三日後に三月と一織が出ることになり、その間もひっきりなしに続く取材や撮影に追われながらも環は退寮に立ち会った。一様に、ツアーが始まる前に落ち着きたいということもあって、壮五もそれなりに準備を進めていた。 結局、天に同居の件を切りだすのを躊躇い続けていた陸は一人暮らしをするつもりで物件を探していたが環と壮五の助言で家賃相場や土地柄など引っ越しの相談を持ちかける作戦を決行したところ案の定天はなぜ寮を出るのかを聞いてきた。 「え、どうしよう、どうしよう…」 「どうしようって、もうどこにもいくところがないーって言っちゃえよ」 「一人で暮らすつもりだったのに?!」 「いや、陸くんは持病もあるんだし、九条さんはきっと心配してくれるはずだ」 メンバーの半分以上がいなくなった今、壮五も近いうちにいなくなるし、環もいずれは退寮するつもりでいるということを陸は天に正直に話した。一人暮らしをするつもりだと言ったら、そこからはとんとん拍子で引っ越しの日取りまでが決まってしまった。もちろん、天も一緒に住むことになって。 陸は泣いて喜んだし、引っ越すまで何度もやっぱり夢だったーと悪夢にうなされていたが、昨日無事に部屋を空けた。寮には環と、あと数日のうちにいなくなる壮五だけが残った。 取材を2本終えていつもの様にコンビニに寄った環はスイーツコーナーを眺めながらぼんやりと考えた。 ツアーが始まるまではあと一カ月弱。ゴールであるMV撮影まではあと三週間強。既にひと月足らずをハードなスケジュールで過ごしていた環にとってやがて壮五が居なくなったあと、一人で寮で生活するのは少し気が重かった。壮五にMV撮影までは居て欲しいと思っていたが、日取りの関係で一週間以内には引っ越してしまう。 ここのコンビニでいつも買っているみるくプリンは今日は売り切れていた。仕方なくその隣にあるチョコプリンを手に取る。するとイヤホンから控え目に流れる音楽が途切れて電子音が鳴り、プレーヤーの充電が切れた。 どっと疲れがきた。壮五に行かないでと言えたらもう少しは楽になるだろうか。そんなことを考えながら、プリンを一個だけ買った。 「おかえり。ラビチャ、見てないかな。ご飯あるけど、食べてきた?」 「え、……ごめん、見てなかった、食ってない。食う」 言いながら部屋に入った環の足取りが重いのを、壮五は心配そうに見送るとテーブルに置いていったプリンを冷蔵庫にしまった。そのまま作っておいた料理を温め直す。しばらくして部屋着に着替えて環が出てきた。 「そーちゃん、洗濯してくれた?ごめんな。ありがと」 「ううん。ついでだったから大丈夫だよ。プリン、冷蔵庫に入れておいたよ」 「あー、あんがと…」 「それより、明日オフだろう?ゆっくり起きられるね。よかったね」 にこにこしながらそう言ってくる壮五の姿は疲れ切った環のこれ以上ない癒しだった。やっぱり行かないで欲しい。などと子供じみたことは今更もう言えないけれど少しくらい甘えてもバチは当たらないかな、と思ってしまう。 「すげーいい匂いする。腹減った」 「三月さんのレシピだから間違いないと思うけど、美味しくなかったらごめんね」 「そーちゃん辛いの入れなかったら料理上手だよな。美味いし好き」 そうかな、と苦笑しながら食事の用意をしてくれている壮五の側に行き湯気の出ている煮物を皿に取ってトレイに乗せた。するとご飯をよそっていた壮五が座ってていいよ。やってあげる、と甘やかす。 「いーよ。どうせそーちゃんいなくなったら自分でやんないとだめだし。あんま甘やかすなよ」 「……いるうちに甘やかしてあげるよ。環くんいますごく頑張っているし」 「そんなことばっか言ってると、またごほうび貰うぞ」 何気なく言ったその言葉だったが、壮五が一瞬ぴくっと固まる。その間を見逃さなかった環はまずかったかな、と慎重になった。先日疲れていることにかこつけて抱きしめてしまったことを、こどものようだで片付けられたわけだが、壮五は特に引きずる事もなく次の日もけろりと普通の態度で接してくれた。 なのでごほうび、という言葉に紐づいている感情は、壮五にとって「こどものような環の我儘」であると思っていたのだが、もしかして違うのかと環は焦る。嫌だったかを聞いた時はいやじゃないと壮五は言ったが本当は誤魔化しただけで相当嫌だったのかもしれない。 「…冗談だけどさ。この前はごめんな」 「……んん、」 先手を打って遠慮がちにそう言うと壮五はトレイを運びながら実に曖昧に返事をしてきた。 明らかに動揺しているのが分かり環は別の話題にしなくてはと更に焦る。こういうとき二人きりだと困るんだな、とちょっと反省した。 「テレビつけてい?」 「うん、」 「なんかあったっけ。つか何曜日だ今日」 「水曜日かな。見たいテレビあった?」 「いや、なんか、静かだと落ち着かない、じゃん」 言ってしまってからぐっと堪えてももう遅い。先程よりも重ための沈黙がきてしまった。仕方なく黙ると、付けたテレビから流れる音声は雑音にしかならず、環は余計に気まずくなってしまう。 「…いただきます…」 本当はもっと他愛のない会話をして明日のオフを気持ちよく迎えたいと思っていたのに、ナギが口は災いのもとだと言ったのを思い出し殊更痛感してしまった。自分が悪いのでどうすることも出来ず黙々と箸を進めているとその様子を黙って見ていた壮五があのね、と口を開いた。 「…その…この前…ごほうびって言って僕の事、は…ぐしただろう」 「っ、げほ…!!!!」 思わず噎せてしまった。環は慌ててティッシュを引き寄せて口を抑える。 「大丈夫?」 「えっ、…うん…」 「水飲む?」 「いや、いい、……」 突然琴線に触れてくる壮五に若干恐怖すら覚えながらおそるおそる続きを促した。壮五は心配そうに環を見ながらも話を戻す。 「でね、…ごほうびってどういう意味なのかなってずっと思っていたんだよ」 環は椅子から転げ落ちそうになった。一体思考回路がどうなっているのか、皆目見当がつかずに返事に困った。どういう意味。表情からすると告白を誘導されているわけではなさそうなのでどう言えばいいのか自らの拙い語彙力を心底憎らしく思う。 「どういう…意味……って…」 「僕のことを抱きしめると環くんのごほうびになるの?」 「………………………まあ…」 「この前言ったみたいに子供みたいに撫でられるのが好きってこと?」 「…………、…………ま、まあ……?」 「僕じゃなくても?」 「…………………」 それは違う。環は真剣なまなざしでこちらを見ている壮五の視線から逃れたくて身をよじる。こんなところで想いを告げても関係性が悪くなるだけだと分かっている。純粋に聞いているのだろうからこそ意地が悪い壮五を恨めしく思いながら答えを言いあぐねている。 「僕じゃないといけない?」 知ってか知らずか、壮五はたたみかけるようにそう言った。環はますます黙る。 無論、壮五じゃないと意味がない。触りたい好きを自覚する環は壮五に抱きしめて欲しいし抱きしめたいし慰めて貰いたいし頼りにしてほしい。 壮五はしばらく無言で環の様子を窺っていたが、やがてぽつりとだめだよ、と言った。 環は驚いて壮五を見る。 「環くん。それは、僕としたらいけないことだよ」 至って真剣な顔で壮五が言ったので、真面目に捉えて反論する。 「なんで?」 「僕は君の恋人じゃないんだ。この前はこどもみたいだなって思っていたけど、環くんが求めてるのは男女の関係じゃないのか?混同しているかもしれないけど、僕じゃそれを埋めてあげられないと思うから。こういう仕事だけど、今のしっかりしてる環くんなら自分でちゃんといい人を見つけて関係を作っていけるよ。手近で気軽かもしれないけど、もし僕をかわりにしているんだとしたらダメだよ」 環は"なんで"と問うたことを激しく後悔する。そして腹が立った。 手近で気軽?よくもまあそんな事が言えたものだ、と久しぶりに頭に血が昇る。 くそ真面目な顔で言いたい放題言いやがって、この、一足飛びの神経質な金持ち野郎と心の中で悪態をつくとぷい、と再び箸を持った。 「べつに、女のかわりにしてるわけじゃねーし。なんだよしかも手近で気軽って、もっとよく考えて言えっつーの」 「、何で急に怒るの?」 「怒んだろ、そんなアホみたいな理由でそーちゃんのことこんなに好きになったわけじゃねーし」 「え」 「あ」 壮五の短い驚嘆にざっと環の顔が青ざめた。動揺で箸を取り落としたがピシと固まった空気に箸を拾いに動ける状態ではなかった。壮五の目が二、三度瞬きをしてん?と上を向く。 まだ理解していないと思った環は慌てて訂正に入ろうとあたふたするが、余計に混乱して言葉が出てこなかった。 「っ、え、ちが、ち、あ…いや、そ、……ちがう…」 「…環くんは僕のことが好きなの?」 「…………、………」 壮五から盛大に困惑した目で見られて環は一瞬でものすごく落ち込んだ。それは、そうだ。壮五は男だ。いくら、いつでも一番近くに居ていい匂いがして優しくてかわいくて女みたいに細っこくても、ついているものはついている。ないものはない。そんな事を思っていたのかと軽蔑され、拒絶されて嫌われたって仕方ないことだったと咄嗟に俯く。今の環には結構なダメージだった。 そして、そんな空気に我慢できなくなって目線を合わせないまま環は席を立った。 「…ちがうし」 「たまきくん、待って」 「やだ、そーちゃんなんか嫌いだ」 環は振り向かずに、ばん、と部屋の戸を閉めそのまましゃがみ込んで頭を抱えると嫌いだなんて随分久しぶりに言ったなと悲しくなった。 環は自分の気持ちで壮五が嫌な顔をするくらいならば、こんな気持ちは一生しまっておこうと思えていた。今の関係性に決して不満はなかったし少なからず壮五は自分を頼ってくれていた。それがとてもうれしかった。 それなのに。 売り言葉に買い言葉で大事な気持ちをあんなに簡単に言ってしまうなんて、なんと堪え性の無い人間だろうと、自分を激しく罵倒したかった。 「たまきくん…………」 すぐ後ろでコンコンとノックの音が響いた。 一瞬迷ったが、歩み寄ってくれた壮五の力を借りて、なんとか修復しないとと思う。これから一緒の仕事に支障が出るのは壮五にも迷惑だ。意を決してそろっとドアを開けた。 壮五はすぐに開いたドアに驚いて言葉に詰まったようだったのですぐに謝った。こういうのは先に主導権を握らないとまたややこしくなる。特に壮五相手だと尚更だ。 「嫌いじゃない…、ごめん、変な空気にしたのおれのせい…」 「……」 「…す…好きだってのも、その……本気じゃない、そーちゃんが言った通り、なのかもしんない、」 「、そう…。うん。分かった。僕も、変なこと言ってしまったよね。怒らせてごめんね」 ぎゅっと胸が痛くなる。本当は触りたい。女性のように扱っても嫌がらないなら、抱きしめたりキスしたり、手を繋いで歩いたりしたい。当然子供の様に撫でても欲しいし、出来ることならそうしてほしいと、思って貰いたいたかった。でもそれは今の環には叶わない。 壮五の曖昧な表情ほど環に効く毒はない。それを引きだしてしまう恐怖を思えば、自分の気持ちを葬り去ってしまうことなど容易かった。 こうして蓋をきつくされた環のほのかな恋心は、ついに壮五が寮を出て行くその日まで狭くて暗い心の奥底に仕舞われたままむくむくと想いだけを募らせていくばかりだった。

EPISODE 04そーちゃんの手が借りたい

「お疲れ様でした」 環はいつしか自然と出るようになったあいさつをスタッフと交わしスタジオをあとにすると、無事に終了した仕事の報告とこのあとに何も入っていないか紡に確認する為に通話ボタンを押した。 「あー、マネージャー?おつ。今終わった」 「お疲れ様です!体調はいかがですか?」 「大分マシ。昨日しんどかったけど。飯あんがとな」 「いえいえ、こんなことくらいしか出来ませんが…このあとは何も入っていませんのでゆっくり休んでください。また何か必要なものありましたら、連絡くださいね」 「…わかった。じゃ、帰る。またな」 「お疲れ様でした!」 (そーちゃんの手が借りたい) この日、時刻は14時を前に本日分の取材が終了した。環はぽわっと気分が上がる。何せ明日は二週間ぶりの完全オフだ。テンションを上げずにはいられずすかさず壮五にラビチャでおわったー!と一通連絡した。きっと壮五は仕事中だろうから、返事はすぐに来ない。でもいいのだ。王様プリンのスタンプを5回連続で押した。 壮五が退寮してから10日余り、ここ数日は特にスケジュールがきつく、家事をほとんど出来ていなかった。それに一週間程前から風邪気味で、疲労で免疫が落ちているせいだろうが中々良くならずに今も微熱が続いていた。昨日はピークだったようで撮影が終わった瞬間から頭痛がひどくいつもはそんなことは全くないのだが、万里の運転する車内でめちゃくちゃに酔った。 「大丈夫かい?一旦休もうか。飲み物ある?」 後部座席でシートを倒して横向きに丸まりながら吐き気に耐える環の様子に、万里は車を近くのパーキングに停車すると、エアコンを少し弱めた。返事も出来ずに息をするので精一杯な環を見兼ねて近くの自販機で水を買ってくる。 青ざめた顔でほんのり汗をかいている姿を心配そうに見守っていると浅い呼吸でうう、と環が呻く。 「……きもちわる、」 「疲れてるから酔ってしまったのかも。落ち着くまで休もう。水飲める?」 「無理……うごいたら、吐く…」 一応いつ戻してもいいように足元にはビニール袋にティッシュを厚く敷いて置いてある。無理せず吐きたかったら我慢しなくていいからね、とそっと丸まった背中を撫でる。数回往復したところで、環が目を開けた。ぼそ、と呟く。 「……ばんちゃん、それちょっとラク…」 「ほんと?じゃあしばらくこうしてようか」 「ぅん、………」 程なくして様子を見ると、少しは楽になったのかいつの間にか眠っていた環に万里は息を吐いた。 環のスタミナはアイドリッシュセブンのメンバーの中でも随一だ。真夏の野外ステージでもタフに駆け回ったし移動中もほとんど眠ることなく過ごすことが多い。 しかしこの大ブレイクの多忙さには流石の環も参ってしまっていた。目が回るような忙しさで毎日が一瞬で過ぎ去っていく。加えてブレイクの渦中にメンバーは退寮してしまって面倒を見て貰おうにも側には誰もいない。 学生から卒業してすぐのこの佳境では心の負担も身体の負担も大き過ぎるのを万里は気が付いている。なるべくサポートはしているつもりだったがあと半月強あるゴールまでの道のりは思ったよりも険しいものだと思わざるを得なかった。 環が寝ている間に寮には着いたがきっと夕飯の支度も出来ないだろうと紡に連絡すると消化に良いものを持っていきますと言ってにゅうめんを作って持ってきてくれた。 どうしても起こすのに忍びなくてガレージに車を入れたあと、しばらくそのまま休ませていたが環は30分ほどで目が覚めた。 「、あれ、着いた…?ごめん、寝てた」 「大丈夫だよ。今ついたところ。気分どう?」 「マシ。動ける。ありがとなばんちゃん」 眠たいのだろう、目をこすりながら緩慢に身体を起こすと環はだるそうに車から降りた。 万里もその後を追って寮の玄関まで見送る。紡さんがご飯を作っておいてくれたから気分が良くなったら少しでも食べなさいと言うと環はちょっとびっくりしたあと、やった、と言って笑った。 車酔いは治まったものの、鈍い頭痛はその後も続いていた。 紡が置いておいてくれたにゅうめんを半分食べ、シャワーを浴びようと風呂場に行くと、沸かしておいてくれたのだろう、数週間ぶりに湯船にお湯が張られていた。どうせ一人だしと忙しさにかまけて湯船には浸からない生活に慣れてきていたのでなんともじんわり嬉しくて久しぶりにゆっくり風呂に浸かったのだった。 そのお陰もあってか、今朝は頭痛も吐き気もなく、微熱は相変わらず続いていたが幾分調子は良かった。撮影は昼前からだし明日はオフだし、と切り替えると鼻歌混じりに洗濯を回しパンを焼いて食べた。 壮五がいなくなってからは無理はしない、というテーマを自分に課してなんでもちゃんとやろうと頑張り過ぎないことにした。仕事最優先なのは当然だったが気持ちのモチベーションを上げるのに精一杯だったし家事まできちんとやろうとするとどうしても疲弊した。 とはいえ、最低限の掃除と洗濯はよっぽどのことが無い限りはちゃんとしたし、食事もコンビニ弁当ばかりでなくたまにスーパーで野菜を買ってみたりと意外と一人暮らしを上手く舵取り出来ていると思っていた。今のところそれほど苦痛に感じることは無い。 ただ、忙殺されている毎日に身体と精神は常にストレスを感じているようで壮五が退寮して一週間が過ぎたあたりから困った異変が起きた。 取材3本と撮影のコンボに疲れ果て、帰宅してすぐに倒れる様にして眠った環をいわゆる淫夢が襲った。 ゆらっと気持ちがいい空間で、身体が軽くふわふわと浮いている様な感覚だった。 不思議と疲労感は消えていて暖かい湯船にぷっかり浮かんでいる、そんな心地良さにうっとりと安らぐ。しばらくその感じが続いて脳が幸せだと感じ始めた頃、ふと目の前に壮五が居ることに気が付いた。 驚いたがそれよりも嬉しくなってそのふわふわの空間の中でそーちゃん、と名前を呼ぶ。 すると壮五は今まで見た事がないぐらい柔らかく優しく笑うと、環の胸にそっと頭を寄せて抱きしめてくれた。なんとも言えない満足感に幸福度数が限界ギリギリまで膨れ上がる。無論、ぎゅっと抱きしめ返す環はやわく滑らかな壮五の肌に触れ、ふっと我に返った。 急激に生々しい感触が手の平からリアルに伝わり、徐々に全身が敏感に壮五の体温を捉える。二人は素肌で抱き合っていた。混乱して焦る環を見上げた壮五はうっとりした表情でたまきくん、と言った。 その瞬間、ビクンと身体が震えて反動で環は飛び起きた。 火照りが治まっていない下肢に気が付きばっとタオルケットをはぐと一気にげんなりする。 環は極度の疲労感から夢精した自身の夢の内容にぐしゃぐしゃと頭をかきまわした。 「………、さいあく」 その日はメッゾの収録があるのに、こんな夢を見た後壮五に会うのは気が引けた。引けたからと言って環には逃げも隠れも出来ないわけで、セットした目ざましが鳴る30分前だったがシャワーを浴びにだるい身体を引きずって起き上った。 それからというもの、環は頻繁に壮五との夢を見るようになった。夢の始めはすごく幸せなのだが決まって壮五の艶めかしい行為で目が覚めた。自己嫌悪で死にそうになりながらも、夢は日に日にエスカレートしていきその度に見る壮五のあられもない姿についに寝るのが怖くなってしまった。 ネットで夢精について検索すると、やはり原因はストレスや疲労である可能性が高く、正に渦中である環は頭を抱えた。今の現状としてはどうしようもなかった。仕事はまだまだ続いていくし、一人暮らしの緊張感も全くないかと言われれば嘘になる。加えて壮五とは毎日顔を合わせられないというのも環にとってはストレスになっていた。とはいえ、真剣に悩んでいたので対策としては溜め込まないこと、という文字を見て今日は苦し紛れに寝る前に自慰をしてから床につくことにした。 忙しくなってからは確かに自分で慰めることをほとんどしていなかったことに気が付き、もしかしたらこれで大丈夫かもしれない、と淡い期待を抱いたのだが。 「…………」 どうにもこうにも、全くもって性欲の湧かない自分にどっと疲れた。 退寮の時に大和から半ば押しつけられたプレゼントボックスと書かれた箱には俗に言うエロ本やAVの類がいくつか入っていて、自分で捨てろよ!と怒ったが結局クローゼットに入ったままになっていた。 それを引っ張り出してしばらくみていたのだが疲れているせいもあってか全くもってむらむらしてくる気配すら無い。あまりにも虚しくてついに映像にまで手を出したのだが耐えられなくて途中でやめてしまった。最早病気を疑うレベルだった。膝を抱えてため息をつく。 そうなると、考えない様にはしていても、夢の中で壮五に触れられた感触がざざざと身体に蘇ってくるのを環は止めることが出来ないが、理性がそれを強く拒む。正気でそんなこと、出来るわけがない。 思えば思うほど、あの時きつく蓋をし心の暗い方に放り投げた気持ちがぱんぱんに溢れかえって今にも蓋をぶち破ってしまいそうに膨れていく。 理性と欲望の狭間で必死に戦う環は、停止したままのデッキのDVD画面が自動オフになったのに気がつかなかった。環の使っているデッキは一時停止状態が一定の時間以上続くと自動的に再生を中止し、地上波の番組に戻る仕様になっていた。 「にげちゃいたい!」 一応AVを再生するに当たってヘッドホンをつけていた環は突然耳元に爆音でテレビの音声が流れて心臓が止まりかけた。しかも今一番聞いてはいけない人物の声だと理解するまでにそれほどかかるはずもなく、壮五の笑った顔が大きく映し出された瞬間、ばっと顔を背けてしまった。 今日はメッゾの冠番組の放送日だ。なんて間が悪いのだろう。ちょうどオンタイムだ。ばくばくと恐ろしい程に心拍数を刻む心臓はまだうるさいままでヘッドホンを外さなければ、と手をかけるとテレビの中の壮五が環くんと言った。 「連日忙しそうで、そろそろ心配です。困ったことがあったらいつでも連絡ください」 一瞬で心をぶち抜かれた。今日の放送は恐らく環が他の収録とかぶった時の壮五の一人回だ。照れたように笑った壮五は、なんか恥ずかしいですね、と言うとロケで向かった洋食屋のテーブルで料理を待っている。環は何度も止めなくてはと思うが壮五にくぎ付けで電源がどうしても落とせない。 「すごい!美味しそう。うちのセンターがオムライス大好物なので写真とってもいいですか?とにかくすごい大きさですね…環くんが見たら喜ぶサイズです。僕食べきれるかな?」 冠番組ももう長く、壮五はややくだけた口調で楽しそうに笑っている。運ばれてきたとろっとした玉子の乗ったオムライスを見ながら、いただきますとにこやかにスプーンを差し込むとその小さな口に運んだ。口元のアップに、環の理性があっさり負けてしまった。もちろん嫌だった。嫌なのに、スエットの中に入れてしまった手が欲望に抗えずに昂りをなぞる。 「ん、おいしい。すごいとろとろです。ご飯はバターライス?玉子との相性すごくいい。環くん、今度一緒に来ようね」 わざとなのかと思う程、壮五は頻繁に環の名前を呼んだ。 いつの間にか夢中で昂りをしごく環は耳に響く壮五の声を浴びながら無意識に喘ぐ。 もうどうなってもいい、あとでどう思おうと構わない、全身を快感に支配された環にそれを辞められるはずがない。次第に激しくなる右手の動きに集中し前のめりになりながらついに高みの頂点に達した。 「、そーちゃ、」 一際強い快感の最中、壮五が耳元でまた環くんと言ったのを聞いてヘッドホンをかなぐり捨てる。荒い呼吸が部屋中に響いていて、泣きそうになった。 きつかった蓋が開いた。もう止まれない狂気を孕んだこの気持ちをどうやって抑え込めばいいのか環にはさっぱり分からなかった。 壮五は自分を彼女代わりにするのはいけないことだと言った。当然だ。そんなことは分かっている。 でも、代わりってなんだ、環は心底腹立たしく思う。壮五が好きなのだ。他の誰でもなく、女性でもないが、環は逢坂壮五が今死ぬほど大好きで仕方がないのだ。夢にまで見る。触れて欲しいと思う。収録の番組を見ながらオナニーが出来る程に膨れ上がっているこの感情に落とし所など決してない。 久しぶりに強い快感で達してしまってぼーっと座り込んでいると疲れた身体に脳内麻薬が溶け出して急な脱力感に襲われた。濡れた感触の手と下着が感情とリアルに大きな摩擦を生む。 しかし環はその夜、壮五の夢を見なかったし朝起きて夢精をしていることも無かった。ほっとした。それだけが救いだった。 明日のオフに向けて今朝洗濯は回したし、ある程度の掃除も済ませておいた環は帰りに日用品を買おうと近くの薬局へ寄っていた。洗剤と柔軟剤をひとつづつ。それから飲み物も切れていたはずだから大きいペットボトルのミルクティーとミネラルウォーターを買った。 スマートフォンを確認すると16時を過ぎたところで壮五からラビチャの返信がきていることに気がついた。 うきうきしながら開けると、いつかプレゼントした王様プリンのスタンプを押し返してくれた後、おつかれさま。よかったね。ゆっくり休んでね。と入っていた。 環はそれだけでテンションがあがる。仕事終わった?と送るとすぐに既読が付き、終わったよ。と返ってきた。移動中かもと思ったが我慢出来ずに通話ボタンをタップするとこれもまたすぐに出てくれた。 「もしもし?」 耳に壮五の声が入ると自然と頬が緩む。環は気が付いていないが、疲労と性欲にせめぎあうように心を支配されている今は、壮五がいれば、基、壮五といれば、何でも出来るしどんな感情も抑制できると思った。壮五が今の環を平常に保つ為の拠り所で強く依存してしまっている事を環は自覚していない。 それというのは徐々に環の精神的な余裕が無くなってきていることに他ならなかった。 「移動中?」 「ううん。家の近くのスタジオだったからもう帰ってきているよ。環くんは?」 「いま買い物してこれから帰るとこ」 「そうか。で、どうしたの?何か困ったことあった?」 「別に。用ないと電話しちゃだめ?」 「…そんなことないよ。やっぱり一人は寂しい?」 「うん。でも、けっこう満喫してるかも。あ、そう昨日めっちゃ具合悪くてやばかった。そーちゃんへーき?」 「具合が悪かった?どういうふうに?」 「なんか一週間くらい熱っぽい。ばんちゃんの車で酔って死ぬかと思った」 「……そんなに続いているんだと、一度病院行ってみたら?一緒に行こうか?」 「いーよ。へーき。病院行くほどじゃない」 「ご飯は?ちゃんと食べられた?」 「マネージャーが作ってきてくれた。マジ助かった」 「、そうなんだ。言ってくれたらそっちに行ったのに」 「時間遅かったし。そーちゃんだって仕事だったろ?」 「それは…そうだけど…」 寮に着くと玄関のカギを開けながらもまだ通話は切らない。 この何気ない会話をする時間が環にとって性欲を抑える一番の解決法だと疑わなかった。 あれから自分の気持ちの処理に悩みに悩んだ末、夢を見なかった日のことを考えてみると、それはどうやらぴったり壮五と会えた時だった。仕事で顔を合わせた日には壮五と会えない分のストレスが軽減され、また会話をしたことによりいくらか精神的なストレスが発散されている。そうに違いない!と環は勝手に解釈して安心していた。 それからは、会えない日が続くと電話をかけてそれを紛らわせた。壮五は快く会話に付き合ってくれたし忙しくて疲れていて寂しいとアピールしていたので凄く優しくしてくれた。 そうして、電話をかけるようになってからぴたりと夢に出なくなった壮五に環は心の底から安心した。 自身の恋心からとはいえ、壮五にあんな風に触れられたいと思ってしまっていることをこれ以上嫌悪したくなかった。溢れてしまったのは仕方がないにしろ、また少し余裕を持つことが出来たら、再び仕舞っておけるかもしれない。我慢して、した結果が今回ならば、この我慢はよくない、と環は本能で思う。 きっと、壮五をどこかで傷つけてしまう日がくる。それほどまでに環は自分の理性に自信が無くなった。 「明日は何かするの?」 「何もしない。寝る」 「疲れてるもんね。ちゃんと休むんだよ」 「そーちゃん仕事だっけ?」 「うん。そうだよ」 「そっか。んじゃ、寮着いたからもう切る。…明日、もし覚えてたら、電話くんない?」 「…仕事が終わったらかけるよ。一応、寝てるかどうかラビチャするね」 「ほんとに?やった。テンションあがった」 「ふふ。良かった。じゃあ、また明日ね」 「おー」 とくとくと脈が速くなる。嬉しかった。気を遣ってくれたのかもしれないが、環は壮五がそう言ってくれたことに満足だった。 この時既に予兆はあったが、環は壮五の存在をじっと見つめてひたすら毎日を歩いていたので自分の身体と心が危険信号を発している事に気付けなかった。或いは、気が付いていたとしても、壮五を頼りにしていれば救われる、と歩くのを止められない環はそう信じていた。 一旦のゴールであるMV撮影まで、ついにあと一週間にまで迫った某日、環はバラエティの収録が終わった楽屋でリュックを背負い突っ立ったままぼんやりとしていた。後は帰るだけだ。マネージャーにも連絡したし、明日の予定も確認済みだ。 「……………」 しかし、足が動かなかった。動きたくない。座るにもそこに椅子がない。ここから一歩も動きたくなかった。環の許容値が限界を超えようとしていた。先日のメッゾの収録から6日が経っているが、壮五とは連絡をとっていない。環の思考が疲労に覆い尽くされて性欲だとか恋心だとか今動く為の力以外の労力を拒絶していた。ついに、仕事が終わった、というオフスイッチを押された瞬間から、帰る為の労力すらも残しておけないほど疲れてしまった。 回らない頭では咄嗟に誰に助けを求めればいいのか分からない。 紡との会話はまともだった。終了報告もきちんとしたのはそれまでが仕事だったからだ。切れた動力に打ちひしがれてしばらくまた立ちつくす。 あと一週間だ、あと7日頑張れば、楽になる。そうは思ってもとっくの昔に体力も精神力も切れてしまっている環にとってあと何日だろうが関係なかった。もう頑張れない。動けない。 ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。迷ったが緩慢な動作で電話を受ける。 「、あ、もしもし?環くん?今大丈夫?」 「………………」 壮五だった。数秒理解するのに時間を要し、返事もしていないことに今気がつく。 「そーちゃん、」 「環くん…?」 「…」 「どこにいる?ラビチャ、見てないみたいだけど何かあった?」 「……」 「………ごめんね、今どこ?それだけ教えて?」 「……会いたい」 脈絡なくそう零した環に、壮五は言葉に詰まって黙ってしまった。だが環にはもう体裁を取り繕っている余裕はなかった。ただ、壮五に会いたいと本当にそれだけ思っていた。ここで拒絶されてしまったら、恐らくゴール出来ない。そう思った。必死に繋ぎとめようと言葉を探す。 「、だめ…?…ちょっとでいい、一瞬でもいい、」 「ううん、いいよ。迎えに行くから、どこにいるか教えてくれる?」 ほっとしてスタジオを告げると駅前で待ち合わせしようということになり、ようやく動力が精製された。 まるで身体は思う様には動かないがなんとか駅前まで行くとガードレールによりかかりスマートフォンを握り締めたまま佇んだ。 壮五は駅前に急いでタクシーで駆けつけ、黒いキャップを目印にきょろきょろと環を探すと猫背になりながら俯いている姿をようやく見つけた。 「……たまきくん…」 駅前なので大声で呼ぶわけにもいかず、近づいてそっと声をかけると環はゆらっと顔をあげてまるで安心したようにそーちゃん、と言った。 顔を見るとどきっとする。うっすらと目の下に隈をつくっているようだった。見目にも物凄く、疲れ果てていた。すぐに再びタクシーを捕まえて、とりあえず壮五のマンションに向かう。 道中ものの10分も乗っていなかったが、環はタクシーに酔ったようで降りた瞬間しゃがみ込んでしまった。 「……水買ってくるよ、ちょっと待っててね」 マンションの入り口に自販機があるので壮五が離れようとすると、ぐっと手を掴まれだいじょぶ、とくぐもった声で環が制止した。仕方なく一緒にしゃがむと躊躇ったが、背中をさすってやる。 5分は経ったろうか。しばらくしてゆっくりと立ち上がった環にほっとして声かけようとすると唐突に帰る、と言った。 「え!…無理だよ、少し休もう!」 「そーちゃんちはやだ、」 「……どうして?」 「どうしても」 環は頭がおかしくなりそうだった。 会いたいのは本音だったし会ったらきっと満たされると思っていた。 しかし実際には心が余計な感情で埋め尽くされて、今この状態で壮五と一緒に居るとそんな事を思っている余裕もないはずなのに触りたくて受け入れて欲しくて好きだと言って貰いた過ぎて暴発しそうだった。多分嘘でもたったそれだけで今は安定する。それだけでいい。だけどそれはきっと叶わない。叶わないならば、一緒に居てはいけない。 仕事は精一杯やっていた。あと一週間で決められたゴールに辿り着くことが出来る。しかし身体と心がついてきてくれようとしない。それはそうだ。散々今まで自分からのSOSを蹴り飛ばしてここまできた。最後の0になるまで気力を摩耗してしまったら、それはもう死んだも同然だった。 それでも、さっきまで壮五が居たら頑張れると思っていたのに、いざ目の前にしたらめちゃめちゃに苦しくなるばっかりで環の求める欲求がもう環自身の手には負えない。 傷つけたくない、傷つきたくもない、環の限界点ぎりぎりで保っている精神力も限りなく0になろうとしていた。 「…環くん、いいから入ろう、大丈夫だから」 「やだ、今はそーちゃんといるとダメだ、帰る、」 「会いたいって言ったじゃないか、」 「、……言ったけど…!」 「っ環くんが楽になるなら、いつか言ってたごほうびしてもいい、疲れ過ぎてて心配だよ、このまま帰すわけにいかないよ」 壮五のその言葉に、ぶちんと環の決壊線が割れる。 なんだってこの男はそういう無神経な言葉を使っては欲しくない場面でぽいぽい放ってくるのだろうか。一足飛びも大概にしてほしかった。強い感情が自然と声を荒げてしまう。 「なんもしんねーくせに勝手なこというな…!」 急に怒鳴った環の声に、びくっと壮五が震えぐっと黙りこんだ。環はもう我慢の限界だというようにそのままありったけの本当を言葉を選ばずにぶつける。 「会いたかったよ、会いたかったけど、会っても全然楽になんねーし…!余計苦しくてもう会いたくない!触んのもだめで、好きになんのもだめで、女のかわりにすんのもダメっつったじゃん…!好きになって欲しいって言ったら、嫌いじゃないって言ったのに……!」 ぎゅうううと目をつむって今まで閉じ込めてきた気持ちを全部壮五に向かってぶん投げた。もう持っていられない。懲り懲りだった。吐きだして吐きだして、苦しいけれど吐きだして、そして一体自分に何が残っただろう。あんなに大事にしていたのに。 「、なんでダメなの………おれ、そーちゃんのこと、世界一幸せにしたいのに、…」 弱々しくそう零した環を壮五は静かな表情で見守っていた。そしてしばらく二人は目線の交わらないまま立ち尽くしたが、意を決した様に壮五がぐいっと環の手を握った。 「環くん、いこう」 そう言った壮五は環に答えは求めていなかった。戸惑う環の手を強引に引いてマンションのエントランスを抜ける。環は呆気にとられながらもエレベーター前まできたところでようやく手を振り払う。 「、い、かねーし!やめろよ…!」 「環くん」 今度は環がびくっと身体を強張らせた。一言そういった壮五の顔がめちゃくちゃに怖かった。条件反射で怒らせた、と緊張してしまった環を壮五は問答無用で部屋に連れ入れた。促されてソファにちょこんと座り叱られた犬の如くしおらしくなった環にまずはご飯食べた?と問いかける。 「いらない……食いたくない…」 「朝は食べられたの?」 「………」 「じゃあ、プリンあるから、それでもいいから食べて。食べられそう?」 言いながら冷蔵庫から持ってきたプリンを差し出されたが正直環に食欲は無かった。やはりいらない、と首を振ると壮五は困ったようにそっと環の頬に手を触れた。不思議とドキドキはしない。かわりに肩の力が抜けて安心した。 「顔色すごく悪いから…。忙しくてもご飯はちゃんと食べてね…」 「……、ん………怒ってない…?」 「怒ってるよ」 そう言った壮五に顔を上げると言葉とは裏腹にとても優しい顔でこちらを見ていた。 「でも先に、ごほうびあげるね。たくさん一人で頑張って、えらかったね」 ふあっと空気が動いて壮五にしっかりと抱きしめられ環は瞬時にこれは夢か、と思った。だが、夢の時よりも壮五のぎゅっとする力が強くて髪の匂いが鼻腔いっぱいに深く広がりとても心地良かった。背中をとんとんとされると弱り切った心のやらかい部分をくすぐられているようでツンと泣きそうになる。全然いやらしくない壮五のハグに驚くほど満たされてしまう。 しばらくそうしてくれたあと、そっと離れた壮五が足りた?と笑いかける。 「……めちゃくちゃ足りた…」 「よかった。少しは落ち着いたかな」 「うん、……ごめん…」 「じゃあ次ね」 そう言った壮五が血色のいくらかよくなった環の頬に手を添えてその唇にちゅ、と触れた。 「、」 あまりに急な出来事にそのまま固まった環に、壮五のまっすぐな目が追い打ちをかける。 「環くんが言ってるのは、こういうことだよ」 「、っ、」 「僕にこうされて本当にうれしい?」 虫の息だった環の心臓がついに止まりそうだった。息をするのを忘れるぐらい驚いてドキドキと早鐘の様に脈打つ全身が緊張で動かなかった。壮五が真剣な目で見ている。 環の全身に血が巡る。頬がかあ、と熱くなったのが分かった。 「それから、嫌いじゃないじゃなくて、好きだよ。環くんは?僕のことどう好き?」 そう問われて環は正直に答える。壮五に触りたい。触って欲しい。抱き合ってキスしてみたい。 「、……触りたい」 「どこに?」 「…ぜんぶ、」 それを聞いた壮五はじゃあ一緒だ、ともう一度環の頬を両手でそっと挟んだ。 ふっと鼻先が触れ合って唇と唇が優しくくっつく。どういうわけか全く卑猥ではなかった。純粋で無垢で、真っ白な愛情を一心に受けて環の脳が溶ける様に甘く痺れていく。性的に気持ちがいいというよりも単純に心地よい快楽だ。 今度は環もその薄い身体を抱き寄せると、頬を離れた手が環の首に回る。 優しく触れる心地よい快楽。そんなピュアで軽い愛情など二人分の欲にかかればすぐさま一転して暴力的な快感にすりかわる。 触れるだけのキスから舌を絡め口同士を舐め合う深い行為に変わった瞬間、環のコントロールできない性欲が頭をもたげてしまう。壮五の身体をソファの背もたれに追い詰めて逃げられないように首を片手で固定した。足をまたいで上向かせ夢中になって薄い唇から口内を貪る。舌が触れるとそこがじゅっと熱く気持ちよくなりもっと触れてみたいと壮五のものとたくさんくつける。いつの間にか主導権を剥ぎ取られた壮五はされるがままに全て許しながら環の耳の辺りに触れ荒い欲望を享受する。 「、ぅ、……ふ…」 ようやく離れた環との間にお互いの唾液が混ざりあった糸が引いた。気持ちよかった証だ。 壮五が環の口元を拭ってあげると、環はお返しといわんばかりに犬のようにぺろぺろと残滓をなめとってくれる。一息つくとそこから段々この意味不明な状況を理解して、昂った気持ちを抑えつけるように環は目を逸らす。 「……引く、気持ちよ過ぎ…」 「、環くんキス上手だね…」 「上手だねじゃねーだろ、いきなり襲ってくんなよ」 「…僕の他にも、したことある?」 「あるわけないじゃん、そーちゃんはいっぱいしてそうだけどな」 「え…どうして?」 「どう考えても慣れてた」 「…そんなの、環くんの方が慣れてたじゃないか」 「はあー?つーかずるい、今まで一生懸命我慢したのに意味わかんねーし、寮で好きっつっちゃった時何で拒否ったんだよ」 「っだって、最終的に環くん本気じゃないって言ったから…」 「、えー…」 「しかも、僕は男だから、環くんがしたいことさせてあげられるかもわからないし、単純に女の人と付き合うのとは違うんだから、血迷ってるっていうか、夢見てるだけなんじゃないかって思って」 「………したいことって?」 「、し、知らないけど…」 「すけべ」 とは言ったものの、さすがにこれ以上するには準備が足りないのは壮五も環も分かっている。 壮五が言ったように、男の身体ではすぐには出来ないことだらけである。セックスの知識くらい環も持っていたがなるほど、男同士のやり方については深く考えたことはなかったな、と思った。 幸い、状況を飲み込むのに精一杯でかつ目の前の快楽を追うのに手一杯だったこともあり、二人とも本格的に勃起しているわけではなかった。 ところが、環は受け入れられた高揚感から先程のようなディープキスがどうしてももう一回してみたくて壮五の顔を優しく掴む。 「ねーそーちゃん、もっかいべろ出して」 「、え…」 「はやく」 「…、ん、」 好奇心で目がらんらんとしている環にそう言われるも流石に恥ずかくてぺろっと控え目に舌を出した壮五の口元がいやらしくて環はぞくと震えた。そこに自分のものをちょんとくつけると、んっと壮五の身体が跳ねる。そのまま何度もつんつんと触れ合わせた延長でまた深くまで交わる。 今度の壮五は余裕がない。環が気持ちいいと判断した触れ方は無論、壮五だって気持ちが良かった。 与えられる快感に腰が痺れて次第に下肢に集まってしまう。 「、ん、ん、ぅっ、」 「、は、なあ、これ…なんでこんなきもちーとおもう、」 「っ、ぁ…は、ちょっと、ん、まって、」 「待てない、そーちゃんがやらしーから」 「ちが……、これ以上やだ、だめだよ、」 「いーじゃん、触ってやるよ」 そう言った環の左手が実に器用に壮五のズボンのベルトを外したのをみて半ば悲鳴に近い叫びをあげる。 「っ、慣れてるじゃないか…!やだ、今日は終わりがいい、環くん…!」 「なに、ベルトとっただけじゃん。一人ですんの?一緒じゃん?どうせ抜くなら気持ちいい方がいくない?」 「、…そういう…問題じゃ…!」 「マジでやだ?」 「、ゃだ、」 「……じゃーやめる」 その言葉にほっとするといつの間にかソファに押し倒されていることに今気が付いた壮五は薄々分かって居たがこれからの役割がここで完全に決まったことにも勘付いてしまった。 しかも環の強引な好奇心にあてられて昂りが隠せなくなってしまったのは事実だった。気まずそうに足を立てて誤魔化した壮五だったが、突然環に引っ張り起こされ握られたその手をそのまま環の昂りに持って行かれた。 「た…」 「おれのは触って?そーちゃんえろいから勃った」 「何でもぼくのせいにしないでくれ、」 「経験ほーふだからちんこ触んのも上手?」 「したことないってば…!」 「ふーーん」 まるで聞く耳を持たない環は自らジーンズを下げてはっきりと膨らむ下着の上に壮五の右手を置いて手を離した。 「、っ、たまきくん、」 「そーちゃんにしてほしい。いやだ?」 「………ずるいよ、」 「やだったらいい」 「…いやじゃない、でも、わからないから環くんも一緒に触ってくれ」 「やった。いいよ。でもはじめはそーちゃんに触ってほしい。自分でしてるようにやって」 押し込めてきた欲望が一気に解放されて環の要求は留まる事を知らなかった。依然として体調は悪かったがそんなことはすっかり麻痺して壮五との行為の感覚を一つも取りこぼすまいと全身の感度が上がっていた。 壮五が困った顔をしながらもその手を動かすとぴくっと反応して息を詰める環に、顔を寄せる。 「ん、」 横に座ったまま正面に伸びて唇を数回食み、そのまま頬をすべらせて耳、首筋を通り鎖骨にちゅ、ちゅ、とキスを落とす。下着の上から形を確かめるように何度もなぞると、環の内腿がひくひくっと震えた。 「いや、アンタ何がわかんねんだよ、触り方えろすぎんだろ」 「気持ちいいかなと思って」 「、ちゃんと触って、」 環が余裕のなさそうに言うので下着を引っ張りその中に手を入れると、濡れた感触と熱気が手の平にはりつく。ゆっくりと握る。環が目を閉じてやわい快感を堪えるのを見ながら先端をもう片方の指先でちょんちょんとつついた。一瞬強くびくついた環が頬を赤くした。 「っ、もー、そーちゃん…!」 「だってどうすればいい?教えてよ」 「ふざけんなよこのやろう、」 羞恥に赤くなった環の耳を舌で刺激しながら握った方の手を弱く上下し立派な腹筋を優しく撫でてやると、緩い快感に身悶える環の手が壮五の背中にまわり、着ていたカーディガンをぐしゃっと握った。 そのまま全部の刺激を徐々に強く早め、や、あ、と短く洩らす環の口をキスで塞ぐ。 「、っ、んん、」 激しい快感から逃れようとして環の喉が反れ片足が上がったが、壮五の手の動きの方が幾分勝った。口を塞がれたまま喉の奥で嬌声を洩らした環の昂りがびゅ、とその腹に零れた。 「、はあっ、っ、う、ぁ」 その躍動に合わせて唇を解放し、手の動きを終息させる壮五がうっすらと赤い頬に笑みを浮かべてどうだった?と言った。とんでもない顔だった。環は達した快感でびりびりと痺れている脳でなければ乱暴にかき抱いてしまってもおかしくないくらい興奮してしまった。 それからしばらく余韻はあったが、達したお陰で段々と熱が醒めて行く。それと同時に身体が一気にだる重くなっていきそのまま壮五に寄りかかる様にしてぐったり身を任せた。壮五はそれを優しく受け止めやわやわと頭をなでてやるが、一方で環とのあまりの淫らな行為に、軽く自身も達してしまっていたのだった。 「………きもちい、」 「そうだね」 「そーちゃんやらしすぎんだけど、」 「環くんの方がいやらしかった」 「…すき、そーちゃん、」 「……ぼくも。ちょっと寝たら?」 「、ん………」 言いながら壮五はティッシュで残滓の残る環の腹を拭い、ズボンを引き上げてやる。環は重力に耐えられずそのままころんとソファに横になった。壮五がそっと、おやすみというと抗えない瞼が閉じて身体が強制的にシャットアウトしたかの様にすうすうと寝息を立てた。 壮五はソファの横に座りじっとその寝顔を見詰めると、今更ながらかああ、と顔が熱くなった。 「……、環くん、」 左手はすっかり乾いたが環の興奮をしごいたその手の感覚を思い出してそっと閉じる。 壮五にとっても長らく抱えていた気持ちの解放に、今はどこかまだ信じ切れていない自分がいた。でも、環の疲労がきちんと回復するまではお互いの確固たる恋愛感情なのかは少し考えないようにしようと思った。また不安定になってしまったら可哀想だった。勢いでも、自分の存在で少しでも環が楽な気分になっていれば、今はそれで十分だ。 「……」 再び環の疲れ切った寝顔に目をやったあと、軽く達したせいで未だ熱のこもる下肢を慰めるべく、壮五は一人でトイレに立ったのだった。 それから後ろ7日ではあるが体調も安定せずに心配だったので、万里と紡に相談してMV撮影もしくはツアー前までは壮五の家で面倒を見ることを申し出ると、すぐに承諾してくれた。 二人とも頻繁に世話をやいていた様でとても心配はしていたがそもそものスケジューリングは紡のものだし、何より本人が頑張っている手前中途半端に休ませることは出来なかったようだ。申し訳なさそうにしていた。 それでも、そうして壮五の家に帰るようになってからは心の負担が減りぐっと明るい表情になった環だったが依然として体力の持ちが非常に悪く、帰宅すると玄関から動けないこともしばしばあった。 一旦限りなく最後まで消耗した精神力では毎日の仕事をこなすだけで手一杯で、満身創痍でやっとゴールであるMV撮影に辿り着いたその日の起床もとてもつらそうにしていた。 壮五と環が揃って楽屋に入ったのは撮影開始の一時間前だった。 「環くん、少しでも休んでいたら?撮影もたないよ」 目を閉じてソファに座っていた環に横になる様に促すと返事はしなかったが素直にその通りにした。 しばらくするとこの僅かな間でも摩耗した体力を回復しようと寝息を立てた身体は今も懸命に環を支配している。 「おはようございまーす」 そこへ静かに陸がやってきた。次いで一織と三月もトーン低めのあいさつで楽屋のドアをそっと閉めた。壮五は環の状態を予め他のメンバーに共有していた。具合が悪いことで終始気だるそうな雰囲気を醸す環にメンバーからの余計な誤解を与えない為だった。 既に過労の警告が壮五や一織の中でワンワンと響いていて何度か相談はしていたが、今日までの環の努力を思えば、なんとかMV撮影までを無事に終わらせてツアーまでにまとまった休みを入れてあげたいという結論に至っていた。ただ、それは環がもう嫌だと言ったら躊躇なく仕事を一旦止める、という大前提ではあった。 ウェブ番組の配信の時に顔を合わせたきりだった陸は、まだ始まってもいない仕事の楽屋で疲れて眠るという今まで見た事の無い環の姿に心を痛めた。そっと様子を窺ってから、静かに撮影の準備に取り掛かる。 「どうですか、様子の方は」 「……うーん、撮影本当にやりきれるか不安だよ」 「…本番中に力尽きてしまうのも考えておかなければいけませんね」 「昨日のレギュラーの撮影も始まるまではずっとこんな感じだったんだけど、カメラ回ったらちょっと怖いぐらい普通に笑っていたから、今日までっていう環くんの気力が消えたらって思うとぞっとするよ。すぐ病院にいく想定はしていた方がいいのかもしれない」 「…そうですね。マネージャーには言っておきます」 「びょういんは、いかない」 かすれた声で目は閉じたままそう言った環は嫌そうに顔をしかめ、ゆっくりと身体を起こした。 時間はまだあったがそろそろ動く心づもりをしておかないと今日はオンスイッチに出来る気がしない。ぼやっとする視界で動く、がんばる、と環は全身を起こしにかかる。 そして最後の拠り所である壮五の名前を無意識に口にしていた。 「…そーちゃん、」 「ん?はい、白湯だけど飲めそう?一応ゼリー飲料もってきてるけど飲む?」 「あんがと、いい、」 「環、大丈夫?」 「ん、りっくんもあんがと」 環はスタジオに入ってからも用意してあった椅子から終始じっと動かずにいるのでかわるがわるメンバーが寄りそい肩をもんだり背中をさすったりして声をかけた。人が来る度に優しくしてくれるので嬉しそうに笑っている環を壮五は側で心配そうに見守った。そうしているとスタッフに慌ただしい雰囲気が出始めそろそろかとオンスイッチのタイミングを計り始めた頃、大和がやってきて椅子の横に屈みこむとタマと珍しく真面目な顔で言った。 「いいか。ダメだったら止めるから、ちゃんと限界突破する前に言うんだぞ。ツアー行けなくなるの嫌だろ」 「……わかった」 「ほんとのところは今すぐにでも中断した方がいいと思ってるけどな。頑張りすぎて壊れたら、タマの代わりはいないんだ。本当にいけそうか?」 「大丈夫。やる。いける」 「…無理は絶対するなよ」 「わかった」 環の強い返事に、笑って頷いた大和は壮五と目を会わせて「いこう」と言った。 こうして最後のゴールテープの見え隠れする新曲のMV撮影が開始された。 眩しいブースに入ると環のオンスイッチがぱちんと入り頭からつま先までを瞬時に新しい血が巡る。冷たかった手の先もじわっと血色を帯びてまるで一瞬にして生気に満ちた環を、壮五はハラハラしながら気にかけた。無論、メンバーはいつ電池切れになるかと思うとそうなった時いつでもどうにでも対処できる様に常に緊張していた。 個別の撮影は先週終わっていたので、今日は全員でダンスパートを完成させる。リテイクはなるべくなら避けたかったので振り付けと歌詞を間違えない様に全神経を集中させる。さすがに一発オーケーは厳しいかと思ったが環の負担を性急に取り払いたいという6人のそのモチベーションは高まっていた。 前半パートを難なく撮り終え、あまり時間を空けずにすぐに後半へ続く。自然と皆が環を見ると普段より少し多く汗をかいているようだったが、視線を受けたのに気が付き大丈夫という風に笑った。 後半が開始されると、嫌でもゴールテープを切った瞬間の環の精神力に全員の神経がいってしまう。緊張が続く中、ようやく、やっと、メロディが終息し長い長い環のブレイクの余波が終わろうとしている。 「カット!オーケーです!」 壮五と一織と大和が同時に環の身体を支えた。予測した可能性の一つとして、カットの瞬間膝からがくんと崩れる事をちゃんと想定していたが故の反応だった。ダンス後すぐの事だったので全員肩で息をしていたが、環の呼吸の荒ぎようは異常で、すぐに壮五が衣装の胸元を緩めてやりジャケットを脱がせる。 「、っ、はあ、はー、っ、は、」 「環くん…」 バタバタと紡が走ってきて救急車呼びます!と言ったが、これに環は強く首を振って嫌がった。壮五が紡を見上げると泣きながらスマートフォンを握りしめていた。タップすればすぐに電話がかけられる。 壮五は一織と大和と目を合わせると、そっと頷いて壮五のジャケットの前を掴んだまま苦しそうにする環を宥めるように優しく話しかけた。 「環くん…」 「……っ…そーちゃん…、」 「病院いこう?怖くないよ、僕もいくから」 「…やだ、…」 「ツアー、行きたいだろう?そのためにちゃんと休まないと」 「行ける、へーき、っそーちゃん、」 「身体が限界だよ。ここまで頑張ったからもう、」 「そーちゃん…」 「ん?」 「そーちゃん、ごほうび、してほし、い、」 切羽詰まった環の言葉に胸が詰まる。すぐにぎゅっと抱きしめてやると熱い呼吸が耳元で繰り返され時折そーちゃんと呟く環に、えらかったね、がんばったね、と優しく背中を撫でてやる。程なくしてふと環の力が抜けたのが分かった。脱力しきったその身体の重みをしっかりと感じてから壮五がマネージャー、と紡を見た。 「……病院にいきましょう」 こうして、環の苦しかった約三ヶ月弱のハードスケジュールがようやく終了した。 ツアー開始までは二週間の猶予があったが当然その間にちょこちょこと入っていた諸々の仕事は一旦ずらすか白紙に戻し、環は物凄く嫌がったがメンバー全員で何とか宥めて最初の一週間を丸々病院で過ごした。 とはいえ、3日間は死んだ様に寝ていて壮五やメンバーが日中に連絡しても返事が来ず様子もまるきりわからない状態だったがそれを過ぎると大分身体に余裕がでてきたのか少しずつ返事が届くようになった。特に、壮五には頻繁にラビチャや着信履歴が入っていた。 無事に退院してからも、しばらく壮五宅で様子を見ながらメッゾでのレギュラー番組にだけ復帰することにし、来るツアーに向けて環は順調に回復していった。 「ただいま」 その日、壮五は陸との雑誌の撮影があり17時頃に帰宅した。見ると浴室に洗濯物が干してあり、回してくれたんだね、ありがとうと言いながら上着を脱いでいると妙に真剣な顔で突っ立っている環と目が合った。 「どうしたの?何かあった?」 「……なー、変なこと聞いていい」 「?うん、」 「そーちゃん、俺のこと好きって言った?」 「、えっ…」 環の不意打ちの質問に思わず壮五の顔がかあと赤らんだ。 「…いったよ……」 「夢じゃない?」 「、夢?」 「俺、疲れ過ぎてそーちゃんの変な夢ばっか見てる時期あったから自信なくなった」 「……変な夢…」 「うん。夢ん中でさ、俺そーちゃんにやらしいことばっかされて目が覚めんの。まあけど、本物の方がひゃくばい、やらしかったな」 にやっと笑った環が近づいてきてきつめにぎゅっと抱きしめられると、体調が心配でまたどうにかなってしまうのではないかとずっと不安だった壮五の気持ちがやっと少し緩んだ。 実は、そのことは壮五も気にしていて、状況が状況だっただけに、ずたぼろの精神力がとにかく無条件で受け入れて欲しいだけの応急処置だったのかもしれないとか、冷静になってまともに男同士だと意識したらもしかしたら環の気持ちが変わるかもしれない、など、どちらにしろ否定的な方にもやもやと考え込んでいた。 だから、こうして環の方から切りだしてくれてとても気持ちが楽になった。遠慮がちに手を背中にまわすと、環は確かめる様にまた力を込めて壮五を抱きしめたままぽつんとうそじゃない?と零した。壮五は驚いた。 「……うそじゃないよ…?」 「ほんとに?ほんとは仕方なく、好きって言ってくれた?」 「そんなわけないだろう、ちゃんと、…好きだよ、環くんのこと」 「、…すげえ嬉しいけど……自信ない」 離れた環の顔は本当に自信がなさそうにしょんぼりとしていた。それがなんだか妙に可愛らしくて胸がきゅっと詰まる。たまきくん、と穏やかに声をかけると目が合った環が少し赤くなりながらそっと唇に触れてきた。壮五はちょっと背伸びをしてそれに応え、今度は壮五から抱きつくと幾分ほっと安心した顔で笑った環と、やっと二人で笑いあったのだった。 それから、並んでソファに座りゆったり寛いでいるとふと急に環が壮五の肩を抱き寄せて頬にキスをしてきた。 「、びっくりするから、急には…」 「そーちゃんさ」 「うん…」 「いつから俺のこと好き?」 環を見ると、穏やかだが少し緊張した面持ちでじっとこちらを窺っている。 壮五は、いつから、という質問に途方も無い昔まで遡ろうとして、一旦やめておく。 「……環くんは…?」 「なんで聞いてんのに聞き返すんだよ」 「…だって、すぐ内緒って言うし、僕が言ったのに教えてくれなかったら嫌だ…」 「……ごめんって。内緒もうしないから。教えて」 「、環くんから言って」 頑固な壮五の姿勢に観念して、環は正直に言おうとその時期を思い返す。 今年のはじめ、ちょうどバレンタインのシーズンだったか。インタビューで世界一幸せにしてあげたいと言ったその時にはっきりと自覚したと言ってもいい。 「雑誌のさ、インタビューで世界一幸せにしたいって言った時」 「………今年…のだよね…?」 「ん。自立するようになってから、ゆっくりだけどだんだん好きになってった。はじめて触りたいって思ったのは多分それ」 「そうか…」 「言った。そーちゃんは?」 促されると、壮五は強く動揺して目を伏せた。幾度も口を開いては、ぐっとまた黙ってを繰り返しているのを環が不思議そうに見る。しばらくそんな調子だったが環の方は見ないで身をよじると、気まずそうに小さな声で呟く。 「………やっぱり、内緒…は、だめかな……」 「、はー!?人には内緒やめろっていっといて自分はすんの!?だめに決まってんじゃん!」 「……だ、…て…」 「いーえっつーのーー」 ぐいぐいと肩を揺さぶられて真っ赤になった壮五が、ずっと、と零したのを聞いて、環は耳を寄せた。震える声で壮五が恥ずかしそうに絞り出したのは、環にとって全く予想だにしない答えだった。 「ず、……ずっと、前から…………」 「ずっと前…?」 「もう、…いつからなんて、わからないくらい、ずっと前から…好き、だったよ、」 「、…え、」 驚いてきょとんとしてしまった環に、壮五がぐっと身を引いてへなへなと両手で顔を覆ってしまった。 くぐもった声で、やだ、とごちる。 「、いやだ、恥ずかしい…無理だ……きっと先に僕が環くんのこと好きになってしまったから、環くんが僕のこと好きになってしまったんだ、ごめんね、僕、僕は…幸せになれるかもしれないけど、………環くんは幸せになれない、ごめんね、」 急に懺悔し始めた壮五の言い分を黙って聞いていた環はそっとその両手をほどくと、顔を真っ赤にしながらも半泣きで謝るその口をキスで塞いだ。 「、ん……」 環は軽く舌をからめるだけで余り長くは拘束せずにふっと離すと、切なく見上げる壮五の両頬をぐっと捕まえてまっすぐに見つめる。真剣な顔だった。壮五の手が環の手に触れる。 「うれしい。そんな前から好きだったん。今まで気が付かなくてごめんな。それに、そーちゃんが世界一幸せになれんなら、おれ二番目でいいよ。そういうことあやまんのもう二度としないで。ね」 「……でも…、ぼく、も…幸せに…したいんだ、環くんのこと、……」 「そーちゃんが幸せでいてくれんのが、おれの幸せだから、…じゃ、同列で世界一にする?」 「、え、…」 「世界一幸せに二人でなろ。これでいい?」 にかっと太陽の様に笑う環のこの笑顔に、壮五は何度も救われた。 頼り方が下手で、伝え方も下手で、人との距離感ばかり気にしてきた自分を、心の底から、深いところで理解しようと素手でべたべた触ってきてくれたのが環だった。 自分の弱い部分が嫌いだ、自分の好きな感情が怖い、受け入れられないのは辛い、でもちゃんと認めてほしい、壮五は幼い頃から何でも一人で出来たしそれを苦だと思わなかったが、分かち合っていくことだけは誰かとでないと出来なかった。 ずっと一人で自分だけの五線譜を歩いていた壮五にとって、隣に自由奔放な環の音が入るのは耳触りで不協和音でちっとも心地よくなどなかった。制御しようにも一つも言うことを聞いてくれない環とは、一生かかっても分かり合えないとずっと思っていた。 だが、毎日二人で並んで歩いていくうちに、ふと環との歩調が合ったり、主張を聞き入れようと努力してくれているのが分かったり、優しく心配してくれたり、傍でじっと寄りそってくれたりすることに、ああ、自分はこの人に頼ってもいいのだ、と徐々に傾倒していく自分がいた。 大袈裟でなく、壮五は環がいてくれれば、なんだって出来る気がすると、今でも本当に思っていた。 進む方向を間違えても、環がいれば戻れる気がした。苦しくて倒れても、環が助けてくれる。そして環を助けることも出来る。二人一緒にここにいれば、どこへだっていけるしなんにだって勝てる、そう思っていた。 けれど、壮五はゆったりと首をもたげ始めた自分の醜い感情に恐怖を感じざるを得ない。 環に優しくされる度にそれに甘えてどんどん恋愛感情に近い気持ちになっていってしまう自分を激しく責めた。分かり合う為だけに距離が近くなっていく事を、こんな汚い情欲で塗りつぶしたくないのに。愛情を否定すればする程壮五は強く傷ついた。 人を愛してしまうことが、こんなにも辛いことだと知らなかったのだ。 しかし、長い間ずっと必死に首を絞め続けてきたおかげで、恋愛感情は心の雑踏に転がしておいても平気になり、狂気的な激しい欲望は内側で大事に大事にしてあげることで処理できた。 幸い、環は壮五に対して恋愛感情は微塵もない様に思えた。全く脈がないのだから、期待も当然していないし、罪悪感を感じていられれば間違うことなどない。 だから、絶対に見るなと言われていた雑誌の記事を部屋で一人見て、壮五は無意識に目から涙が出ていた。強く疑ったが、何度も何度も見返してそのあまりの嬉しさに、咽び泣いた。 間違ってしまう、怖い、といつも思いながら過ごしてきた壮五にこんな風に環はいかようにも踏み込んでは離れて、また傍に来ては距離を置くというのを繰り返されてついには我慢の限界がきてしまった。 それを壮五は後悔もしていたし、受け入れて環とずっと一緒にいたい、と自分を甘やかしてしまおうとする気持ちもある。 されど片隅で決して忘れてはいけないのは、環の幸せは、自分といることではない、いつかは必ず、手放してあげなければならないということ。 そうして、受け入れることを許し、環の愛情に身を焦がされながら焼けて行く自らの心臓を黙って見ていることを罰に選んだ壮五は、いつかくる終わりの為に環をそれまで精一杯愛してもいい、と決めたのだった。 「環くん、」 「ん?」 「好きだ、ずっと前から、君しか見てなかった、ずっと一緒にいてほしい、」 突然、泣きそうな顔で熱烈にそう言った壮五に、環はふっと微笑むと、少し寂しそうに笑った。 「やなことばっか考えんのもうやめろよ。どこにも行かない。そーちゃんだけ、ずっと好きでいる。信じて。約束するから。そんな不安そうな顔すんのやだ」 環はぎゅっと強く壮五を抱きしめた。不安そうな顔はだめだ。悲しい顔もだめ。環はそう胸の中で繰り返すと、きっとくだらないことをごちゃごちゃ考えて頭がパンパンになっているのであろう壮五に誓うように言葉にした。 「おれといるときのそーちゃんは、幸せなんだよ。そーちゃんも疑わないって約束しろ」 強引な環の言葉に、知らず、壮五の目から涙が零れた。 壮五はわかった、と頷いて、その背に手を回して抱きしめ合うと胸がぎゅっと締め付けられ、ずっとこのままがいいな、と叶わない、叶えてはいけない願いを強く強く、願ってしまうのだった。

EPISODE 05酒は憂いのタマ箒

きてからは何人たりともこの二人から順位を奪還するのは難しかった。かくいう環もデビューしたての17歳という若さで5位という高い位置に掲げられたが高校を卒業し18歳になった今年は件の二人に次ぐ堂々の3位につけていた。 四半期毎に投票が行われるこの企画だが、今回はトップ2である楽と龍之介と共に、次回発売の秋の投票に向けて特集ページの撮影に挑むことになっていた。 とはいえ、企画のランクインとしては常連の3人だったので一緒の撮影は今回が初めてというわけではない。二人は環を可愛がってくれていたし、環も二人のことが大好きだった。特に、シャッフルユニットとしても活動したことのある龍之介にはよく懐いていて、プライベートでも車の話やファッションの話など環の興味がある話題に龍之介は大抵詳しかった。屈託なく話を振ってくる環を楽も龍之介もどこか弟のように思っている節もあり、現場で何かトラブルになりそうになった時もさりげなく助け舟を出すなどと陰ながら随分支えて貰っているのだった。 「あ、そーだ。はい、おみやげ。長野の」 「ツアー中だったか。なんだこれ?」 「蕎麦」 「マジか」 「楽!良かったね!ありがとう環君。これは天の分?」 「そう。会ったら渡して」 だから、環もそんな二人をとても頼りにしていたし、可愛がって貰っている自覚もあったので、単身での帰京だったが撮影自体を密かに楽しみにしてきたのだった。 時間通りにまずはtriggerの二人から撮影が始まった。環は二人の撮影風景を見るのが好きなので、ブースから少し離れた暗がりで椅子に座りながらその様子をじっと見ていた。 相変わらず立派な身体付きをしている龍之介をまじまじと見つめ、そーちゃんが見たら失神するかもな、などと思いながら表情作りやポージングを知らぬ間に吸収していく。楽のスタイルの良さや表情の切り替えも絶妙で、クールな表情から一転して優しく笑った顔が環は一番好きだった。笑顔は人間性が出る。ふと浮かんだ壮五の柔らかい笑顔が心をくすぐった。会いたい。そう思った。 環の順番が巡ってくると、撮影し終わったはずの二人が仲良く脇で待機していて環は首を傾げた。 「…?楽屋もどんねーの?」 「気にしないで。俺も環君の撮影風景みたいなと思って。あ、それとも緊張する?」 「いや、別にいーけど。変なの」 環は楽と龍之介に見られていることに関しては少しも動じなかった。今回の環の衣装は真っ白な光沢のあるゆったりしたシャツにダメージデニムというとてもラフな格好で、なるべく自然体の雰囲気で撮りたいと言われていた。 ブースに入ると、まず恋人におかえりを言う感じで、と言われカメラの向こうにしっかりと壮五を見た。柔らかく笑って手を差し出した環に、龍之介が思わず素敵だな、と呟く。よく晴れた明るい光の中放つ環の存在感は、おおらかで安心感に包まれる様な、どこか今までとは違う雰囲気を纏っている。 途中で髪を結わいてみようかと注文され、髪ゴムを口に咥え手で髪を束ねる場面も、すかさずシャッターが絶え間なく切られる。遅れ毛が出てあまりきれいとは言えない出来だったが、より自然体で素朴な雰囲気がブラッシュアップされる。 次に白のシャツから濃いグレーのTシャツに手早く着替えると、ヘアメイクが綺麗に髪を結わき直してアンティーク調のシックなソファを使用しての撮影に入る。背の割に細身なぐっと締まった身体のラインを強調するタイトなVネックのTシャツは、それ一枚で環の持って生まれた色気を浮き彫りにした。 挑発的に、という注文にはソファに肩膝をついて誘うように伸ばした右手の指先までが艶めいていて、笑ったり目線を流したりする度にフェロモンが漂う。少し危険な感じでとこの企画ならではの際どいショットを注文されると、環は何の躊躇いもなく自らのTシャツの裾をたくしあげて立派な腹筋を晒しながらべえ、と舌を出した。無数のシャッター音に思わず楽が吹きだす。 「お前よりえろいんじゃないか」 「うーん…負けた…」 龍之介も感嘆し、チェックの為に一旦捌けてくる環を笑顔で出迎えると、先程の面影はほとんどなく、どこかあどけなさすら感じさせる丸い雰囲気に、楽がおかしそうに笑う。 「四葉、女できたろ」 「、はー…?」 「いい表情たくさん出てたよ。最後、腹筋見せてて俺もやっておけばよかったーって思っちゃった」 「リュウ兄貴は別に腹筋見せなくてもえろいからいーじゃん」 「腹筋見せたらえろくなんのか…」 「あとそーちゃんが腹筋好きだから」 サービス、とぽんと口をついて出た言葉に龍之介と楽が顔を見合わせた。その反応に、一瞬意味が分からなさそうに訝しげな顔をした環だったが遅れてきた羞恥心に慌てて訂正を入れる。 「違う!深い意味はない…!」 「はーん。逢坂の所為か。なるほど」 「本当に仲がいいよねメッゾは」 「っ、変な意味じゃねーから!がっくん!その顔やめろって!」 「いつかは逢坂も観念すると思ってたんだよな~」 「あはは…環君はカッコイイし頼りになるってこの前言ってたよ」 龍之介の言葉を真に受けてしまって耳まで真っ赤になった環に面白半分でからかっていたつもりの二人も妙な雰囲気になってしまう。否定すればするほど悪循環だと思って何も言わなくなった環の判断は寧ろ逆で、黙り込んだその反応がリアルで思わず付き合ってるのか?と楽が言った。 「………そんなわけ…」 全ての間が悪い。否定しようかそんなことしてもいいものか判断に迷った環はいや壮五はきっと絶対知られたくないだろうと思いなおし、やっとこさ否定はしたがそれは最早肯定したも同然の答えになってしまっていて更に二人共気まずくなった。一応否定されたのでそう思っておくことにしても、楽はもうその先が気になって気になって仕方がない。 「付き合ってても付き合ってなくてもそこはどうでもいい。お前逢坂が好きなのか?」 「、っな、なんでそんなことがっくんに言わなきゃなんねーんだよ」 「気になるから」 「楽…困ってるじゃないか、環君…」 「困ることないだろ。人を好きになるのに理由なんていらない。男だって女だって関係ないだろ」 「……カッ…コイイよ、楽…!」 「リュウ兄貴どっちの味方なんだよ!もうこの話おしまい!やだ!」 羽織りものとして持ってきたパーカーのフードを被って火照る頬を隠しながら立ち上がった環は恥ずかしさに耐えられなくてブースの近くまで逃げるとしゃがみこんだ。壮五には言わないで欲しかったし出来ることなら上手く誤魔化したかったのだが、いかんせん自分にはそんな演技力も語彙力も頭のキレもなかった。どうしようと思っていると龍之介が隣にしゃがんでごめんね、と言う。そして俄かには信じられない言葉が口から紡がれた。 「秘密にしておいて欲しいんだけど、楽は天と付き合っているから、きっと二人のことも気になってしまったのかもしれない。悪気はないんだよ。ごめんね」 「、へ…?」 「内緒だよ。特に、天にはね」 顔を上げるとにっこり笑った龍之介が、し、と人差し指を口に当てた。その動きに何かを察した楽が、おいリュウ!マジか!と叫んで物凄い剣幕でこちらに走り寄ってきた。 「お前…!喋ったな…!」 「楽が自分の秘密は棚に上げて、環君の秘密だけ探ろうとするからだろう。フェアでなくっちゃ」 「フェアもくそもねーだろ!マジかよ!」 それを聞いた環は、もう居ても立ってもいられずに何もかもが初めての経験に戸惑う自分の感情を理解してほしくてがしっと楽の腕を掴む。 「……がっくん」 「、なんだよ…」 「てんてんと、キスした?」 「はー…………!?」 「ぎゅってしたり、手とか繋いだ?」 「………」 「セックスした!?」 もうこの上なく真剣な顔で聞いてくる環の視線に耐えられなくて、楽がうろたえながら龍之介に助けを求めるが当の本人はのほほんと相談にのって話してあげなよと言わんばかりににこにこしている。もう一度視線を戻すと環はまたじいと見詰めてくる。楽は観念して、はーとため息をついた。 「…そういうお前は?いつからそういうことになった」 「この前。最近。ちゅうもしたし手も繋いだし抱き合ったし、ちんこ触って貰った!」 「こえが…大きい四葉…」 興奮気味にまくしたてた環に楽はそう言って窘めた。 らんらんと目の輝く環だったが実は恋人同士の触れ合いとして、これが普通なのかどうか、基準がよく分かっていなかった。休暇を貰った二週間の間には軽く触れるだけのキスはしたし寄りそってテレビを見たり以前よりも近い距離でお互い過ごす様にはなったが、好き合った初めての日のような強い性的な行為はしていない。別に不満なのではない。壮五に嫌な思いをさせていないかだけが心配だった。 「やっぱり付き合ったら、セックスとかすんのが普通?そーちゃん痛くねえかな?てんてん痛くないって?調べたけど、見る限り痛そうだし、大変そうだし、けど、」 「いやとりあえず落ち着け…まず、普通かどうかは人に寄るだろ。触ったりするだけで満足するやつもいるだろうし、必ずしなきゃいけないわけじゃない。痛いかどうかはお前次第だ、やるんなら痛くなくしてやんのが当たり前だろ?」 「………したんだ」 「………したよ」 「どうだった?きもちかった?嫌がんなかった?」 「矢継ぎ早に質問してくんのやめろ…。あのな。ひとつ言っとく」 楽がぴっと人差し指と立てたのを見て、環は思わずはい、と返事をした。 「そういうのは全部、二人で決めんだよ。四葉が一人でうだうだ考えてても逢坂の考えてることなんか分かるわけがない。そうだろ?逢坂だって、お前の考えてることは分からない。お互いどう思ってるかを探り合うから上手くいかない。さくっと聞けばいいじゃねえか。してもいいか、したいかどうか」 「……?がっくんは付き合ってても、てんてんの考えてることわかんねーの?」 環のきょとんとした顔に、楽は当たり前だ、と頷く。 「好き同士になったからって、心が繋がるわけじゃないんだから、他人の考えてることが分かるようになることなんて、一生あるわけないだろ」 「……そっか……」 「だから、憶測で人の気持ちを読んだってなんの意味もないんだよ。お前は逢坂をどうしてやりたいのか知らないが、それをちゃんと伝えれば、絶対上手くいく。わかったか?」 楽のその言葉に、今まで気が付かなかった当たり前のことにたった今気がついて、環は少し感動していた。相手の気持ちが分からないのは当たり前のことだったのか。そう思ったのだった。 ツアーの終盤になるにつれ、会場のボルテージはあがりっぱなしだった。通算の8カ所目である広島は今日がツーデイズの最終日で多くの観客に迎えられステージは最高潮に盛り上がっていた。 花道はメインステージから左右に伸びていて外周をぐるっと回ることが出来、その先にあるバックステージでひとつになるという構成だった。近い距離でファンと一体になれるので元気な曲の時には3人と4人に分かれてファンサービスをしながらバックステージまで歩いて行く、というのがお決まりだ。 こういう時、デュオとしても人気の高いメッゾは大抵が離れ離れになることが多い。今日も漏れなく壮五は上手に、環は下手へと分けられていた。歩く途中には会場に設置された大型モニターに映す用のカメラが数台ある為そこでとびきりのファンサをしてやらねばならない。 一際大きな歓声がどっとあがればモニターに誰かのファンサが抜かれている証拠なので、環は何気なくぱっと見上げると大きなスクリーンいっぱいに流し目で投げキスをした壮五が映し出された。次いで、細い指が内緒だよ、と妖艶に唇にそっと当てられる。 会場が揺れる程の大歓声だった。文字通り口を空けて見入っていた環の後ろ頭を一織がひっぱたいた。 「環すげー顔…」 「四葉さん…とんでもない顔で見惚れないでください」 「いてーよ!はたくなよいおりん…!」 「マジでアイドルらしからぬ顔だったな~。今日の飯抜きだな」 「やだ~~~~」 「本番中なんですから、集中してください」 それはそうだ。環は慌てて顔を引き締めるとなんだか腹が立ったのでぐいっと一織を引き寄せ首に腕を絡めると、カメラに向かって壮五を真似、ウインクしながらキスを投げた。 不意打ちで慌てた顔のままぬかれてしまった一織に再度小言を言われながらも壮五に負けないくらい熱い歓声に大きく手を振り返した。 「壮五さん?」 「…あ、え?なんだい」 「顔赤くなってますけど、大丈夫ですか?疲れた?」 一方では陸にそう指摘され、壮五も慌てて気を引きしめた。ちょっと、ほんの少し、一織に羨ましいなと感じている自分の心に叱咤して、普段はあまりやらないがナギと一緒にファンの振っているうちわに向けてファンサをたくさんし始めた。ナギはいつもと違うそんな壮五に気を良くして、ふっと華奢な手を取ると、跪いて手の甲にチュ、と口をつけファンサービスです、ソウゴと余裕たっぷりに呟いた。カメラには抜かれておらず外周側を向いてやった為、一部のファンにしか見えていなかった。 が、例え遠くにいようとも壮五の姿を双眼鏡で追っていた熱狂的なファンと、ナギの王子様たる所作の美しさへ発狂寸前の雄叫びが響いた。 一瞬のことで壮五は照れる間もなかったがあまりのナギのエスコートの美しさにドキドキしてしまった。 大和がそれに追いついて悪い顔で壮五を見ると、「浮気現場」と一言言った。 やがて、左右から伸びた花道が一つになると、バックステージへと繋がった。やっとこさ辿り着いた環と壮五はそわそわとお互いのことが見たくて仕方ない。次の曲に入るまで少しあるが、大和はそんな二人の様子を見てまた意地悪い顔で笑うとそそくさと環の側へ行きスタンド席に手を振った。環も大和が絡みにきたと思って肩を組むと、大和が耳に口を寄せて環のイヤモニを外した。 「、なに?」 「さっき、ソウが王子様みたいなナギに口説かれてたぞ~。手にチュってされて」 きょとん、とした環は次の瞬間ダッシュでナギの元へ駆け寄った。ワッツ?と不思議そうに見るナギの肩をがくがくと揺らしてなーぎーっちーーーーー!!!!とマイクの入っていない状態で詰め寄ると、イヤモニに次の曲へのカウントが入った。大和が咄嗟に環のイヤモニを外したのを思い出したが時すでに遅し。曲が終息しながらマイクのスイッチがオンになった。そして。 「そーちゃんは、おれのだーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!」 タイミング良く力いっぱいに叫んだ環の声が、キーーンとハウリングをまじえて会場全体に響き渡ってしまった。一瞬耳が遠くなるような静寂の後、今日、いや、このツアー一の阿鼻叫喚が広島の会場を揺らした。 大和が頭を抱え、一織がブチギレ、ナギは目を輝かせ、三月は大爆笑した。陸が呆気にとられてしまっていたのではっと我に返って隣に居た壮五を見ると片手で口元を覆いながら真っ赤になった泣きそうな顔で震えていた。 環は何が起こったのかわけが分からずに固まってしまっていたが、イヤモニが外れていることに気付くと慌てて装着し直し、一織に睨まれて走って位置に戻ると、思い切り大和に蹴りを入れたのだった。 それが無くても広島の盛り上がりは間違いなくどこの会場よりも熱い熱気を孕んだままで幕を閉じた。いつも以上にテンションの上がったメンバーは、打ち上げがてら飲みに行こうという話になりマネージャー陣やスタッフも交えての大所帯で店を予約した。 20人以上居たので今から貸し切りに出来るお店はほとんどが該当せず選択肢がほぼない状態だった。結局、ホテルに程近い場所にあるという理由で小さな鉄板焼の専門店に決まった。 「…、あ、ごめん」 「、ううん」 「……」 小さな店だったので、全部で3台ある掘りごたつ式の鉄板テーブルはぎゅうぎゅうの状態だった。ほとんど隙間のないくらいびっちり座らないと全員座る事が出来ず、隣どうしになった壮五と環は足や腿までくっついていて何だか余計にドギマギして上手くふるまえず不自然に遠慮していた。 環と一織はまだ18歳なのでそれぞれウーロン茶とサイダーを頼むと、他はとりあえずほぼ強制的に全員生ビールで乾杯になった。 壮五も両手でジョッキを持つと乾杯してんくんくと美味しそうにビールを飲んだ。それを横目にぼそっと環が忠告しておく。 「…そーちゃん、飲み過ぎんなよ」 「うん、わかってるよ。明日はメッゾのご当地特集の撮影もあるし、一杯だけにするよ」 「ぜーーったい嘘。そう言ってこの前もべろべろになってたじゃんかよ」 「………うーん…」 苦笑してことんとジョッキを置いた壮五はじゅうじゅうと音を立てて鉄板で焼かれているお好み焼きを指差す。 「ほら、もうすぐ焼けるよ。三月さん向こうのテーブルだし、僕がとりわけようかな」 「おー。手伝う。すーげー腹減ったー。いおりん、皿とってー」 「逢坂さん、そっちからだとやり辛いでしょうから、わたしがとりわけます」 「一織えらい!ソースはおれが塗ってあげる!」 「いいのに。ありがとう、一織くん、陸くん」 「じゃーいおりん手伝う」 そう言って只でさえ狭いスペースの中でお互いがごちゃごちゃと動き回ると、当然のように環の肘が壮五のジョッキにぶつかるし、陸の手が持っていたソースを取り落とすしで、同時に盛大にぶちまけた。お決まり過ぎて最早言葉も出ない一織だったが青筋を浮かべてふくものを…ください…と店員に向かってお願いした。おろおろしていた環だったがふと足元を見ると当たり前だが壮五のズボンがびしゃびしゃになっていることに仰天し青ざめた。 「ってか、そーちゃ、ごめん、かかってんじゃん…!」 「かかってるというか……もう浴びてるね………」 そう言った壮五が狭い座席に身をよじる。見事に腰下から全部に浸透してしまった生ビールが下着まで染みているのにいささか衝撃を受けながら、一旦ホテルに戻って着替えてくる、と言った。環は焦って、おれも、と言いかけたがぎゅっと口をつぐむ。嫌がられてしまうと思った。ライブでは意図せずだがとんでもないことをファンの前で叫んでいたし、それからしばらく目も合わせてくれなかったことを思い出してしゅんとした。 大人しく待っていようと思い座り直すと、突然壮五がぐいっと腕を引いた。 「環くんも来て」 「、えっ?」 それ以上は言わずに黒く色の変わったチノパンを恥ずかしそうにしながら靴を履く壮五に、戸惑いながらもその後を追う。陸の零したソースをぶちぶち言いながら拭いていた一織は壮五から声をかけたのを見ていたので特には止めず、そのまま行かせてやることにした。 「まったく、場を弁えて欲しいものです」 一織がそう小さく呟いたのを、陸が不思議そうに見ていた。 道中、ズボンの不快感にげんなりしながらも、やっと二人きりになれた高揚感から、壮五は環に良く話しかけた。ライブ中の事は怒っていたが、今日のライブの盛り上がりはとても気持ちが良かった。いつもよりテンションが高くなっている壮五の様子にほっと安心しながら環は嬉しそうに壮五の話を聞いた。 部屋に着いて壮五が着替えを探っている間、環はどうして一緒に来てくれと言ったのかをドキドキと考えていた。話しながら歩くのはとても心地良くて、このまま何時間でも一緒に散歩していたいぐらいだったが きっと、そうじゃない。 「………」 お待たせ、とジーンズに履き換えた壮五がツインベッドの隣に腰掛けていた環に声をかけると、立ち上がった環が少し真面目な顔をしていてどき、とした。壮五が環について来てほしいと言ったのは無論二人きりになりたかっただけだ。実のところ、打ち上げも早く終わって欲しいとすら思う程、壮五はライブ後の不思議な高揚感で胸がいっぱいだった。キスじゃなくてもいいから、せめて抱きしめて欲しい。手を繋ぐだけでも良かった。とにかく一度環に触れられたかった。そうすればこのそわそわとした高揚感も少しは落ち着く気がしたのだ。チャンスだとは思ったが、環の真剣な顔についドキドキしてしまい目を逸らした。 「……そーちゃん…」 「、う、うん?」 「…ナギっちかっこよかった?」 「へ?」 突然の質問に素っ頓狂な声を上げて環を見上げると少し嫌そうに壮五の手をとるとどっちにしてもらったの?とまじまじと手の甲を見比べた。瞬時に、大和か、と思って次いで環の大絶叫にようやく合点がいった。いきなり何故ナギにあんなことを言ったのか不思議に思ってはいたのだ。ナギがふざけて手にキスをしたことを大和が告げ口したのだな、と随分納得がいく。 「だからあんなこと言ったのか。びっくりしたよ本当に…」 「俺だってびっくりしたよ、イヤモニ外れてると思ってなかった…。ごめんな、やだったよな?」 「……ううん、…嬉しかったよ…」 真相が明らかになり、結果的に辱められたとは言えナギに嫉妬して言ってくれたことだと思うと嬉しくて胸がくすぐったかった。はにかんだ壮五の予想外の反応に環の顔がぶわっと赤くなった。そして、何も言っていなかったがナギがキスした右手をそうっと大切に持ち上げると静かに唇を落とした。環はそのまま壮五を見詰めて手をぎゅっと握りしめた。 「ナギっちにはやんない。そーちゃん俺のだから」 壮五はそんな環が愛おしすぎて息が詰まった。心臓が破裂しそうにどくどくと脈打ってしまって上手く喋れそうになかった。こくんとひとつ頷いたのを見て安心した様に笑った環に、やっと強く抱きすくめられた。滅茶苦茶に満たされていく壮五の気持ちがゆったりとリラックスしていく。幸せな気持ちが脳内にどろっと溢れ出た。 「……ちゅーしたい、そーちゃん…」 ぴったりくっついたままそう言った環がゆっくり離れるとぽやんと蕩けた顔で見上げてくる壮五の唇を奪った。そのままゆっくりと深いものに移行していき、次第に壮五の足ががくがくと震えるほど夢中で貪りあうと環は壮五のその細い腰を支えながら優しく寝かす様にベッドに組み強いた。 「………」 と、そこまでは良かったが、唇をぷっと離した環がかあああと顔を真っ赤にして急に目を逸らすと、気前悪そうにそーちゃん…と呟いた。 壮五は不思議に思い、きょとんとした顔でどうしたの?と聞くとものすごく小さな声で環が言う。 「、ごめん…腹減った…………」 そう言ってすぐに、我慢していたのだろう、小さくきゅる、と環の食欲が音を立てる。 壮五の中で何かが弾けて、突然猛烈に、とんでもない熱量で「可愛い」と思った。その途端笑いが込み上げてきて身体を小刻みに揺らす。 「もー…、笑うなよ…かっこわる…はずかしい…」 「あっはは、ふふ、ふ、っだ…ごめん…ふ、お、っかし……」 「もーそーちゃん…!」 「あははは…!可愛い、環くん…」 環に組みしかれながらも本格的に腹を抱えて笑いだした壮五があんまりおかしそうに笑うものだから、環もだんだん面白くなってきてふっと笑ってしまった。考えてみればあれだけの運動量で無理もない。やっと食事にありつけると思ったお好み焼きも一口だって食べる前だった。無論、壮五に続きをさせてほしいという思いもあるが、若さ故か未熟故か、とにかく強い空腹感に負けてしまった。 壮五が涙を流しあーおかしいと言いながら、覆いかぶさって居た環の背中に腕を回して自らぎゅうっと抱きつくとまた、かわいい、と呟いた。 「ライブ後なのにごめんね、そりゃあお腹すいたよね。遅くなったらいけないし、そろそろ行こうか」 店までの暗がりを、ちょっとなら大丈夫、と手まで繋いで壮五はとてもご機嫌だった。終始環を見て笑っているのでバツが悪いし格好は付かないしで環は少し拗ねていたが、壮五が楽しそうだったので内心ほっとしていた。程なくして店の入り口までくると、ふと壮五が立ち止まる。 「…どした?」 「続き。帰ったらしてくれる?」 朗らかな笑みに不意をつかれたが、すぐに笑って絶対する、と環は意気込んだのだった。 「、っ、ん…キス…ほしい、」 「……そーちゃん…」 部屋の扉を閉めた途端、壮五は環の胸にぴったりくっついて強くキスを求めた。鉄板の熱に炙られたお互いの火照った身体が擦れ合うと、いつもとは違う感覚がしてどんどん気持ちが煽られていく。ひどく興奮している壮五に一方的に唇を舐められながらも環はそのシャツの裾からするりと手を入れ素肌の背中をさすってやると、駄々っ子の様に執拗にキスを求めながらもびくっと身体を跳ねさせる。 口内はまだ許さずに壮五のキスを軽くいなすと部屋の内鍵を閉めて電気を付けた。ぱっと照らされた壮五の頬はほんのり赤くなっていて不満げに見上げる目がたーくん、と言っている。 店に戻ると、環は念願であった特大のお好み焼きを一人で3枚たいらげてから程良く酔っ払った大人連中の注文した大量のつまみ類の余りを食べ、勝手にオーダーしたアイスを機嫌よく頬張ったところでにこにこ笑いながら隣で見ていた壮五が、満足そうな環の様子に安心したのか他のテーブルにもお酌してくるね、と席を離れた。 ジョッキは置いて行ったし、戻ってからはウーロン茶を飲んでいたので環はてっきり今日はもう飲まないものだと思いそのまま行かせた。否、行かせて、しまった。 環達のテーブルには陸と一織も居たしスタッフも交えて談笑して盛り上がっていたので、はっと気がついた頃には一時間ないし30分以上は経過していた。ちらっと壮五の行き先を窺うと、一番離れたテーブルでまだ理性的な顔をして笑っているのが見えた。それ程広い店ではなかったが、何の話をしているかまでは分からない。少し不安に思ったが、すぐに陸に話しかけられて再び目を離した。否、離して、しまった。 「たーくんはそーちゃんの隣来るの!!!!!」 次に壮五の事を思い出したのはそれから大分経ってしまった頃の事で、大和と三月は文字通りべろんべろんだったしナギはスマートフォンでここなについてを熱くスタッフに語っていたし、大半の人間は泥酔か人生を語るかそっとその様子を見守っているかだった。 たまたま陸が意外と環の手首が細いという話をしていて一織と陸と環で手首を見せ合っているところだった。一織と陸は壮五と大して身長も変わらなかったが、壮五の腕と思い比べてみると随分と健康的に見えた。壮五が華奢過ぎるのだ。後で比べようと一織の手首を親指と人差し指で握り細さを吟味していると、突如脇から壮五が環の腕を引っ張った。驚いてよろけた拍子に、手首を握る手はそのままに一織を胸元に引っ張り寄せてしまった。片手をついて上手くバランスをとった一織は怒り心頭で四葉さん!と怒鳴った。 しかし、環はそれどころではない。激怒で頬をぷくっと膨らませた壮五基、そーちゃんが上気した頬でわなわなと震えていた。そして、止める間もなく一織の顔面をぐいぐいと押しやりながら半分涙目で「たーくんはそーちゃんの」に至る。 「そーちゃん……!何で飲んでんの!?」 「んんん、いいからっ、っ、抱っこ…!」 「…………あーもお……」 壮五はそのまま、あぐらをかいている環の上にちょんと座ると環の右手を自らの腹にあてがい、満足そうにふうと一息つく。そして隣を見遣り一織を一瞥すると、一織くん、め!と言った。 「何でわたしが怒られてるんですか四葉さん、あとでぶん殴ります」 「………おー…」 「一織くんライブ中もたーくんといちゃいちゃしてた…許さない…」 「してません。大丈夫ですよ逢坂さん、たーくんは逢坂さんのものです。好きにしてくださいね」 「……一織くん……。いいこいいこ。えらいね、いおりくん」 「………………」 「もうやめろそーちゃん…………」 そんな調子で一体どれほどの量を飲んだのかは分からなかったが、壮五はすっかり酔ってしまっていた。23時前にお開きになることになってがやがやと帰り仕度をしている最中もずうっと環の手を握って離さなかった。酔っ払い連中は揃ってタクシーを呼んでいたので一織も陸もそれに便乗したが、壮五がどうしても歩いて行くと聞かなかったので仕方なく、本日三度目となる暗がりの道を二人で並んで歩いた。 何が楽しいのかずっと微笑んでは見上げてくる壮五を窘めながら、飲んでいるし続きは出来ないなとため息をつくと腕を絡めていた壮五がたーくん、と言った。 「ん、」 ちゅう、と壮五が環の頬に口をくつけて嬉しそうにたーくんもと言うので照れながらも周囲を見回して人がいないことを一応確認した。 「そーちゃん、まだここ外だから…。ホテル帰ってから。な?」 「やだ。今して」 「だーめー」 「…してくれなきゃ帰らない…」 そう言って本当に歩くのを止めて立ち止まった壮五に頭を抱えると、仕方なくちゅっと頬にキスをしてやる。環が言うことを聞いてくれてそれはもう嬉しそうにした壮五は再び腕にぎゅっとしがみつくとそこからは大人しくホテルまで歩いてくれた。 そこまでは順調だった。皆よりも大分遅れてホテルに着き、環がフロントで部屋のキーを受け取ってくると何やら笑ってもいない怒ってもいない、曖昧な表情で待ち構えていた壮五はエレベーターに乗った瞬間から、環への猛アピールが始まった。 「たーくん、キスして」 「、いや、もう着くって。部屋行ったらな」 「今。いまがいい。たーくん」 「…そーちゃん…!やめろって…」 「いや?やだ?きらい?」 「っ、ちがう、待ってって言ってんの…!」 「………まてないよ…」 エレベーターにはカメラがあるので執拗にくっついて口を寄せようとする壮五に心底慌てた。もう少しで部屋のある階に着くというのに壮五の要求に応えてあげたくて何度もキスしそうになるのを辛うじて堪えていた。物凄く長く感じたが、ついにエレベーターのドアが開く。その瞬間強く壮五の手を引いて半ば走る様にしてやっとこさ部屋に入ると、待てない壮五は背伸びして環の唇が欲しくて欲しくてたまらないという風にキスをせがむのだった。 鍵もかけた。電気もつけたしもう我慢する必要はどこにもない。はやく、と急かす壮五を焦らしながらゆっくりと頬を撫でると、猫の様にすりすりとその手に顔を擦り付けてくる姿はいささか環の理性をざりざりと逆なでしすぎる。だから、念頭に相手は酔っ払いだという事を強く思いなおしてその身体をひょいと抱き上げるとベッドまで運んだ。 「んんー、たーくん、き、す」 ベッドに降ろして宣言通りの続きから始めるべく、組み強いて覆いかぶさった状態でがぶっとその減らない口にかぶりつく。そのまま何も考えずにぐいぐいと口内を荒く犯しながら壮五のジーンズのボタンをチャ、と外した。壮五は抵抗しなかった。ただひたすら、環から与えられる快感に没頭しながら欲しいものを満たされた気持ちよさに夢中になっている。 「そーちゃん、触っていい…?」 既にジーンズを腿まで引きおろし、下着越しに触れてはいたがキスに没頭していてあまり反応のない壮五に一応改めてそう聞くと、ぅん、と小さく頷いた。酔っているのにしてもいいのかどうか迷ったが、どうせ覚えていないからいいか、とノーカン前提で「そーちゃん」との行為が始まった。 酔っている壮五は全てに正直で、触れられた部分に快感を覚えると素直にきもち、と口にした。それがまったくもっていやらし過ぎるのを、環は酔っ払い、酔っ払い、と念じながら何とか理性を保った。とはいえ、自分の手で壮五がよがるのにぞくぞくと快感を覚えないわけがない。もっと感じている姿を見てみたくて壮五の下着の中に手を入れ昂りに直接触れると、その急な快感に壮五がビクンと反応した。 「っ、あ、」 「いたくねえ?」 「、…、ん、……う…」 壮五が泣きそうになりながら顔を背け、酔ったお陰で常よりも敏感な身体に身悶える。首筋に音を立ててキスを降らせると壮五の腕が環の首に絡んで襟足をさわさわと撫でつけてきた。余裕がありそうだったので唇を滑らせて鎖骨から胸へと移動すると壮五の腰がびくびくっと強く跳ねた。 付き合っていくに当たってやはり壮五とのセックスについてを真剣に考えていた環は自分なりに一生懸命色々と調べた。男も胸で感じる、とか前立腺という場所を刺激すると女性の様に感じられるようになる、とか、しかしながら大前提として受け入れる側の負担がひどく大きい事と、もし壮五の中を使うことになるとしたらどうしても痛みについては全く無いことなどあり得ない、という点で環はとても躊躇していた。 「痛いのやだよなそーちゃん…」 ともすれば、環の中では壮五が気持ちいい範囲だけで済ますのもアリだと思っている。 だから、アナルを使って痛い思いをさせてまでセックスすることにはあまり積極的になれなかった。自分の昂りは触ってもらうだけでも十分だと思ったし、壮五の好きなことだけやってあげたい、と今の時点ではそう思っていた。 初めてするので感じてくれるかは分からなかったが、右側の突起を舌で入念に溶かしながら、左側は親指の腹で優しく刺激してやると再び身体を震わせる壮五はその強すぎる快感に既にいっぱいいっぱいな顔で首を横に振った。 「胸、きもちい?」 「、んっ、やだ、…」 「…や?なんで?痛い?」 「き、もち、すぎるっ、から、やだよ、」 酔ったそーちゃんは素直過ぎる。環はそう思ったが、気持ちよすぎるというその言葉に安心して緩めていた手を再び動かすと壮五は息を詰まらせながら腰を逃がそうとよじった。キャパオーバーの刺激に酔った頭がついてこないのか、口から零れる喘ぎは言葉になっていない。 「っあ、やあ、ああ、い、っ、」 胸の刺激と一緒に速度の早まる環の右手に犯されながら、壮五の全身にぎゅうっと力が入る。ついに絶頂の瞬間、強く痙攣しながらどくどくと白濁が溢れ返った。詰まった息が一気に漏れて苦しそうに喘いだ壮五の口を環は軽く塞いだ。荒い息の中、いやだと首を逸らして抵抗したが、辛抱強く優しく啄ばむ環のキスに徐々に全身の力が緩んで壮五はまたとろんとした目で環を見ていた。 「たーくん、」 「ん。なに?酔ってっからもうおしまい。そーちゃん気持ちよかったな」 「……やだ、触るの」 「おあ、っちょっと…」 壮五が気持ちよく達したことで、酔っているしこれ以上は止めておこうと自身の昂りはひとまず棚にあげ壮五を寝かしつけようとした環だったが、今日の逢坂壮五はまだ眠たくない。環の身体を押しのけて対面に座るとベルトに手をかけゆっくりと外していく。 「いーよ今日はもう、明日もあるよ、寝なきゃ、じゃん、」 壮五の行為に身体は抵抗出来ないが、必死に窘める努力をする環はボロボロの理性が触って貰いたい、と泣きついてくるのをまるきり知らんぷりは出来ない不甲斐無さにぐっと歯を食いしばる。壮五は弄ぶ様にしてズボンのホックを外してジッパーを下げるとぺたぺたと股関を触って環が座ったままだとズボンが下げられないことに憤りを感じているようだった。 「いいって、…一緒に寝よ、な」 「たーくん立っち。はやく。ズボン脱いで」 「……酔っ払いい…」 腰に手を添えられて仕方なくベッドの上に膝立ちになると、瞬時にズボンが引き下げられて同時に壮五の唇が下着越しに環のものへと触れた。あまりにもびっくりして腰が引け壮五の肩に手を置いた環が悲鳴をあげた。 「は!?何してんの……!?やめろって!そーちゃん!」 「ん、ふ、やら、たーくんなめていいって言ったもん」 「言ってねーよ…!!どこのたーくんだよ…!!!」 そう言うも下着越しとはいえ、もう数回しごいたら達してしまいそうなほど限界の昂りに壮五の熱い息が当たってしまうと環にはそれに耐えられる程の精神力は残って居なかった。お構いなしに、壮五の手が下着を引きはがすと割と乱雑に握りしめられ舌をあてがいながらその口内へ飲み込まれる様を見せ付けられて環の堪えた喘ぎが鼻から抜けた。がくがくと腰が揺れる。意味のわからない快楽に自重を支えきれなくて咄嗟に壁に手をついてそれをやり過ごそうと努力する。 「っ、っ、う、…やめ、っやめろそーちゃん、」 「…ふ、ん…う、んく、」 上手いかどうかなど分からない。ただただひたすらに無理矢理な快感だった。壮五は時折えづきながらも口の先から喉の奥までをいっぱいに使ってぐちゃぐちゃと卑猥な音を立てながら夢中でしごいているものだから、環の状態など全く気にすることなく自らの行為に酔っているようだった。 環は壮五のあまりにも暴力的な愛撫で目の前にチカチカと星が散り意識が飛びそうになった。かなりの嬌声が漏れ出ていることにも気が付いておらずしんどいくらいに感じている身体がもう限界だ。 「、あ…イ、」 ぶるっと震え、次の瞬間受け止めきれない強烈な絶頂が環の意識を一瞬落とした。がくん、という自らの首が落ちた衝撃で気が付くと得も言われぬ痺れが腰から全身を駆け巡り余韻で再びビクっビクっと痙攣する。当然膝は震えているしようやく壁についている手も細かく震え、開きっぱなしの口からつ、と涎が垂れた。 環は無意識に壮五の髪を強く掴んでいたが、当の壮五は意に介さず、勢いよく流れ込んだ環の大量の精液を半分以上飲み込んで口を離したところだった。 「ん、たーく…、…きもち?」 強すぎるオーガズムに頭がふやけていて、そう言った壮五をただ見ていた環だったが、やがて熱が醒めるに連れて壮五の口の端から零れて喉元まで濡らしているのが自分の出したものだと理解すると一気に罪悪感が襲った。 「………マジで…なんでこんなことすんの、やだから、」 環は泣きそうに眉を寄せながら手でそれを懸命に拭ってやるが、手と口との間に精液の粘りがねとっと広がり思わずぞっとした。無理矢理された身とはいえ酔っ払いの壮五にこんなことをしかも最後までさせてしまったことを強く後悔する。 「っ、風呂入ろう…ごめん…もう絶対させねーから、」 「…?たーくん…怒った…?」 「ちげえ、…、悲しい、そーちゃんにこういうことしてほしくない、」 「……どして」 「、だいじだからっ………!」 本当に泣きそうになってしまって思わず壮五を抱きしめた。やっぱり酔っ払いの相手なんてするんじゃななかった、ともう絶対に「そーちゃん」とは行為に及ばないと固く決意する。すると、ふと壮五の手が環の頭を優しくなでて、いいこいいこ、と言った。環は嫌そうにその腕を掴んで止める。 「、もー、いいから、全然いいこじゃねーし」 「たーくん。大事だからしたんだよそーちゃん」 「……え、」 「そーちゃん、たーくんにいっぱい好きになってほしいから」 「っこんなことしなくっても超好きだよ!馬鹿にすんなよ…!」 「えへへ、そーちゃんも大好き!だから、大好きな人にすることでやなことなんてないよ?なのにたーくん悲しい?」 「………して、ほしくは、ない、」 「そっか。ごめんね。たーくんやさしいね。たーくんはいいこだから、これからもっともっと、幸せになるんだよ。そーちゃんが幸せにするんだよ。待っててね」 思いもかけない壮五のその言葉に、環は言い表せない気持ちが胸いっぱいにはちきれそうになり息を詰めた。酔っ払っているのはわかっていた。それでも、そーちゃんの言葉は壮五の言葉であることに変わりはない。切なくて狂おしい程に愛していて、離したくなくて出来ることなら自分だけの側にいてほしい。我儘かもしれないが永遠に、死ぬまでずっと隣にいて欲しかった。また、そう思っていて欲しかった。環が求めるものは壮五の求めることでも同時にあって欲しい。壮五を世界一幸せにしたいと本気で思っている環にとって、そーちゃんが幸せにするという言葉は正に求めている欲求そのものであることに、どうしようもないくらい胸が締め付けられた。 「そーちゃん」 「うん?」 「ありがとな」 環はそのまま静かにちゅ、ちゅ、と頬や唇にキスをたくさん降らせると、壮五はくすぐったそうにたーくんだいすき、と笑ってくれたのだった。

EPISODE 06壮五さんの煩悩の犬

冷たいビル風が吹きつけ、首元が寒くて縮こまった環にマフラーしてこなかったの?と壮五が心配そうに問うた。鼻の頭を赤くしながらどっかいった、と言った環に壮五は驚いた顔でほんとうに?と目を丸くする。 「風邪ひくよ?買ってあげるからちょっと寄って行こう」 「えー、いいよ。それよりはやく帰りたい」 「なんでもいいならすぐに決まるだろう?」 「…そーちゃんの貸してよ。首元苦しいのやだから、試して大丈夫だったら買う」 季節は師走の中旬にさしかかり、いよいよクリスマスかと一気に街の風景がイルミネーションで色めきたった。スタジオからの帰り道にある街路樹が今年はふんわりとしたパステル色の電飾で煌びやかに彩られており、スマートフォンで写真を撮る人もチラホラと見受けられた。 11月に入ってしまうと、来年の2月のバレンタインデー周辺を目途にじわじわと仕事量が多くなり季節柄クリスマス関連の取材や撮影、イベントなどでまた少し慌ただしい日々を過ごしていた。 大好評の内に幕を閉じた夏から秋にかけてのツアーも無事に駆け抜け、順調な毎日を送る環だったが、ツアーを終えてからも引き続き壮五の家で寝泊まりする生活が続いており、すっかり恋人同士としての雰囲気が板についてきていた。 (壮五さんの煩悩の犬) 家に帰ると、環は風呂の準備を、壮五は夕飯の支度を、と別にそう決まっているわけではなかったがなんとなく雰囲気でいつもそういう流れになる。 壮五の料理は初めこそ行き過ぎた香辛料の使用でとんでもなく辛い味付けだったが、長年三月の手伝いで台所に立つうちに環が普通に食べられるくらいにはマイルドな味付けに落ち着いていた。ともすれば、何でもそつなくこなせる器用さを持っていて家事は嫌いではない壮五の料理は普通に美味しかった。 好きな人の手料理を食べられるという恋人同士であるが故の特権は、環の幸福度数をいつも一定に満たしてくれた。 環も環で、元はと言えば自立心から始まった家事への取り組みだったが、今では洗濯も掃除も特に面倒だと思うこともなくなりお互い部屋をきれいに使うという習慣は、二人にとってストレスを感じさせない空間作りに欠かせない事となった。 環は、鼻歌混じりに台所に立つ壮五の後ろからそっとその様子を覗きこむと鍋に火をかけたまま鶏肉にスパイスを振ったり一方ではネギや白菜などをさくさく切ったりと何やら難しそうなことをしていたのでそのまま引っこんでソファで寛いでいた。程なくして鼻腔を美味しそうな匂いにくすぐられて、時間を見ると時刻は19時に差し掛かる手前だった。 「環くん、おまたせ。ごめんね、時間かかっちゃったね」 「できた?めっちゃいい匂いすんだけど」 「うん。お皿運ぶの手伝ってくれる?」 「いーよ」 香辛料が振られていた鶏肉はそのままグリルされ、こんがりと香ばしい香りにじゅわっとジューシーな肉汁が溶けだしていて何とも美味しそうだった。深皿に盛られた具だくさんのスープに加え昨日の残りものである人参とブロッコリーのグラッセが鶏肉の付け合わせとして置かれた。最後に、チーズと豆腐を混ぜ合わせたふわふわした食感のサイドメニューだが、壮五のお気に入りなのか最近よくでてくるものだ。 環はうきうきと炊きたてのご飯をよそってテーブルに置くと、壮五も揃っていただきます。と手を合わせた。 「そーちゃんは料理上手だなー。好き。美味い」 「ほんとに?嬉しいな。味付け薄くはない?」 「ぜーんぜんへーき。このふわふわ、気に入ってる?この前もでた」 「ふふ、そうなんだ。つい食べたくなっちゃって。あまり好きじゃなかったらごめんね」 「美味いよ。好き」 食欲旺盛な環の為に、壮五はいつも3人前か、ともするとそれより少し多い量で作るのが常になり、それを環はいつでもぺろっと美味しそうにたいらげてくれた。好き嫌いが無いので作るものには困らないしこうして喜んでくれると壮五も作り甲斐があった。 時折、三月と連絡し合い特製のレシピを分けて貰うがどれもそれほど手間はかからないのに美味しく出来て失敗が無いしとても重宝していた。今度、お菓子の練習もしようと思っていて、密かに環の誕生日に向けてプリンを美味しく作れるようになりたいな、とも思っていた。 ふともくもくと箸を進める環を見ると口の端にご飯粒をくつけていた。まるでちいさい子供の様でおかしくなり手をのばそうとして留まった。 「…環くんついてる」 「ん?」 「じっとしてて」 そう言って食事中だったが、可愛らしい環の姿に壮五の気持ちが我慢出来ずに、ぺろっと自らの舌で環の口元をなめるとすぐに頬にもちゅっとキスをした。環は急にそうされて照れながらあわてふためく。 「飯食ってんじゃん…!」 「うん…、ごめんね。行儀悪かったね」 「マジですけべだよなそ-ちゃんって…。この前酔っ払った時のこと全然覚えてないんだっけ?」 「…ツアーの?」 「そう」 「……ま、っったく覚えていない…僕本当にお酒飲むのやめようかな…」 「やめようかなってやめれんなら苦労してないんじゃね?」 「や、やめられるよ…!飲まなくても飲み会は楽しめるし」 「へー……」 「なんだいその反応は…。環くんに迷惑かけるの嫌だから、本当に考えるよ…」 壮五が珍しく拗ねた素振りを見せたのでふっと笑うと、環がまあ、と食事を再開しながら別にいーよ。と言った。 「え?」 「酔っ払ったそーちゃんすげー素直で可愛いし。たまにだったらいーよ」 「……どういうこと…?何か変なこと言ってた…?」 「内緒。思い出したらそーちゃん恥ずかしくて切腹するかもしんないな」 「ねえ、環くん…!?」 頬を赤らめながら慌てて詰め寄る壮五を窘め、じっとみつめてくるその目尻にキスをする。すると、誤魔化さないで言ってくれ、と壮五が泣きそうな顔をしたので環はそうだなーと悪い笑みを浮かべた。 「気持ちいいとこ触った時はちゃんときもちいって言ってくれたぞ。ちょっと困ったけど、外なのに何回もキスしてって言ってくるし。かわいかった。あ、あといおりんにはたーくんに触んなってめちゃくちゃ怒ってたな~あとはー…」 「ちょっともういい…やめてくれ…とりあえず一織くんに電話して謝る…」 「もー忘れてんだろ。だいじょぶ、はらいせに何故かその後おれがぶん殴られたからいおりん的にはチャラんなってるはず」 「…………無理だ…恥ずかしい…」 赤面は通り越して青ざめながらとぼとぼと食事を再開した壮五を満足気に眺め、環は最後の一つだった鶏肉を美味しそうに頬張るのだった。 夕飯を終えて食器を二人で片付けてしまったあとは、並んでソファに座って何気ない話をしながらゆったりと過ごす。この時間が出来てからというもの、環は今まで不思議に思っていた壮五の不可解な行動やどうしても意味のわからない表情を、少しづつ解読出来るようになってきた。 昔から一辺倒で一足飛びの激しい思考をしている壮五だが、一応脈絡はあって、ゴールもあって、そこに向かう方法として一番近いルートを選んでいた。それが例え壊すだったり隠すだったりしても、開ける、や現状維持、という目標にとって最善策を無意識に選択している。 無論それがいいことだとしても、悪いことだとしてもだ。 なんと不器用な考え方だろうか。環は、それならばなるべく壮五の物事のゴールを時には壮五よりも早く察してあげられればいいと解釈した。 そうすれば、過激で突飛な行動だって少しぐらいは減るだろう。そう思った。 そして、今日の壮五はというと少し緊張した面持ちでそわそわと落ち着かない様子だったので、何か相談したいことがあるのかと察すると環は何気ない素振りでどーしたそーちゃん、と促した。 「あの…。あのね…」 煮え切らない態度で言葉を濁している壮五を珍しいなと思いつつ、じっと言葉を待っているとまたしばらく迷った末に一冊の本をおずおずとテーブルの上に置いた。 環は不思議そうにその本を手に取りタイトルを見遣ると、その内容に衝撃を受ける。 「これどーしたん…買ったのか…」 「う、うん…だって、その…分からないことだらけだったし…」 壮五が出した本のタイトルは「アイとカラダ」という、中を見るまでもなくセックスの教示本だった。サブタイトルには男同士の感じ方というとても分かりやすい表現での示唆があり強烈な一足飛びの真価を見せ付けられた。とはいえ、壮五がこの本を環に見せてくるということはだ。動揺したが、存外冷静に男同士でのやり方についてを調べた時のことを思い出して、あまり気乗りしない風にちらっと壮五を見た。 「…何、そーちゃんセックスしたいの」 その言葉にごくっと息を飲み込んだ壮五が、しかし躊躇わずに小さく頷いた。環はそれに正直めちゃくちゃ驚いた。素直に頷くほどにか、と感嘆する。 「マジ?何で…?大変なのそーちゃんだぞ。いーの?」 「………、だって…。環くんはしたくない…?」 「し……したくないわけ、ねーじゃん…でも、ちょこっと調べたけど痛いって書いてあった」 「…うん…」 「そーちゃんが痛いのは、おれやなんだけど」 「………ぅん…」 「触るだけじゃやだ?おれはそーちゃんが触ってくれるだけで満足だし、無理させたくない」 「………」 壮五は困ったようにそれを受け止めて何も言えずに目線を逸らした。 と、そこで環は壮五が"不満そうな顔"をしていることに気がついて、どうしてそんな顔をするのか不思議に思い考え始めた。環はこの一年で確実に視野が広くなった。 今までであれば自分の意見に何ら落ち度が無いと確認できれば意地でもそれを貫き通してきた。だってそれは相手のことを思った行動なわけで、もし少しばかり強引ででも結果を考えると決して悪いことでは無かったからだ。良い事をしている自覚のもとに行動した事に関して自分の感性を疑ってこなかった。 しかし今の環は「相手が納得しない事」は必ずしも正解ではないことを理解できた。 環は壮五とのすれ違いを回避しようとして一旦受けの体勢に入ることにした。 「そーちゃん」 柔らかい発音に壮五が目線を上げたのを見て優しく笑うと、ぎゅっと固く組まれていた両手をほぐし壮五の左手と自分の右手の指を絡めて握り直す。続けて壮五の薄い肩をぐいっと抱き寄せ額にキスをした。とにかくまず話を聞こうと頑なになっている壮五の身体をリラックスさせようと試みる。 そんな環の密着した体温に安心した壮五も右手を環の腿に置くとそのまま少し身体を預けた。 「こういうのだけじゃやだ?」 「……いやじゃないよ…」 「何でこの本買おうと思った?」 「………環くんのこと、…もっと気持ちよくさせてあげたくて…」 頭を寄せ合っているので顔が見えない分、少しだけ素直になれる二人は穏やかに傷つけないように、お互いの心をまさぐりあって確かめようとする。 「そーちゃんが触ってくれんの好きだよ。十分きもちいけど、それじゃだめなん?」 「……だめ…」 今度こそはっきりとそう言った壮五になんで?教えて?と優しく問うと、口ごもりながらぼそ、と何かを言ったは言ったがどうしても聞き取れずに環は耳を寄せる。 「ん、聞こえないそーちゃん、なに?もっかい」 「………」 「…そーちゃん…言えって、怒んねーから」 「……して…みたい…環くんと……」 セックス、と消え入った語尾に壮五の耳がじわっと赤くなった。余りにも素直な欲求に環は言葉を失うと握っていた壮五の手がとくとくと熱くなってきてそれが手の平越しに伝わった途端、急にとても恥ずかしくなった。 対する壮五はやっと顔を上げキスをせがむように物欲しそうな顔で環をじっと見つめた。 壮五の心の奥底には壮五にしか分からない秘密の本音がちゃぷちゃぷと溜まっている場所がある。そこには誰にも言いたくない、見せたくない、一人占めして時折そっと開けてはうっとりと眺めていたいような壮五にとっての宝物がたくさん沈んでいる。 その中でも壮五が「してほしいこと」はそこの一番下まで潜らないと取りだせない様な、自分が心から大切にしたい欲求だった。 ともすれば、見せたくないのは恥ずかしいからで、一人占めしたいのはそれが何にも代え難いくらい刺激的な感情だからだ。そして少し苦しい思いをしないと取りだせない場所にあるのは、それがいけないことだと分かっているから。 壮五の左手が環の手を逃れてテーブルに置かれた本に伸びた。ぱらぱらとページをめくりある部分で動きを止めると、該当の箇所を開いて見せながらまっすぐに真剣な顔で環を見た。 「こういうの、環くんにしてほしいんだ」 「……」 「こんなふうに、……環くんと、セックス、してみたい」 環は思わず赤面した顔を片手で覆うとわざと顔を逸らした。言い淀んでいるうちがまだ可愛気があった。真正面からこうもストーレートに欲求をぶつけられてしまうと、環にはもうどうしてあげようもない。してみたいからしてほしい、というまるで子供の様な言い分は、目先のいいことに気をとられそこまでの苦労は一切考えていないようにも思えた。環はため息をつく。 「アンタ、ほんとにどうなっても知んねーよ」 「…ん」 「人がせっかく気、遣ってんのにさ」 「いらない、環くんが好きなことしていい」 「あっそ。痛くてもかよ」 「い……たくても、い、い…」 「馬鹿じゃねーの」 痛くてもいいという壮五の言葉に、いささか呆れた環は不埒な顔でこちらを見てくる壮五のほっぺたをぎゅーと抓った。そんなもの、痛くていいわけがない。決まっている。腹が立った。 「う、いたた…」 「痛くてもいいなんてそーちゃんが言うな。せめて痛くしないでぐらい言っとけっつーの、むかつく」 「…ごめ…」 正直環はまだそこまで気乗りしないままだったがしかし、壮五の望みで壮五がしてほしいこととなれば、これにはもう腹を括るしか無かった。意を決して壮五の手から本を取り上げると、隣から一緒になって覗きこんでくる壮五と恐る恐るページをめくったのだった。 「がっくん。ローションて何使ってんの」 例の如く某企画の、今日は打ち合わせの為にスタジオに来ていた環は、あいさつがてら遊びに来たtriggerの楽屋で何気なくそう言った。楽は飲んでいたミネラルウォーターを危うく吹きだすところだった。そして環が真剣に見詰めるスマートフォンにはアダルトグッズのページが開かれているのを今知って衝撃を受けながらお前な…と呆れた。 「場を弁えろよ…いつでもどこでもそんな事言ってんのか…」 「えー誰もいないからきーてんじゃん…そこまでバカじゃねーし…」 「突拍子が無さ過ぎんだよ、びっくりすんだろうが」 「ごめん。で?どんなやつ使ってんの?」 大体展開の予想はついたがそこに関しては触れないでおこうと、スマートフォンを覗きこみ画面をスクロールする。楽の指がこれ、と指差したものを環は秒でカートに入れて、あと必要なの何?と悪びれもせずに聞いてくる。楽は流石に少々怖気づいた。 「四葉、基準を俺にすんのはよせ…。勝手に決めて逢坂怒らないのか?」 「口コミ大事だって言ってたし。そーちゃんが」 「ちゃんと話合ってから買ったらどうだ。メッゾはすれ違いが多いって聞いた」 「だーれに。マネージャー?」 「違う。二階堂」 「ヤマさんか…。ん、まあじゃあそうする。聞いてみる」 環はそう言って画面のスクリーンショットを撮ったかと思えば、どうやら今お伺いを立てているようでしばらく無言になった。楽は自由奔放なその姿に、改めて壮五の苦労を思った。子供のお守の様な気持ちにはならないのだろうか、と余計な心配をしていると、突然環のスマートフォンが震えた。 「っえ、なに。仕事中じゃねーの、そーちゃん」 「しごとちゅうだよ!というか、なんでやおとめさんのなまえがでるんだい!?そこにいらっしゃるのか!?」 「いるよ?なんで」 「なんでじゃないよ!まさか言ったの!?」 「は?なにを」 「ぼ、くたちが、つきあってるって、こと……」 静かな楽屋には電話越しの壮五の声が丸聞こえだった。楽は頭痛を覚えてやれやれと首を振ったが環がいったと即答したのちすぐに電話が切れた。?と耳からスマートフォンを離した環に、楽が怖々と大丈夫か?と言う。 「怒った…。」 「いや怒るだろうな。普通は言わないな」 「何を?」 「俺がおススメしたローションだってこと」 「何で?」 「…お前らが付き合ってるってことをメンバーにはあけっぴろげにしてるのか?」 「するわけないじゃん。そーちゃん恥ずかしくて失踪すんじゃん」 「…………俺はなぜいいと思った?」 「え?がっくんはてんてんと付き合ってるから。男同士だろ?仲間じゃん」 「…………それ言ったのか逢坂に」 「………………それか」 「それだけじゃないと思うけどな…」 環は存外暢気にぽちぽちとラビチャを打つと、はーとため息をついて何やら物憂げに頬杖をついた。 「なー、がっくんー」 「なんだよ」 「難しくねーのセックス…本読んだ限りなんかすげー大変なんだけど…」 「まあ人のカラダ触るしな。簡単ではないんじゃないか」 「…ちょっとめんどい。……そーちゃんには言わないで」 そう言った環は不安そうに机に突っ伏した。ははん、と楽は環の憂欝に多少同情する。環は初めて他人と性行為をするのだろう。あれこれ深く考えているに違いないし恐らくまだ行為には至っていない。考え過ぎると面倒になってしまう気持ちは楽もよく分かった。まどろっこしいのは嫌いだし、どっちつかずとか優柔不断もあまり好まない。 しかし、子供だな、とふとおかしくなってそのまま言ってやることにした。 「めんどいね。ま、分かるけど、やっぱ子供なんだな四葉は」 「……なんで?」 「今にわかるさ。まあ頑張れよ」 立ちあがった楽と同時にドアがノックされ龍之介が個別の打ち合わせから戻ってきた。環がまだいたことに笑みを浮かべてジュース飲む?と手に持っていたプリンシェイクが机にことん、と置かれた。 この日の壮五はそれはもう最悪に機嫌が悪かった。 環より先に帰っていたがどうやら帰宅してからずっとソファの隅っこに膝を抱えながらじっとしていたようで、環が送ったラビチャに既読はついていたが返事はくれていなかった。流石にまずかったなと、反省していた環はただいまにも返事をしてくれないことに焦ってソファの横にしゃがみこんでそーちゃん、と零す。 「ご……ごめん、ラビチャ見た…?」 「…………ごはんは冷蔵庫にある余り物食べて…」 「…ん…ぅん…」 「怒ってるんだから、あっち行っててくれ」 「………やだ、ごめん…許してそーちゃん…」 聞きたくないという風に膝に顔を埋めた壮五はしばらく、大分しばらくそのまま何も言わなかった。 環は辛抱強くそこを離れずに、時折ごめん、と言ったが壮五は顔を上げてくれなかった。チ、チ、と時計の秒針が響くだけの静寂の中、壮五のだんまりは30分以上にも及んだ。 喧嘩はたくさんしてきたし激怒させたことも多々あるが、こんな風に拗ねられた事のない環はどうしていいか分からずに途方に暮れた。 「…………」 「……」 やがて、もそっと身体をよじった壮五が、俯いたままくぐもった声で「なんで言っちゃうんだよ…」とごちた。やっと言葉を発した壮五にぱっと顔をあげて環はすぐにまた謝る。 「普通言わないだろう………」 「う、…うん……ごめん…」 「例え九条さんと付き合っていたって、僕たちとは関係ないんだから、……二人のことだろう…?他の人に相談しないでほしいよ……」 「そーちゃん……ごめんなさい……」 「………」 「で、でも…」 そもそもが壮五の身体の負担を考えて、経験者からの知恵を貸してもらおうとしていた環だっただけに相談した理由を言ったらわかってくれるのではないかと思った。当然だが、壮五にそんなことは関係ない。理由はどうあれ他人に喋ったことに怒っているのに、でもの言い訳は通用しなかった。 壮五が顔をあげてキッと環を睨む。 「でもじゃないだろう…!」 「ぅぇっ…はい…!」 「僕が環くんのこと信用できなくなっちゃったらどうしてくれるんだい…!信頼してたからえ、せ、セックスしたいって言ったのに、またこのこと八乙女さんに喋っちゃうかもしれないと思ったら、僕、怖くて信じられなくなっちゃうだろう…!」 「……っ、…う、…ほ、ほんとに、ごめ…もう二度としないからっ」 「本当に……!?約束出来るのか!?」 「できるっ、できますっ、ちかいます……!」 物凄い剣幕で壮五にまくし立てられたことはごもっともで、より深く反省した環が必死にそう言ったのを聞いて、やっと眉を下げた壮五がまともに視線を交わしてくれた。 「すきなのに信じられなくなるのは、一番いやだよ…」 「……ごめんなさい……」 「…言わないで、誰にも。環くんにだけ、知っていて欲しいことばっかりなんだから」 「はい……」 いつの間にか正座しながらしょんぼりと項垂れていた環にふっと苦笑してソファを降りた壮五が、環の前に座り直してやくそくね、と小指を出した。それに心底ほっとした環も、うす、と小指を絡めるときゅっと二人の信頼がひとつ結ばれたのだった。 「ご飯つくるよ。簡単なのでもいいかな」 「昨日の残りでもおれはいーけど…」 「じゃあ、一品だけささっとやるね」 エプロンをつけた壮五が台所へ向かったのを見て、環もやっとこ立ち上がると正座していたお陰で痺れた足にしばらく悶絶しながらも風呂掃除を済ませた。 昨日の夕飯は和食で鱈の煮付けが余っていたので、ちくわとネギをバターと醤油で炒めた簡単なおかずをさっと作った壮五は味噌汁を温め直す。環が煮付けをレンジにかけてくれたので、ありがとうと振り向くと環も同時に振り返ったようで強めにぶつかった。 「あぶな、へーき?ごめん」 よろけた壮五を抱きとめた環に顔を寄せられてどきっとしたが、すぐに僕もごめんね、と離れようとすると環がまじまじとこちらを見てきて数秒見つめ合った。 「…え、……な、なに…」 「久しぶりにそーちゃん怒らせたから、ちょっとドキドキしてる。マジで許してくんねーかと思った。ほんとにごめんな」 「……約束したから、もう怒ってないよ…」 「うん。ありがと」 「ふふ…うん。あ、でも、もし破ったら針千本飲ますからね……」 「え待って、そーちゃんが言うとシャレにならん」 引き攣った環に壮五がふわっと笑った。すぐに真面目なトーンで冗談じゃないから、とクギを刺すと破んねーよ!と慌てた環にぷっと吹き出すとお互いくすくすと笑い合った。 すっかり元通りになった二人は和やかに夕飯を済ませて洗い物までやってしまうと、ここ数日毎日読み進めている例の本を取り、頭を寄せ合って覗きこむ。壮五はもとから興味津津でどこか人事の様にして文献を読んでいたようだが、環は度々出てくる生々しい表現にどきどきと壮五のことを心配した。 「ほらあ、いれんの痛いってよ?やめる?」 「んー、でも痛いのは避けられないんだから仕方ないって思うんだけど」 「いや思ってたけどそーちゃんって痛いの割と好きだよな?辛いのも好きだし」 「好きじゃないよ…人を変態みたいに言わないでくれるかい…辛いもの関係ないじゃないか…」 環が次のページをめくると前戯を念入りにすること、という見出しに眉を寄せる。 「なんてよむんこれ」 「ぜんぎ」 「どういう意味?」 「うーん、セックス…というか、挿入前にお互いの気持ちを高め合うための行動かな?キスとか、身体を触りあったりとか。ムード作りみたいな感じ」 「へー。いちゃいちゃするってこと?」 「ん、まあそういうことだね」 「俺達得意じゃんいちゃいちゃ。いける」 「……んー…」 壮五が苦笑すると、男性の場合、という文字を追い環くん、とその箇所を指差す。 「男の人の身体は受け入れる為には出来てないから、するとしたら僕の下準備と、環くんの前戯が大事になってくるみたいだよ。いれるときに痛いかそうじゃないかはここで決まるって」 「………責任重大すぎ……」 「ある程度、僕ちゃんと準備はするから…そんなに心配しないで」 環のこういった臆病な部分は総じて壮五の身体の負担を思い過ぎるが為だった。 環自身、精神的にも肉体的にも痛いや苦しいには敏感で、なるべくならそういった苦痛からは避けて通りたい人間だ。壮五の様に無理をしてまで頑張ることや我慢してまで相手を尊重することは、凄いとは思えど余り褒められたものだとは思っていなかった。だから、壮五が痛いのも嫌だし苦しいのもだめ。 前戯は重大なミッションだと心に刻んだ。 「てか、そーちゃん女とセックスした時どうだった?」 「…………言い方…」 「彼女いたんだろ?」 ふと、環は壮五に兼ねてからずっと聞いてみたかったその質問を思い出した。バレンタインデーの取材記事だったか。昔付き合っていた彼女を匂わせる発言にその時は「壮五」に嫉妬したと思っていた。今思えば「彼女」に嫉妬したとはっきり分かった。壮五に特別扱いされていた女性の事を思うと、羨ましい半面嫉妬の黒が胸に広がる。 「…高校の時だから、ノーカンだよ。普通にデートしたりまあ、キスぐらいはしたけど」 「マジ?童貞?」 「一度だけ…あったけど、でも…よくわからないまましてしまったから、今思うとすごくなんかこう…申し訳ないなって、もっと優しくしてあげればよかったかなとか、考えてしまうよ」 「なんで。乱暴にしちゃった?」 壮五に限ってそれはないと思ったが、話し方からするとあまりいい思い出ではなさそうだった。環は密かにほっとしていた。一度だけということは唯一初めて身体を許した存在が壮五の中での良い感情との結び付きではないことが嬉しかった。自分のことだけ見ていて欲しいという独占欲の強い環にとって、過去の壮五の男女関係は一概に無視は出来ないことだった。 「気持ちよかった?」 「……んー…若かったから、…そういうことも上手く分からなかったな…」 そう言って寂しそうに笑った壮五に少し踏み込み過ぎたかな、と思い環はさりげなくふーんと言ってその話は終わらせることにした。知らない壮五の話。環は壮五のことをもっと知りたいと思えば思うほど、自分の居ない過去に嫉妬するのはとても虚しいものだということは、十分過ぎるほど分かっていた。 それでも、知らないよりは、知っていたいと思ってしまうのはもしかしたら苦しいのに頑張る気持ちと似ているのかな、とそんなことを思った。 環の横顔に多少憂いめいた陰が混じったのを見た壮五は、慌てて話を戻すことにした。 昔付き合っていた彼女のことなど、言われなければ思い出さない程には今の自分の世界には関係なくて過去の恋愛話で環の気が逸れてしまうのは全く遺憾だった。 ページをそそくさとめくると次は性感帯についてという見出しだった。 環があ、これは知ってる、と何かを思い出したようにして壮五の顔を見るとそーちゃん胸感じるぞ、とあっけらかんと言った。 「…え?」 「この前酔っ払った時胸舐めてあげたらきもちよすぎてだめって言ってた」 「っ………、…」 羞恥心に壮五の全身がカッと熱くなる。環に悪気は微塵もなく真剣にその該当箇所を眺めているのでどこにも感情をぶつけようがなくぐっと唇を噛んで堪える。壮五は二度と飲むまい、と思った。 次の瞬間、手をそっと握られてびくっと反応した。 「?環くん…?」 「指先感じやすいんだって。貸して」 言いながらさわさわと優しく両手で触れられると、本当にぞくぞくっと背中が痺れた。 環に触られているというだけで身体がざわざわして落ち着かないというのに、今から性感帯を触るよと言われながら触れられて感じないわけがなかった。環は壮五の様子に明らかな艶を感じてほんとだ、と心の中で感動するとそのままぱくっと人差し指を咥えた。先程よりも身体が大きく跳ねて壮五がきゅっと目を瞑ったのを見ながら、舌で指先をくすぐる。 「ぅ、…ッ」 壮五が声を洩らしたので満足すると口から指を出して壮五の唇にそのままキスをする。 舌も唇も、性感帯。今までは無意識に壮五の気持ちいいところを反応を見て探してきたが上顎や舌の裏側など、なるほど確かに気持ち良さそうにするところはこのページに載っている通りだ。 腰に手を添えるとそれにもびくっと反応する壮五はもしかしたら人より感度がいいのかもしれない、と環はドキドキした。 キスを続けながら環は本のページに目をやると、他にも太腿、脇、首筋、耳、と書いてある順番に触れて行くと全く例にもれず、壮五は身体を震わせた。 「…っ……」 「そーちゃん全部性感帯じゃん。どこ触ってもびくびくすんぞ」 「っ、環くんが、触るから…」 「ほんとえろい身体だなー」 「ち、がう……」 すぐ気持ちよくなってしまうのを壮五は自分でも分かっているようで、恥ずかしさから否定しながらも環の愛撫に抵抗はしなかった。 ほどなくして、環は壮五を自分の足の間に抱え後ろから抱きしめると片手で本を開きながら壮五にめくってーと言った。左肩に顎を乗せられて顔の近い環に壮五の興奮が高まる。 環にせがまれて壮五は次のページをめくる。「前立腺について」という見出しに、それだけで熱い息が漏れてしまった。 「これもネットで見た。女みたいに感じるようになるってやつな」 「………ん…」 「触ってほしい?」 「……う、ん……」 「んじゃ、ちゃんと準備出来たらやってあげる。ローションどれがいいか決めた?」 言いながら環の右手が壮五の薄い胸をゆっくりと撫で、服の上から突起をやわやわと刺激する。 直接的な快感ではないのに腰が深く痺れて息が苦しくなってしまう。背中に密着した環の心音がとくん、とくんと響いて自分の呼吸のペースが乱されていく。 「っ、たまきく、ちょっと待ってくれ…」 「なに?」 「この体勢苦しい、息うまくできなくなる」 「?なんでだろ。重い?」 「っ……手、とめてほし、…」 まさぐる手はそのままに、環はこの体勢から解放する気もない。苦しいぐらい気持ちが高まってしまっている壮五が我慢できずに胸を刺激する手を制止した。環は、はー、はー、と苦しそうな顔を捕まえてちゅうと押しつける様にして口を塞いでしまうと、強く抵抗した壮五が離してほしくて身をよじらせる。 「んっ、ん…んう、んッ」 「っ…ん……」 身体をこちらに向けて対面で肩を強く押しながら拒否してくる壮五を環はもう少し、もうちょっと、と拘束し続ける。壮五は脳への酸素が足りなくて軽くパニックになっていた。息がしたいのだけど胸や口から供給される快感でいっぱいいっぱいの身体が、蓄積されていく気持ちいいを自発的に逃がそうとする。 「っ、んん…!んふ、ぁっ、た…、んむっ」 急に腰が激しく震えて触ってもいないのに達した感覚がして反射的に目から大量に涙が出た。ビクっビクっといつまでも強い余韻が腰を跳ねさせて環が唇を離してもしばらく身体は無作為に痙攣した。 「あ、っ、う、うっ…いや、だ、んッ…」 「…イッてる?へーき?」 「っこわ、い、っきもち、たまきくんっ…」 「……そーちゃん」 壮五が怖いと言ったのを聞いて強く抱きしめてやると、環の腕の中で何度もビクっと身体が揺れた。目から涙が止まらないままなので心配になってそーちゃんと声をかけながら目尻をぺろぺろと舐め頭を優しく撫でてやると、過ぎる快感に翻弄されながら壮五はたまきくん、と零した。 壮五の身体は抑制に弱く性的に昂った状態で強制的に苦しいを続けられたことで蓄積された苦痛は防衛本能で自動的に快感へ逃がされた。つまりマゾヒズムの傾向にあるということだが、これは飽くまで肉体的な傾向であり精神的なものではない。 壮五は決して苦痛が好きなわけではないし、我慢という意味での痛みへの耐性は多少人よりはあれど痛いや苦しいは恐怖の対象だった。行き過ぎた快感は同時に苦痛でもあるので、身体は反応しても怖いという恐怖心は拭えなかった。 「……、……」 「…そーちゃん、へーき?…へん?」 「………」 しばらくすると壮五はようやく痙攣が治まり呼吸も多少楽になった。環のシャツの胸元にしがみついたまま腕の中で朦朧となる。身体の芯から強く痺れていてあまり上手く考えることが出来なかった。 嵐のような壮五のオーガズムの連続に、環も驚いておろおろしていたが一方で無理性に感じて触れなくても何度も達して泣いている壮五の姿は背徳感が強く強烈に官能的だった。さすがにこの状態の壮五に更に加圧してしまうのはだめだと分かったのでじわじわと甘く腰が痺れているが、何とか自分を押しこめる。 「………すげー感じてたけど、どしたん…」 「……わから、な…ぃ…」 「何回もイッてた…?」 「………たぶん……」 やっとまともに会話できたが環の胸から動く気配の無い壮五を抱きしめ続けるしかない環はこの生殺しの状態で約一時間程そのままでいることとなったのだった。 「………」 ぐちゃ、と濡れた下着を剥がすと、壮五は余韻でひくっと震えた自らがひどい有様で思わず頭を抱えた。 予想以上の壮絶な快感に撃沈した壮五を、環は懸命に長い間抱きしめて宥めてくれた。そのあとも心配そうに風呂へ促された壮五だったが、実はその欲望の原因にはしっかりと心辺りがあった。 環には悪いと思ったが、壮五はセックスの教示本として既に何冊もネットで購入しオフの日や楽屋でこっそりと読み耽っていた。そのうち分かりやすくまとまっているものを選んで環と共有しているわけだが、何も知らない環が純粋にその内容をどんどん受け入れていってくれるのは壮五にとって何よりの安心材料となった。 壮五としても受け入れるセックスは正直少し怖い。かと言って、したくないかと言われると全く全然寧ろしたかった。環に触れられる性的な気持ちよさは他人からの愛撫を知らない壮五の身体を瞬く間に不埒に熱くさせ愛のあるセックスがどんなにか満たされるものなのか、環よりもずっと好奇心の強い壮五は気になって気になって仕方がなかった。従って、本当は今すぐにでも環とセックスしてみたいのが壮五の本音である。 しかし、壮五が痛いのは嫌だと臆病になっている環に、仕方がないとはいえ正直に痛い反応をするのは絶対に避けたかった。 そこで壮五は、環がその気になったらいつでも受け入れるつもりで、挿入に関する内容もやり方もその本以上に徹底的に調べた。 調べただけでは飽き足らず、環に触ってもらった時にびっくりしないように痛みに慣れておこうと思い熟読して頭に入っているアナルの慣らし方を風呂に入る度に欠かさず行っていた。当然、男性同士のセックスで快感を得る為には殊重要な前立腺の位置や、ではそこをどうされれば気持ちいいかなどを自らの指で確かめているうちに。 「っ……」 自分で気持ちよくなれるまでになってしまっていたのだった。 念入りに解いた入口はローションを使えば指一本などすぐに入った。前を触りながらゆるやかに内壁をこすると、既にひくんと中で感じられる。徐々に勃起させると腹側にあるしこりが固く緊張してくるのでそこを強く押し込んでやると声が我慢できない程にじわっと気持ちが良かった。 はじめはもちろん特に何も感じられず違和感だけが続いていたのだが、快感を得るのは難しいと言われている前立腺の刺激だけに根気強く、はたまた頑固に毎日指で触る癖がついた。当然、身体が慣れてくるにつれ少しずつ状態が分かってくると「イイ」感覚がある日突然湧いた。 びくっと反応した身体に興奮しつつ、そっと刺激し続けると何とも言えない継続的な快感がさざなみのように押し寄せてたまらない気持ちになった。もう止まれないそのオーガズムへの誘いに前を触る余裕など微塵もない。ぐちゃぐちゃと指を夢中でかき回しながら、ついに弾けるというよりは押し出されるような絶頂を迎えた壮五は、声が漏れない様に左手で強く口を抑え悶絶した。 初めてのナカでイク感覚は意識が吹き飛びそうなほど強くて長い快感で、余韻も物凄く気持ちが良かった。 その感覚を一度知ってしまうと最早性的に興奮しただけで前立腺のある腹側の深い部分がじわっと気持ちよくなれてしまう。 先程も、環の胸の愛撫に始まり強引なキス。息苦しいのに気持ちよくされて壮五の気分も淫らに取り乱した。きゅん、とナカがうずいて切なくなったと思ったら、とてつもない熱量でタガが外れてしまった。 加えて、壮五は気が付いていないが身体の特徴として苦痛から快感を感じさせ安い傾向にある為、気持ちよくなると苦しくなるまでキスしてほしくて堪らないのだ。 射精も数度していたようだが圧倒的にナカで達している感覚が強くて、環の香りはするし、キスは気持ちいいし、離されても中々余韻は止んでくれずイキ狂いながら環に抱きしめられている心地よさといったらこれ以上ない幸福感だった。 しかし、こんなに気持ち良くなってしまうはずではなかったと壮五は項垂れた。 環にこれ程までに淫らな自分であることがばれてしまうのがもう怖い。快感に忠実で抗えないなんて、とんだ淫乱だ。環はいつでも壮五の身体のことを考えてくれているのが分かる為、それに応えたかったのだが完全にギアを間違えてしまったかもしれない。 「………」 それでも、環の大きな手の平で優しく愛撫される感覚は何にも代え難い快感だった。 その指で唇でそして昂りで、深い部分で繋がりたいという欲望は未だ満たされないままだ。どんどんエスカレートしていく壮五の気持ちは環とゆっくりと事を進めていきたい内心とは裏腹に、きつく溜まっていってしまうのだった。

EPISODE 07タマに立つ矢を放つソウ(前編)

翌朝、ベッドから身を起こすととてつもない頭痛と吐き気で壮五は悶絶した。分かる。心配はない。これは二日酔いだ。なんということだろうか。この苦しみに乗じまかり間違って酔っ払った勢いに処女を喪失など、 「……環くんどこ…」 勿論していなかった。腰周りは特に違和感はない。胃と喉には違和感しかない。目を開けているだけで頭痛が辛い。いつもはベッドで一緒に寝ているはずの環だったが今朝はその姿は無く、壮五はウっと唸りながら壁をつたってリビングへと向かった。 案の定、ソファに横たわっていた環は少し不機嫌そうな顔のまま眠っていてまるで昨晩の自らの失態がありありと覗い知れるというものだった。深いため息を零そうとして留まった。 眉間に皺が寄っているとは言え環はまだ寝ているので音をたてないようにして冷蔵庫まで辿り着きミネラルウォーターをほんの舐める程度口にする。それにしてもひどい反動だ。一体どのぐらい飲んだのだろう。こうなる前に誰でもいいから止めて欲しい。お願いはしているはずなのだけれど。 動くのも億劫だったがやっとソファにまで行き着くとボサボサの頭を抱えて環の足元にぐったり座り込んだ。 酔っ払った記憶は無いが、昨日は年末前のフリーオフをメンバーで合わせて久々に集まったことだけは確かだ。クリスマスの近くだし年末年始はとにかく特番で多忙なので気合いをいれてがんばりましょうという意味も込めどんちゃん騒ぎをした。したのだろうが、覚えてはいない。 大和が持ってきたいつもの日本酒を気をつけながらちびちび飲んでいたつもりだった。 「…おい…こんの、酔っ払い…まだ酒くせーぞ…」 うなだれていると、目を覚ましたらしい環がぼそっとそう言った。寝起きの不機嫌も相俟ってかいつもよりも凄まれている気がして壮五は慌てて顔を上げた。 「あ、あの…本当にごめん……僕またやばかった、かな…」 「やばいとかそういう問題じゃねーし。アンタがぜーーんぶ言ったんだから、おれは悪くないかんね」 「…はい…?」 「はいじゃねーーー!おれは悪くないかんね!そうですっていえ!」 「そ…そうです…」 「よし。マジでおれは悪くないから。ラビチャ見てみ」 「へ……」 「おれはわるくない」 床に落っこちていたスマートフォンを環が手探りで拾いメンバーとのグループチャットの画面を怒った様に突き付けてきた。嫌な予感しかしなくて人生至上最も凄まじい頭痛が壮五を襲う。 環の指が問答無用で再生ボタンをタップすると、あろうことか動画として醜態の全てがそこに記録されていた。 環が必死に「ヤマさんとんなって!こんなん後で見たらそーちゃんマジで死ぬかもよ!」と言っているにも関わらずカメラはその様子をじっと観察している。 環をソファに押し倒す格好であろうことか腹に馬乗りになり何故か泣きながら「たーくんが悪いんだ!」と喚いている、これは一体だれだろうか。自分だ。画面を見ながらウっとえずく。 「そーちゃん!だめだめ!何も言わねーほうがいいって!いい子超いいこだから!な!」 「ウウウウッいいこっならっ抱っこしてちゅーしてせっくすしよう!!!!」 「わーーーーーー!!!!!!待てちょっと、あの、皆マジで耳塞いで!あの、あそーーちゃん!わかったから…!今は黙れ!す…すっから、ね!?今はだめ…!」 「何でだめ?ねえ、だめなのなんで?そーちゃんがやだから?やっぱりおちんちんついてるから?おんなのこがいい?だったら…そーちゃん、おんなのこになりたいよう…」 「っ………は、…んなこと、一回も言った事ねーじゃん…なにそれ…!」 環が人目を憚らずにぐっと壮五の肩を掴んで正面から対峙する。対する壮五はぽろぽろと涙を零しながらせっくす…と呟いた。 「するよ。すっけど…」 「うそだもん。しないもん。たーくんのするはうそ。そーちゃん知ってるってよ!」 「……も゛ーーー!!!カメラ止めろっつーの!!!今いちだいじじゃん!面白がってんじゃねー!」 「逢坂さん、お水ですよ。これ飲んで少し落ち着いてください」 「…いおりんいいこいいこ…たーくんに、おーさかさん抱いてっていって?」 懇願された一織は一瞬きょとんとした顔になり、その顔のまま環に向いた。 「だそうです。たーくん、逢坂さんを抱いてあげたらどうです、ふ、」 「んんあうう笑ってんじゃねえよ!ざっけんなっつーーの!!!マジもうおれ帰る…そーちゃん連れてこいよ!ぜってーだぞ!そーちゃん!マジで明日あんたを慰めんのおれしかいないってことよーーく覚えとけよ!馬鹿!」 そう言って本当に玄関を出ていった環に、大和がぼそっと「まーだしてなかったの…」と呟いて動画は終わった。 既に胃から何かが喉まで出かかっているが必死に飲み下して壮五は震えた。アルコールが抜ける反動なのか精神的に死にそうになっているからなのかは分からないがどちらにしろ小刻みにぷるぷるとした。 「アンタが言ったんだかんね。おれは悪くないかんね」 「です………ね……」 辛うじて舌うちはしなかったが環の苛立ちがマックスなのがバシバシに伝わってくる。頭痛も吐き気も追い打ちをかけて壮五は涙が出てきそうだった。 「ごめん…本当にごめんな、さい…あの…あの…何でもさせて頂きます…」 「王様プリン100個」 「是非…分割で…」 ぷるぷるが止まらず激しい頭痛に目を閉じながらも正座して小指を差し出したのだが環はそれを無視して冷や汗の浮いた額にベチンとでこぴんをした。びっくりして飛び上がれば頭痛が更に増した。 とにかくとんでもないことをしでかしてしまったことに変わりはないし、楽にローションのことを相談した環を信頼がどうとか二人の問題がうんたらとしこたま文句を言ってしまっていたので壮五には余計に立つ背が無かった。あの時断酒を神に誓えば良かった。とは言え後悔は先に立たなかった。 それから午前いっぱいをかけて身体からアルコールを排出し終えた壮五はまだツンケンしている環の様子にたじろぎながらとりあえず風呂に入ることにした。ツンケンはしていたが水を持ってきてくれたり氷枕を用意してくれたりとなんだかんだ環は甲斐甲斐しく世話を妬いてくれた。そのお陰で吐き気はもう大分おさまったし、頭痛はまだちょっとあるがさっぱりしたら気分もまた違うだろう。 「………うう…」 シャワー中、目を瞑ると心臓がギュっとする。 抱っこしてちゅーしてせっくすしようはヤバイ。ヤバイ深層心理過ぎてどうにか消化しないとこれから先酔っ払う度にあれをするかもしれない。今回はたまたま仲間内での飲み会だったのでいいが(よくはない。まったくない)もしも万が一、接待だったら芸能人生の終止符だ。メッゾどころかアイドリッシュセブンの存続に関わり兼ねない。 ぞくっとした。笑い事じゃないので動きが止まってしまった。 とりあえずの対策としては禁酒だ。具合が悪いということにして接待の席でのアルコールはやめよう。環はまだ18歳なので飲めないし自分までも飲まないと言ったら接待にならないのかもしれないが、ここは一時的にでも我慢してもらう他ない。万里に相談しよう。 そして根本的解決としてはどうだ。まさかあれほどまでに自分の中で環とのセックスが未だに出来ていないことに対してストレスがたまっているとは思っていなかった。 確かに毎日チャンスは覗っている。いつしようと言ってくれるか分からないのでいつだって大丈夫な気持ちでいっぱいだ。気持ちだけでなく身体だってそう。例えば楽屋でも、例えばロケ先のホテルでも、例えば今だっていい。セックスをしてくれるというのならばどんなシチュエーションでも歓迎する。ベッドの上でお互いの初めてを甘く切なく消化しなくたって全然平気だ。 ここまで思っているというのに! 「……めちゃくちゃフラストレーション抱えてるじゃないか……!」 自分の思考がどんどんエスカレートしてきて壮五は思わず頭を抱えてしまった。 溜まっている。まごうことなき、環とセックスが出来ていないこの状況に不満も不安もエベレスト級の高度にまで達している。 じゃあ何でしてくれないかという事にやっとフォーカスした。これは自分自身でも余り真剣に考えると死にたくなる内容かと思うので壮五は慎重に考えることにしていた。 動画での自分の言い分からすると「おちんちんついてるから?」これがきっと心理だ。多分だ。本当に思っているかは別としておんなのこになりたいというのは恐らくもし自分が女性だったならばとっくに抱かれていてもおかしくないだろうという憶測からの言葉だ。 メンバーのあの反応を見る限り、自分達がそういう関係であることを感じ取っていると見えた。環が必死に隠してくれようとしているのを見たので彼が言いふらしているわけではない事は明らかだったし、ということは普段からそういった雰囲気が滲み出ているということだろうか? それはそれで大問題だった。以前の様に四六時中一緒にいるわけではないメンバーからそう見えているということはもしや番組スタッフやファンなど第三者から見てもそう感じることがあるということか。 なんというかそれは…由々しき事態なのではないだろうか。 もしも公になってしまったら正しく大スキャンダルだ。 シャワーの前に座りながら茫然としていると、急に浴室のドアが開いて環が顔をのぞかせた。 「…そーちゃん!生きてる!?」 「え…っええっ」 「は!?どんだけシャワーしてんの!?もう上がれよ!」 気がつくとどうやら一時間以上シャワーを出しっぱなしにして考え込んでいたようだ。慌ててシャンプーに手をかけすぐあがるね、と言うと、環は訝しげな顔でドアを閉めたのだった。 それが12月の話だ。 年末年始は特番で大層忙しい日々が続いた。身体の疲労も相俟ってかいくら肌を寄せ合ってもいざ今から身体を交えるぞという雰囲気にはどうしてもならなかった。 毎年のパターンとしてはバレンタインが近づくにつれ雑誌の撮影がピークを迎えればバラエティでもそういった話題ばかりが続いたが二人に浮足立っている余裕は皆無だった。毎日の体調に気を遣いながらも朦朧と答える取材のラッシュであっという間に2月が通り過ぎて行ってしまった。 そんな多忙に身を置きつつも正直なところ壮五は攻めに攻めていた。 あんな姿をメンバー(どころかマネージャー達にも)におっぴろげた事実は逆立ちしたって変えられない。ならばいっそ開き直ってとことん性的な雰囲気に流れてみるのはどうだ。根本的解決に繋がるかもしれない。つまり、さくっとセックスへと踏み込めればいいのだ。 手始めに、それまでは余程甘い雰囲気にならないと一緒に入らなかった風呂だが環の背中を流したいという理由で壮五は強引に風呂場へ押しかけた。 「環くん、一緒に入ってもいいですか?」 「はえ……え、いーけど…せ、せまくね?」 「そうかな?」 「…つかもう身体洗ったし…」 そうはいいつつ二人の雰囲気は決して悪くはなく、湯船に向き合って浸かるとあっては壮五的にはとても理想のシチュエーションだった。このままキスとか、してみたい。茹った顔で環を見詰める。 視線に気が付いて不思議そうにした環だったがやがて笑みを浮かべながらタオルを空気で膨らませてくらげ!などと遊び始めた。 「…なんか、寮にいる頃みてーな。落ち着く~」 「お…おちつくのか……」 「ん!狭いけど一緒に入んのたのしーね」 無邪気で可愛らしいし嬉しそうで何よりだ。壮五は曖昧に頷いた。 結局それからほぼ毎日共にするようになった風呂での時間だが、壮五の期待する性的ないちゃいちゃを満たしたかと言われると否である。 ただ、近い距離でお互い裸で温かい湯気の中での和やかな雰囲気はとても独特でありどのシチュエーションともかえがたい心地良さがあったのは事実だ。はじめは戸惑い気味だった環も、次第に「風呂には一緒に入るもの」と意識したらしく風呂の時間を合わせてくれるようになっていった。 ゴールはそこではないのは百も承知だったが、それはそれで壮五にとって嬉しい変化であった。 しかしそこで当然諦めず果敢に挑戦を続ける壮五のまた或る時は例の教示本を武器に、コンドームやローションの話題を積極的に振ってみた。環が楽に相談したと言った時から結局どれにするかを決められていなかったのでスマートフォンを見ながらあれこれ甘く意見を交わそうとした。 「これは?」 「それはさっきのローションとは余り相性が良くないみたいだ。素材のせいかな?」 「ほー。じゃ、これは?」 「それは安過ぎない?なんだか不安かもしれない」 「…これ?」 「着け心地が星3つだよ。評価的にあまり良くないものはどうなのかな」 「じゃーーどれがいいんだっつーの!!!」 「毎日使うかもしれないんだから!ちゃんと選ぶに越した事はないよ!」 はじめはいい感じだったのに決めの段階に入ると壮五の理論癖がつい火を吹いてしまった。はっとした時にはもう環は不貞腐れてそーちゃんのスキなのにすりゃーいーじゃんしか言わなくなってしまっていた。 猛省はしたが自分達が使う物、増してや自分だけならまだしも環も使用するなら尚更、妥協するのは嫌だった。只でさえデリケートな部分だしぞんざいにして肌が被れたりトラブルになってしまうよりは良く調べて納得いくものを用意したい。無論、環の為にも、だ。 壮五はこうなったらと自らが吟味を重ねて選んだコンドームとローションをネットで注文し、現物が届いたので見えるところに置いて主張する。 一人取材の仕事を終え、帰宅した環に即座に駆け寄り笑いかける。 「おかえり環くんっ」 「たっだいま~今日の飯なに~」 環は機嫌よさそうな壮五の出迎えが余程嬉しかったのか、テンション高めに抱きしめてくれた。 それに気を良くした壮五がいざそわそわと玄関に置いた例の箱を指差す。 「中華丼!ねえこれ、届いてるよ!あけてみない?」 「んーー。中華丼ヤッタ!腹減った~飯~~」 「……あ…スープもあるから今あっためるねー…」 「あんがと!着替えてくるっ」 箱と共に寂しく玄関に取り残された壮五はその後トイレで数分考えた。明らかに話題を避けた環の心理を深く。海よりも深く。 「……はあ……」 やはり気まずいのだろうか。男同士というのがいけない?今までキスも触りっこも抵抗がなかった様に思えていたのに。けれど、今更改めて自分とセックスしようと正面切って言えるほど正直自信も度胸もなかった。正確に言えば自信も度胸も失われてしまった。環は自分とセックスをしたくないんだという酔っ払いの見解があながち間違っていなかったのだとしたら。 夕飯を終え、隣に座ってテレビを見ている環の手にさりげなく触ってみる。忙しいことはもちろん忙しいのだけれど、もう、こういう触れ合いも長くしてくれていない気がした。 「…そーちゃん」 呼ばれてふっと顔を上げると、環の唇が頬に触れた。 肩を抱き寄せられてまた二、三度、ちゅ、ちゅ、とキスされて思わず側に寄ってしまう。 「最近忙しーな。疲れてない?」 「…っ…環くんは…」 「おれはへーきじゃん。見て分かんない?…触ってい?」 穏やかな吐息が頬をすり抜けて耳にかかり息が出来ないぐらい心臓が高鳴った。腹の奥がじわっと期待に燃え頭の中が一瞬でごった返す。 「あ、……の…」 「ん?ヤ?」 「嫌なわけない…嬉しい…でも、たまき、くん……」 「何」 近い所で目と目がぴったり合っていてどこにも逃げられない快感が壮五の呂律を奪っていく。言葉を忘れてしまったかのように焦点の合わない目で黙った壮五の唇を環はゆっくりと塞いだ。 歯列をなぞられる感覚、ざりざりと上顎を舌で丁寧に撫でられ熱く熟れた壮五の口内はどこまでも敏感になってしまう。眩暈を感じて目を閉じると同時に、股の間に伸びた環の手がびんびんに期待している壮五の昂りをなぞった。 「んっ…!ん、あま…あのあ…おふ、ろ…」 「しねーよ…エッチはまだ駄目…。疲れてっからんな毎日ムラムラすんだって。きもちくしてやっから、大人しくしてろ」 「っ………え、えっ……?」 「触んね」 何が何だか分からないままあっという間にズボンを下着ごと腿まで下げられ目線を落とすと、閉じこもっていた熱が放出され外気に触れた先走りがてらてらと光った。浅ましい光景にぞく、と震える。 壮五はそこにくぎ付けになったまま目が離せずに環が先端に触れてくれるまでを本当に黙って見入る。環の人差し指がカウパー液をはしたなく零し続けるそこについに、触れた。 「あッ…っ…あ、はあ、は、あ……あ、ちょっと…待って…」 「待ってって?痛くない?届いたローション使ってみる?」 「だめ、ああ、あ…やめたらダメ…どうしよ、う、へんになりそ、…き……きもち…い…」 「すっげー見るじゃん。こっちも見ろ。ちゅーしよ」 腰を抱いていた環の右手が顔を掴んできて無理矢理横を向かされた。かち合う伏し目に射抜かれて身体が痺れる。わざと音をたてて唇に吸いつかれ、その行為自体にひどく興奮してしまう。 いつの間にか環の手に全体を扱かれていて壮五の腰が生き物の様に跳ねる。唇を離して欲しく無くて必死に胸元に縋りつく壮五には最早何かを考えられる余裕など一切与えられなかった。 環がくれる刺激のままに喘ぎ悶えるだけの時間にひたすら没頭する。 「…はあ…そーちゃん、きもちい?…いく?」 「うっ…はあ、あ…ん…うんっ……う、んんぅ……」 「…そーちゃん…好き……好き…」 快感に溺死してしまいそうだった。息が本当につけなくなって壊れた様に喘ぐ最中だが白濁が零れた感覚は一切無かった。腰から下、太腿までもが熱く痺れてがくがくと震える。腹の奥で渦巻く強烈な快楽で零さずとももう一度達していた。 「はー……あ…たまきく…」 「…そーちゃん…また空イキいっぱいしそう?あれつらそうだけどどーなん…」 「……?空…」 「精子出さないでびくびくすんじゃん」 唇に触れながら環がものを喋るので達したばかりの敏感な壮五の身体ではまともな思考が出来ない。ぐにゃぐにゃになった四肢を弄ぶ様に後ろから抱きかかえられされるがままにそこにおさまると、環の手が下腹部を優しく撫でてくる。愛おしさにそっと上から手を重ねれば互いの脈がどくんどくんと共鳴する。耳元で環の熱い吐息が漏れた。 「まだこん中、おれ触ってないのに」 「……は、…さ、わって…よ…」 「だから、まだダメ。一人で勝手にえろくなんじゃねーってこと!」 環の興奮が密着している腰の辺りに熱く伝わる。壮五は身を捩ってソファから降りると足の間から割り込んで環の腰にぎゅっと抱きついた。シャツをめくり腹に顔をすりつける。 「っ…触るだけでいーから…」 言いつつ環がびく、と反応したのが嬉しくてたまらない。そのままベルトを外しながら臍のくぼみに舌を這わせしつこく舐め取るとくすぐったいと顔を赤くした環に制止され、はやく、今すぐに昂りに口をつけたくて仕方がなくなってしまう。 ジッパーを下げ下着から熱い猛りを出してやるとしっかりと固くなっていることにますます嬉しくなってしまった。 ちゃんと興奮してくれている。性的な対象として見てくれている。 この熱い衝動が欲しくて欲しくて今にも気が狂いそうなのだ。壮五は目にハートを浮かべながら自らの唾液を環のペニスがべたべたになるまで纏わせて口いっぱいに頬張った。 「…ん……そー、ちゃん…」 「へっふふ…ひよお……」 「……だか、…まだだめ…」 「んぶ…っなんで……!」 「なんでもっ……!!!」 声を荒げた環に急に脇の下から抱え上げられ膝の上にのせられて困惑していると問答無用で乱暴に唇を塞がれた。密着した互いの昂りが腹の間で触れ合い微かに水音が響く。同時に、 「んっ……!」 環の熱い手が腹の間に伸びて二つの欲をぎゅっと一緒に掴んだ。敏感に跳ねた壮五が環を見た瞬間、快楽を急く様に強く扱かれ一気にオーガズムへと脳が満ちる。パニックになりながら壮五は背中を弓なりにしならせ身悶えた。 「っん………ん…」 「あ、んむっ…んん、はっ!…んんんっ…んっふあ、だめっだめ…いっちゃ…あ…」 すぐにビクンと壮五が弾けるも環の手は止まらなかった。オーガズム直後の許容し難い苦しい快感を必死になって首を振り拒絶する。壮五の全身がぶるぶると震えた。 「やああ、待ってだめ…!だめやだっ…!あ、もういっ、て、る、あっ…」 「っ……そーちゃんっ…」 「んう……!」 環のオーガズムと同時に力いっぱい抱きしめられた壮五はよもや限界値の刺激の余韻でわけがわからなくなった。漂う意識の狭間でゆっくりと唇を啄ばまれたのが分かる。呼吸をしているのか喘いでいるのか目の前が真っ白になっていて環の腕に触れている感触だけが壮五の頼りだった。 やがて荒い息が落ち着けばどっと身体が鈍く重くなる。壮五は動くのも億劫なほどにだるくなった身体を環に預けて目を閉じた。 耳元で微かに環の声が聞こえたが、言葉の意味までは分からなかった。 大分穏やかな気温が続き、桜の季節が盛りを迎えようとする某日。 泊まりがけでの地方ロケが決まった環を早朝に見送った壮五は待ちに待った終日オフだった。 掃除も洗濯も今日は後回し。ブルーライトを軽減させる眼鏡をかけてパソコンに向かい真剣な顔をする。 画面の中ではまっさらな白紙のデータに文字を打ちこむ為のカーソルが点滅している。 「……まずは問題点かな…」 カチャカチャと軽い音を立てて打鍵していく壮五の思うところはというと、連日続いた接待の席でアルコールを一滴も飲まなかったことで起こった弊害や、未だに残る恥辱動画の削除をメンバーに堂々と申請出来ないことや、まあつまり環とセックスが出来ない理由についてを改めて整理しようというところだった。 元はと言えば確かに壮五が切り出したことだった。お付き合いをするに当たってプラトニックな関係でいるのも勿論悪いことではないが、日頃の触れ合いを考えると環が性的な行為をすることについては嫌ではないと判断出来た。壮五は当然、嫌ではない。寧ろ好奇心で言えばしてみたいと思っている。 なのでセックスの教示本を購入し環と一緒に共有することで十分にこの気持ちは伝わると思っていた。 現に伝わってはいるはずだった。けれど、環の言い方を見ると「まだだめ」という表現をしている。 この、まだだめというのは「まだ壮五の準備が整っていないから駄目」なのか「まだ環の何らかの水準が満たされていないから駄目」なのか分からない。 壮五が八割方こちらだと思って疑わない可能性として、環が壮五自身の身体の心配をしてまだだめだと言っているのならば、その誤解を解く為のプレゼンが必要だ。準備はいつでも万端だということを証明しなければいけない。 環に資料はあまり効果的ではないにしろ、まずは難しくならないように簡単に分かりやすくまとめることにする。 毎日身体を解す習慣はもうある。指以外を入れてみたことは無いが、基準である三本はクリアしている。環が一番こだわりそうな"セックスをする上での快感"を上手く感じる為に前立腺開発もそこそこ進んでいる。自慰という形ではあるけれど、アナルでの気持ちよさについて、壮五としては十分感じられる身体になっている。 「あとは使ってくれるだけなんだけどな…」 困った様にため息をついて壮五はコーヒーを啜った。 壮五の準備は完全に整っているのだけれど、仮に環に問題があるとしたら何が挙げられるだろうか。 男同士だからというのは先日潰れたと言えるし、身体的な例えば病気や障害も特に無さそうだ。もしかしたら経験が無いことを気に病んでいるのだろうか。 そういえば環が童貞だということにはいささか驚いた。幼稚なところは確かにあったが、高校生とは思えない身体付きで事実として抱かれたい男としてランクインする程色気もある。多少口が悪いし気分屋なところもあるけれど根が優しいのでいい意味でギャップを感じる人も少なくないだろう。そして、そんなところに惹かれる女性が全くいないはずが無いのだから。 けれど、環が自分以外とセックスの経験が無いというのは正直なところとてもとても、凄く嬉しいと壮五は感じざるを得なかった。だが独占していたいとは間違っても思わないようにする。 まだ18歳である環の可能性は未知で無限大。それは自分にだって言える。当時成人していた壮五ですらアイドリッシュセブンになって初めて経験することはいくつもあった。それは業界人になったからという意味でなく人生における全ての出来事においてだ。 環が側にいてくれるのはメッゾがあってアイドリッシュセブンがあったから。環が壮五を好きになってくれたのも同じだと思っている。 「………」 壮五はマグカップを机に置く。 いつの間にか仄暗い欲望が渦を巻く。いつか離れてしまう日が必ず来る。絶対に来る。 環の幸せを願えば願うほど、そのリミットはきっとすぐそこにある。 偶然同じ芸能事務所にスカウトされ、偶然同じアイドルグループに重なり、偶然ユニットを組む。同じ時間をいくつも過ごし気付けば片時も離れない関係が築かれ、そう、たまたま、恋人同士という関係に落ちてしまったのだ。 偶然の産物である恋心だって、抱いたら成長する。まるで半身ずつで天使と悪魔、ジキルとハイド。右手で彼を撫でる時、情欲ではない慈愛が満ちる。だが左手が触れればそれは別。暴力的な欲望の塊。何が何でも環が欲しい。他の何にも触れさせたくない。欲に溺れて両手で奪い取るのが壮五の本性だったならば、もっと楽に生きられただろうに。 環にだからこそ抱くその醜悪な欲は環でないと満たせない。他の何にも代えられない。 壮五が本当に恐れているのは自分が環から離れた時のことだ。 壮五は知っている。一人の広さを知っているから、二人の狭さに依存する。自由になれると言われても、もう今更一人では何もできない。満足するほどの生きた心地をいつの間にか一人では供給出来なくなっているのだ。例え恋人同士でなくとも環が隣にいなくなってしまうことは、壮五に見えている世界の色と温度と匂いを失うのと最早変わりない。 愛でいろづいた色彩の豊かさは恋で気付いた世界の陰影と相俟って今まで見ていた景色の何百倍にも鮮烈になってしまった。 いつかは離れる為に。そのことを思うと、これ以上好きになってしまったら、これ以上世界の色を増やしてしまったら、離れた自分は盲目になって一生環がくれた色彩を思い出しながら孤独に死んでいくしかなくなってしまう。怖かった。もしや今ならまだ、間に合うのだろうか。 ぼくはまだ、一人で立って歩けるだろうか。 環が成長し周りに目を向ければこの異常な関係にきっと疑問を持つ。それでいい。それだって構わない。今何も知らない無垢な環から奪ってしまうことで彼の生涯ひとつしかない初めてがこの手に入るなら、将来的にどれほど環から離れてしまおうともそれで満足したいのだ。今しか許されない環との身体の関係をとにかく早く証明したい。途切れる前に、一刻も早く。 壮五はあわよくばそんなものででも、例えばそれが一方的な思いだったのだとしても、環の中にずっと残っていたいと強く強く思ってしまうのだった。 (タマに立つ矢を放つソウ-前編-)

EPISODE 08タマに立つ矢を放つソウ(後編)

某日、メッゾでの音楽番組の収録後、それぞれソロの撮影現場があったのでお互いの帰宅時間はバラバラになってしまった。環が帰ったのは19時を少し過ぎたところだったが壮五の方が先に終わって帰宅していたらしい。玄関の鍵はかかっていなかった。 撮影は慌ただしく、衣装替えも多かったので環は正直くたくただった。腹も減っていたがとりあえず、壮五に甘えたい気分だった。ただいま、と戸締りをしながらその姿を探すと、彼はリビングのテーブルの側にきちんと正座してじっとこちらを見詰めていた。 妙に真剣な顔をしているので、環は肩からリュックを降ろしとりあえずその近くに座ってみる。 「何してんの…?」 「おかえり、環くん。あの、ちょっと聞いてほしいんだけれど」 「…へ…」 「すぐ済む、と思う。多分」 そう言って壮五は尚も真剣な表情で数枚にまとめられたA4のコピー用紙を渡してきた。デジャブ。環は即座に眉根を寄せた。資料に頼るとはかなりこじらせている証拠である。そう思った環は資料は一旦受け取らずに努めて冷静な声で窘める。 「待って。資料いらないから、言いたいことまず言ってみ」 対する壮五はキッとこちらを強く見てぐいぐいと資料を押しつけてくる。 「だめだ。順を追って説明するから聞いてくれ」 「いやいや…」 「君は見るだけだよ!僕から説明もするし資料があった方が理解してもらえると思うから!」 「余計こんがらがるじゃん…言いたいことははじめに言っとけって…」 問答無用で押しつけられた資料を渋々受け取り一応目を落とした題目は「環くんが僕とセックスすることの必要性」とありあまりのトンチキぶりにぶんぶんと首を振った。 「ギア!ギアどこやった!するって言ってんじゃん!何で信用してくんねーの!変な資料つくんな!」 「ギアは持ってないよ!信用するも何も、理由を教えてくれないのに何を信じたらいいんだ…!」 「だから!まだ待ってって言ってんの!痛くしたり、その、なんか、とにかくまだやなんだよ!」 「痛くしたりって今言った?言ったよね。だからちょっとこの資料みて。大丈夫、絶対大丈夫だって書いてあるから、ね」 ついに肩をがっしと掴まれて必死の形相で資料をめくられ怖々と壮五の指のある箇所に目をやる。薄目に見てもとんでもないことが書いてありそうで知らず堪えるような表情になってしまう。 「いいですか。はじめの方ちょっと飛ばしてしまうんだけれど、環くんの心理をここに予想してみたんだ。どうして躊躇してしまうかってところなんだけど」 「いい、いい…ナニソレ勝手に予想すんな…」 「僕の考えてることと君が思ってることが合ってるかどうか確認してくれるかな」 「何でだよ!するわけないじゃん…!もーいいから…する、絶対するんだけど、まだちょっと自信ないって言ってんの…わざわざ言わせんなよ…」 「こっちか…じゃあ見て、これ。僕の身体は準備が出来てるってことを一応説明してるんだけど」 促されて嫌々目に入れるその項目が、とんでもない内容のカミングアウトだと双方が気付くまでもう間も無くである。 「僕は、君がいつしてくれてもいいように毎日準備はしてるからね。安心してください」 「…まいにち?」 「そう。たくさん触ってるから、環くんの手を煩わせることも多分ないし、指の三本ぐらい普通にはいるほどには慣らしているからね。お腹の中もちゃんと洗ってるから、衛生的にもクリアしてると思います」 「たく…え…?」 「自信がないってことだけど、環くんが初めてなのは分かってるから。まあ、僕も受け入れる側は初めてだけど、ちゃんと調べた正しい手順ですればきっと大丈夫だから。ね!全然怖くないだろ!?」 「………」 何を言っているかは恐らく本人が一番全く分かっていないのだと思う。それでも羞恥心の欠片もなく堂々と言い切った壮五を環は真顔で見詰める。 だが、要約、毎日指を三本入れてセックスの準備をしているという壮五の告白は環のどうしても上がらなかった重たい腰を引っ張り上げるには十分な衝撃だった。頭を抱えながら唸る環にはこうまでされてまだ待ってとはいくらなんでも言えなかった。 (タマに立つ矢を放つソウ-後篇-) 「…毎日毎日、けついじっておれがしよって言うの待ってたってことでいーのね」 急に思いつめた顔で真正面から環にそう言われ、壮五はきょとんと見つめ返した。言葉を選ばない直接的な表現を頭の中で想像し、次の瞬間首までカアと熱く染まるのが分かった。 やっと自分がどれほどアホなことを資料にまでまとめて環に懇願しているのかを理解した。顔から火が出るほど恥ずかしくなって咄嗟に俯く。 その様子に環も余計に恥ずかしくなってふい、と顔をそらした。 「今更照れんのかよ……言っとくけど、マジでドーテーだから、ほんとのほんとにえろいことすんの、そーちゃんが初めてなんだかんな……」 ぼそぼそとそう零した環を盗み見て、壮五は居直りながらぎゅっと拳を握った。環が初めてセックスをする相手が自分だということに突如妙なプレッシャーを感じた。 そうだ、自分は環より三つも年上だし、たった一度とは言え女性経験が無いことも無いし、きちんとリードしなくてはいけないのかもしれない。 「っそ、うだよ…ね…あの…不備が…ないように精一杯頑張りますので…環くんもその…前向きに…」 「………する?」 「へ…」 「いま。する?」 そう言った環の手の平がうろたえる壮五の頬を包む。そのままゆっくりと唇に触れられた壮五は突然今までびくともしなかった石に矢が立ち心底動揺してしまった。 勿論、その気にさせる為に作った資料だ。これを読んだからには安心して自分の身体を触ってくれという意味だ。だから準備は整っている。いつもと同じように腸内を洗いシャワーを浴びるついでに前立腺を刺激して自慰をし終えている即ち、挿入の準備は今日も今日とて例外なく、万端なのだ。 「……ぁ……」 だがまさか、よもや今。 「あの………お、ふ……ろ…?」 「入ってなかったん、じゃはいろ」 あまりの出来事に咄嗟に避けたにしては軽率な嘘を吐いてしまった。こんな気持ちのまま一緒に風呂になど入れない。多分途中で我慢出来なくなる。なるのに。腕を掴まれ抱きこまれると、どういう理屈か拒絶することが出来なくて詰まった息をもらすばかりになってしまう。 どうすることもできずにそのまましがみついて黙っていると、環がふっと笑ったのが分かった。 「………どうしたの…」 「うそつき。めっちゃいー匂いすんよ。風呂入ってんじゃん。キンチョーしてんの?」 「えっ…」 「うける。…なんかちょっと落ち着いた。待ってて」 離れた環が忙しなく浴室に向かったのを壮五はぽつんと突っ立ったまま見送った。 どかどかと心臓が高鳴っている。その苦しさにぎゅっと目を瞑ってその場にしゃがみこんだ壮五は胃の辺りがちりっと痛むほど急激に緊張してきた。深呼吸を繰り返してからやっと立ち上がると、新しく注文したローションとコンドームの箱を持ち寝室に向かった。 ローションの封を切る。コンドームの包みをひとつ千切って箱の上に置く。シーツを張り直し余計な布団を畳んでベッドの下に置いた。ルームランプの明かりを一番弱く調節したところで、へたりとベッドの真ん中に座り込んだ。 緊張する。落ち着かない。服を脱いで待ってるのは何だか違うだろうしあとは何かしておくべきことはあるだろうか。ドキドキする。そわそわする。すぐ出来る様に、ローションを馴染ませておいたりするものだろうか、女性とは違うし、勝手に潤ったりしないし、万が一痛かったとき我慢して勘付かれるよりは、先に対策しておいたほうがいいのか、と、とにかく気持ちが落ち着かない。壮五はかぶりを振ってそうだ水でも飲もうとベッドから降りた。 寝室のドアに手をかけた瞬間、まるで自動ドアのようにすらっとドアが開いた。もちろん環だ。びっくりして思わず身構える壮五に環は声を出して笑った。 「びっくりしすぎじゃね…?つーか、自分でしたいって散々言ってたくせにめっちゃ緊張すんのやめろよな。うつんじゃん。どこいくん」 「あ、ごめ、……水を…飲みに行こうかと…」 「んじゃ、おれのも~。うわ、すげーベッドきれいにしてんじゃん」 壮五は知らず勇み足になりながらミネラルウォーターを二つ冷蔵庫から取り出して寝室の扉をとうとう、閉めた。 セミダブルなのでそれほど広くはないベッドの上で、環がすっとこちらに手を伸ばす。おずおすとペットボトルを差し出すが「そーじゃねーだろ」と呆れた声で腕を引かれ抱きしめられる。 「…え…すんだよね…?」 「…し、…たい…」 一瞬の静寂ののち自然と唇が重なると、そこからはどんなマニュアルだって無いに等しい。キスして触るまでなら幾度もしていて慣れっこだ。お互いの愛おしいが指先、唇、吐息から視線にまで溢れかえる。緊張している場合ではまるでない。初めてといいつつ環の手際は実に良いのだ。シャツのボタンを次々に外されて、スウェットの紐もほどかれあっという間に身ぐるみを剥がされていく。壮五の息が詰まる。衣服を脱がされただけなのにめちゃくちゃに興奮して頭がぼんやりとしてしまう。 「そーちゃん。おれのも」 ちゅ、と壮五の額にキスをした環は自らハーフパンツの紐をほどいて緩めると、壮五の右手を腰に回させ左手はTシャツの裾の中に入れてやる。 壮五はもううっとりと環を見上げたままにTシャツの中で腹筋を撫でると、腰に引っかかっていたハーフパンツを下げる。まだ形をはっきりとは成していない部分を下着越しに手でなぞった。 ぞくっと環が身震いしたのを見て安心した壮五は心音を確かめるように耳を胸にくつけ、ドキドキしてる、環くん、と呟いた。 「えっち………アンタのせーじゃん…」 環は壮五の髪を優しく撫でてからTシャツを脱ぎすて下着一枚の壮五に正面から向き合った。 「…慣らしてるとこ見たい…してみて」 「あ、…もう……してるからだいじょ、ぶだと…」 「指いれたの?ちゃんとしないと痛いんだろ。おれもしたい」 言いつつずる、と下着を剥がされれば風呂で馴染ませていたローションが外気に触れて冷たくなる。 暗がりにつやつやと入口が光るのを目の当たりにし、本当に毎日いじっていたのだという壮五の浅ましい欲望に環は激しく欲情してしまった。 そこから目が離せないままローションのボトルを取り壮五に渡す。壮五はぼやっとした虚ろな目のままボトルのキャップを緩慢に開けその手に粘性の強い液体を躊躇なくひりだした。両手になじませると軽く広げてねば、と強く糸が引くのを確かめる。 目の前で環が見ているというのに大胆に足を広げて前から入口をなぞると、ふ、と壮五の喉から熱い息が漏れた。 「……」 しばらく周囲を丁寧に撫でていたが、ある瞬間につぷっと一本指が中に押し込まれあっという間に根元まで埋まったのを見て、環はごく、と息を飲む。簡単に入った様に見えた。はあ、と壮五が再び息を吐く。 「…痛くねえの。めっちゃすぐ入ったけど」 「ん……もう、痛くない、一本だもん」 「……つか…」 えろ、と零した環は我慢出来ずにその白い太腿にそっと触れより大きく開かせるが、壮五はさして抵抗もしない。指入れてみてもいい?と聞くと、戸惑いながらも壮五が頷いた。 早速ローションを手に絡めて粘り気を確かめるが、初めての感触にどうも不安でおぼつかない。 「…そーちゃん、こんなんでいいの?もっと?」 十分な潤いであるかを確かめて欲しくて白くて細い指先にぬめった手で触ると、壮五はびくっと過剰に反応した。環は咄嗟に指先は性感帯というのを思い出す。そのままぬるぬるの指同士を緩く絡め壮五が小さく頷く。 「っ…へいき、…そのくらいで…」 「……いれんね…?痛かったら絶対言えよ…」 緊張でどくんどくんと高鳴る環の指先がついにその入り口に触れた瞬間、壮五がぁ、と短く喘ぎぴくっと震える。一瞬躊躇したもののいくね、と再びゆっくりと進んだ環の指の刺激に、壮五の腰が強く捩れた。 「い、っだめ、こわいっ」 「…いてえ…?」 「きもち、いっ…」 どんどん突き進む環の中指が根元まで埋まり動く気配が止むと、壮五が自ら両手で広げる様にして抑え込んでいた足から力が抜けた。環は依然入口と壮五の顔を交互に見ながら纏わりつく性的な匂い音気配感触全てに翻弄されている。触れている肌同士の熱が静かに興奮を煽る。 「……これ、動かしてみて平気?」 「…ぅ……」 「ゆっくりする」 そう言って中で優しく蠢く環の指の感触で、壮五は得体の知れない気持ちが胸にせり上がった。まだ指一本なのにとても気持ちが良くて自らの触れてほしいところに当てようと腰が揺れている。 環はずっと早鐘の様になっている心臓を窘めながら、痛くしたらだめだ、と何度も壮五の顔色を窺いながら指でじわじわと中を確かめる。 やがて動かし方に慣れてくると内側の感触が指に直に伝わってくる。内壁は狭い。熱い。ただ、キツすぎて不安になる程ではなかった。一旦指を引き抜いてローションを再び指に纏わせる。 大丈夫かどうかはもう聞かずに指を二本に増やすと先程よりも慎重に、ゆっくりと奥まで入れた。 「っん…」 「…二本でも平気っぽい?ちょっと強くしてもいい?」 言いながら本で見た前立腺の位置はどこだろうかと指でまさぐると、壮五がそれを察してぎゅっと内壁を締めてくる。怖々と周辺をゆっくりと探るがどこという明確な部分になかなか行きつかない。 「このへん?」 「……も、と…手前…」 「手前。思ったより浅いとこにあんのな」 環の指が意図せず固く膨れたその場所を軽く引っ掻いた次の瞬間、 「…ッ、やッ……!」 と強く拒絶するように壮五の足が閉じた。びっくりしてそこで動きを止めた環がえ?と固まると、壮五は痺れる快感に悶絶して痙攣している。ここか、と環は息を詰めた。 強烈な快感に取り乱してしまった壮五は咄嗟に環の腕を強く掴み身を丸める。 「そこ…そこだから、強すぎるのいやだ…」 「急に気持ちよかった?ちょっとゆるくしたらいい?」 前立腺の刺激で達するにはかなり開発が必要だと認識していた環は、ちょっと触れただけでよがり狂うほど敏感な壮五の反応に若干驚いた。強いと言われたのでやわやわと優しく肉を押し込みつつ周囲の感触とは明らかに異なるその部位だけを狙ってくすぐる。 「あ、うそ、待って、だめ…ずっとしないで、イきそ、あ…」 「……どんだけ触ったん。イくの難しいって書いてなかったっけ」 「っ、っ…だめだってば…!待って、いやだ、や、すごい気持ちくなっちゃうからッ」 優しく刺激していたつもりなのだが、頭を振って泣きそうになっている壮五にその動きを止めてやると一気に身体から力が抜けてはあはあと息が上がっていた。内壁の刺激だけで達せるほど慣らしたとは聞いていない。環の興奮がより高まってやべーじゃん、めっちゃ淫乱じゃん、と言葉で煽ってしまう。 「そーちゃん自分で弄り過ぎなんじゃねこれ?前全然触ってないのにいけんの?」 勢いのままにぐちゅ、と入口に音を立てて三本目の指を割り込ませた環が前立腺には届かない浅い部分を小さく揺らした。急なその刺激には壮五の口から激しく嬌声がもれて止まらない。二本の指とは明らかに違う大きな広がり方に力の抜きどころをコントロールできないでいるようだった。 「っあ、ひろが、っ…っは、環くんんっ……」 「三本けっこうキツそうな…平気?痛い?」 「いたく、ないっ…あ…キス、して…んっ…」 「いーよ。ちゅーするとへーきなんだっけ?」 「……う、ん…」 ねだられるままに静かに唇を与えてやると、肩の力が見える程に抜けてきつく締まっていた入り口が柔らかく解ける。誘い込まれる様にどんどん奥まで入っていってしまう指の感覚に環の理性の首が締まっていく。キスは続けつつローションを指と入口の間に大量に垂らしスピードを上げて抜き差ししながら刺激すると壮五が息を詰めて本格的に射精しそうな声で喘ぐ。依然、前は触って居ない。 「っだめ、だめだか、いく、待って環くんッ…はや、い、っ、きも、ち…」 「ん、いいよ、ちゅーする?」 「するッ、する、い、くっ、いくから、してほし、っっ、ふ、ぅ、…」 そのままビクと強く一回跳ねて環の腕を痕がつくくらい強く掴んだ壮五が達すると、内壁がぎゅうとうねり余韻で震える腰とそれに合わせてひくつく入口が痙攣していた。環の理性がまとめてぶちぶち千切られていく。そして緊張していく。今からこの指の代わりに自分の昂りが壮五の奥まで抱き込まれると想像しただけでぞくぞくと背中から快感に痺れてしまう。同時に恐怖心も同じくらいある。 果たして上手く出来るだろうか。指とは違う衝撃に、壮五の身体は傷ついたりしないだろうか。 不安に襲われながらもいたずらに内壁を擦る度にぐちゃ、と卑猥な水音が鳴り入口から零れるローションがシーツに染みていく。 タイミングは痛いほど分かった。今しかない。怖気づく前に勢いでしてしまわないといけない気がする。環は奥まで入っていた指をそっと引いた。 ずる、とゆっくり抜けていくその感覚に壮五は情欲いっぱいの目で環を捉える。 「…い…いれる…?」 「ん…」 壮五は揺らめく瞳で頷いた環の首に手を伸ばしてしがみつくとひとこと、きて、と呟いた。 環の心臓が口から出そうだった。ふやけた指先の感覚が妙に生々しく感じられ知らずシーツに擦りつける。 壮五の紅潮した頬。じっと見上げてくる蕩けた目。浅く呼吸する薄い肩。燃える様に熱い手の平が制止したままの環の顔をしっとりと撫でる。 「………」 壮五が環に隠れて自らの身体を丹念に慣らしている間、その気配を察しながらもついぞ自分から誘うことが出来なかった環だったがこの長かった沈黙の時間をただぼーっと過ごしてきたわけでは決して無かった。 元々性欲という観点で言うと女性に対して(当然男性にもだが)セックスしたいだとかキスしたいだとかそういった感情を強く持たなかったのは正直本当だ。知識がないわけじゃないが気恥かしいとか照れ隠しとかでなくまずもって身体の快楽に対してあまり興味が無かったし性欲処理を持て余すほど強い性的な衝動を感じたのは本当に壮五が初めてだった。 自慰行為ですら自覚に薄くぼやっとしているといつの間にか夢精していたりするし学校や仕事で派手な女性が胸元をざっくり開けて性を強調していても特に何にも思わなかった。 周りがするのでアダルトビデオや雑誌などの話題を耳で聞いて実際見るには至る。見ればまあ、タイミングが良ければ少しぐらいむらっとはしたが誰かとああこういうことをしてみたいとは到底思えなかった。 ただ、人を心から好きになる、即ち人を愛するという現実に直面した時、まるで意味がわからない未知の感情ばかりで自分の気持ちに自分自身の理解が追いつかず苦労する派目になった。環は「本当に今まで心の底から人を好きになったことがなかった」という事実に改めて困惑してしまった。 壮五を恋愛的に好きになったら欲しくなった。何というわけじゃなくて全部だ。 だが壮五に触れていたい触って欲しいという欲求こそあれど壮五が自分とセックスしたいという欲求と同じであるかどうかいまいち分からなかった。好きな人の気持ちがこちらに向いている時点で満足というか手一杯だった環にとってセックスという身体の交わりまでもを求める意味とは何なのだろうかと深く悩んでしまうことになった。 一人でこっそり性行為についてをネットで見ても本を買っても情報の余りの多さにどれを選んで自分の正解にすればいいか分からない。環は当たり前がどれか分からないまま壮五の身体を触るのに抵抗があった。 身体が慣れていないと当然の様に痛いというし噂の前立腺だって時間をかけて"開発"しないと気持ち良くない。挿入の痛みを和らげるにはキスが一番だとか前戯をし過ぎると受け手側が上手くイケなくなるだとか嘘か本当か分からない情報ばかりが環の性知識を埋めて行った。 やがて上辺だけの薄い情報をより分けるほど環の目が肥えてくれば表向きはいいからもっとリアルなところが知りたいと思うようになり、殊ブログや体験談の様な記事にはついつい没頭した。 だが、失敗も成功もありのままに綴られている他人のセックス事情というのは行為に及んだことの無い環の想像をはるかに飛び越えた世界であり真偽を問わず徐々に恐怖を感じる様になった。 とんでもない失敗を環が、そして壮五がしてしまった時、それを乗り越えられる絆は果たして二人の中にあるだろうかと、突如壮五との距離感が分からなくなってしまった。 環は自分が童貞だからという理由で、壮五に余計な負担をかけてしまうことを懸念していた。 決してセックスがしたくないわけじゃない。二人で本を見る以外でも手順は死ぬほど勉強したし受け入れる側がどうやって準備をするのかも大層詳しく調べ上げた。だから自分が戸惑ったらきっと壮五が不安になる。たくさん色んなことを覚えておくに越したことはない。ないはずだった。 「……そ…そーちゃん…」 「ん…?」 「やべどーしよ…い、痛くしたらどうしよう…」 とはいえいっぺん怖気づいたらもう無理だった。 前戯までは無論順調だった。興奮はしていたが緊張のせいか気持ちの上でもどこか冷静でいることが出来たしいざベッドの上に乗って内壁をいじり倒しても壮五は大袈裟な程気持ちよさそうにしてくれた。 挿入するのには十分な程度に解れたのも理解していたのだけれどどうしても不安な環が慣れない手つきでコンドームを装着しながら思うことは痛くて挿入失敗して別れましたというたまたまみかけたウェブの雑記。いたくて、しっぱい…わかれた…という言葉が頭の中でぐるぐるぐるぐる回る。 壮五の白くきれいな内腿にかけていた手が震えた。傷つける、怪我をさせる、痛みを我慢させる、それでもセックスは気持ちいいと言い切れるのだろうか。 「怖いかもしんない…いたかったらやめよ?」 「……大丈夫だってば…たくさん慣らしてくれたから…絶対痛くないよ、ね…?」 「たくさんったって…どんぐらいかわかんの…!?指じゃねんだかんな!」 「っ…あの……あの、ね…」 「今からちんこいれんだよ、分かってんの!?こんなちっちぇー穴に!無っ」 ついぞ出来ないと口走りそうになった環を、壮五は決死のキスで辛うじて留めた。今までに無い強いリードに環はあっという間に押し倒される。挙句いつの間にか馬乗りになられ問答無用で激しく舐め取られている舌の感覚でいっぱいいっぱいになっていく。この細い身体のどこから出ている力なのか分からないぐらい強引な攻めに環は徐々に酸欠でぼんやりとしてきてしまった。 「んん…ん……」 「……ッ………ん…っ…」 やがて環がほとんど抵抗しなくなったのを見極めて、ばっと起き上がった壮五は呼吸もそぞろに必死な顔で目を白黒とさせた。 「はあッ…は…あのっ…あ、もう……我慢は無理で、あ…無理は無理なんだ……」 「…っ…はあッ…は、…あ…ぇっ……」 「環くんが怖がることない、じっとしてて、何もしなくていいから、勝手に僕がしたってことでいいから、ね……ね…」 脳に酸素を取り込むので精一杯な環に壮五のその言葉の意味は残念ながら伝わらなかった。 自ら腰を浮かせ蕩けた表情で環の昂りを見遣ると欲しくて欲しくて疼いて仕方の無かった入口にやっと、やっとこあてがうことが出来た愉悦に壮五は一人で溺れて行く。 待ち望んでいた瞬間は焦らされすぎて限界を超えた自分自身の欲で叶えられるという何ともお粗末な矛盾に呆れこそすれど、そんなことはもうどうだっていい。 すると言ったらするのだ。もう待てない。性欲を開発しすぎた。これ以上環の踏ん切りがつくのを待っていたら一生出来ない。そんな気がした。 一方、先の敏感な部分から急激な快楽にのまれて環はようやくその事態に焦り始める。壮五のハチャメチャな格好にどこを触ったらいいか分からずとりあえず腰を掴むとその反動でずぶ、とより深くに繋がるのを手伝ってしまう。それには環が混乱を極めた。 「あ、えあ…ま……そ、そーちゃんッ…!!」 「は……あ、う…ゆ、ゆっくり、じゃないと、いっちゃ、う…」 「はあッ…!?待てっつってんだよ…!いれんの待って!ストップ!」 「んんぅ、さっきまてないって、言ったあ…」 「ず、ずるいかんねそれ…!」 既に中程まで飲み込んでしまっている壮五の足ががくがくと震えていた。声は気持ちよさそうではあるが虚ろな目で口から涎がぼたっと落ちたのを見てびっくりした環には、痛くないかとか苦しくないかとかそういう気持ちよりも先に壮五が死んでしまわないかが先にきた。パニックになりながら一人で勝手に熟してしまった壮五の身体をぎゅっと掴んだ。 「あ……」 「そーちゃんっへーき!?な、一旦やめよう!きもちいの分かったから、震えてっし痛い?苦しくない?」 「ん、ぜ、んぶ、い、れる、のッ……」 「っそ……そーちゃんっ…」 聞く耳を持たない壮五がどんどん腰を沈めていく。ゆっくりとだが確実に壮五の中に抱きこまれていく或る意味暴力的な仕打ちに、環はただただ堪えた。気持ちいいかどうかなどはっきり言って分からなかった。自分が変に動いて壮五がおかしくなっても困るという一心で微動だにせず掴んでいた壮五の身体はずっと震えていた。 「……は…」 そんな環のことなど一ミリも頭にない壮五はやがて隙間なく最奥まで埋まった感覚で人生至上経験したことの無い満たされように脳が死ぬほど気持ちよかった。それこそ身体は分からない。ぎちぎちに咥え込んでいる腹はもしかしたら苦しいのかもしれない。麻痺した痛覚のせいか意図せず軽く達する。 壮五は脱力して幸福に支配されたままぺたっと環の胸元に倒れ込む。 「…そーちゃん……」 壮五渾身である怒涛の騎上位に環は文字通りされるがまま、壮五の処女を破らされてしまった。 無論、内壁に抱き込まれているという初めての感覚は確かに快感ではあるのだが、愛おしいだとか好きで仕方ないだとか正直それどころではない。熟れた身体で抱きつかれているのでとりあえず背中に手を回すと対する壮五はぐったりと環の胸に身体を預けたまま、呂律のあやしい口できもちい、と垂らした。環はさすがにイラっとした。 「っば、かじゃねーの……おれの初めて、ぞんざいにしてんじゃねえよ…ばか、そーちゃんのばか」 「……してなぃもん…僕だって……初めてだもん……」 「いたくねーのかよ…」 「なぃ……お腹が…奥まで熱い…」 「えろいんだよ!ばか!ばか!震えてんじゃんッ」 小刻みにふるふるとなる身体は熱くて細くて薄っぺらくて、どう見ても頼り無い。突然崩れ落ちて無くなってしまわないか心配になるぐらいなのにゆっくりと身体を起こし環の腹に手をおきながら不埒な顔で動いてもいい?などと言う。 セックスの気持ちよさについてまるで二の次だった環にとってそのふざけているにも程がある壮五の姿はまさに悪魔だった。危険すぎやしないか。謎のギア段階はもう把握しきれない。 こうしてわけが分からないうちに童貞を失ってしまったが反動で少しずつ冷静になると環はいっぺん怖気づいてしまったことが情けなくなってきてしまった。腹の上で震える壮五を抱きかかえるようにして上体を起こす。 「はーー…おちこむ…やっぱちゃんと出来なかった…」 「ん…何が…?」 「セックス」 「してるじゃないか…ぁ…落ち込むところひとつもない…」 顔に届くようになったので顎を掴んで唇に触れると、壮五も首に腕を回してそれに応えた。 若干余裕さえうまれた環にはこれがらぶらぶセックスの対面座位ってやつ、と何度目を通したか知れない教示本の絵図が浮かんでいた。ふわふわとしていた気持ちがしっかりと地に着きはじめる。 壮五に触れている熱も、繋がっている快感も少しずつ身体に馴染んでくる。 それに、セックスにおいて一番怖いと思っていたところを壮五によって無理矢理こじ開けられたわけだからこの先への懸念は実にまっさら。死ぬほど確認した手順に挿入後の事は書かれてはいないから当然といえばそうだ。いれたらあとはなすがままに射精へと導かれればよい。んじゃねーのきっと。などと精神的余裕が逆転してしまった末に起こることなど想像に容易い。 18歳という若い好奇心が挿入で蕩けて満足していた壮五の身体をロックオンする。 深いキスに揺蕩っていた壮五は環との緩やかな快感に安心して身体を預けていたのだが突然反り返った前に触れられて身体が縮こまる。指でぐりぐりと詰られて思わず環の肩を押しやった。 「うっあの、待って…!そん、なにされると…あの、あ…」 「はー?散々待ってっつったのに聞いてくんなかったのどこの誰ですかー」 「あう、あ…あ!だめ前、さ触っちゃダメ…あだ、め…」 「言っとくけど入れた後どーすんのか分かんないかんね、ドーテーだからっ」 「いっ、いく待って…!やああぅっナカっ奥!あっ、たって、るっからッ一緒にしたらだめだか、ぁ、あっ!」 奥を揺さぶられながら亀頭をくすぐられるという激しい攻めに強く首を振ってだめだと抵抗していた壮五だったが次第に息を詰め全身に強く力が入り快感に集中していくのが目に見えて分かる。 環はそれを見ながら自分と繋がっている部分で一緒に壮五が気持ちよくなっていく様に激しく興奮していく。愛おしい。もっと強く触りたい。苦しくなるまでキスしたい。嫌がるぐらいセックス、している。 俯いて身体を緊張させている壮五を引き寄せ耳に唇で触れてきもち?と囁くとガクンと一瞬大きく震えた壮五はびっくりするほど簡単に射精した。 「あっ……あ…っ………」 身体から力が抜け肩で息をする壮五を、繋がりは解かないままゆっくりとベッドに横にする。 様子を覗いながら少しだけ腰を引いて再度押し込むと朦朧としていた壮五が甘く啼いた。 「まだヘーキ?一回出ちゃってつらくねーの」 「…んへ…いき…たぶ……ん」 朦朧とはしているが壮五が平気と言ったのだ。環はじっくりと中を擦りながら出し入れを繰り返す。その過程で壮五が良さそうに反応するところを見つけるとそこだけを集中的にしつこくしてみる。今度は内壁だけへの刺激だがシーツをぐちゃぐちゃにしながら暴れ狂うほど感じている姿にどんどん環の昂りの硬度は増した。ぞくぞくと痺れる快感に夢中になっていく。 「えっちしてるよそーちゃん、ど、きもちい?ね、どうすんのがい、おしえてっ」 「んっあ、あう、いや、あぜん、ぶだめ、またい、っちゃう、んんっ」 壮五の自業自得ではあるもののこれだけ熟れて出来上がった身体であっては射精での苛烈なオーガズムを数回迎えたあとには環の言う空イキ、つまりドライオーガズムのループにはまってしまい壮五は半ば酩酊状態に陥る。通常男性には必ずある射精後の強烈な醒めであるが、それが無くなるほど前戯も前立腺への刺激も十分満たされている即ち今から壮五は永遠にオーガズムを迎える事が出来る。そう、女性のオーガズムの仕組みと同じように。 漏れ出る嬌声は環の律動とぴったりリンクしてやめるもとめるもだめもいやも無い。壮五にはもう主導権どころか正気の微塵も無かった。 環だってそうだ。心地良いとさえ感じてきている壮五からだだもれの甘い喘ぎに加減が無くなる程気持ちが良くなってしまっている。ぐちゃぐちゃになった壮五の口元を舐め上げながら一番奥の行き止まりまで昂りを押し込んで激しく揺さぶった。 「やうああっ…あ、らえあ、いって、るっかっんうぅっ!う、う…」 「いたくねえっ…?いっていい?そーちゃんっ」 「ふっ、あ!いぐいぐだめ!だあ、んっ…!や…」 ギュウウとかつてない締め付けと数度大きく跳ねた腰の動きにつられ、環も同時に壮五の中で大量の白濁を吐いた。強張ったままの壮五の身体がかくんと脱力してだらしなく開く。 「っ……ア…」 焦点の合わない目でお互い呆けて見詰め合う。やがて環が身体を起こした刺激でか壮五の腹がひくっと震えた。直後じょわ、と少量溢れる様に漏れ出た熱い液体がシーツに染みていくのを環はぼんやりと目にうつしていた。 重だるい身体で壮五の目が覚めたのは翌日の早い時間帯だった。 疲労に疲労を重ねた様な地獄の倦怠感が全身を襲う壮五の側には当然環がいて、眠っているその顔をぼやっと見つめる。なんと御都合主義か幸い今日はオフだった。 とても疲れていたので何も考えないようにして壮五は再び目を瞑る。 ところで、どうして寝室ではなくリビングに布団を敷いて寝ているのだったか。記憶の糸を手繰ろうとして急に血圧が上がった。 「……は…あれ、うそ……」 身体を起こそうと力を入れた瞬間、大変鋭い痛みが腰に走ってびくんと動きを止める。お決まりのそれにカアと赤くなった頬とは裏腹に壮五の思考は青ざめ、数々の自分の暴走を鮮烈に思いだすと頭を抱えた。一体どんな醜態だ、せっかく初めての環とのセックスだったのに! 恥ずかしさでぶるぶると震えていると、環がもぞと動いて目を擦った。 「…おー…おはよ、身体へ~き…?痛くねえ…?」 「はっ…!環く、お、おはよう…まだ寝てていいよっ…!僕その、片づけとかっ」 「……?漏らしたやつならちゃんと洗濯回したからへーきだよ。無理すんなあ」 「も゛ッ……な、え…………あり…がとう……」 「どーいたしまして、ほら、寝ろ」 ぽんぽん、と環が自らの横を手で叩いて促すので、とりあえずは大人しくそこにおさまる。緊張した。環はきっと呆れたに違いない。こんなドのつく淫乱を極めた自分の正体に。 もうセックスしてくれなかったらどうしよう、と勝手に狼狽していると、そんな壮五の気を知ってか知らずか環はそっと壮五の腰を撫でた。 「…!た…たまきく…」 「ん。何?まだきもちい?触られんのヤダ?つかつらくない?」 環の優しい声音と手の動きにひとまずほっと安心すると、とりあえず本望とはいえ、環の初めてを強引に奪って行為に及んでしまったことを謝罪したかった。一応、段階を踏んで、そして環からしてほしいとは、一応、一応だ。思っていた。弄ぶつもりもぞんざいにするつもりも一切無かった。 「…あの…ごめんね……」 胸元に頭をくっつけてこれほど近くにいるにも関わらず微かな吐息ほどしかない小さな壮五の呟きに、環は呆れてしまった。勢いに任せて思い切りよくしてしまったことをうだうだいつまでも考えて悩んでしまう壮五はやはり神経質だ。勢いが足りず引っ張り込まれなければしてしまえないが始まったら楽しいし終わったら結果オーライの環とは正反対。罪悪感を感じているのか息を詰めている背をしょうがなく撫でてやる。 「なーにが…また何か勝手に悪いことしたと思ってんの?もらしたのは別に気にしてない。調べたけどきもちいとなっちゃう人もいるって。へんじゃねーよ?」 「んぐ…そ…それもだけど……」 「あとなに。襲ってきたこと?それは引き分けな。おれも怖気づいたのは、悪かった。てか初めて同士であれってどうなん…激しくなかった?あんなもんなん?ちょっとは満足した?酔ってももうせっくすーって言わなそ?てかきもちかった?」 「……うん…」 質問攻めにまとめて小さく頷いた壮五があんまりへこんでいるものだから環は面白くなってしまった。 恥ずかしい資料まで作って挙句強引になるぐらいしたかったくせに実際欲に溺れると怖がっていておかしい。確かに壮五はいやらしかった。淫乱で強欲でそれでいて純真なのだから、厄介だ。だけれど、誰が環はそうじゃないと言ったろうか。好きな人に触っても壊れない証明がセックスで成り立ったのならどこに恐怖し我慢する必要があるだろう。 好き同士なら離れられない。壮五が溺れるならば勿論環も溺れていくのだ。壮五にその覚悟がないならば、今度は環が引きずり込むしかないのである。 欲を知った無垢な環が壮五の頭を撫で甘えた声でそーちゃん、と声をかける。 「……うん…?」 「ね、またしよ。いまからする?」 「…へッ…」 「明日夕方からだし撮影。んで、終わったら明日もする?」 無邪気に笑った環の腕に絡まれ寄り目気味に固まった壮五は、ついに自ら踏み入れたぬかるみのあまりの深さに恐怖するのだった。

EPISODE 09環くんと薔薇の下

さて、時刻は19時50分を過ぎた。 各々目立たない様にとキャップやマスクをつけたアイドリッシュセブンの面々は、七人揃って慌ただしく最終の新幹線へとかけこんだ。 この日のスケジューリングに合わせて品川駅近郊で極秘開催された壮五のプレミアムバースデーイベントの賑やかしの話はさておいて、明日から再開する全国ツアーの開催地の一つであるズバリ広島へギリギリトリップしようという試みだった。 壮五へのサプライズ演出があったので仕方がないとは言うが最終の便であってもまだ19時台。 七人の大所帯で移動をするのはかなりハイリスクであるため、昨晩から壮五以外のメンバー全員にそれはもうしつこく喋っちゃいけないと念入りに釘を刺されていた環は言いつけ通りむっつりと黙ったまま静かに座席におさまった。 トレードマークの黒マスクと目深にした黒のキャップ。長い脚を窮屈そうにしながら二人席の窓側に座らせた壮五の様子をちらっと窺う。 「……」 会場を出た時から物凄く顔色が悪いのは気になっていたがイベントの気疲れからの放心モードなのか(緊張した後は大体青白くてポンコツである)、それともどこか本格的に調子が悪いのかつまりいずれにせよ環は壮五の事が心配だった。 環をも遮る様にしてタオルを頭から被りブラインドを下げた窓にもたれかかったまま壮五はやはりぐったりとしている。 位置的に空調が真上から当たっている気がしてそっと手をかざすとやはり冷風が強くふきおろしている。 一応「喋ってはいけない」と言われていたのを気遣って環は出来るだけ壮五の耳に近づいて慎重に声をかけた。 「さむくねーの、汗冷えたらかぜひくよ」 ぴく、と青白い指先が反応したがそれきりで壮五からは何の応答も無い。仕方なく空調の羽根を閉じてやると自らが羽織っていたパーカーを脱いで薄い身体を覆う様にしてそっとかぶせた。 (環くんと薔薇の下) ソロでのトークイベントを誕生日に開催するというのは存外中々思い切ったことだったようで、いつもより断然客席が近いことに壮五が気付いたのはステージでマイクを持ってからだった。 プレミアムと銘打っているだけにファンクラブの中から抽選で選ばれた約百名の猛者を前に微笑んだ壮五だったが生真面目なトークをすればするほどこれは果たして面白いのだろうかだなんて一人で何度も素面になっては慌てて客席に問うたりもした。 勿論、面白い話を出来る自信などはじめから無かったが、自分の好きな話をすればいいと散々環に言われて送り出されてきた今日なのでどんなにつまらなかろうと自分が好きなことについてを話すのだと心に決めてただひたすら音楽や仲間のことについてを語った。 どうしてもその過程ではメッゾの話、環の話の比率が音楽と同等に重たくなっていってしまうのだが、何せ壮五の大好きで大切なものであるからにはメッゾのことも環のことも話したいことなどたくさんあるのは当然のこと。 だが、環くんは、と零す度に客席から喜びの雰囲気が伝わってくるとファンだって仲良しなメッゾのことをもっと知りたいのだと思えて何だかとても嬉しくなった。 気がつけばこれはオフレコで、などと何度も言いつつ環との尽きない思い出を順番に並べていた。 結局、時間が余るのではと懸念していたフリートークにほとんどの時間を割いてしまったので足早にプレゼント企画、そして客席のお待ちかねであろうミニライブがこの後ある。 自身の最新のソロ曲とメッゾの一番新しい曲を披露して終えることになっていた。 メッゾの新曲とは勿論壮五の作った曲でありメッゾとしてウェディング事業とのコラボ企画をした際発表したものである。 アップテンポの明るい曲調で珍しくあまり凝った事はせず素直なメロディを意識した。 つまり環の爽やかで力強い歌声がよく映える様にと思ってのことだ。 華やかでキャッチーなキラーチューン。文句なしの祝福のメロディラインは売上チャートぶっちぎりの三週連続一位と「壮五が彩るメッゾ」の実力を今一度派手に裏付けることとなったやはり渾身の一曲だった。 まあ今までに壮五が渾身でなかった曲なんて一つもないわけだけれど。 そんなこんなで本日の衣装は白基調で綺麗にまとめてもらいスタンバイはばっちりだ。壮五はやや高鳴る心臓を感じつつもマイクを握り直す。 「たくさんの人の笑顔を思いながらかきました。少し照れくさい程真っ直ぐなラブソングですが、今日は相方がいないので皆さん是非一緒に歌ってください!メッゾで、」 まるで星屑が零れ落ちる様なアイドリッシュセブンのキラキラした音色に壮五はずっと憧れを抱いてきた。 大事な宝箱を開ける音、闇を照らす淡く優しい光、鼓膜を内から揺るがす前進の合図。 そのどれもに寄り添った意味のある言葉達は今も音にのって誰かの心を救っている。 どんな人の嬉しい時にも悲しい時にもそばにいてあげられるような歌をいつか自分の手でも生み出すことが出来たなら。 道は確かに険しくとも挑むのはとても楽しい。一人じゃないから尚更で壮五の音を環が一緒に歌ってくれるだけでそれはメッゾの音に、色になった。だからそれこそがメッゾらしさなのだと壮五は自分で曲を作る様になってから気がついた。 自分らしさ。環らしさ。そしてその両方が重なる部分がメッゾらしさであると。 今思えば凄いことだった。 自分達の色然り、自分達でなければいけない意味が何一つ分からないままメッゾを始めた環と壮五が疑いながら戸惑いながらもいくつもの言葉を交わし時間を重ね二人で一緒に「メッゾ」という色を創り上げてきた。その上こうして出来たメッゾ色でこれ程自由に様々な気持ちを描くことが出来るようになったというのだから。 快晴の朝を思わせるイントロが終われば本来なら環からの歌唱パートだがいかんせん今日は一人きりで最後まで歌いあげなくてはいけない。意を決して鋭く息を吸い込んだ瞬間、壮五の視界の端に妙にはっきりと白が見えた。 それに思わず横を向いてしまい歌いだしは完全に間に合わなかったはずなのに、まるで聞き慣れた歌声が耳に届くというあまりの衝撃に壮五は固まってしまった。 「…………エッ……」 紛うことなき環本人のサプライズ登場。客席からは阿鼻叫喚に似た悲鳴が飛び交い、壮五も今日ばかりはまったく虚をつかれ、唖然としたまま立ち尽くした。 「…………」 「顔ッ……」 「…………」 歌唱の合間にそう苦笑されるもよく見たら環は白のタキシードを着ていた。視界に入ったのはこれだ。 困惑しながらもようやく視覚からの情報が処理され何やらヘッドセットで両手を空けている様子だがこの姿格好と演出についてはいくら動揺した壮五にでも覚えがあった。この曲定番の手品ショーだった。 ひとつ前のライブツアーでの演出で環と壮五がかわりばんこに曲中に手品を披露するというものだったがもしもその通りなのであれば環の手にはいつの間にかステッキが握られているはずだ。 「……」 案の定、黒いステッキが突如一本。次には艶めくシルクのスカーフ。 優しい顔で微笑んだ環がふっと息を吹きかけシルクを引くとステッキは一本の薔薇になる。環の薔薇は空色だったし、壮五の薔薇は紫だった。本当に毎日毎日死ぬ気で二人で練習した。 サビ前からはっと我にかえった壮五は何とか歌唱に混じるが環は歌いつつも手元のスカーフを何やら真剣にじっと見詰めていた。 因みに、サビへの盛り上がりをユニゾンにしなかったのは二人で一つのメロディが成り立つ様にしたかったからだ。だってメッゾは二人なのだから、せっかくならば二人で歌って完成する歌がよかった。愛を結ぶ歌ならそれは尚更。 環が息を吹く変わりにちゅ、とひとつキスを落としてその光るスカーフを引いた。 「わ、」 クラッカーを引いた様な明るいサビのさなか、ステッキは見事真っ赤な薔薇の花束に変わった。 百本程もあろうかというその大層仰々しい姿は正に愛の権化。あんまり気恥ずかしくて壮五がたじろぐと環はその薔薇の花束から一本だけを引き抜くと自らの胸元に差し込んだ。 気が付けば会場全体に特効が舞っていて、カラフルな花弁が世界に贅沢に散り注ぐ。ひらひらと翻り客席に床にステージにも優しく緩やかに落下していく。 その光景にしばし見惚れたままでいた壮五がふと横を向くと跪いた環がとびきり力強い笑顔で花束を突きだした。 「おめでと!おれと一生一緒にメッゾしてください!」 歓声が上がる。例えばそんな言葉が無くともこのメロディラインはもう二度と鳴り止まないのだと壮五には思えた。 ただ、壮五自らが創り出したはずの「世界に一つのウェディングソング」が一体誰の為に歌われるべきなのかを実のところちっとも想像なんてしていなかったのは墓穴だったに違いない。 虹の花弁が世界を覆う。何も言えずに立ち尽くした壮五だが従来の演出の通りにするべきならば薔薇を受け取って花弁にキスをしなければいけない。 「ありがとう、こちらこそ、よろしくお願いします」 キスはしないでぎゅっと九十九本の薔薇の花束を抱きしめた壮五は未だ跪いたままの環に手を伸ばしたのだった。 「…………」 だからつまり、こんなのは全然聞いていなかった。 ぼんやりと視線をうつろわせたまま壮五は拗ねた様にしてそう思う。 あんな演出をしてくれるつもりだったなんて、それはもう一言も。時間がギリギリだから他のメンバーは先に向かうなどと言って、ということはマネージャーまで自分を騙したということか。 サプライズなのだからそれらは当然であるのだがその後メンバー全員が大きなケーキを持って登場するのもいたずらっぽく笑った環がこっそり指で生クリームを掬い取り頬張るのも何だか夢の中での出来事のように曖昧で現実味に欠けていた。覗く舌先。食む唇。唾液で鈍く濡れる指。 ふと装飾に五つのっていたショコラの一つをつまんだ環が隣に居たナギに「これだっけ?」と囁いた。 「ええ、それですよ。エスコートは完璧でしたねタマキ」 「オス」 壮五は自分が思っているよりも百倍浮ついていたので環とは中々目が合わせられず表情の全体を確かに捉えた記憶は無い。終始穏やかに笑んだ口元、そーちゃん、と動くその形が今もスローモーションのように幾度も再生される。今だって。 「食ってみ。そーちゃんのチョコだよ」 「……」 言われたその場では味覚にまで神経がいきわたるかとても不安だった壮五だが差し出された小さなチョコを「いただきます」と控えめに齧る。するとピリ、と舌に好みの刺激が走り、これは山椒だろうか。それに、ビターガナッシュ。風味が上品に香った。 「……す、ごく美味しい」 「だろ!?ヤッタ、これ選んだのおれ!正解?」 「大正解だよ。ありがとう」 「へへ、そーちゃん絶対好きだと思ったんだよな。カライチョコ」 カライチョコ。環らしい表現が耳奥に心地良く響いた。 直後、耳元で環の囁く声がする。これはリアルタイムの方だ。 「さむくねーの、汗冷えたらかぜひくよ」 ツキンと腹の奥に沈むなんて性的な低い声。ギリギリの移動になるのは自分だけだと聞いてそうだと思い込んでいただけにやはり今隣にいる環の存在がやはり曖昧で現実かそうじゃないのかひどく翻弄されてしまう。 本当に予感し得ない動揺って、これほどまでに理性に影響してしまうんだ、と壮五は仕方なく目を瞑った。 今言葉を交わしてしまったら突飛な行動を制御しきれる自信が百%ではなくなりそうだった。 直後、環の匂いで鼻腔が満たされ、生温かい人肌のパーカーの感触はああどうしてこんなにも欲情に拍車をかけてしまうのか。黙ったまま壮五はパーカーの一端を握る。 広島まであとどれぐらいだろう。ホテルについたら一体何時になる。部屋は一緒かな。隣はメンバー?明日はデイワン、一回ぐらいはセックス出来るかな、遅くなってもしてくれるだろうか、気が逸って動悸がする、落ち着きたいからばれない様に手を握ってくれたりしないかな、寒いとでも言えば肩を抱いて貰うのは不自然じゃない? 「…………」 壮五はしばらく一人でぐるぐるとそんなことを考えているとそのうち何だか本当に気分が悪くなってきた。 若干乗り物酔いの気配がする。緊張もしたし諸々胃にきているのかもしれない。とりあえずこれ以上環の隣には居ない方がいい気はした。 「……環くん」 そっとその肩に触れると身体という実像に様々な感覚を思い出してしまい切羽詰まった壮五の愛されたい理性が加速する。車内だけど人はまばら。しかしまばらというだけでいないわけじゃない。 環越しに見える紡、その1つ奥に大和だっている。加速だけして燻ぶってしまうので口から煙が出てきそうに焦れったい。 環が唸って顔を上げ、キャップをずらすと「どうした?」と寝ぼけ眼でそう言った。 「トイレに行きたいからちょっと足を」 「ん、おれもいこうか?」 「一人で大丈夫だよ……」 「そお?迷子なんなよお」 ふわ、とあくびをした環は呑気にそんな事を呟いてもぞもぞと動いたが壮五は待っていられずに無理にまたぐと足早に車両を出てトイレに駆け込んだ。 胃から胸の辺りがぐるぐるそわそわする。吐きたい程むかつきがあるわけではないのに胃酸の気配はすぐそこまできていて喉奥が焼ける様にじりじりとする。神経の昂りは呼吸を狭くするので轟音に紛れ我慢しないで息を大袈裟に吸ったり吐いたりしてみる。 環と身体を交えてからというもの、人生で初めて経験する腹いっぱいに満たされるという感覚が頭からいつも離れない。 それは、環という存在を大なり小なり好きだ愛していると思えば思う毎に我慢の利かない感情となって壮五を支配しようとしてきた。仕事でも私生活でもほぼいつも隣にいる環に身も心も溺れてしまうということがこんなにも恐ろしい事だとは思ってもみなかった。恋愛って怖い。 とても衛生的とは思えない新幹線のトイレだが、気分の高揚を我慢出来ない今の壮五にとっては個室というだけでもとても安らいだ。 しばらくそこで身体の欲求のままに蹲ってじっとしていたら多少は楽になった気がした壮五だったが次に我にかえったのは環がドア越しに呼び掛けてきた頃だった。 「そーちゃーーん?」 そう控え目にドアをノックされ驚いて立ち上がった壮五はすぐにドアを解錠する。 「……酔った?へーき?ぜんっぜん戻ってこないから死んでんのかと思った……」 「ごめんごめん、胸のむかつきがすっきりしなくて随分居座ってしまっていた……誰か待っている人はいた?迷惑じゃなかったかな……」 「もうほとんど人いないよ。つぎのつぎが広島だって」 優に一時間半はトイレに引きこもっていたという事実に頭を抱えた壮五だったがつぎのつぎが広島ということはつまりあと一時間もしないでこの地獄から解放されるということだ。ぱっと心が明るくなった。 勢いで顔を上げると心配そうな環の顔が至近距離でじっとこちらを見詰めていて壮五の心臓が止まった。 そして急に動いたではないか。 「っ……」 不意打ちで真っ赤になった壮五を見たその不意打ちで負けじと頬が赤らんだ環は急いでそっぽを向いて黙ったがすぐに戦慄く壮五の手首を掴んで「あっちだれもいなかった」と早口に零した。 環に強く手を引かれ為すがままドア付近の死角に乱雑に押し込まれると本当に一瞬の口づけ、続けて指でおでこをはじかれた。 「いたっ」 「もおーーーーーーー、ばか、ばか、こんなとこでそんなわけわかんない顔すんなっ」 「わけわかんない顔……」 「おれどうすりゃいいのか分かんないだろ!みんないんだからもっとシャンとしろー!」 必死の形相で環に肩を揺すられた直後またほんの一瞬だけぎゅっと抱きしめられた壮五は「それ逆効果だから」とキレ散らかしそうになった。 その怒りのまま同じ様に一瞬環の胸に顔を押しつけて「やめろ!」と小声で叫んだ。 「我慢出来なくなっちゃうだろ…………!」 「っし、し、しろよおおッ、大人だろおッ!?」 「大人も子供も関係ないよ!シャンとしろって言ったってこんな僕にしたの環くんだよ!サプライズするなら言っておいてくれ!」 「いやだからそれもーサプライズじゃないじゃんっ」 照れ隠しで徐々に荒ぶる互いの口調だったが警告音で寸断された直後、壮五の背後ががこんと音をたてて開いた。 いつの間にか停車駅に到着したようだったが降りる乗客はこの車両にはいないようで、また、最終が故か乗り込もうとする人も然り。 水を差された空気に壮五が何気なく腕を降ろすと発車のベルの隙間にカシャンと音がたった。 「……」 何だか見慣れた形の腕時計。プラットフォームに寂しくぽつんと落ちている。 大変だ。誰かの腕から落ちてしまったのだ。落し物。駅員が気付くといいのだが。 「!!!」 直後、壮五の足が反射的に外へ向いたのはどうしたことかそれが自分のものだと分かったからだった。 金具が外れて腕からすっぽ抜けた。駅員ならまだいいが誰かに持っていかれたらどうしよう。今拾わなかったら二度と戻って来ないかもしれない。環が声より先にパーカーの裾をぐっと掴んだのだが壮五の焦った勢いは殺せなかった。プラットフォームの三歩先。壮五の手が大事な時計に触れた。 心底ほっとする。だってこれは無くすわけにはいかないもので、 「あ」 振り返ると環がプラットフォームに四つん這いになって俯いていてその背後の車体が不気味にぬるりと動いた。 あれよあれよとあっという間にそのまま加速し跡形もなく消えゆくのを見届けると壮五はやっと青ざめた。 「あーーーーーーーーーッ!?!?!?」 「もうマジで、マジのマジでなんなん…………」 環が恨めしそうに顔をあげて最終の新幹線の去ったはるか彼方をビっと指差した。 「いっちゃったじゃん!!!!!ありえねえんですが!!!!!!!」 「はッ……あ、あの……え、……ごめんすごく普通のことを言ってもいいかな」 「だめだよ!いっそ普通じゃないこと言えし馬鹿そーちゃん!!」 「僕何も持ってない」 「そんなん知ってるわ!!!!」 壮五が暗鬱に握りしめた腕時計の針はというと時刻二十三時半を過ぎたところであった。 「ウン、ウン、ハイ……本当に、ウン…………その通りにします、ごめんね……」 それにしても環のズボンのポケットはまるで魔法のようだった。 財布は勿論のこと、スマートフォンに音楽プレーヤー、イヤフォンとガムまで入っていてそれどころではないのは分かっていたが壮五は思わず感心してしまった。 環のお陰で何とか改札からは出られた。そして環のお陰で紡に連絡も出来た。その電話口で一織が恐ろしい程低く早口で詰ってくるのを甘んじて受け入れぺこぺこと頭を下げる壮五を見遣る環は盛大にため息を吐いたようだった。 二人の頭上には一風変わった名前の駅口ぶらさがっていて今日の壮五へのサプライズを思わせる。いや、ほんとにとんだサプライズである。 「はい……心配かけてすみません……そちらも気をつけて……ではあした……」 「…………」 「はあ、ほんとうに、……環くん?ごめんね本当に……僕が全部悪いことちゃんと言ったからね……」 「財布もスマホもあったから良かったけどさ……つかアンタ一人だったらどーする気だったんマジで……」 「仮に僕一人だったら野宿でも何でもするからいいんだけれど……君がいるから泊まる所は確保しないとだよね、巻き込んでしまってごめんね」 遠慮がちにスマートフォンを差し出すと環はよっぽど「そーいうことじゃねえんだよ」と言おうかという顔だったが言う前に疲れてしまったようでまた大きく息を吐いた。 辺りを見回すと駅前だけあってビジネスホテルらしき看板はたくさんある。されど行きかうカーライトのほとんどがタクシーで綺麗に整備された駅ではあるが道行く人もそれほど多くはない。 寂れているわけではないのに閑散とした雰囲気は環の表情を分かりやすく不安に曇らせた。 因みに元凶になった時計であるがお察しの通り環が壮五に贈ったものだったのでどうしてもそれを置き去りにするわけにはいかなかった。 結果的にこうなってしまうのは恐らく避けられなかったので自分だけならまだしも環をも道連れにしてしまったことにとても罪悪感を抱いてしまった。 黙っているとそれを察した様に環が少しふざけた調子で声をあげた。 「あ!なんならラブホでも行く?手っ取り早いし」 「…………」 壮五はそれにまんざらでもない顔でしかしまた黙る。 慌てたのは環の方でさすがにこんな状況でラブホで呑気にセックスする気分には絶対になれる気がしなかった。暗いし不安だし壮五にしっかりして貰いたかっただけだった。 「ひてーをしろおッ……!行ったことないし知らないとこだし無理だかんね!」 「ん……分かってるよ、もう……」 何とか空気を読んでそうは言ったものの正直なところ全ての荷物が無い今、いろいろな意味で手っ取り早いし何もかも揃っていると思って割り切ればそれほど悪くない選択だと思ってしまった壮五だったが慌てて否定した環に従っていくつかのホテルをピックアップすることにしたのだが。 「そんなことあるか……?」 立て続けに二十件「本日満室となっておりまして」と言われたところで壮五の心が折れた。 駅から見えたホテルには当然片っ端からかけているのだがその全てから断られたとあってさすがの壮五も何かおかしいと思い始めた。一か八か飛び込みで直接フロントへ行ったのなら一室ぐらい空いていたりしないのだろうか。 すぐそこに度外視していた一件があった。誰が泊まる事を想定しているのかまるで廃墟の様な廃れた容姿のホテルだ。嫌がる環を引きずりフロントに居た老婆に空室があるかを壮五は堂々と問うた。 「それが満室なのよ。なんでもアイドルッチャなんとかのライブが明日からあるんでもってそれに野球とかぶるでしょう。ここらも全部空きがないことになっててね。年に何回かはあるの」 「あいどるっちゃ……え?」 「アイドルッチャヘブンだったかな?詳しくないから分からんのだけれども。ありがたいことにウチみたいなとこもそのせいで明後日まで全室埋まってるから駅前は余計なかろうねえ」 「ばーちゃん、アイドルッチャヘブンじゃなくて、アイドリッシュセブンだな。因みに七人いるからセブンって覚えたらわかりやすいってウワサ」 「あらそうなの。アイドルッチュセブンね。孫がえらい好きでね。ソーチャンだかいうのがいいらしいのよ」 「ほー、そーちゃん握手しといたら。いいことあるかも」 「たまきくんっ」 呑気な環をやはり引きずりホテルを後にした二人だったがともあれなるほど。謎が解けた。 進展は無いがもうすぐ24時。近隣のホテルは広島市内のホテルを予約出来なかった人達で埋め尽くされているのだ。或いはこれ以上ない自業自得で路頭に迷っているということか。悔やまれるべきはどの場面であるのかが壮五にはもう分からなかった。 当ても無く駅まで戻ると何某かの銅像の前でどうしたものかと壮五はしばし佇む。 隣で黙ってスマートフォンを弄る環が段々とても可哀想になってきた。お腹も空いたろうし夜道で不安だろうし、何より明日からライブなのだ。ちゃんと寝かせてあげないといけないというのに。 「……お腹減ったよね。とりあえずこの時間でもやっているとしたらファミレスかな。どこかに入ろうか。環くんに頼るしかなくて申し訳ないんだけれど……後でちゃんと立て替えるからね……」 「んー、飯はまあいいからさ、ここいく?ワンメーターだって」 「タクシー?」 「うん。男同士でもオッケーって」 「……おとこどうし……?」 「ラブホ。どうせこのへん泊まれないし、よく考えたら荷物もなんも無いからちょうどいいんかなって」 メリットしては全く自分と同じことを考えてくれた環に思わずエライと口走りそうになって壮五は慌てて口を噤んだ。 そしてどもる。理想が現実味を帯びてくると人間どうしてこうも臆病風に吹かれてしまうのだろう。素直にウンとは喜べず固まって迷っていると環が突如ぱっと手を上げた。タクシーを止めたのだ。ハザードの点滅が妙にものものしい。 「よっしゃいこ」 「ええ、え、ほんとに?」 「だってこのままぼーっとしててもしゃーないし。なんかサイト見てたら入ってみたくなってきたし」 「……」 「……やだ?ファミレスにずっといたほうがよかった?」 環も環でタクシーに乗り込んでから言うことでもないだろうに。壮五は無言でそれを否定するとまるでライブ風景みたいな薔薇の繁華街を横目にみるみる早くなっていく鼓動を窘めた。 こうして難なくラブホテルへの宿泊は成功し、何はともあれゆったりと大きなバスタブに浸かった後はこれまた大きなキングサイズのベッドにやっと並んで寝そべった。 環は終始物珍しそうに室内を見て喜んでいるので半分、いや三分の一不可抗力とは言えこんな選択しか出来なかった壮五の罪悪感は多少、気持ち、薄れた。 一番シンプルな内装を選んだつもりだったが見ようとしなくともやはり薔薇のモチーフが至るところに施され地域性に則ったとはいえそろそろしつこくて笑ってしまう。 苦笑するに留まったのは思ったよりも身体が疲れていたからで横になって休めると思ったら余計に気が緩んだせいもあった。 とてもじゃないが、これから情事に及ぼうという気配は環からは微塵も感じられなかったし壮五も何となくは分かっていた。あれほど焦がれたというのに不思議と今はしたくて仕方がないという気持ちにもならなかった。 「今日さー、」 環がぼーっと天井を見詰めたままそう言うので壮五も視線を真上に戻してうん?と答える。 「誕生日プレゼントあったのにさ」 「……ごめん……」 「ホテル行ったらそれあげて、んで、するかしないかは別としていっぱいイチャイチャしようと思ってたのにさ」 「……」 「でも……今からエッチしたら、多分明日そーちゃん辛くなるだろ?」 「…………」 「だから我慢することにした」 「……うん……」 投げ出していた手の先が優しく触れ合えば真摯に環の気遣いが伝わってきて壮五は心底今日の騒動についてを反省した。 多分最初からいけなかったに違いない。いくら嬉しかったからとはいえ自分の昂った気持ちをもっとちゃんとコントロール出来ていたなら今ごろ泊まっていたはずのホテルでもしかしたら満たし合えていたのかもしれない。 ここ最近は恋人同士の際限ない欲情に振り回されて身体を交えることだけに夢中になり過ぎていたせいかこうしてベッドの上でゆっくり話をするのは随分久しぶりな気がした。 「十分嬉しかったよ、今日……たくさんありがとう」 「サプライズ?」 「すごく驚いたけれどね」 「薔薇、どーだった?」 「薔薇?そういえば花束どうやったの?あんなに大きいのにも出来るんだね。綺麗だったよ、……でもちょっと恥ずかしかったかな……照れてしまうぐらい大袈裟な、何と言うか、愛そのものって感じで」 「……そーちゃんみたいだろ?」 どういう意味か分からずに壮五が黙ると環は微かに笑った声で「恥ずかしい愛」と言った。 「赤い薔薇はそーちゃんに一番よく似合ってる」 「ん……どういう意味?それもしかしなくても褒めてないよね」 「ほめてもけなしてもないし。似合ってるって言ってんの」 「恥ずかしい愛が?」 「んー、分かりやすいのにめんどくさい愛かも」 「やっぱり褒めてないじゃないか」 ふふん、と笑う環の体温が何だか急に恋しくなって側にすり寄れば環は欲のひとつも感じさせないきれいな身体で何の抵抗もなくしっかりと抱き寄せてくれた。 夢の様な花弁の雨と永遠の愛を背伸びして象ったキザな花束、薔薇の街にて結局セックスが出来なかった青い今日の日のことは後に二人の恥ずかしい内緒話へとお蔵入りしたのであった。 散々な遠征ではあったが、無事にツーデイズを乗り切りやっと自宅の玄関にメッゾは辿り着いた。 移動時間はほぼ寝ていたので電池が切れるぐらいに疲れてしまった方が余計な煩悩を考えずに済むらしいと壮五は問答無用で寝不足解消体力自動回復のされたクリアな頭で靴を脱いだ。 ツアー明けなので明日から二日間の連休が始まる。ゆっくり寝られたし掃除して、洗濯して、買いだしに行ったらお風呂に入ってだらだらしよう。そう思って環を振り返る。 「お金あとで」 「よーし!我慢終わり!えらいから三日分のエッチする!」 「っッハッ!?ちが、ちょっと待って、お掃除も洗濯もしないと何もはじまらな」 「そーちゃんもいっぱい我慢してエライエライ。もういんだよ我慢なしな」 「えぇ、あっ……」 抱き上げられて荷物もそのままに寝室へ直行、ベッドに放られ二秒の内に上を全部脱ぎ捨てた環がジーンズのホックをぺんと外したところで壮五の腹の奥が急に疼いた。 迷惑をかけてまで性欲に溺れたくないと心から思ったからこそ外での気持ちのストッパーを今一度引き締めようとこの二日環のことを恋人だと意識しないように努めた。 相方で歳下の仕事仲間。時には友人でもあるし弟みたいに思えることもまた、思われているなと思うことも常日頃ある。だけれど壮五にとってその垣根を大きく跨いだ恋人という深い関係性はそれらとは全く違う頼り方になってしまうのでどうしても全部を一緒くたには出来なかった。 つまり分かりやすく言うと、今までは恋人モードをオンにするかしないかで壮五は環との関係性のあり方を決めていたのである。 そのはっきりとあった境界線が曖昧になったのは身体を交えてからだ。快感を経て感じる環の愛が壮五の予想以上に容量オーバーで実のところずっと翻弄されていたのだと思う。頭がらぶらぶモードから切り替えられないことがしばしばあった。 「っ…………」 「甘えたい?へろへろのそーちゃん解禁?」 「……ぃや……」 「もう誰も見てないから我慢しなくていーよ」 そしてその切り替えが前よりも上手く出来なくなったのも然り。急な路線変更はどうしても難しく、壮五は環の上ずった言葉選びが今はとても恥ずかしくてそわそわした。 「もうちょっと落ち着いてから……」 「やだ」 「……」 無理に頬を寄せてくる環とのあまりの温度差に目線を上げた壮五だったが直後余裕の一瞬でスイッチが切り替わった。 平坦な口調とは裏腹な環の切羽詰まった欲の顔。意識すれば指先が震えていた。 ラブホテルまできて我慢すると言った環。ライブ後の滞在先でも別々のベッドに入った二人。何でもないかの様に性愛を閉じ込めたメッゾの我慢は勿論環の我慢であり、壮五の我慢だった。 「てか、おれがもう我慢無理!いっぱいしたい、そーちゃんがわけわかんなくなるぐらいいっぱいいっぱいしたい」 「っん……う……いいよでも、準備……するなら、最後までしたいから準備しないと、」 「あとで!触る。触りたい。いい?いれないから」 「ううさ、さわッ……たら、したくなるだろ、ぜったいなるからっ」 「なるけど、我慢、する、」 「そんなのぼくができないからっ……!」 のぼせる頭で環を押しのけトイレに駆け込み引きこもること十分、セックスをするようになってからは常日頃そういう身体に躾けているので多少急いても無理がかかる事はないが気持ちの高揚が必要経緯までもを被虐的に演出しわけがわからないほど興奮してしまう。 ぐらぐらに煮えた思考が環の言葉を脳内に乱反射させる。いっぱいしたいってなんなんだ、こっちだってしたいに決まっているのに、優しくて純粋で可愛くてそんな環が愛おしいのは変わりないのに強引で我儘で我慢出来ない環はどうしようもなく雄であり好奇心のままに暴く手の感触も快感を追う息使いも全部の全部が性的でこれ以上ないほど惹かれてしまうというのに。 気持ちのモチベーションがピークのまま壮五はふらふらと外に出ると即座に脱衣所から伸びた環の手に引っ張り込まれそのままぐずぐずのキス。ファイトゴングが高鳴った。 こうして雨月の終わり、メッゾの激しい情事の全容はしつこいようだがやれ「薔薇の下にて」。

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EPISODE **ミルキーベイビー

あるオフの日に、環は店内で柔軟剤を見ていた。 近所の薬局とは言え一応変装の為にサングラスをかけキャップをかぶる。音楽を聴きながらのんびり買い物をするのは好きなので、先日買ったブルートゥースのイヤホンをつけ適当に流れてくるプレーヤーからの音と共に棚を見遣る。 「……」 自分で買った柔軟剤の香りは、まあそこそこ嫌いではない匂いだったがいつも壮五に洗濯をして貰っていた時の匂いが定着しすぎて少し違和感だった。使い切るまで使用し、まだ違和感が拭えなかったらもとに戻そうと決めていて、今朝洗濯をした分で使い切った。どうやら自分には壮五の持っている柔軟剤の香りの方がしっくりくるようだった。 棚にはたくさんの種類の柔軟剤が置いてあって、香りのサンプルが備え付けられているものをまじまじと見つめそっと周囲を確認してから匂いを嗅いでみた。 数種類を試していると、並びに壮五と同じものがあったのでやはりこれなのか、とサンプルを手にとって嗅いでみる。 「ん…?」 思わずもう一度鼻を近づけたのにはわけがある。 首を傾げてパッケージを確認しても確かにこの匂いで合っているはずなのだが、なんだか今一つ、もう一歩足りない気がした。使う量なのか、種類が変わったのか、いずれにせよ記憶している香りとは少し微妙なズレを感じた。 家に柔軟剤はもうない。どれかを買っていかなければならないのでそのボトルを手にするが、もう一回サンプルに手を伸ばしてみても、壮五から香るのはこの匂いだけではない気がしたのだった。 環が薬局の帰りにコンビニへ寄り玄関を開ける頃には洗濯は終わっていて、壮五がちょうどかごを持って部屋を出たところだった。 「おかえり。買い物?」 「んー。あ、そうだそーちゃん」 「なんだい?」 環はそのまま歩み寄り壮五の肩の部分に鼻を付けてすんすんと匂いを嗅いだ。 壮五がびっくりして咄嗟によろけると、困惑した声で環を見る。 「、な、…なにしてるのかな…」 「んーーー?いやこれだよな。そーちゃんこの柔軟剤の他になんか入れてる?」 「……え?」 「店に置いてあったサンプルの匂いとさ、そーちゃんの服の匂い、ちがう」 小首を傾げる環だったが壮五にはさっぱり言っている意味がわからず、持っていた洗濯物を持ち直した。柔軟剤の他に入れているものなどない。洗剤も環と同じだったしサンプルと違う匂いがすることなどあり得なかった。 「えーと、それはつまり僕のと同じ匂いがいいってことか?」 「そー。違うの使ってみたけどそーちゃんが洗濯してくれてた時の匂いがいちばんしっくりきたから。一応同じやつ買った。けどやっぱなんか違う」 再び今度は壮五の襟の辺りに鼻を近づけてくる環に少し動揺しながら、身をよじる。 「あ、た、環くん、さっき…部屋の掃除したから汗ばんでるかもしれない…」 「ふーん?でも別に汗くさくねーよ。大丈夫」 「……そう…」 「なんかさ、なんだろ。甘い匂いしない?自分で分かるもん?」 壮五は胸の辺りがそわっとする。香水もつけていないのに、そんな匂いするはずがなかった。 「あまい?におい…?」 「んーなんだろ…?牛乳…みたいな?」 「………ぎゅうにゅう…」 ますます困惑しているとそこへ大和が部屋から出てきてお前ら何してんだ?と欠伸をした。 環はいいとこにきた!とそそくさと大和の背中を押して壮五に押しつけ悪びれる素振りもない。 「そーちゃんの匂い嗅いで」 「…たまきくん……」 「この、そーちゃんの柔軟剤と同じ匂いする?」 環が壮五の持っていた柔軟剤のキャップを開けて大和に近づけると、言われるままに鼻をすんすんとさせて続いて壮五のやはり肩辺りに顔を近づける。 「する」 「えーーー。まあすっけど、これじゃない匂いもすんじゃん。牛乳みたいな匂い」 「……牛乳みたいな匂い?」 「甘いっつーかなんかふわっとしたやつ。しない?」 大和がもう一度鼻を近づけてくるのを壮五は懸命に耐え、しないですよね…と力なく零す。 すると、少し考えた大和があーと言いながら今度は肩ではなく耳の辺りをすんすんとすると、壮五は驚いてびくっと身を震わせた。大和はメガネをずり上げてにやっと笑った。 「タマ。それは柔軟剤じゃなくて、ソウの匂い」 一瞬でぶわっと壮五の顔が赤くなった。 環がきょとんとした顔でそーちゃんの?と壮五を見ると首を傾げて同じ様に耳の辺りを嗅いだ。すると服の匂いを嗅いだ時よりも少し甘みが強く感じる香りがして、思わずほんとだ。と呟いた。 「ソウの匂いの服を着たいのかタマ。ガキのくせにえろいな。いや、逆に子供だから言えるのか…?」 「……大和さん、変なこと環くんにいわないでください……それと環くん…牛乳の匂いはちょっとやめてくれるかい…」 「だってすんだもん。しかたねーじゃん。…なんだ、じゃあ俺の匂いと混ざったらこの柔軟剤どんな匂いになる?」 「…え…」 「嗅いでみて」 未だ洗濯かごを持ったままの壮五に環は少しかがんで自分の肩を近づけた。 拒否権の無い壮五は為されるがまま肩にぶつかったのですんすんと匂いを嗅いでみると、「いつもの」匂いがした。 「……柔軟剤の匂いだよ」 壮五がそう言うと、大和も鼻を近づけてすぐにタマからはえろい匂いがする。と言い放った。 ため息をついて僕はもう行きますから、二人で匂いについて存分に語り合ってください…とその場をあとにするが、内心気が気ではなかった。何を隠そう大和の言うことはまんざらでもない。 環の洗濯歴が長い壮五だったが、いつも環の脱いだ衣服からは深くて豊かな、どこかスパイシーな香りがした。初めて嗅いだ時はシャンプーの匂いないし香水の匂いかと思っていたが、ほどなくしてそれが環の香りだと知った時は、とても衝撃を受けた。 だから今回、柔軟剤以外のいい匂いと言われた時にまさか自分で自分の香りだと言うわけにもいかず困った。実際自分が普段どんな体臭でいるかなど分からない。環が牛乳の様な甘い香りだと言ったとき少なからず環の嫌いな香りじゃなくてどこか安心した。 人間として互いに理解し合って好きになってもらおうと努力し続けてきた二人にとって、匂いという一つの性質までも反発し合いどこまでも相容れないコンビだと認識するのは悲しかった。 「……」 環の洗濯物を一旦避けてから自分のものを手に取ると、牛乳の匂い…と思いながらそっと鼻に近づけてみる壮五には、やはり全くその感覚はわからなかった。

EPISODE **あいがこい

"逢坂壮五"には、好きも嫌いもある。普段はあまり口には出さないけれどやりたくないことも、つまらないことも、存外わがままなところもちゃんとある。 それがちゃんと分かってきたのはごく最近のことだ。何年も一緒に居たにしては随分長い時間かかってお互いのそういう人間らしいところに目が向くようにもなったなと四葉環は思った。 (あいがこい) 某日霞んだ春の陽気にソライロタワーから臨む東京の街並みは、実に美しく緻密な模様を描いていた。恐る恐る昇って来た地上から遥か遠いこの場所だったが、高さを忘れて思わず感嘆の声をあげた。 「すげー、高いけどきれー」 窓に程近くまで寄った環を見て壮五は嬉しそうにほほ笑むと、時計を見ながらまだオープンまでには時間があるから色んな場所から見てみようよ、と円形になったタワーの展望台の反対側へと環の手を引く。壮五が人目につくところでこんな風に環に触れてくるのは珍しいことだった。 はしゃいでいる様子が少しくすぐったくて環は黙って壮五に連れられるまま反対側の窓辺に向かった。 平日だったがここまで極端に人が少ないのには理由がある。 ソライロタワーにはいくつかの入場券の種類が存在している。ひとつは一般入場券、予約もできるが当日購入することもできるもの。ひとつは完全予約制の数量限定で販売されているファストチケット。通常のオープンは10時からになるがその30分前から入場できる。ただし数量限定で販売される為、入場出来る組数が限られているので、普通に入場するよりはゆっくりとタワー内を巡ることが出来る。他にもキャンペーンや特別招待券など例外もあるが、今回は壮五が用意していたというファストチケットで入場出来たおかげで、広い展望台の中には数組の客しかおらず心無し気が楽だった。 普段二人で出かけることも無くはないが、日を選んだとしてもそれなりに気を遣わなければいけなかったし、スケジュールの合間をぬっての一瞬やネットで買い物を済ませることが最近では多かった。 こうして二人きりで一日出掛ける計画をたてたのは何カ月ぶりだろうか。 今日は、環の21回目の誕生日だ。 「環くん、こっち側は僕たちの事務所がある方角だ」 反対側のブースにたどり着くや否や、壮五はぴったりと窓に顔を近づけてその向こうに広がる景色を指差した。すっきりと見えている近郊を通り過ぎると、春の靄がずっと遠くだが本来見えるはずの風景を霞ませていてどこかじんわりと環の不安を煽る。キレイに掃除されたガラスはまるで存在しないかの様に透明で、環が自分で行ったときには感じなかった恐怖を胸に知らせた。ちょっと怖い。 「そーちゃん、こっち」 一歩引いて近くに置かれた長椅子に腰掛け横をとんとんと叩いて座るように環が促すと、壮五は怪訝な顔でそこに納まり顔を覗きこんでくる。 「…つかれちゃった?やっぱり高い所怖い?」 「だいじょーぶ。こっからでも見えるじゃん。あれ、がっくんとこの事務所だろ?」 ほんの少しだけ確認できる、形の特徴的なビルの方を指すと壮五は立ち上がってほんとだね、大きくてやっぱり目立つね、とあまり深刻に考えないようにしてくれたのだろう、それ以上は様子を窺うことはしなかった。気を取り直して、事務所が見えるかな、とかアリーナは案外小さいんだな、とか他愛もない会話を二人で続けると、人が少なく落ち着いた場所柄もあってかとてもアットホームな感覚になった。 並んで座っているだけだったが妙な充足感を感じて、環はちょんと指先で壮五の手の甲に触れる。そのまま手を重ねたが、壮五は何も言わずに少し俯いてしばらく黙ったあと何かを言いかけた。 「…た、」 その瞬間、穏やかな音楽だが大きな音と共に本オープンの知らせが流れ、驚いて手を引いた壮五が時計を見た。スマートフォンを取り出すとカフェのメニューを表示させた画面をこちらに見せながら少し赤くなった頬を隠すようにして早口でしゃべる。 「ね、オープンしたみたいだ!、そうだ、このあと下のカフェで少し休憩しようと思うんだけどいいかな?」 壮五が言いかけた言葉が気になったがとても動揺しているのが分かったので、環は笑いをこらえながらいいよ、と頷く。すると壮五は少し声のトーンをあげて、みて!と先程の画面を環の顔の前に持ってきた。近すぎて見えづらい。環が腕を掴んで画面を少し顔から離すと、興奮気味な壮五の顔がスマートフォン越しにのぞいた。 「すごくおっきなパフェがあるんだ!旬の果物を使っているんだって!他にプリンもあるみたいだ!」 すごい勢いでそう言われたので画面に目を戻すと、なるほど人の顔ほどはありそうなパフェグラスにたっぷりとフルーツが盛り合わされた豪華なパフェがうつっていた。環も思わず声が大きくなる。 「ほんとだ!めちゃくちゃでかいじゃん!」 その声を聞いて壮五の顔がタワーの感嘆を聞いた時とは比べ物にならないほど綻んだ。嬉しそうにスマートフォンをいじりながらプリンの画像も見せるが、少し間をおいて咳払いをした。 「そう、でも、今日は、夜食べようと思ってケーキも予約してるからどっちかにしてほしいな、我慢できる?」 「、えー…。まあ、ケーキもあるならいーよ。あ、プリンはお土産にできたらしてもいい?」 環は何とか笑いたいのを堪えて、いかにも残念そうにそう言うとその返答に満足したのか、壮五はとても穏やかな顔でうん、聞いてみるね、とスマートフォンを仕舞った。 やがて、何台かのエレベーターが到着してフロアが一気ににぎやかになる。景色も見たし数枚写真も撮れていたし、二人は早速先程のカフェに向かうことにした。 すぐに迎えにきたエレベーターは環と壮五の他に年配の夫婦一組と添乗員しか乗らなかったのでスペースは広かったが、環はいつもの癖で壮五の真後ろに立った。ふわふわと揺れるくせ毛を見ると思わず触れたい衝動に駆られるが、ぐっと堪える。高いタワーだけに降りるのにも少し時間がかかる。 環はふとおかしくなって俯いて声を出さずに笑った。 先程の壮五の態度だ。自分が食べるわけでもないのにパフェを見て物凄く嬉しそうにしていたくせに、急に落ち着いた振りなどして、本当に可愛いな、と思った。きっと自分ではしゃぎすぎたと思ったのだろう。思い出して口元が緩んでしまう。 思い返せば、なんだか今朝から妙に年上ぶってあれは持ったかこれは持ったかといつになく世話を妬きたがった。誕生日だと思って何かしら変なスイッチが入っているのだと思うが、のっけから高い壮五のテンションに、環も嬉しかった。そんな風に自分を喜ばせてくれようとしてくれる壮五が大好きだった。 聞けば、半年前から紡に休みを調整して欲しいとお願いしていたそうで、今日のスケジュールについては一切壮五からは何も明かされていなかった。ドキドキはしていたが、昨年は壮五手製のプリンを貰って理性が飛んだので今年こそはちゃんと理性的に誕生日を楽しみたいと、多少環も意気込んでいた。 とはいえ、プライベートで一日中外で壮五と過ごすのはもしかしたら初めてかもしれない。環も当然楽しみだが、やはり壮五にとっても一日オフを楽しんで欲しいので出来れば自分だけが嬉しいプランでないといいな、とどこか不安に思ってもいるのだった。 壮五は無意識に自分のことを除外した風景をたまに描く。 人に喜んで欲しいとか、その人の為になればいい、とかその気持ちはとても良く理解できるのだがそこに壮五自身の欲求が無いことの方が多かった。 まあ、欲求が無いは少し言い過ぎで、人に喜んでもらう為の自己犠牲に身を厭わないだけで、壮五にだってちゃんと好みもあるし苦手なことも勿論ある。よく見ていないと分からない些細なアプローチは、出会った当初は当然分かるわけも無く、主張を嫌い何でも環の好みに合わせて動く壮五を何度か嫌悪した事もあった。自分の好きなことを大きな声で言えない壮五は可哀想だとも思った。 無論、付き合って三年目になる今となってはお互い大分好みも傾向も把握出来ていたし、壮五が嫌な時は嫌だとはっきり言ってくれるようにもなった。行きたいところも、やってみたいことも、ちゃんと教えてくれるようになったのだ。そんな風にしたいことがあったとき、優先順位を自分に出来る壮五で居られることは、これからも壮五とずっと一緒に居たいと思う環にとって一番に重要なことだった。 今日は環の特別な日だ。 だからと言って、環だけを優先したプランだったなら意味が無い。二人で楽しむ誕生日にしたかった。 エレベーターを降りると、早速壮五がスマートフォンを見ながら案内表示をきょろきょろと探った。いくつかのフロアに分かれているようで、少し戸惑っている。オープンしたてのタワー内だったが平日だということも相俟ってかそれほど人は多く感じなかった。 「ん、と…」 少し入り組んだ構造のようで、まだ把握できずにいる壮五をうしろから覗きこみフロア番号と案内表示を見比べてあっちじゃん?と指差す。案内によるとテナントの一番端に位置するカフェの為ここからは少し距離がある。歩き出しながらちらっと壮五の方をみた環は、先程の不安を聞いてみることにした。予約などはしていないだろうから、もし壮五の楽しめない場所だったら、他の場所を提案しようと思った。 「端っこだったね。けっこう歩くかも」 「……なー、そーちゃん、その店さ?」 「、うん?」 「美味いコーヒーちゃんとあんの?」 「え?」 「だってそーちゃんパフェいらないだろ?」 壮五は歩きながらきょとんと環の方を見上げると不安そうにそう言った環の曖昧な表情に苦笑した。ちがうとこでもいいよ、と言った環に首を振る。 「大丈夫だよ。ここはね、実は僕の希望8割のお店。root45でも僕ちゃんと自分の好きなもの入れたじゃないか。一緒に楽しめるようにって。心配しないで」 壮五が言いながら指さした方を見ると、途端に鼻腔をふんわりとコーヒーの豊かな香りがくすぐった。店の入り口にとてもたくさんの種類のコーヒー豆が入ったショーケースが並び、奥の見えるところで豆を挽いている。 「すごくたくさんの種類のコーヒーを置いているんだって。僕もちゃんと楽しみだよ」 そう朗らかに笑う壮五にとても安心して、同時にとてつもなく愛おしくなった。 「ちゃんと楽しみだ」と、環の誕生日を一緒に過ごすことを壮五自身の楽しみも交えて楽しみだと言ってくれたことが、嬉しいでは表現しきれないほどの強い感情をもたらした。 そして、大分昔になるが番組の企画で一度だけ行ったカフェのこと、二人で楽しめる時間がもっと増えればいいと穏やかに言った壮五の顔、自信が出るとはにかんだ言葉、洒落たバックミュージックを耳にしながら一緒に見上げた夜空の星の煌めき、環の中で壮五との思い出として一番初めのページにあたる甘酸っぱいその記憶が、心の奥底から鮮明に吹き上げた。 その時には、まさかこうして二人でお互いの誕生日を祝い合い、愛情をもって喜ばせてあげたいと思う日が来るなどとは夢にも思っていなかった。並んで歩んだ月日がじんわりと胸に広がった。 あまりの感覚に苦しくなって店に入る手前で立ち止まり、そーちゃん、と呼びとめてしまった。 なぜか少し泣きそうになっている自分を窘めるようにひと呼吸おいて 「めちゃくちゃ嬉しい、一緒に楽しみにしてくれて、ありがと。大好き」 と言うと、一瞬目をみはった壮五はぱっと顔を赤らめ何か言おうと口を開いたものの、結局はにかんで笑って小さく頷いた。環はふつふつとこみあげる嬉しさに遠慮せず、満面の笑みで壮五の手を取り店内へ向かったのだった。 特大パフェは15分も経たないで環の胃袋にぺろっとおさまり、話しながら一時間ほどゆっくり寛いで店をあとにした二人はソライロタワーに併設しているショッピングモールを散策することにした。普段から買い物はそこそこしていたのでぶらぶらと二人でウインドウショッピングを楽しむ。 途中、立ち寄った革製品のお店で熱心に小物を見る環にそれとなく理由を聞くと、先日撮影の決まった抱かれたい男企画殿堂入りの件でアクセサリーは自前OKとのことらしく一緒に撮影に臨む八乙女楽、十龍之介にいろいろと相談していたのだそうだ。 せっかくなので気に行ったものがあればプレゼントとして買ってあげたいと思っていたので壮五が僕も一緒に選んでいい、と聞くとすぐに悪い顔で笑った環が「はだかにつけるやつだぞ。そーちゃん本気で選べよ」と耳元で囁いた。 思わずたまきくん!と耳を抑えながら叫んだ壮五をおかしそうに笑うと 「ごめんって。そーちゃんが選んでくれんの嬉しいよ」 とこれ以上壮五が照れてしまわない様にこれどう?と手元にあったブレスレットを見せた。 結局壮五が持ってきた細めの革ひもを二重に巻くデザインのブレスレットを環が気に入りそれをプレゼントとして贈ることになった。壮五はわざわざラッピングしてもらった袋を持ってとても満足げにしていた。 しかしそれよりも更に満足げな環がそーちゃん、はい、と既にラッピングされたもう一回り小さな袋を壮五に渡す。 「……?」 「今日いっぱい嬉しかったから、おれからもプレゼント」 いつ会計を済ませたのか、壮五はあまりにもスマートな環のエスコートに驚いて、言葉が出てこず黙ってそれを受け取る。数秒遅れてやっと小さくありがとう、と言った壮五の頭をぽんぽんと叩いて環は照れくさそうに笑った。 おそろいの紙袋を提げ、二人はその後もゆったりとフロア内を見て回り壮五が時計を見る頃には15時を少し過ぎたところだった。 夜は自宅でお祝いをすることにしていたので、三月と一織の実家であるケーキ屋にデコレーションケーキを前もって予約してあった。18時頃に取りに行く約束だ。 そしてその前に、壮五は今日どうしても環と行きたい場所がもうひとつだけあった。 「そろそろ次に行こうか、環くん」 「おー。どこいくの?」 「ほら、前に新しく出来た大きいプラネタリウム、行こうって言ってたじゃないか」 「、え、マジで?チケット取れたん」 「うん、とってあるよ。ちょっと頑張った」 「すげーじゃん!楽しみなんだけど!」 そう言って浮足立った二人が向かったのはオープン当初から行きたいと話していた新設のプラネタリウムだった。かなり大規模な施設でチケットを予約しないと希望の時間に入れないくらい人気で、オープンからは日が経っていたのだが、未だに連日満員が多かった。 何種類か形が選べる座席はほとんどが完全に寝そべって天井を見上げられるようになっていて、一個のスペースがかなり広くとられていた。更に、頭から足元にかけてなだらかに囲うような半個室形態を採用しており、一人用のものから五人で並んで見られるものまであるので、カップルはもちろん、家族連れや団体の観光客からも人気がある。 プライベート性が強く高い天井に設置された全面のスクリーンで見られる天体が話題となっていて、壮五は兼ねてからずっと環の誕生日に行きたいと思っていたのだった。 そんな二人の念願のプラネタリウムは思ったよりも混雑していて、まるで開場待ちの映画館のフロアのようだった。少し困惑したが壮五は人混みがあまり得意ではない環の様子を窺いながら足早にチケットを入場口に通すと座席を確認してすぐに向かった。 環は何も言わずにそのあとを追いシートに着いてからそっと壮五の肩をつついた。 「そーちゃん」 「…うん?あ、もしかしてトイレとか行っておきたかった?ごめんね、けっこう混んでたから早く席に行っちゃったほうがいいかなと思ったんだけど」 「おれは平気だけど。そーちゃん、楽しみにしてたじゃん。お土産とか、いいの?」 壮五が混雑を気遣って急いでいるのが伝わっただけに、どういうニュアンスで言ったらうまく言えるかわからずに環は口ごもる。 確かにとても混んではいたが、せっかく来たので壮五もいろいろ楽しみにしていたのではないかと思ったのだ。その点環自身は、お土産や建物自体にはそこまで興味が無いので見なくても困りはしないが、時間もあるし、少しぐらい混んでいたって気にすることは無いと思った。変に伝わってしまうのが少し怖かったが、環は壮五が楽しみたいことを人混みが嫌いだという自分のせいで楽しめないのは嫌だった。もちろん、職業柄避けなくてはいけないと思っているのかもしれないが、そういうところを全部含めて、気にしすぎる壮五の性格も分かっているつもりではある。 「…んー、じゃあ…環くんが見たいなら、終わってから少しだけ見る?」 壮五が困ったように笑ったのを見て環は少し下を向いた。 今日初めて上手く通じない気持ちだった。伝わりきらない感情はいくつもが差し出した掌から零れていった。今までも、今も。もっと上手く言えたらな、とか他に言い方はなかったかな、とその度に思ってきた。落ちてしまった中からその感情を探してこのことを一番言いたかったと主張するには、あまりに自分の言葉では拙いと環は分かっていた。だが、そうじゃなくて、とは言わなかった。 昔からこういった細かなすれ違いが得意な二人だが、何年経ってもどれだけ一緒に居ても、相手の心が見える様になったりはしなかった。言葉で伝えるのも、黙って受け止めるのも、まだ未熟なのだ。 これ以上二人の齟齬を生まない為に環は気持ちを切り替えることにした。 広い場内は薄暗くいくつも同じ形のシートが並べられていて人がいるのか居ないのかぱっと見ただけでは分からなかった。早速広いシートに横になってみると眼前に広がる巨大なスクリーンが細かい瞬きの様な光を放っていて、たまに星が流れるような映像を繰り返していた。圧巻で壮大だった。 「そーちゃん!すげえ、もう星流れてる」 少し遅れてシートに横になった壮五は、環に言われるまま上を向くとそのスクリーンの広さと高画質の映像にほんとうだね、と驚いた。入場時に貰ったパンフレットを広げて演目を見ると薄暗かったのではっきりと細かい文字は見えなかったが、神話の朗読や季節に因んだ星の紹介をするようだ。 「演出すごく凝ってるって話題になってたから上映、楽しみだね」 「うん。たのしみ。でも暗くてちょっと眠くなりそう」 「あはは、朝早かったもんね。でももうすぐ始まるんじゃないかな」 「さすがに寝ないけど!星見れんのは楽しみだし」 先程の小さなすれ違いは環の喉元を過ぎ他愛もない会話ですっかりまた元の二人に戻った。笑いながら流れた星を見ていると、ふと壮五がこちらを向いているのに気が付いた。 「なに。そんな見んなよ。ちゅーすんぞ」 「…だめ」 「んもー、そーちゃん、照れっから。あっち向いて」 環はそう言ったが、壮五はじっと目線を合わせたまま柔らかく笑い「環くん、誕生日おめでとう」と呟いた。壮五の不意打ちのその言葉にとくんと環の鼓動が跳ねる。途端、照れた環が目線を泳がせ言葉を詰まらせた。壮五はそれをしっかりと見つめてからはじまるね、とスクリーンに目を移した。ゆっくりと場内の照明が落ちて四方のスピーカーからとても穏やかな、しかし聞き慣れた声が静かに流れる。 その声に、二人の目線が一瞬交わる。 「……てんてん?」 「…そ、そうだよね…」 突然の出来事に不意打ちをくらった二人は半信半疑でその声を聞くうちに段々おかしくなってきて環が肩を震わせて笑う。それを見て壮五もすごいサプライズと囁いて笑った。 どうやらtriggerの九条天が期間限定でナレーターを担当している最中だったらしく、triggerが大好きな壮五にしては珍しく情報を見落としていたようだ。ともあれ、ビッグサプライズとなったその演出に壮五が喜んでいる様で環はほっと安心した。 はじめこそ笑っていた二人だったが天のナレーションはとても耳心地が良く聞いているうちにスクリーンの星空との世界観にどんどん引き込まれていった。中盤に差し掛かり今夜の星空を見てみましょう、と天が誘うと一際明るく輝く水色の星が二、三度端の方で瞬いた。 すると、壮五がす、とその方向を指差して環くん、と呟いたのでスクリーンをみてからすぐに横を見ると壮五のまっすぐにその星を見つめる横顔に一瞬にして見惚れた。 「あれ…水色の、一番明るい星、……環くんみたいできれいなんだ」 とくとくと環の鼓動が速くなる。壮五はまだその星を見つめいている。 「春の星。…スピカ、知ってるよね?」 やっとこちらを向いた壮五の頬を優しく掴んで少し身体を起こすと、環は正面から唇を重ねた。 ちゅ、と軽い音だけ残してすぐにまた寝そべるとびっくりして固まっている壮五を横目で見ながら今のはそーちゃんが悪い、と胸の辺りで固まったままの右手を掴むと二人の間に伸ばして重ねるようにしてぎゅっと握った。 しばらくお互い無言でいたが、ほどなくして握られた手をよじり環から逃れた壮五の右手がそっと今度は指を絡めて握り直された。環の手にぴくっと少し力が入った。 それからの内容は二人の頭にほぼ入って来ず、天のナレーションがそれではまた、明日お会いしましょうと終わりを告げると簡易照明がほのかに光りはじめ天体観測は終了した。 二人の鼓動は実に落ち着かないままで、終わったのは分かったがしばらくそこから動けなかった。環はふわふわとする頭で必死に何か言わなければと考えるが結局出てきたのは天のナレーションの耳心地が良かったことだけだった。 「…てんてん…上手だったな」 まだ寝そべりながら環がそう言うと、壮五がうん、と珍しく一言だけで黙ってしまったので手は握ったままに身体を起こし壮五をそのまま引っ張り起こした。壮五の顔を見ると、どうやら目線を合わせられないくらい気持ちに溺れていると分かったので一度強く手を握ってからぱっと離すとよし、と気合いを入れて、かえろう!と環は言った。 時間通りにケーキ屋に寄り、注文していたケーキを受け取ると、19時にはマンションについた。 帰るや否や壮五が少し忙しく先にお風呂もらってもいいかな?と言ってきたので環は頷き、何かやっておくことはあるかと問うとなんでも、昨日のうちに食べ物も飲み物もあらかた準備はしてあったそうだ。 ケーキを冷蔵庫に仕舞って足早に浴室へ向かう壮五を見送り環はテレビを見ながら今日の写真をSNSにアップした。 特大のパフェの写真や壮五の飲んだコーヒーの写真。ラビチャでアイドリッシュセブンのメンバーみんなでやっている共有のグループチャットに同じ画像を送るとすぐに反応してくれた。 写真は撮らなかったがプラネタリウムのことを話すと陸から急に電話がかかってきて興奮気味にどうだったかを問い詰められた。序盤の穏やかな声を思いだすが、すぐに壮五の顔でかき消され頬が熱くなった。その動揺に気付かれないように、めっっちゃ上手だったぞてんてん、と強く言うと心底悔しそうにいいな~~~と陸が落胆した。 「陸くん?」 結構な時間が経っていたようで、急に声をかけられて驚いた環がうしろを向くと半乾きの髪の毛をふわふわとさせながら台所で準備をし始めた壮五が居た。 「りっくん、風呂いってくるから、また明日な」 「うん!あ、環!」 呼びとめられてなに、と言う前に通話の向こう側からせーの、と聞こえ 「たまき、誕生日おめでと~!」 と何人かの声が響いた。驚いたがすぐに嬉しさがこみあげてきて全力で通話口に向かってあんがとー!!!!!!!と叫んだ。壮五が笑った。 「誰といるのかな、陸くんは」 「わからん。でも嬉しかった。あとで聞く」 「よかったね。おめでとう」 「ん。そーちゃんもいっぱい言ってくれて嬉しい。ありがと」 食器を出しながらくすぐったそうに笑った壮五の側に寄り、軽く抱きしめ風呂いってくんね、と耳元で囁くと図らずも壮五の身体がびくっと震えた。 環は浴室へ向かうと先日企画の撮影で一緒だった龍之介から貰った小分けのシャンプーの封を切る。 龍之介と楽とは雑誌の企画である抱かれたい男の特集でよく撮影が一緒になった。殊更龍之介にはとても良く懐いていて、仕事を一緒にしてもプライベートで構って貰っても、全部が自分とは比べ物にならないほど大人だと環は思っていた。 壮五が目の前で龍之介のライブパフォーマンスに興奮するのはいささか嫉妬する部分もあったが、そのせいか自分自身の目標としているところも多々あった。 それに、龍之介も楽も年上でいろんなことを知っている。洋服やアクセサリーなどお下がりも含めてよく貰っていた。今日着たジャケットは楽からのおさがりだったし、ダメージデニムは龍之介から誕生日に貰ったものだった。環にも二人から可愛がられているという自覚はある。照れくさくて改めて口にしたことは無いが、仕事の現場でも個人的な付き合いとしても、頼れる兄貴分がいることは心強かったしありがたいなといつも思っていた。 そんな龍之介がくれたシャンプーは、普段使っているものよりも少し香りの強いものでまだトリートメントをしていないのに指通りが滑らかになった気がした。環はこれは高いヤツ、と瞬時に思った。 貰った時に龍之介が使っているものかと聞くと、「自分にはすこし匂いが甘過ぎるから環くんに合うんじゃないかと思って家から持ってきたんだ、良かったら使って」と屈託のない笑みで返してくれた。普段は使わない香りの系統だったので環には言うほど甘い香りなのかどうなのか分からなかったが壮五にあとで聞いてみようと思った。 風呂からあがるとテーブルには既に豪華な料理がたくさん並んでいた。 環は思わずすげえ!高そう!とはしゃぐと壮五が苦笑しながら僕が作ったやつだからと遠慮がちに言う。 「高くはないんだけど…一応練習して三月さんに許可貰ったものだけ並べたよ」 「え…、は!?作ったの!?これ全部…?」 「うん…やっぱり特別な日だし買ったものの方が良かっただろうか…」 壮五に小首を傾げられ、環はきらびやかな料理の数々をもう一度見遣る。盛り付けも綺麗でどれもレストランで出てきたって遜色ない程の出来栄えだった。元々壮五の手料理が好きな環にとってこれ程理想の御馳走は無論、無い。 最近は二人ともドラマの撮影をしていたこともあり、壮五が撮影で遅くなると手製の料理を食べられる日の方が少なかったので環は文字通り、かつてない程にテンションが上がった。 「いや、そんなわけねーじゃん!いまおれめっちゃ嬉しい、興奮してる!そーちゃんすげー!」 思わぬ好反応に壮五も少し照れたように笑うと飲み物はどうする?と冷蔵庫に向かった。 「アルコールは、頂きものだけどシャンパンがある。一応果実酒とかも用意したはしたんだけど…明日も仕事だし飲まない方がいいかな?ジュースもあるよ」 確かに明日はメッゾのレギュラー番組の収録だったが、いつもより遅い時間から始まる予定だった。そこまで気を遣う必要もなかったのだが、結局お祝いっぽいからという理由で一杯だけシャンパンで乾杯することにした。 壮五は相変わらず酔っ払うと手に負えないが、以前よりは多少強くなった様でビールなら2缶までは平然としているし少し強めの度数のものでもさすがに一杯では酔わなかった。 早速ソファに並んで座り番組チェックも兼ねて録画していた歌番組の流れるテレビを見ながら和やかに乾杯した。 料理は当然の様に全て美味しかった。壮五は何度も練習したと言っていたが、いつそんな暇を見つけていたのか環には皆目見当がつかなかった。うますぎ、やばい、と言いながら気持ちよく料理をたいらげていく環の姿を見て、壮五が安心したように笑う。 やがて、21という数字のロウソクの火を環が吹き消す頃には、ほとんどの料理は無くなっていて六つに切り分けられたケーキの半分を環は瞬く間に食べ終えてしまった。壮五は慌ててひとつ貰ってもいいかな、と残り三つのうちひとつを皿に取ったのを見て、驚いたように環が大丈夫か?と眉をひそめた。 「ケーキだぞ。甘いけど、食えんの?」 「うん、大丈夫。今日は僕も一緒に食べたかったから、注文するときに少しだけ甘さを控え目にして貰ったんだ」 そう言ってぱくと一口食べた壮五は、すっきりした甘さだねとすぐに美味しそうに二口目を頬張った。 環はそんな壮五の姿にじわっと熱い気持ちが胸に広がった。一緒にお祝いをする、という意味をすごく深く考えてくれていたことに今更ながら強く揺さぶられる。いつか、共有したい、環くんと同じものを見て環くんと同じことを思いたいと口にした壮五の切ない顔を思い出す。 好みが違うことは罪じゃないのに分かりあえないことはとても苦しかった。好きなことを一緒に楽しむ為にはどちらかが少し譲り合わないといけない。それが苦痛だったら意味がない。 だから、お互い少しずつ我慢した真ん中でならもしかしたら抱き合えるかもしれない。笑い合えるかもしれない。 壮五の理解したいという欲求は万が一環でなければ、受け止めきれない程重たかった。二人で半分にずっと憧れていた壮五のもしかしたら我儘かもしれない感情を、正面から抱きしめて丸ごと愛そうと努力した環が今、見たかった壮五をやっと意識して見ていた。 なりたかった関係、もっと近くに居たい、来てほしい、泣いているのも笑っているのもすぐ気付けるぐらいにぴったり側にだ。 もう少し強く言ってくれないとわからない、もう少し優しく言ってくれないと分かりあえない、そんな二人の望む二人でいられる為に少しずつ変わっていくということがこんなにも愛おしいものだとは。 「そーちゃん」 壮五があと一口でケーキを食べ終えるというタイミングで、環の感情が堰を切ってどぼ、と溢れた。 環は、壮五の首の後ろに左手を添え右手で顎をぐっと持ち上げ上からかぶりつくようにキスをぶつけた。突然のことで身体が拒絶して一瞬強く顔を逸らそうとするも、壮五の気持ちはそのキスを受け入れたがりケーキの乗った皿を膝に手放してそっと環の耳の辺りに触れていた。 唇を重ねたまま環がさっと皿をテーブルに放ると少し音を立てたがそんなことはもう気にしていられなかった。壮五をそのまま強引に押し倒し深いキスを角度を変えていくつも強いた。当然、息が続かないのは分かっていたが愛おしさの衝動がおさまりきらず壮五が喉の奥から声を漏らすまで環は口が離せなかった。 「、は、ぁ……!」 やっと解放され、苦しさから反射的に溢れた壮五の涙をなめとりながら環が強く抱きしめる。酸素不足でくらくらと視界が回りながら荒く呼吸をくりかえす壮五は、環の背に手を回して軽く撫でながら環くん、と呟いた。ぎゅっと密着したまま環は壮五の首元に顔を埋めながらこれ以上強いてしまわないよう言い聞かせるようにして弱く吐露した。 「…ごめん、ちょっと我慢できなかった、乱暴にした、ごめんな」 そう零す環が今も理性の狭間で揺れ動いているのを感じ取り壮五はゆっくりと環の肩を押し返す。珍しく余裕のない顔で壮五を見下ろす環の喉元が上下し、何かをぐっと堪えてから目をつむった。 「そーちゃん、好きだ、好きすぎてわけわかんなくなりそうだ、」 環の掠れた声に煽られる。壮五は我慢できない程煽情的な言葉を言ったつもりは無かったがどこかのタイミングでそれほど自分に欲情した環に愛おしさを覚え再びそっと頬に触れた。狂おしげにその手を取ると環はそのまま手を引いて組み強いた体制から壮五を引き起こし抱きしめる。 「……えっちしたい、…いい?」 環のどろどろの欲情を低く耳に流され、壮五はドキドキと脈打つ心臓の音に翻弄されながらただ頷くことで精一杯だった。 寝室に向かうとゆったりとはしていたが有無を言わさぬ環の圧力の元、衣服をゆっくりと剥がされながら丁寧なキスが壮五の全身にくまなく施された。先程の様子だと環はあまり余裕が無いかもしれないと思いちょっと痛くても大丈夫だよ、と壮五は言ったがは?と少し怒った声で頑なに環に首を振られ結局時間をかけて丹念に愛撫された。そーちゃん、と何度も無意味に名前を呼ばれたり、かわいい、すき、あいしてる、と散々に言葉で犯されて前戯の時点で過剰な程に敏感になった壮五の身体は触れられる部分全てを熱く溶かされ普段よりも数倍ぐずぐずにほぐれていた。 更に、今日の環からはいつもと違う香りがして、環のものとそのどこか深く甘い香りが交ざり合ってめまいがする程官能的な気分だった。気が付くと口の端から涎が落ちているぐらい気持ちが良くて、たまらず大きく開かれた足の間で愛撫を続ける環の肩に触れる。 「…環くんきょう、ん、…すごく…いい匂い…」 すり、と胸の突起を人差し指と中指の背でいじりながら、良く反応する壮五の様子を窺っていた環は少し笑ってどんな匂い?と半びらきの唇に吸いつく。壮五の答えは待たずにそのまま舌を絡め取りながらぐちゅぐちゅと音を立てて口内をきつく犯した。上顎を舌で擦る度に壮五の腰が反応するのを見遣り、口は離さないまま優しく内腿を撫でる。 「、ん、ッ……」 足をつたってそのまま付け根の入り口に辿り着いた環の指がやわらかくそこを撫でつけると壮五の腰が敏感に強く跳ねた。未だ蹂躙され続ける口内で壮五のくぐもった嬌声が環になめとられて消えていく。 頃会いを見計らって、サイドテーブルに用意してあった潤滑剤に手を伸ばす。環は自らの手をたっぷりと潤し、いれるよそーちゃん、とひくひくと疼く入口に中指をゆっくり割り込ませた。 「ゃ、」 キスから解放された壮五の口から上ずった声が漏れる。 いつもより時間をかけていないので不安だったが、存外柔らかい感触の内壁にボトルの半分もの量を使ってしっかりと中まで潤していく。まずは中指だけを推し進め、反り返った前も緩く触りながらいたくねえ?と環が囁く。壮五が余裕の無い顔で頷くのを確認して、今度は人差し指も含めてゆっくり上下に広げる様にして推し込んでやると堪えるような切ない声を洩らしながらぎゅ、と目をつむって壮五は首を左右に振った。 「ったまきく、だめ、なんか、…ちがうきょう、だめだ、へん、」 環はそれに少し反応したが、手は止めないままなにがだめ?と壮五の耳元で低く呟く。 それだけでひくん、と内壁を締める壮五の身体は気持ちに非常に左右されやすい。朝からハイテンションで、環の誕生日を祝うというモチベーションが高かったせいで、日中も夕飯も、たくさん環に喜んでもらえた幸福度数が、壮五の感度を増し増しに引き上げる。 環も環で冷静に主導権を握っている様に見せて、普段よりもかなり強引にセックスを進めていた。 しかしこれまでも壮五の感度がこうして高まる事は度々あり、そうなると最終的には気が狂ったようにお互いが理性を飛ばしてしまう展開がお決まりだった。壮五が今、行為を嫌がる程に気持ちがよくなっていることを、環は知っている。 「いたい?」 「、っい、たくな、い、けど、」 「きもちい?」 「ッ、いい、い、いいんだけどお、」 指し込んだ指を細かく揺らされてその快感に背中が丸くなる。おまけに昂った先端を指でぐりぐりと刺激されて壮五の全身に力が入った。強くかぶりを振る。 「、やめ、やめてたまきく、ストップ、いっちゃう…!」 「やめないし。感じてるそーちゃんすげーやらしいよ、かわいい」 「っや、だ、あ、め、ぁ、」 力が入り震える身体が二、三度跳ね、弾かれたようにびくんと一度大きく震えると壮五の昂りが溢れる様にして白濁を零した。強く達して一気に脱力し、肩で息をしながら余韻に浸る壮五の内壁がぎゅうと強く締まる。狭くて熱いその感覚が環の腰をじわと痺れさせたが興奮を窘める様にしてふー、と深く息をついた。 環は、奥に根元まで飲み込まれていた指をゆっくり引き抜く。壮五の弛緩しきった腰の下に枕をあてがい持ち上げながら引き寄せるとようやく自身の昂りに手をかけ淫猥に濡れて艶めく入口にあてがった。 「、ま、って…環くん、」 既に触れている環の熱い先端に、ゆらめく思考をなんとか働かせいまいれないで、と必死に告げるも少しずつ入り込んでくる固い感触に再び身体が歓喜してしまう。声にならない快感が喉にはりついて浮いた腰ががくがくと震えた。環も息を詰めながらすぐにでも動きそうになる腰を止めつつ焦らしながら奥へ奥へと差し込んでいく。 ぐり、と内壁を突破する度壮五は短く叫び、顔の側に突かれた環の腕に縋る。普段の数倍身体が敏感になっているのにいつもより強引な環のペースに持て余す快感で頭がふやける。 「う、…っあ、たまきくん、…たまきく、」 気持ち良さそうに繰り返し甘い声で壮五から名前を呼ばれて千切れそうになる理性を何とか保ったまま環は全てを壮五の中に収めきると、手を突っ張りいやいやと首を振っているその首筋に噛みつく。 「まだやだ?中、すげーせまい。きもちいよ、そーちゃん、」 「っ、ん、う、たまきく、ん、」 「なーに…」 「、ん、」 もう半分環の声を聞いていない壮五ののぼせた真っ赤な頬にちゅ、ちゅ、と口づけて宥めると強く押し返されていた肩への力が少しづつ緩くなる。強すぎる快感に吸うだけになっていた呼吸もようやく落ち着きはじめたようだった。啄ばむ様な環の軽いキスに安心して壮五が首に手をまわしてくる。 「そーちゃん、だいじょぶか」 壮五がほとんど息だけでぅん、と答えた。 「ごめんな、やだったな」 毛頭止める気はなかったがあれだけ拒絶されるのも珍しいので壮五の感度が極端に敏感になっていることにいつもより配慮出来なかったことを謝った。汗で張り付いた顔周りの髪を丁寧に払ってやり首を持ち上げて再び緩く口を塞ぐ。されるがままにキスを受け入れた壮五だったが、角度がきつくなったことでより奥に入る環の感触でびくっと身体を震わせる。ん、ん、と身悶えながら環の首から背中に手を回したのを皮切りに身体を密着させたまま激しいセックスへと発展した。 暴発しそうな環の理性が小刻みに腰を揺らし奥を刺激すると快感に狂った壮五の喘ぎに、より一層欲情がかきたてられる。思い切り腰を打ちつけたい衝動をなんとか我慢して名前を呼ぶ。 「、っ、そ-ちゃん、」 「やあぅ、いや、やだ、おく、いやだ、やだ、!」 「わか、…っそーちゃん、うぐ、…、」 「あっ、あ、」 環が動きを止める程酷い壮五のしめつけに、全部気持ちが持って行かれそうになる。だめだ、と思った瞬間、思わず甘い吐息が漏れる程強い射精を迎えた。 痺れる快感にぐらぐらになりながらも昂りが逃がされて徐々に醒めやると、生々しい直接的な感触にはっとスキンをしていなかった事に環は気が付いた。慌てて腰を引くが壮五の足がぎゅっと絡み、抜くのを止められる。鋭くそーちゃん、と呼んだのだが当の壮五はそのまままた身体が密着しびくびくっと強く痙攣し、中だけで達したようだった。揺れる瞳で環を捉えると耳に唇を寄せてゴム今日はいいから、いっぱい中にだして、ととてつもなく色を含んだ声でねっとりせがまれた。環の腰がびくっと跳ねる。 「たまきくん、ね…」 「…っ、」 快感でタガが外れた壮五の誘惑は環を強く支配する。奥で繋がったままとうとう理性半分の環に獣の様にかぶりつかれお互い深い角度で舌を舐め合う。息継ぎの様に一瞬離れるも、唾液の糸を滴らせながら再度強く求め合った。 達したまま中で締め付けられる快感はキスの最中も環の身体を無作為に痙攣させ甘い痺れが止まらない。その感覚に夢中になっていると、突然にゅると口内に壮五の舌が割り込んできて背中にまわされていた手が環の頬をしっかり固定した。 「、っん、ぅ、」 壮五が主導になり歯列をゆるりと舐められながら浮いた舌をつつかれ自分がされたようにだろう、上顎をざりざりと擦られる。これには環の鼻から甘い声が抜けた。深く交わっていた口同士を壮五が解放すると息苦しいのと気持ちがいいので目が虚ろに揺らぎ、環の口から涎がつ、と垂れた。 「……かわいい、たまきくん、」 動けないくらい感じた環の口元を丁寧に舐め取る壮五に翻弄されて中の昂りが制御出来ず二、三度腰を打ちつけて達してしまう。中いっぱいに零れる感覚に壮五がまた淫らに内壁をうねらせた。もうこうなってしまっては環には自分の欲情をコントロールできるはずもなく腰を前後する以外何も考えられなくなっていった。感度の高くなっている壮五の身体も穿たれる環の興奮に何度も何度も中だけで達してしまってもうあまり感覚が無い程だったが、ここまで夢中になって腰を振る環の姿は久しく見ていないので特別な日に好きな様にさせてあげられてとても幸せな気持ちだった。 やがて何度目かの射精で環がやっと肘から折れ壮五に抱きとめられた時にはもう、お互い声も出せないほどに精魂尽き果てていた。 「、………」 「………っ、」 理性を手放して本能で快感を追ってしまった環は息を荒げながら壮五の腕の中でがくがくと震えた。されるがままに受け止めていたせいで大分ほとぼりが醒めていた壮五はそんな姿も愛おしくて環の背中をゆるゆるとしばらくさすってやる。ほどなくして環はふるっとかぶりを振って涎の出ていた口元をこすると、ゆっくり身体を起こしそーちゃん、と壮五の唇を食むように優しく優しく啄ばんだ。 ここ最近で一番激しい繋がり方をしたせいでしばらくベッドに並んで寝そべり動けずにいた二人だったが環が掠れた声で再びそーちゃん、と呼びかける。 「なか、出しちゃったからきれいにしないと」 「…うん…お風呂…入らなきゃね…」 そう答える壮五の目は腫れぼったく赤くなっていて痛そうだった。環はそっと手をのばしてまぶたを親指で撫でる。それから散々行為中にいやだと言っていたのを思い出して、だるい身体に鞭打って横から抱きしめると、壮五はどうしたの、と優しく髪を撫でてくれた。胸が苦しくなる。 「ごめん…やだっていっぱい言ってたな…」 壮五の頭に顔を埋めたままそう零した環にふっと息を吐いてよしよし、と頭を撫でてやる。気持ちよかった?と問うとん、と小さく頷いたので思わず笑ってしまった。ふと甘い匂いがして壮五はそれが環の髪から放たれていることに気が付いてそっと撫でてみた。環が心地よさそうに顔を上げて撫でていた壮五の手を取りちゅっと口を付ける。 「環くんシャンプー変えた?」 「んーん、今日だけ。そういや良い匂いって言ってたなそーちゃん」 「サンプルか何かだったのか?」 「リュウ兄貴から貰ったやつ。なんかおれに合うって持ってきてくれた」 「十さんが?……なるほど…」 納得してすんすんと環の頭に鼻を寄せ直接嗅いでみると、環の香りも相俟ってかやはり随分と甘美な匂いで思わず胸に深く吸い込む。くすぐったそうに笑った環がそーちゃんが好きならどこのか聞いとくと嬉しそうにした。 「多分高いやつだとおもうけど。髪ちょーするするじゃね?」 「確かにすごいさらさら。でも、いつものも好きだよ。それに…毎日これだとちょっと…」 「えー…そーちゃんすけべすぎ…」 「……」 環は少しずれて腕を枕に壮五を抱き寄せる。胸元にぴったりおさまって環に背中をさすられるとどっと安心して少し眠たくなった。癖で環の腹筋を撫でたりなぞったりしながらまどろんでしまいそうになる。環は出来ることならそのまま寝かせてやりたかったが中に精液をしこたま出してしまったので今日は絶対に風呂に入れなければいけない。ここで寝落ちさせてしまっては起こすのに可哀想だった。壮五の閉じかけて震える睫毛にそっと触れてくすぐるととろんと見上げてくる目をじっとみつめた。 「お祝いしてくれてありがと。嬉しかった」 「……うん、お誕生日おめでとう。…大好きだよ」 「、ん………」 「たまきくん…」 「……おれも……」 環が確かめる様にぎゅううと固く抱きしめると、壮五が嬉しそうにやわらかく笑った。 いつもは風呂にも一緒に入るが、今日は中に出したものの処理がある為、先に環を促すと、壮五はしばらくベッドでぼーっとしていた。全身が重だるくやっと下肢の感覚が少し戻ってきたが、少しでも動くとツキンと腰の奥に鋭い痛みがはしる。眠ってしまいそうでいっそ起き上がっていようかとも思ったが座ると中の精液が下におりてきてベッドを汚してしまうのでなるべく横になっているのが一番だった。スマートフォンもリビングにおいてきてしまったし、疲労感にうとうとしてしまう。 ふとサイドテーブルに置いておいた今日の環からのプレゼントを思い出した。 あけてみようと横になったまま手を伸ばして包みを開くと革張りの重厚なケースの中に、とても革製品とは思えない程繊細な編み込みのされた細身のブレスレットが入っていた。色もデザインもシンプルでさりげない高級感があって壮五は見目一瞬で気に入った。 早速手首に付けて眺めると、自分の細い華奢な腕ともバランスがとれていてすごく嬉しくなる。 優劣を付けるわけでないが、今まで環から貰ったものの中で、一番気に入ったと言ってもいい程好きになった。高揚感で何度も眺めてしまう。 そこへ、存外早く環が濡れた髪はそのままに風呂から上がって来た。 「そーちゃん、いーよ。歩ける?抱っこしようか?」 「環くん、見て」 「、あけたの。いいじゃん、やっぱ似合ってる。見た瞬間そーちゃんにつけさせてやりたいって思ったから買って良かった。どう?」 「すごく気に入ったよ。ありがとう。嬉しい。無くしたら悲しいからつけて歩きたくないくらいだ」 「マジ?でもだめ。ちゃんとつけて欲しくて買ったし。無くしたらまた買ったげるから」 ベッドに腰掛けて壮五の髪を撫でていた環が、愛おしそうにその腕を取ってちゅっとキスをする。壮五はゆっくりと起き上がった。手を掴んで優しく引き起こしてくれた環の唇に、そのまま唇をちょっと触れると来年も二人でお祝いしたいな、とブレスレットを付けた手で環の手を大事そうにぎゅっと握った。 環は少し照れて、まだそーちゃんの誕生日終わってないし、と言うとクローゼットから新しいバスタオルを出して壮五を覆うとひょいと抱きかかえた。 「あ、たまきくん…、」 「や、さっき考えてたけど絶対無理させたよな。ごめんな。好きって思ったらぶわーってなっちゃった。もうちょっと大人になれるように我慢がんばります…」 「……僕も煽ったし。環くんの髪の匂いで変なスイッチ入ったみたいで…」 「なんか変っつってたもんなー」 「しかも今日一日髪結わいてたから…」 「そりゃそうだよ。そーちゃんとデートだし、好きな人が好きっつった髪型にするに決まってんじゃん」 「プラネタリウムでもキス、してくるし…」 「あれはそーちゃんが悪い」 「……ずっとかっこよかった、いつもだけど…」 「…なー反則…。…そーちゃんもかわいかったし。エッチも久しぶりにやだやだ言ってたな」 「…ちょっとあんまり覚えてない…」 「うそつくんじゃねーー」 環にそう言われながら、そっと脱衣所におろされありがとう、と壮五が見上げると環は愛おしそうに壮五の頬を撫でめちゃくちゃに優しくふんわりと抱きしめてくれた。ドキドキと心臓が速くなり自然とキスに向かうと、内腿を環の残滓がとろりと伝う感触がして、壮五は大事な人の特別な日に注がれた濃厚な愛にぞくっと打ち震えたのだった。

EPISODE **バクの見る夢

「…………、ん、」 ごそ、と身じろいだ環の気配を敏感に察知して、浅い眠りから壮五は目を開けた。 時計を見ると時刻は深い。室内に光源は無かったが外からの僅かな明かりが入っている為かぼんやりと視界はある。上半身を起こしてそっと環の姿をのぞいてみると、眠っているようだったがどこか様子がおかしい。 「………」 壮五は心配そうにそのまま身を起こして座るとしばらく環の寝顔を見詰めた。 (バクの見る夢) 今日の環はここ数日で一番かという程体調が良くなかった。 雑誌の取材が一本だけという比較的仕事の軽い日だったのにも関わらず、異常なまでの疲労感で帰宅するとそのまま玄関にへたりこんでしまった。階段をのぼったわけでも急いで歩いてきたわけでもないのに物凄く息が切れてしまい喉がからからで呼吸するのが辛い。全身が鉛の様に重たくてここから一歩も動きたくなかった。 しばらく壁に頭をつけて寄りかかっていたのだが、そのうちうとうとしてきて何度も首を落とした。 眠りたいのに眠れなくて、中に入りたいのに動けなくて、頭はどんどんぼやけてくるのに身体を休めることが出来ずとても苦しかった。 何時間そうしていたのか知らないがとうとう壮五が仕事から帰ってくるまでずっとそこで座っていたようで、玄関を開けた瞬間壮五はうわっ、と声を出して驚いた。 「、環くん…!?どうした…!?具合悪いのか!?」 「…おかえり…悪くない…なんか、動けない……ねむたい、」 「いつからいたんだい?飲み物取ってくる、ちょっとごめん」 そう言って壮五は環の横を無理矢理通り抜けてバッグを置くと、とりあえず常温のミネラルウォーターを手に取る。リュックも背負ったままで、靴もはいたまま、帰宅したその姿で玄関にじっと座っていることしか出来ない環に、体力の限界値が迫っているのだと怖くなる。切なくなってそっと背中をさすってやると、環は目に見えるほどほっと肩の力を抜いたのだった。 「大丈夫…?こういうとき、抱えてあげられないのが不甲斐無い…」 「へっ、そーちゃんがおれ抱えんならむっきむきになんなきゃダメだぜ。もっと食えよ」 「うん……肩ぐらいなら貸せるかもしれないけど、立てそうか?中に入ろう?」 「ん、ちょっと話したら元気出た、…かも。気がする。水ちょうだい」 差し出された手にペットボトルを渡すと、ふたを開けるのにも少し苦戦しながら環はほんのちょっとだけ水を含んで息を吐いた。疲労とは、どうしてこうも生きる全ての気力を削いでいくものなのか。 リュックを肩からおろして、よろっと立ちあがった環だったが立ちくらみか数歩で壁に手をついて俯く。壮五がその腕を掴みながら肩かそうか…と静かに言うと、いい、へいき、とゆっくりとリビングへ向かった。 先回りしてソファに促すと、ようやくここまで辿り着いたことに安心したのか環は座ったまま目を閉じてしまった。 「……服、楽なのに着替えたら…?しばらく横になっている?」 「…うん…」 「ベルトしてたら苦しいだろう、外していいか?」 「、いー、自分でやっから、ちょっと待って、ほっといて」 ほっといて、と言われて壮五は何も言えなかった。今はきっとこのお節介も重たいのだ。気にしながらもそっとその場を離れると寝室ですぐにでも環が寝られるように布団を整えた。ついでに着替えも用意して、恐らく無理だろうとは思うが風呂の準備もした。 戻ってみると、環はキャップをしたままソファに横になっていた。既に寝息が聞こえているのでしばらくこのまま寝かそうと思い側にあったタオルケットをかぶせる。静かにリビングの扉をしめて一人夕飯の支度を始めた。 その後22時頃になっても環は一向に起きる気配がなく、明日はメッゾで午後の遅い時間からの収録があるだけだったがそれも少し不安になる。行けるだろうか。数度優しくたまきくん、と声をかけてみるのだが、どうしてもかわいそうで起こすことが出来ない。しんどそうに息を吐く寝顔を見詰めたまま時間が過ぎて行く。 結局、日付けを超えても環は起きてくれず、壮五は意を決して強く揺さぶってたまきくん、と言った。 ん、と嫌そうに顔を背けて縮こまった環の背をゆるゆると手で宥める。 「ベッドいこう?ここで寝たらちゃんと休めないよ…」 「、……いい…ここで…」 「…スウェット持ってきてるから、下だけでも脱いでくれ。苦しいよ身体…」 「…おきれないっつってんの…そーちゃんも寝ていいよ、起きれたら勝手にやる、から…」 「……………」 環の語尾は消え行った。ほとんど気を失っている状態なのかと思うほどすぐに意識を落として寝息をたてるのを見ているといつ何があってもおかしくない、と本当に心の底から不安になった。 季節は初夏なので、クーラーが無いと少し寝苦しいが温度を上げてタイマーをかけた。そして壮五は来客用に買っておいた敷布団を押し入れから引っ張り出した。 ソファの前に置いてあるテーブルを押しやってそこに布団を引くと自身の寝床をそこに作った。 寝がえりでおっこちたのであろうキャップを拾ってどかすと、ハーフアップで結わいたままの環の髪ゴムをほどいてそうっと撫でた。 「……消すよ…環くん…」 当然返事はかえらない。環の寝息を聞きながら、壮五は静かに照明を落としたのだった。 それからどれくらいの時間眠れていたかは分からなかったが、身じろいだ環の気配に起き上がりじっと様子を窺っていた壮五は、んん、と呻く環の声に側へ寄って心配そうにタオルケットをかけ直す。 すると環は、ぅ、と小さく洩らした直後、苦しそうに「あや」と口にして眉を寄せた。それからすぐに、「そーちゃん、」とも。 「、…環くん……」 壮五の背中にそわっと緊張が走り、悪い夢を見ているのだと直感で判断する。急いで肩を揺らすと環は驚いてビクっと身体を震わせ勢いよく飛び起きた。混乱したように辺りを見回し暗い室内に怯える。 「っ、……ッ……、え、…」 「環くん…。夢だよ、大丈夫、こわいことないよ」 「……え…?、ゆ……め…?どこ、そーちゃん、」 「環くん、」 カチと枕元に置いておいた間接照明を付けてやると、オレンジ色の淡く緩い光が環の姿を照らし出した。 額から流れるほどの汗をかきあまりにも不安気に歪んでいる環の表情に、すぐにしっかりと抱きしめてだいじょうぶだよ、と壮五が声をかける。環は酷く動揺していて、さする背中にもじっとりと寝汗をかいて震えていた。 「怖い夢だったのか?」 「夢…ど、……どこまで、」 「全部だよ」 「………あや………いきてる…?」 悲痛なその言葉にぐっと堪えて、当たり前だろう、大丈夫だよ。と応えてやると安心したのか強張っていた身体の力が少し抜けたようだった。 「そーちゃんどこいってたんだよ……」 「……どこか行ってしまってたか…ごめんね」 「ずっといるって言ったのに、」 「いなくなったのか…?最低だね、」 「、ん、…うそば、っか、」 「ごめんね…。もうどこにも行かないからね…」 「、さっきもそーいったじゃん、なのに、」 なんで一人にすんだよ、ととうとう咽び泣いた環に、心底申し訳なく壮五は思った。せめて夢の中でくらい助けてあげられたら良かったのに、と自分の亡霊にすら失望する。 それでもしばらく抱きしめていてやると、環は徐々に落ち着いてきたようで、壮五の背中に腕を回してぎゅっと強くしがみついてきた。 「……やな夢ばっかみる、寝んのやだ…」 「いつも見てるのか?」 「うん」 「昨日も?」 「うん」 一緒の寝室で寝ているというのに、全く気が付かなかった。 また、ごめんね、と壮五が零してとんとんと背中をあやすようにする。 そして、遠い昔、壮五が幼心に記憶する怖い夢を見た時にかけてもらった言葉をふと思い出した。まだ小学生にも満たない子供に向けたものだったので随分抽象的な物言いだったが今はほんの一時だけでも環の気が紛れればいいと思った。 「やな夢なら、ぼくが全部食べちゃうから。今日はもう見ないよ、大丈夫」 出来るだけ穏やかに言ったつもりだったが、環の身体がぎゅっと緊張したのが分かった。 すぐに身体を離されて強く壮五の肩を掴んだ環が必死の形相でだめ!と言う。 「…、…ぜったいだめ、」 「…?何が…?」 「そーちゃんがおれの悪い夢食ったら、そーちゃんしんどくなるかもしんないだろ、だめ、」 「なんだいそれ…。ん、じゃあ、…バクに食べてもらおうか。それならいい?」 「ばく……?」 環の訝しげな問いに壮五は悪夢を食べてくれる架空の生き物だよ。と言った。二、三度瞬きをした環が首を傾げる。 「なにそれ」 「外国の古い言い伝え。バクっていうのがいてね、悪夢を見てもバクにお願いして食べて貰うことでその夢は現実には絶対にならないっていう話だよ」 「……知らなかった…」 「ふふ。少し賢くなったね」 そうからかわれて環は苦笑すると、抱きしめて宥めてくれた壮五にちゅ、とキスをしてありがと、と肩から手を離した。名残惜しそうにしたのは壮五の方で、環の腕に触れたままもういいの?と零す。 「布団で寝る?おいで。ソファ疲れるだろう」 「……いいの」 「うん。いいよ。眠るまでぼくがちゃんと見ていてあげるから」 気だるい身体をひきずり誘われるままに布団に一緒に横になると、壮五は胸に環の頭を抱えてだいじょうぶだよ、と囁く。深く優しい壮五の声にゆったりと気持ちが楽になった環は、再びその疲労した全身を眠りに委ねた。 環はもうずっと怖い夢を見ていた。 人の気持ちや場の空気感に敏感で聡かった環は家庭内の不穏な気配を鋭く察した。言い争い、時には大きな音を立てながら憎しみ合う両親に、いつも密かに恐怖を感じていた。 母は環と理の前では有無を言わさずに笑顔でいるものだから、どうして喧嘩をするのかと聞いたことはない。母が悪いと思ったことも無かった。 だから、愛情を持って接してくれる大好きな母の、唯一の闇である父の存在は次第に環にとっても憎むべき対象となった。 父が度々子供たちにも見える様に暴力をふるうようになってからは、環は自分が母と理を守らなければと幼いながらも強く自覚した。しかしその精神的な負担は若干3歳に満たない環の小さなキャパシティには大変重たくのしかかり、心の苦痛として夢に如実に顕れた。 とにかく怖い夢だ。高いところから急にまっさかさまに落ちる夢や水に溺れてどんどん苦しくなる夢、大きな黒い何かに追われて逃げ惑う夢に、ワニのいる谷に落ちそうになっている夢。どれもこれも夢の中で環は冷や汗をかき必死になりながらもがいていた。 隣に眠る母は環がそんな悪夢に飛び起きて泣き喚く度にいつでも優しくあやしてくれた。 柔らかく抱かれて大丈夫よ、と背中をとんとんとされると恐怖心に支配された固い心がじんわりと解け気持ちよく揺られながらいつの間にか安心してまた眠った。 母が病に倒れる少し前の晩のこと、その日の環の夢は今までにないくらい壮絶に恐ろしいもので、がたがたと震えながら泣けもせずに怯える環に流石に心配になったのだろう。母はいつもよりも長く抱きしめてずっと背中をさすっていてくれた。 しばらくして汗で冷えた身体をさすりながらたあくん、と母は零した。 「怖い夢、いやだね」 「………うん」 「でも、大丈夫。今日から母ちゃんがたあくんの怖い夢ぜーんぶ食っちゃうから。もう見ないよ、安心して」 「、ゆめ、って、くえんの…!?うまい!?」 「あはは、…うん。母ちゃんに出来ないことはないからね。わたあめみたいに食っちゃうよ」 「…すげー!………でも、かーちゃん…おれの怖いゆめ食ったら腹いたくなるかもよ…?」 夢を食べてしまうと言った母に環は驚きながら目を輝かせた。疑念は無かったが、ふと相当に恐かった夢の味を想像でもしたのか一転して不安げにそう言った環に、母は一瞬虚を突かれながらも弾かれた様に軽快に笑った。 ぎゅっと強く抱きしめて変な子!ならないよ、とおかしそうに笑うのを見た環にも安心して自然と笑みが零れた。 「優しいね、環。ありがと」 それから程なくして、母は病気で倒れた。恐らく長い間我慢してしまっていたのだろう、巣食った病はとても悪く進行していた。 一方でその頃にはすっかり怖い夢をみなくなっていた環は、きっと絶対に自分のせいだ、と心からショックを受けていた。自分のあれほど恐ろしい夢はやはり母の身体には害だった。本当は苦しいのに自分の為に我慢して夢を食べ続けてしまったのだと環は思った。 いつ帰るかも知らない隣にもう母がいないと思うとまた夢を見るようになるのが恐ろしかった。泣き疲れた理が眠る横で一人、環は膝を抱えて泣いたのだった。 「………、」 風化した記憶が夢に蘇り、環はふっと目が覚めた。 恐怖は感じていないがひどく疲れた。視界を遮る柔らかい感触はどうやら壮五で、環の頭を抱きかかえたまま眠っている様だった。その体温と甘い匂いに安心する。 このままだと壮五の腕が痺れるだろうと思い、そっと頭をずらすと壮五がぱっと目を開けてしまった。 「…たまきくん…?起きた?…ごめん…抱きしめたまま寝てしまってたね。苦しかった…?」 「んーん、そーちゃん腕痺れるからもういいよ、ありがと」 うん、と寝ぼけ眼で壮五が頭を撫でてくれるのを心底愛おしく思う。 ただただ疲労していってしまうこの身体の原動力は今となっては壮五しか居なかった。側に居てくれるだけでありがたいのに、優しくしてくれて、労ってくれて、そして愛してまでくれるという。 その温かさにじわっと環の視界が緩んで寝ながら涙が零れた。 「、泣いてる…?たまきくん………」 壮五が驚いて咄嗟に再び頭を抱えて宥めると、必死にどうしたの、また夢みた、バクじゃだめだったかな、と話しかけてきてくれる。それがなんだか妙におかしくて、安心して、嬉しかった。 「はー、……大丈夫。そーちゃん…」 「うん?水飲む?」 「見なかった、夢。バクきいたぜ」 「……ほんとうか…?泣いてるじゃないか…」 「そーちゃんがあったけーから安心してんの」 「……、」 起き上がった環はカーテンの隙間から覗く白んだ空に朝を見て、もっとはやくバクのこと知ってたら、おふくろにおれの悪い夢食べさせなくて済んだのになと言った。 壮五はそれに何も言わないまま自分も身体を起こしてぴったり隣に寄りそった。 環はそんな優しい壮五の手を握ると、理がいなくなってから施設で見た怖い夢は一人きりで泣いてやり過ごすしかなかったことを思い出した。夢を食べてくれると笑った母はもういない。理を守ることで無意識に存在意義を確かめていたのに、その理さえもどこかへ行ってしまった。 一人の現実を突きつけられる度にいつか自分も夢に飲み込まれて無くなってしまうんじゃないかと思った。怖くて怖くて、仕方がなかった。 生きて行く為に求めた欲求は探しても例え見つけても手に入れられるかとは比例しなかった。 急に抱えさせられた「一人で生きる」という人生を上手く歩けたかと言われると勿論そんなわけがない。誰かと居ることは期待することで期待したからには裏切られたくない。いつだって自分だけを見ていて欲しいのに、環だけを褒めて認めてくれる人間はどこを探しても居なかった。 誰も側にいないことにうちひしがれて常にだれかの温もりを欲したまま満たされることを知らないで歳をとっていく。それでも、いつしか一人で立っていることに怖がってばかりいられないのを悟ると、転んでも自分で立ち上がる術を自らが見つけて生きてきたのだ。 生命の尊さも、人のぬくもりも、痛みの最中でしか知る由がなくて。 そんな中見つけた、四葉環とは正反対の逢坂壮五は傷つけ合いながらも解り合おうと手探りで触りあった環の裸の心を捉えて言ってくれた。君をみてるよ。 壮五の体温は早朝の静かな世界に生命を確かに灯す。それが今は環の居場所の目印だった。 一人じゃないから、自分の体温も分かる。壮五は環が生きていることをいつだって隣で照明してくれている。 「な。…バクもさ、夢…見んのかな」 環はふと悪い夢を食べてくれるというバクは、じゃあ一体どんなにか怖い夢を見るのだろうかと思った。 そして、自分の夢を食べてやるとあの時言った母の見た夢はどうかほんの少しでも幸福なものであって欲しいと、少し俯いて目を閉じたのだった。

EPISODE **うみのまんなか

こうして観客を交えてMCをするのも中々こなれてきて、回数をこなすごとに一体感が増していくような感覚はメッゾとしての二人を真摯に見守って応援してきてくれた人達との絆の様なものを感じさせてくれた。ファンはいつまでも二人のことを好きでいてくれる保証は無い。そして、いつまでも自分達がこうして活動を続けられる保証も。だからこそ、観客の人生の一瞬を彩る為、費やしてくれた、共に過ごしてくれた時間の分だけ、精一杯愛情を返していかなければならない。 それは、隣に立ち一緒にここまで歩いてきてくれた環にも言えることで。 ふと目が合っておおらかにそれを受け止められると心がぎゅっと切なくなる。上手く笑えたか不安だった。 やがてスタンバイが出来た合図で一気に壮五の緊張感が増す。次がこのツアー最大の山場である。 ソロのコーナーだ。今回は企画の段階でいつもとは少し変わったことをしてみたいという話が出ていたことでいくつかの案の中からお互いのソロをプロデュースするというのに二人は惹かれた。 もう幾度もツアーで公演を重ねた大事な楽曲はもちろん、近年のアイドリッシュセブンの中でのソロ曲、そしてメッゾとしての二人のソロ曲も数が増えてきた。 けれど、壮五はプロデュースという言葉を聞いたとき、瞬時に、環に歌って欲しいメロディが浮かんだ。 環はすぐにいーねそれ、とじゃあおれそーちゃんの振り付け考えたい、と言った。 照明の落ちたセンターステージの暗闇に壮五は一人佇んだ。 曲が始まるまでのこの静寂と闇が例外なく毎度毎度壮五の心臓をチクチクと刺激する。 複数公演入っているであろう観客は、それでもこの時の緊張感に未だ慣れずにいるだろう。なぜなら壮五自身が毎回震えるほど激しく緊張するからである。 ソロでの新曲に環が振りを付けたこの曲が、壮五の人生至上最大のトラウマ曲といっても過言ではない。 とにかく環の求めるレベルが高くて困った。今までの曲では到底踊ったことのないような終始激しい振り付けを指定されるが考えた本人である環ですら一曲踊り終えるとまともに喋らないでいるのに体力に自信のない壮五がそれを満足に踊りこなせるわけがなかった。 はじめは無茶苦茶と思える要求に何度も衝突したが、やればやるほど環は真剣にこれを提案しているのだと思うと壮五はもうあとは精一杯やるしかなかった。 今のところステージ上でこれといったミスはしていないのだが、後半につれて密な動きが多くなりどうしても表情までもを保っていられなくなるのが難点だった。 むずがゆい腹の奥から緊張がせりあがる。カウントが入りその姿がセンターステージの中心に照らされた。 「そーごくんっ、大丈夫!水だよ!」 今日も冷えたタオルと共に万里の声がする。壮五は信じられないぐらい酸素が足りなくて息が出来ているのか出来ていないのか最早わからず軽くパニックだった。ステージの床下で倒れ込みもう何がなんだかわからないがとにかくほっとする。 スタンバイまでは環のソロの一曲分と、その後のミニMCを挟んでいるので大分余裕がある。 なんとか無事にソロ曲を踊りきったようだ。最後にはけるステージ脇の階段を一段踏み外したぐらいで大きなトラブルは今回も無かった。安心する。 もう最初のステージから恒例となった壮五ソロ後のスタッフの対応のぬかりなさと言ったら流石プロであると毎回壮五は思った。ほぼ酸欠で記憶にないまま衣装がチェンジされているし冷た過ぎない強風がびっしゃびしゃになった頭をいつの間にか乾かしてくれている。言わなくても水のストローが口に差し込まれているしエネルギー補給のゼリー飲料まで食べさせてくれている。しかしその超介護状態を恥ずかしがる余裕はこの時の壮五にははっきり言って無い。されるがままに気がつくと、今日も環のソロの中盤である。生きている。 モニターに映る環はアコースティックギターを抱えてその音色と共に壮五の作曲したきれいなバラードを届けている。壮五は頭上から振る環の歌声に言い知れぬ満足感を覚える。 自分が環の為に環が歌うことだけを考えて作ったその曲を、当たり前に環が歌うこと。いつものことだが壮五の目から感無量の涙が溢れた。情緒が不安定だ。 万里がそれを見て乾いたタオルを差し出してくれる。 「今日もおつかれさま。にしてもいい歌だねえ」 「……ですね…」 「壮五くんもとっても良かった。めちゃくちゃかっこよかったよ」 「はい……ありがとうございます…」 「そろそろメインの方に戻ろうか。もう歩ける?」 頷くと大サビのフレーズがその背に刺さる。愛を模したその言葉の数々は、壮五が環に思っていることで間違いない。壮五の気持ちを環が壮五の口調で歌う。歌い手である環に向けてだ。壮五は自らが生み出したのだから当たり前だったが自分の心に刺さり過ぎるその歌詞もメロディも好きすぎて、公演中なのに環への愛情が手に負えずソロの後にはまともに顔が見られなかった。 馬鹿なことをしてしまったなと思ったがまるで自慰の様に自らの好きなところを執拗に愛撫して満たされてしまうようなその感覚が自分にしかわからないのだと思うと世界中で環にこの歌を歌ってもらえるのは自分だけなんだという優越感を感じてしまうのだった。 出来上がった時に環はまるで疑うことなくおれのこと好き好きソングじゃん。と言った。そして、こんなん好きな人に歌わせよって考えんのなんてそーちゃんぐらい。超超ド変態じゃん、と笑った。 メインステージに戻り袖に待機する。やがて環のソロが終息を迎えて雪の様にちらつく紙吹雪の特効が降る真ん中で佇む背中を確認するとゆっくりとステージに向かいマイクのスイッチを入れた。 「環くん」 いつもの流れでミニMCを始める。環は既に次の曲の衣装を着ているのでここではセンターステージからメインステージまでの花道を移動しながら進めて行く。が、環はしばらくそこから動かなかった。 不審に思った壮五は何かあったのかと急いでセンターステージに行こうとするとその様子を見上げる観客が目に入った。何故かほとんど全員が泣いていた。 驚いてモニターを見上げる。 「……すげーいいうた、なんか泣いちった…」 マイクに向かって照れくさそうにそう言った環は鼻の頭を赤くしながら、頬にいくつもの涙の筋が残っていて思わず壮五は俯いた。 環がこちらへ向かって歩いてくるのが分かる。顔が上げられずそのまま固まっていると環がマイクを通さない声で「誕生日おめでと。愛してる」と囁いた。 次の瞬間、会場の照明全てが落ちて一瞬で何も見えなくなった。環が抱きしめてくるので困惑するもすぐに並んで隣に立ち背に手を添えてくる。そして耳元で聞こえる「見て」。 どこをとも言えず正面を見ると、真っ暗な客席に突如パープルのリボンがかかったスカイブルーの巨大なプレゼントボックスが躍動感たっぷりに浮かび上がった。その鮮やかな映像に思わず息を呑む。 ボックスは今にもはちきれそうに縦に伸びたり横に揺れたりしている。ついにリボンがほどかれてその暴れん坊の中身が正体をあらわす。 「あ…王様プリンさん…!」 「かわいーだろ」 見慣れた黄色いふかふかのボディでまるで画面いっぱいというぐらい会場全体が黄色くなるほどこちらまでつめかけるとマジックを持ち環の字で「そーちゃんたんじょうびおめでと」と空に描かれた。 思わず環を見ると、いたずらっぽく笑って再び正面に向く。 プレゼントボックスに駆け戻った王様プリン(環?)は今度はその中からメッゾカラーの紐を取り出してまたもや会場全体をまるで空を飛ぶように駆け巡った。 リボンの先にはさまざまな色のフラッグがついていて長い長いガーランドになっていた。二階席の端から端までそのガーランドが行きわたり風になびく。環プリンは再びプレゼントボックスを今度は抱え上げてさかさまにしてしまった。一気に中身が視界全体に散らばって正面から強い風が吹きつける。本当に風がきた。まるでテーマパークのアトラクションだ。壮五はなびく前髪にそんなことを思う。 そしてそこで初めて (そーちゃんそーごさんソウそうごソウゴおうさかさん) ハッピーバスデー! とアイドリッシュセブンのメンバーがお祝いの声を発してくれた。 いつの間にかディアバタフライがエンドレスで流れている。散らばったボックスの中身はたくさんの、それはもうたくさんの写真だった。随分昔のものからごく最近の、ともすれば昨日の公演後のものまで実に長い年月の様々な壮五が散らばっていた。 ゆっくりとスライドしていくその写真の数々を見ているとその時の心情やエピソードが順繰りにあたまの中に浮かんでは消えて行く。そしてそのほとんどが、環との写真ばかりだった。 先程から耳の後ろ辺りがざわざわして喉に何かつかえたような不安になるぐらい深い深い感情が胸に蟠っている。胸がいっぱいという表現をこれほどまでに身体で感じたことがなかった。 写真を見詰めながらやっと、ありがとう、と壮五が零すと環が笑ってマイクのスイッチを入れた。 「いくぞ!せーの!」 1万人を超える観客席からのぴったり揃った「そーちゃんお誕生日おめでとう」という言葉、音、の衝撃で壮五は少しよろけて驚く。その直後プロジェクションマッピングでの素敵な演出が消えてかわりに会場全体が壮五のメンバーカラーである紫に本当に一本の例外もなく紫になった。 ステージも全ての照明が紫色に変化してまるで光の海に投げ出されたような壮大で圧巻な景色に壮五は言葉を失いただただ見渡してしまう。そしてそのうちに滲んでしまう視界を自分ではどうすることもできなかった。 「すげ!きれー」 「……」 「写真とる?とろ?」 「ん…」 「…はっ、やば、そーちゃんぶっさいく…もっとカッコイイ顔しろ」 「うるさいなっ!」 「うける、はいいくよ~~~」 「あ、…みなさんっ!ほんとうにありがとうございましたっ!」 環の指がシャッターボタンを押すとポン、と軽い音が鳴る。制止したままそれがすぐに動画で撮影されていることに気が付き二人で顔を見合せながら吹きだした。 明日は休演日だ。 3日間の疲労が最大限にたまった身体は帰宅してすぐに沸かした風呂の湯船の中で、まるでお湯と一緒になってしまったかのような心地良さに壮五の意識が飛んでいきそうになった。 のを、環は抱き抱えながら呼び戻す。すっかり環に全身を預けてぐたっと浮かぶ壮五の姿に苦笑いする。 「朝からエッチすっからだよな」 「もう、それ………二度としない…」 「きょうもしない?」 「し…する……今日はしてくれないと困る…」 「ヤッター、もう超抱きたい、すっげ~最高のエッチする」 「…なんだか下品だよ…」 これからも公演は続く。きっとこのツアーが終わってもまた次のツアーが待っている。 そしてメッゾもこれからも続いて行く。環と続けて行くこの人生のなかの出来事を、もっともっと二人で半分こずつに分けあっていけたら。手を繋いで向かったどんな先ででもどうか二人でいつまでも笑いあっていられたら。 ふと思い立ってキスがしたくなり後ろを向いて愛しいその顔を両手で挟むと、濡れた頬がまるで泣いているようで今日のソロを思い出した。 「どうして泣いたの?」 そっと唇に触れて頬を撫でる。 環はそれにしばらく黙ったが、やがてそーちゃんが好きだから、と笑ったのだった。

EPISODE **グリーンプリンアラモード

誕生日、と聞くだけで特別な匂いがあたまいっぱいに満ちてしまうのはいかんせんアイドリッシュセブンになって自分のためだけに皆がお祝いをしてくれるという贅沢な味を知ってしまったからだ。 環は駅から壮五のマンションまでの暗がりをほぼスキップで駆け抜けてくると呼んだエレベーターも待ち切れないで三階までの非常階段を四段飛ばしでガツガツ登った。 息切れは少々。踊るように廊下をステップし明かりの漏れだすいざ301号室。 「たっだいまーーー!」 勢いよく開いた扉の中から一気に忙しない雰囲気が溢れて、いろんないい匂い、懐かしくもある心地良い喧騒をおなかいっぱいに吸い込んだ。 たくさん靴があるからにはそれだけ人が集まっている証拠で、きっちり並べられたそれらからは一番玄関に近い場所でスニーカーを脱ぎ捨てる。 「あ、おかえり、たまきくん」 リビングから顔を出した壮五が嬉しそうに言った。 その横から陸、またその横からナギがひょこひょこっと顔を出してまるで幼稚園児みたいなはしゃいだバカでかい声で「環が帰ってきた!!!!!!」「ナイスタイミングでーす!!!!!!」と同時に叫ぶ。 壮五が困った顔でしい、と人差し指を口にあてて牽制してから一転して環を優しい顔で手招いた。 「もうみんなきてるよ」 壮五の言う通り、大和と三月はもう缶ビールの口を切っていて、やや疲れた顔の一織が見詰めるテレビの画面はまじかる☆ここなの劇場版。恐らくは横を陸とナギに固められて動けないまま強制観賞させられていたに違いない。その証拠に陸とナギがげんなりとしている一織をわざと狭く挟むようにしてあるべき場所におさまった。 テーブルには既にホールケーキに特上寿司、から揚げと骨付きチキンは山盛りで他にも大和用の酒のつまみだとか野菜スティックだとかがところせましと並べられていた。 久々のこの何とも言えない空気感に環の心がむずむずと嬉しくなるものだからただでさえ三人詰まった二人掛けのソファに無理矢理入り込んで一織が怒りだすのを待った。 「ちょっと!!!狭いっていうか、いた、七瀬さん……!」 「だって環が~~~」 「オーウ!おしくらマンジュウですね!オッシクッラマンジュッ!オッサレッテナックナ!」 「いたいいた、四葉さんふざけてないではやく抜けて!」 「よーし!いくよ環い!おっされって!」 「なっくな~~!!」 「あっ、待ってななせさ……!?」 三月のげんこつを四人仲良く頭にくらって、ソファにはジャンケンで勝った環と陸がおさまったところでようやっと宴のクラッカーが引かれた。 「ソウ~~今日は無礼講だぞ~~」 「ああ、あ、えーと、すみません……本日はその、遠慮させて頂きたく……」 「ちょっとぐらいいいじゃないの~~」 「そーっちゃん?飲 む な よ?」 「はい……」 「いやそれにしても来年はそろってシャンパンあけられるかもしんないと思うと感慨深いなー」 「メモリアルワインは是非ワタシに任せて。ぴったりのものを見繕っておきます」 「価値がこええよ……」 「おれはもう飲めるよ!ちょっとだけなら飲んでみてもいい?」 「だめです。わたしより先にアルコールを解禁しようなんて百年早いです。来年まで待っていてください」 「……なんで?」 「なにがなんでもです」 「一織くんも何だか複雑なんだね……」 酔っ払えない言い訳として環からカメラ係を仰せつかった壮五は、預かったスマートフォンのシャッターをこまめに切りながら賑やかなこの空気感をたくさん記録していく。 ちまちま野菜スティックを齧る陸と環のツーショット。両頬いっぱいにから揚げを詰め込んだ環。ケーキを美味しそうに頬張る大口に雲丹の軍艦を食べて首を傾げるナギと陸と環の不思議そうな顔には思わず笑ってしまった。酔った大和の耳打ちで真っ赤になった顔や三月に頭を撫でられて嫌がりながらも嬉しそうにする顔、そして壮五にカメラを向けられて優しく微笑んだ顔。 皆で合わせてあげることにした王様プリンのアパレルグッズは、一織がキャップとニット帽、大和がアウターとパーカー、三月がTシャツと下着、壮五がパジャマの上下、ナギがジーンズとソックス、陸がシューズとボディバッグをというとてもおかしくて豪華なプレゼントになった。 貰った包みをすぐに開けては身に付け、全てを着こんでもこもこになって笑った姿。 そうして壮五が撮りためてくれたアルバムの中身をスクロールしながらぼーっとしていると、急に静かになった室内に残ったやわらかな楽しい喧騒の残り香が夢みたいに漂った。 片づけもあらかた皆で済ませてあったし壮五は布団を直してくると言って寝室へ行ってしまった。疲れたとも違うのに満たされた倦怠感で動けずにいるとめくっていたアルバムの画像が今日以前のものへとさしかかる。 先月あったホワイトデーイベントのオフショット。その前のバレンタインの同じくオフショット。新幹線の中での隠し撮りや地方遠征で撮ったメンバーとのふざけた写真。コンドームのスクリーンショット、は消す。ローションのも。病院のベッドの上で見た仮スケジュールのメモも消そう。 「…………」 それから、びっくりするぐらい幾つも残っている振り付けの動画。遡っても遡っても再生ボタンばっかりでため息が出てしまう。それがやっと終わると去年の誕生日にまで戻ってから、とうとう卒業式の写真だ。ダンス仲間と一緒に撮ったものや女子にせがまれて撮ったもの。記憶にあまりないがスーツを着た壮五とのツーショットも出てきた。とても嬉しそうに柔らかく笑う壮五の顔にくぎ付けになってしまって環はしばらくその写真をじっと眺めていた。 「懐かしいね。この時からもう一年経ったんだね」 いつの間にか後ろに居た壮五がそう言ったのに驚いて振り向くと、画面の写真とまるきり同じ顔をして「お誕生日おめでとう」と微笑んでくれた。 照れくさいけれどそれよりも早く触りたくて環は自分の隣を軽く叩く。 「……ね、ここきて。隣」 「もう遅いからゆっくりするのは少しだけだよ。明日も仕事だし」 言いつつはにかんで身体を寄せてソファに座ってくれた壮五からはまだ性的な匂いは微塵もしていなかった。 頭を寄せて画面を覗いた壮五は穏やかな雰囲気のままいかにも自然に手を握ってくる。 「ちゃんと撮れていた?」 「撮れてた撮れてた。全身王様プリンはさすがに笑った」 「全部着たら面白くなっちゃったけど、ひとつずつなら普段使い出来そうだよね」 「みんなで選んでくれたん?相談してたのとか全然気付かなかった」 「うん、提案してくれたのは、ナギ、くん、」 壮五が思わず黙ったのはふと交わった環の目があんまり熱くじりじりに焦がれていたものだから今環が壮五に何を求めているのかを強烈に察してしまったからだった。 メンバーが居たから少し警戒していたのは事実で、つまり我慢していたのが事実であるから、 「……僕、別で、プレゼントがあるんだけど」 「おれに?うれしい。なに?」 「ん、プリン……つくってみたんだ、あの……」 「まじか。手作りってこと?食いたい」 はやく自分だけを見て嬉しいと言って欲しかっただなんて。 どんどん唇付近に顔を寄せながら意地悪く笑う環はいつの間にか壮五の肩を抱いていてさっきまでの無邪気な瞳のあどけなさが危うさを湛える大人びた目線にスイッチしていく。 一方ゆるゆるの口の端にそっと唇をくつけた環にとっても壮五のさりげなく甘える攻撃にはほとほと参っていた。保護者ぶって性愛の微塵も漂わせない顔をしている癖に目が合えばそれだけで誰が居ようと蕩けた笑みをだだ漏らして嬉しそうにするのだからそれがわざとでもそうでなくてもずっこい大人だ。 「そーちゃん、プリン食いたいよ。どこにあんの?」 「冷蔵庫……」 「れーぞーこかー遠いなー。じゃ、先にそーちゃん貰ってもいい?」 「えっ!んむうっ」 壮五がすぐ背後の冷蔵庫を咄嗟に指差したのをぎゅっと握って無かったことにし情欲を知った十九歳ほやほやがいかほど大人に成長したのかを環は試してみようと思った。 一度身体を交えてしまってからはまあまあほぼほぼまいにちの頻度でセックスに没頭する二人であるが開発済みの出来あがった壮五の身体を環の若い性欲が限界まで無理性に好き勝手してしまうのはいささか愛情のぶつけ試合みたいになってしまっている。 時折受けてである壮五には本当に「覚えていない」状態もあってそれが自分の身体にとってまずい行為だったのかどうか壮五自身にも実のところよく分かっていない。 環は環で一番初めの激しい性交渉を基準としているので多少無理っぽい反応を壮五がしていても「しなない」と分かったからにはふつんと急に気を失うとかイキっぱなしの状態で言葉がままならなくなるとかは特に問題ないのセーフゾーンになりつつある。 かくいう自分も途中からほぼ無心で気持ちいい感覚を追っている状態で壮五がどうなっているかなど正直気にする余裕もなかったりなどもごもご。 だけれどこうして一秒ずつ確実に歳は取る。精神的余裕が歳をとるごとにどう深く広くなっていくのかまではまだ分からないが昨日より一昨日よりきっと大人になっているに違いない、はず、そう、たぶん。 「まだみんなの匂い残ってんね、なんかダメなことみたいだな」 「だ、めなことだよっ……するならベッドにいこう、おちつかないしあかるいからっ……」 「明るいとやなん。なんで」 「は、は……はずかし、待って……!」 環の素直な感性でそうやって言われてしまうと煩雑な空気は実に他者の気配で満ちていて、先程までメンバーがここに居たという事実が壮五のいけない背徳心を強烈に煽る。 横向きのままソファに簡単に押し倒されてしまって恐る恐る見上げた先の表情は相方で年下で、王様プリンが大好きな優しい可愛い環であるはずなのにこんなにも紛う事無き「男」であることに衝撃を受ける。 おしくらまんじゅうの楽しそうな声が脳裏でこだましていたが知らず早くなる鼓動に壮五の呼吸が浅くなってしまう。 「っせめて電気消してほしい……」 「よく見えたらもっとイイかも知んないよ」 「い、イイって……」 「"キモチイイ"」 部屋着に着替えていた壮五のウエストの紐を緩めて下着ごと腿までさげると震える身体がみるみるうちに真っ赤に染まりソファに押し付ける様にして逸らし隠した顔も耳から首まで赤い。 明るいからとても良く見えて最高だった。あんまり緊張しているのが可愛くて環はわざと何も言わずにそのまま湿った入口にそっと触れる。 「ぁ……」 ローションで潤うじっとりと熱い感触に環の指先が翻弄されてしまう。さらさらの柔らかな丸みを撫でながらシャツを腹の上までめくれば壮五が胸の前で必死にぎゅっと両腕を縮こめる。 ちゃんとする気でいたくせに手作りプリンがあるとかないとかそんな余裕が三つ年上なだけの壮五に果たしてあるというのだろうか。 「なにがプリンあるーだっつの」 「っ……」 「準備万端じゃん。プリン食わしてる場合じゃなくない?」 「たべてほしいもん、がまん、できたよ、さっきまでならっ……」 「こんなぐちゃぐちゃに解して?食うの待ってられんの?ほんと?」 「さ、……さっき、まで、だったらって……」 粘る指先を眼前に見せつけられて余計にソファに顔を埋めてしまった壮五はそれきり何も言わずじっと羞恥心を堪えて固まってしまった。 理性パンパンに張り詰めた欲情の兆しにどうにか堪えつつも、大人の余裕とはなんぞやと念頭に置き環はいやらしくピンクに色づく耳朶に唇で触れながら「いまはどうなん」と低く囁いた。 「ン、」 「そーちゃん」 すると残念ながら十九歳が覚えたての軽薄な「大人の余裕」とやらでは、三つ年上の恋人である壮五のギア段階を知らない無垢な性愛のスイッチを盛大に弾いた様子。潤んだ瞳のまるで加減ない激しい求愛が声もなく始まってしまった。 ひとつ息を吐いてゆっくりとソファから顔を引っこ抜いた壮五に正面から虚ろに見つめられながら綺麗な指先でそうっと頬に触られる。その淫猥な感触が先日まで童貞だった環にはあまりに刺激的過ぎて目をしっかり合わせたままスローモーションよろしくとても緩慢に柔らかく口をくつけられるまで微動だに出来なかった。 ちゅ、と音をたてられた直後、壮五は危うい表情で小さく「いまはもうだめだ、我慢できないよ」と悪びれなくそう言うのだった。 さてもこうして起こる事後の余韻というには大分スポーツ寄りの疲労感を覚える交わりは寄り添って転がるベッドの上での二人を様々な思考におとしめる。 壮五の色気にあてられて犬に様に腰を振っていたらあっという間に何もかもが終わっている環と、声が枯れるほど環とのセックスの快感に夢中でいると急によくわからなくなる壮五と、お互い始めての性行為に実におもしろおかしく振り回されていた。 「…………(これが……)」 「…………(セックス……)」 実際のところあれからセックスの後は毎回こうしてピロートークもままならない放心状態に陥る二人なのであるが我に返る前に心地良い疲労に誘われてそのままおやすみするのも決して少なくはないいつものパターン。普段のイチャイチャの延長でしたはずのセックスはお互いの制御のきかない快楽のぶつけあいに過ぎなくて二人の思っていた「愛を確かめ合う行為」とは程遠いのは薄々感じていた。 それでも少し冷静になれればぼさぼさになったあたまが愛おしくて触りたくなるし痩せた頼りない肩を引き寄せてぎゅっとしたくなる。そうしてさっきと今、どっちが愛を感じるかと沈黙して考えた二人がやはり同時に思うこととすれば「いまだよなあ」になってしまう。 「(けどそーちゃんがしたいことだし気持ちよくないわけじゃないし)」 「(僕がしたいって言いだしたことだし実際すごく気持ちいいわけだし)」 「(愛って)」 「(こんなものなのだろうか)」 面白いぐらいこんなにも同じことを思い合っているのに通じ会えないのがメッゾであった。 それでも翌朝には、朝食がてらに手作りのプリンをやっとこプレゼント出来た壮五は環が目の前でとても嬉しそうにラッピングの封を切る姿を安心して見詰めていた。 どこから覚えてくるのか変に煽りがちな言葉をちゃらちゃら口にする雄の匂いの濃い環よりもまだこっちの可愛らしくも立派なミニひまわりみたいな笑顔の方が断然らしいし安心する。 「王様プリンさんを目指して作ってみたんだ。一応三月さんに試食してもらってるから味は」 「…………」 「だい、じょうぶ、と思うんだけれど、……環くん?」 「これほんとにそーちゃんがつくった?うそなし?」 ぎゅっと眉根を寄せて困惑した顔で黙った環にサアと青ざめた壮五はまさか一晩のうちに悪くなったのか、それとも環の味覚に百八十度合わなかったのかと大層ショックを受けた。喜んで欲しくて作ってみたのだがもう一生プリンは作らないほうがいいだろうか。自分の腕をかいかぶり過ぎたかもしれない。 おろおろと狼狽していると再度一口控え目にスプーンですくって口に含んだ環の姿はいつぞやの利きプリンの大真面目な顔つきと相違ない。 「ご、ご、ごめんね……そんなに、口に合わないと思ってなくて……」 「そーちゃんが?つくったん?買ったんじゃなくて?」 「へ……」 「おれいまマジで言いたくなくて困ってるから王様プリンには内緒だけど、……あいつより美味いかもしんない……いや、いやでも……待ってもっかい食うから」 真剣に冷や汗までかいてプリンソムリエになっている環はもごもごと再びしっかり吟味したのちやはり信じ難いという顔で壮五を睨んだ。 「うそない?マジのマジでそーちゃんが作ったん?」 「あ、はい…………申し訳ないけれど……」 「くそ、おれの王様プリンより美味いプリン作れるとかもしほんとならもうぜ、っっっってーーー離さないかんね。一生おれから離れないでよ」 「ええ、あ……はい……環くんが喜んでくれるなら、いつでも作るよ……」 「ヤッタ!マジで!?いつでも?まいにちも?いっしょう?」 「一生……はちょっと分からないけれど、そんなに気に入ってくれたなら出来る限り頑張るよ」 「あ!?えっ、…ぁじゃプリン屋やろプリン屋!アイドルとしてじゅよーがなくなったら!」 「ええ?あはは。いつの話のつもりだいそれ」 「んー。よぼよぼんなったらとか?」 「老後の話か……」 環にしては大変珍しくその後も時間をかけて壮五のプリンを味わっていたのでほっと一息ついてそれをじっと見ていた壮五だったがさりげなくとてもすごい約束をしてしまったことに時間差で気がついた。 思わずエッと声を出してしまったがよくよく考えたら環はその言葉の重要さなどきっと微塵も理解しているはずもない。自分の超曲解でプロポーズとして受け取るのはあまりにも滑稽なようでとりあえず一旦、環とはメッゾをやめても将来一緒にプリン屋をやる約束をした。と思うことにした。 それなら付き合っていてもいなくてももしかしたらただの仕事のパートナーとしてかもしれないしいやでもどちらにしろ、 「……ふふ、うれしいな、環くんとプリン屋さん」 壮五にしてみれば油断したら泣いてしまいそうなぐらい嬉しい言葉には違いなかった。 何でもいい。環の側にいられるのならプリンでもパンケーキでも一生隣で作っていたい。些細な約束のつもりだろうがこれはとても大事な大事な約束だ。 だってたった今、環の隣に壮五が一生、少なくともよぼよぼになるまではいてもいいとそういう契りを交わしたのと間違いないのだ。 難しい顔で「美味い……」と震える環は良かった、とはにかんだそんな壮五の胸中など知る由もないのだろう。が、対しての環の胸中など壮五はもっともっと知る由もなかった。 鼻歌混じりに食器を洗う壮五の後ろ姿をこっそり盗み見ながら口から心臓が出そうなほど動揺していた環はふるふると震える手でスマートフォンをいじるふりをしていた。 壮五のプリンが史上最強に美味かったのは本当だ。そのせいで死ぬほど恥ずかしいお願いを素面でスっと言ってしまったのにはびっくりし過ぎて一瞬思考が停止した。 壮五がどんくさくて本当に助かった。何だアイドルやめたらプリン屋になろうって。咄嗟に思いついたにしろ我ながら意味がわからない。 真に受けて嬉しそうにプリン屋をやりたがる壮五も壮五だけれど。 実のところはプリンを作る前提で壮五に一生側にいてくれと言ったのはそれそのままの意味だったので深く考えない「一生離さない」である。 だけれどしかし、環は壮五と付き合ってから、いや、もっと言えば世界一幸せにしてあげたいと感じてからは壮五がずっと一生隣にいて笑っていてくれるのはとても自然なことでありそうなるべきものだと勝手に思っている。 だからいつかは壮五にそのことを伝えたいし今みたいに嬉しそうに喜んでくれるのをちゃんと夢見ている。 ふいに勢いで伝えていいことじゃないし真剣に愛していると大事にしたいと「子供」ながらにそう思っているのだから。 一つ歳を経て壮五との未来に近づいた気はしていたが、勿論壮五だって同じ様に一つずつ歳を経ていくし自分よりも先に大人になっていく。いつまでたっても変わらない歳の差を今ほど憎らしく思ったことも無かった。 セックスだってそうだ。大事だし大好きだからたくさん気持ちよくしてあげたいのは、臆病だけれど壮五より環だし、もっともっと余裕をもって壮五を抱くことが出来たら今よりずっと安心して気持ちよくなって貰えるはずだとは思っているのにやはり壮五を前にすると自分の余裕がみるみるなくなってしまうのが今の現状である。 悔しいが童貞のハンデは厳しい。好きな人とのエッチの快楽に慣れる為にはきっと今よりずっとたくさんのことを経験しないといけないに違いない。 よし、と環は一人密かに気合いを入れて先程の失態を振り払うとそれでも一生側にいてくれると笑ってくれた壮五が何より愛しくて嬉しくて後ろからそっと近づいて優しく抱きしめたのだった。

EPISODE **よりみち

駅から事務所までの暗い道のりを二人並んで歩くのには随分慣れた。 相変わらず環との会話が弾むわけではないけれど、黙って側にいることぐらいなら当たり前になってきたような気がする。少なからず心の重荷は軽くなった。 「トリガー優しいよな~。わざわざプレゼント持って楽屋来てくれるなんてさ。午後じゃなかったらドッキリかも~って疑ってた」 「きっと気を遣ってくださったんだよ。嘘だってからかわれて嫌だったって環くん前に言っていたし」 全く起源の不明なエイプリルフールという悪しき慣習に傷ついてきたうちの一人である環だ。生まれてきたのは嘘じゃないのにそれを祝う気持ちに嘘が混じっていたら子供でも大人でも誰だって傷つく。当たり前のように世界が嘘に塗れる一日。 ただ、仮にエイプリルフールが無くなったとしても世界から嘘はなくならない。嘘は嫌いだという、それは何の含みもなくそのままの意味だろうけれど、嘘ばかりついてここに居る壮五にとっては例え環にその気はなくってもそれだけで責められている様な気持ちになってしまうのはあまりにも被害妄想だろうか。 だけど、後ろめたさの反面、そうしないとここに居られないのだからどうしようもない。 だからせめて、環が相方として、メッゾとして側に居てくれるうちは、少しの嘘だってつかなくていいように見守っていてあげたいと思うのは、本当で。 「桜」 公園の脇道は狭い。並んでは歩けないので一歩後ろでぼんやりとしていたら突然環が立ち止まってそう言った。横を見るとなるほど。絵に描いた様な満開の桜が立ち並んでいた。 「……本当だね。満開だ」 「花見、できっかな。今度。みんなでさ」 「……うん。出来るよ。あとで相談してみよう」 誕生日なのに夜までメッゾの仕事。明日は早朝ロケのメンバーもいる。帰ったらきっと静かなリビングに昼間ラビチャで送られてきた三月特製のバースデーケーキが置いてある。 最近はメンバー全員が忙しくなってきてなかなかタイミングが取れない。いずれ機会はあるだろうけれど、明日も撮影が入っているので今夜はこのまま帰って休むしかない。そんな環の寂しそうな顔を察して咄嗟に寄っていくかと口から零れた。 「ちょっとだけ寄って行こうか。ライトアップされていない夜桜は初めてかも」 「……らいとあっぷ? 光んの?」 「桜の名所では夜も綺麗に照らしていたりするよ」 環はみんなでわいわい祝って欲しいのだろう。でも、それが叶わない今日が終わってしまう前に、ちょっとでも特別な気持ちになってくれたらいい。 花弁の積もる夜のベンチに二人で腰かけると環はぱっと上を見て「星」と呟いた。 星を見上げる環はいつでも愛おしそうに、そして悲しそうにする。 「……本当だね」 嘘月嘘日、それでも本当の誕生日。隣にいるのは好きでもない相方で、桜を見ようと言ったのに、環は星を見ている。埋められない温もりを求めただじっと。両手をぎゅっと組んだ環のあまりにも儚い祈りに思わず手を重ねてしまったのはほとんど無意識だった。触った体温が思ったより冷たくて急に現実味を帯びてしまった。 すぐに訝し気な環の声が耳に触れる。 「そーちゃん?」 「……あの、おめでとう……お誕生日」 「え? へへ、何急に。あんがと」 「あと……あとね、僕とメッゾになってくれて……ありがとう」 環は黙ったが何も空に祈らずとも環を必要としている人間は少なくとも一人は確実にここにいる。だって環がいないとメッゾもアイドリッシュセブンも成り立たないのだ。この世界に環が産まれて来てくれたことにはこんなにも大きな大きな意味がある。だから。 目線を交えると環は反対にふいと目を逸らした。 「…………何だよほんと急だよな。はずい。別にそーちゃんに頼まれたからメッゾなわけじゃないし」 でも、と環は星に祈るのをやめて頬を掻いた。照れているのか口を尖らせて俺も、アリガトウとぎこちなく呟いた。 その瞬間、環がメッゾとして、アイドリッシュセブンとして隣に立っていてくれることは何より特別な偶然なのだと強く感じた。 環とのメッゾは今ここにしかない。他の誰かとでは成り立たないのに惹かれたわけでも近かったわけでも増してや望んだわけでも決してない、反対と反対の端っこから偶然辿り着いて出来上がった二人だけのメッゾという形。 だから、よりいっそう強く願う。星よりも今だけはこっちを見ていてくれたら。 「……帰ろうか……」 突拍子もないことを言ったししたことを自覚すると我ながら照れくさい。誤魔化すように立ち上がって尻をはらうと環が突然袖を引いた。 「あたま。ついてんよ」 大きな手に頭を優しく撫でられてはらりと落ちた花びらから零れたのは。

EPISODE **ねこのみみ

長年の時を経て、やっとメディアでもふもふ好きを公言する様になった一織はその直後から動物系のレギュラー番組を大から小まで昼夜合わせて四本抱えた。幸福度数の急に爆上がりした一織の雰囲気がもう微塵も隠しきれない程もふもふになったのを境に、ライブではやたらとうさ耳、猫耳のオーディエンスが急増したのもその辺りからである。 「あ、昼~。今日もふもふぱあくじゃん。何触ってきたん」 「ん? ああ、もう放送か。猫さんかな。この前はサイベリアンっていう種類のおっきな子がいてね、環くんみたいだって一織くんと話していたよ。とにかくすっごくからだがもふもふだった。珍しく懐いてくれてお腹も触らせてくれたんだよね。可愛かったなあ」 それから、全く何でなのかはよく分からないが一織の番組に壮五は本当によくゲストで呼ばれることが多く、月に一度は必ず何かしらのもふもふと触れ合う機会があるほどだ。元来動物にあまり好かれる方ではないので寄ってきてくれないときはいつも撮れ高が足りているか気が気でなくて困った。 だって、ポメラニアンには永遠に吠えられシャム猫を抱けば全力で伸びて拒否られる。何がいけないのかわからなくて毎回懸命に懐いてもらおうと奮闘するのだがそれはそれで番組名物となっていると知ったのはつい最近のことでもある。 「良かったじゃん。つまり俺似のかわいいにゃあこってことだよな? でかい猫かわいいよな~。犬も好きだけど。俺も触りたくなってきたあ~~~~~にゃあこ~~~~」 「ああああ、それは僕だから環くん~~~あああ~~~、ンやめてっ!!!」 「へへ。やっぱ俺にはそーちゃんいたからいいわ。間に合ってた」 「……もう、僕はペットじゃないよ」  自分達以外誰もいないとて白昼堂々楽屋の一室である。環の手が容赦なくぐしゃぐしゃに乱してしまった髪をなでつけ口を尖らせるもこの距離感に違和感を持たないのはやはり、ついてしまった悪癖だとは思うのだが。 「……」  一転して、情事の後のベッドで微睡んでいると、指先に触れる乾いた髪の感触が随分と心地良かった。今でこそ何事もなかった様になっているがつい先日まで続いていた酷い大喧嘩の末、セックスは一日一度と決め回数をセーブしていることも相俟ってか下腹に溜まった快感の余韻は未だ去ってくれない。こんな調子で毎度少し物足りない気でいるのだが、約束は約束なので我慢はちゃんとする。最も、ただ身体に触っているだけだって別に不満じゃないし何なら触っていられるだけ幸せだ。あの時ちゃんとそう思った。自らに言い聞かせて確かめる様にして環の頭をゆっくりと撫でる。  襟足から上ってなんとなくつむじの辺りへくるとなんだか妙に似た様な触り心地を知っている気がして手が止まる。ぼんやりと記憶をてらしあわせていると程なくしてグレーの長い毛足のことを思い出した。温かく柔らかいお腹。ふさふさのしっぽと弾力のある小さな耳。 「あ……ここ……猫さんのみみのところみたい……」 「ふは……何それ、ぜんぜん分かんないけど……」  あんまり触り良いのでつむじをしつこくしているとくすぐったそうに笑った環が同じように頭の中心を指で優しくなぞってくる。不可抗力でぴく、と内腿が震えたのは内緒。何せ事後の敏感な身体だから仕方がない。 「ふふ、分かる?」 「んー、分かんない。今度にゃあこ触った時たしかめる」  触れてくれるのが嬉しくて顔を寄せるとふと頭を撫でていた手が唇に優しく触りそのまま耳を通り首の後ろに回ったと思ったら静かに口をつけてくるのはずるい。こちとら必死に堪えているのにまたその気になってしまう。 「ん……」 「あ、すーぐまたそういう顔するし。今日のはもうおしまいだかんね」 「…………わ、かってる……」 こうして触ってくれるから続きを期待してしまうというのはどう考えてもこちらが浅ましいというもの。されど、万が一浅ましさを理由に触れられなくなってしまうことがあればそれはそれで寂しくて気がおかしくなってしまうから絶対に避けたいところではある、のは、それは、そうなのだけれど。 「……触るのはいいって言ったよね……」  性懲りもなく伸ばした手が再びつむじに触れると環は呆れた風に肩を竦めた。 「ここが、猫さんみたいだから……」  元はと言えば身体を壊した自分がいけないので勿論嫌とは言えない。されど、環が何かを言う前にこうして言い訳しないと触っていられないのは、一体いつまで続くのやら。 「あーー、もお、だあめ!アンタの触り方はさ、やらしんだよ。何が猫さんだよ。手ぎゅってしててやるから、もう寝んの!はいおやすみーー!」 「…………」 「閉じんの!目!」 「う……お、おやすみ……」  強引に握られた両手と心なし火照って赤くなった環の耳とを薄目に見ながら一度失ってしまった信頼の回復は、そうそう容易でなかったことを苦く思い出した壮五なのであった。

EPISODE **おめでと

せっかくの誕生日だと言うのに朝から壮五の眉間に刻まれていた深いしわは、結局今日一日ずっと取れることはなかった。 仕事中は流石に上手く誤魔化していたようだが、楽屋でも撮影の合間でも、壮五はいつにも増して口数少なく終始何かを思い詰めているように思えた。 そんな壮五の様子を今朝からじっと見つめていた環は、誕生日なのだし今日ぐらいはとはりきっていつもよりはちょっとだけ早く起きたし、いつもよりかは少~しだけ聞き分けのあるようにも努めたし、いつもよりもずっとずっと壮五の側にいたのだから、やはりいつもよりも壮五の様子には敏感になっていたわけで。 まあ、こちらから話しかける分にはぱっと顔をあげて笑うし受け答えもちゃんとしたがそうじゃなければじっと険しい顔で押し黙って何だか怒っている様にも見える。 だが、環がいくら思い返しても怒らせた心当たりなど今日に限っては微塵もないし、もしや今日だけぐらい頑張ってやろうという狡い魂胆が見透かされて呆れられているのかと不安にすらなった。 だからか、何となく一日中話かけ辛いままで実の所おめでとうもまだ言えていないのであった。 「あ」 「……ん?」 「ああ、ううん。今ね、リバーレさんから誕生日おめでとうってラビチャが届いてびっくりしただけ。まさかこんな駆け出しの新人にも構ってくださるなんて思っていなくて……。感無量だよ……」 「あー、俺にもくれたー。優しいよな、二人ともさ」 「そうだよね。何かお礼をしないとな。僕の気が済まないよ」 とは言え、こうしてラビチャに届くオメデトウには喜んでいるし、誕生日が嫌な思い出なわけでもなさそうだ。いつもいい顔をしないことは徹底してしないように頑張ったしプリンだって今日はなんと二個しか食べていない。 なのに、その後すぐにまた壮五の目がきつくなるのを見て環はとうとう不満げにおれなんかした? と呟いてしまった。 「ん?」 「なんかさ、怒ってる? 言ってくんねーと分かんない」 「……僕?」 「ずっとここ、ぎゅってなってんよ。朝からずーっとさ」 眉間を指さして少し口を尖らせるのは今日が誕生日である壮五のためにと色々頑張っていたのに結局未だにおめでとうも素直に言えていない自分が後ろめたくてやきもきするし、そもそもこうなっている原因は壮五の態度だと言いたいからで、半分拗ねた気持ちと、もう半分は上手くコントロールできない自分の感情への葛藤でもあった。 壮五には特に顕著だが、こうなってしまった環は自分でもどうしようもないほど感情のコントロールが利かない。自分の気持ちをどうにか分かってもらいたくて子供みたいに拗ねながら尖った言葉をぶつけてしまうのだ。 「俺がなんかしたんなら言ってくれたらいいのにさ。今日ぐらい喧嘩したくないと思って我慢してたけど、ずっと黙って怒ってんのはそーちゃんだかんね」 そうじゃないのに、どうして壮五には全部うまく言えないのか。 気持ちとは裏腹に環がふいっとそっぽを向くと、一瞬目を丸くした壮五はすぐに首を横に振った。 「ええと、……そうか。そんな風に思わせてしまっていたとは。ごめんね。勘違いだよ環くん。環くんは今日ひとつも悪くないから、気にしないでいいからね」 「…………」 遠慮がちに笑う壮五のこういうところもつくづく嫌になる。何を濁しているのだ。勘違いで何でもないならじゃあどうして自分の前でだけわざわざそんな顔をする必要があるのか。 回りくどい言い訳に聞こえる壮五の言葉にはいよいよ戦闘態勢になってくる環である。 「嘘だね。そーちゃんはいっつもオーウソつき。しかも俺にだけ。じゃあなんでんな顔してんの。俺が気に入らないからだろ? 素直に言やあいいじゃん。我慢ばっかしてないでさ、たん、じょうびぐらい、言いたいこと言ったらいいだろ!」 誕生日を言い淀んでしまったのは素直になれないのはどっちなんだかと自分で自分に呆れたからだ。今日ぐらい我慢すべきは自分だ。分かっているのに。 そうして環がつっけんどんに語気を荒げた途端、壮五は本当に困った顔でふう、とため息をついた。そして無言でバッグをがさごそとしポーチから何やら薬のシートを取り出した。 黙ったままパキンと一錠。 「…………」 予想だにしていなかった展開に環が思わず呆気に取られていると何ともバツの悪そうな顔をした壮五がはにかんだ。 「あの、言い辛いんだけれど……この通り、頭痛がしていただけです……。心配かけたよね。そんなに顔に出てると思っていなくて。でも、言ってくれて助かったよ。今度からはなるべく我慢しないようにします」 「え……」 「ちょっと疲れたからだと思うんだ。薬に頼ってばかりなのもどうかと思って、我慢してたんだよ」 申し訳なさそうにする壮五はなんでもないようにして楽屋に用意してあった水の封を切り薬を流し込んだ。状況が理解できると心なし顔色が悪いように見えるのは多分、気の所為ではないのだろう。 なんにせよ、環は自らが壮五に対して具合が悪くて元気が無かったという想定を微塵もしていなかったことに驚いてしまった。 だって、壮五は出会ってから今日までずっと完璧で、何でもかんでもきちんとするのが好きな人で、いつだってちゃんとできない環とは正反対で、 「は、あ、あたまいたいん……? いまも?」 「うん。少しね。でも薬飲んだからもう大丈夫だよ」 「……てか、……なんで我慢するん……? 痛いの放置して我慢してたらなおるん……?」 「治る時もあるだろう? 今日は偶然治らなかったから今飲んだんだよ」 「じゃあおれがさ、今言わなかったらいつ飲んだん……? 明後日??」 「そんなに続かないよ」 「もお! んなのわかんないじゃん! そーちゃん具合悪いの俺に言わなかった、最低」 「どうして報告する必要があるの?」 「ないと思ってんの??! 痛い時、我慢、ダメ、ゼッタイ、これマネージャーに言う」 「あっ、ダメだよ環くん! マネージャーはいいよ! 余計な心配かけさせたくないから! 割といつものことだから大丈夫なんだってば!」 「いつも!? いつも頭痛いん!? 病気じゃん!? おれそれ知らない、じゃあぎゅってなってるとき全部頭痛いしるし? いやなおさら何で言ってくんないん? やっぱむかつくからマネージャーには言う」 「いやだからいいったら! 普段はすぐ治るから……!」 挟んだテーブルから身をのりだして珍しく必死になる壮五には何だか急に肩の力が抜けてしまった。 何より眉間のシワの理由が自分じゃなかったことにほっとした。 環は、誕生日ぐらいいい子でいようとした自分の狡さは紛れもなく壮五に対しての労わりであったことを今更ながらに自覚する。 そりゃあいきなり全部はちゃんと出来る自信はなかったが、今日から、否、まずは今日だけだっていいのだから、そうやって少しずつでも壮五と対等になってメッゾと呼ばれるために壮五との関係性が何よりも一番大事なことなど誰から言われなくとも分かっていた。 だからこそ、壮五の思う完璧に全部が毎日は付き合えなくても少しずつなら頑張るし、そのかわりに環の自然体だって全部じゃなくとも受け入れてもらえるか否かというのは環にとってとても重要なことだ。 枠にはめて支配した関係性を作るのなら誰にだって出来る。ならば、部外者の誰かの為じゃなくてメッゾはメッゾの為、環と壮五が互いの為だけに二人でいる意味を環はちゃんと持っていたかった。引いては壮五にもそう思っていて欲しかったから。 「はあ、まぎらわしい。そーちゃんがややこしいし分かりづらいから、俺はなるべく分かりやすくいんだけどな。全然うまく噛み合わないのなんでなんだろ」 「……僕だってまぎらわしくしているつもりはないんだけど。噛み合ってないかな?」 「ぜってーーない。……まあ、今日はじゃあ仕方ないから肩たたき券やる」 「かたたたきけん??」 「んー、ズツウはカタコリってマネージャー言ってた」 「え? ああ、いま? あ、ありがとう……。でもマネージャーのは事務の仕事でパソコンとかが、いいっ痛い痛いっ! イッ、環くんっ! もうちょっと弱くっ」 「あー、強弱つけんのは有料になりま~す」 そうとは言っても今はまだやっぱりどこか照れくささが拭いきれずに面と向かっておめでとうが言えないのは絶対絶対壮五のせいだ、と華奢な骨ばった肩を肘でごりごりに刺激する環なのであった。 せっかくの誕生日だと言うのに朝から壮五の眉間に刻まれていた深いシワが、今日一日ずっと取れることはなかった。 仕事中は流石に上手く誤魔化していたようだが、楽屋でも撮影の合間でも、壮五はいつにも増して口数少なく終始何かを思い詰めているように思えた。 そんな壮五の様子を今朝からじっと見つめていた環は、誕生日なのだし今日ぐらいはとはりきっていつもよりはちょっとだけ早く起きたし、いつもよりかは少~しだけ聞き分けのあるようにも努めたし、いつもよりもずっとずっと壮五の側にいたのだから、やはりいつもよりも壮五の様子には敏感になっていたわけで。 まあ、こちらから話しかける分にはぱっと顔をあげて笑うし受け答えもちゃんとしたがそうじゃなければじっと険しい顔で押し黙って何だか怒っている様にも見える。 だが、環がいくら思い返しても怒らせた心当たりなど今日に限っては微塵もないし、もしや今日だけぐらい頑張ってやろうという狡い魂胆が見透かされて呆れられているのかと不安にすらなった。 だからか、何となく一日中話かけ辛いままで実の所おめでとうもまだ言えていないのであった。 「あ」 「……ん?」 「ああ、ううん。今ね、リバーレさんから誕生日おめでとうってラビチャが届いてびっくりしただけ。まさかこんな駆け出しの新人にも構ってくださるなんて思っていなくて……。感無量だよ……」 「あー、俺にもくれたー。優しいよな、二人ともさ」 「そうだよね。何かお礼をしないとな。僕の気が済まないよ」 とは言え、こうしてラビチャに届くオメデトウには喜んでいるし、誕生日が嫌な思い出なわけでもなさそうだ。いつもいい顔をしないことは徹底してしないように頑張ったしプリンだって今日はなんと二個しか食べていない。 なのに、その後すぐにまた壮五の目がきつくなるのを見て環はとうとう不満げにおれなんかした? と呟いてしまった。 「ん?」 「なんかさ、怒ってる? 言ってくんねーと分かんない」 「……僕?」 「ずっとここ、ぎゅってなってんよ。朝からずーっとさ」 眉間を指さして少し口を尖らせるのは今日が誕生日である壮五のためにと色々頑張っていたのに結局未だにおめでとうも素直に言えていない自分が後ろめたくてやきもきするし、そもそもこうなっている原因は壮五の態度だと言いたいからで、半分拗ねた気持ちと、もう半分は上手くコントロールできない自分の感情への葛藤でもあった。 壮五には特に顕著だが、こうなってしまった環は自分でもどうしようもないほど感情の制御が利かない。自分の気持ちをどうにか分かってもらいたくて子供みたいに拗ねながら尖った言葉をぶつけてしまうのだ。 「俺がなんかしたんなら言ってくれたらいいのにさ。今日ぐらい喧嘩したくないと思って我慢してたけど、ずっと黙って怒ってんのはそーちゃんだかんね」 そうじゃないのに、どうして壮五には全部うまく言えないのか。 気持ちとは裏腹に環がふいっとそっぽを向くと、一瞬目を丸くした壮五はすぐに首を横に振った。 「ええと、……そうか。そんな風に思わせてしまっていたとは。ごめんね。勘違いだよ環くん。環くんは今日ひとつも悪くないから、気にしないでいいからね」 「…………」 遠慮がちに笑う壮五のこういうところもつくづく嫌になる。何を濁しているのだ。勘違いで何でもないならじゃあどうして自分の前でだけわざわざそんな顔をする必要があるのか。 回りくどい言い訳に聞こえる壮五の言葉にいよいよ戦闘態勢になる環である。 「そーちゃんはいっつもオーウソつき。しかも俺にだけさ。じゃあなんでんな顔してんの。俺が気に入らないからだろ? 素直に言やあいいじゃん。我慢ばっかしてないでさ、たん、じょうびぐらい、言いたいこと言ったらいいだろ!」 誕生日を言い淀んでしまったのは素直になれないのはどっちなんだかと自分で自分に呆れたからだ。今日ぐらい我慢すべきは自分だ。分かっているのに。 そうして環がつっけんどんに語気を荒げた途端、壮五は本当に困った顔でふう、とため息をついた。そして無言でバッグをがさごそとしポーチから何やら薬のシートを取り出した。 黙ったままパキンと一錠。 「…………」 予想だにしていなかった展開に環が思わず呆気に取られていると何ともバツの悪そうな顔をした壮五がはにかんだ。 「あの、言い辛いんだけれど……この通り、頭痛がしていただけです……。心配かけたよね。そんなに顔に出てると思っていなくて。でも、言ってくれて助かったよ。今度からはなるべく我慢しないようにします」 「え……」 「ちょっと疲れたからだと思うんだ。薬に頼ってばかりなのもどうかと思って、飲むの我慢していたんだよ」 申し訳なさそうにする壮五はなんでもないようにして楽屋に用意してあった水の封を切り薬を流し込んだ。状況が理解できると心なし顔色が悪いように見えるのは多分、気の所為ではないのだろう。 なんにせよ、環は自らが壮五に対して具合が悪くて元気が無かったという想定を微塵もしていなかったことに驚いてしまった。 だって、壮五は出会ってから今日までずっと完璧で、何でもかんでもきちんとするのが好きな人で、いつだってちゃんとできない環とは正反対で、 「は、あ、あたまいたいん……? いまも?」 「うん。少しね。でも薬飲んだからもう大丈夫だよ」 「……てか、……なんで我慢するん……? 痛いの放置して我慢してたらなおるん……?」 「治る時もあるだろう? 今日は偶然治らなかったから今飲んだんだよ」 「じゃあおれがさ、今言わなかったらいつ飲んだん……? 明後日??」 「そんなに続かないよ」 「もお! んなのわかんないじゃん! そーちゃん具合悪いの俺に言わなかった、最低」 「どうして報告する必要があるの?」 「ないと思ってんの??! 痛い時、我慢、ダメ、ゼッタイ、これマネージャーに言う」 「あっ、ダメだよ環くん! マネージャーはいいよ! 余計な心配かけさせたくないから! 割といつものことだから大丈夫なんだってば!」 「いつも!? いつも頭痛いん!? 病気じゃん!? おれそれ知らない、じゃあぎゅってなってるとき全部頭痛いしるし? いやなおさら何で言ってくんないん? やっぱむかつくからマネージャーには言う」 「いやだからいいったら! 普段はすぐ治るから……!」 挟んだテーブルから身をのりだして珍しく必死になる壮五には何だか急に肩の力が抜けてしまった。 何より眉間のシワの理由が自分じゃなかったことにほっとした。 環は、誕生日ぐらいいい子でいようとした自分の狡さは紛れもなく壮五に対しての労わりであったことを今更ながらに自覚する。 そりゃあいきなり全部はちゃんと出来る自信はなかったが、今日から、否、まずは今日だけだっていいのだから、そうやって少しずつでも壮五と対等になって二人でメッゾと呼ばれるためには壮五との関係性が何よりも一番大事なことなど誰から言われなくとも分かっていた。 だからこそ、壮五の思う完璧に全部が毎日は付き合えなくても少しずつなら頑張るし、そのかわりに環の自然体だって全部じゃなくとも受け入れてもらえるか否かというのは環にとってとても重要なことだ。 枠にはめて支配した関係性を作るのなら誰にだって出来る。ならば、部外者の誰かの為じゃなくてメッゾはメッゾの為、環と壮五が互いの為だけに二人でいる意味を環はちゃんと持っていきたかった。引いては壮五にもそう思っていて欲しかったから。 「はあ、まぎらわしい。そーちゃんがややこしいし分かりづらいから、俺はなるべく分かりやすくいんだけどな。全然うまく噛み合わないのなんでなんだろ」 「……僕だってまぎらわしくしているつもりはないんだけど。噛み合ってないかな?」 「ぜってーーない。……まあ、今日はじゃあ仕方ないから肩たたき券やる」 「かたたたきけん??」 「んー、ズツウはカタコリってマネージャー言ってた」 「え? ああ、いま? あ、ありがとう……。でもマネージャーのは事務の仕事でパソコンとかが、いいっ痛い痛いっ! イッ、環くんっ! もうちょっと弱くっ」 「あー、強弱つけんのは有料になりま~す」 そうとは言っても今はまだやっぱりどこか照れくささが拭いきれずに面と向かっておめでとうが言えないのは絶対絶対壮五のせい、と華奢な骨ばった肩を肘でごりごりに刺激しながらため息をつく環なのであった。

EPISODE **ころばぬさきのバンちゃん

何度目かのノックの音でいい加減ブチ切れそうになった壮五は間延びした「は~い」と言った声の主を鋭く睨む。鏡前が既にカワイイ包装紙でいっぱいの本日はずばり四月一日、成人してからはこれまで表沙汰にならなかった(意図的にしてこなかったのか?)ありとあらゆる交流が浮彫になった環の交友関係は実に雑多でこの通り非常に多かったことに壮五はとても困惑していた。 「しつれいしまあす」 「うーす」 「今へーきぃ? あ、逢坂さん突然すみませ~ん」  気を遣ってくれるだけマシなので目を細めてちょっと笑うと環はそれを無言で見遣りながら急につっけんどんな態度になって椅子から立った。 「何」 「えー、プレゼントでしょ。欲しいって言ったの環じゃん」 「言ったっけ」 「言った。三度の飯より王様プリンなんでしょ?」  店舗のショッパーできちんとギフト用として買ってくれたのだろう、フランクな物言いだがそこそこ本気でアピールしている様に思える。きちんとした詰襟のシャツ、つやつやのロングヘアは控えめなブラウン。 「えー、やべ、あんがとー」  気分屋ぶった物言いは高校生の時からさほど変わらない。背も高い、顔もいい、いつでもとびきり優しい、、わけではないが、正直な分誰にでも嬉しい時は嬉しい顔、面倒な時は面倒な顔をする。だから周囲は本気で喜ばせたくて躍起になるのだろう。その時点で恐らく相手は既に環のことが好きになってしまっているのに違いない。罪深きスケコマシである。 「てかさ、みんなに王様プリンって言ってるの?」 「いってるーー」 「だと思った。あたし昨日博多行ったんだ~。ついでだったからさ、限定品にしてあげた。もっと喜んでいいよ~」 「ッぎゃー!! 見てッ……そーちゃん見て!! まぼろしのとおりもんプリン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! しかも二個!!!!!!!!!! ヤバ!!!!!! 歯磨きしちったけど食っていい!?!?!?!?」 「……」  こうしてなんの悪癖か最終的に嬉しいのキャパオーバー分がもれなく壮五に注がれるのはメッゾの日常茶飯事。特に王様プリンのこととなると目の色を変えて興奮しだすものだから予想通りなのに予想外の反応に困惑しまたもや何度目かの女の視線を一心に浴びて気まずい心地になるのを当の環は一ミリも察してはくれない。 「ああ……あの、良かったね環くん……いつもすみません、ありがとうございます」 「いえ、……親か……?」 「食っていい!?!?!?!?!」 「もう食べちゃうの? 折角の限定品なんだから、仕事終わってからにしたら?」 「ふふん、もう一個あんだよな~~おれ今日誕生日だし、贅沢してもよくない?」 「ううん……既に八個目のプリンさんだって分かってる?」 「いやだから親か? 許可制? いくつか?」 「諸々突っ込ませてしまってすみません……いい年なのにって思わせてしまってことごとくすみません…………」  いくら大本命だとてこのどうしようもなく親密なメッゾの関係性にはさすがにドン引きの女の顔である。壮五ももう慣れてきたので苦笑いでスルーして環に視線をやると、当の本人はよだれを垂らして既に女の顔など見てはいない。屈託なくにこっと笑ってあんがと! と環は言った。 「……」 「……重ね重ねすみません……」  小声で釘を刺すと我に返った女はそそくさと帰って行く。いやだからこれも何回目なのだ。  あきれ果てた壮五は女が出て行ったのを見計らってこの四葉環という人たらしの体たらくにやれやれと肩を竦めた。 「これまだやらなくちゃダメかな……もう十分です……恥ずかしくなってきたんだけれどな、さすがの僕も……」 「ダメだろ。元はと言えばアンタが拗ねたからわざわざ直接マウントとらせてやってんだかんね。もっちょこっっとぐらいは環くんは僕のもの感出していいよ。俺が誕生日なので、許す」 「…………本当つまらないこと言ってすみませんでした……許してください……」 「ぜってーーヤダ」 「どうしたら許してくれますか……」  環の傲慢に下手に出たところでろくなことになった試しはないが、また次の刺客が来たらと思うと羞恥心が耐えられそうにもない。保護者枠ででれでれしているのは少し前にみっともないと思ってから凄く恥ずかしくなったから余計だ。  じっと返答を待っていると環は待ってましたと言わんばかりの嬉しそうな顔でポケットをまさぐったかと思うと何だか指に光るものが見えた気がして既に嫌な予感でいっぱいになる。 「じゃあさ?? 今日俺のたんじょーびだからっ、これつけて収録しよっ」 「……マジで言ってるの? 頭殴ろうか?」 「あ~~も~~いっしょおおおおお ゆ る さ な い」 「あっやめてっ薬指は絶対ダメっ!!!! せめて違う指っ!」  どこから持ってきたのか無理くり薬指にはめられた剥き出しのシルバーリングはどう見てもお揃いで万一これで出て行ったとしたら明日からの芸能生命が危ぶまれると言っても過言ではない。  慌てて抜き取ろうとする壮五には環が地団駄を踏んで泣きわめく。 「最悪! 最低! 取ったら!! 一生言うから!! 俺の一生マジで一生だかんね!!」 「ばっ……馬鹿なことだぞこれはっ、百歩譲ってせめて人差し指とかっなんとかごまかしのきくところにしようっねっ!! ねっ!?」 「やあだああああああっ! 愛してないっそーっちゃん俺のことっ愛してないっっ」 「だっ……それは絶対にないっ……ぼ、僕一応、年上だしっ、君にはちゃんとしたの僕から贈りたいからっ……! それまではこの指は待ってて…………!」  必死の形相で訴えればぴたっと止まった環の癇癪に恐る恐る目を合わせると、無言の圧力が「本当だな?」と問いかけて来るのでうんうんうんうん、と高速で頷いて見せる。  人が来るとか云々よりももう本番まで時間が無いのもネックになってきた。 「……ん……。じゃあ、この指はそーちゃんのでしかたないから、こっちにする……」  半べそになりながら悲愴の表情で自分の指から指輪を抜き取った環を見て心底ほっとする。そのまま自らのシルバーに手をかけた壮五はそれが外れそうにない気配がして一旦神妙な顔になる。 「…………」 「はー、悲しいけど嬉しい気持ち……そーちゃんから指輪もらえんのかあ……いつだろなー……来月の特別な日かな~~……」 「た、環くん、時間、見てくれる……」 「今? 四十分」 「…………やばい、せっけん……石鹸? ハチミツ……? なんだったろう、以前何かの番組で……でもあれは結局外れなくて器具を使った様な気も……? 電動のこぎり……? いっそ指…………」 「そーちゃん…………?」 「流石に指がないのは見た目的にNGか……あと十五分……」 「そーーーちゃんっっっ!! 何!? 外れない?! ちょっとほら、貸してみ! 指見つめて怖いこと言うな……!!」 「とにかく恐ろしいことになってしまった……時間制限のある中どうにかこれを外すシミュレーションをしているから少し黙って……」  目の据えた低い声でぶつぶつ零す壮五の手を握ってこわい~!と環が慌てふためくと同時に楽屋のドアが開いた。 「おつかれさま~、そろそろスタンバイだよ~」 「わーーーーーーー!! もうじかんん!?」 「あーーーーーーーーーーーーっ!? これはそのーーーー!!」 「ッエーーーーーーッ……!?」  にこにこしながら入って来ただけの万理の姿に驚いて二人で寄生を発してからは二秒、堰を切った様に同じ顔で同時に喋り出すメッゾの言い分を瞬時に聞き分けられる聖徳太子様がこの万理という男でもある。 「ふむ、どれ、見せて」  すぐさま壮五の手を取って鑑定士みたいにあらゆる角度から観察する万理はせっけんはありますと涙目で差し出してくる壮五から小さなボトルに入ったソープを受け取る。 「ううーん、時間ないからここでやっちゃおう」 「う、すみません……」 「とれる? とれる?」  石鹸だと言う緩いテクスチャの透明な液体からはぶわっといい匂いが広がって楽屋が瞬時に普段から壮五の纏っている匂いでいっぱいになるが今の三人にそんなことを気にしている余裕はない。  真剣な顔で指輪と指の間に液体を揉み込むが、実際に触ってみている万理には分かってしまう。これは抜けない……。 「……んん、ちょっとダメかな……何だろう、もっと、ローションみたいなやつだな……下のコンビニから買ってくるか、いやでも時間がもうない……どうするか……」  半分独り言みたいにして冷静に思案する万理の言葉を聞いた壮五がちらっとバッグを見遣るがまさかあるとは言えないけれど今はそんな場合でもない様な気もする、背に腹は代えられない、恥をしのぶべきか、と思わず口からその名が零れる。 「ろ、ローション……」  またその大変困った声を聞いた環が突如ハっとした顔で元気に手を挙げたのを見て壮五はざあっと青ざめた。 「え、ある! バンちゃん、俺ローションある!」 「ばか、ない、ないだろ環くん、ばかっ」 「あるの? ちょっとそれ貸して」 「んー! まって、マンガイチってこともあるし、ほら! いつも持ってんよ!」 「おお、まさに備えあれば憂いなしだね」 「へへえっ」 「ば、ば、ばかあっ……環くんの、ばかっ…………」  荷物の奥底からくたくたになった小分けのローションを嬉々として差し出す環にこれ以上の他意もない。万理もそれを当然のように受け取って封を切る。  壮五だけが一人色んな心配が綯交ぜになって顔を真っ赤にしながらさめざめと泣いていた。 「ん、いけそう! 痛くない?」 「うう、ううう……はいい……」 「おー、やっぱローションってすげー」  そうしてついに万理の手によってあんなにぎちぎちで頑なだった指輪が壮五の指から外れる頃にはスタンバイ三分前。何かを思う余裕もないままに急いで手を洗ってばたばたと部屋をあとにしたメッゾはまるで何事もなかったかのようにして本日分の収録に間に合ったというわけである。 「……う……」  収録を無事に終えてこの事を九割がた忘れかけて楽屋に入った壮五は、まず自分の使っているいつもの石鹸の匂いがこれ以上ないほど充満している室内に咽た。 「ん、そーちゃんの匂いめちゃくちゃすんね。テーブルやば、だいさんじって感じ」 「あはは、あのまま出ちゃったからね。片づけておけばよかったね。ごめんごめん」  環の言う通りテーブルの上は散々で、ローションのパウチ、中身の極端に減ったせっけんの小さなボトル、ねっとねとの指輪でまさにカオス。いたたまれなかった壮五が一目散にゴミを纏める。  しかしながら、あの状況で一切余念を入れずに壮五の指から指輪を抜き取るという行為だけに一点集中出来る万理とは一体、と壮五はそこはかとなく万理の過去の経験値の豊かさに思いを馳せてしまう。 「本当にすみません万理さん……余計な手間をおかけしてしまって……」 「ううん。全然許容範囲だよ~。今回で言うとややこしくなるから避けたかったとは言えファッションリングと言い張ってつけて出るってのが俺の考え得る中でのバッドエンドではあったから。いや~抜けて良かった~♡」 「うう……すみません……本当に……」 「バンちゃん、俺のファインプレーも褒めて」 「黙ってっもとはといえば君がっ」 「用意周到な壮五くんならまだしもあそこでまさか環くんがローション持ってるとは思ってなかったからちょっとびっくりしちゃったよ。でも結果オーライだったね。えらい! 誕生日プレゼントあげちゃおうかな!」 「へへえ~~……♡」 「……? ろ……」  頭をわしわしと撫でられて嬉しそうな環の顔を見つめながら通常常識的にローションというのは普通の人間が常備携帯しているものなのかどうかという論点で宇宙に投げ出されてしまった壮五だったが、結局はそのまま何も言及せずこのことを一刻も早く過去にして二人の記憶から遠ざけるのが最善とすることとしたのであった。

MASK

EPISODE 01キャンディーシュガーローション

*     **  本日、クランクアップを迎えたドラマの撮影は、主演を務めた四葉環とヒロインの女優を中心にした打ち上げで無事大団円となった。そこそこ早い時間から始まった宴にも関わらず、二十二時を回った今でも大変な盛り上がりを見せている。  アルコールにはまあまあ強い体質の環であるが誰かさんのお陰で今までに記憶を失う様な無茶な飲み方をしたことは一度もなかった。  しかし、今日に限って言えば大事な主演を任され中々ハードな撮影期間を乗り切った開放感からか普段よりも呷るペースが早くなっているのは明らか。いくら酒の席に強いと言えど、立てばふらつく程度にははしゃいでしまっているのを自覚した環は頃合いを見計らってトイレへと立つ。ついでにその気持ちのいい酔いを醒まそうと廊下にしゃがんでスマートフォンをいじりはじめた。 「環」 「……うす」 「帰っちゃったのかと思った」  そこへ、頬を桃色に染めてとたとたと駆け寄り笑いかけてくるのはロングヘアーの美女。環より二つ年上の女優であり今回のドラマにおいてはヒロインの役所だ。  恋愛ドラマではないにしろ環と彼女のパートナーシップがメインのストーリーだったので、役作りの為だなんだとプライベートでも結構な頻度で食事に誘われてきた。  そんなつもりは毛頭ないが、すっかり彼女気取りでいつも隣にべったりついてまわるので周囲からの噂は今でも絶えず付き纏う。  だが一方で、環はこういった面倒事には事前にしっかり断りをいれる質である。 「あ、そーだ。ドラマ終わるし、もー連絡しないでね」 「分かってるよ。でも今日のうちくらい良いでしょ?」 「……ま、あとくされねーなら別にいーよ」 「最後なんだし、たのしも」  言いながら屈んだ女に顎を持ち上げられ、ちゅ、と唇に触れられると、環は面倒そうに立ちあがって十センチ以上身長の低いその女の頬をさらりと包む。  うっとりとした顔は見ずに豊満な胸の谷間に目をやったあと、耳元で先出んね、と低く呟くのだった。  ちょうど同じ頃、逢坂壮五は正に今、絶賛ドラマの撮影中でいて、切迫した男女の別れ際のシーンを熱心に演じていた。 「君がいつ、どこで何をしていたって、僕はずっとここにいる。待ってるから」 「……離れたくない」 「大丈夫。君が帰ったらまた一緒に暮らそう。今度こそ……結婚しようね。約束だよ」 「うん、……うんっ……!」  真下では幾つものカーライトが行き交う夜の歩道橋。強く抱きしめ合う二人の数秒の後、「カット! 最高です!」と声がかかった。  密着していた身体がそっと離れると、純真そうな黒目は壮五を見上げ「そうごくん」と不安気に囁く。 「うん? あ、ごめんね。ずっと掴んでしまっていたね」 「ううん。あのね? 今日……」 「……いいよ。不安? すごく良かったように思ったよ、今のシーン」 「本当? 壮五くんに言われるとうれしい」  甘くはにかんで笑う一つ年下のこの女優だが、新人ではないものの今回のドラマで初めてヒロインを演じるとかで演技は最初から壮五に頼り切り。断りやしない壮五にかこつけて暇さえあれば側で一緒に本読みをせがまれたし大役のプレッシャーだなんだと二日に一度は演技の相談を持ちかけてきた。  ところで、界隈では有名な話であるが、壮五は役作りとして相手の女優、然り相方という設定の人間のことをとにかく、これでもかというくらい病的に慕った。  ゆえに現場では勿論のこと、役を抜かないままプライベートでも異常に親密にするので高確率で相手役に勘違いさせてしまうのだがこれは本人曰く「ドラマの最中は本気で相手と恋愛をしているから仕方がない」のだそうだ。やれ大層結構な話である。  やがて本日分の撮影が終わり解散の声がかかると次の台本を読みながら待機していた壮五は、隣でそれをじっと見ている女の方を向いて優しく微笑んだ。 「さて、いこうか。イタリアンとフレンチ、どっちがいいかな?」 「……どっちも好き」 「そうなんだ? うーん」 「ねえ、演技の話もしたいの」 「……それは欲張りだね」  ふっと笑った壮五は自分よりも何倍も細く華奢な肩をやんわり抱くと、女は心から嬉しそうに頭を寄せるのだった。 (キャンディシュガーローション・表) 「で。どういうことですか。常連の四葉さんだけならまだしも、逢坂さんまでまた何をしているんですか全く……あなたがた、演技の仕事は一生控えたほうがいいんじゃないんですか」  仁王立ちの和泉一織が今朝のスポーツ新聞の束を持って苛々と足を揺すった。  それを横目に事務所のソファでふんぞり返ってせせら笑う環は「べつにいーじゃんかもう終わったことなんだからさー」と耳をほじくった。 「おい、環くん」  隣に居た壮五がすぐにそれを咎めつつごめんね一織くんととても申し訳なさそうに眉を下げて呟く。 「その、悪気は本当になくてね。役作りするとやっぱりそうなっちゃうんだよ」 「っは、そーそー。役作りで子作り的なな。ウケる、そーちゃんはやべー」 「うるさいな……」 「めっちゃうまいこと言ったくね今の。天才か?」 「……」 「……はあ……。とにかく、わたしはもう疲れました。だんまりでお願いしますよ。各々いつも以上に余計なことは喋らないように」  心の底からため息を吐いた一織が馬鹿らしそうに新聞を放ると、その紙面には大きく「メッゾ今日も仲良くお持ち帰り♡」とゴシック体で派手派手しくその体たらくが強調されているのだった。  早い話、運悪くあの後二人が件の女優とホテルに入るところを一面にすっぱ抜かれたわけだが、一織の言う通りこれが二人の初めてのスキャンダルなわけではなかった。 「つかそーちゃん主演やるたんびに女優とやってんじゃん。やばくね?」 「……だから、役作りで……」 「子作り?」 「もういいからそれ……」 「マジで意外。大人しそうな顔してちょーーむっつりじゃんな」  今更環から何を言われたとしても事実がひっくりかえるわけではないので好きに言わせておくが、実は壮五も内心特に自分がスキャンダルを起こしたことに関してはどうでもいいと思っていた。  女優との間で揉めるわけでもないし、ドラマに強い影響が出るわけでもない。壮五にとって大事なのは〝演技〟の仕事の現場なのだから〝演技〟をまずはしっかりやり遂げなくてはという強い責任感故の行動。よって公になったのに関しては責められて然りの行動とも理解しつつ、仕事の姿勢を悪く言われる筋合いはこれっぽっちもないのでしれっと困った顔でやり過ごした。  一方、環はまた別だ。 例えどんなにか濃厚な愛のシーンをぶつけあい時には過酷な収録現場を昼夜共に乗り越えた強烈な絆が芽生えようとも相手役を好きになる、どころか自分から女優をホテルに誘うなんてことはまず絶対に何があっても無い。  女優とのセックス自体にはさして興味もないしめちゃくちゃに好みだ、抱きたい、と思う女性にだって今までに出会ったことすらない。だから、する気分でない時の誘いは誰であろうがすっぱり断ったし面倒そうな女など以ての外。絶対に寝たりしないのはもはや徹底している。  たまたまあの夜は気分が良かったし相手も割り切っている関係だからノっただけで、共演者と毎回関係を持っているおかしな嗜好の壮五とは絶対に一緒にしないで欲しかった。  デビューしてからは実に七年の月日が経っている現在、専らアイドル業としてグループは順風満帆。メッゾとしても未だに根強い人気を保ち続けている環と壮五には、高視聴率を理由にドラマのオファーが年に数回は必ずある。二人とも俳優業が特別好きでも得意だというわけでもないがこうしてオファーされているうちはしっかりやらないといけないなとは思っているのだけれど。  某日、地方のアリーナをひと月かけて巡るツアーが始まったメッゾだったが、七年経った今でも相変わらずホテルの部屋はツインルームだった。  壮五と入れ替わりで風呂から出た環は、ふと深夜ドラマのCMに壮五の声を聞き画面を見遣る。 『僕と? 柊、僕男だけど』 『そんなの知ってるよ。だけどそれが何?』 『え』 『俺お前のことが好きみたいだ。踊ろう!』  壮大なバックミュージックに併せて画面の中で大輪の薔薇が一斉に咲き乱れる。 環が思わずでた! と目を見開くと同時に浴室から壮五のくしゃみが聞こえてきたが画面越しの壮五は問答無用でほほ笑む。何だか無慈悲だ。 『アバンガルドサイドカー、このあとすぐ♪』 「このあとすぐ?? マジか」  思わず起き上がりテレビに向かってまっすぐに向き直った環は早速スマートフォンで情報収集を始めた。  何を隠そうこれは壮五が珍しく出演に随分しり込みしたBLドラマである。  つまりのボーイズラブ作品の実写版というやつだったが、元々界隈では大層人気な原作であることから相手役の俳優、どころか脇役すらもしっかり大御所で固め確実なヒットを狙った抜け目ないキャスティングを構成し見事実現した。  中でも最も重要な配役として随分慎重に検討していたのがずばり壮五へのオファーであり、相手役、他の配役全てを決めてしまってからの強引なオファーだったが、壮五は悩む間もなく「男性同士の恋愛のテーマはどうしても役の気持ちに共感出来ない」と何も考えずに一度あっさりと断った。  よもやここまで外堀を埋めたのにも関わらず断られるとは想定していなかった自信満々の制作側が最終的に土下座で懇願する事態になったのはオフレコの話だそうだが、事情を知ったキャリアの短い壮五が立場的に否とは到底言えるはずもないわけで。  こうして辛くも受けることにはなったが、それはもう毎日毎日台本とにらめっこし大和やナギ、果ては環にまでも、これはどういう気持ちで言ったらいいと思う? と泣きつく始末、濡れ場のセリフには随分苦戦していた。  撮影が始まってからは、壮五の顔色を見て多少削れた演出もあったが深夜帯の放送枠、かなり際どいというか、もはやベッドシーンが目玉のようなものである。該当の撮影がある日の朝はめちゃくちゃに壮五のテンションが低かったのを環は覚えていた。 『……ンっ……』  そんなこんなで壮五が風呂から上がってくる頃にはしっかり本編が始まっていて、濃厚なキスシーンからベッドへともつれこむ場面を環は黙って見つめていた。 「……相方のBL作品見て楽しいかい」 「まー、面白いぞ、ドラマ自体は」 「そう。恥ずかしいんだけれど。チャンネル変えていいかな」 「はー? やだ。今からじゃんえっちなシーン」 「だからやなんだよ……! 見たいなら自分のスマホで見たらいいだろう!」 「あーもーいいーから、黙ってろって」  存外真剣な顔で画面を見つめる環に羞恥心を煽られたのか壮五は飲み物買ってくる、と早口にしてそそくさと部屋を出て行ってしまった。  そんなことは気にも留めない環は画面の中の壮五から出る艶っぽい喘ぎを聞きながらそーちゃんからこんな声でんだ、と俄然興味津々に見入ってしまったのだった。  それから一時間もしてドラマはもうとっくに終わってしまった頃、やっと壮五が外から帰ってきた。  深夜も二時を過ぎようというところ、流石に心配になった環はやれ探しに行こうかとカードキーを持った矢先だったのでほっとしてベッドに寝転がる。 「遅過ぎんだろ、ばかじゃねーの」 「ばかとはなんだい。君がチャンネル変えないからだろう」 「え、てかめっちゃ良かったじゃん濡れ場。そーちゃんちょーーーえろかった」 「……それはどうも」 「ほめたのにッ!」 「だから、どうもって言ってるじゃないか」  心底嫌そうにそう言ってベッドに向かおうとする壮五を環がふいに止めるので掴まれた手首を見遣り、なんだよ、と鬱陶しそうに睨む。 「あの俳優のこともちゃんと好きになったん」 「……まあ、役作りだからね。というかそうでもしないと本当に降板するところだったし」 「えー。それはなんか、むかつくな」 「は? どうい、え、なにっ……」  むかつくなの意図がさっぱりわからなくて小首を傾げた壮五は、突然目の前に立ちはだかった環の顔をまじまじと見る。 「だってあいつ男じゃん。女ならまあおれとは立ち位置ちげーからいいけど、おれとおんなじ土俵にいてそーちゃんの身体べたべた触ってんのは腹立った」 「……は……?」 「はじゃねーし」  環の言葉に困惑しつつまるで嫌な予感しかしない壮五はそっと後ずさるがしっかり握られているその手も距離も環は離してくれそうにない。  勿論悪ふざけに決まっているが直感でこれはキスされる、と思わず身構えた。 「待って、環くん落ち着いて……僕は役作りでっ」 「まさかセックスしたんか」 「はっ? し、してないよさすがに!」 「べろちゅーしてんじゃん」 「キスはセックスじゃないだろ、うわッ……」  妙に手慣れた仕種で腰に手をやられ強い力でぐいっと引き寄せられたことに壮五は何だかとてつもない恐怖を感じた。咄嗟に環の肩に手を突っ張りぶんぶんと首を振ると本当に本当の拒絶をした。 「いやだってば……!」 「はー? うっせ」  必死の抵抗虚しく環が唇に触れた瞬間チリ、と走る皮膚の痒みでぞくぞくと身体が震えた。何も気持ちが良くて震えているのではない。鳥肌がたっているのだ。いくら長年連れ添った仲とは言え、環は相方で、男で、壮五はとにかく嫌悪感でいっぱいになった。 「さいていだ!」 「いでっ」 「役でだって嫌だったのに! なんで環くんにこんなことされなきゃいけないんだよ!」 「……お、おっこんなっつーの……。わるかった、ごめんって。からかっただけだし」 「趣味が悪いよ環くん! もう寝る!」 「いで、っもー……暴力反対……」  拳で数回環の胸元を殴って壮五はわざとけたたましくベッドに入る。そわそわとなる身体をさすりながら涙目で縮こまった。  まあ、無理も無い。というのも、さっさと記憶から消し去りたくて誰にも言ってはいなかったが、実はこのシーンの撮影時、壮五は「他人のしかも男に身体をまさぐられキスされながら甘い言葉を囁かれている」という壮絶な場面をどうしてカメラで撮られ更にそれを何が面白くてテレビで放送されなければならないのだと思ったら、あまりの嫌悪感に一度泣いて撮影を中断させてしまった。  仕事なのに情けないやらされど仕事とて撮影の続きが嫌で仕方ないやらで、しばらく万理にぐちぐちめそめそしてしまった。  よって相手役の身体の熱など今思い出すだけでも鳥肌がたつほど気持ち悪いのである。 「一生やらないこんなドラマ……」  布団にくるまってそうもらした壮五に頭を掻いた環は、仕方なく消すよーと室内灯を消してから自らも床についたのであった。  さても次の日のライブはもちろん最高だった。  いつもの場所より若干キャパシティの小さな会場しか抑えることが出来ず、優に五十倍以上の倍率がかかったプラチナチケットだけに会場の熱気は最高潮、客席からの黄色い声援もそれはもう絶好調だった。  普段以上に熱のこもったライブにあてられ、環も壮五もくたくたになって楽屋に戻ると、即座にびっしょりと汗で濡れた衣装を剥いだ。 「っあーーーーまじすげかった、名古屋やべえ」 「凄かったね、途中何歌ってたかよくわからない時があったよ……」 「てかディアバタはまじ今日のやばい。絶対映像なってほしい」 「確かに気持ち良かったね」 「もおおちょーー楽しかったあ、すきだなごやーーみんなすきーーー」 「あはは。そうだね、盛り上がってくれて本当に良かった」  せっかくのこの余韻に浸りたいところではあるが、開始時間の都合上会場の閉館時刻が迫っていた。ゆっくりシャワーを浴びる時間もなさそうだ。  白の清潔そうなタオルでせかせかと頭を拭く壮五がふと環の方を見るとちょうどぐっちょり濡れた黒のインナーを脱いだところだった。鍛えられた背中に赤く浮いた無数の引っ掻き傷に目がいく。 「……随分激しかったんだね」 「ん、何が?」 「背中、傷だらけだよ」  呆れたように指差すとすぐに楽屋の鏡に背を向けた環がやべーまじだ。さいあく、と零す。 「いやなんか痒いと思ったんだよなー。マジ爪切れっつーのな」 「女性はネイルとかすごいもんね。そんなにガリガリ爪とぎされる程激しくしたことないから分からないけど」 「んだよ、突っかかってくんな」  皮肉たっぷりに言った壮五に環は舌打ちをしたが、ふとその言葉尻を面白がって掬ってみる。 「え、じゃあさ、激しくしないでどーすんの? ねちねちオッサンみたいなセックスすんの?」 「オッサンとしたことないから分からない」 「はー? イメージじゃんっおれだってねーし! そーちゃんってほんと面白くないよな」 「それは申し訳なかったね。でも君を楽しませる為だけに生きてるわけじゃないからね」 「あ、そーーーですか。ったく、ああいえばこーいうし誰がそーちゃんこんなにしたん」  自分でけしかけておきながらいつもの様に壮五に手酷くあしらわれた環はぶつぶつ文句を言いながらも颯爽とティーシャツに着替えソファにどかっと腰掛けた。  スマートフォンで時刻を確認すると既に二十二時を回りそうな勢いに飯どーする? と壮五を振り返る。  運動量に比例した急激な空腹感が胃を襲い猛烈にエネルギーを欲している。 「時間が時間だしホテルのデリバリーでもいいけれど、どこか行きたい? 明日は新幹線そんなに早くはないよ」 「まあ、今日すげー良かったから飲みたい気分ではあるな」 「じゃ探そうか。何が食べたい?」 「にくー! ビールー! あーおーさまプリンくいてーー」 「……環くんの中では何にでも合うんだね王様プリンさん」  程なくして、着替え終えた壮五からホテルの近くの焼肉店を提案され、環はスマートフォンをいじりながらふたつ返事で了承する。  宿泊先のホテルはこの会場からは少し離れているのでそこまではタクシーで向かうことにした。 「ん……?」  ふと急に我に返った環は、まるで天使の様に整った顔ですやすやと眠る壮五の顔が思ったよりも大分めちゃくちゃ近くにあることにびっくりした。  壁の時計を見ると朝の五時で、遮光カーテンの隙間からもれ出る光によれば外は既に明るいようだった。  いや、そんなことはどうだっていい。環は徐々に醒めやる意識の中で、これはまずいのではないかと思い始めた。 「やば」  そう呟いて隣で、否、何故か一緒のベッドで眠っている壮五の姿をまじまじと捉えるが、どこからどう見ても裸だった。  下を履いているかどうかを確認したいがそこまでの勇気は今何としてでも出ない。困惑しながらも懸命に記憶を辿ろうと努力するがこんな事になるきっかけなどすぐにはパッと出てこなかった。  軽く眩暈を感じながらも自分自身のシーツと掛布団の感触を地味に緊張しつつ確かめると、実にどうしようもなくすっぽんぽんの寝心地だ。現実が容赦ない。  よく分からないがこの状況で壮五が起きたら絶対にやばいと思い静かにそーっとベッドを降りようと身体を起こすがやはりというかそうでしょうとも、壮五がふわんと目を開けた。環の顔が引き攣る。 「お……はよ……」 「……ん、おはよう……」 「……覚えてる? そーちゃん」 「……ふあ……なにを?」 「さあ………………」 「は?」  眠たそうにしながらも怪訝な顔で寝返りを打った壮五がいたっと鋭く動きを止めた瞬間、環がザアアと青ざめる。 「い、いたいの……? マジか……」 「ちょっと待って、何だこの状況」 「何だろ……おれはほんとにマジでいちみりも覚えてないんだけど……そーごくんどうですか……」 「君と飲んだ僕が覚えてるわけないだろう……」 「いやほんと、これはやばい……やばいな? どうしよっか」 「どうしよっかって、まさかだけど酔ってる相方犯したのかい、本当に誰でもいいんだな……? 訴えたら勝てるよ……」 「マジで誤解だから! 何にも覚えてないし!」  環は変な汗を大量にかきながら慌ててベッドから降り下着を探してうろつくが床に散乱した二人分の衣服が生々しく本気の情事を物語っておりごくっと唾を飲み下す。  はっと思い立って怖々とゴミ箱を覗くも、無い。無かった。一瞬ほっとしたのも束の間、壮五が突如、んッ、と変な声を上げたので振り返るとベッドの側でうずくまり震えているではないか。 「え、そーちゃん……? どした、平気……」 「っ……平気なわけないだろう……」 「い、痛いん? どこがとは言わないけど、どうする? おれどうすればいい?」 「タオル、タオル持ってきて……大きいの」 「う、うん……」  急いで浴室から大判のタオルを引っ掴み壮五のもとへ駆け寄って肩からかぶせてやるが、環には見えてしまった。  よろっと立ち上がった壮五の太腿にあろうことか白濁の残滓が伝い落ちていくのを。あれはもしか、いや、もしかしなくとも自分から出た物かと思うと環は思わずぞわっと身震いをして目を逸らしてしまった。  覚束ない足取りで浴室に消えてからまるで音沙汰のない壮五の様子を窺いながら、とりあえずまずは昨日の事をどうにか思い出さなくてはとライブ後の楽屋から順を追って思い返してみることにした。  まず、ライブが終わった環と壮五は二人で楽屋に帰った。  会場の閉館時刻が迫っていたのですぐに着替え、夕飯を焼き肉にしようという話になりタクシーで向かった。向かったよな。絶対向かった。間違いない。 「あーマジ腹減った。大皿で注文していー?」 「いいよ。飲み物は? ビールでいい?」 「おー。そーちゃんも飲むだろ?」 「飲んでいいなら飲むけど。でも気分がいいから酔っちゃうかもな」 「しゃーなし。どうせおれが介護すんだから今日ぐらいいーよ」 「介抱ね……」  それで生ビールを二つ頼んだ。大皿で盛り合わせの焼肉セットと白米大盛りを頼んだのも覚えている。  三杯目のジョッキを頼んだ頃、壮五がトイレへ立った。まだどちらもそれほど酔っ払ってはいなかった。絶対。そこも間違いない。  だが問題は次だった。 「いいじゃん、おれんこと嫌い?」 「……嫌いじゃない……好き、だけど……」 「マジ? 知ってる」  靄がかった記憶でのこの会話だ。どこだ。いつどこであったものだったろう。  必死にその断片で判断しようと試みるがそこから先は更にすっ飛んであろうことか行為中の壮五のあられもない姿が鮮明に蘇る。  きめ細やかな白い肌に無数のキスマーク。真っ赤に熟れた胸の突起。汗で張り付く顔周りの髪を優しくはらってやると透明度の深い綺麗な紫がじっと見上げてくる。声には出さずに息だけでたーくん、と言った壮五の余りにも艶やかな誘いに唇を奪わずにはいられない。 「あー、いや、してるな……やばい……」  急にきた激しい頭痛を宥めるもドッドッと強く心臓に胸を蹴られ動悸がした環は震えながら深呼吸を繰り返すがもう紐解きが止まらない。だすよ、いーの、だって、ほしい、もっと、いくよ、ずるずると芋づる式に言葉の応酬が再生されれば未だに信じられない気分だが壮五とセックスをした事実は一応、たった今、思い出すことができた。 「……マジか……」  ただ、したはしたのだろうが何故そうなってしまったかが依然曖昧だ。環の断片的な記憶のきっかけ部分といえば壮五の「嫌いじゃないよ好き」の所だと思うのだが一体どうしてそういう会話になったのかはその後いくら頭を捻っても思い出されることはなかった。  あとは、酔っていたとは言え壮五の記憶がどこまであるかにかかっている。出来るならこのまま一人で逃げちゃいたいな気分ではあるが訴えられたらマジで絶対に勝てない。壮五がキレたらやりかねない。 「……っ!」  と、そこでとても静かだった浴室のドアがいきなり乱暴に開き壮五の手だけが覗くと物凄い勢いで何かが環の真横をすりぬけた。  ガンと壁に激突し床に転がった物体を環は恐る恐る見遣る。 「なんでこんなもの買ったんだ!」  追って壮五の怒り心頭な声が大きく響きバシンと再び浴室のドアが閉まった。 「…………」  壮五がぶん投げたのは何やらローションのチューブだった。ただのローションならまだ良かった。いかにも清楚な白いパッケージだがこれは界隈ではかなり有名な媚薬入りのラブローションである。意図せずそわっと環の背筋が痺れる。  買った覚えなど勿論ないが念の為財布を確認しようと慌てて自分のバッグを開けた環は一旦すぐに閉めた。 「……」  心頭滅却、再びゆっくりとジッパーを広げるが、見間違いであって欲しかった。願い虚しくコンドームの箱が丸々封を切らずに入っていた。  これに環は無になった。  元々アルコールには一切信用をおいていない環なのでどれほど楽しく飲んだとて記憶を無くす程までに酔うことは一度も無かったと言っていい。  それなのによりによって壮五と一緒に記憶を無くすなんて。お互い泥酔していたとは言え自らの意思とは全く関係のないまま男の相方とセックスできる身体だったなんて末恐ろしい事この上ない。  壮五も壮五でいくら正体不明だったとしても受け入れられるか普通? そういう素質があるとしか思えない。  裸のまま今後の身の振り方を青ざめながら真剣に考えていると、今度はこそっと浴室のドアが開き、たまきくん……と随分弱々しい壮五の声が漏れて驚いた。  環はどーした?と即座に側に寄る。 「スマホとってくれ……もう嫌だ……」 「通報すんの!?!?!?!?!?!?!?」 「うるさい! はやくとって! 通報より先に調べたいことがあるんだ!」 「ごめ、ごめんって……おれだって酔ってて、わざとじゃない、たすけて……」  環が拝むようにしてスマートフォンを壮五に引き渡すと再びドアが閉まり、その後三十分は応答がないまま浴室は静かに独占され続けた。  とりあえず床に落ちていた下着を履いてティーシャツを被った環はしばらく正座で壮五のことを待っていたのだが一向に出てくる気配は無く次第に色々な心配を巡らせた。  ひとつ、浴室内で具合が悪くなっている。主に腹。ひとつ、腰が痛くて動けない。ひとつ、相方に犯された事実が飲み込めなくて自殺の方法を調べている。ひとつ、もはや死んでる。 「っそーちゃん! はやまんないで! 誠心誠意あやまっから……!」  環が半泣きで浴室のドアをガンガン叩いていると、中から物凄い強さで何かが叩きつけられたことでとりあえず中で壮五が生きていることだけは分かりほっと安心する。そーちゃん、とまた零すと低い声で静かにしててという壮五の声が聞こえた。 「ほ、ほんとにしてるっぽい……?」 「うるさいな……」 「ご、ご、ごめんな……」 「一応聞くけれど、セックスした記憶はあるのか……」 「断片的だけどある、してる……」 「というか何でゴムしてない……」 「しらねーよ……買ってはあったっぽい、かばん中には入ってたけど……」 「…………」  無言で怒りを表現されて環ははあ、と重く息をついた。セックスしたかしていないかはまあこの際どうでもいいが、酔った者同士で性行為をして覚えてもいないのに証拠ばかり出てくるという余りの恐ろしさに飲酒がいかに危険な所業かを思い知った。これはトラウマだ。しばらく安心して飲めそうにはない。  やがて壮五が浴室から出てきた気配がして環が顔を上げた先では透き通った白い胸にキスマークが満開に咲き乱れ、疲れ果てて濁った紫は途方に暮れていた。改めて見るととてもいやらしくて環の頬が知らず火照る。 「……すげ、えろ……」 「この期に及んでそういうことしか言えないのか君は……疲れた……死にたい……」 「死なないで……! ごめんなさい! でも何にも覚えてない」 「……ちょっととりあえず状況を整理しようか」  床に散らばったままの衣服を嫌そうに一瞥し、壮五はバッグから新しい下着とインナーを出して身に付けた。  正座した環の正面に何故か壮五も一緒に正座をすると、思い出せることをひとつひとつ二人で確認していくことにした。 「まずは、焼き肉行ったよね」 「行ったよ。ビール頼んだ。三杯飲んだ。普通だった」 「そうだね。色々話したよね。じゃあ店を出たのは覚えてる?」 「……え?」 「覚えてない?」 「うん」 「確かに会計ぐらいから環くん結構酔ってた気はする。バッグもスマホも持たないでふらふら出て行っちゃって」 「全然分かんない。三杯目からどんぐらい飲んだん?」 「それが……一杯しか飲んでないんだよ。僕も酔いそうだったからビールはやめたんだけど」 「いやいくらなんでも生四杯でそこまで酔ったことねえんだけど……」 「でも疲れてたし盛り上がったし気分良かったっていうのももしかしたらあるんじゃない? 知らないけど」 「……おれどんな感じだった」 「半目で眠たそうだったかな。けど記憶なくしてるぐらいべろべろって感じではなかったけどな……」 「……」  壮五の話す内容は途中から全く身に覚えのないことばかりで環は驚愕した。会計も覚えていないどころか店から出たことすら分からない。壮五がうーんと唸る。 「でも、僕そのあとよく覚えていないんだよ。店を出たのは覚えてるよ。ホテルもすぐ近くだったよね」 「めっちゃ近く。ほんとすぐだった店までは」 「……断片的だけど、どこか行った? レジに並んだような気がしなくも……」 「財布にレシートあったから多分それじゃね? そーちゃんがゴムとか買ったの?」 「君の財布から出てきたレシートなら君が買ったんだろう?」  壮五のその断片的な記憶と環の持つあの会話に繋がりは果たしてあるのだろうか。靄の濃くかかった風景でよく思い出せないが直接的な行為へのきっかけとしてはそれが一番有効な気もする。 「んーとさあ、そーちゃんおれに嫌いじゃない、好きって言ったんだよ。その記憶はある」 「……そう……」 「で、これもところどころだけど、セックス中のそーちゃんの記憶もある」 「それは……抹消するしかないな……」 「物騒! 待って、おれだけが悪いのかよっ」 「……というか、中に出されてるみたいなんだけどそもそもどうやっていれたんだろうか……」 「このーこれ、なんかすげーローションじゃね」 「そんなものひとつで僕は君を受け入れてしまったのか……?」 「てか、はいるもんなのな……こわ、ゴムつけてなかったのは本気で謝る……ごめん……」 「他も本気で謝ってくれ」  結局どういう経緯でセックスに至ったのかは二人とも覚えていない為、心地悪いが迷宮入りだ。  とりあえずちゃんとは覚えていないが酔ってセックスしてしまった事は間違いないようだし、環が壮五を犯した事実は真実の現実であった。  まあ思っていたよりも現状気まずくはないのが幸いだと思えた環だったが、今後はこのことでずっとねちねち言われるのだろうなと考えてがっくりと肩を落とす。 「はあ……。とりま、シャワーしてきていいっすか……」 「とりあえずまあで片付けられても困るけどね? どうぞ」  とぼとぼと浴室へ消えた環を尻目に、壮五はベッドに腰かけると途端絶望に頭を抱えた。 「僕はあの子となんてことを……」  あの様子だと本当に不可抗力だろうし環の前であんまり動揺するのも可哀想なのでとりあえず怒っていることにはしたが、こちとら泣きたいぐらい恐ろしかったのである。  というのも、ひとつきっかけになり得たかもしれない会話を腸内の残滓を処理するという残酷な現実を受け入れている最中にふっと思い出したことにある。  それによるとどうやら環だけを一慨に責められないのは明白で。 「撮影は環くんだと思ってした」 「……どーゆーこと」 「あんまりにも相手役が生理的に無理で、撮影出来なくなりそうだったから」 「? おれはいーんか」 「いいよ。良いとこも悪いとこも、全部しってるし」 「ほー。じゃする? セックス」 「しない……」 「いいじゃん、おれんこと嫌い?」 「……嫌いじゃない……好き、だけど……」 「マジ? 知ってる」  そう言って嬉しそうに笑った環にぺとっと触れるだけのキスを唇にされた。  壮五はその浮つく熱の感触をすっかり思い出して大きくため息を吐く。  幸い、今日はもう帰るだけだったからよかったものの、先程からツキンツキンと刺すような鋭く細かい痛みが腰周りに張り付いているし、入口は少し指で触れた程度ではわからないぐらい感覚が鈍いような気がする、中には出されているしそもそも全身がだるいしアルコールが抜けきっていないのか頭痛もしてきたし、あ、そうだベッドは汚してなんかいないだろうな、チェックしておかないと。  そう思って壮五が掛け布団をぺらとめくると自分側は特になんともなかった。使っていないのだから当然だ。しかし二人で寝ていた側のシーツに目を凝らすと小さくてんてんと無数に血痕らしきものが付着していた。思わずドキドキしながら自分の尻を撫でるが先程ペーパーを当てた時は血が出ていた気配はしなかったように思う。  訝しげに首を傾げたその時。 「そーちゃんッ……!」  全裸で濡れた身体のまま涙目で浴室から飛び出てきた環がくるりと背中を向けて足踏みをした。 「……うわ……」  思わず目を丸くして驚いた壮五だったが、その悲惨な有様である環の背中に同情すると同時に、ふと自らの指に目を落としたのだった。  *     **  もつれこむようにして玄関で組み敷かれ、壮五はふらつく全身で懸命に環を宥めると痛いよ、となるたけ冷静に呟く。  一方の環の顔はひどいもので目を白黒させながら自分が今何をしようとしていたのかを必死に思い出そうとしていた。壮五にはそれが分かったのであえて環の自制心に任せてじっと落ち着くのを待った。 「……っそーちゃん……」 「なに。一旦どいてくれ、僕だって我慢しているから」 「もおなんなんこれえ」 「分からないよ、でも、多分環くんがくれた飴じゃないかと思う」 「あめ? が、……どーしたん」 「怖い話だけど、あれに何か入ってたんじゃないのか? どこから持ってきたの?」  そう問われた環が逡巡した数秒ののち、苦く「まじか」と呟く。どうやら心辺りがあるようだ。  こめかみに青筋を浮かべなるべく静かに息を吐いた壮五は環の肩を強く押しのけて場合によっては有罪だなと睨む。 「……タクシー待ってるとき、ファンから貰った」 「有罪!」  信じられない回答に秒でぴしゃんと跳ね付けた壮五は今度こそ人生のいつより本気で頭を抱えた。  さて、いかになったかというとだ。時刻は現在より一時間半ほど前に遡る。  (キャンディシュガーローション・裏)  早朝からめちゃくちゃに疲労してしまった身体を引きずりながらも十時前には揃ってチェックアウトを済ませた二人は東京へ帰る新幹線に乗るべく移動を開始した。  駅まではタクシーで向かうがその道中壮五は常にうう、とかああ、とか唸りながら昨日の行為の代償を疎んじた。  対する環はそれを心配そうに気遣いながらも終始刺々しい壮五の態度にたじろぐ。 「ねー……、だっておれもさ、覚えてないのにさ、怒ったってしゃーないじゃん」 「別に怒ってないよ。身体痛くて不快なだけだよ」 「さする? おぶろっか?」 「もう! いいからいちいち気にしないでくれ! 僕は僕なりに身体のストレスを言葉で発散してるんだよ! そうでもしないと、」 「ほらもお……カリカリすんなっつーのな……」  それなりに人の多い時間帯である。駅についてからもプラットホームに並んで立つだけで目立つのでなるべく小声でああだこうだと言い合っていたらあっという間に車両が到着してしまった。  東京までは一時間半強はかかるのでしばらく時間があるもののお互い台本やスケジュールのチェックをする気分には到底なれないのだった。 「ん」  出発してすぐに環は懐から飴玉を取り出していかにもげんなりと窓の外を眺めていた壮五に渡した。 「ありがとう。これ昨日もくれたやつかな?」 「んー。そっち多分甘くないやつ。おれのこれ、プリン味」 「味が違うんだね。昨日のはコーヒーの味がしたよ」 「それと一緒の」  壮五は何の気なしにかさっと包みをほどいて飴玉を口に放ると、やはり昨日食べた時と同様に豊かなコーヒーの味が口いっぱいに広がる。そこで何だかようやっと一息つけた気がした。  環は既に口の中で飴玉を噛み砕いているようで、ごりごりと歪な音がしている。堪え性がないのはもう一生治らないのだろうがまさか三つも年下の相方であるこの男と身体を交える日が来ようとは。どのような状況であれその事実がなんだか今更ながらにのしんと重たくて今後どうやってこの話を処理していけばいいのか正直なところ思いあぐねていたところだった。 「……」 「はー、何か眠い。朝から疲れたな、そーちゃん。……ごめんな」 「……時間あるし寝たらいいよ。帰る前に僕の家に寄っていって。背中、すごいことになっていたから。痕になっても困るし」 「血でてたもんな」 「はあ……爪とぎしてしまうぐらい激しくされたみたいだよ」 「おっこんなって……」  気まずそうにそう言った環には返事をせずに、壮五は再び窓の外に目を向ける。  陽光きらめく本日は晴天で、強い日差しが窓から注ぎプリズムが眩しい。予報では東京も晴れだと言っていた。 「…………」  壮五は、例えもしこれからどのような結果になったとて、環とメッゾでアイドリッシュセブンなのは何も変わりやしないか、と急に気分が落ち着いた。仕方ないから環に貸しがひとつ増えたことにでもしようかななどと思いつつあくびをかみ殺す。  今朝の動揺と憤りを宥めるかのようにして徐々に消えゆく口の中の飴玉にどこかほっと安堵した壮五はそのままうとうとと終点まで眠りこけてしまった。 「そーちゃん、そーーちゃん……」  気が付けば環に小声で揺さぶられていてようやく目を開けた壮五だったが、起き抜けにかなり険しい身体のだるさで身動きがとれなかった。  焦点も合わなくてぼうっと火照っているようなこの全身の熱さに何故か既視感を覚える。 「あのさ、……すげえむらむらしね?」 「え……」  とりわけ小さく耳打ちしてきた環に重い瞼の目をやると、顎から滴る程のひどい汗にまるで頬が紅潮している。熱でもあるのかと壮五は思ったが上手く頭が働かなくて何も言えない。  やっとの思いで新幹線から降車した二人はそのままふらふらと端に寄ってしゃがみこんでしまった。  とにかく、熱い。全身もそうだが下肢だ。あろうことか身体が性的に興奮している。恐る恐る股間を見遣るとジーンズの固さに誤魔化されながらも形を成そうとする昂りに心底困惑する。  環だって同様でスーツケースの影に隠れてうーと唸りながら手で汗を拭っていた。 「なんだこれ……何でまたこんなことに……」 「起きたら普通に夢精してたとか無理なんだけど……こわすぎ……」 「ええ……相変わらず節操がない身体だな……とにかく、行かなきゃ、ここからだと環くん家の方が近いから寄らせて」 「え、……すんの?」 「余裕がないからふざけないでくれ」  万が一同じ空間に居ることで(主に環の)自制が利かなくなることを回避する為に、それぞれタクシーで移動することに決める。  壮五はまわらない頭なりに何故こうなったと必死に考えるが、今日も特段これといってきっかけは見当たらなかった。  それより、もし昨日これと同じ作用が互いの身体に働いたのだとしたら、少なくとも環が抗えるとは到底思えなかった。ただでさえライブ後の興奮やアルコールだって入っているのに、こんなまるで催淫剤でも盛られたかのような、 「……飴……」  突如ぱっと壮五の頭に浮かんだのは環から貰った飴玉だった。確か昨日もホテルに向かうタクシーの中で貰って食べた。  その後焼肉店で二時間程過ごしそれからの記憶が二人とも曖昧だという。壮五は心底ぞっとする。  綺麗に包装されていたし、市販のものだと思っていたが万が一違うのだとしたら。  マンションの前に着いて早速問い正そうとした壮五だったがいくら問いかけても環は無言で、壮五の腕を引っ掴みながら足早に部屋へと向かった。  タクシーを降りエントランスをかけ抜ける間、エレベーターの中、廊下でだってずっと、ずっとだ。何も言わないまま痕がつくほど強く握られたままの腕に壮五は内心ドキドキしていた。どういうドキドキかはイマイチよくは分からなかったのだがついぞ強引に部屋に連れ込まれるや否や玄関先で鼻息荒く押し倒されてしまったというわけだった。  冒頭に返る。 「君は本当に馬鹿なのか! ファンから頂いたもので口に含んでいいのは事務所が通した物だけだってあれほど言ったのに!」 「だ、だって! 封してあったし、きれいだったし、普通にそのへんで買ったもんだと思うじゃん……!」 「知らないよ! 催淫剤だったから良かったもののいや、全然よくはないけど! これがもし猛毒だったら僕たち死んでるんだからな! 僕は間接的に君に殺されかけているんだよ! 二度としないでくれ!」  壮五が涙目でそう怒鳴ったところでじたばたと足踏みをして堪えていた環がとうとうかぶりつく様にして壮五の口を大きく塞いだ。  抵抗の余地なくぎゅっと目を瞑って環を受け入れてやるが壮五だって全身を苛む熱を必死に我慢してきたのだ。熱い舌に口内を荒く舐め取られやっと与えられた性的な刺激が馬鹿みたいに気持ち良くてそれこそ死んでしまいそうだった。 「んっ……ふっ、」  鼻から抜けた信じられないぐらい甘ったるい自らの声が聞こえてはいるのだが、もうそんなことを気にしている余裕は無い。酸欠の朦朧とした意識では快感を拾うので手一杯である。  環の強引なペースで気の済むまでぐちゃぐちゃに翻弄され、やっとこ唇から離れたと思えば今度はそのまま首筋からティーシャツの上へと滑り、果ては我慢の限界を超えた昂りへまで落とされた。  ジーンズのボタンを外され下着をまさぐられる感覚に壮五はやだ、と精一杯反抗するのだが我を忘れた環にそんな弱々しい声が聞き入れられるはずもない。我慢しているせいで余計敏感に張り詰める猛りがあっけなく環の口に含まれた。 「っい、うあ、ちょっと待って、何してるか分かってるのか……!」 「んっ……」 「たまきくん!」  口での刺激という強烈な快感にがくがくと揺れる腰ではさほど説得力がないがぎこちなく口淫を始める環に壮五の羞恥心が爆発する。 「いいいいやだって……! やめてくれ! まともな頭になったら死ぬほど後悔するぞ……!」  環の前髪を掴んで泣きそうになって訴える壮五の声など完全無視で、夢中になって口を上下する環があまりにも強引であまりにも刺激的なものだから、抵抗しているのにどんどん昇り詰めてしまう欲望が壮五の思考を絡め取る。  やがて「ぁ、」と大きく身体を震わせた壮五がついに達すると喉の奥で受け止めたらしい環は盛大にえづいた。  やっと離した口からぼたぼたと壮五の精液を零すと口周りをべたべたにしながらまずっと泣いた。 「うう、ば、ばか……」 「ニガァ……! 毒! よくこんなん飲めるな! 腹痛くなるだろ! きもちわる……!」 「……勝手に人のことフェラしといてなんだいそのいいぐさは……」 「おえ、はー、まずすぎ、やばいでもちょっと落ち着いたかもしんない……水のも、そーちゃんも飲む?」  そう言って立ち上がる超超超マイペースな環に全身をぐちゃぐちゃに乱されたままほっぽられ唖然としてしまう。  とはいえ壮五も張り詰めていた昂りを吐きだすことが出来て随分冷静になったのでいそいそとジーンズを履き直していると冷えたミネラルウォーターを差し出しながら何でしまうんと環が首を傾いだ。 「やんないの?」 「え……いやしないよ! 何でする前提で話してるんだよ」 「えーヤダ! いいじゃん、しようよ。一回してんだからあと一回したところで何も変わんないよ」 「そんなの、君は変わらないかもしれないけれど僕だけ二回も犯されることになるんだぞ、納得できないよ」 「え……じゃあ……する? いやでもおれは痛いのはぜってーやだ……そーちゃん痛いの平気じゃん? 譲ってよ」 「へ、平気ってことはないだろう! そもそもセックスした時の事覚えてないんだから平気な痛みかどうかなんてわからないじゃないか!」 「そんないれたいの? あれあるよ、オナホ。貸してやろっか?」 「ん、ちょっと待って、何で僕が我儘してるみたいに言うんだ? 本当に通報するぞ?」 「させないんだなこれが。ほらベッドいくぞ」  〝する〟と決めた環に壮五の切り札であった通報の二文字はとうとう通用しなくなってしまった。有無を言わさず強引に腕を引かれ壮五は心の底からげんなりしてしまう。 「ちょっと、ズボンちゃんと履かせてくれ……」 「すぐ脱ぐじゃん、いーからきて」 「…………」  壮五のつれない様子にはお構いなしに隣にぴったりくっついた環はとびきり優しい笑顔で壮五の腰を抱き寄せる。歩きながら顔中無数にキスを落としおまけに甘い声でそーちゃんすきーとかかわいーなそーちゃんと囁く始末。完全に性交へのスイッチが入っている。 「……っ、くすぐったいから……」  普段の姿からはまるで想像できなかったが優しく丁寧な環のリードは嫌がる素振りをする壮五を実にまんざらでもない気持ちにさせていく。  今まで誰と身体を交えるにしてもどこか緊張感が拭えないのが常だったが、環となるとどうしても自然と身体がリラックスしてしまう。いや、今までの人生で男性と故意にしかも受け側として性的な触れ合いなどしたことがないので環とだからこんなに抵抗がないのかどうかなど分からないのだけれど。  とかくまるで遊びの延長かの様などこか不思議な雰囲気に口では嫌だとは言うが抵抗らしい抵抗はもう出来なかった。  先程の強い力とは打って変わってとても優しくベッドに押し倒されれば壮五もいよいよ変な気持ちになってくる。 「……いれんのこわい?」 「……あたりまえだろ……」 「おれもちょっとこわい。どーすりゃいいのかわかんないけど多分普通に女とするみたいには出来ないよな? 濡れないもんな?」 「それ分かってるんだったら君がオナホでもなんでも使ってオナニーすればいい話じゃないのか? 僕はこのまま帰ります」 「はああ? 全然違う、意味わかんない、おれはそーちゃんとエッチしたいのに何で一人で抜いて終わるみたいな話になんの? したくない? ヤダ?」 「いやだ、って、何回も言ってるじゃないか……」 「ほんとに? ほんとのほんと? 昨日気持ちよくなかった?」 「だから覚えてないよ!」  そうは怒鳴ったが壮五の気持ちはもう環とのセックスへの期待に傾いてしまっているのは明白だった。されたことの全てを覚えているわけではないので余計に好奇心を煽られて期待している。気持ちいい感覚だけを断片的に覚えている身体では無理もないが、催淫剤入りの飴玉の効果も相俟ってかドキドキしながら啄ばむ様な環の軽い前戯を受け入れた。  いつの間に仕込んだのか、環はポケットからコンドームの包みを一つベッドの上に放ると、続いて恐らく昨日使用したのであろう媚薬入りのローションを手にぶちゅっと絞り出した。一連の動作を黙って見ていた壮五の目がきつくなる。 「おいちょっと、待って……! 何でそれ使おうとしてるんだ」 「は。だってこれしかないし。オナニーでローション使わないんだよねおれ」 「知らないよ! それぬ……、やめて! 待って! それ塗ったら通報する!」 「できねーじゃん。スマホどこやった? ローションこれしかないんだって。おれも使うし一緒にだめんなろ」 「えっ、ふ、ざけ、っあ、……ッさいあく、」  全く驚く程に聞く耳を持たない、ともすれば持つ余裕がないのかもしれない環は片手で強引に壮五のジーンズを下げて足を抱え上げた。やめて、と言った壮五の制止の声も虚しく入口に環の指が触れると恥ずかしいとか苦しいとかあらゆる感情という感情が機能停止し壮五は完全に諦めて無になった。もうどうとでもなればいいよ。羞恥と虚無の狭間で環にはあとで絶対にひどいことをすると固く心に決めた。尻がスースーする。 「あー、どうしよ、そーちゃん、どうすんのがいいんだっけ」 「知るか……いきなり入れたら本当に殴るからね……」 「優しくする、それはすんだけど」  言いつつローションまみれの環の手の平で緩く前を刺激されれば、ぴくんと敏感に反応せざるを得ない。男同士だからか分からないが力の入れ方が絶妙で意識がその動きに集中してしまう。  自分でするぐらいぴったり気持ちいい強さなのに環の刺激がまるで予測できない。押し殺した声が漏れ出てしまうのが嫌で無意識に唇をかみしめる。 「声我慢してる? 唇噛んだらだめだぞそーちゃん、血出たら怒んじゃん……」 「ほっ、といてくれ……」  目を瞑って必死に快感をやり過ごしているというのに環は壮五に何とか口を開けさせようとまるで動物の様にぺろぺろと口周りを舐めてくる。くすぐったくて思わずやめろと言った瞬間舌が割り込んで深い角度でキスを強いられてしまい壮五は身悶えた。  入口と昂りが同時に熱くなる。ローションの効果なのだろうがあまりにも刺激的だった。 「っ、ん……は、ん……」 「んー、っすーご、これ……やばいかな……」 「う、キス、もう……しないで、かまない、お腹全部っおかしくなる、指、も、やめてほしい、」 「ちゅーはしたい……指もやめたら入れれないじゃん……」 「いれるのいやだっ……」 「それはおれがいやだ、気持ち良過ぎてやなんだろ? いいから任せろ、痛くしねーから」 「っ、ん……やだって、ば……」  裏腹に手の平での優しく緩い刺激では物足りなくて壮五の腰が無意識に揺れた。その反応にぺろりと舌なめずりをした環はローションの効果かどろどろに解れた入口にそっと指を進めた。  それほど壮五に力が入っていないのでするっと中指を入るところまで飲み込んだのに安心しいつもの癖でくっと指を曲げる。否、曲げてしまった。 「っッ……! ……ぁッ」  ビックンと強い反応で壮五が急にびゅ、と達した。驚いて環は動きを止めたがきゅうううと強く指が締め付けられたのち、ぐた、と壮五が脱力したその様がなんとも言えず艶やかで目が泳ぐ。 「いや、なん、えっろ……や、ごめん……どした、そーちゃん女なん……」 「っ……う……なにそこ、いやだ、もう触るな……」 「きもちい? これ?」 「っ、っイッた! から! やだ! つよい、やめてくれ……というか、痛い……!」 「いたいっ? ごめん、へーき、いっかい抜くな……」  突如ぷっと指を引かれて急に中が物足りなくなるもたかが指一本の体積だったが無くなってほっとした。異常な神経の昂りが切なくて意味も無く泣きそうになってしまう。  依然として全身の熱い苛みが止んだわけではなかったが達したおかげでいくらかは楽な気がする。束の間壮五の気が緩む。  すると、痛いの一言で難しい顔をして悩んでしまった環がふと思い立ったようにしてシーツで手を拭うとスマートフォンを操作し始めた。程なくしてカキーンと何かに課金した音が響きオーガズムの余韻のまま傍観していた壮五が分かりやすく苛立つ。 「なにしてる…………ゲームとかだったら本当に絶対に通報するから……」 「さすがにこの状況でゲームしないな。これ、今買った。じゃーん。電子版、アイとカラダ。男同士のセックスのやり方のってるっぽいから見て教えて。その通りにすっから」 「……みて? おしえて? どういうことだい、僕に僕の身体を気持ちよくさせる指示を送れっていうのか……いくらなんでも頭がおかしくないか……」 「だっっって、アンタが痛いっつったんじゃん! おれだってもう死ぬほどちんこ痛いけどそーちゃんが気持ちよくないのはやだ!」 「随分プライドが高いな……オナホあるんでしょ……そっちにお世話になったらどうかな」 「あんま意地悪すると痛くてもいれんよ、いいの」 「っ当てないで、ううっ素面に戻ったら覚えてろよ……つらいこといっぱいさせてやるからな……」  仕方なく半べそで壮五がその本を読み始めてすぐにラビチャの通知が画面の上に表示された。件の女優の名前で「いまひま?」という文字がちらっと見えた。  なんだ、面倒だとか言っているくせに結局そういう人間とは縁が切れていないんじゃないか、と壮五は内心嘲笑った。  壮五はというとその点いくら撮影期間中に親愛度が深まった女優だったとしてもドラマが終わった瞬間に相手と画面を見せ合いながら連絡先を削除することにしていた。嫌がる者も中には勿論いたが相手にするだけ時間の無駄である。  最近はスマートフォンの仕様をいじり登録済の番号からしか連絡を受けられないようにもしている為に不要な連絡は今まで一度も取らずに済んでいる。  まあ、そのせいで何度か差出人不明の脅迫状が届いたり事実無根のえげつない噂を週刊誌に流されていたりはするのだけれど。 「環くん。女の人からラビチャ。いまひま? だって」 「ひまじゃねーしもう連絡すんなって送っといて」 「え僕が……?」 「ったく、あとくされねーと思わせといてこれだよ……勘弁してくれ……」  ぶつくさ言いながら太腿を緩く優しくさすってくる環を尻目に、壮五は「申し訳ありません、今取り込み中です。ドラマの件ではお世話になりました。大変失礼かと存じますが今後はご連絡を控えて頂けますと幸いです。」と送信した。すぐに既読になったが「いや誰?」ときたのでそのまま画面を閉じる。 「登録済の番号からしかメッセ受け取れないようにしたら?」 「は? なんで」 「だって迷惑なんだろう?」 「まさかそーちゃん、ドラマのたんびに連絡先切ってんの?」 「そうだけど」 「ああ……そりゃ来るわ。血染めの手紙」 「……仕事以外で親しくする気はないもの」 「んー、とりま人としていかがなもんかとは思う……」 「君にだけは言われたくないんだけど」  環にそんな事を言われるのは心底心外だったが、優しく身体中を撫でつけるその手に嫌でも再びセックスへの期待値を持ち上げられ気を取り直してしばらく本を読み進めた。  関係ないが壮五は催眠にはかかりやすい人間と昔番組で診断されたことがある。いつの間にか夢中になって内容を読解し知識を懐柔すると壮五の装備が目的達成モードに切り替わった。照準は無論、「環とセックスしてイく」だ。概要はばっちり掴んだので自ら四つん這いに体位を変え壮五はたまきくん、と後ろを見る。 「さっきのところは前立腺っていう、女性で言うGスポットみたいな部位みたいだ。すごく敏感に感じたからあんまり強くしないで。初めてだと感じにくいはずなんだけどな……多分感度があがってるせいで過敏になっているのかも」 「ほー。で、なんで自分からその恥ずかしいカッコなった?」 「この体位が一番負担少ないんだって。ゆっくり入れてみて、指」 「……ん、うん……いきなり超積極的だな……」  環はたじろぎながらも言われた通りに再びゆっくり指を推し込むとそのまま奥まで、と壮五が言うので慎重に根元まで突き進める。息を詰めながらもさっきよりは楽、と壮五が呟いた。 「そのまま中こする感じで慣らして。これは女性と同じ様にでいいみたい。前も軽く触ってほしい」 「うん、……うん? てか犯されてるって分かってる? さっきからひとごとみたいに……」 「君がやれって言ったんだろ、文句言われる筋合いはないよ」  改めて意識するとぐちゅ、と濡れた音をたてて環の指が蠢くその未知の感覚に壮五は背筋を震わせた。徐々に中の触覚が脳と繋がりはじめて快感のある場所とない場所がはっきりと区別されていく。気持ちがいい箇所をなぞられる度にそこ、と声で知らせると環は優しくここ? と触れてくれる。 「あ、すごい……気持ちい、ぃかも……」 「……」  それにしても目的達成モードに入った壮五に少しも恥や迷いはないようで環はその将来が若干心配になる。  媚薬のせいでとか言ってるが本当に初めてか? と疑念も出始めたが素直に快感に悶えひくひくとなる身体はどうあがいても愛おしかった。  透明な先走りが垂れる壮五の昂りをそっと握ると、ローションでぬめる手の平でぬちゃぬちゃとしごいていく。んん、と重く喘ぐ壮五は中に埋めた指がいつの間にか二本に増えていることには気が付いていない。  反応がいい箇所をしばらく重点的に刺激するとたまらず声をもらしてしまう壮五に環は次の指示を促す。 「おーいそーちゃん、つぎー」 「っ、あ、…ぅ…ゆび、ふやして…」 「何本に?」 「さ、三本まで入ったらもう大丈夫……」 「ちんこいれれるってこと?」 「うんッ……」  壮五の内壁の触感が新しくて環は自身の快感に多少耐性が出来てくる。こうしたらイイっぽいだとかこれなんだろ、とか好奇心のまま指先を敏感に蠢かし未知の遊びに夢中になりながらも既に指二本でぐずぐずな中の様子を今一度念入りに確かめる。具合がどうだかなどさっぱり分からないが初めよりは内壁が広く感じるような気がしなくもない。  しかし、さすがに指三本を縦に並べてみるとけっこうえげつない広がり方をする気がした。痛くはないのかこれは。どう見ても痛そうだが。  怖気づいた環は壮五の限界の昂りを軽く撫でながら一回イく? と問うと壮五は弱くかぶりを振った。 「んん、い、いくと……痛いの感じるようになるらしいからッ」 「え、そうなん? だからさっき痛かったのかな? でももうしんどくない?」 「……っはやく指増やして……」 「増やしたらいきそうじゃん……じゃちょっといくの我慢な」 「っえ……」  いくよーと暢気に言った環だったが、壮五はむりむりに入りこむ三本の指に二本の時との明らかな質量の差を感じて拒絶の力が入った。途端じわ、と腹の奥から射精感がせりあがる。  が、それを見越していた環がやわく握っていた先端の裏側をぎゅっと押し込みながらはーいがまーんと呟いた。 「っ……ん……」 「いくのダメな。痛いからな」 「っッ……」  そのまましばらくするとあれほど張り詰めていた壮五の射精感はすっかり楽になり、なったはいいのだがものすごくむずむずする。何だこれは。  さても環が抑えたのは亀頭の裏側にある射精を抑制するツボである。  男ならば誰もが知っている常識だとは思うが性交中に射精を我慢する機会というのは実は中々無い。よって今までされたことも意図的にしたこともなかったので本当に効果があることに密かに壮五は驚いた。  地味に治まった射精感に若干の余裕が出来たことでふと冷静になってみるとこうして射精を抑制され無意味に熱を保ったまま三本の指をアナルに咥えているという支離滅裂な状況に壮五は突然困惑した。  真昼間から一体何をしているというのか……。  その間にも奥まで差し込まれた環の指は絶え間なく壁内を刺激して時に前立腺をしつこくされながらも次第にその圧迫感にも慣れてきているという。人間の神秘とは恐ろしい。壮五は気持ちいいと苦しいの狭間で人類の可能性について今現在おおいに貢献しているのではと思った。 「んもーそろそろいくない? 痛くないっしょ?」 「……お陰さまで……」 「しゃ、いれんね。いれてい?」 「痛かったら蹴るからな」 「どこをだよっ」  そう言って腰にひっかけていたズボンに手をかけてそわそわする環を一瞥したがまさかここまできて壮五も期待していないわけがない。内心といいつつ隠せてはいない好奇心と(意識下では)初めてのアナルセックスの不安感で吐きそうになりながら首を巡らせると慣れた手つきでコンドームを装着する環の姿をみつめその時をじっと待った。 「はー、うしろからすんのヤダな。でもこれがいーんだもんね」  腰に環の両手がかかると意図せずびく、と震えてしまう。 「……うん……」  壮五に触れている部分から痺れる様な快感に呑まれ肌が粟立ち身震いする。 「いれるよ。今度は前からしよーね」  こそっとそう言われながらゆっくりあてがわれた環のその酷い熱に息が詰まる。苦しい。 「っ、こんど、て…ぃ、つ」  憎まれ口を叩きながら強く拒んでいる壮五の入口を無理矢理開いていく。思ったよりキツイ。 「いつー? 約束でも、するッ……?」  鋭い痛みに身体が強張る。それでも割り入ってくる環の熱量と大きさに取り乱してしまう。 「んん、ん、あ、だめ、いっぱ、う、あっ……」  壮五の身体はがくがくと震え受け入れる苦痛に悲鳴をあげていた。激しい拒絶に緊張しながら浅い部分を更に慎重に割り込む。 「す、っげ狭……いッやべ、いく、」  息を詰めた環はその狭い内壁を広げる感覚がひどく未知で中ほどまで収め止まった瞬間すぐに達した。  めちゃくちゃな快感に目がまわる。まだ中にいれただけなのに大袈裟でなく今までのどんな性行為よりも既に気持ち良かった。  ぐずぐずに深いのに狭くて熱い。女性の膣がやわらかくフィットする感覚とは到底似ても似つかないもので自分の形に無理矢理推し広げられ拒絶しているくせにうねる内壁は求めるかのように奥へ奥へと誘い込んでくる。  いろいろと吹き飛びそうになった環だったがふーと息を吐いて何とか懸命に堪えると、壮五の震える腰を再度強く掴み直した。 「くそ、いっちったじゃん、めちゃくちゃ狭い、なんだこれ……オナホよりやべーな」 「うう、おな、ほと、一緒にするなあっ」 「ちょっと力抜いて、いてーし」 「無理だっ、わかんない、からっ……苦しいっ……」 「ほら息吐け。だいじょぶ、気持ちよくなっから」  最早何が何だかわけがわからず言われるまま細く息を吐くと同時に環の腰がゆっくり進む。内臓に直接触れられているような感覚で全身から冷や汗が噴き出た。  自律神経が乱れ急にものすごく不安になり唇に何か触れていないと泣きそうで壮五は必死に自分の手の甲でそれを紛らわせる。 「っあ、環く、……こわい、いやだ……」 「こええな、こんなん、分かる、だから前からしよっつったのにッ……」 「たまきくんっ」 「ふいー、まじでどーやったんだ昨日……酒怖すぎかよ」  飴玉の効果かそれともローションの効果か、はたまた両方の作用なのかは知らないがお互いの身体がほどよく馴染んできてしまうともうほとんど無意識に、夢中で快感を貪る環にも壮五にもどうしたって最後まで自制することは敵わない。  やがて果てしないオーガズムに脳を支配された二人がただただ思うのは勝手知ったるメッゾの関係性を差し引いても信頼感のある性行為が怖いぐらいこんなにもめちゃくちゃに気持ちがいいこと、つまり、こいつとのセックスは思ったより悪くない。これだけだった。 「…………通報……する……」 「まじかよ……」 「君本当に覚えておけよ……僕がされたこと全部返すからな……」 「は……? 気持ち良すぎて潮まで吹けたのに……? 処女だからと思って頑張って耐えたおれの優しさをまず返せっつーの」 「吹きたくて吹いたんじゃない……初めてだっていってるのに色々しやがって……しかも何回射精すれば気が済むんだ……絶倫にも程がある……」 「まあ日頃鍛えてますからね!」 「褒めてるんじゃないんだよ空気を読めよ」  ベッドから動けないままに二人は滔々と文句を言い合っていたがやがて環が乱雑に壮五を引き寄せ抱きしめると疲れた、ねよ……と呟いた。  眉を寄せたが抵抗はせず環の体温に内心でほっとした壮五もひとまずはその疲労感に漂うことに決めたのだった。  さてまあこうして男性同士のセックスに目覚めた二人はこれまでの性生活を覆さんばかりの非常識な〝愛〟という快感に文字通りハマっていってしまうのだがここいらでひとつお礼を言わなくてはならないのだ。  度重なる女優とのスキャンダルに溺れさっぱり交わる気配の無かった二人のベクトルを憂えて、あなたがあの時切なる願いを込めて環に渡したキャンディのことだ。  それをきっかけにして、二人の間に見事ようやく乗算記号が書き足されたということになるのだから素敵な愛のキューピッドの計らいに心から感謝している。  因みに、この媚薬と謳われる精力増進食品の持続効果は平均三十分だったか。  大手量販店にも並ぶ媚薬入りローションに至ってはその効果、塗布後数分間、であるからにして。

EPISODE 02ブランニューミイオープナー

*     ** カクシトラック  (ブランニュウミーオープナー)  空腹に任せてあっと言う間に四人前の焼き肉セットをたいらげた環と壮五は、盛り上がったライブの高揚感にいい具合でアルコールが染みとても気分が良かった。  そのせいか素行のあまりよろしくない最近の二人にしては珍しく真面目な話にも花が咲く。  紡の演出はやはりすごいだのもう少し客の近くで歌うところがあっても良いだの、今後のライブへの反省点や意欲までをも語り合ってお互いの目指すメッゾがどんな形であるかを今一度確認し合う。  役者としての仕事もいいが、やはりアイドルはステージに立つことが一番の幸せ、自分達が華々しく歌って踊れるこの幸福を見に来てくれた人へ少しでも分け与えることができていたら。ファンの許してくれる限り、ここで輝き続けることができたなら。  思えばここまでくるのにメッゾとしても実に色んな事があったわけだけれど、お互い今もこうして離れることなく隣同士にいられることを思うと、改めて周囲の人と環境に支えられて今があると言えた。  メッゾはたった二人だけれど、だからこそお互いが相方で良かったと思える今が奇跡なのかもしれないと胸の内側でどちらともなくこっそり思ったのだった。 「はー、すーげー真面目な話したな」 「いつもしているつもりなんだけどね僕は」 「おれが悪いみたいに言うな……」 「次もビール? 僕ちょっとトイレ」 「んー。そーちゃんは? 頼んどく?」 「……ちょっと酔いそうだから、戻ってから考えるよ。先に頼んでいいよ」  個室の引き戸が壮五の手でからからと閉まると早速ビールを注文した環は店に入ってから触れていなかったスマートフォンをチェックする。何件か女優から連絡が入っているようだったがそれを無視してSNSを開いた。 「○○ッシュセブンはじめよう!」と陸が広告搭を務めてから随分長いこと続いているこのSNSサービスだったが、こいつが実は超有能でメンバー間での情報共有にことのほか重宝している。  環は昨日見た壮五のBLドラマをいたく気に入っていた。配信済のタイトルは空き時間で全てチェックしたしなんなら帰りの新幹線で読もうと思って全二巻の原作の漫画も電子版で購入してある。自身のSNSでも公式チャンネルを探して、当然の様にフォローした。  素直に面白かったしメンバーにもすすめてやろうと昨日からずっと思っていたので共有機能に連動されている動画配信サービスからタイトルを探し、共有ボタンをぽちっと押す。現在リアルタイムで放送されている分を共有するには課金が必要だったのだが環は特に何の躊躇もなくそうした。  これでこのグループに入っているメンバーはこのドラマをいつでも視聴することができる。  操作も直感的に出来て簡単に使えるので環は何かしら面白い動画や記事を見つけるといつもここに共有していた。  コメントにはちょーーえろいから見てねと打ち、ペっと送信した。 「おい」  程なくしてトイレから帰って来た壮五が無表情にそう言うと一人がけの狭い座席に無理矢理つめかけ、環の手からスマートフォンをひったくる。 「わざわざ課金してまで一体どういう神経しているんだきみ……! 消してくれ……!」 「あー! やめろ! いードラマだったから、すすめてやってんじゃん! 感謝するとこじゃん! 消すな!」 「嫌がらせにも程があるだろ! 僕のトラウマをみんなで共有するんじゃない!」  環のスマートフォンをお互い握りしめてもみあっていると引き戸がスパっと開いて明るい声でナマでーす!とジョッキが置かれ何事もなかったかのように再度閉まった。  お互いに一瞬おかしな風に思われやしなかったろうかと過ぎるも拮抗するスマホの奪い合いにすぐさま我に返る。 「ほおら、生ビールきた……手を離せよ環くん……」 「うっせーーーー、そーちゃんこそ離せっつーの、せめーしこれおれんだしっ」 「い、い、加減っに、しないと、! 網で、っ焼くぞ!」 「ぎゃああ! やだやだやめろっつーの! いかれてんじゃん! アッチ!」  あつあつの網に諸共もっていかれそうになり環が観念して渋々手を離すと壮五はそれに勝ち誇った顔をしてそそくさと向かいの席に戻り無事に削除ボタンを押した。満足そうにしたがスマートフォンを返してくれる気がないようで壮五自身の胸ポケットにすとんといれられる。黙って見ていた環だがえー……と声にして呆れた。 「マジで……二十七歳のすることじゃねーから……」 「聞かない。嫌なものは嫌だ。君がわるい」 「もう絶対やりません……返してください……」 「いやです」  ふい、とそっぽを向いてナムルを食べ始めてしまった壮五に環は心底呆れたが、こうなってしまったらテコでも動かないと知っているのでほとぼりが冷めるまで諦めようとジョッキに手を伸ばした。暴れたからか心無し暑い。火照る身体にビールを流し込んで息をつく。 「はー……ちょう良かったっつってんのに……」 「まだ言うか。その話もうしないでくれ」 「なーんで。撮影そんなに辛かったのかよ」 「辛いとかそういう次元じゃなかったよ……! 僕は人生で初めて仕事が嫌で泣いたんだからな!」 「……は?」 「はじゃないよ……! 濡れ場の撮影、すごくいやだったんだぞ!」  冗談でなく今にも泣きそうな壮五の顔に実に悪いとは思ったのだが笑いが込み上げてきてしまい環の口の端が歪んだ。一応必死に堪えていたつもりだったが壮五は目ざとくそれを察してカっと頬を赤らめた。爆発しそうに震えながらダン、とテーブルを叩く。 「たまきくんのそういうところ本当にだいっきらいだからな……!」 「いや、ごめ……ちょっとそれは、おもしろ……」 「あーもう本当に許さない、口きかない。最悪。最低」  とうとう俯いて震えながら笑い始めた環を見て、壮五はこの世の全ての災いを請け負ったかの様な暗い顔で狭い座席に足を抱え落ち込み始めてしまった。ひとしきり笑い終えて顔を上げた環は壮五の状態に驚いて再び笑ってしまう。 「ほんっとうにごめん……! つらかったのな!」 「…………」 「そーちゃん! 悪かったって! ふっ、でもめっちゃ良かったんだって! これは本当!」 「………………」 「あーーーくそ、おもしれー、ばか! おれのばか! だって、あんなにえっちな声そーちゃんから出るんだなってめっちゃ感心したんだよ、これ本当に、恥ずかしかったのにすごいなそーちゃん! 演技力まじ高い! さいこー! すげー! 相手のことめっちゃ好きになったんだな! えらい! えらすぎ! おれは絶対無理! おれには出来ない! やっぱすげーなーそーちゃんは! めっちゃかわいかったぞ夏乃! あーおれがひーらぎやりたかったなー!」 「……黙れ…………」  やっと顔をあげた壮五の鼻は少し赤くなっていて、さすがにぎょっとした環は、え? 泣いてる? と思わず口走ってしまう。  お互いそこそこ酔ってきているので感情の起伏が激しい。何かをぶつぶつ言いながら壮五がとうとうおしぼりで目を拭った。おふざけであっても泣かせるのは趣味じゃないので一瞬で冷静になった環は立ち上がって壮五の肩を軽く揺らす。 「うー、なあ、ごめんって……」 「さわんないで」 「なあぁ、何でもいうこと聞くからゆるしてー」 「別にいらない」 「そーちゃんーー、……ドラマは好きだったしえんぎもすき、だった。これはマジな。素直にそんけーしたし、すげーなってほんきで思った。うそじゃねーからな」 「あ、そう」 「相手にちょっとむかついたのもホント、そんなうまくなかったし、そーちゃんがじょうずだったからうまくいったんだぜ、あれ」 「んああそう、それなんだけど……! というか……君ちょっと酔ってるだろ。もういい、座れ」 「んんー。ゆるしたー?」  壮五に指摘された瞬間何故だか急に視界が狭まって驚いた。  環はぼやっとなる頭に困惑してしばらく無言でいると、どうしてか耳の奥の方で壮五が演じた夏乃の艶やかな喘ぎ声が再生された。画面いっぱいに映された淫らな壮五の顔が脳裏を過ぎる。 「…………」  なんだかすごく、興奮してしまいそうだった。顔が熱くて息も苦しい。ドキドキする。  同時にいかに演技でありいくら仕事だといえどキスを強いてベッドに組み敷き身体を密着させる相手役のことを思うとちょっとどころかかなり腹が立ってきた。  そう。店に入って約二時間に満たないところで、例のキャンディが徐々に効果を発揮し始める。おわかりだろうがアルコールと混ぜては大変に危険である。混ぜるな。危険。 「……んとにセックスしてねーだろうな」 「あの人と? 当たり前だろ、人としてもちょっと苦手……というか嫌いなタイプだったし」 「とか何とか言って、そーちゃんのことだから飯行ってキスぐらいはしたんだろ」 「してないよ……」 「ぜっってーうそ。今まで共演者とずっと寝てたじゃん、キスはしてる、絶対してる」 「……しつこいな……というか仮にでもしていたら何なんだい。別に環くんに関係ないだろう」  やたらむきになって疑ってくる環が面倒になって壮五はそう言ってあしらった。  その途端、環は分かりやすくめちゃくちゃ不機嫌になって黙った。頬杖をついてむすっと口を尖らせ低くむっかつく、と呟いた。  それには壮五がたじろぐ。急に本気で怒っている時の環でそっぽを向いて一切喋らなくなってしまった様子にため息をつきつつ確かに言い過ぎたかとすぐ呼び鈴を押し水を頼む。 「……環くん」 「は?」 「……怒らないで。お互い酔ってるから言い過ぎたよね、ごめん。でも環くんもしつこいよ、嫌だって言ったらやめてほしい」 「怒ってない。だいたい、そーちゃんがかんけーないとかいうからやだった、きずついた」 「え、っも、元はと言えば……」 「一回きりのドラマのやくのくせに、あんなやつにさわられてえろくなんな、むかつく」 「……うん……? そんなこと言ったって仕事だし……何に怒ってる……?」 「キスされて、気持ちよさそおじゃん、まんざらでもねえーんじゃん! おれがやってもおんなじ反応できんのかっての!」 「ええ……?」  既に目が据わっている環の真意がまるでさっぱり理解できなくて何故今そんなことを言われているのかと壮五は首を傾げた。その間にもどんどん苛立ってきてしまう環に困り果てて水を勧めるがいらねーし!とそっぽを向かれてしまう。  多分だけれど環がしたことのないことを壮五が環より先に相手役に許したのが気に食わなかったのだと想像する。意味は分からないがとにかくこれ以上不機嫌になられては困るし自分にとってはあんな人間よりも環の方が百億倍マシなのだと教えてあげなければと思った。  まあ見ての通り、この時点で壮五も割かし酔っていた。環は超酔っていた。  無論二人ともいつもの半分程しか飲んでいないし普段ならば酔う程の量ではないのだが。 「あのね、聞いて?」 「あーうっさい、もういい、かんけーねーんだろ」 「それは言い過ぎたって、ごめんね。撮影なんだけどね」 「こういうときだけへんにやさしーいいかたしてもだめだから! やだから! ばーか!」 「っ……」  壮五はこの酔っ払いのくそガキ、と思ったが水を一気に飲んで落ち着くと、ぶすくれた環に向かってなるだけ優しくゆっくり話しかける。 「撮影は環くんだと思ってしたんだ」  ぴくっとその言葉に反応した環は、頬杖をついたまま目線だけこちらにちらっとくれる。 「……どーゆーこと」  壮五はほくそ笑む。聞く耳をもってくれただけで最早大勝利だ。  それに本当の話だ。撮影を中断している最中、万理にぐちぐちめそめそしていると「じゃあ相手役のことを信頼できる相手と置き換えてみたらどうだろうか」とアドバイスされたのだ。 「信頼できる相手?」 「そう」 「……」 「誰でもいいけどさ、例えば俺とか?」 「環くんとかでしょうか……?」 「そうそ、う……うん?」 「なるほど……」 「うん、そしたら少しは気が紛れるんじゃないかな? 環くんでいいのかい?」 「まあ、彼よりはマシかもしれないです」 「……それはよかった……」  それから待機中ずっと心の中で相手は環、相手は環と必死に念じてその後の撮影を環(仮)だと思って乗り切った。その時は最後まで何とか無事に乗り切れたのでヨシとしていたが後々考えるとそれはそうでめちゃくちゃに気まずい気持ちになった。  だから余計に見て欲しくなかったし、二度と見たくもないドラマである事には違いない。  だがまあ、そのことを環に教えてあげたのならば少しは機嫌が直ってくれるだろう、寧ろ喜んでくれるだろう、と半ば確信して壮五はキリっと顔を整えた。 「あんまりにも相手役が生理的に無理で、撮影出来なくなりそうだったんだ」 「? おれはいーんか」  壮五の目論み通り環は少しだけ明るい顔になった。ほら見ろ、ちょろいな環くん。 「いいよ。いいとこも悪いとこも、全部知っているし」  しめしめと畳みかける様にそう言と、実にわかりやすく環の顔が綻んだ。それを見た壮五の顔も綻ぶ。  そして急に艶を帯びた。壮五の顔がそのまま固まる。 「ほー。じゃする? セックス」 「…………」  何でそうなるんだ。壮五は笑顔で激しく困惑した。環の気持ちなどもう金輪際一ミリも分からない。  実際のところ、環はあのドラマを見て悪ふざけだとしても壮五にキスをしてもいいのだと思った。相手役に嫉妬して、自分でだって絶対壮五にああいう声を出させられると謎の対抗心を燃やしている。結果、火に油を注いだ壮五の告白に酔った環の雄のスイッチが押されてしまった。  すっかり上機嫌で立ち上がる環は緩慢な動きで隣に詰め寄るとスマホ返してーと壮五の胸ポケットをまさぐった。壮五はなにか何故だか、すごく、とても、淫猥な気持ちになりかけ息を詰めてしまう。  ぶるっと首をふり再び水を飲んでからびったりとくっついている環の熱い身体を押しやる。 「しない……」 「いいじゃん、おれんこと嫌い?」 「……嫌いじゃないよ……好き、だけど……」 「マジ? 知ってる」  もちろん、人として、という意味だった。他に言い方があるのか知らないが壮五に他意は一切ない。ないつもりだった。だがしかし環は好き(だけど)に敏感に反応して意味深にそう言うと、あまりにもナチュラルにちゅ、と唇に触れてからかーえろ、と席を立った。ご機嫌丸出しで鼻歌まで歌っている。 「えっ! あ、ま、……お会計……! 待って環くん!」  バッグも持たずせっかく取り戻したスマートフォンもテーブルに置いたまま環がふらふらと歩き出すのを見て壮五も慌てて後を追う。レジに着くも急に頭がぼうっとしてしまいいくら出せばいいのかわからなくてもたついてしまった。  その間も環の動向ばかり気になってやっと店を出ると眠そうに壁にもたれている姿を見つけほっとして駆け寄った。 「ちょっと、……はい、バッグちゃんと持って」 「んーー……」 「ホテルかえるぞ、もう……」  ふらつく環の手を引いて歩きだすと、壮五はふと、環がこれほど酔ったところを見るのは初めてだなとぼんやりとする頭で思った。  大きな通りからは外れている為車も通らない。狭い路地は少し先にあるホテルの入り口とその手前にあるコンビニの明かりだけで薄暗かった。  壮五は自分でもかなり酔いがまわりはじめているのに気がついていたが何せホテルまではもう目と鼻の先。部屋まで行く事が出来ればあとはどうにでもなるだろうと思っていた。 「っ、いた……!」  突如ぐっと強い力で後ろに引かれ身構える余裕もないまま全身に衝撃を受けて、壮五の思考が完全に止まる。パニックになりながらもようやく環に抱きしめられていることに気が付くと、はじめに周囲に人がいないか、次に環は正気か、最後に抵抗をする。酔っているので思ったより緩慢にだ。 「なにする……! やめろ環くん……!」 「……ちょっとあせくさいなそーちゃん」 「はあ……? お互い様だ、いいから離せ、ぼくは君のセフレじゃないよっ」 「さっき好きっつったろーが」 「す、……やっ……」  首筋に鼻を埋められ呼吸されるたびにぞくぞくっと背筋が震えた。環の髪からだろうか。ほのかに香るムスク系の甘い匂いがびびっと脳に快感の信号を送った。抵抗できずにぎゅっと環のティーシャツの胸元を握ってしまう。  ぐるぐると視界がまわる。壮五の酔いがいよいよ満たされ理性が溺れて見えなくなっていく。  それを知ってか知らずかふっと笑った環がじんわり赤い壮五の耳に顔をすりつけながら低く低く囁いた。 「しよっか」 「……な、にを……」 「さあ、なんだろな、どーしよっか? いいこと? わるいこと? どっちにする?」 「……いいのが、いぃよ……」 「あは、……すなおでかわいーじゃん」  あまりに淫靡な環の誘いにほとんど本能で受け答えする壮五の唇を環はわざと音をたてながらゆっくり舐め取って後ろの塀にそっと追い詰める。完全に酔った状態の壮五は徐々に深くなる環のキスをされるがままに受け止め漏れだすままに喘いでしまう。 「そーちゃん……」 「ん、ふ……」 「やる? えっちするよな?」 「っ……」 「あいつよりぜってーきもちいから、しよ? ね?」 「……う……ん……」 「うんっつった? ヤッタ、待って、ここいろ。いてね、すぐくんねっ」  ぱっと急に身体を解放されてよろけたが、この状態の壮五に何一つ確かな状況が分かるはずもない。ただ塀によりかかり熱い身体と痺れる脳に翻弄されながら言われた通りに待っているとこちらも危うい足取りで環が戻って来た。  コンビニの袋を提げていたがそれをバッグに乱雑に放りこむと時刻は零時のちょっと前、環に優しく腰を抱かれながらホテルへと向かったのだった。

EPISODE 03スパイシーロッキンパンケーキ

*     **  耳に押し込んだイヤフォンから流れるまるで感情のない音楽に深いため息をついた。  時間は分からない。ただ、もう今の自分からは何の音も生まれてこないと分かった壮五はフローリングに大の字で横たわって天井を仰いだ。住居とは別に借りている作曲部屋に引きこもってから早五日目ぐらいだろうか。 「……だめだ……なにも……でてこない……」  自分で作っておきながらさっぱり心に刺さらない音の羅列は、よもや雑音。腹にのったプレーヤーに手を伸ばして音を止めイヤフォンを外した。  何曲作っても全然納得のいく出来にならない。ついにはワンフレーズどころかサビの一音すら出てこない始末、手に負えない。  目を瞑ると上手く進まない苛立ちがこめかみに鈍痛を訴える。そのあまりの不快感に転がしてあったスマートフォンに手を伸ばし電源を入れた。入っていた何件かの新着通知をかきわけてたまきくんというトークルームを開く。  どうやら時刻は二十二時。煮詰まったら八つ当たりをするに限る。訂正。甘えているだけだ。  無表情で「辛いもの食べたい」とだけ打ちこむと、壮五はそのままだらっと腕を投げ出した。  (スパイシーロッキンパンケーキ・表)  ぶるると短く震えた端末を確認すると、ここ数日全く音沙汰の無かった壮五からラビチャがきていた。なんとなくだが、環はその内容を勘ぐると開く前に数秒予測する。意味は無い。ただのゲームみたいなものだ。 「からいやつ。たべたーい」  ぼそっと言いながら、そーちゃんというトークルームをタップすると見事大正解。壮五からは「辛いもの食べたい」とぽつんとそれだけ送られてきていて、予想以上に機嫌が悪そうで思わず笑ってしまう。  締切まで余裕が無いと少しまとまった休みを壮五がとってから五日程は経ったろうか。いつものことだが雑念になるとかでスマートフォンの電源は目途がつくまで切られたまま放置。作曲中の壮五は常よりもひどく過敏で神経質にも拍車がかかった。  これまで実にたくさんの修羅場を見てきたので分かるがこれは超超超絶不調の兆し、いわゆる難産などと揶揄されこうなったら絶対に長丁場になる。  精神的にも肉体的にも良くはないだろうとは思うのだけれどこうして自発的にヘルプを送れるようになっただけでも、昔よりは随分マシになったと言えるのだが。  既に二十二時をまわっていたが環はやや急いだ様子でキャップを被り薄手の上着を羽織った。  作曲中の壮五に時間感覚は驚くほど無い。日付のカウントだけは一応しているそうだが果たして意味があるのかは分からなかった。通話ボタンを押す。 「はい」 「いまから出るけど、どっちがい?」 「レッド」 「おー。飲みもんは?」 「ベルジャンのアイス」 「おっけ。勝手に入っていいのな」 「どうぞ」  簡素な通話を切った。  作曲に行き詰った壮五から連絡が来る時は大抵が決まったものの催促だった。  デリバリーよろしく頼まれたからには余程の深夜帯でない限りいつでも届けに上がる。我ながらサービス精神が凄い。伊達に回数はこなしていないので、暗号の様な先程のやり取りだって意思疎通は当然ばっちりだ。  壮五が言う辛いものとは駅前にあるメキシカンのチリコンカンか隣のレッドホットピザ。共に零時までやっている。ベルジャンとは仕事部屋から大きな通りを挟んで真向かいにある喫茶店の名前で十七時までの通常営業ののち夜は翌五時までバーになる。コーヒーは開店中ならばいつでもテイクアウトでき、何度か連れられて飲みに行ったこともあるが壮五のお気に入りとあってとても落ち着いた大人の店だ。因みに年中無休。  玄関を開けると外は湿気を含んだ重たい空気で、雨が降りそうな気配だ。一応傘を持っていこう。環はコンビニのビニール傘を携えて爪先をトントンと鳴らす。  環の住むマンションからは歩いて十五分ほどのとても近い場所にあるその作業部屋だったが何故だか壮五の住居からは駅三つ分離れていた。理由を問うとなんでもここの土地柄が気に入っているとかで雰囲気が好きだか人柄がいいだかそんなことを言っていたような気がする。  気に入っているのは結構だったが徹夜開けにゾンビの如く押しかけてきては眠っている人のベッドにもぐりこんできたり、環が日中仕事に出ていて留守の時でも勝手に入って死んだ様に寝ていたりと、環のマンションは頻繁に避難所扱いにされている。  それならば近くに住居を借り直せばいいと毎回思ったし何度もそう勧めたのだが、真顔でさすがに住んでるところまで相方と同じ駅ってなくないか、と言われてからは何も言えなくなってしまった。明らかに壮五の駅周辺よりは、壮五向けの店がたくさんあると思うのに。  まあ、環自身別に気にしてはいないので壮五が不便でないのなら、どうでもいいのだけれど。  降りそうな空を見上げつつ足早に目的の品物を揃えた環はついでにコンビニで自分用のスイーツを調達する。部屋の前に着くとオートロックの暗証番号を慣れた手つきでパネルに入力しあっさりと解錠した。 「どーーよ。だめ?」  そう言って靴を脱ぐが既に停滞した淀んだ空気が感じ取れる。マンションの一部屋を買い取り防音ルームにリフォームした一室をスタジオとして擁する室内はそこまで広くはなかったがしっかり1LDKの間取りがある。そのリビング部に置かれたソファの上でとてつもなくだらしない格好で横たわる壮五を発見した。苦笑いで水滴の滴るアイスコーヒーをテーブルに置く。だめだこりゃ。  環のこれまでの経験上、機嫌が悪いよりもっとだめなのがやる気が無い壮五だ。今までにないぐらい無気力な様子にさすがに心配になる。 「ダメ……もう無理だ……」 「はは、うける。いつになくダメダメじゃん」 「何にも浮かばない……全部いみわからない……しんどい……」 「まー、そーゆう時もあんじゃん。からいやつどーぞ」 「……いただきます……」  そうは言ったが中々壮五の身体は起き上がらなかった。目はちゃんと開いているが真上をじっと見つめたまま呼吸だけを静かに繰り返している。  環は自分用にとコンビニで手に入れたちょっと高いアイスクリームを手のひらで温めつつ、その様子を黙って見守る。 「ぜんぜんねーの? 聞かしてみ?」 「そういうレベルじゃないんだまだ……」 「……めっずらしーな。いつもある程度は固まってんじゃん」 「あああ、いつもとか言わないでくれ、僕だっていつもと同じ通りにやってるんだよ」  壮五がやっとこ起き上がってアイスコーヒーを啜ると、床にぼたぼたと水滴が落ちた。壮五のはだしの足の甲にも数滴落ちるがぼやっとストローを咥えたまま何の反応もしないことに環は肩を竦めた。 「根つまり過ぎじゃね? 飲み行く? 人あんまいなかったぞベルジャン」 「行かない……そんな気分じゃない……」 「あっそ……どーすんの。一旦ちゃんと寝れば? おれんちくる?」 「いーかーなーいーーー」  再びソファに倒れ込んだ壮五が駄々っ子の様にばんばんとテーブルを叩いて抗議するので環は袋からピザの箱を取り出して蓋を開けた。目が辛い。辛いが凄い。手に着いた赤い液体をすぐにティッシュで拭う。  壮五はよろよろと起きて息をつき一欠けを折りたたんで口に運ぶとさして美味しそうにもなく「おいひい…」と零したのだった。  結局、なんだかんだでそのまま日付けを超えた。明日は環もオフなので問題ないとは言え辛いピザを二欠け食べてからはほぼ無言で横たわる壮五をどうにかしなければと思った。 「…………」  思ってはいるのだが。今回ばかりは一人にしておくのが良いパターンなのか、無理矢理にでも一旦寝かせた方がいいパターンなのか未だに読めずにいた。環的にはソファで寝たって疲れは取れないしここから一瞬でも出た方が息抜きにはなるだろうなと思う。  ただあまり強引にしたりこちらが返答を急いたりすると壮五は分かりやすく拗ねるので、なるべく素知らぬ顔で誘導したい。スマートフォンをいじる振りをしながらわざと何でもないようにする。 「……おれんちいこうぜー。雨降っかもよ、外なんかじめじめしてたし」 「行かないったら……帰りたいなら帰っていいよ」 「まーたまたー。あれあんよあのー、なんだっけ。すげえドギツイ酒。そーちゃん好きなやつ」 「いらないよ」  短くそう言われた環は早速失敗したなと思った。気力ゼロかと思いきや見目よりも苛立っているようだ。少し間を置いて出直そう。  またしばらく、スマートフォンに目をやる。  ところで環には得意技がある。心をどこかにとばしたまま内容など見てはいない画面をスクロールしながらそのままうとうとと眠った。  いつの間にか寝息を立てている環に気がつくと、壮五は起き上がってホットカーペットの電源を弱に入れた。春が終わりかけているはずだが、室内はどこかひんやりと肌寒い。  スマートフォンを胸に抱えたまま健やかに寝ているその顔を見ているとやけに安心する。薄手のタオルケットをそっとかけてやる。  環は壮五の度々あるこういった我儘にいつでも付き合ってくれる。付き合ってくれるので甘えているが、本心では迷惑がられているのかもなと常に思う。それでも頼ってしまうのは、家族というか、兄弟がいたらきっとそういう感じで、身内に近い関係性だからだと壮五は思っている。  少しぐらい嫌な部分を見せたって、簡単には離れられない。  面倒だと思いながらも、ほっとけない。  過干渉なわけではない。求めたり求められたときに黙って寄りそうだけで心が楽になるのが家族というものなのだなと、そう思ってきた。  環がまだ十七歳の頃は、真逆と言っても過言ではないお互いの性格や生活スタイル、好みにセンスですらにどう触れあっていったらいいか距離感が分からずにすったもんだしたものだ。  今思えば拘り過ぎていたのだと思う。  元々は環も壮五も近くに居る人間、或いは他人という存在に対してそれほど強く自分からは求めたりしない性格だったように思う。だからはじめは、側にいるのに割り切れないお互いの関係を疎ましく思った。  けれど無理矢理にでも触れ合ううちにお互いの人柄や性格はいやでも分かってくる。信頼すれば綻びも出るし多少の弱音も強がりも大体は理解していくもの。  するとふと思う。本当のところ実はこの人は自分が居ないと何も出来ない人間なのではないか。そのまた逆も然り。  環も似た様なことを思っていた時期がきっとあるだろう。特に、気持ちを上手く表現できない壮五が黙る時や、実家へ借金をしに帰った時、作曲をし始めた頃もそう。  ちゃんとした大人だと思われていたいのに生き方に葛藤する弱さや決してスマートとは言えない決断。迷ったり悩んだり諦めたりやり直したり殊環の前ではお世辞にも格好いい逢坂壮五だけではいられなかった様に思う。でもそんな時決まって環は隣に居て「自分だけはどんな壮五であっても味方でいる」ということをちゃんと言葉にして伝えてくれた。  単純に自分の選択を尊重してもらえるのは嬉しかったし、他人の期待に応えたり他人を頼りにすることは思ったよりも悪くないことなのかもしれないと初めて思えた。  だから、環はずっと自分の後ろで自分のことを見守っていてくれるし、自分がいずれやりたいことを好きなようにやれる時がきたら喜んで一緒にそれを共有してくれると思っていたのだ。  おかしな話だ。てっきり環は自分と同じ方向に大人になると思っていた。  思えば、そこで一旦メッゾという枠組みの中での二人の関係性は完成していた。  環は仲間であり友達であり家族である。そこに壮五の欲しかったものが出来あがったということはつまり行き止まりだった。  けれどそれに対して壮五は少しも不満に思わなかったし、誰よりも自分のことを側で理解してくれる存在が居るということに寧ろ幸せを感じていた。  これ以上ないのだ。それは壮五の感性として当たり前の感情だった。  しかしだ。二十歳を迎えた環は成人を節目にしてまるで皆がそれを待っていたかのように実に色々な場所に連れ出されていった。  アルコールには強く理性を失う程までは飲まないし、誰にでも屈託なく話しかけすぐに懐く。  口は悪いが要領はいいので盛り上がりのさなか、歌えと言われれば喜んで歌うし、踊れと言われればもっと喜んで踊る。  でも、誰もそれを芸能人だハナタカだと言うことは無かった。  誰にだって態度を変えない。媚もしない。裏表が無い。持って生まれたカリスマ性があるのにそれを全くはなにかけない環だったからこそ誰のどんなシーンにも馴染んだし誰もが環との関係性を心強く思った。  それを隣で静かに見守る壮五は、自分がいかに盛大な勘違いをしていたかを知って羞恥心すら覚えた。  環が大人になるに連れまるで侵攻するかの様に人脈をどんどん広げて新しい交友関係を造りあげていくのを見ていると根本的に自分とはタイプの違う人間だったんだ、ということを改めて思った。  自分とは違う方向に大人になっていく姿をやがて後ろから見ている自分自身に気がついて、ああそういうものか、と。  環は自分ではしないことを経て人生を生きるのかとそう思ったのだ。  悪いことだとは思っていない。ただ、これからもずっと同じ様に、同じ方を二人で向いていくと思っていた自分が馬鹿な考えだったな、と不自然を自覚しただけのこと。  それからは、実に自然とプライベートとしての行動は別々になり、壮五は再び自分の好きなことを一人ですることに慣れていった。  はじめは多少環の快進撃を見て自分だってちゃんと自分なりに大人になっていくのだ、という焦りもあったに違いない。  けれど、マイペースに好きなことをしているうちに「自分が楽な自分でいる」ことに好感を覚えた。こういう自分はなんだか好きだと思った。環が隣で肯定してくれなくても、自分の好きなことを勝手にして勝手に満足するのはいけないことじゃないのだとやっと分かった。  そのうちに趣味が合う落ち着いた友人ができ、緩く交友関係を積み重ねていくのはなんというか本当に自分の為に生きている感じがした。  誰かの為じゃなくて、自分の為に生きている。  自分がしたいことをしてそれと同じ様にしている人間と笑って話が出来る。特別では決してないその人生のルートを壮五は楽しいと思った。  だから、環は環の楽しいと思うルートがある。それは至極当然のこと。全てを一緒に共有する必要などないし、二人それぞれの楽な生き方が出来ればそれでいい。壮五はそう納得した。  とは言え、二人の人生が別物なのだと理解したからと言って、完結したメッゾとしての関係性が揺るぐわけじゃあ決してなかった。  別々の人生の時間、つまり壮五と居ないプライベートな空間であった出来事のことを環はとても楽しそうに楽屋で話してくれるようになった。  趣味が合うことも合わないことも何でも全部包み隠さずに笑って話す。それを聞いていると、自然と環の人生が楽しいものであることが素直に良かったと思えたし自分がしないことをどんどんしていく環のことを隣同士で近くはあるが別のレールを歩く他人としても認めることが出来た。  だから壮五も同じ様にした。環のいない時間のことを話したし、時には環が好きかどうかなど関係なく遊びに誘うようにもなった。  大抵はどうしても行ってみたいのだが中々一人では入り辛いお店だとか、趣味の友人を誘うにはあまりに幼稚な場所だとかだ。  環になら、仮に断られてもショックではないし恥ずかしいのも今更だった。もちろん、環はどこにだってついてきてくれた。  要は甘えているのだ。嫌われないと分かった壮五は環には割と自分本位の考えを口にするし昔よりも図々しい物言いなのは自覚している。喧嘩するにしても容赦なく攻撃するしたまに意地をはりすぎてしまうこともあるけれど環だってそれは一緒。数日すれば謝る方から謝るし修復だって自分達でもうちゃんと出来る。  だから、メッゾが超超超仲良しというのも今となってはまんざら嘘ではない程の関係性になれたことに壮五は自信を持っていた。  二人が無理のない関係で離れずにいるということつまり、仲間であり友人であり家族さながらの関係であるということ。  やはり壮五はこれ以上ない魅力をメッゾに、環に、感じている。 「いつもありがとう」  ふとその言葉から漏れた感情が、たった今新しいメロディになった。  遠い意識下のもと、耳の奥でやわらかい音が流れていて環は夢うつつに聞き入る。  歌っているのだろう。長調の明るいメロディだ。明るいけどどっかえもくてそーちゃんらしい音だと、環はゆっくりと目を開けた。  いつの間に寝ていたのか頭が随分スッキリしていた。ほのかに熱の残る電気カーペットの短い毛足が心地良くて何度も触れながら身体を起こすと少し開いたドアの隙間から見える壮五が鼻歌でそのメロディを確かめている。 「……いーね。おれの好きなやつ」  声をかけるとその隙間から見えた壮五が最近ではごく珍しい柔らかく優しい顔で「だろ」と呟いた。  あくびをしながら環が側に行くと、当たり前の様にヘッドフォンを手渡してくるのでそれを無言で受け取る。数時間前まで何も思い浮かばないと嘆いていたのはきっと嘘だ。めちゃくちゃに環好みの主旋律で思わず途中で聞くのを止めてしまった。 「なんだよ。出来てんじゃん。完成じゃん。すげー好き。メインはおれが歌いたい」 「えーどうしようかなー」 「だってぜーーーったいおれが好きだって分かってたろこれ」 「ふ。自意識過剰だな」 「はああっ……むっかつく……!」 「あはは。嘘だよ。アタリ。メッゾはすごいなーと思って作ったんだ」 「メッゾはすごい? おれは?」 「君もメッゾだろ」  壮五が満足そうに大きく伸びをして氷を抜いたベルジャンのコーヒーを啜る。スマートフォンを確認すると時刻は朝の七時ジャスト。よく寝る環の体内時計には寸分の狂いもない。 「腹減ったなー。でも辛いのは無理」 「変な時間から付き合ってもらったから、朝ごはんおごるよ。何がいい?」 「まじか。ヤッタぜ。なんでもいーけど甘いやつが食いてーな。パンケーキ系」 「じゃあファミレス行こうか」 「おー!」  そうと決まればと環はせかせかとキャップを被る。一曲自分的に納得がいくものが出来たからかとても満足そうな壮五にやっと安心した。 「雨やんだんだな。晴れてるしいーかんじ」  外に出ると空は快晴で、雨上がりの澄んだ空気が心地良い。  今日が世間的に休日で早朝のせいかあまり人がいない。二人並んでマスクもせずに歩く。  ところで、壮五がここ一帯を場所として気に入っている理由がいくつかある。  ひとつは惚れたコーヒー店がすぐ近くにあること。ひとつは好みの味付けの飯屋が密集していること。そしてひとつは、芸能人をそれほど特別だと思っていない人間が多く住んでいることだ。  ここいらで暮らしている人の多くが一般家庭よりも上流階級で、所得が高く社会的地位のある人間であることは雰囲気で分かった。  けれど、普段は何十万もする高級なスーツを纏いびりっと髪を固めた男性も、休日にはラフな格好で百円均一の店でのんびり買い物をする。持っている物は一流なのにくたびれたティーシャツを着て足元はビーチサンダルだったりもする。  そんな風にどこか中途半端で実に人間くさく生活感が滲み出ていてもそれを隠そうとしない、或いは隠さなくてもいられるところが環のライフスタイルに良く馴染んでいて壮五はとても好きだった。  一方、壮五が借りたマンション付近はもっと固く歩いている人も少ない。高級住宅街の狭い路地をベンツがゆったり行き交う様な生活臭の微塵もしない土地柄だった。  場所全体として綺麗だし落ち着かないわけでもない。何より静かだしそれはそれでいいのだが、たまにここの雰囲気が恋しくなる。  だからと言うのか、壮五はこの近辺に出る時には全くと言っていい程何にも気を遣わない。  思えばいつ頃からかスタジオにこもっている時の自分はアイドルとしての華々しい逢坂壮五とはどこか隔離された場所に居て、苦しみながら散々もがき悩みながらぐちゃぐちゃになって作曲をしているのだということを自分自身が全力で肯定していた。  そりゃあアイドルしている自分も勿論好きだ。  アイドリッシュセブンの中で役割を担う自分、メッゾの片割れとしてそこに立つ自分、そして人間として、作曲という趣味であり仕事であり情熱である時間に夢中になる自分。どれも大好きだがそこに一貫性がなくたっていいと思った。  実際、作曲中の壮五があまりにもステージ上とのギャップが激しいと界隈で話題になり懇意のスタッフで固められた所謂気心が知れた仲間同士での企画で、作曲をしている最中の自分をドキュメンタリーにしてもらったことがある。  自分で言うのもなんだが、あれはとてもひどかった。  気が散るので定点カメラでの撮影にしてもらったはいいがそれでもあると思うと気が散る。気が散っているうちはまだ理性があるからいいのだがいよいよ追い詰められると無意識にしている行動がいくつもあることに打ちひしがれた。  唸りながら部屋をうろつくし独り言が激しいしたまに罵詈雑言を早口でまくしたてていたりもするしもし他人のこんな場面に遭遇したらホラーだ。外にいたら通報されるレベルだ。  この時は確かにひどい難産で、漏れなく環に八つ当たりの呼び出しをかけているのだがひいき目に見ても環は本当によく付き合ってくれていると思う。映像を見て改めて感謝し直したので王様プリンを毎日一個ずつ三ヶ月間贈ってしまった。  傍から見たら企画倒れにも程があるその素材だったがさすがプロ達はとてもうまいこと編集してくれて、反響は元よりあまり気にしていなかったがなりふり構わない人間くささだけにフォーカスされたその姿を思ったよりも世間は肯定してくれた。  それから、番組の最後には「逢坂壮五という音楽」という締めくくりをされた。  壮五の人生がまるで音楽であるというように捉えてもらったと勝手に解釈しているが言葉も響きも壮五は妙に納得し気に入っていた。  アイドルとしての音、クリエイターとしての音、そして一人の人間としての音。どういう形であれそれを認めてもらえるのは何よりも嬉しいことに違いなかった。  だからそれからは、スタジオ近辺に居る時の腑抜けた格好を週刊誌に撮られて笑われても、路地裏の明らかに立地を間違えた牛丼屋で一人食事をする風景を晒されても今更痛くも痒くもなかった。  そして環は初めからそんなことは一ミリも気にしていない。  環からはそんなに気に入っているなら引っ越してくればいいと何度も言われたが、あまり気乗りしなかったのは環が選んだ場所だからだなのだと思う。  環の居る風景を当然の様に日常にしてしまうのは、よく分からないが何だか躊躇ってしまう。  壮五はこうして気が付いていないフリをしているが、完結したメッゾの上に成り立つ次の感情は無いも同然だと思い込むようにしている。  大事に思われていることも、どんな誰よりも近しいこと、理解者である、兄弟のようである、その先に何もないことは当たり前のことのはず。  だから、こうして関係性が完成してしまうことがこんなに虚しいことだと感じる度、在りし日の求めても求めても環が手に入らない苦悩を時折少しだけ懐古する。  やっと手に入れたはいいがそこで終わりだ、完成だ、というのは物語の終わりの句点、アウトロの終息、芝居の大団円、それらと同じ様な切なさがある。  環との関係にそれを感じているのは何故だろう、とは深く考えずに今日まで来た。恐らく自分自身が環のことを他に居ない存在だと強く感じているからだ。  壮五はずっとそう思っていた。 「なーに食おっかなー」 「パンケーキじゃなかったのか?」 「んなのメニュー見たら変わるかもじゃん」 「女性より移り気だな……」 「うるせー」  閑散としたファミレスに入るとメニューを見ながら環が楽しそうにする。  通りに面していない場所だけあって見たところ客は自分達だけだった。飲食店が軒並みやけに立地が悪い場所にあるのは壮五がこの近辺を好きな理由のひとつだ。  空いているし一人でも入りやすいが商売をする気があるのかいつも不思議には思う。 「つか、そーちゃんこの前のドラマの女優めっちゃメンヘラっぽいけどへーき? また連絡先きったん」 「今その話題にするか? 外なんだからやめてくれ」 「誰も聞いちゃねーよ。おれこういう感覚はマジで鋭いからあの人はマジでそーちゃんのこと好きだよ。気をつけないと刺されるかもしんねーよ」 「僕的にはそんなに酷い終わり方した覚えはないけどな」 「いや、そーいうとこ……」  環の予想はいつも的確だが壮五だってそのくらい分かっている。  役作りの範疇を超えた感情を相手から求められてしまうのは正直いつものことだった。その時は好きだ。だってそういう役だからだ。  けれど、その人そのものの事が好きかと言われると正直に答える機会がもしあるのならば今までの共演者全てに共通して「いいえ」と答える。  ドラマの撮影期間というのは壮五の思ったよりも大分短かった。いや、人間関係として見れば、だ。  リアルな芝居をする為に役を突き詰めるがそこに本当の気持ちが作れなければ壮五としては納得のいく演技が出来たとは当然言えなかった。  恋愛ドラマであれば信頼度、深密度、愛情度、これらを全てマックスに仕上げるには健気に食事に誘ったりプライベートを一緒に過ごしたりと、とにかく相手役を人間として好きになる努力をしなければいけない。下手をしたらゼロからだ。気が遠くなる。それに疲れた。  壮五だってはじめは堅実にちまちまと関係を積み重ねて努力していたが、ある日突然気付いてしまったのだ。結局のところ自分達は恋人同士である、と身体で認め合うのが一番最短で楽な方法だということに。なのでドラマの間だけ自分に寄りそってくれればそれでいい。仕事を全うする為に本気の気持ちをのせた関係を作るだけのことなのだから全うしたら割り切って離れて欲しい。  半分本気なのだから我ながら面白い理屈だとは思う。  壮五は、自分が本格的に「人嫌い」であることを年々自覚していく。  自分の人生に関係のない場所で関係のない人間と関係のない話題で盛り上がるのはとても苦痛だ。一生一緒に寄りそうわけでもないのにそういう人間と関係性を作るのは時間の無駄だとさえ思う。  タイムイズマネー。人生の損得勘定をするのは慣れている。最短は嫌いじゃないし効率だって大事だ。 「そもそも仕事の関係なんだからその先があるわけないよね」 「それは知らん。普通に友達として付き合うってのは無理なん」 「息が詰まるかも」 「好きな話したらいいじゃん。おれにはしてくれんじゃん」 「向こうだって興味ない話されたって面白くないだろ。我儘に付き合ってもらえるほど信用できる関係になれないもの」 「……何でおれにはちゃんと我儘言えんのに他の人んなるとそーなんのかな。いみわかんねー」 「んッ、僕がいつ我儘言ってる? 君に?」 「もっともらしく言うんじゃねーよ!」 「……本当にわからない。環くんには今までずっと我儘だと思われていたのか。すごく傷ついた」 「あー、めっちゃ食お。付き合ってらんねーや」  呼び鈴を押した環はやってきた店員に数種類あるパンケーキの全てを注文した。壮五は冷静にあとドリンクバーで、と注文を遮る。  もちろん冗談だった。ただ、我儘を言える人というのは壮五にとってかなり特別な存在でなかなか作ろうと思っても作れないということは環には分かっていないらしかった。気の置けない友人はいるがその誰にだってこんな態度をとっていない。ことに、壮五は今気がついた。 「でもさ、本気にさせるつもりないんだったら本気で優しくしたらいけないだろ?」 「……そうだね」 「だって本気で優しくされたら女は好きになるぜ。こっちにその気なくてもさ」 「うん……気を付けるよ」  壮五はドリンクバーを注文したので飲み物を取りに席を立つ。  こういった女性関係の話になるといつも思いだす。環が初めてスキャンダルを起こした時のこと。  そして、自分の初スキャンダルのことも。  環が公にスキャンダルを起こしたのは二十一歳の夏だった。  やはりドラマの打ち上げで盛り上がったあと、歳の近い女優と二人きりで個室完備の焼鳥屋に入りその後ホテルにまで行くのをバッチリ撮られた。  当時はメンバー初の証拠付スキャンダルということもあり大問題となったがそれを皮切りにして確定未確定に関わらずじゃんじゃか週刊誌に載っていく環に、事務所としてもメンバーとしても半ば諦めに近いような扱いになっていった事は確かだ。  次第にホテルでの密会や年上女優宅へのお泊まりデートだなんだと内容は若手イケメンアイドルの登竜門というべきか真偽はともかく世間には専らまたこいつか、と特に騒がれもしなくなる程だった。  時にはその相手によって激しいバッシングを受けることもあったが、当の本人はどこ吹く風。バラエティや生放送でも特に遠慮することもなく普段通りの環で居た。  そんな環と世間の様子を間近で見てきた壮五にとって(これは一生隠していくことに決めたので死んでも本人には言わないが)その何とも自由な生き方は単純に憧れだった。そして徐々に小さな妬みへと変わっていった。  大人への成り方が違うと思ったまではいい。  けれど、これからもきっと長いことメッゾとして隣にいる壮五自身が環よりも人生経験が乏しいと思われるのは正直言って嫌だった。  三つも年上なのに浮いた噂の一つもない、否、バッシングやスキャンダルの類を世間体を過剰に気にしアイドルとしてのイメージを必死に守ろうとする自分の考えを非常につまらないと思った。 周りに目を向けると、環程では決してないがそこそこ皆人生を楽しんでいた。  上手く隠して遊んでいる大和、一途に関係を続けたい三月、マネージャーと親密な陸とそれをこじらせている一織、派手に公的に遊ぶのが好きなナギ。  ロックが好きだとかなんとか言っているが、実際はただのボンボンで着飾ったお行儀の良い自分が持っていない音に憧れていただけじゃないのか。  無論そんなことは無い。  音楽をするために突如実家を飛び出し決められた成功のレールから自ら外れホームレス紛いの生活も厭わなかったという身も心も正真正銘心底ロックな壮五はまたもや唐突に自分自身の生き方を疑問に思ってしまった。  例えば一生アイドルで居たとしても、一生家族を持たないわけではないのだ。好きなことを一人で自由にするのが楽なのを知った上であえて言うと自分の人生スケールは蟻かと思えた。何と小さい。何と実直で真面目なバカバカしい人生だろう。  こうして実に唐突にロックな勢いに塗れた壮五の初スキャンダルは間もなくやってきた。これは大層派手だった。壮五が思い出す度自分でも未だに笑ってしまうくらいには。  当時人気作家が放った待望の新作は発売直後から怪作とされメディアで激しく称賛を浴びた。  世間的に猛烈な話題となった純文学の原作がついに実写映画化となればもはやちょっとやそっとの話ではないぐらいの大騒ぎになる。  とにかく期待が物凄かったその作品の主役にオーディションながらも見事抜擢された壮五は様々なプレッシャーを抱えつつも命をかけて演じ切り、結果俳優を生業としている人達がこぞって太鼓判を押す程の名演技を界隈に残した。  公開されてからもとんでもない高評価で異例のロングラン、何度大入りの舞台挨拶を行った事か。  そんな当時の盛り上がりのさなか、フルキャストスタッフはもちろんその関係者やスポンサー各位も交えそれはもう大規模なパーティーが催されたのである。  さて、大体予想はついたろうか。  かくして壮五の怪演を映画館で目の当たりにした壮五目当ての社長令嬢、負けじと共演したハリウッド女優や見た事しかない顔の有名なモデル達が舞踏会場よろしく一斉に壮五を取り合った。  我先にと目まぐるしくとっかえひっかえに酒を注がれ深く酔うわけにもいかないしあまりの雌の剣幕に動揺しながらしどろもどろで何とか相手をする。  またその反応もウブで手慣れた女豹達には大変にウケが良くさあ今夜は誰の手を取りますか状態に陥ってしまった。  差し出されたあまりに豪華な手の数々に怯え震えた壮五だったが自らの芝生を肥やすにはまたとないチャンス。青ざめながら誰に食われるのが今後の自分の人生にとって最良の選択なのかを真剣に、そして必死に考えた。  その結果、盛大に気分の悪くなった壮五が隙を見てトイレに逃げ込んでいると、その様子を窺いに頼まれて来た地味な女性スタッフが居た。  彼女はというと列記とした撮影クルーで怪作故に修羅場の多々あった現場に女性ながら朝から晩まで、最初から最後まできめ細やかなサポートをしていてくれた存在。演技中のなりふり構っていられない壮五は実によく頼りにしていた。  つまり、壮五の中ではとても安心できる存在だった。  軒並み豪華絢爛なドレスを纏い派手に美しく着飾った女性陣とは違い、彼女は本当に普通の、ありふれたごく普通のドレスを着ていた。  撮影時のスタッフとして女性というプライドをかなぐり捨てる勢いの格好の時とは違い、控え目な装飾と緩く巻いた髪の毛が彼女をより女性だと壮五に意識させた。  次の日の一面には「オーマイシンデレラ」というふざけた文句と共に舞台挨拶時のとても微妙な写真を掲載されたのだった。  こうして実に派手なへたれスキャンダルを筆頭に、映画の影響でドラマをぶっ続けでオファーされた時から今に至るまで、共演女優との親密な写真は狙われ続けているというわけだ。言わずもがなその時の女性スタッフとの関係は続いているはずもなく今彼女がどこで何の仕事をしているかもわからない。興味も既に無い。  環はどうか知らないが、性欲と愛は殊別の場所にあるのは明白でこれを境に性的な行為とは壮五にとって仕事としてのコミュニケーションとただのくだらない性欲の発散としての一つの手段に過ぎなくなった。  大事な人とするという重たい意味での性行為とはこれは全く違うと思っていてそういう意味で言うのならば真に愛情のあるセックスなど壮五は誰とも一度もしたことがなかった。  良いか悪いかと言われても、そういうものだとしか言いようがなくなる程には自分は無垢ではなくなっていたし大事ではない他人との即席の関係性になど心底無頓着になっていたのだった。  しかしまあ今になって思うとこうしてスキャンダル解禁によるメリットがもしあったとするならば、大人になった環の隣に並んでも遜色ない程度の経験が積まれたことで自分は環と対等にメッゾとして釣り合えているのだと謎の自尊心が持てたことぐらいだろうか。  報道から三か月に渡る胃痛と多少の苦情、以前に増していやに艶っぽいシチュエーションの撮影が多くなったなどデメリットの方が多かったのも事実。あとは単純に知名度だろうがその後に女性ファンがちょっとだけ増えたのには正直とても安心したのだけれど。 「というか、君こそそろそろ真剣にお付き合いする人を選んだらどうだい。いつまでもちやほやされているわけじゃないんだから」  いつの間にか大量のパンケーキがテーブルに乗った。中でも一際チョコとバナナの甘ったるい匂いが充満する。  アイスコーヒーをストローで弄びながら壮五が振ったその余計な話の入り口には目もくれられずテンポよく環の口に運ばれていくパンケーキの様を黙って見詰める。ぼんやりと環にされた口淫を思いだした。  それは、紛れもない性行為。そして間違いなく気持ちが良かった。例えば今までした性欲の発散のどれより。  しかしそれはやはりおかしな話だと思う。 「誰でもいいはずなのにな……」  気が付くとそう零れていて、壮五は我に帰る。  環がまるで機械的に口に運んでいたパンケーキが止まった。 「は?」 「いいえ。何でもないよ。気にしないで」 「気になんじゃん。誰でもいいって何が?」 「そんなこと言ったかな」 「じいさんかよ……」  壮五は適当にごまかしてアイスコーヒーの入ったグラスを端に寄せる。 「なんだかすごく美味しそうだ。一口くれないか」 「はあー? 珍しい。マジでぼけたわけじゃねーよな? あめーよ?」 「知ってる。たまにならなんちゃら」 「わすれないなんとか?」  悪ふざけをそう引き継いで環はチョコバナナのパンケーキの思い切り甘そうな部分をフォークで差し出した。それを躊躇わずに口で受け止める。 「あ、っっま…………」 「三点。当然過ぎ。おもしろくねー」  口の中が不快で急いでコーヒーを呷る。それを見てせせら笑いまた黙々とパンケーキを口に運ぶ環との性行為に壮五は再び思い耽る。  飴玉のせいだしローションのせい。もちろんそうだったろう。  だけれど、環とは仲間であり友人であり家族同然である。果たしてその枠組みの中では収められないことをしてしまったのだろうか。性行為に何を求めるかは自由だった。それは自分が一番よく知っている。  こうして何事もないように振る舞っている二人の履歴にセックスという項目が増えたことは一体全体自分の中で、或いは環の中で何に値する行為だったろう。 「……環くんは三十歳前には結婚しそうだよね」 「……あんさ、さっきからなんなんその話題。おれのしょーらいそんなに心配?」 「まあ、一応相方だし、僕が綺麗なうちに仲人したいかなと」 「なこうど? おれの? 誰かいんのそんなやつ」 「いないね」 「はああ? まっじで意味がわかんねーから。てか、なに、そーちゃんは? まさか嫁にしたいやつでも出来たんか」 「どう思う?」 「ない」 「そうだね」 「だっていたらおれにわざわざ辛いのたべたーいとか言ってこない気がする」 「そうだね」 「う、さっみし、もうやめよこんな話」 「環くん」  ストローを咥えたまま壮五がそう遮ったので環はいよいよその顔を真剣にして黙った。  のらりくらりと上手くかわされていた気がする。別に答えが欲しいのではない。こうして「無かったこと」のようになっていることで今の二人の、果てはメッゾとしての関係性を保てているのかが知りたかった。 「なに」 「セックスもうしないよね」 「……は?」 「僕たち、事故でこの前セックスしたじゃないか。あれってもうしないよね?」 「……。何で?」 「だって、今までで一番気持ち良かったんだ。それって僕らの関係性だとちょっとおかしいことだろう?」  環は黙った。作りたての湯気はもう出ていないがまだあと二皿の特大パンケーキが残っている。ベリーの赤いシロップが鮮烈にぶちまかっているのと、白い滑らかなクリームが惜しげもなくかかったココナッツのもの。 「はあ。そーちゃんってぜってーモテないよな。別に。良かったんならまたすりゃいーんじゃん」 「……言い方が嫌だよ」 「あーはいはい……! おれもめっちゃ気持ちよかったんでまたしてください! これでいーか!」 「だから、それじゃ僕たちおかしいんだってば」 「うっせーマジごちゃごちゃうっせー理屈つけなきゃセックスもできねーのかよ」 「だって好きなわけじゃないはずなんだ」 「あーーーーうっっっ、っさいっ! それはいーんだよ言わなくて!」 「好きじゃないなら、ただの僕の発散に環くんを使いたくないよなって」 「いーじゃん別に! おれはそれでいーわ。おれの発散にそーちゃん使う」 「まあまあ最低だな……」 「けっこーだっつの!」  もっと怒ったっていいのに、環はそう怒鳴ってまたパンケーキを頬張った。  どうやらこれしきでメッゾの関係は崩れなかったようだ。何とも言えない安心感が壮五の心に充満した。理由はどうあれ普通に過ごしていたらあり得ないこと、つまり男の相方とセックスをしたという事実が一般的にいけないことなのかはたまた二人にとっていけないことなのか実の所、壮五はとても不安だった。  もっと言うといけなくないと思いたかった。  仲間で友人で家族。その先の関係があるとするならばと壮五は随分、随分昔から考えていたことがある。  それを手に入れたらまた虚しいピリオドなのだろうか。そこに行き着いても環との関係がもし崩れないのならば、壮五は試してみたかった。 「好きになりたい」  環が乱暴に口に運ぼうとした一欠けからココナッツの白いクリームがぼたぼたっと落ちた。  それを見ながら壮五は無意識に唇を舐めていた。  今まで誰ともしたことが無い愛の方のセックスは、もしかしたら環が持っていたのかもしれない。そう思ってしまった。  *     **  好きになりたいとはどういう意味だろうかと環は半開きになった口をようやく閉じた。  壮五は悪びれもせずに先程から口に咥えたストローを弄びながらも目は合わせない。真意をはかりかねる。冗談にしては突っかかり方がねちっこくてしつこいのだ。本当に話したいことがある時、壮五は照れ隠しなのか何なのかうろうろと話を行ったり来たりしてとても分かり辛くて困った。今が正にそれでぽつぽつと壮五の好きな様に話しているので環はうんざりする。 「あのさ、もっとたんてき? に言えって。おれが馬鹿なの分かってんだろ?」 「端的に言っただろう。これ以上言えないよ」 「好きになるってなに? おれを?」 「もう好きなのかもしれないし」 「おれを?」 「わからない」  これだ。あんまりにも不思議ちゃんな壮五は苦手だった。  たまになるがそういう時には分かっちゃいないが適当にはいはい言っていれば良かった。時間が解決してくれる。  しかし今は、とても重要な、これからの二人にとってひどく大事な話をしているような気がして簡単に終わらせるわけにはいかなかった。 「つか、そもそもさ、セックスってんな大事なことかよ」 「そうだよね。僕もそう思ってた」 「……じゃあ何でそんなに拘んの。きもちいからするでいくねーの」 「うん。いくねーかも」 「かも……? わっかんない。そーちゃんとおれのは、なんつーか本気の、結婚とかの、子供できそうなセックスとは違うんじゃねーの?」 「…………」  壮五は黙って、わざとストローを口からぽとりとグラスに落とした。ふと凄く悲しい顔をしたように思えて環は困惑する。  だって、そうじゃないか。好きじゃないはずとはそういう意味だし、好きになりたいとはどういう意味だ。もしもへったくれもなく壮五が本気で環に恋人という枠組みを期待したのだとは到底思えなかった。  だってそうだとしたらなんだかそれは、あまりにもそれは、今更辛い事の様な気がした。 「からかってるだけならいいけど、そういう冗談あんまヤダ。おれだってそーちゃんのことそういう? 意味で好きなわけじゃない、はず、だし」 「言わなくていいんじゃなかったのか」 「そーちゃんが言うからだろ。そんなん考えたら、きもちいよりも何か、違うなんか変になんじゃん。おれは身体のカンケーでそういうの人に求めたくねーんだよ。愛? ってゆーのか。性欲と愛って別にあんだっておれ知ってんだかんな」  壮五が何故だかふっと笑った。  そして、それは僕も知ってる、と寂しそうに言った。  あろうことか寂しそうに言ったのだ。環は限界点を超えてしまいそうになる。 「だから、よーは一回セックスしたくらいで、おれたちなんか変わんのかっつってんの!」  言ってしまってから後悔した。  (スパイシーロッキンパンケーキ・裏)  環はいつか、メッゾとして自分が壮五を守らなければいけないと思っていた時のことを思い出した。  守って、支える。自分がいなくては壮五はだめなのだと思ったことがある。  それは未熟な自分の単純な気持ちから言えば「愛」だった。家族愛とか兄弟愛とかそういうものではなく、壮五を人として大事にしたいと深く思っていたことがある。  十七歳の頃だ。この歳になっても性欲はほとんど自覚してこなかった環だったがメッゾとして隣に立つ壮五を知れば知る程、頼りにしたり逆にされればされる程「もっと」と思った。  もっと側に行きたい。もっと頼られたい。もっと好きでいてほしい。エスカレートするその思いだが、さすがの環にもこれは異常な感情であるということは薄々分かっていた。  けれど、もしかしたら壮五になら通じるかもしれないとも思っていた。感性が割かし変だし、常識だって微妙にズレているし環がどうしてもと言えばなんとなく許してくれるのではないか、そう思っていた。  ある日の楽屋で珍しく仮眠をとっていた壮五の側にしゃがんでじっとその寝顔を見ていると無性に「キス」という行為をしてみたくなった。  クラスの女の子にも共演した女性アイドルにも誰にだってそんな感情を抱いたことはない。  同時に、壮五は目が覚めてこんなに近くに環の顔があったらどういう反応をするのだろうかとただの興味があった。もし自分だったら。何とも思っていない人間の顔だったらびっくりしてのけぞるぐらいはするだろうか。  勢いのままそっとその唇に触れると、ふに、と柔らかい幸せの感触に急に心臓が早くなった。  壮五にキスしてしまった。でももうしてしまったからには仕方がない。顔を近くに寄せたままそーちゃん、といくらか抑えた声で揺さぶると、壮五はおとぎ話に出てくるお姫様のようにして目を開いた。  そして、ふわっと笑っておはよう、と言ったのだ。  これが何とも思っていない人間に対する反応なものか、と環は耳を赤くしながら半ば確信した。  壮五は思ったよりも自分のことが好きである可能性の方が高い、と。  その日の夜、環は壮五が部屋に戻ったのを確認してから大和の部屋を訪ねた。年長者である大和は恋愛事情にきっと詳しいに違い無い。当時のイメージだ。そう思っていた。  大和の部屋で包み隠さず全ての気持ちと行動を正直に、それはもう正直に打ち明けた環だったが、最終的に大和は困った顔で「それはねえタマ」と苦笑した。  高校生にならよくあることだと諭された。性欲が一番盛んな時期だからふざけて友達とキスしたり、延長で自慰を手伝ったりすることがある、けっこうひんぱんによくある、と。  そして、随分経った今でも決して忘れることのない言葉、「性欲と愛っつーんはしてることおんなじでも全くの別腹なんだよ。男ってのはどーしてか特にね」とそう言われた。  勿論、言われた時には到底意味が分からなかった。  環にとってみれば好きな人にだからこそ欲情するのであって、性欲があるから人を好きになるわけじゃない。それをそのまま伝えると、大和は多少酔っていたこともあるだろう、大人になれば分かる、と言ってあろうことか無理矢理キスをしてきた。  壮五の唇に触れた時とは打って変わって最悪の感触にキタネー! だのサイテー! だのと喚きながら口を拭った環だったが、どこか頭の奥で壮五が起きている時にしなくて良かった、と、ああ、そーちゃんにもこう思われんだったら、しなくってマジでよかった、とそう思った。  環は聡いが感性は人並みである。  だから、本当に大事に思っているはずの相方は男であり同性であるという事実をこれ以上ないほど理解した。その時、本当に勝手に、一方的にではあるが環は壮五に一度失恋していたのだった。  だがまあそれはそれとしても、徐々に出来上がっていく自分と壮五のメッゾの形は恋愛感情など抜きにしてもとても心地の良いものだった。  壮五を理解するのが目標だったし、寄りそってそっと支えていくうちに壮五が好きなように好きなことをするのを見守るのはとても有意義な時間だった。  仕事上の相方、仲間であり、理解者、友人、そして何があっても側にいる事を誓うというのは環にとっては家族同然の関係である。  だが、やがてそこに行き着いた時に環は、壮五とはこれ以上何をも突き詰められないことを思い知った。  友人、家族。いっぺんにそれが叶うのは環の人生上確かに〝逢坂壮五〟一人だけ。関係性なんてただの肩書だ。恋人になれなくたっていい。ずっと側にいてくれるならもうそれでいいと思った。答えはそれで合っている。 そう思っていた。  環にはすっかりパンケーキを食べている余裕などない。  だってあれはただの過ちだ。そして壮五にとっては発散。だからせっかく気を遣って触れないようにしていたというのになぜ今この話題を掘り下げたがるのか、壮五の気持ちがさっぱりわからなかった。 「てか、仮におれとセフレ? っぽい感じになったとして、そーちゃんになんか困ることあんのかよ」 「ないよね」 「ねーんじゃん。いーじゃんじゃあ」 「セフレで?」 「で」 「いいかな」 「いいよ。だって、おれたちじゃどうせ愛になんねーじゃん」  壮五がべったりと側にいることを不思議なことにそれが普通だと思い始めた頃、環はめでたく成人を迎えた。  色んな事が解禁になって実に様々な人が遊びに誘ってくれた。はじめは壮五も一緒について来てくれることが多かったように思うが、環が苦痛だと思わない程度の騒がしい場所や気心が知れた派手な連中との付き合いの中で、壮五は徐々に隣にいることを避けてくる様になった。  今思うと当然といえばそうなのだが、当時環はとても不満だった。どんな世界だろうと壮五と二人で見ていた方がきっと百倍面白いに違いないのに。  ひっきりなしに誘われる飲み会はいつしか環しか誘われなくなった。  大和、楽、万理を筆頭に周りの大人達は色々なことを色々な方法で教えてくれた。  酒の飲み方、ダーツのルール、女の口説き方、誘われ方。いる情報もいらない情報も無垢な環の耳にはどんどん入ってきた。それがいいことだったのか悪いことだったのかは分からない。  けれど、可愛がってくれているということを肌で感じる環にとってそれは大人への通過儀礼、そのようなものなのかと思えた。  ついに遊びで女と肌を重ねる様にもなると、環は「性欲と愛が別腹」という意味を理解するようになった。  理解したと同時に、分かってしまった。壮五にあの時抱いた感情のことだ。 (性欲じゃねーじゃん。ヤマさんのおおうそつき)  環はあろうことか女性と身体を重ねている最中にそう思ってしまったのだった。  一方で、距離を取った当の壮五はとてもマイペースに自分のライフスタイルを確立していて、環とは真逆の友人がいつの間にか出来ていたしたまに連れて行ってもらうバーは落ち着かないぐらい落ち着いている洒落た空間。プライベートはついに一つも予定が重ならなくなってしまった。  焦った環は、自分がここで壮五とのせっかく培った関係を終わりにしてしまったらいけないと思った。  だから仕事で会う度、遊びに誘われてよかったことも嫌だったことも壮五の興味があろうがなかろうが全部話した。  なんとか自分と壮五との大人としての共通点を探したくて必死になった。  最初は無論素っ気なかった。そうか、とよかったねと実に当たり触りのない返答をしてきた壮五だったが会うたびに何でも話す環には次第にぽつぽつと壮五のプライベートの話もしてくれるようになっていった。  環はそれがめちゃくちゃに嬉しかった。壮五のいないところで色んなことを知った。色んな失敗もしたし多少やらかしてしまったこともある。大人になるのは楽しいが基本的に寂しかった。  けれど、だからこそメッゾの関係性である仲間で友人で家族という定義が揺るぎ無いものでそこに変わらずあり続けるものである確証が欲しかった。  環はどんな壮五であっても味方でいるし離れないと言った。嘘じゃない。  だから、同じ様に汚れても純真なままでいられなくても、環は壮五に好きでいて欲しかったのだ。 「どうせってなんだ」 「……んで怒んの」 「怒ってない。でもちょっと嫌だよその言い方」 「はあ? じゃ、そーちゃんなら何にすんの。おれらの関係」 「わからないから好きになりたいって言ってるんじゃないか」 「もーますますわかんねーし。好きになったら愛になんのか?」 「ならないの?」 「しらん」 「なんだ……メッゾに愛枠はないのか……」 「急にふざけんのやめろ」  ふふっと笑った壮五がストローを咥えて空になったグラスを環に差し出してきた。  無言で受け取りおんなじの? と確認すると壮五は頷くので席を立つ。ああ、普通に来てしまった。何だか腹が立ったのでレモンポーションをひとつ混ぜ込む。 「何かいれたろ」 「うめーよきっと。飲んでみ」 「……ん……レモン風味……悪くはないかも」 「舌がやばい」  壮五はそんな環にいつからかひどい甘え方をしてくるようになった。頼ってくれているのは分かった。けれど、どこか試されているのかと思うぐらいこれ以上なく心をあけっぴろげにしてくるのだ。  例えば作曲中の時だってそうだ。今は大分慣れ当たり前の様になってしまったがとてつもない深夜だって次の日環が早朝の仕事だとしたって上手くいかない時の壮五は環に連絡をよこした。  通知に起きればいいが起きないとすこぶる機嫌が悪く、初めは気にしたが故意じゃないと分かってからは無理に付き合ったりはしなくなった。その代わり、この時間はやめてほしいと正直に伝えた。 壮五は環がするお願いは絶対に守ってくれた。  試されていると感じたのはきっと、壮五は環に何をどこまでしたら嫌われるのかを、もしくはどこまでだったら許してくれるのかを確かめているのだと思った。  ただ拠り所が欲しいだけなのだ。理解者つまり家族としての環を壮五は求めている。  元よりそんなことで嫌うはずなどあるわけがない。環は壮五の無茶な我儘をやはり「嬉しい」と思ったのだった。  これでも、壮五に失恋してからはまともに恋愛をしようと思ったこともある。若気の至りで女性関係のスキャンダルを起こし週刊誌に連載するが如く持て囃される様になるとやはり一般の女性よりかは同業者同士で関係を持つ方が楽だということを知った。  基本的には性欲の発散であるが、多少は愛の方のセックスをしてくれる人、なんかも若い頃は真剣に探し求めていた。自分なりに壮五との関係に近いものを女性との間に作ろうとしていたのかもしれない。我ながらとても頑張り屋だ。バッシングしないで褒めて欲しいくらいだった。未来を選ぶ余地がまだこの時にはあった。  しかし、いつしかそれを環は諦めざるを得ない。  なぜなら壮五に代わる存在などこの世界にはいなかったからだ。  壮五と並ぶほど大事なものも、壮五より優先出来ることも、環にはどうしてかどうしても、作ることができなかったのだ。  やがてありえないと思っていたので壮五にまで浮名が流れはじめると、環的には大層ショックだったのだがそれより何より壮五は根がアホみたいに真面目なので一旦関係を持ってしまったらそれこそはやくに結婚するかもしれないと別の焦りが浮かんだ。  壮五が結婚すること即ちメッゾの枠組みにもきっと影響がある。  今のところ環よりも心を許している人間がいそうにないことは交友関係を見ているとなんとなくだが分かった。だから余計焦ったのかもしれない。  男女に関わらず自分よりも深く壮五を理解してくれる人が出来てしまったら、もう壮五は自分の方など見向きもしないのではないかだなんて。  思えばこれだって変である。  それこそ血の繋がりも無いくせに仲間だ友人だ家族だなどと言うが、実は二人の間には長く一緒にいるという事実だけでこれと言って確かなものは何一つない曖昧な関係性だ。  結婚という公的な契りを前にすればもしかしたら何の意味も成さなくなるかもしれない、そんな脆弱な繋がりをいい大人二人が必死になって抱きしめ合っているだなんて余りにも滑稽だった。  勿論、環にだってよく分かっている。  結婚は双方にとってのトゥルーエンド。もし本当に壮五に、そして仮に自分に、お互いの関係性すらどうでも良くなるほどのいい女が現れたら、その時は結婚してもいいと、許されよう、そして許そう、と環はそう思った。  まあ実際には許すも許されるもそんな権利が果たしてお互いにあるのかと言われると、恐らく無い。これっぽっちも無い。  さっさと結婚してくれた方が楽な気もするし、一生この意味不明なメッゾという関係性のまま二人だけで終わっていって欲しい気もする。  どちらにしろ環にとっては気が気じゃなかったことだけは確かで。  けれどもそんなことは可笑しくなってしまうほどの杞憂で、壮五は殊恋愛においてはまるで欠陥人間だった。  彼が何のためにセックスをしてそこに何を求めているのかを環には未だに理解できないでいる。  性行為に何を求めるかは確かに自由だが壮五はいかんせん独特過ぎた。  役作りを真面目にすればするほど相手の女優を抱きたくなるだなんて特殊な性癖以外の何でもない。それならただの発散や自慰と変わらないと堂々と言った方がまだマシの様に思えた。  屈折しすぎていて最早まっすぐな壮五に環は心の底から安心した。  こんなに意味の分からない人間をそう簡単に好きになってくれる人などいるわけがないからだ。  聞けば聞くほど他人に無頓着な壮五がはやくに結婚する可能性など絶対に絶対絶対絶対の絶対にあり得なかった。口では先日抱いた女優はどうだったかなどと様子を窺う真似をしているがはじめからそんなくだらないことに興味はない。  環は壮五のことだから急に感性が弾けてまるきり普通の男になってしまわないかを見張っているに過ぎない。  だから、誰かとのセックスが特別じゃないなんて当然のことだ。  そうしてきた。そう思えるように自分でしてきた。もし万が一、仮にでも、壮五とそんなチャンスがあったのなら、「特別」だと思わずに抱ける様に。  それが良くても悪くても、元のメッゾが壊れてしまうことの無い様に。 「レモン風味まあまあだったよ。ごちそうさま」  そう言って席を立った壮五が今度はアイスティーを持ってきて啜り始めたのを見て、環もやっとパンケーキ工場を再開する。黙々と廃棄。  実にいろいろな事に思いを巡らせてしまった。こんな気持ちになったのはあれもこれも壮五のせいだと思った。  環はとりあえずの今、壮五から距離をとられてしまうことを恐れた。  好きじゃないはずなんだ、という言葉が痛かった。そして、好きになりたいという言葉も重かった。  そんなことはありえないのが当たり前だと思ってきたはずなのに本当に本当の心の奥では壮五が環のことを「恋愛的に」好きであってくれていることを望んでしまっていたことに嫌な気持ちになった。  セックスをするだけの関係、所謂セフレという立ち位置にもし壮五が留まってくれるのであればそれが本来の環にとっての壮五との完結のはずだった。  笑い話でいい。いつかもっともっと先の未来、そんなこともあったなと酒のさかなになる程度のおかしな関係だったぐらいが自分達にはちょうどいいのだ。  何故なら、環は壮五のことが一番はじめから恋愛的に大好きなのだから。  正直に言うと死ぬなら今しかないと思ったほど壮五とセックスした事実は最高だった。性欲のせいじゃない、愛情がちゃんとあるのは自分にだけかもしれない。それだってこんなに凄い。発散の為に、自慰の代わりにと重ねた経験のどれですらも敵わないほどにだ。  だからこそ憤る。  結婚の為のセックス。子供が欲しい人間とのセックス。虚しいのだ。世の中が終わっても自分が死んでも絶対にひっくりかえらない事実がある。壮五と環が壮五と環である限り、叶えたい全てはきっと叶わないのだから。  多くは望まない。望んだって仕方がない。出来る範囲で幸せになれれば環はそれで良いと思った。そこに向こうの愛が無くたって別にいいじゃないか。愛を諦め選ばない為にこんなに長い時間を一線は越えずにやってきたのに今更お互いが愛を満たす時間として関係を作るにはいかんせん遅すぎる。  だから余計な美談なんて考えないでがんがんセックスだけしたい。  壮五にとっての自分とのセックスや関係性に気持ちが良いから、楽だから以外の理由はいらない。  だって、仲間で友人で家族で「恋人」、環はずっとそのつもりであってもそれをたった一回身体の関係を持ってしまったぐらいで今更壮五に強いるのはやはりあまりにもひどいことのような気がしたから。  ただひとつ妙に感心したのは、アルコールと飴玉とローションのせいでぐちゃぐちゃになりそうになったこの関係を乗せてもメッゾが壊れなかったことだ。すげー頑丈。そう思った。  だから、おかしなことなのは百も承知で壮五が男性であることも自分がそうであることも、それを分かっていながらも今まで普通ぶって或いは正常にあろうとして女遊びを続けてきた自分の気持ちのことも、正直壮五とセックスしたあの日から全部どうだって良くなった。  何が悪いのだ。このままでいいのだ。この関係性に決められた名前などいらない。壮五は何にも分かっちゃいない。 「あーあ、めっちゃ萎えた。そーちゃんコーラ持ってきて」 「いやだよ。自分でとってきなさい」 「さっき持って来てやったじゃん! 今の全部そーちゃんが悪いんだから反省ぐらいしろっつーの!」 「僕が全部悪い? そう。じゃあ仕方ないか」  あっさり立ち上がる壮五に環は嫌な予感しかしない。  案の定真っ黒なブラックコーヒーをなみなみに注いで持ってきた壮五はどうぞ、とにっこり笑った。  やけに疲れた気のするファミレスを後にすると壮五が風呂を貸してくれと言うので二人揃って環のマンションへ向かった。  どんな話をしたからと言ってさすが大層頑丈なメッゾ、簡単には壊れなかった。  セックスをした事実があっても、その関係をセフレと定義したとしてもいつもの環でありいつもの壮五である。  それにしても徹夜明けのくせに壮五はあまり眠たそうではなかった。  五日もこもりっぱなしだったのでいつ電池が切れてもおかしくはないがもしかしたら変な話をしたせいでまだ脳が興奮状態なのかもしれない。解禁日に寝付きが悪いのは珍しいことだった。 「たまきくーーん? 長袖がいいー」 「えー。出した時に言えよ。いまいくー」  室温は十分過ぎるほど高いのだが自律神経が馬鹿になっているのか肌寒いらしい。浴室から間延びした声でそう言われたら抗うわけにもいかないので環は薄い長袖をひっぱり出して持っていく。 「ほれ。でかいと思うけど」 「ありがとう」  ほのかに湯気のけむる華奢な身体はいつまで経っても痩身のままで一生肥満体質とは縁がないのだろうなと環は眺める。  一度だけ本気で筋トレをした時期があったがまずもって筋肉にする為の脂肪がつきにくいし食べる量が圧倒的に少ないのでカロリーを摂取する食事改善の時点でつまずいて続かなかった。  それでもつるすべのやる前よりはきれいに引き締まったとは思ったがやはり身体自体の薄さはどうにもならなくて。  壮五もちょっと残念がっていた。男らしい身体に憧れると明らかに環の方を見て言っていたが壮五がくっきりしたシックスパックと厚い胸筋になっているところが想像し難くて笑ってしまった。  喉元まで出かかったが華奢でカワイーんだからいいじゃん、とは言えなかったのだけれど。 「大きいんだけど」 「言ったじゃん。長袖あんまし持ってないから我慢しろ」 「……首まわりが寒いな……」 「タオルでも巻いとけば?」  壮五は肩からずり落ちそうなほど胸元の開いたロングティーシャツの袖を何度か折り返して不満気に口を尖らせた。  テレビの音量を控えめにしてソファに座ると、壮五がその横にぴったりとくっついてくる。二人で居る時、特に自宅にいる時の距離感がおかしいのは日常茶飯事ではある。  仲の良い兄弟のような、気のおけない友人同士のような? 果たしてどの枠組みでの距離のつもりだったかは分からない。  けれど、普段からよくあることに違いはなかった。 「やっぱり寒いかも」 「パーカー着る? つか眠たくねーの」 「……眠たくないよ」 「なに」 「なにが?」 「何でんな見てくんの」 「僕はしたいんだけど、環くんは嫌なのかと思っている」 「……は?」 「セフレって、したい時に出来る関係じゃないっけ」 「あ? ……何それ、わっかりづれえよ、したいってえっちしたいってこと?」 「そう」  環は思わずため息をついてしまう。  境目がまるでよく分からない。くっついて過ごすのは別に特別なことじゃない。壮五のお願いは大抵聞き入れてきた環だったがいかんせんセックスがしたいと求められたのは今日が初めてで困惑する。  BLドラマを散々嫌がっていただけあって甘え方が異常にわかりづらく下手である。 「疲れてんのにセックスして頭おかしくなってもしんねーよ」 「ちょっとなりたいのかな。多分環くんのせい」 「自分が勝手に興奮してるだけじゃん……作曲中抜いてねんだろ?」 「あ、そうかもしれない」 「触ってやろっか」 「……さわる、だけはやだ……かも……」 「どんだけハマってんだ」  余裕ぶっているが堪え性の無い手がオーバーサイズのティーシャツの中で薄い胸を撫でる。そのままゆっくりと唇に近づくと壮五もそれに合わせて目線を下げた。  触れる。舐める。舌が絡む。環の腕を壮五の手が緩く掴むと触れられた瞬間の冷たい指の感触が背中の真ん中をぞわりと通り過ぎていく。  ふっと離れて近いところで目を合わせると壮五はまっすぐにこちらを見た。照れる素振りもない。緊張も恐らくしていない。本当にただひたすらに求められているのだという深い快感を感じる。 「ベッドいこ」 「……ん……」 「抱っこする?」 「なんで。歩けるけど」 「却下。うんって言うんだよそーいう時は。かわいくねーな」 「悪かったな」  言った割に正面から抱き上げるとぎゅうっとしがみついてくるくせに。  壮五の素直になれない小憎たらしい可愛さにはにかむと環はここぞとばかりに息たっぷりに低く囁く。 「もうちょっとたってんじゃん。えっち」 「……溜まってる」 「あ、こんどは怖くねーように前からしような」 「ええ、痛いなら……いやだな」 「痛くなくすんに決まってんじゃん」 「というか、くすり……なくてもきもちくなれるのかな」 「だから、してやるってば」  ベッドに辿り着くや否や対面で抱き合ったまま壮五のリードで舌同士が再び絡まる。それを受け入れつつ目を見詰めながら背中を指先でなぞると眉根を寄せた壮五の身体がひくんと反応する。窘める様に環の腕を抑え角度を変えて口内を丹念に舐めまわせば弱い部分を擦られる度に環がびくと揺れるのを見て、その箇所を忘れないように記憶していく。 「っ……ん……」 「ふ、……ぅ……君の気持ちいところ、さわれてる……?」 「ん……下触っていい」 「だめ、まだキス……もっとしてたい……」 「必死かよ、かわいいっつの」  唇を啄ばまれながらベッドに優しく寝かされたなら、壮五にはもう逃げ場などない。激しく深いキスを環に強いられてその荒々しさで全身に鳥肌がたつ。漏れ出る嬌声が耳に届くとまるで自分の醜態だと詰られている気がして顔が火照ってしまう。  緩かった興奮がはっきりと形を持って首をもたげる快感で思わず自らの充血する昂りに手が伸びてしまう。 「は……あれ。自分ですんの?」 「っう……だ、って、キス……きもち、環く……」 「ちゅーしただけでそんなろれろれになっちゃうのやばくない?」 「やば……ぃ……」 「うける。触んよ。キスもする?」 「する、……する……」 「ちゅー好きなのやばいね。意外すぎ。やっぱあの柊役とも一回はしたろ」 「してない、だって好きじゃない、ほんとに」 「おれにも好きじゃないっつった癖にしてんじゃんかよ」 「環くんと比べる意味がわからないっう、……んッ」  むきになって否定する壮五の口を塞いでぶかぶかのハーフパンツに手をしのばせる。ゆっくりゆっくり周辺を撫でつつじれったさで身をよじる壮五の頭の中を大好きなキスでいっぱいにしていく。 「ん……んッ、ん……ぁ、んむ、んっ」  酸欠で濁った紫からじわっと快感が零れるのを見てからようやく優しく昂りに触れるとひゅっと喉が締まった音がして壮五の目に拒絶の色が黒く戻った。結構な力で肩を押し返されていて口を塞いだまま宥めるように頭を撫でつける。  溜まっているのなら堪えるのはもう無理だろう。やわく握って少しキツめにしごく。 「っあ、ま、まっていく、たまきく、だめだめっいっ! ……ん、んッ」 「すげーでんね」 「あ……ま……手……やめっん、いってる、つら……」 「キスは」 「ほし……でも、いっかいやめて、くらくら、する……」 「ん」  目を閉じて強烈な快感に漂おうとする壮五の足を立てると冷たい空気に触れてひくつく入口を確かめた環は前回までは用意していなかったローションをサイドテーブルから引っ張り出した。  緩いテクスチャ。と、と、という零れる水音にようやく壮五が目を向けると環の手の平にたっぷり溜まった潤滑剤がぬらといやらしく光ったことに腰が跳ねた。  その刺激を想像して敏感に太腿が閉じようとするのを環の身体が止める。 「洗った? なか」 「……やったよ……」 「ほぐした?」 「かる……く……待って、ちょっと怖いかもしれない」 「いーよ。自分で指いれてみてからにする?」 「……う……うん……」  環に腕を引かれて身体を起こすと枕とクッションをいくつも背にあてがわれ大きく足を開く格好に少なからず羞恥を覚える。  不安になって環を見ると右手に溜めたローションを無言で差し出され怖々と手を伸ばすのに意地の悪い環にそのままぐちゃっと握りこまれた。  びっくりして手を引くと環との手の間にはいやらしく透明な瑞々しい糸が繋がる。  環が余裕の笑みで煽る。 「してみ。手伝うから」 「はあ……あ……う……ん……」  そう言われても中々手を伸ばせずにいると痺れを切らした様に濡れた右手を掴んだ環がぐっとその入り口に触れさせてくれる。 「ここ。して。ちゃんとしねーと痛いんだろ」 「……っ……」  躊躇いつつもちょっと触れるともうダメだ。緊張したその周辺を自分の意志とは裏腹にぐにぐにと勝手に刺激してしまう。環の指がそれに加わるといよいよ胸がつかえて苦しくなるほど中への愛撫が欲しくて堪らなくなる。いたずらにちょっとだけ環の指が突き立つ度に壮五の腰がそこに向かって動いた。いれてほしい。  やがてそのじれったい指の動きが制止すると環の擦れた声がいれるよ、と鼓膜を揺るがした。 「うん……」 「痛かったら言って」 「ふ、う……ん……」 「……つかちょっと痛いかも」 「ん……っあ、う……ん……い、た……」  ゆっくりと、しかしはじめから二本の指を左右に広げるようにして差し込んでくる環に壮五は正直に微かな痛みを訴える。ごめんと呟いて空いた手で再び大量にローションを零すとその広げた指の間からぐちゃぐちゃに濡れた指を環は一本ねじ込んだ。 「あっ……」 「やっぱちょっといじってんね。広がってんのわかる」 「ま、ってくれそこ、きもちい……」 「知ってる」  広くしながらも前立腺を刺激する指に翻弄されて再び昂りに熱がこもる。膨れたしこりを優しく掻かれる度にぞわ、ぞわ、と腹の奥に快感が響いて腰が深く痺れていく。我慢出来ない。我慢がもう一ミリも出来ない。壮五の口が勝手にいれてほしいと動いてしまう。声がついてこないので変わりに息が漏れた。  その囁きを捉えて環は指の締め付けに躊躇いながらも壮五に顔を寄せる。 「まだだと思うけど、もういれる? つらい?」 「つら、……奥に欲しい……なんでだろう、一度しかしてない、のに……」 「んなのそーちゃんが淫乱だからに決まってんじゃん」 「……そう、なのかな……」 「そーだな。けどえっちなそーちゃんちょー可愛いからアリ」 「そう……」  にや、と笑って指を引き抜きティーシャツを脱ぎすてた環を壮五はじっと見詰める。  立派な身体付き。きれいに整った腹筋に見惚れながら半勃ちの昂りを数度擦ってコンドームを付ける様をぼんやりと目に映す。 「はは、そーんな見る? 恥ずかしくなる」 「……ゴム、無いほうが気持ちいいのかな……」 「いやトンでんなー。気持ちいいなら何でもいーんかッ……つかだめっしょ。ゴムしないでセックスしたことないからいいのかはわかんね」 「ナカ……出されたら気持ちよさそうじゃないか……」 「出す方が気持ちいっつんなら分かるかもだけど、出される方の気持ちは分かりません。そもそも中でイッたことないし、ん、でもやっぱ出す方の気持ちもあんま分かりません」 「してみて……」 「ぜええっっってーーーーヤ。それは死んでもしないから」 「……ケチだ……他の人にしてもらいたくなっちゃうかもよ」  半分、それでも半分の冗談でそう言った壮五はその瞬間急に顔を掴まれてびくっと身体を強張らせた。  環の冷たい視線がまっすぐに目を見てきて思わず固まる。環が目に見えて怒っている。心臓が早くなる。 「んだそれ。マジで二度と言うな」 「……っ……」 「他の人って。やっぱあの人? 柊役の」 「……ち、ちが、本気にするなよ……! 冗談だから……!」 「あーーくっそイライラした。めっちゃむかついた。萎えそう。はあ、むっかつく」  頭を乱暴に掻く環を見ながら萎えそうなのはこっちだ、と壮五はやっとなんとか息を吐いた。一瞬で全身に冷や汗が滲んでいて環の言動に言葉が出ないほどびっくりした。 だって性行為の対象である時には執着心など微塵もないのだと思っていた。  普通にあっそ、してもらえば、ぐらいの軽い返答を予想していたので壮五は自分で思った百倍は環が嫌なことを言ってしまったのだということに動揺してしまう。 「ご……ごめんね……」  壮五はこのままだと何だか本当に行為をやめられてしまいそうな気がして環の腕を少し強めに掴んで引き寄せると反省していることをなんとか分かってもらおうと身を乗り出した。  むくれる環の頬に手を添えて唇にそっと触れるとそこで初めて壮五は自分自身が環との関係性をこんなにも失いたくないのだと気がついた。 「やなことだったの分からなかった……ごめん、反省してるから……」 「そーいうとこな」 「うん……ごめんね……」 「ったく、素直だから許すけどもっかい言ったらセックス二度としないかんな」 「……っ……」  ほっとしたのも束の間、環のふいのその言葉には震えるほど嫌悪感を抱いた。恐怖心かもしれない。どっちにしろ心臓を手で握り潰された様な苦しさに壮五は途方に暮れた。  そして動揺から敵意に変化していく。守らなければ。気持ちを、メッゾの部分を守らなければ。どうしてそんなこと言うんだ。謝ったのに。  だって、僕たちは、 「だって、セフレだって言ったの……環くんじゃないか……」  壮五は泣きそうになってしまう。何が環の地雷かなんて全然分からないのにセックスを二度としないと言われて頷けるわけがない。そんなのはずるいと思った。  結局自分が環にとっての何なのかが知りたくてたまらない壮五は言い知れぬ不快感で頭がいっぱいになっていく。半ばパニック状態も同然で浮かんだ不満の言葉が端から順に口からどうどうと溢れていく。 「っ何で二度としないなんて言うんだ、簡単に言わないでほしいよ、環くんがセフレって言うから僕だって重たくならないようにしたのに! 君が執着されるのが嫌なんだと思ったから! わざとじゃない、他の人なんて誰かを思って言ったわけじゃないよ、いつものわがままじゃないか、なのに急に怒られてもそんなの分からないよ、謝ったじゃないか、謝ったのに全然許してないじゃないかっ、愛だと困るんだろ! 僕たちじゃ愛にならないって環くんが言ったんだっ君はどうか知らないけど、僕は仕事の相方とも友達とも増してや家族となんてしないよっセックスはしないだろうっ普通だろっだから、だからせめて僕はっ」 「そーーーちゃん……!」  気が付くとぼろぼろに泣いてしまっている自分に壮五ははっと我に帰る。支離滅裂な言い分をまくしたててしまったことに急に恥ずかしくなったがいつの間にか環に抱きしめられているのをようやく把握してほっとする。  嫌われたくない。壮五ははっきりとそう思う。ようやっと行き止まりの先、セックスまでをも出来る関係になれたのに、それを理由に環に嫌われたくなんてなかった。 「なに! いきなりなんなん! 落ち着けっつの! 何がやだったん!」 「だ、……っ……て……」 「だって? おれが悪い?」 「うんっ……」 「あっそうっ……ごめんな」 「っ……環くんが嫌なこと、全部教えて、くれないと、僕また……おこらせ、るっからっ……」 「……ああ……」 「ごめっ……お……怒らないでほし……」 「……うん……」 「嫌いに……ならないでほしいよっ……」 「…………」  環はここにきてようやく、いつの間にか今までずっとずーっと思ってきたこと、増して自分に課してきたルールとは到底真逆のことをしてしまっているのに気が付いて黙ってしまった。  立派な理性だとは思う。壮五が女性との関係を持つことを許し、将来的にその完結を喜び、隣に立って死ぬまで一人と一人のままメッゾを終えていく。  愛の伴わない身体の関係を持っても、そうでありたいと思う。思っていた。なぜならまだ身体の関係を持っていなかったからだ。  そして、いよいよ持ってしまった今、想像していたのとまるで違うからこうなっている。  冒頭で壮五に向かってたった一回セックスしたくらいで何か変わるのかと環は怒鳴った。  当然、変わらないわけが無かった。  今までの性欲のセックスとは違う、愛を満たす為のセックスを、好きな人としか出来ないそのセックスを、してしまったのだから。何も思っていない他人と何度身体を重ねても慣れるのは性欲を満たされる感覚だけに勿論決まっている。  一度、たった一度だけなのに「気持ちがいい」だけではとても済まされないほどに愛を満たされてしまったからには、その関係性が変わらずにあることなど不可能に決まっているのだ。  側にいなくては不安だし他の人を見られると嫉妬する、好きだと確かめずにはいられないのにその重たさに時折動けないぐらい制限される。  愛を形あるものとして確かめ合うことなんて誰とも出来ない。だから常に求め合うのだというのに。  先にファミレスでメッゾの将来を危ぶむあまり、セフレでいいと言った自分を超超超褒めたいと思った。心が広すぎやしないか。  褒めたいついでに詰りもしたい。セフレで我慢出来ると思っていた自分を詰りたかった。出来るわけがなかったのだ。  環が今後、壮五が女性とならばまだしも自分以外の男性との関係を持つのを許せるわけがない。  何せ事故とは言え愛のセックスに壮五を貶めたのは自分だ。  たった今そう思えてしまった環はけじめという意味で壮五とのセフレという悪しき関係からは脱却しなければいけないと思った。  何を隠そう、そういう関係性に落ち着いてものの数時間ではあるがやっぱりそれは「間違っていた」ようなので環は全ての責任を取ることを今ここで決意したのだった。 「よーし。セフレ撤回。おれはそーちゃんと付き合う。以上」 「……は……?」 「だいじょーぶ。おれが全部責任とってやるから安心しろな」 「……せきにん……?」 「まかせろ。一生離さない」 「…………?」  あまりに唐突な展開に壮五は開いた口がふさがらず環の顔をまじまじと見つめるが、目を合わせたまま自信満々にドヤ顔をしてくるのでなんだかもうどうでもよくなってきた。  鼻を啜る。とりあえず個人的にとても不満があったセフレという関係から、環の言うに〝付き合う〟ということは恋人同士になった、ということでいいのだろうか。  最早確かめる気にもならないが。  先程までちょっとセックスしたぐらいで何あいとかこいとか言ってんだばかじゃねーの本気になんじゃねーぐらいのことを言われているように感じていたので、きっと事故セックスの時だって環にとっての自分などダッチワイフぐらいの感覚だったんだろうなとちょっと虚しく思いはしたがまあ究極それでもいいかと渋々受け止めたところだというのに。  こちとら割り切ったからには明けの興奮から性欲の発散がしたい気分だったので素直に誘ったのに何故か途中でキレられた揚句感情的に嫉妬された。  セフレだと言ったのは環の癖に全然フレンドじゃない。どこが気軽にセックス出来る関係なのか。  する気は毛頭ないがセフレなら自分が誰としたって、そして環が誰としたにしたって許すべきだ。そういう関係にしたのはそっちのくせに! そもそも冗談を真に受けすぎる男は嫌いだ。嫌がっている時にまでしつこいところも少し不満。  けれど、やはり究極は壮五は環に嫌われたくはなかったのだろう。謝ったのにまだ怒っているのが嫌だったのか自分でもびっくりするほど口から勝手に本音が零れていたのには参ってしまった。環に好きでいてほしい。嫌なところはあってもいいから、そこも含めて許していてほしい。  許すから。自分もちゃんと、受け入れるしこれからだってきっと許していくのだから。  壮五はすっかりセックスする雰囲気がぶち壊れたその様がすごく滑稽に思えて、涙目ながらにやっと吹きだした。 「本、当ーにおかしいよね、僕たち」 「頭?」 「ふふ、頭かな?」 「そーちゃんは元からやばいから仕方ない。おれはそれに毒された」 「都合悪いこと全部僕のせいにするのやめてくれるか?」 「だってジジツじゃん。例えばふつーは中に出せとかゴムすんなとか言いません」 「……責任取るらしいので、この酷い空気からセックス再開して」 「いやさすがに出来るかっ!」  たまらず笑い合う。こうしてやっとこ足並みを揃えて環と壮五は二人でメッゾに愛をのせていくことに決めた。思えばメッゾの完結からお互い距離を空けて色々なことを別々に学んできたがその間だって実に揺るがず二人のホームであり続けてくれたのだからこれからもメッゾがある限りきっと大丈夫なんだろうなと、壮五には思えたのだった。  壮五の手の平が環の頬を優しく包み目線を合わせて見詰めると一瞬で真顔になった。 「付き合うんなら浮気は絶対許さないからね」 「は……? それおれのセリフじゃね」 「もちろん女性ともだよ」 「とーーぜん過ぎて笑えない」 「じゃ大好き。環くん、だいすき」 「っっっかーーーわいーーーーーー!」  それにしても一生離さないとはいい度胸だ。  臨むところだ。犬の如く尻尾を振って壮五を押し倒す環のリードはこちらこそ生涯離してあげませんと壮五はほくそ笑んだ。

EPISODE 04メロウドーパー

*     **   〝そーちゃんがそうしたいなら〟なんてのは本当のところ強がりでしかなかった。  だけれど壮五が望むことは環にとっての望みであり、そんな壮五の望みだからこそもっと良い方向に上手く誘導してあげなくちゃいけなかったと、環は「自分の責任」だと今でも後悔している。  したいセックスが愛かどうかぐらい今はもうちゃんと分かるのに愛のないセックスがこんなにもくだらなくて、否、愛のあるセックスがこれほど恋しくなるものだなんて環は今日まで思っていなかった。  ふと家の引き出しの奥にしまい込んだ揃いのシルバーリングを何故だか思い描いてしまった。 「…………」  とかく今は目の前にいる柔らかそうな剥き身に対して「なんかちがう」としか思えない環にとってそれはもうなんかちがうでしかないためにとろんとした目の女の視線を受けつつも興奮するとかまさか今からこの女とセックスするだとか全くこれっぽっちも0.0000000000001ミリだって出来る気がしなかった。  節操無しにはあれほど自信があったのにその具合もどうしたことかさっぱりで、ここ一年ですっかり鳴りを潜めた「節操無し」には冷めた表情でため息を吐くしかない。  飲み過ぎたと言い訳をするには幾分アルコールが足りていないが仕方ない、そうでもしないと実に約四年ぶりのスキャンダルを期待してやたらべたべたしてくるこの女優に対して上手い口実も見つからない。  その間にもさっさと脱いで下着一枚の女であるがそれを一瞥した環は何だか気まずくて目を逸らした。  女の裸マジで四年ぶりに見た、だなんて人生で初めて思った。そりゃそうだ。 「……あー……その……」  むらのむの字も感じていないのでどうしたって何も出来ない。着衣の乱れが一切ないのがその証拠でキスでもすればまた違うのかもしれないのにそれすらしたいと思えない。  つまり触りたくない。環は嫌なわけじゃないんだけどな、と思いながらもついに女の顔を真正面から見詰めた。 「のみ、過ぎた、多分。ごめんっ」  まるで恍惚の顔で環をじっと見ていた女であるがその言葉には突如固まる。やれ人の心理が顔にあらわれる時ほど恐ろしいものはない。それがマイナスな感情であればあるほどにそうだ。  頭を撫でられている猫の様に柔和だった顔が真顔にそして怪訝に最後には赤くなって般若へと変貌していく。まあ通常の人間のごく普通の反応に違いないが環は心底どん引いた。  ぜんぜん可愛くないしぜんぜん怖い。求めるのは間違っているかもしれないが愛がゼロ。無理。  一瞬でぶち壊れたムードのついでに盛大なビンタを頬に食らった環はこうして一人ラブホテルの一室に取り残されたのであった。  事の経緯としては実に単純で、ドラマの打ち上げ、メイン女優からのお誘い、まあまあ飲んでいたし壮五とも別れて一年ぐらいは経ったしそろそろ気晴らしにしてみようかな、なーんて、あれおかしいな無理だった、という感じだ。  広いベッドにあおむけになって天井を見詰めた環は長い長い嘆息を零す。  そして愛のないセックス、いままでどうやってたっけなどと久しく感じてすらいない性欲という衝動がどうしても上手く思い出せずに項垂れた。  感覚としてはなんとなく思い出せるのだ。身が焦がれるようなじりじりと焼ける欲求。  ただ、環の思う性欲とは愛とか恋とかそんな気持ちのありかとは全く別次元の衝動で、溜まったら爆発する前に発散しないとどうにも居られないのがそれであり例えば愛がない人間とだってすんなり出来たはずだった。  はずというのも、四年前、壮五と付き合ってからというもの「性欲」をほとんど意識していないからで、とはつまり壮五との愛を伴うセックスは性欲じゃなくて愛だった。愛でしかなかった。  環は忘れてしまった。壮五以外とのセックスの仕方も、性欲の自覚の仕方も、処理でするセックスの気持ちよさも何もかも。  それに、性欲を思い出せないのは自分でもちょっと自覚していて何せ一年前に壮五から別れを告げられてからというもの、恐らく自身の中の雄が死んだ。  良く分からないが死んだと思うのだ。  だって未だに誰でもいいからセックスしたいと思うことも、性欲溜まってるーだなんて思うことも一切ないのだ。  勿論今更壮五とであっても。  身体の構造的に精子が溜まったら何をしなくとも自然に排出されるし別にそこに快感が伴わなくても今のところ問題はない。  だし、夢でならば決まって壮五がとてもスムーズに抱かせてくれるのでなんなら夢精を待っている節もあったりするのかもしれない。  それも良く分からない。だってどうせ現実じゃないのならどうだっていいのだから。 「…………」  無言でそんな事を考えていると、ふと何で出来なかったのかな、と環は思った。  するつもりで来た。打ち上げの席ではそれなりになんとなく、ぼやっとだが「してみようかな」ぐらいには思えた。女優の好意に嫌悪感は抱かなかったしそれこそ別になんとも考えていなかったのに。  つまりそこまでは他人との愛のないセックスが出来ないだなんて微塵も思っていなかったということになる。いいことだ。愛がないまま女と寝るのはセックスが特別なものなんかじゃない証拠。  壮五との愛だけ別腹で覚えていられたら、他との嘘の愛を育むことなんて痛くも痒くもないはずだった。  だって大事な壮五との愛とは何もかもが違うはずなのだから。  環はそこまで思ったとところで何だかとても、とてつもなく恐ろしいことが自分の身に起こっているような気がしてそこはかとなく不安になる。こういうのなんていうんだっけ。ネットで見た気がする。疲れたおっさんが仕事漬けのストレスでなったってやつ。 「ハッED! 待って! いやいやまさか、ちが、……ん……? だとしたらめちゃくちゃ病気じゃね……?」  青くなって即座にベッドの上に正座した環は充電中のスマートフォンを叩く。  何だか無性に恐ろしいので片目をつぶって検索窓に「ED」といれてみた。 「……ぼ……」  すぐに勃起不全という言葉が大きく堂々と太字で画面に表示されあまりの字のでかさにびびった環はそのまま画面をぶち切った。  列記とした疾患であるのは分かっているが、いやでもほんとのとこは、そう、する気がそもそもなか、無かった……かもしれない、したくなかったんだきっと、したくても勃たないのが確かそれで、というか三年間壮五としかセックスしていないわけで、別れてから雄が死んで、それで、死んだってことは、えーと……やっぱり病気……? 「そおおちゃあああん!」  この場合の原因は最早明白だったが例え別れたとて相も変わらずに隣でメッゾを続けてくれている壮五に躊躇なく電話をかけた環は「は? どうしたの? 聞き取りずらいからちゃんと喋って」といういつも通りの声を聞いて心から安堵するのだった。  (メロウドーパー・表)  さてもこういう時の環のお願いを大概断らない、否、断れない人種の壮五なのでわけのわからない理由で呼び付けられた場所が例えばラブホテルであっても微塵も躊躇しないで部屋まで迎えにきてくれた。  ベッドで体育座りをしながらどんよりと落ち込んでいた環が顔を上げるとマスクとマフラーを外しながら何がどうした? と話しかけてくれる。 「病気なった…………」 「病気。一体どんな? えーと、なんだろうな。この状況だと陰茎が痒いとかかな」 「性病疑ってんじゃねえよ!」 「違うのか」 「違う! マジのやつ……! 勃たなかった……ああ、おれもうダメだ……いっしょう誰ともセックス出来ないんだ……」  ベッドの側にあったソファに座した壮五は環の言葉にきょと、と目を丸くして首を傾ぐ。 「たたない……? 勃起って意味だよね? そんなに酔っている様子にも見えないけど……」 「酔ってはない」 「いつから?」 「いつから? 今。さっきから」 「だよね。この前飲みに行ったついでにしたって言っていたもんね。先々週ぐらいだっけ?」 「あ、あーー? ……んーまあ……」 「その時は平気だったんだ?」 「ん……」  外が寒かったのは明白で壮五の高そうなコートにはまだ冷たい空気がしっとりと纏わりついている。  つけっぱなしだったレザーのグローブを外した壮五はポケットから缶コーヒーを出した。続けてコーンポタージュの缶を出してこちらにくれた。あつあつだからすぐ下で買ってきたのだろう。  のんびりとした口調でまあ、と切り出した壮五は特に焦った様子もないままコーヒーに口をつけた。 「なるほどね。それで相手を怒らせてしまったんだ。ほっぺたが赤くなってる」 「マジ? 痛かったもんなー。てかさ、EDちょっと調べて」 「ぼくが?」 「うん。で、おれを傷つけないように説明して」 「難しいな……。えーと、あ、セルフチェックがある。やってみたら?」 「質問読んで」 「ぼくが……?」 「だって一人ですんのこえーんだもん!」  肩を竦めて壮五が淡々と質問を読み始めると本気で熱く答えた環の結果は無残にも「重症」だった。 「五点かな。あれ、重症だって!」 「ねえ! 傷つけんなって言ったじゃん!」  茫然自失でベッドに倒れ込んだ環を後目に苦笑した壮五が「全然しなかったの? 触ったりも?」と追い打ちをかけてくる。  笑い事じゃないのでそれには答えずに環は頭を抱えこうなった原因を嫌でも自覚しなければいけない。  思い当たるのは無論ひとつだけ、壮五と別れて雄が死んだその事に尽きる。 「まあまあ。それ飲んで落ち着いて。僕ちょっとトイレ」 「きんちょうかんのかけらもなくてうける……」 「生理現象なんだから仕方ないだろ」  悠長な壮五がいそいそとコートを脱ぐのを横目に見遣りながら環は大袈裟にため息をついた。  昨年、メッゾとしてもアイドリッシュセブンとしてもデビュー十周年を大層華やかに迎えた環だったがそれと同時に実に三年にも及んでいた壮五との交際歴にも終止符が打たれたことについては節目で起こった様々に心揺さぶられる出来事のどれと比べても圧倒的最大の衝撃だった。  早いものであれから一年ほども経っているわけなのだが今でも鮮明にその時のことを夢に見る。  超、超、超、悪夢だった。  あの日はメッゾの十周年ライブの最終日で、ひとつの節目をやり終えた充足感が胸いっぱいに溢れていたのを思い出す。直後の打ち上げだってすごく盛り上がって万理も紡も珍しくはじめから参加していた。  色んな人からお祝いされて褒められたしプレゼントもたくさん貰ったしライブだって最高に良かった。  勿論壮五だって笑っていた。  まだまだ夢の途中なのにこの景色が今までにないぐらい美しいだなんて正直怖いです。だけど明日も明後日も今日以上に素敵な景色が続いていくと思うと僕達の今までが間違っていなかったことを改めて実感しています。僕はメッゾを愛しています。  それなのに。  大事な打ち上げの会場からふらっと居なくなった壮五は自宅に戻って一心不乱に〝ごみ〟を捨てていた。  そっと覗いたリビング、真っ黒なポリ袋、がさがさと耳触りな音を立ててあのでっかい棚にある全部の何かを端から順に汗だくになりながら無我夢中で捨てているという光景。  因みに全部の何かとは壮五がこの七年と三年の間ずっと大事にしてきたのであろう環とのとにかく全部の何かだ。フォトアルバムからプレゼントからそこに集めていたもの全部を躊躇なく次々と袋に投げ入れた。  冗談じゃなくホラーだ。環は完全にトラウマになった。ちょっと思い出すとそれだけで胃がえぐれそうに痛む。  見た瞬間からまず恐怖に慄いたのは事実だが同時に深く傷つき過ぎて壮五がそれをし終えるまでついぞ声も出なかった。  何も出来ずに立ち尽くしたまま環がその作業を見守っていると棚が空になった頃ようやく壮五はこちらを振り返って「みて、全部捨てた」と言った。  振り切れた壮五の一体何が振り切れたのかまではそこでは理解できなかったが、清々しさすら感じさせるその口調とは裏腹に目の下の色濃い隈が壮五の追い詰められた感情の決壊を物語っていた。  最初はそのあまりにも恐ろしい行動故にそれこそ霊的な何かに取りつかれてしまったのかとでも思った環だったが(年内の仕事に廃墟ロケがあった。怖かった。)後から思い返すときっと三年の間中、環との愛にそれほど苦しかったことがあったのだと思う。  と思う、というのは果てはその理由も分からないまま、というか教えてもらえないまま環は壮五と別れることを決めたからだ。  だって、壮五が「別れたい」と望んだのにあまりにも辛そうに泣きじゃくるものだから、こんなに辛い思いをさせている原因が環自身にあるのかと思ったら今すぐに離れてやらなくちゃいけないと、それで壮五のこのキチガイじみた感情がちょっとでも楽になるのなら早くそうしてやらねばと、環との関係を我慢出来ないほど疲れてしまった壮五の心を守ろうとその時はとにかく必死だったのだ。  これ以上壮五を苦しませたら、抽象的ではあるが死んでしまいそうだと、それぐらい危機感を覚えたから。  最後の方はひどい過呼吸で切れ切れに泣き叫ぶ壮五から何度も繰り返されるのは「しあわせ」「おんなのひと」「けっこん」そんなフレーズばかりだった。  壮五が環との恋愛関係を結んだ瞬間から自らの男性という身体に対して激しいコンプレックスを持っていたのは環とて重々承知の上。  だから不安に思っているのが分かれば何回でも環は壮五を好きで選んでいるのだとしっかり伝えていたつもりだった。  足りなかったのかと思いはすれどそんなことは今だから言えることでしかなくて。  泣くのをやめられない壮五にとって環の幸せとは一体何なのかを想像すればするほど環はそれにぐるぐるに縛られていってしまって「分かった」とそんな言葉でしか壮五を楽にしてやれる方法が思いつかなかった。  鼻も涙もないぐちゃぐちゃになった顔でもう何を訴えているかわからない壮五を抱きしめて別れることを選ぶ環は恐らくこれで最後になるのだろうキスをせめてたくさん与えた。もう二度としないからと言ったのもちゃんと覚えている。  もしもこうなった理由が本当にそれならばなんてくだらないんだとは思ったけれど、こんなにおかしくなるまで壮五が悩んで決めた事、いわば壮五の願望だと分かったからには環にはどうしたってそれを叶え続けてあげること以外に壮五を幸せにする手段が分からなかった。  それでも、別れた直後は壮五が何とか自分から離れないようにするのに必死で壮五が望んだ環の幸福が自身にとってどんなにか苦しくて辛いものであるかなどと考えている余裕などなかった。  だから環は愛する壮五の期待に応えて女性との関係を構築していく素振りを例え出来なくても見せていかなくてはいけなかった。壮五の心の安寧の為に。  果たして壮五の描くまともな恋愛が環の幸福であるかは別として壮五がそれを環の幸福だというのならばその通りに生きていてやりたいのは環の唯一気が狂っているところである。  ただ、それは当然、環の感情をまるで無視した無茶苦茶な進行台本なのに変わりはない。気持ちの伴わない台詞変更についていけなかった環の〝性欲〟はこの時から死んでいる。  けれど実のところ環にとっては壮五の理想を叶える為なら愛のないセックスで愛を偽装することなんて簡単に思えた。だって実際に好きじゃなくても性欲の発散でなら誰とでもしてきた。そんなセックスを特別だなんて思っていない。いなかった自分を知っているのだから。 「お待たせ。まさか泊まらないだろう? 帰るよ」 「あっさりしてんなーー。相方がEDかもしんないの少しは焦れ?」 「だってたまたまかもしれないだろう。次もそうなら真剣になるよ」 「悠長だな……。つか、そーちゃんがこんな身体にしたんじゃん。男ならいけんのかな」 「もう、さっさと支度する!」 「まじだったら男紹介しても怒んなよな」  環はいつも気にしていた。壮五の理想の自分は今どうしているのが正解なのだろうかと。  あれからどうやってもそんな気分になれないままで実際にことに及ぼうとしたのは今日が初めてだった。なので一度として寝てもいない女優とのベッド話をでっちあげ壮五の様子をこの一年懸命に模索してきた。  その度に穏やかな顔で話を聞いている壮五はまるで環との三年間、濃密で甘どろい愛の味など素知らぬ風に頷いた。 「それは怒る」 「じょーだんじゃんよー。分かってるし」 「本当に? アナルセックスが出来る女性探すの手伝おうか?」 「……スッげーマジな顔すんのマジでやめて」 「マジな悩みかもしれないだろ、マジにもなるよ」  違和感はいよいよ環を少しずつ蝕んでいく。  愛の偽装は偽装のままだったから、いざ既成事実にしようとしたら「出来なかった」。  出来なかったのだ。失敗した。壮五と別れてから約一年、一年ぶりに今日初めてセックスに踏み切ろうとしたが無理だった。  壮五の理想にならなくてはいけない環にとってこの事実はとんでもないことだった。  あの日、壮五があんなになってまで望んできたお願いを環はもしや叶えてあげられないかもしれない、そういうことになる。  まずいのだ。だって、知らないうちに辛い思いをさせてまで壮五を傷つけながら自分の愛を優先させていくのはもう二度としないとこの口が誓った。即ち壮五よりも大事に出来る存在を嘘でもつくったふりをして壮五を安心させてあげなくてはいけないというのに。  とにもかくにもめちゃくちゃになってしまった壮五をあの場で今すぐに助けてあげたかった環にとって先に自分が致命傷を負っているだなんてそんなことはどうだっていいことに違いなかった。  傷つくのも痛いのも壮五の叫びの前では麻痺してしまったのだから仕方がない。  深い傷口から漏れ続ける愛情は果たして底なしかどうかなど分からないのにそれを手当てする術も例え無くなったとて補充の方法も今のところ環には見つけられていない。 「すごく寒いよ外。風邪ひかないようにね」 「アンタに言われたくない、って呼んだのおれだった。来てくれてあんがと」 「ふふ。いいえ。いつもお世話になってますから」  先に立って歩く壮五の後ろ姿を見詰め黙って歩く環であるが、今日も変わらず死んだ心で静かに必死に壮五を愛している。  ビル風に煽られて縮こまるとみぞおちの辺りがきり、と痛んだ。  それからすぐだ。〝環がフリーになった〟という噂があの夜を境に瞬く間に業界へと広まったのは。  あの女ぶっころすと思いながらも周囲の大歓迎ムードはあっと言う間に環を取り囲み「99+」のまま放置していたラビチャの各ルームが毎日毎日ひっきりなしにまわりはじめた。  それまで名だたる戦歴のつわものどもが死に物狂いで必死にアプローチしてきた四葉環であるがそれこそ押しても引いても打っても蹴っても響かなかったわけなので、ある噂を引っ提げたここ三年の間は狙いの的から外されていた。  これだけやっても靡かないということはずばり交際歴の長いマジな本命がいて既に事実婚状態なのだという噂であったがそれゆえに文字通り壮五一筋だった環の突然のスキャンダル解禁の一報はまさに青天の霹靂、一気に注目の的にならざるを得ないのは致し方ない。  事実婚状態だってそこそこリアルな憶測ではあったのにあの夜ついに打ち上げからメイン女優とホテルに行ったという実際は早くも翌日から圏内に飛沫感染し翌週には週刊誌に嬉々として書かれた。 「おはよーございーまーーす」 「おはよう! 見てこれ。全誌環くんのことだよ」  楽屋に入るなり壮五の手によって机の上に所せましと広げられたいくつもの週刊誌を青ざめて一瞥した環は一番手前にあった煽り文句をつい日本語として認識してしまう。 「大本命の美人彼女とついに破局! 三年半の忍び愛」確たる情報が無いのですこぶる適当なのにどうしてか当たらずとも遠からずで環の胃がみりみりとする。せっかく修繕してきたメッゾの深手を今更面白半分に取り上げられるのは正直しんどかった。  加えて勃起不全疑惑という謎の問題を抱えている今の環の精神状態ではダブルパンチもいいところで真剣になって記事を読んでいる壮五などもってのほかだ。  環はそれ以上の何をも目にいれないようにしてソファの端っこへと座る。 「何でか環くんがセックス失敗したことよりも破局してフリーになったってことの方がつよめにフォーカスされているんだよね。世間の需要がおもしろいよね」 「おもしろくなってんじゃありません……毎週毎週週刊誌全部買って読むのやめろよ……」 「えっ、だって何がどんな風に書かれているか分からないじゃないか。身だしなみチェックと同じだよ」  記事を追うのはやめないままに、壮五は独り言みたいにして「たくさん誘われてる?」と呟いた。  悪気は微塵もないのだろうが、環はそういう言葉が壮五の口から紡がれる度に苦しくなって黙ってしまう。今まで無理に気がついてはいないふりをしていたがこれはもはや脅しだ。  壮五の理想の環はフリーになったらたくさん遊びに誘われ素直にたくさん遊ぶんだろう。  言葉の端々から「選ぶんだよ」という強制のニュアンスがひしひしと訴えかけてくるようで胃痛がひどくなる。 「環おはようー!」 「おう、りっくんおはよ」 「四葉さん、今日は無事に帰れると思っていないでくださいね」 「タマ、イチが車の中で何回週刊誌ぐしゃぐしゃにしたと思う……」 「オーー! タマーキー! スキャンダル復活ですか? ずいぶんご無沙汰でしたのでなんだか安心しましたよ」 「ナギっち待って……ほんとーーに、胃が痛い……」 「安心すな! 環も、……て、本当に顔色悪いなー。珍しい。大丈夫か?」 「みっきーー……! おれの繊細さに気がついてくれんのみっきーだけだっあいしてるっ」  環の記事は当然その後もしばらく取り沙汰されて、こういった何気ないメンバー間のやり取りででも弱ったずたずたの精神にはこたえた。  精一杯なんともない風にふるまってはみるのだけれどやはりしんどいことに変わりはなくて壮五もそこにいるのならば尚更だ。  それからこういったバッシングに対して今までひとつも気にしてこなかった環だけにそんな時に限ってやりたくないテーマの撮影やバラエティのコンセプトに捕まってしまう。  鋼のメンタルとして週刊誌ネタを生放送でぶちこまれるなんて事は今までに幾度もあったことだ。本来の環であればそんなことは別になんでもないことだし恐らく今じゃなければいつでも大丈夫だ。  ただ、今だけはあっけらかんと否定も肯定もするのも辛くて壮五がいつでも隣にいるとなれば余計にそうでだからといって仕事として割り切ることが出来ないなんてことで今更求められるイメージは変えられるはずもなくて。  破局のネタを何遍もどこの局でも突っ込まれ、その度に「まあおれ重たいんで。けど今もフツーにしてるしだいじょうぶ。心配しないで」などと世間のイメージ通り、否、自業自得にぐさぐさに刺されながら発言するのは正解なのに間違っていてそうじゃないのにそうでいなくてはいけない温度差で心にびっちり黴が生えてしまいそうになる。  その狭間で板挟みのまま「仕事」をしなければならない環は今更ではあるが壮五がメッゾであり、自分がメッゾであることが度々嫌になりそうだった。 「環! 元気? ひさびさ! フリーなった? 長くない? まじで一途なの?」  エレベーター待ちの僅かなタイミングで豊満なバストをぎゅっと腕に押しつけながら見覚えのある女優が甘ったるい声でそう言った。  こいつはそう、何を隠そう環が壮五と事故セックスをする直前に最後のスキャンダルを起こした当人である。つまり環が人生で最後にセックスした女だった。相変わらず小うるさい。 「……あー胃が……痛い……くっついてくんな……」 「そーちゃんさんもお久しぶりですう! 映画ではどうもありがとうございました!」 「ああ、その節はどうも。収録ですか?」 「そうなんです~。あ、そーちゃんさんなら環のなっがあああい交際相手、知ってますよね? 美人? そんなにいい人だった?」 「オウウ、おいい、吐きそう、ウ、まじでもうあっちいけブス……」  冗談にならないぐらい胃がビリビリするので半べそになりながら環がそう言うと、壮五は困った顔で肩を竦める。 「環くん、女性に暴言はダメだよ。すみません、口が悪いのも愛嬌なのでどうか嫌わないであげてくださいね」 「いーしべつにっ……しつこいおんなきらいっ……」 「ほんと失礼だよねアンタ……。そーちゃんさんこそ、環のこと見捨てないでずっと見ていてあげてくださいね」 「……うん?」  壮五がふと首を傾げた途端、呼んでいたエレベーターが到着する。誰も乗っていないので広々とした空間が口をあけたのを見計らって逃げるように環はさっさと歩を進めた。これ以上何も言わないで欲しい。  壮五との愛について、これ以上誰からも何も言われたくなかった。 「傷ついてるくせに。慰めてやるから飲みにいこ。ラビチャかえせ、絶倫」 「ああー、もーーうっさいなほんと、ぜってーーかえさねーし! ブス!」 「あはは……ではまた……」  ぺこりと頭を下げた彼女はそれ以上何も言わないで朗らかに笑んだ顔が妙に印象に残ってしまった。  壮五と付き合ってからは連絡も丸無視で食事に誘われても増してや遊びに行くことなど一切無かった。だけれど彼女も恐らくこの四年間相手にされもしない環のことを忘れられずにいた一人なのだろう。  胃が痛くてため息をついた環に、壮五はそれでも容赦なく「あの子はどう?」と言ってくる。 「マジで言ってる?」 「仲良しじゃないか。君があんなにからかってる女の子見た事ないよ」 「仲はいいよ。友達だもん。おれ友達とは皆仲良いし。けど愛とはちげーだろ。無理だよ」 「友愛や親愛が性愛になるって知ってるだろう」 「…………」  それは。  それは二人の履歴の話なのか? と一瞬頭がパニックになりそうになった環は咄嗟には何も言えなくて黙った。  壮五がちらっとこちらを見たのが分かったが結局無言のまま一階へと到着してしまう。  沈黙が苦しくて何か言いたいのに言葉が喋れなくなったみたいになにも言えなくなってしまった環は局のロビーをまるで一人でいるようにとぼとぼ歩いた。  壮五が「じゃあね」と言ったのにまだ喉が苦しくて無言で手を振った。  それでもほっとした壮五の顔は微笑んだので環もそれを見てほっと胸を撫で下ろしたのだった。  仕事が終わると当然の様に一人無言で帰宅する毎日だって一年続けたら流石に慣れた。  自炊などよほど気分がのるかしないとするわけがない環であるが今日はコンビニで買った弁当で済ます。無音は寂しいので帰ればすぐにテレビをつける。  曜日や時間帯に関係なくいつでも知っている誰かが出ているテレビ番組は専ら環の飯のお伴だ。バラエティの進行に時折吹きだしスマートフォンをいじりながらだらだらと過ごす。  食べ終わったゴミなんかはそのまま大きい袋にいれてしまうのでシンクもほとんど使用せず乾いて白く粉吹くほどだった。  掃除、洗濯、炊事だなんて環一人だけが暮らす空間でまともに出来るはずもなくここ一年で住処はすっかり環らしくなってしまった。  唯一、壮五がいた頃環が担当していた風呂の掃除だけは今でもきちんとやっていてそのお陰でゆっくり湯船に浸かるという習慣だけは何とか残っている。  特に意味を考えたことは無かったが壮五と別れてからはかなりの時間を風呂に費やしていた。  壮五のことも、そうじゃないことも、環は前よりたくさん考えるようになった。  今日は疲れた。いじられるのも怒らないのも平気なふりでへらへらするのも。  局で会った〝友達〟の女優。心を許したつもりもないが彼女のしつこくてめげなくて折れないところはちょっとだけ気に入っていた。簡単に傷ついたと顔に出さないのも話しやすくていい。  だがだからといって恋愛対象に出来るかどうかとは話は別で壮五が探りを入れてくるほど自分の近くに入れたつもりも全く無い。  身体の関係は確かにあるが、寧ろ彼女との間にはそれだけしかない。環の愛の対象になど到底足元にも及ばない存在。  それは今からどう転んだって変わらない事実だし恋愛的に好きになることも偽装の愛に彼女を選ぶことも少しだって考えつかない。  その程度の女だった。  それにしても壮五に向かって元カノ美人かだなんて全くおかしい。本当ならあの場でお前とは比べもんにならないぐらい美人だよと壮五を指差して言ってやりたいところだった。  それから「ずっと見ていてあげてくださいね」だとか。 「うける」  皮肉に顔を歪ませた環は同時にみぞおちがみり、と痛む。  見ている。紛うことなくいつも側で。環が幸福になるのを黙ってじっと、見ていてくれているじゃないか。  勿論、壮五にはそんなつもりはないのかもしれないが環と創れなかった、或いは創りたかった未来の続きを壮五以外の人間と創り始めるのを黙って待っている。  まるで馬鹿みたいだ。狂ってる。頭がおかしい。  そんな壮五が大好きで仕方がない為に同じ様に馬鹿みたいに狂って頭をおかしくしている自分はもっとやばい人間だとも思う。  今はまだいい。けれど、このまま何もかもに疲れて壮五を愛する気力が尽きてしまったら自分は一体どんな人間になるのだろう。  環は蟹の様にぶくぶくと泡を吐きながら狭い浴槽に頭まで沈めると、止まないみぞおちの痛み、息のつけない苦しさ、無理に縮こまるこの身体、目一杯生きている苦痛を以てしてこのどうしようもなく遣る瀬無い気持ちを懸命に掻き消した。  ゆっくり風呂から上がれば今時期は湯ざめしないうちにすぐに布団にくるまる。  そういえばいつ洗ったっけな、などと環は自分の匂いが染みついた毛羽立つ毛布に顔を埋めると心地いい寝床に早速うとうとし始めた。 「……」  明日も壮五との撮影がある。明後日も打ち合わせ。その次もその次だって壮五との明日はたくさんある。  好きだ。迷ってなんかいないし例え偽装の愛を壮五が認めても環は壮五が好きだ。  こんなのはどうあがいたって一生変わらない。  きっと慣れたら楽なんだろう。だからいつか慣れる日が、壮五への愛を隠して生きるのに慣れる日がきたらいい。  環はゆるやかに意識が落ちて行く途中、ああやばい、あの夢だ、と思ったがまどろみに抵抗できずそのままどぼんと記憶に飲まれていってしまった。  気がついたら打ち上げの席のどこにも壮五が居なかった。  そこそこいい時間になっていたが仕事の打ち上げで環に断りも入れずに壮五が帰るだなんてここ十年で一度だって無かった。きょろきょろと辺りを見回しその姿を探す。  室内にはいないのでトイレかとも思ったがよく見れば万理と紡も居ない。  急に酔っ払ったんかな、と不審に思いながらスマートフォンを見ると23:17という時刻表示の下にラビチャの吹きだしがいくつか並んでいるのが目に入った。 「……は……」  環が画面を凝視したまま思考が止まったのには理由がある。  一番上の吹きだし、即ち最新の通知は「そーちゃん」からで、それからメッセージの内容部分には「そーちゃんが【記念ツアー】を削除しました」と、記されていた。  すぐには理解が追いつかず、食い入る様に画面を見詰めていると新たな吹きだしがたった今追加され「そーちゃんがトーク履歴を削除しました」と表示された。 「意味わかんないだろ」  反射的に立ちあがった環は一階へ降りるエレベーターに走りながら壮五の番号を呼び出すがもちろん出ない。無論、出るわけがない。  頭の中がパニックで半ば大通りの路上に飛び出す様にしてタクシーを止め壮五のマンションへ向かう。  道中改めてラビチャを開いてみると「そーちゃん」のトークルームに通知が八十二件。全部がアルバムの削除通知だった。  一体今自分達に何が起こっているのか何一つ理解出来ていない環は息がうまくできていなかったようで急に物凄く苦しくなる。  分からない。壮五は自分との何を消したかったのだろうか。  あんまり動揺していたのかマンションまでの記憶はほとんどなくどれぐらいで着いたのかもよく分からない。  気付けば最上階の角部屋、傷一つないきれいな玄関扉の前で環はドアを引くのを躊躇していた。  事実、壮五が消したのは八十二個にも及ぶ言わば二人の全部の思い出だ。環との十年分の履歴と言葉。十年分の二人の想いだ。  それが何を意味しているのかをちょっと考えただけでも胸が痛くて泣きそうだった。  ただ、生半可な気持ちで行ったらいけないとは思った。  だって壮五が望まないことは環がいつだって止めてやらなくちゃいけないのだから。 「……あがんよー……」  意を決してドアを開けると、中からはがさがさというポリ袋が擦れる音がした。  見れば突き当りのリビングへの扉が中途半端に開いていてその入口付近にすでに真っ黒なゴミ袋ふた袋分の口が閉まっていた。  壮五が何をしているのか未だ皆目見当がつかずおそるおそるその様子を覗い見ると、彼は脇目も振らず一心不乱に何かを捨てていた。  テレビを囲う様に壁一面に設置された大きな棚には自分達のCDやDVD、雑誌などの他、写真を入れたフォトアルバムやライブの記念品、環と過ごした実に様々な十年、いや、七年と三年が大事に保管されているはずだった。  一角を占める恐らく思い出であるそれらを無言で次々と躊躇なくゴミ袋に投げ入れている壮五のあまりの狂気に気圧されて、環は黙って突っ立ったまま何も言えずにその様子をただただじっと見ているしかなかった。  やがて壮五が一番端の最後のアルバムを投げ入れ終えると声になったのかならないのか分からなかったが「そーちゃん」と環は言ったつもりだった。 「……見て、全部捨てた」  大量に滴る汗など意に介さずに壮五は正面からまっすぐに環を見てそう言った。  その言葉の衝撃たるや。環の壮五へのたゆまぬ愛情のありかをピンポイントで見事深々と突き刺し、余生一生、二度と癒えない傷がついてしまった。  本当は痛くて堪えられない程のその衝撃だったが壮五の目の下にある隈を見てこの人つらいんだと思った途端、泣けない壮五の悲しみが環の両目からはらはらと零れていた。 「捨てなくていいんだよ……何してんの……」 「ダメだよ、あるからいけないんだ」 「なにがいけないん、いらなくなったのか? おれとの全部……? いつから……」 「……必要なくなったんだよ、……何で、来ちゃうんだよ、環くんの、ばか……」  濁った言葉尻が咽び泣く嗚咽に変わり、壮五は今までに見た事がないぐらい苦しそうに悲しそうに大泣きを始めた。  びっくりもしたし慌てた環が急いで側に寄って抱きしめたのにまるで全然まったく落ち着いてくれなくて顔を覆ったままサイレンみたいにわんわんわんわん泣く壮五は微動だにしない。  自分が壮五の何の支えにもなっていないことが苦しくて環は自分も泣きながら一生懸命壮五を宥める言葉をかけるのに肝心の壮五にはちょっとだって届いてくれなかった。 「も、お……ぼくっく、る、しいっからっ……わ、っ……わかれ、てっ……」  そんなことを今急に言われても納得出来るはずがないのにどんどん激しさを増す壮五の慟哭がどうしようもなく辛くてついに「分かった」という言葉でいうことを聞いてあげることでしか壮五を救う方法が環には思いつかなかった。  ただ、こんなに泣いている壮五を例え十年の間柄でだって見た事がない環だったので、きっとどんなにか思い悩んで苦しい思いを我慢し続けてきたんだろうかと思ったら環は全部自分が悪いような気がして情けなくて悔しくて後悔でいっぱいになった。  せめて壮五を苦しいところから解放させてやりたい。  ここで環の心が死んだ。否、あまりの苦痛に耐えきれなかった自分が息の根を止めてしまったのかもしれない。 「分かったから、だいじょうぶ……わかったから、苦しいだろ、泣くな……」 「っうっ、だ、あ、ってっ……うっ……ぐ、ううっ……」 「別れるのな? それでいい?」 「っふ、ううう、っ……んっう、……うんっ……」 「うん……苦しくしてごめんな……もう、……二度としないから……」  びしゃびしゃに濡れた顔中を慰める様にたくさん唇をくつけて、まるでこれが終わったらもう二度と会えない、死んだ人間を見送る様な気持ちで環は力いっぱい壮五を抱きしめそして手放した。  これでもう壮五は自分の愛を受け止める必要はない。重たすぎたんだ。好き過ぎたからいけない。  壊しちゃうぐらいなら、やっぱり愛なんて乗せなければよかった。  ごめんな。そーちゃん。  酷く浅い眠りに目を開けると行ったことも見たことも無かったが環はまるで地獄を徘徊してきたかのような気分だった。  じりじりどころか内側からサメがかじっているんじゃないかと思う程のみぞおち辺りの激しい痛みに身を捩る。  最近特にひどくなっている気がする。胃薬なんて苦くてまずくて飲みたくはなかったが痛みが和らぐのでどうしても堪えられないときはこっそり飲んだりしている。  気を紛らわそうとスマートフォンを手に取り「そーちゃん」のトークルームを開いた。 「……」  壮五と別れてから性的な触れ合い以外は割かし普通にしてくれるようになるまで、それほど時間はかからなかった。  というか、環が全部そう仕向けたのである。  別れた次の日、環はもう精一杯、渾身の精神力をもって壮五におはようと挨拶をした。  思い切って見た顔は瞼が少しむくんではいたものの目の下にくっきりとあった濃い隈はいくらか良くなっているように思えてほっとしたのを覚えている。  壮五はそれこそ少し傷ついたような、それでいて安心したような情けない顔で俯くと小さくおはようと返してくれた。 「飯くった? 顔色よくねーぞ」 「……食べたよ。……環くんは……?」 「寝坊しちったからパン買ってきた。今から、食う。そーちゃんも食う?」 「……ふふ、食べたってば……」  切なそうに笑った壮五がそれでも笑ってくれたことが嬉しくて環も泣きそうになった。  同時に、環はこの時あたりから「胃が痛い」だなんて思い始めた。  何せ自分達がメッゾである限り壮五の隣は環が埋めてやるしかなくて、例えば別れたから、嫌われたから、嫌いになったから、或いは好きだから、大事だから、そんな理由で退くことなんて許されなかった。  何が何でも続けなければいけないのなら、せめて壮五にとってのメッゾまでもが苦痛になってしまわないようにと元あった形ととても良く似ているのにまるで全く真新しいメッゾの形へと環が先に踏み出した。 「ちょっとは苦しいの良くなった?」 「…………。うん……ごめんね」 「ん、ならいーよ」 「……ありがとう」 「あのさ」 「……うん?」 「メッゾ、……がんばろうな」  我ながらよくそんなことが言えたと思う。  けれど環がこの時がんばろうと言えたのは壮五との間にあるのがもうたったメッゾしか無くなってしまっていることに気がついてしまったからだ。  これまでずっと二人の間に確かにあったはずの友達とか兄弟とか親愛とか友愛とか、それらが全部愛に含まれていたためにそれが壊れた今はたった一つ「相方」という関係でしか二人が繋がっていないと気がついたのだ。  環にとってそれはとても、とてもとても辛くて悲しくてそれこそ大声をあげて泣きだしたいほどの衝動だったのだけれど「相方」を選んだ壮五を間違いなく愛していたから壮五のメッゾを、メッゾだけは壊してやりたくなかった。  メッゾがあるから壮五が離れずにいてくれるなら、自分はそれで我慢したかった。元はと言えば自分が欲張りすぎてしまったせいで壮五との愛が壊れたのに違いないと環は思っていたから。  こうしてぎこちなくだが再開した真新しいメッゾはこれまでとはやはりどこか違うのだけれど、その距離感にもお互いの我儘にも半年も経てば慣れ成り立っていくのだから不思議だった。  壮五はどうかしらないが環はその間も一人必死に壮五との「相方」という造形を整えていたのだったがそんなことをしている間に壮五は突拍子もなく次のステージに進んでいた。  つまり、壮五が環に執拗に「女性との未来」を強いる言動をはじめたのはこの辺りからだ。  正直それどころじゃないのに誰かと愛をはじめたらどうかと壮五はそんなことばかり口にした。  当然、壮五のことが大好きで苛烈に愛している環にとってそれらの言葉は全てストレスでどんどん心に蓄積し胃の中をうろうろしていたサメはいつしか四六時中環のことをかじるようになっていった。  環の決死の努力の甲斐あって遊びに誘ってくれたり、飲みにも二人で行ったりと別れてからも壮五とはメッゾというお互いの枠組みの共通部分の上でとても良好な関係だった。  自分でそれを作り上げた環にとってそれは唯一の救いでもあったし同時にとても息苦しいのも本音なのだ。 「……うー……」  喉からせり上がる酸の味を不快に思いながら直近の壮五との会話を眺めているとスキャンダルを解禁した自分の気持ちに殊更ついていけなくてつらくなる。  壮五の為なら何でも出来るはずの自分。あの時まさしく壮五の為に将来を創ろうとしたというのにどうして上手く出来なかったのだろう。  無駄だと分かっていても環は壮五が消してしまったたくさんのアルバムがまた見たくなる。祈る気持ちでとんとタップしてみるも「このアルバムは存在しません」とエラーメッセージばかりが表示され今日もまた当たり前に閲覧は拒否されてしまった。  そんな毎日の大半がメッゾとしての露出である今は、壮五といない時間が週に少しでもあるというだけで呼吸の八割が楽になる。  例えば楽屋にいるのが一諸悪の根源である大和であったとしてもだ。  悪びれなくしつこく特集してくる週刊誌をめくりながら大和はどんな子だったんだ? と口を開いた。 「おれら、見た事ないよな?」 「は?」 「未だにバラエティであんなに喋り辛そうにしてる原因だよ。マネージャーも心配してるぞ。元気がないとからしくないとかさ」 「……。てか、そう思うんならわざわざ楽屋で話題にすんなよな」 「タマにしちゃ、上手く隠れて会ってたんだなって本気度は感じるよ。本当に終わったのか?」 「はあ。だから、言ってんじゃん、重かったの。でも今も仲良しだからへーきです」 「テレビ用じゃなくてさ」  大和のこういう見当違いの深入りは上手く避けられない環にとって拷問に大差ないやり取りだ。  これ以上会話がしたくなくてすぐにスマートフォンに逃げる。  最近は未読の件数がとんでもないことになっているトークルームを一件ずつ消していくという地味な作業がすこぶる暇つぶしにちょうど良かった。  トーク履歴を削除すると相手にも通知がいく仕様なので、よほどのことが無い限りルームごと非表示にしていくのが常だが件の女優とのトークルームは問答無用で削除した。  三秒ぐらいで「なんで消すの(怒)」とメッセージが飛んできてこいつも大概暇だな、と呆れてしまった。 「ソウに聞いても珍しく何も言わないし。まさかお前さん達の痴話喧嘩なわけじゃないよな?」 「何も言わないって何聞いたん」 「何ってそりゃタマがここまでガチへこみしてる理由だろ」  余計なことばっかりする、と項垂れた環は小さくゆーうつ……と漏らす。 「え、やっぱソウも関係してんの? もしかして三角関係してソウに寝とられたとか?」 「はあ……。ヤマさんっていっつも幸せそうなアタマしてて羨ましい」 「どういう意味……。まあ冗談だけど。映画みたいにソウがタマの事好き過ぎて人生狂わせた的な展開だったら面白かったのになー。そうなったらタマはソウをめった刺しにしなきゃいけないな」 「……何がおもしれーんだよ……。ヤマさんほんと趣味最悪。おれあの映画大っきらいだからやめて」  ぶる、と手元のスマートフォンが震えたので今度は誰からの通知かと視線を落とすと「そーちゃん」のトークルームが表示されていた。  環はきゅっと心臓が痛くなりすぐに血流がはやくなる。勿論、悪い意味でだ。  微妙な間をおいてからそっとトークルームをタップする。  新しいスケジュール見ました。  今週末、何もなかったら飲みに行かない?  ほっとした。最近はご無沙汰だった壮五とのさしのみの誘いは純粋に嬉しかった。  束の間、ぱっと潤った心のまま環はすぐに「いーよ」と返事をする。 「なんだ? 急ににやにやして。元カノか?」 「…………。ちげーし」 「怪しいなー。まあ、元気出そうな連絡ならよかったじゃん。嬉しそうで何よりだ」 「嬉しそうに見える?」 「見えるよ。さっきまでより全然」  冷たかった指先がふんわりと熱を帯びた気がして環は壮五と二人きりで会えるのが嬉しいという気持ちを率直に受け入れることにする。  一緒にいるのがただただ苦痛なだけでは到底やっていけるはずもなく今環がメッゾを続けていく為の動力はこうした小さな壮五との愛をいくつも糧にして生まれている。  ほんの小さなマッチの灯みたいな幸福であるがこれがあるのとないのとでは全然違う。  とはいえ、壮五の隣で壮五の為にメッゾを続ける理由なんて「好きだから」以外に思いつかない環にとってそれが許されない今のメッゾは。 「はあーあ。ヤマさん、メッゾ超超超仲良いってつぶやいて」 「はあ……?」 「いま」 「今あ? まあいいけど……。本当に何かあったんならおれじゃなくてもいいから早目に相談しろよ? お前ら拗らせるとまじでめんどくさいんだから……」  とっくの昔に苦痛でしかなくなっているかもなんてまさか誰にも言えやしない。  十周年の記念ライブのオフショットと共に「メッゾは超、超、超、仲良し!」と大和のアカウントがそう言った。  環は肩を組んだ楽しげな二人の笑顔にそっとお気に入りをタップするもなんだか深いため息が出てしまったのだった。  週末はすぐにやってきた。  記事が出てからはひと月ほども経っていたが未だ渦中の環のラビチャには忙しなく通知ばかりが届く。  ひっきりなしにある誰からの誘いにもまるで応じない環を見兼ねて誘ってくれたのと思うが壮五と二人だけでベルジャンに来るのも大分久しぶりだった。  胃の調子が悪いのは相変わらずで、せっかくの生ビールもグラスで一度頼んだきり半分も進まない。  横目にした壮五がギムレットを舐めながら心配そうに調子悪い? と零した。 「ん。なんかやっぱ胃が痛い」 「大丈夫……? 長いこと言ってるよね。病院には行ったの?」 「そんな大袈裟じゃないし。気にしないでいーよ。てかスゲー久しぶりだな、ベルジャン。酔っても自分ち帰れよ」  冗談めかしてそう言うと、壮五も苦笑して酔うまでは飲まないよ、と肩を竦めた。 「どうして誰の誘いも受けない? あれから女優さんとの話も聞かないけど何かあった?」 「……別に。誰と飲み行くのも面倒だよ正直。つまんねーし」 「え……ああ……そうなのか……」 「いや、そーちゃんとの話じゃないよ、そう思ったら来ないだろフツー」 「ふふ。分かってるけど。ごめんね」 「おれにはおれのペースが、ある。そーちゃんこそ誰かいねーの? まあ、おれのこと逃したんだからもう一生結婚なんて無理か。ざまあ」 「あはは。……僕には無理だよ。今更だけど、女性にも結婚にも興味ないから」  冗談めかしてどころか本気の冗談で言ったのに、環は思いもよらない壮五のその反応にびっくりして言葉に詰まった。何と言えばいいのか分からなくて咄嗟にビールを口にする。びくっと肩が揺れたのはビールだと思っていたものがハイパーめちゃくちゃ苦くてまずくて実は毒かと疑ったからだ。 「……は?」 「ああ、えーとね。女性に、はその通りで、どう言ったらいいのかな。誰かとの結婚とか愛とか未来に興味が持てないみたいだ。まあもともとあんまり持ってなかったんだけど」 「……誰か……?」 「誰か。えーと。……他人?」  環はその「誰か」の中に自分が入っているのかどうかをどうしても聞けなくてあっそう、としか返事が出来なかった。  壮五もうん、と言ったきり黙ってしまう。  緩い沈黙だが環の混乱した頭ではどう考えても二人でいたら気まずい沈黙でしかなくて話題を探そうとすればするほど「誰か」という言葉が重たくのしかかって邪魔をしてくる。  環としては別れた時に壮五があんなに泣いていたのは少なからず壮五が環に離れ難さを感じていたからだと思っていたし本当は、本心は、心の奥底では、また孤独に堪え切れなくて、いや、そうじゃなくてもいい、気まぐれになんとなくだっていいからまた壮五から始めようと言ってくれるのを今の今まで今だってじっと待ち続けていたのだ。  だから別れたその次の日から今日まで環はメッゾだけは頑張って続けてきた。頑張ったのだ。  壮五がまた求めてくれたその時にいつでも空いている両手である為に、壮五に愛されたいと逸る気持ちを精一杯出来る限り牽制し続けてきた。  全ては壮五が悲しまない為だけに環はメッゾを壮五への愛で満たしているのにそこにどっぷり浸かりながら壮五は「幸せになってね」と言っている。  全力で渾身の愛をそこに絶え間なく注いでいるんだから、他に分け与える余裕なんて環には一切あるはずが無いのに。  苦しい。苦しい、苦しい、苦しい。  環は漏れだしそうになる本音をぐっと堪えてぶれる軸を必死に保とうと努力する。 「……そーちゃんて、さ、性格悪いよな……」  壮五は口を尖らせてなんだい急に、と言ったがすぐにおかしそうに頷いた。 「そうだね。環くんは案外お人好しだからな」 「……そうなんかな」 「うん。繊細で傷つきやすいしね」 「……わかる、おれちょー繊細。すっげー傷ついてる、……いまも。誰かっておれのこと?」 「……もし、そうだって僕が言ったら傷つくだろう?」  そっと背中を撫でられてそれが一体どういうつもりなのか知れないが今の環には痛くて辛くて苦しくてどうしてこんなに痛いのに今まで平気でいられたのか分からないぐらい自分の気持ちが麻痺していたことを突如強烈に実感した。  これまで心のどこかでは出来ないとは思っていなかった女性との偽装恋愛はあの晩失敗に終わって以来正直もう無理だと思った。  〝愛のないセックス〟なんていくらでも出来ると思っていたのに出来なかった。壮五の為なら本当に何でも我慢出来る、してしまえる気がしていた自分のことを環は今初めて怖いと思えた。  別れた日に壮五を思うあまり口に出来なかったのは当然のことながら「別れたくない」ということ、それともうひとつ、「別れても誰も選べないかもしれない」ということだった。  つまり誰との未来であろうが壮五以外の人間とのことをもう構築できないかもしれない、別れても他の誰かとの未来を例え最愛の壮五の望みであったとしても自分にはもう叶えてあげられないかもしれないということ。  あの時別れたくないと言えなかった自分が本当に恐れたのは壮五の理想通りの自分でいられなくなってしまうかもしれないということだった。  その瞬間から環の気持ちは一秒だって進んでいない。  ひどい傷口だけがじくじくと膿んでしまって壮五との熟れた愛には蛆が湧いた。やがて産まれた無数の蠅は壮五の声でたくさんの愛の記憶を叫んでいたがその全て、嬉しかったことや楽しかったこと、勿論悲しかったことも辛かったことだって壮五との思い出だから大事に出来た。壮五とのものだったからこそ腐ったってうるさくたって大事に大事に出来るのに。  それを誰かにすりかえるなんて簡単に出来るはずがないのに。  環は急に何もかもが堪え切れなくなってサメの巣食うみぞおちを無意識に抑えた。 「あのさ」 「……うん」 「メッゾ、おれ……」 「メッゾ?」 「つらい、かも」  驚いた顔で壮五がこちらを見ているのは分かったが、ここで目を合わせてしまったら何もかもが終わる様な気がして環は手元のグラスの泡沫から目が離せない。  きっと大好きな壮五の望む環はメッゾが辛いだなんて絶対に言ったりしない。  だって、何があったところで続けよう、と〝がんばろう〟だなんて言ったのは環なのだもの。 「メッゾ……が、つらい……?」  とうとうこちらに身体を向け身を乗り出して壮五がそう言ったのを聞いて環は強くかぶりを振る。  外れかけたストッパーだが今ならまだ無かったことに出来る。誤魔化さなくては。これ以上一緒にいたら壮五もメッゾも全部ぶち壊してしまうかもしれない。せっかく上手い具合に新しいメッゾをやってきたのにこれでは意味がない。 「帰る」 「環くん」 「調子悪い、でも、……寝たら治る、あしたは、へーき」  息が乱れた。まるで言い聞かせた言葉を胸に環は財布から札を出して置くと足早に店を出た。  ドアの閉まった音のすぐあと、今は来て欲しくないのに壮五が「環くん!」と飛び出してくるのが聞こえる。  信号で足止めを食らって舌打ちをした環の心が良いと悪いの狭間で揺れる。  本当は聞いてほしい。でもやっぱり言いたくない。言いたくない、分かって欲しい。知って欲しい。壮五が傷つくから言いたくないのに自分だってこんなにめちゃくちゃ傷ついている。  全部、壮五の言葉で。 「たまきくんっ」 「くんなよ」 「待って……、メッゾが辛いって話、やめたらいけないよ、話そう!」 「もういい。今日は無理、寝たら治るから、ほっといてほしい」  信号が変わった横断歩道は大股十歩ぐらいで渡りきった気がする。壮五は最早走っていてマンションまでの道を横につけながら必死にたまきくんたまきくんと呼びかけ続けている。  確かに泣きそうな気持ちなのになぜだか目が潤わないのは疲れているからだと環は思った。  泣くのだって体力が要る。動力であるはずの壮五への愛はいつだって満タンに詰めてきたはずなのにたくさん零しながら一年も過ごしてきてしまったものだからいつガス欠になったっておかしくはないのだ。  そもそもとっくの昔に燃料なんて切れていたのかもしれない。補充の方法が分からないから壊れながらものろのろ走ってきたただそれだけ。きっとそうだ。壊れたくるま。給油タンクのおっきな穴。オーバーヒート。エンジンは動かないまま熱をもって燻ぶり続けている。寝たら治る? 本当に? 「はあッ……環く、ごめん……、入れてねッ……」 「いやだっ……! 帰れよ!」  玄関の扉が閉まる寸手で壮五は自らの身体を無理矢理隙間にねじこむものだからガン、と大きく衝撃音が廊下に響いた。一瞬躊躇したが部屋にはどうしても入れたくなくて壮五を挟んだまま環は玄関でうろたえる。 「っ……わかった……ここでいいから、話ちゃんとしよう、メッゾつらいのはどうして、理由を教えてくれるか」 「そんなんずりーだろ、おれが何で別れんのか聞いた時ちゃんと言ってくんなかったの根に持ってんだかんな、おしえない、帰れ」 「それとこれとは別だから、同じベクトルで話をしないで! メッゾは付き合ってた事とは関係ないだろう?」 「っああそーかよ! だからもういいって! おれが悪かったよ、メッゾは続ける、続ける以外ないだろ、んなのおれがやめられるわけないって分かってるくせにいちいち不安そうな顔すんなっ……」  扉に挟まれながらもふと黙った壮五から伸びた手が環のシャツの襟元を掴んだ。  低い声で睨まれて一瞬怯む。けれどすぐに壮五の目から静かに涙が流れたのを見て環はああまた自分が壮五を苦しめてしまっているのかと息が詰まる。 「やめたいのか」 「……っ……」 「どうして言ってくれないんだ、十年も、今だって相方じゃないか」 「……なんで、そこであんたが泣くんだよ、泣きたいのは……」 「泣いてない、君の代わりに怒ってるんだ……! 約束したじゃないか、愛とかメッゾとか、そんなことあの頃関係なかっただろ、ずっと見てる、言われなくたってちゃんと見てる! 今もだよ! 君だって見てくれてるじゃないか、僕が泣きたいから、今君が泣いてくれてるんだろ……!」  壮五の真っ直ぐな眼差しが今の環には眩し過ぎて堪え切れずにドアノブから手が離れた。  今までたくさん我慢してきた壮五への愛が目から鼻から喉から次々に漏れ出てきてしまう。  それをどうにか押しとどめたくて手の平で口元を覆うのに堪えた分だけ余計にしゃくりあがってしまった。  そのまま玄関にへたりこむ環は震える背中に触れてくれた壮五の手の平の熱があんまりにも恋しくて切ないものだから何が辛くて何に傷ついてそこまでしてどうして壮五を好きでいたかったのかをありのまま吐露するのをどうしても止める事が出来ないのだった。  *     **   その瞬間、扉から手を離して崩れ落ちた環を抱きしめて激しく泣きじゃくる背中を壮五は力強くさすった。  一年前、何も言わずにこの身を解放してくれた環がその一年をかけてこんなにぼろぼろになっていただなんて思ってもいなかった。  結局は優しさだか愛だかそれらにかこつけて散々甘えさせてもらっていただけだったんだと今更ながらに全部が環の包容力でしかなかったことを思い知った。  あの時壮五は自分の感情に精一杯で環の気持ちなど微塵も考える余裕がなかったのは事実だ。環だって当然、傷ついていたに決まっているのに。 「ごめんね。何もかも一方的で我儘ばっかりで。あの時環くんが黙って許してくれたから、僕は今君の隣にいられるよ。君が守ってくれたメッゾでいられるんだ。なのに、環くんがメッゾ辛いのはどうして……。聞かせて欲しいよ……」  ぶるぶる震えながらしゃくりあげる環は首を何度も横に振った。  喋ったら楽になるに決まっているのに壮五を傷つけまいとして自分の気持ちを未だ吐き出せずにいる。苦しそうなのが可哀想で涙でびしゃびしゃの頬を親指で優しく何度も拭ってやる。  それでも頑なに開かないその口にずるいのは承知のうえで、一年ぶりにそっと唇をくつける。 「…………大丈夫だよ。傷つけられても、君を責めたりしないから……」  ぐらぐらに葛藤する環の弱い部分が甘くて優しくてとてもやわらかいのを知っている狡猾な壮五だから辛抱強くそこだけをゆっくり撫で続ける。 「っ……う、……い、言いたくない……、言いたくないけどッ我慢、もう、できない、」  撫でる手は止めずにうん、と肯定してやると環は俯いて震えたままぐしゃぐしゃな声で狂った愛のことをやっと吐きだした。 「……っもう、そーちゃんといたくない、だって、だってアンタずるいんだもん、おれがそーちゃんのこと好きじゃなくなっても、メッゾって続く? 続けられる? そーちゃんからメッゾ奪いたくないけど、おれもう、もう……」 「つらい、しんどい……せめて誰も好きになれなくっても、責めないでてほしい、そこにそーちゃんが責任感じる必要ないからっ、おれがそーちゃんを好きでいるの、許しててほしい、好きだよ、ずっと大好き、一生愛してる、だから、だから、そーちゃんのお願いなら、何でも叶えてあげたい、あげたかったんだよ」 「か、なえて、あげられなくて、ごめんなさい、そーちゃんのことが、いちばんすき、なのにっ……」  熟した感情の塊はまるで膿の様な不純物。追い出す事も適わないままこんなにも腐った愛情を大事に大事に抱えていたのだから胃だってそりゃあ痛くなる。  声をあげて子供みたいに泣きだす環を抱きしめながら壮五はたった今、環と出会って十一年、その中で本当に初めて、ようやくというべきか環への、否、他人への「愛情」をはっきりと自覚していた。  そもそも、三年前のあの日を境に環から惜しげなく与えられ始めた無条件の愛情は壮五にとって空気や水と同じように自分の生命維持に必要不可欠であるべきものの一つとなった。当たり前の様にそこにあり、求めたら返してくれるしまた、求められたら返しているつもりでもあった。  けれどもそれは付き合い始めてからのことであり、だから自分達のメッゾというのは三年前から環と自分の愛が半分ずつ乗っかったうえで成り立っているのだと割と真剣に壮五は思い込んでいた。  しかし実際メッゾとは環の壮五へ向けた十年の重たい愛である。  それが分かっていなかった壮五はひょんなことから環が壮五を壮五が環を愛の対象として認め合いメッゾに愛などのっけてしまったことで環の未来は強く制限されているのではないかと突如怖くなった。  関係を終わらせる口実として十年の節目はいい機会だと思ったし区切り的にもぴったりだとこれは最善の選択なのだとあの時壮五は本気で思っていた。  誤算としてはあそこで環が駆け付けてくるだなんて思ってもみなかったことだ。  一方的な感情でそうしたのは自分が悪いと思っていたのでおこがましく未練を垂れ流すつもりなど全く無かったのに、環がとても辛そうに泣いているものだから、ああ、自分はあんなに悲しいんだと思ったところで壮五の感情の堰が切れた。  最もその時点では環への愛など微塵も自覚していなかった。愛を拒絶する罪悪感とか、そうでなくても環は自分との未来では幸せになれないのにだとか、抱えてきたマイノリティなイメージへの苦しさからくるものだったと今ならば分かる。 「ごめんね……」  それこそあの日の壮五の様にひどい過呼吸でまともに息ができていない環を宥めながらその深く重たいそれでいて柵のない透明な愛情についてを壮五は心から尊敬した。 「うっ、っっ……ひ、っぐ、う、っす、きっ……ごめ、っなさっ……」 「……苦しくなっちゃうよ……吐く前に息ちょっと止めてごらん……出来る……?」 「んっ……う、……そお、ちゃ、んっ……」 「うん」  努めて冷静にしがみついたまま離れない環の両手をほぐしてやると苦しそうな呼吸が徐々に和らぐまでゆっくり背中をさする。 「……っ……ふ、は、はあ、……っ……」 「少し落ち着いたかな。ごめんね泣かせてしまって。ゆっくり話そう。あがってもいい? 水持ってくるよ」  壮五はそう言って一年ぶりに環の冷蔵庫の前まで行けばぐずぐずの鼻声が何故か急に焦った。 「……あ……う……そーちゃん……」 「ん?」 「……冷蔵庫……やばいから、あけんな……」  手はかけつつも何とかまだ開ける前だったが真顔になった壮五が冷蔵庫と環とを一瞥してから意を決して、開けた。 「あ、くさ!!!!!!」 「っいやっ……まっ……う、ばかあっ! あけんなっていったじゃん!」 「え……? ちょっと待ってこれ何の匂いなのか……熟成してる気がする……」 「じっくり嗅ぐな! 変態か!」  泣きながら俊敏に駆け寄ってその魔界への扉を急いで閉めた環が一帯に漂ってしまった残り香にうえ、とえづいた。  壮五は大袈裟にため息を吐いてコートを脱ぐととりあえずマスクとゴミ袋を環に要求したのだった。  (メロウドーパー・裏)  約一年ぶりの環の部屋とベッドは匂いも軋みも記憶のまんまで、壮五はわけも無く心が綻んだ。  どういうつもりも無かったけれど多分そういう風に出来ている。人間など皆よくよく躾されたパブロフの犬だ。 「……しないかんね」 「何を?」 「……セックス……」 「ああ。したいって言われても出来ないよ。僕、準備どころか一年何にもしてないし」 「……あ、そ……つか、もう平気だから帰っていいよ。しないなら別に今更おれと一緒に寝る理由なんてないじゃん」 「んー、今日は環くんが弱ってるって知ったし甘やかしてあげることに決めたからそうはいかない。はい、黙って隣に寝る!」  当然、逆らいやしない環は不服そうな顔をしながらも綺麗に整えられたベッドに大人しく寝そべった。  毛羽立った毛布を必死に抱きしめて抵抗した環にはほとほと呆れたが二週間ぐらい(も怪しい。半年程と見た)かえていなかったという寝具は先程壮五がまとめて全部洗濯機にぶちこんだ。  〝やばい冷蔵庫〟の中身も綺麗に掃除しついでに賞味期限の切れた調味料をガンガン捨てたらほぼ中身が空になってしまったのにはさすがに呆れた。  冬だからまだいいが夏だったら一体どうするつもりだったのだろう。ジュースだってプリンだって冷やせないだろうに。  隣に横たわる横着な環の自堕落っぷりには心底呆れたが緊張しているのか何も喋らないでいるのはちょっとおかしかった。 「勘違いしないでね。恋人としてここに寝てるんじゃないからな」 「……おー……じゃなんのつもりなん」 「強いて言うなら兄弟かな。僕のことは今兄だと思って」 「……いや、ちょっと無理……」  半分冗談だがもう半分は本気だ。  環の苦しいを受け止めた時にやっと間違いなく己の中心に環への確固たる「愛」が生まれたのを自覚した壮五は一年前の気が狂う様な不安のことをようやく環と正面きって話す覚悟が出来た。  もちろん、今の環の何もかもを受け入れる覚悟、という意味でもだ。  我ながら環のたゆまぬ愛が無ければ全く成り立たなかったこの整理期間が優に約三百六十五日にも及んでしまったことについては海より深く反省している。  環をめちゃくちゃに傷つけたのは事実だが、何せ我儘だし自分勝手でツラの皮が厚いのは従来から環に許してもらっていた部分だ。今更怖がってもいられない。  壮五は環の隣で同じようにベッドに横たわると、苦しくてどうしようもなかった環からの愛情を思い出しながらあの時抱えていられなかった全部の気持ちの事を話し始めた。 「……環くんがね」 「ん?」 「いいお父さんになるって話を、皆がしてたんだ」 「…………」  今でもレギュラー出演の一つとして続いている某バラエティ番組がある。  番組内での環の持ち企画である施設を訪問するコーナーは持ち前の気持ちのおおらかさと感情の機微に鋭い心の聡さがよりフォーカスされるシーンが多く毎週じんとくる内容だった。  育った環境が同じである環にはそこにいる子供達の複雑な苦悩をとても上手く理解してあげられたし遊具の修繕などの作業回、ダンスを教える講習回、どの回にもそれなりに様々な問題や困難があったがその都度環は独特の目線で環なりの解決法をしていった。  大人と子供、両方の目線を未だに上手く併せもつ環は子供達にとっての良き理解者であったしまた、友達であり、兄弟であり、そしてまるで父親のようだった。  だからそれは壮五だってそう思った。  環がお父さんだったら。環はいいパパになる、きっと楽しい家庭になる、子供が出来たら愛情いっぱいの父親になる、SNSに溢れたそんな勝手なイメージは勝手なくせにその通りでしかなくて壮五にはまるで自分との関係を詰られているように思えてしまった。  こんなことは愛をのせる前なら思うはずがなかった。いいお父さんになるよね、そう素直に言えたはずだった。  だけど番組を見るその度に、今環の将来を制限しているのは事実紛れも無く壮五であったしそう意識してからは番組自体見るのが苦しくなった。  きっかけはそこだった。何とも些細だったかもしれないが壮五にとってはとても大きなつまずきで環との恋人関係が良好であればあるほど罪悪感に溺れ上手く笑えなくなった。  勿論、環は壮五が常から女性との身体の違いや出来ること出来ないこと、そんなわけの分からないことをいつまで経っても気にしているのを分かってくれていたので十分過ぎる程に「男の壮五を選んで愛している」のだとずっと伝え続けてくれた。  分かっていた。分かっていたのだけれど一旦苦しく感じた関係にはそれすらも重たくなっていってしまうのだから仕方がない。  三年より前なら確実に環は女性との関係をたくさん持っていた。  だけど三年前、あの日から、語弊を恐れずに言うとすると環が自分のことをこんなにも愛の対象として好きになってしまった、或いはさせてしまったからこれからも壮五が環にとって絶対的な愛の対象である限り環の人生の可能性が他に広がることなどもう一生無いのだとそう思った。  付き合ってからは、他を向いて欲しくない、環にずっと選んでいて欲しい、例え出来る人に比べて何が出来なくても、何を望めない身体でも、そう思うことはものすごくたくさんあった。  しかし、そんな嫉妬心とは裏腹に自覚など無くとも壮五は自分自身も環を心から愛していてその幸福を常に願っていたからこそ自分との関係を強制していることに臆病になり環が選ぶ余地を与えられない自分であることにとてつもなく苦悩した。  壮五はこの時、自分が環との許されるはずのない愛のきっかけを作ってしまったが故に環は自分以外のことを好きになれなくなってしまったのだと、そう思った。 「僕もそう思ったんだ。環くんの子供は幸せだろうなって」 「……別にいらないって言ってるじゃん、めっちゃ言ったこれ。耳にたこできるぐらい言ったよ」 「そうだよね。僕も何度も不安になった」 「それに、欲しいなら手段なんていくらでもあるって言ったろ」 「うん。それもたくさん聞いた。でも、不安だったんだ」  しばらくは離れる勇気が出ないままずるずると日々を過ごしたが、壮五は環との不毛なセックスにもやがて罪悪感を覚えはじめた。  身体はこれまでの愛の履歴をちゃんと覚えているので気持ちがついていかないままでも十分快感だった。たった三年しかない身体の関係なのに苦しいまま抱かれるのも、辛いのに満たされてしまうのも大好きなのに愛が怖くて環のがんじがらめの重たい愛情を受け入れる度に嬉しくて辛くて悲しくて愛されたくて気が狂いそうに嫌だった。  ただ、壮五には環とのメッゾがあった。 「環くんは、メッゾって僕?」 「……え?」 「どう言ったらいいかな。環くんにとってメッゾっていうのは、僕、つまり……逢坂壮五?」 「え? ん、わかんない、言ってる意味……」 「僕はね、環くんがメッゾだったんだよ」 「…………」  環と歩んだメッゾというのは十年にも及ぶ長い長い時間そのものだったが、その間のたった三年、されど三年もの間環との愛を大事なメッゾに乗せてしまっていたのだということにも壮五は絶望し始めた。  正確に言えば十年の環の愛がこっそり乗っていたわけだがその環の愛にはまるで気がついていなかった壮五にとってメッゾは環と過ごした大事な時間であり、環との愛とは別ものだったからだ。  だから環が仮に自分を愛の対象から外してしまってもメッゾをやめないでいるのならば壮五との間に環とのメッゾは残る。イコール、環との関係はメッゾがある限り一生消えたりしなくて、それが例えば三年ぽっちの愛を失ったとしても同じ、そういう考えだった。  即ち、こんなにも苦しい環との愛を捨てても環は自分とメッゾでいる限り側にいてくれて、これから環が他の誰かとの全うな愛を選んでも壮五の感情で恨んだり悲しんだりしない代わりに「メッゾ」があれば自分達にはそれで十分なんじゃないかと、そう思わせてあげたくなった。否、自分自身が思いたかったのかもしれない。  だから、環という人間がこのまま壮五を愛してくれている限り、恐らく一生死ぬまでだってたったちっぽけな何も持たない自分だけを見ていてくれるという恐怖、プレッシャーからとにかく一秒でもはやく解放されたかっただけの壮五は自らの欲深い愛情には蓋をして環に全うな幸福を選ばせるというしたくもない選択をした。  自分の弱さを環の幸福のせいにして環との愛という恐怖から逃げだしたのだった。 「君があんまり僕しかみないから、僕そのプレッシャーにたえられなかった」 「重かった……? ごめんな……」 「だから、僕が環くんのことを捨てることができたら、環くんも僕のこと捨ててくれるんじゃないかなって思ったんだ」 「…………捨てて欲しかったん」 「その時は。環くんの中から僕って選択肢を無くしてあげたかった。君ってすごく優しいから、君が僕のことを捨てたくなっても僕が君を捨てられない限り、ずっと捨てないでいてくれるだろう」 「えー、んー、まずもってそーちゃんを捨てる選択肢がないからわからん。アンタが捨ててもおれは捨てられなかったから今もメッゾしてる、ってことでいい?」 「……そうだよね。そういうことなんだよね」  あの晩、泣きながら支離滅裂なことを喚く壮五のことを環が何も言わずに全部まるっとそのまま許してくれたこと。その広さこそが環そのものの愛情の姿だったのだと、今ならば痛いほどよく分かる。  そして、環の愛情がなんたるかを微塵も理解していなかった壮五は何もかもが限界で環との関係も思い出も全部全部抱えられなくなって全てを手放したそこで初めて環の愛が一体何であるかを考える余白が出来たのだ。  同時に皮肉にも環がメッゾなのではなくて環の愛情が壮五の大好きなメッゾだったのだとようやく気がついたのだった。  今更かと思うかもしれないが、今まで環が好きで居続けてくれたからメッゾがあり、壮五自身も疑うことなく環のこともメッゾのことも好きでいられたのだということが分かった。分かってしまった。  全てを捨てた後にようやく理解出来たのだ。  だから、別れた次の日に環が平然とメッゾとして隣に立って笑ってくれた時、 「僕、別れた次の日初めて君の事が好きだって気がついたんだ」 「お、え……おそ、……お……おそくねえ……?」 「ふふ、遅いね。君があんまり愛してくれるから僕が本当に環くんを愛する覚悟があるのかどうかなんて考えたことがなかったんだよ」 「じゃなにか、今まで雰囲気でつきあってたってことお……? 三年も? キチガイじゃん……」 「うるさいな……」  その変わらずに向けられた環の深い愛情に壮五は心の底から恋に落ちてしまった。  あんなに傷つけたのに、自分勝手で一方的な思いをぶつけて環からの愛即ちメッゾを拒絶した壮五のことを黙ったまま笑って受け入れてくれたその姿に一瞬で恋をしてしまったのだ。  一から始められるなら壮五は環に必死になってアプローチをするところだが、何せ一どころか百を知りそれでいて自ら望んで投げ捨てた自分にそんな権利はちょびっとだってないことぐらいさすがに分かる。  だからただ一心に、これ以上環が自分に振り回されてしまわないようにひたすら彼が「幸福」を上手く選ぶよう祈るしか無かった。 「もしかしてあれからセックスしてないのか?」 「……してない」 「……一度も?」 「うん」 「……うそつき……」 「……すんません……」  環のずるいところ、或いは凄いところというべきか、別れてから半年ほど経った頃実にあっけらかんと「寝たよ」などと嘯けるところだと思った。  確かにそれは壮五が思っていた環と少しのズレも無い環の姿ではあったがあれがまさか嘘だなんて壮五は微塵も思っていなかった。  別れたいと願えば軽々と恋人同士という枠組みを超えて新しいのに居心地のいいメッゾを創ってくれた環は、壮五から見たらとても簡単そうに女性との関係の構築を始めたように見えていた。  だからいつか、環は当たり前みたいに壮五の願った幸福を叶えてくれるのだと、メッゾと環との愛とはこのまま関連しないことになっていくのだと思えたのだ。  実際は壮五が願った環の姿を敏感に察して一生懸命ハリボテしていたに過ぎなかったのに壮五は環が本気でメッゾと愛を分けていられる人間なのだとそう思ってしまった。  だから見せてくれたどの愛もやはり軽薄に思えたし差し出がましいとは思っても確かめられずにはいられなかった。その軽薄さの中身が嘘だったというならそれも納得出来る。  けれど、嘘だとは思っていなかったからこそ幾度も環の本気度を窺って幸福の権利を与える女性にふさわしいのかどうか、環のことを自分以上に傷つけてしまう人間なんかじゃないか、いつの間にかそんな目的で「誰かいい人は」と執拗に問うたのは最早自覚に足ること。  最低だった。それを分かっていながら壮五がどっちつかずの気持ちで居たって絶対に隣には環がいてくれるということが当たり前だとも思っていたのだから。 「ごめんね」 「ん?」 「辛かっただろう」 「……まあ、すげー辛かった。でも、おれマジでEDなったんかも」 「どうして?」 「……いま、そーちゃんが隣いても、あんま、嬉しく……ないんかな、……触りたいとか思わない。セックスとかもう全然出来る気しない。明日も、たぶん明後日も、……嫌いになっちゃったんかな」 「僕のこと?」 「……うん……」  頼りなく心底不安気にそう言った環の方を見ると、天井を見詰めたままゆっくりと呼吸していた。  環が壮五への愛を本当にやめてしまったら壮五のメッゾは無いも同然。それがやめられなくて環はしんどかったのだから環が壮五を嫌いになることはそう簡単にはいかないことのように思う。  だからせめて環の愛を壮五のメッゾの為に強制するのは今日でおしまいにする。別れても変わらずに、メッゾがしんどくなってしまうまで側に居続けてくれたことが環の愛でしかなかったのなら壮五がいくら環のことを嫌いになったと嘘をついても何の意味も無い。  環はきっと一生自分を好きでいてくれる。  だからこれからは壮五のメッゾの為にではなく、壮五の為に愛を注いでもらうことを改めて逃げずに受け止めないといけない。  そして「メッゾとして側にいて欲しい」は環の愛で側にいて欲しいとイコールなのだと自分自身が自覚しないといけなかった。 「ねえ環くん」 「ん?」 「頭撫でてもいい?」 「えー……」 「嫌?」 「……別にいいけどさ……」  口を尖らせて照れた環の髪の毛にそっと触れ優しくさするとさらさらであたたかくてとても愛おしくなる。  愛する覚悟をやっとこ持った壮五にとっては例えこのまま環が自分のことを嫌いになってしまっても他の人との未来を選んでしまってももう二度と死ぬまでこの愛情がぶれることはないと思えた。  もしかしたら本当は逆だったのかもしれない。  環が壮五を好きで居続けてくれるから、壮五は環というたった一人の兄弟で友人で家族で恋人、そして相方であるその特別な存在から逃げられないでいたのかもしれない。  だけれどそれでもいい。きっと、環以外にこんな感情を持てる人間などこの世界には存在しないのだから。 「嫌いになってもいいよ。今までずっと好きでいてくれてありがとうね」  環はそんな壮五の顔をじいっと見詰めてへんなの、と零した。 「そーちゃんとセックスしたいって思ってた七年前のおれの気持ちが全然今わかんない。しなくても好きだって言ってた三年前のおれもなんかよくわかんなくなってきた」 「そりゃ散々僕がひどいことしたんだから、愛想つかされても仕方ないとは思ってるよ」 「そーちゃんはセックスしなくてもおれのこと好きでいられる?」 「……君は? 一年しなかったから、もう僕との愛なくなっちゃった?」  壮五のその問いにはしばらく黙った環だったがやがて緩く首を振って唸った。 「無いな……。愛してるよ。じゃなきゃこうなってないよな。ちょっと今疲れただけだな。寝たら治る」  壮五はタオルケットをひっぱりあげ環の胸元までかぶせると痛がっていたみぞおちの辺りをゆっくりとさする。  一応ここで兄らしい振る舞いとして試みたつもりだったが、環は何と感じたのかそっと上下する手に自らの手を重ね目を閉じてしまった。  このまま寝かせてやりたいが壮五は環が眠る前にどうしても聞いておかなければならないことがある。  愛を続ける覚悟が出来たなら壮五にとっても環にとっても絶対にメッゾは辛くちゃいけない。 「……メッゾ、まだ辛いかな」 「……つらくないよ」 「続けていける?」 「……。続けるって言ったら、そーちゃんおれのお願い一個だけ聞いてくれる?」 「お願い? もちろん。僕に出来ることだったら……」 「結婚しよう」  思わず横を向いた壮五には目もくれず、環は変わらずに天井を向いて目を閉じたまま穏やかな呼吸を繰り返していた。  のは束の間で直後よぼよぼと目を開くと真っ青な顔で「吐きそう」と言った。数秒遅れて壮五がびっくりして起き上がる。 「っ……? なに? 吐きそうって言った????」 「う……」 「えっ、うそだろ? 吐きそうっていま? 我慢してたのか? あの長ったらしい話の中? ちょっと待って……ビニール……」 「いやもうだめむりうぐ」  突如環が起き上がったので明かりを全灯にすると青ざめて震える背中が超超超限界であることは即座に分かった。  とりあえず大量のティッシュをひっぱりだして環の口元にあてがうとくぐもった声ののち、どろ、と、 「……っ!」 「う、」  全体的に薄赤っぽい吐瀉物が軟弱なティッシュなんぞでは耐えきれずに壮五の指の間からも零れ落ちたではないか。  驚いたが壮五は咄嗟に「赤い! 何か赤っぽいもの食べたっけ……量はあまり多くはないけれど、そういえば胃が痛いって随分前から言っていた。まさか胃潰瘍?」などと光の速さで頭がフル回転しすぐに手がスマートフォンに触れた。  その間もサメががじがじとかじる胃痛に気を取られ、挙句吐いてしまった罪悪感からぼやっとしていた環がいま壮五の手と布団を汚している「赤っぽい」「生臭い」「なにか」を認識するまであと一秒。 「ぎゃあああああああああああああああああああ」 「うわうるさっ……どうした、落ち着いて! 大丈夫大丈夫、今救急車呼ぶから」 「救急車! しんでもヤダーーーッ!!!!」 「ああ、わか、分かった、叫ばないで! じゃあ万理さんに連絡してみるから病院に行こう!」 「う、っ、だめだこれ、いたすぎ、しぬ、そーちゃんどうしようたいへん……おれしんじゃうっ……オエ、げふ……」 「っしなないしなない! まだ吐く? ちょっと待ってね」  その後壮五が電話をしている間に急に大人しくなったと思ったら蹲ったまま石の様になって動かなくなってしまったので慌てて深夜救急に駆け込んだのが昨晩のこと。  翌日の精密検査での診断結果は重度の胃炎だった。今は点滴からの鎮痛剤で症状を和らげているそうで短期間の入院を勧められたとのこと。  それを聞いた壮五は病室で入院いやいやと泣きじゃくる環をありありと想像しながら心配の余り一睡も出来ないまま大変長い一晩を過ごしたのだった。  待ち合わせていた万理と合流し撮影前に少しだけ病院に立ち寄ったが面会は当然出来そうにない。 「いやーーそれにしても環君がストレス性の病気にかかるなんてびっくりしたよ。紡さんは週刊誌のことじゃないかって言っていたけど今までの記事の方が数倍ひどいこと書かれていたはずなのにねえ。壮五君は何か心あたりはある? 思い当たるふしとか」 「……いえ……」 「そうかあ。相方にも言えないなんてそれほどショックなことがやっぱりあったのかな? 血を吐いたって言ってたもんね。週刊誌の真偽は俺らでは分からないけどあの環君がメンタルをやられるぐらいだし相当悩んでいたんだろうねえ。可哀想に。その場に壮五君がいてくれて良かったよー」 「……なんとも、耳が痛い、です……」  壮五が最初に思った胃潰瘍では無かったにせよただれてひどい状態だと言われたという環のそうなった原因が百パーセント自分であることを痛烈に自覚していた壮五だけにただただ気まずい気持ちでいっぱいになった。  当然のことながら、事務所もメンバーも誰も自分達の愛の履歴など知る由も無く、実は昨年別れてお互い精神的に病んでしまっていて何もかもが積もり積もった結果が環を胃炎にしたのだなんて言えるはずもない。  昨晩駆け付けた理がそのままずっと側についていてくれたそうでそこにだけはほっと安心した。  環が病院で一晩過ごすだなんてそれこそストレス以外の何でもないだろうからついにとどめで気が狂ってもおかしくないなどと思ったら壮五だって一睡もしないで心配していたのだから。  何はともあれもっとひどいことになる前で良かった。面会もかなわないので壮五は一息つく間も無くこれから撮影の仕事へ向かう予定だ。  ふとスマートフォンを見ると、環からラビチャが届いていた。  そーちゃん  おはよう。痛みはどう?  理がそーちゃんとバンちゃんきてるって  マシ  良かった。  面会は今出来ないみたいだから、僕は仕事に行ってくるよ。  ゆっくり休んでね。  何で面会無理?  理いるよ  理ちゃんはご家族だからだろう?  また明日来るから。  いま聞いたら面会だめじゃないってよ?  ダメじゃなくても、環くんが待合室まで来なきゃだめだろう。  昨日の今日だから、まだベッドから動かない方がいいよ。  それにもう時間だし。行ってきます。  ゆきりんが言ってたやつ?  うん?  家族じゃないから  そうだね。  だから、次環くんが胃炎になるまでに役所にいかないとね。  やくしょ?  なんで  僕が君のこと、一生面倒みてあげられるようにだよ。  そ  れってけこん  まち  間違った  結婚ってこと?  結婚しようね  あれこれ思ったより恥ずかしい。文字に残すのいけない。  消したらころす  ころされる覚悟で消します  メッセージの送信を取り消しました  ふふん。  スクショとった。何回でも消せば~  トーク履歴を削除しました  あいしてる  トーク履歴を削除しました  好き  トーク履歴を削除しました  よつばそうご  トーク履歴を削除しました  ん?おうさかたまき?  トーク履歴を削除しました  もーーー。  あんたが何回捨てても消しても  おれはそーちゃんを捨ても消しもしないから  おもたくなったら安心してすてろ  消せよはずいな  おいー  さいてー  環くんがメッセージの送信を取り消しました  環くんがメッセージの送信を取り消しました  環くんがメッセージの送信を取り消しました  環くんがメッセージの送信を取り消しました  環くんがメッセージの送信を取り消しました  環くんがメッセージの送信を取り消しました  環くんがメッセージの送信を取り消しました  あはは。愛してるよ  消さんのかい  おれも  あとで指輪あげんね  いらないよ  あっそ  これだよ?いらないの?  どういうこと?  いらないんなら捨てます  捨てるぐらいなら貰うけど……  つかまずよろこべし  わーい  (怒)  環くんがトーク履歴を削除しました

EPISODE 05メロウドープショウ

*     **おまけ (メロウドープショウ)  見慣れた大きな交差点の手前で荷物を抱きかかえてそわそわしていた壮五は、一台のコンパクトカーがハザードをつけて停車したのを見計らって即座に助手席に滑り込んだ。  幸い早朝ということで交通量も少なく停車時間はものの数秒で済んだ。慌てて装着したシートベルトの具合を直しながらほっとして横を見る。 「案外車通り少なくて良かったね」 「なー。荷物後ろおける?」 「うん。あれ……道分かる? ナビ起動しないのか?」 「この辺は大丈夫っしょ。高速降りたらでよくね?」 「あ、そう……。さすが、ドライブデートが定番の環くんですな」 「根に持つなって。任せろ」  存外閑散とした首都高を南にくだらんとする今日の二人であるが本日を含めた七日間、事務所からの「ハネムーン休暇」というのをありがたく頂戴し都心から離れた温泉地に一泊としけこむ予定である。  何を隠そう今年の始めに晴れて家族相当の称号を無事に取得、つまりパートナーシップを公表したわけだったが世間からのあまりの反響の余波にここ半年間まともな休暇が無いほど熱烈な祝福を各方面から受け続けやっとこ今に至る。  公表するかしないかでまた大層派手にもめたが結果的にはこれで良かったと壮五は思えているのでなんだかんだ環のことを公的に大事に出来る約束が他人の前で誓えたというのはこの世の全てのマウントを凌駕したマウントである。ざまあみろ、環のことが好きな人類達。  とは言え、十二年のうちでまるきり仕事をしないで一週間という長期の休暇を初めて過ごすメッゾなので浮足立たないわけもない。  特に環のはしゃぎっぷりといったら心底愛らしくて今ならどんな我儘も叶えてあげられそうなぐらい壮五も幸せな気持ちの真っただ中にいた。  環にどこか行きたいところはないかと問うと、少し考えたあとそーちゃんの行きたいとこ、と言ったので壮五が以前から行きたいと思っていた温泉宿に行くことがまずすぐに決まった。  その後は話ばかりで進められていなかった新居の内見をいい加減にと引っ越しの段取りや家具選びなど時間があったらしたかった出来ていないことばかりでなんだかんだ七日間などすぐに埋まってしまうのだろう。  そんなこんなで今日は長めのドライブを楽しみつつのささやかな新婚旅行、というわけだ。 「あ、スマホ繋げる線もってきてる。適当になんか流して」  この色男の運転で。  環が所謂ちゃらつき始めた二十一歳の終わりごろに取得した運転免許の活躍は数々の浮いた話にとても良く登場した。  レンタカーでドライブデートは環の得意技で湾岸線を走り抜けた先のデートスポットで撮られたり地下駐車場完備の高級ホテルでの密会(?)を撮られたり、それこそ秘境では無かったが都内近郊の温泉リゾートでも撮られていた気がする。  ふと週刊誌の一記事にハンドルを握る姿と共に「四葉環〝ハードトゥハンドル〟」と称されていたのを壮五は思い出す。(因みに四葉環に振られたルビは「この男」だった)  若かりし彼とは言えちょっと面白くない気持ちになってしまったので嫌味として環の音楽プレーヤーから同タイトルのナンバーを検索し流してやる。  きっと環はこの曲も歌っているアーティストも知らないことだろう。 「……だから、そーやってすぐ根に持つのどーなん……」 「んぶっ……」  壮五は飲んでいたコーヒーを吹きだしそうになった。  陽光がまぶしいのと変装目的でお互いサングラスをかけているがそれ越しに思わず見詰めてしまった。 「知ってるの?」 「いや、アンタがすすめてきたんじゃん。けっこー前だけど。ランダムで流れた時に乗ってたやつに言われたよ。えーいがいーー週刊誌のこと気にするんだねーつって」 「くっ……中々渋い趣味の女性だったね……僕のこの曲のきっかけはね……」  嫌味で流したのだと知られてしまっている居心地の悪さにくどくどと蘊蓄を垂らして曲が終わるまでの時間を壮五はなんとかして埋める。  知ってか知らずかふんふんと頷きながら黙って聞いていてくれる環にはもはやぐうの音も出なかった。  曲が終わると大人しく環のプレイリストに入り一万曲近いその曲の様々なジャンル分けを見ると一番上にピン留めされた「そーちゃん」というプレイリストには色々な意味で胸が締め付けられる。 「この僕のプレイリストって、もしかしてオススメした曲ってことかな?」 「そーだろ。それ以外ないだろ」 「そうか……。根には持ってないよ……ダメな大人でごめんね……」  肩を落としながらそのプレイリストのランダム再生を試みるとまるで天罰かの様に再び「ハードトゥハンドル」のイントロが流れ始め壮五は慌てて次の曲へと移行したのだった。  一時間程の順調な道中、休憩にと道すがらの中では一番大きなパーキングエリアへ入ることにした。  平日で開店直後ということもありまあそこそこ空いていたので壮五もマスクと帽子で誤魔化して恐る恐る降り立った。  トイレを済ませて環の姿を探すと、背が高いはずなのに存外紛れてしまえるものでなかなか見つけ出すことが出来ない。ラビチャでどこ? と連絡をしてしまった。  数秒してすぐに電話がかかってきてどうやら階段を上った先にある出店の前にいるようだ。 「朝飯食わないできたし何かくおーぜ」  長身の自分達が並んだら流石に目立つだろうかと思案しながらもそっと隣に立った壮五を環はちらと見たあとメニュー看板の何やら赤い部分を指差して「からいのあんよ」と笑った。 「……」  食べられないのを分かっている癖に。壮五はまた心無し面白くなくなりかけて無言で居るとどういうつもりかこそっと腰を抱いてきた環は耳元で「今日しなくてもいーよ。食いたいんなら食えば」と囁いた。  壮五は行為にも言葉にもびっくりしてその手を咄嗟に払いのけるとへらへらしている環を睨んだ。 「っ……こんなところで何考えてるんだっ」 「なに。ちょっとじゃん。赤くなんなよな」  環の減らず口を無視して結局辛いフードは選ばないで車へ戻ると、環が「ほんとに辛いのいーの?」と聞いてきた。 「どうせダメだって分かってても君は強引にすると思う」 「えっおれのことそんなに信用してなかったっけっ! しないっつったらしないし!」 「……」 「……?」 「はあ、もう……言わせないでくれ。オフで遠出なんてもう今後そうそうないだろうし、……僕だってしたいって意味だよ」  環が黙ったので余計に恥ずかしくなった壮五はばか、と肩を軽く殴る。  と、次の瞬間いきなりシートの背もたれがフルフラットに近いところまで倒されてぎいやあと近年稀に見る間抜けな声が喉から漏れたところまではなんとか理解できた。  それから即座に真横から伸びる手にがしっと頬を掴まれて強引な環の強引な双眸の光が飢えた狼の様な粗暴さを湛えているのを感じて反射的に身体が緊張した。 「おいダメな大人。何がしたいかタマキクンに教えてください」 「っ……ええっ……! 怖いっこうやって女の子のこと押し倒してきたのかっ……!」 「残念、ヤマさんにこの技教えてもらったけど実践したのはアンタが初めてです。反省してください」 「反省……? というか聞きたくなかった……僕のなかで大和さんを見る目が段々違うものになっていってしまう……」 「はー興奮した。あぶねー。つかいい加減人見る目がねーんだよなーそーーちゃんって」  期待通りというべきかそのあと環はぶつぶつ零しながらもちゃんと口にキスをくれ、何事もなかったかのように買ってきたホットスナックを大口で頬張った。  壮五も一連の出来事に放心はしていたがそれを見てシートを戻しやっとのことで我にかえると自身の握力で握りつぶされ且つ恐ろしい程の大量のマスタードを塗られてしまった色んな意味で哀れなホットドッグに口をつけるのだった。  高速道路の二時間半はあっという間で、明日の夕方に入れてある新居の内見の話から家具のことや引っ越しの話、あとは昨日の撮影だとか果てはメンバーの恥ずかしい話にまで発展していく環とのおしゃべりはいつでもちっとも退屈しないで永遠に喋っていられそうに心地良かった。  一般道に降りてからは昼食がてらに古い食堂に立ち寄ってみたり、途中から壮五と運転を交代してみたり、海浜公園が見えたので寄り道して少し眺めてみたりなどドライブデートをたっぷり満喫した。その間もくだらない話はもちきりのままナビの通りに知らない道を進んでいるとついぞ良く分からない細い岐路にさしかかった。 「ここ?」 「……やま」 「山だね」 「みちほそ」 「細いね。かわろうか?」 「よけー心配じゃん。ほんとにここかな」  ナビを二人で見詰めるも「右です」としか言わない強情で素っ気ない彼女はそれ以上の情報を教えてはくれない。躊躇しつつもその道を右に曲がって多少登っているだろうか。緩く傾斜がかっているひたすら細い砂利道をゆっくり進んでいく。  両側に白樺の木がにょきにょきと生い茂り昼間なのに日の光を遮っていて薄暗い。かと言ってどこにも逸れようもないので不穏な雰囲気のまま突き進んでいるとやっと奥に開けた空間が見えた。 「あ、あそこかな」 「ひとざとからはなれすぎてね……さつじんじけんおきそ……」 「サスペンスも好きだよ!」  不安そうな環とは裏腹に壮五がわくわくとした様子で身を乗り出す。  ぱっと視界が開けると四方を山に囲まれ大変厳かなつくりの建物がまるでお城とか寺院のようにして荘厳に鎮座する。あんまり立派な佇まいで呆気にとられているとナビが冷たく「目的地周辺に到着しました。案内を終了します」とガイダンスを終えた。 「まじか。すげえかしこまりーって感じ」 「ん、ちょっと違くないか……」 「でもここで合ってるっぽいよね? 停めちゃってへーき?」 「うん! 写真通りの場所だ。お疲れさま!」  こうして一般道を併せたら六時間強の長旅を終えて二人が宿についたのは午後三時の手前。チェックインに合わせて来たので予定ぴったりの時間繰りに壮五の気分も良好だ。  ときに、壮五が前から来てみたかったのは宿泊部屋が九つしかないつまり一日に九組しか泊まる事の出来ない超高級宿である。  部屋というか予約一つにつき離れの建物を丸ごとあてがわれその中に内風呂、露天も備わっているので人目を気にせずゆっくり過ごせると高評価だった。  壮五がいつも参考にしている裏サイトでは旅館ではあるが非常にプライバシーが重視されており呼ばない限り従業員が部屋に来たりすることもなく好きな時間に風呂に入れて更に飯も言った時間に用意してくれるという専ら超高級ラブホとして悪名高い。ただ露天の構造に少し難があるとかないとか。防音とか勝手についてを重視するあまりそもそも外にある露天風呂の構造に関してはあまり気にしていなかったので詳細は見てこなかった。さすがの環とていくらなんでも部屋の外ではやましいことはしてこないだろうし。  ともあれせっかく露天があることだしと九つの部屋のうちの月下という和室の部屋を見た壮五は月の晩に環と露天風呂に入るのを瞬時に想像しソッコーでその部屋を希望した。お天気に恵まれるかだけが心配だったが無事に晴れた今朝からとてもとても楽しみにしていた。 「ちょい、そーちゃん、あんまふらふらすんなよ。迷子んなるよ」  楽しみが限界過ぎる様子であちこちをキョロキョロしている壮五を宥めながら環はカードキーをフロントから受け取ると貰った案内地図をぐるぐるまわしながら今どこだ? と早速迷子になった。 「えーとー? ……あー…んーーわかんね。どっちこれ、そーちゃん見て」 「んん? ええと。時計回りに華蝶、浪漫、廻遊、月下だから四番目かな? こっちが端っこ」 「むずかしー名前ばっかだな……」 「月と下は読めるだろう……」  顔を寄せ合いながら半円形に伸びた廊下を進めば左側から順番に華蝶、浪漫とどうやら離れへと続くドアが部屋の数ぶんつまり九つあるようで立派な庭園の上を放射状にのびた橋を渡りそれぞれ部屋へと入れる仕組みになっている。  佇まいは純和風なのに近代的でお洒落な構造でさすがは超高級ラブホである。否訂正、旅館、であった。  壮五はどこか非日常的なその光景に限界値のそわそわが堪え切れなくて部屋に入りオートロックがかかった途端環にぎゅううと抱きついた。 「た、楽しみ、だったあ……」 「……ほー、珍しい。もうしちゃう?」 「す、っごく、楽しみにしてたんだから無粋なこと言わないでくれ……」 「はい……」  どれだけ楽しみにしていたのか抱きついたまま壮五が動かなくなったのでそのまま抱き上げて環は室内に踏み入ると外に面したガラス張りの襖のすぐ奥に内風呂があった。壁から突き出た竹の筒からこんこんとお湯が注がれているのでこれもどうやら温泉らしい。 「え、すっげー! 丸見えでマジでラブホみたいじゃん。奥に露天風呂あんのか。見てみそーちゃんすげーよ」 「うう、おろして……」 「やだね。ちょっと疲れた。ごほーび」  ぱっと唇を塞がれ強引な主導に二秒で籠絡された壮五は無粋だなんだと言いつつも性急で苛烈な環の口づけをすぐさまどろどろになって求めてしまう。  上着も脱がずに必死に舐め合う舌と舌が溶けてしまいそうに熱くてやわくて一瞬びくっと腹が引き攣る。  きゅんとみぞおちの奥が疼けばどんどんぼんやりしてきて、これは、したい。セックス。  最近は忙し過ぎてゆっくり身体を交える時間なんてほとんど無かった。風呂のついでにとか、しても一回だけで挙句寝落ちとかそんなのばかりだった。  楽しみにしていたのは確かにそういう意味でもおおいにある壮五だったので久しぶりにもういらないとこれ以上してほしくないと、言いたい気分でもあった。 「ん……」 「一回しよっか。準備いる?」 「い、いる、よ……けど……」 「いれないでする?」 「……いいの……?」  畳に組み敷かれ真上から環に見下ろされてしまうと今はそれだけですごく、物凄く興奮してしまう。だめなわけないじゃんと呟いた環の優しい手の平が上気した頬を何度も撫でつけてくるので愛おし過ぎてはやくどうにかしてほしくて呂律のあやしい口調がまた下手に環を煽ってしまう。 「……だめだ、ちゃんとしたい、かも、どうしよう……」 「おれはいーよ。準備やったげようか」 「だめ、そんなのさせられない、でもすき、くるしい、」 「……ちょーー煽ってる?」  怒ったような言葉とはまるで対照的な環の穏やかな表情が最後、しつこく丁寧な長い長いほぼ永遠のキスが終わったのは気持ちが良すぎて気が狂いそうになった壮五がめちゃめちゃに激しくドライオーガズムで達した瞬間だった。  その間の怒涛の愛撫に悶え続けた壮五の意識はずっと口に集中していて何をされているのか何が気持ちいいのか真面目によく分からなくなるほど没頭してしまっていた。 「っ……っは、ぁ、……んっ……」 「イけた? すげえびくってなった。つらくない?」 「え……」 「ふふん。とうとうちゅーだけでもいけるそーちゃんに覚醒した。えらいなー。えっちだなー」  語感から褒められているっぽい、とだけ認識した壮五はへべれけの唇がまだじわじわと気持ち良くてしばらくぼーっと環の顔を眺めてしまったのだった。  その後、酔いから醒めたようにしてせっせと本番セックスの準備に取り掛かる壮五と半勃ちの処理にとしばらくトイレにこもった環だったが、いざ内風呂で続けて二回、布団で一回、ちょっと寝てまた一回とまるで鍛錬の様にべろべろなセックス三昧をキメ、無論、当初の気分通りもう十分だと、いらないもういややめておねがいたまきくんで壮五の体力は終了した。 「ふんふーんふーんふふん♪」  絶倫が鼻歌を歌っている。殺したい。としか今は思えない。  頭を絶倫の腕に抱えられてもう微塵も動く体力の残っていない壮五は妙につやっとしている絶倫の顔を嫌だが首がまわらないので視界に入れている。  もういい、と言ったらやめるんだよと心の中で二十回ぐらい言ったのに声には出なくて大層腹立たしい。声にする体力も残っていない。  ふと時間が気になったので吐息でなんじ……と漏らすと環はご機嫌に「じゅうじーごふん、いちびょーにびょー」と謎のうざったいカウントをしてくれた。すこぶるうるさい。もういいから黙って欲しい。 「寝る? 飯どーする? とってきてやろっか?」 「…………みず」 「露天は? 楽しみにしてたんじゃなかったん」 「…………」  ああそれはもう心の底から楽しみにしていた! けれど自分の体力が追いつかないばっかりに、もとい環の性欲が化け物で絶倫なばっかりに悔しいが行かれそうにないのだ! 誰のせいなのだ!  壮五は怒りに燃える心臓がどくどくする度にこそげ落とされた体力に響くので項垂れてここは大人しく目を瞑る。せっかく遠出してきたのにこのまま朝になってしまうのはすごく勿体ないとは思うのに限界の身体の欲求には逆らえないのだった。  湯の落ちる音が静かに響く水面はてっぺんにのぼったおおきな丸い月を閉じ込めながらゆらゆらと波紋を燻らす。  環は自らの手の平におさまった綺麗な満月を両手で掬いあげそーちゃん、と隣の壮五に呼びかけた。 「ふふーん。手出して」 「手? こう?」 「はい、月あげる」 「……ふふ、なるほど。ありがとうございます」  おどけて環の手の中の月を受け取った壮五はそれをすぐにそうっとお湯にかえすと〝月下〟という部屋の名の意味を殊更理解し感動した。ちょうど真上に月の来る真夜中に入るというのは恐らく正解でなんだかすこぶるいい感じである。  体力の限界の淵からおよそ二時間半で蘇生した壮五は隣でぐーすか眠っていた環を叩き起こして念願の露天風呂に連れだした。  愛しの環と二人だけで月下の露天風呂。いい。予想以上に最高の浪漫だった。  足腰はやたら鈍痛に見舞われてはいるがとても良いシチュエーションに一人酔いしれているとそういえば露天風呂の構造がどうかなどという書き込みがあったことを壮五はふと思い出した。  何が問題なのだろう。離れの独立した露天風呂。外とはいえほとんど他者の気配もしないし静かでロマンチックでとても素敵だと思うのだけれど。  もしか深い山だし野生の動物でも遊びに来たりするのだろうか。お猿さんとか。  壮五は猿がのんびり温泉に浸かっている様を想像して呑気にほほえましくなど思っていると湯の中でちょっと触れた環の手が指を絡めてきた。 「のんびりしてていーな。おちつくわー」 「ふふ。月が出ているうちに入れて満足だ。つきあってくれてありがとう」 「ダジャレ? どーいたしまして。てか身体へーき? 痛くない?」 「じゃない。なんだよ恥ずかしいな。身体は痛い。まあでも喋れるから多分大丈夫だよ」 「もっかいとか無理すか?」 「それは無理! 絶対無理!」  ちぇーと呟いた環はそれでも堪え性無くほっぺたにちゅ、ちゅ、と口をつけてくるので流されまいと不動の構えでツンとしてみせる。壮五のそういう態度が環の悪戯根性には火に油なのだとはいまいち意識に欠けているようで、頬をついばむ→ぺろぺろする→耳に舌をいれる、のここまで来てしまってからヤメロ!と拒絶する。  最も、壮五のヤメロはもっとという予測変換機能が備わっている環の返事としては「オッケー!」であるからにして。 「やあっ……」 「いれんのナシならいい?」 「だめ、っ……お湯汚したらまずいだろっ……」  軽く揉み合いになってパシャンと強めに水がはねたその時だった。 『っあっ♡』  という短い喘ぎが急に静寂の夜空に響きびっくりして固まった二人が訝しげに見つめ合うこと数秒。 『やだ、こんなとこ……聞こえちゃう……』 『誰もいないよ、こんな時間だし』 『そんなのっ……あ……』  突如始まりを喫した何某かの情事の音にどうしても耐えきれなかった環の口の端がにやっと歪んだ。  即座に嫌な予感がしてがっちり掴まれていた腕を軽く引くと壮五は環から出来るだけの距離をとる。 『だめえ……きもち、い、い……』 『月しか見てない。声我慢しなくていいよ』 『あ……』  耳をそばだてた環の静かな爆笑は止まず壮五がそれを横目にさっと湯からあがった。  これから環のやりそうなことなんて手に取る様に分かる。即ちこのまま露天にいたら非常に危険なのである。内風呂に逃げ込んで様子を窺うと環は文字通り腹を抱えて笑いを堪えながらぺたぺたとこちらへ歩み寄り壮五を何気なく抱きしめた。  内風呂に入ったので多少油断していた壮五は思ったよりも厳しいホールドにしまった、と思った。 「はあ、おっかし……危なかったね。おれらが聞き耳たてられるとこだった」 「っ……離して、しないからな……無理だよ、ぼくあした起きられなかったら、」 「明日のことはいーよ。そーちゃんも声ッ、我慢しなくっていいかんねッぶふッ、月しか見てないからッ……」 「あ、だ、だめだか、っふ……」  息が止まるほど優しく口同士がくっついた電流が脳天直下のど真ん中を走り抜け一瞬で壮五のスイッチがオンになる。  環の背後のガラス戸は全開のままで外からの嬌声は丸聞こえ。即ちこちらの音だって筒抜けだというのに身体までもが環の味方で壮五のいうことなど全くこれっぽっちも聞いてくれなかった。  頭がおかしくなるぐらい甘く唇を解されてがくがくと足が震える。そのままゆっくりと壁際に追い詰められてへたりこんだ壮五は両脚を大きく割り裂かれあらわになった入口を撫でる外気の冷たさに身震いする。  中に溢れたままのローションの残滓がとろとろと零れているのを環の指が掬い取り浅い部分に丁寧に塗り込むのが切なくて声が引き攣った。 「っ、ぃ、……」 「我慢ナシ」  そうは言われても声を我慢する自信が本気で壮五にはなくて、羞恥心と被虐心に震えながら口元を両手で覆う。真っ赤になった耳を食まれ「手どけて」と囁かれて必死に首を横に振る。 「ちゅーできないんだけど。いいん」 「っ、う、……ふ……ゆび、やめて……」 「指やめたら手どける?」 「んっ……」  ふつ、と指が抜かれた感覚で肩の力が抜け両手をおろした壮五は次の瞬間問答無用で強く唇をふさがれ、咄嗟に環の両肩に縋りついた。  わざといやらしく音をたてたキスで執拗に責め立てられて鼻から甘ったるい喘ぎが漏れ出てしまう。加えて前を緩く握られて身悶えながらのぼりつめる壮五の意識は苛烈な吐精の衝動で真っ白に飛び散った。 「んんっ……!」  わけがわからないまま酸素を求めて激しく喘ぐとまるでそれを許さないとした環の唇が再び壮五と激しく交わった。 「んんんっ…! んっ、ふあ、ん……! あふ、まっあ、く、っふっ……」 「……、ん……」 「あ、うぶ、ん……たっ、っふ、うっ……ん、ん、んううっ……」 「ふ、ん……」 「っあ、うあ、キ、ス、んんんっお、わりっ……! ぁえ、……あま、っておねが」  より奥の奥、喉の奥の方にまで入り込もうとする環の舌に軽くえずくと下腹部に力が入った反動でびくんと鋭く達する。  朦朧としながらもこんなにここまでこれほど焦らされてしまったらもう何が何でもいれて欲しくて仕方がなくてやっと解放された不埒な口が腹が減ったとべたべたに甘く零した。  ローションもゴムもいらないから、 「……なまで、しよお……」  ぴくんと反応した環は腐りかけの芳醇な果実を彷彿とさせる壮五のメロウな身体を抱きしめてどーしよっかなーなどとからかった。  やれどうやら狩り時だ。熟して腐り落ちる前においしく食べてあげなくちゃ。  開放されていたガラス戸がようやく環の手で閉められたというのに内風呂から抜け出る環はびしゃびしゃの身体のまま、抱きかかえた同じくびしゃびしゃの壮五を急いて布団に組み敷いた。  息の荒い壮五を軽いキスで宥め冷静なふりをしている環であるがナマでセックスするということはつまり、本当のセックス、今となっては壮五としか出来ない愛のセックスがようやっと出来るということ。  めちゃくちゃに興奮する。とろとろの顔で見詰めてくる壮五を軽く啄んでから濡れた自らの前髪をかきあげた環は「しよっか」と呟いた。 「……ぁ、……」 「ねえそーちゃん」 「っはあ、っは、ぃ……」 「おれさ、ずーーーっと前から決めたてたことがあんだよね」 「な、なに……」 「おれがゴムしないでセックスすんのはさ」 「………っ……」  至近距離の唇の寸前、環が獰猛な瞳をきゅっと細めて何かをこらえた。 「結婚したやつだけだかんね」 「!」 「愛してる」 「っあ、あ、まって、ま、っ……ってぇ、いまそんなこと、ずるいだろおっ……」  あてがわれた熱をゆっくりじっくりと推し進められ熱と熱が擦れる感覚で壮五の気が遠くなる。  挿入直後から全てにおいての感覚が吹き飛んでいて何が何だかまるでよくわからないままに奥まで埋まった満腹感。腹がひくひくとなるのをぼんやりと感じた瞬間自動的に一度強烈に達した。  前触れ無く痛いほど締まった壮五の内壁に引きずられて環も意図せず軽く零す。 「っ……うわフツーに出た、ごめん」 「っっあつ、ぅ……んっ、は、あ、」 「でも、っ無理な、とまんない……許してネ」 「はっ……、ああだ、めっ、まってっ! わかんな、わかんなくなっちゃうからあ……あだめまたイ、」 「ン、狭い、あっつい、……だいすき、そーちゃん、」 「ウ、すこし、ま、ってほんとに、おかしく、おなかが、きもちすぎて、だめ、たまきく、」 「いーよ、どんなんなってもいっしょーしぬまで愛してるからさっ」  直後張り詰めた前をきゅっと握られた直な刺激に壮五の身体が大袈裟に跳ね付く。そのままゆっくりと根元からしごかれて堪らずに白濁を吐きだしたのに環の緩慢な刺激は止まらずに続いた。 「あ、あ、あ、なにす、やだ……だめ……! いった、いったから、たまきくんっ……!」  脱力感も虚無も感じる暇などないまま再び短いオーガズムの波にはめられてすぐにまた零す。体がおかしく震えているのに徐々に早くなっていってしまうその手の動きに合わせて全力で喘ぐ壮五に最早シチュエーションの概念など無くなってしまった。  やがて固く抱き合い奥でくっついたまま激しく揺さぶられるがもう声も出せないぐらい気持ち良くてしんどかった。耳元で余裕のない環の呼吸が聞こえるが遠のいては近づいて電波の悪いラジオみたいにとぎれとぎれになっていく。  二人の電流がショートしそうに火花を散らして混ざり合う。壮五の落ちかけの意識の狭間で環の身体がいきなりビク、と大きく震えたのがわかった。身体は辛くて苦しいはずなのに腹に直接零されたあたたかい愛の感覚は何とも例えようのない安堵感なのだからこんなものはもうどうしようもなかった。  やがて満足したのか環がしばらくそのままだった昂りを引き抜いて壮五の頬を軽く叩く。 「そーちゃん、だいじょぶ」 「っはー、はあ、っう、ん……」 「……いたくなかった? どんなかんじ」  繋がりから解放されたのにがくがくと震えたままずっと息の整わない壮五がそんな馬鹿げた問いに答えられる余裕などあるはずもなく、しばらく無言で痙攣した後は死んだようにぐったりと身を投げ出してしまった。 「……へい、そーちゃんさん。まだだめ? しゃべれる?」  神経が昂り過ぎていてまるで意識が落ちてくれないまま明け方になってしまった。  環がゆっくりと壮五の身体を撫でていてくれるのでしんどさよりも今は心地良さの方が余韻として残っているのが唯一の救いだ。しゃべれるかと問われたので百億光年ぶりにかすれた声でウン、と返事をすると環が顔を覗き込んできた。 「お。しゃべった。水のむ?」 「……君は鬼か……」 「鬼ではない」 「じゃあなんなんだ、死ぬよ、僕死んじゃうところだったよ、どれだけしたら気が済むんだ」 「え、不満……? 自分でしたいって言ったくせに……てか、ナカの出さないとそれこそ死んじゃうぞ。喋れるならもうしたほうがいいんじゃね?」 「ちょちょちょ、まって、今触ったらほんっとうに許さないぞっ」 「はいはいー」  その後問答無用に時間をかけられた丁寧で優しくてしつこくねちっこい環の後処理作業で幾度もドライオーガズムを強いられることになる壮五は金輪際二度とゴム無しセックスなどしないと心に誓ったのであった。

ここから単話

Episode**快感ナイフ

鬱蒼とした雑木林の奥で壮五は一人佇んだ。逃げるつもりもない。ポケットに忍ばせたあまりにも華奢な100円のカッターを取り出して傍に落とす。 後悔をするとしたらもっとずっと前の話になる。何故なら今はもう後悔しても何もかもが遅く、人を殺めた事実、親友の大事なものを奪った傲慢さ、自らの浅ましい欲を一身に受け止めてぼんやりとそこに居た。 ふと震えるスマートフォンを見ると、見慣れた名前が画面に表示されていてあんまり安心したものだから笑ってしまった。 着信を拒否してスマートフォンも手の中から落とす。 「……」 遠くからガサガサと大股に近づく存在を認識すると目の前にある大樹に背を向けその姿が見えるようになるのを微笑んで待った。 やがて青ざめた顔で現れたその男に軽やかな声で待ってたよ、と言うと彼の手の中に握られたサバイバルナイフがぎらと光った。 もう一度言うが逃げるつもりはない。 この男こそが壮五の親友であり壮五が手にかけた女の恋人である。とち狂った顔で震えもせずに殺すと呟かれて腹の奥がぞわ、と疼く。 「嬉しいよ」 抑揚のない声でそう呟くが、彼の青ざめた顔はぴくりともしなかった。ざ、ざ、と一歩ずつ近づいてくるその姿に浅ましくも欲深く興奮してしまう。もちろん、気が付かれないようにだ。 壮五は彼の大事な恋人を寝取り、そして殺めた。セックスをしたのち首を締めてからホテルの浴槽に沈めた。膣内に大量の精液を出したが決して彼女に興奮していたわけではない。 彼女を自分に寝取られ、傷つく彼を想像したら何度でも何度でも、何度でも何度でも欲は勃ち上がった。最高の気分だった。 指名手配はされたが壮五は頭がいい。一度犯してしまった過ちだが、当然犯すまでに覚悟を決めていないわけがないので、殺害してから今日までの一週間をこうして警察に捕まらずに過ごしてきた。無論、最期は決めていた。 「何で殺した」 「欲しかったんだよ」 「手に入れたのに何故」 「思ったのと違った」 激昂し顔を真っ赤にさせながら掴みかかられ、馬乗りになった彼に見下ろされるのは実に愉快だった。快感だ。顔には出ない。昔から表情がないとよく言われたがこんな時にまで上手く喜べないなんて滑稽だ。 壮五は自らシャツのボタンを外しながらその痩せた白い胸をあらわにすると腹を撫でながら興奮して肩で息をする彼の目をじい、と見つめた。 「ほら、ここ」 「狂ってる!そんなにあいつの側に行きたいか!あの女!!!許さない、許さない!!!!」 「だあいすきだよ…おれは欲張りだから。お前には一つだってあげない。おれがお前のもの、全部貰う。奪われてばかりだな」 「許さない」 凪いだ目が瞬きを止め、手の中の大きな刃がへその真上に置かれた。チクと刃先が数ミリ皮膚を沈め次の瞬間ゆっくりとその刀身を壮五の腹におさめていく。 気の遠くなる様な熱に壮五は虚ろな目で堪えるとまるで性行為の様なチュクと濡れた音をたててナイフは地面をつついた。再びゆっくりと抜かれていく熱に痛覚が喉から漏れでる。 「あっ…」 刃が容赦なく突き立つ。柔らかな腹の皮膚を裂き鮮血をごちゅごちゅと溢れさせるその行為に頭の中が何故か空っぽになっていく。 セックスしている気分だった。内臓が抉られ胃からせり上がる赤が口から言葉より多く吐き出されていく。気持ちいい、快楽だ、脳がエンドルフィンをたちまち分泌して知らず張り詰めた興奮が何度か弾けていた。 もう刺し込む場所がないよ、と言いたいぐらいにはまるで執拗にナイフをおさめてくれる彼の顔を思いながら壮五は「好きだ」と言おうとした。 しかし既に身体は力尽きていて意識だけが未だに生きている。首も回らず横向きに血を零しながらひたすら好きだ、好きだ、好きだ、と意識の中で狂ったように泣き叫んでいる。 やがてナイフの咎が終わると立ち上がりどこかへ去っていってしまうその気配に暗転の兆しを感じながら再び好きだ、愛している、と思う。 暗い密林の真ん中で、壮五の身体はとうとう朽ち果てた。 画面が真っ暗になって数秒後、壮五の掠れた声だけが「最高だ」と一言告げるとそのままエンドロールへと向かっていった。 「終わった?!終わった?!?!?!?!」 「終わった終わった。君がみたいって言ったんじゃないか。それなのに最後まで見ないなんて失礼じゃないか?」 「いや無理に決まってんじゃん!!!!!めちゃくちゃ刺されてたじゃん!!!!!グロ過ぎるしド変態過ぎてもう二度とこんな役やんないでね!!!!!!!!!」 「でもとても褒められたから嬉しかったよ。映画もヒットしてくれたし。万人受けではないかもしれないけど、愛憎劇は好きだな」 「知らねえ…これならまだこの前のBLのほうが100倍良かった…」 環はまだ画面を見られずに壮五に横からしがみついて執拗に腹を撫で続けていた。 多分シャツをあけたぐらいまでは見ていたと思うのだが、ナイフが当てられた時には既に両目を手で覆って壮五の方を向いていた。 やばいやばいむりむりという囁きが割と邪魔だった。 ホールドされながらも未だ優しく撫でられていていい加減くすぐったくて仕方ない。 「くすぐったいんですが…もう終わったしお風呂入ろう」 「んん…大丈夫…?痛くない…?」 「痛かったら死んでるだろ」 一昨年のヒット作であるこの映画だが、ラストシーンの余りの壮絶な描写に大変波紋を呼んだ。原作となった作品をよく読まずに軽い気持ちで見に行った壮五のファンの阿鼻叫喚は言わずもがなで 壮五演じる主人公が本当はゲイだったこと、最終的に誰も幸せになれずに終わってしまったことなどで一部の層からはえらく叩かれてしまった。 しかし、原作を元から好きで見に来た人間からすればよくぞここまでやってくれたという感嘆の声が多く壮五は価値の分かる人間に評価されるという快感をこの作品で知った。 が、今まで貰ってきた役の中でも群を抜いて難しいものだったので、撮影中の精神状態が最高に不安定で何度も降板を考えた。 特に、男性を好きになるという設定がシリアスだからこそリアリティを追求しすぎてこの時相手役の俳優のストーカーになりかけた。 流石に事務所から注意されたのだが役からどうしても抜け出せず彼のことを好きになる気持ちにトランスし期間中何度彼で自慰を強いた事か。 身震いするほど恐ろしい体験だった。 おかげで男性同士の恋愛をテーマにした作品から声がかかることが少なくなかったが精神面に余裕があまりにも無くなるという事を理由にこれまで断り続けてきたのだった。 「そーちゃんああいう淡々としたおっかねーやつの役やらせたらヤマさんより上手いんじゃねえの……おれはあんま好きじゃないけど…」 「恐れ多いな。でも大和さんからも褒めて頂いたから嬉しかったよ。あと最後の一言が余計なんだよ」 付き合ってからは自然と風呂には一緒に入る。環が髪を洗ってくれるというので大人しく従っていると丁寧に泡をすすぐその手から受ける感覚がいつもよりも敏感なのに壮五は気がつく。 気がついてしまうともうそれから抜け出せなくて優しく触れてくる指でひく、と背中がしなった。 「…気持ちよかった?」 環は目ざとくそれを指摘してくる。無言でいると軽く水を切った手が急に後ろから腹に当てられて思わず上擦った声が漏れてしまった。 「そーちゃんはド変態だから、痛いのもきもちいんだもんね」 「ひ、人聞きが悪いだろ…」 「おれさ、ね?あの映画とってるときそーちゃんが頭おかしくなってんの気付いてたよ」 「…どういうこと」 「相手役に執着しすぎて怒られてからその対象、おれにしたろ」 「え」 驚いて振り向こうとしたが環に後ろから抱きしめられていて身動きが取れなかった。相変わらず右手はいやらしく腹全体を撫で回していて空いていた左手が胸に伸びる。急に熱を帯びて尖った先を指で押し込まれながらぐりぐりと刺激され声が零れる。 「おれのこと、ずっと監視してたでしょ」 「…っ……してない…」 「相手役のこと、またおれだと思ってしたの?」 「してないってば…」 「おれにここ、ぐちゃぐちゃにされんの想像して、オナニーしてたんだろ」 「っ…いい加減にしてくれ……」 腹からにじにじと下に降りた手が壮五の昂りをとても優しい手つきで刺激してきて焦れったさに身悶える。それを見ながら薄く笑うと環は身体を離して尾骨辺りをすり、と撫で回した。 「後ろ慣らしてあげっから腰浮かして」 「……あ……ん…」 欲に勝てない壮五は目の前にある備え付けの棚に手をかけて前傾姿勢になると腰を控えめに浮かせた。曇った鏡にもやもやと肌色が映る。 浴槽に浮かべて温めていたローションのボトルを手に取った環は尻を突き出して肩で息をする壮五の姿に興奮しながら惜しげも無くその細い腰の上からローションをぶちまける。 「あ、…」 「かけただけじゃん」 「っ…」 腰から濡れていくその感覚ですらも敏感に拾ってしまうほど興奮している壮五の入口は、ほぼ毎日環のものを受け入れている為か既にひくひくと弱く誘っていた。後ろから攻めるのは環の好みではないので正面から挿入して抱き上げるのがいつものスタイルだったが今日は久しぶりに後ろから犯してみるのもいいかもしれないと舌なめずりをする。 緩く呼吸している入口にゆっくりと指を二本押し込んだ。 「は……ぁ、う…」 「今日後ろからしよっかな。てかスゲー感じてんね?風呂場じゃない方がいい?」 「んっいいよっ…どこでもいいっ」 「あっそ、淫乱」 吐き捨てた環が腹側を激しく攻めると、途端に壮五の口から切羽詰まった喘ぎが飛び出る。 「やあ、あっっい、やだっいや…だめだか、激しいからっ…いっ…あっ」 「まあすーぐ空イキできる身体んなっちゃって、今度何回できっかやってみる?」 「やだやだ、や、いっ、…んっ…!」 「やじゃないじゃん。腹ん中ぐちゃぐちゃにされんの、好きだもんね?」 「はあっ、あっ、待って…あ、すご、イって…あっ…………う………」 余韻でビクンと震え続ける身体を環に宥められるが映画でずぶずぶにナイフで腹を犯される光景を思い出し今までにない気持ちの興奮を持て余す。多分だが今この状態で環を受け入れてしまったら正気でいられなくなりそうな気がしてその恐怖に呼吸が早くなる。 「っあ、どうしよ、う、はあ…いれないでっ…すごい、だめだ、今だめ…環くんっ…」 「いいよ。なんで」 「興奮してる…おかしくなりそう…」 「んだ、じゃいいじゃん。いくよ」 信じ難い環のその言葉を大袈裟に強く拒絶した壮五だったがゆっくりと腹いっぱいに満ちてくる快楽に文字通りわけがわからなくなる。 頭の中で固いナイフにやわらかい腹を刺され続けて気持ち良くなる主人公の声が響く。すきだ、すきだ、すきだ、腸内で熱く脈打つ環が奥を揺らせばたちまち思考が真っ白く飛んでいく。 自我が吹き飛ぶ。制御できない気持ちいいが頭のてっぺんからつま先まで余すところなくびっちりに詰め込まれている。 「なか…やわすぎ…すっげ、気持ちいい…」 「っ…ふっ、うっうっぐ…うっ…あ…」 「そーちゃんのダメは超えたらもっと気持ちくなんの忘れた?思い出してみ」 「違うっ…からっちがう、あ、あ…っあっ今日はダメだってばっ…」 「………ここ、刺されたの想像してコーフンしてんの知ってんだかんな……」 環に爪を立てられ、へその上を鋭く引っ掻かれると限界値を軽々と超えた絶頂が壮五に言語を許さなかった。 「はっ…あっ…!ああうあっあっ、あっ…あ、」 がくがくと震えながら白濁が連続で吐き出され突如醒めた余韻に強くかぶりを振った。 「ふうう、やだ、や…あ…もうい、いい、やめてほしい…やめ、お願いっ…」 「っ無理に決まってんだろっっじゃあしめんなっ」 「はあ、やだっよお…うっ、あ…ったまきく…」 「っっ…………」 勢いよくびゅると奥に叩きつけられる感覚を必死に堪えると全然アマくない例えるならカラい痺れが内臓とペニスと太ももの辺りにまで強く帯びていて棚に縋りついたまま中の圧迫感が引き抜かれるのを待つ。 本当にいいところばかりをいじられて気持ちがよくてトンでいる感覚ではなく、ぞくぞくと嫌なしびれが背中を何度も走り下手をしたら嫌悪感に裏返りそうな快楽に壮五は首をゆるく振り続ける。 その様子に余韻を堪えつつ燃えるような内壁から昂りを解放させると環は目に染みる汗を拭う。 「…はあ、やば、違うネ、ごめん」 「やだっていったのに、やめて、くれなかった」 「やだの種類まだちゃんとわっかんないし…」 「……抱きしめろ…」 「はい…」 震えながらも環に向き合い力強くぎゅうっと抱きしめられると、密着したその感覚に安心する。 まあ確かにかつてないほど興奮はした。 壮五はまだ痺れている身体をゆっくりと窘めながら環の肩に唇で触れて強いオーガズムからの不安を紛らわせる。 しばらくとんとんと環に背中をあやすようにされ、ようやく顔を上げた。 すると環は眉を下げて心配そうにそーちゃんさ、と零す。 「刺されてコーフンすんのやめろ?」 「うっっるっさいよ…!したくてしてるわけじゃないよ!」 「腹に爪立てられて気が狂ったようにイクのはマジでやばいから…やめて…おいてかないで…」 「馬鹿!!!!!ばーーか!!!!!!!」 羞恥心で顔が真っ赤になってしまったのが分かった。見ると環の頬ものぼせあがっているのに気が付いて浴室の籠った空気に急激に息が苦しくなった二人はいそいそとその身体を清め始めたのだった。

Episode**どしゃぶりプロポーズ

目の前が見えない程の豪雨の中で環は寒さに震えながらも懸命に走り続けた。焦燥感。乾いた心のささくれが動く度にひっかかり剥けていく。  血だらけの気持ちを抱えながらそれでも前へ、前へ前へと進む。  だってそうでないと間に合わない。日付が変わるまであと三〇分もない。  環は肺が壊れそうになるほど全速力で駆ける。例えたどり着いた時に絶命しても構わない。何としてでも、一目でいいから会わないといけない。  脳裏に過ぎる悲しい笑顔が環の足をどこまでもどこまでも動かしていく。  古いビルの階段を駆け上がる。中階まで一気にのぼるがさすがに息が出来なくて崩れ落ちた。破れそうな肺に決死の思いで酸素を取り込む。はやく、いかなくては、その一心で再びよろけながらも階段をのぼっていく。  つらい。全身が軋む。足は止まらない。  やっとたどり着いたドアを開け未だ降り続く大雨の中を屋上の真ん中まで進み膝を着いた。  苦しくて涙が出る。顔を覆ってしゃくりあげながら消えないでくれ、と嗚咽混じりに零すと足音も無く求めていた彼女の姿が側に居た。  その気配に心底安心した環は顔を上げてその細い肩に縋り付く。 「好き、だ」  そう言った瞬間再び顔が歪んで大粒の涙が雨とは違うふうに頬をぼろぼろと伝った。  真冬にノースリーブのワンピースを着た彼女の姿は、この大雨の中一滴も濡れている様子がなく、仕方なさそうに、困ったように微笑んで環の頭を撫でた。 「幸せに……なりたかったね」  環がぎゅっと目を瞑り彼女の発したその言葉でズタズタに傷ついた心を抱きしめるように下を向く。  その途端視界がぐるぐると巡り激しい胸痛が環を襲った。声も出せずに横向きにうずくまると、途切れ途切れになった呼吸の狭間で彼女の名前を呼び続けた。  雨は止まず環の身体だけを強く打ち付けやがてその意識が生命ごと解放され夜がじんわりと明けるまで降るのをやめなかった。  薄く目を開いたまま、もう動かない身体に辛うじて宿る意識下で、環は誰に看取られることもなくその人生を終えた。  最後に愛した彼女が帰宅途中に暴漢に襲われ亡くなったのは昨年のことで、その絶望の最中に環自身の末期がんが見つかった。  彼女が亡くなったのは些細な喧嘩をした日の夜で環は謝るついでにプロポーズの決意をしていた。仲は良かったがたまにしょうもないことで衝突した。人間だもの、当たり前だ。それもひっくるめて、愛していると告げようと思っていた。けれど実際には何もかもが遅かった。死んでしまってからいくら亡骸に思いを告げたところで彼女が目を開けることは無かった。それからがんが見つかってからも余命は数ヶ月もなく、彼女の元へ行けると喜んだのも束の間で迫る死への恐怖心に煽られて何度自ら命を絶とうとしたことか。  最悪の終わりだと思った。  そんなある日突如病室に現れて微笑んだ最愛の彼女の姿は、結果的に環の幾許もない人生の最後を飾るにはあまりにも残酷であまりにも悲しかった。  それでも、亡くなる直前のままで佇む彼女に環は心から感謝したし死ぬ前に伝えたかったことをひとつ残らず全て言葉にした。彼女は笑って相手にしなかったが親も兄弟も居ない境遇の中ひとりぼっちで余命に震えていたことを思うと確かな救いであったことは間違いない。ただ、現れた時から彼女は今日の二四時に消えると宣告していた。  刻一刻と進む、或いは終わる毎日に環は心底怯えていたし夜は彼女が側に居てくれないと眠るのもままならなかった。そしてとうとう訪れた今日という最期の日にはまるで容赦のない真冬の冷たい大雨。  ベッドに寝たきりだった環が外を歩くには大変厳しい気候だった。  最後の日だというのに病室に来てはくれなかった彼女を探しにとうとう雨の街を一日中一人で彷徨い、最終的に彼女と出会った場所である今は廃屋になってしまったビルの屋上へ向かったのだった。  環は虚ろな瞳を閉じることができないままベッドの上で夢を見る。  辛くて悲しい、苦しくて寂しい、約束の二四時。  心音の停止が部屋に響いた。 「……っやっばくない? っめっちゃ名演技」 「自画自賛がスゴい。でもすごく上手だった。何回か泣きそうになった」 「これで泣かないそーちゃんヤバすぎっからまじで病院いこ、心閉ざしすぎ」 「救いが無い話も大好きだよ」 「やったから見れるけど好きこのんでは見ない」  鼻をかみながら環は壮五にもたれかかる。撮影中の心情を思い出して隣の温かな体温にほっとする。  環は繊細な心理描写があまり得意ではない。なので勢いと動きでごまかせるようなラブコメディやアクションがメインでの出演依頼が専らでここまで重たいストーリーはこの映画が初めてだった。  何故受けたかというと単純に世話になっている監督が当て書きをしてくれたというからだ。問題である監督が環のどこをどう見てこの作品になってしまったかは、まあとりあえず聞かなかったが、今までのどの作品よりも心が疲弊したのには間違いない。  しかし、壮五と違って役を引きずらない環は辛いシーンがあるたびにその後派手に飲み明かして気分を紛らわせた。  人生で初めて酔って記憶が無くなる現象を起こしたのもこの時だけだ。ただ、記憶は無かったがそうなるとすぐに壮五に連絡を入れてくれるように周りにお願いしていて壮五もその都度嫌がらずに面倒を見てくれたのでトラブルをおこすこともなく無事に撮影を乗り切ることができた。  と、環本人は思っていた。 「……この時きみ、凄い荒れてたの覚えてる?」 「荒れてたぁ? 言い方」 「記憶無くなるぐらい飲んだの、初めてだろう」 「無くなる直前まではちゃんと覚えてんもんね。そのあとはすみやかにそーちゃんのもとへ帰されるシステムだから記憶無くすまで飲むにはノーカンです」 「……。僕も人のことは言えないからあんまり言わないけど。ひっどかったよ環くん」 「なあにが。つか、言ってんじゃん」  壮五が斜め上を見ながらハア、とため息をつく。  それからお風呂に入ってくるね……と憂鬱そうに零したので環はそれに黙って頷いた。  気にはなったが何だか聞きたくないような気がしたのでそそくさとスマートフォンを開き、地上波初登場である今日の映画についてをいやぁ名演技だった。と綴った。  一方、壮五はというと湯船に唇まで浸かりながら、そわそわとしてしまった心を落ち着かせようと必死だった。  あの映画の撮影中、環は常に役に没頭していたし本人は気が付いていないようだったが確実に精神的におかしくなっていた。それを紛らわせようとアルコールに逃げた様子はあまりにも可哀想だったし、出来ればもうああいった役はしてほしくなかった。  酔った環は壮五が迎えに行くとはじめは大人しく帰路につくのだがタクシーを降り二人きりになると執拗に死んでは嫌だと何度も訴えた。役の心情なのだと分かっていても、苦しそうに時には泣きながらそんなことを言われてはたまったものじゃなかった。  この頃はまだ恋人同士にはなっていなかったし、普段それほど頻繁には一緒のベッドで寝たりはしなかったのだがこの期間中はほぼ毎日どちらかの家で共に寝食を過ごした。  環は無意識にと思うがとても不安だったのだと思う。本人はさりげなく言っているつもりだったのだろうがこちらが拒めないぐらいには目が一緒に居て欲しいと強く求めていてさすがの壮五もこのときばかりは環の精神状態が心配でべったり側にいた。  その中でも忘れられないほど印象に残っていることがある。恐らく先程のクライマックスの撮影の時だろう。  環はいつにも増してぐらぐらに酔っていて、壮五が迎えに行った時には既に号泣していた。  付き合ってくれていた数人の役者もしゃくりあげて泣き続ける環におろおろと狼狽していて壮五が現れるとほっとした様子で環の背を撫でた。 「環~……! 逢坂さん来たぞ」 「すみません、毎回……ありがとうございます。環くん、帰ろう? 大丈夫?」 「っ…………そ、そーちゃ……」 「あ、うわ……環くん……!」  顔を上げた環に本気の力で強く強く抱きしめられて、周りの目もあり動揺したが壮五はとりあえずは落ち着かせようとおずおずと抱き返した。  役者達はその様子を特に不審がることもなく、ただ環の精神状態を心配してくれていたように思う。 「……大丈夫だよ、帰ろうね。気持ち悪くはない?」 「いかないで」 「どこにもいかないよ。すみません……水貰ってもいいですか……?」 「そーちゃん……」 「水飲める? 落ち着いて。一緒に帰ろう?」 「……」  渡されたグラスの水を口元に寄せてやると、涙を流しながらも手を添えて一口飲んだ環ははあ、とやっと息をついた。  タクシーに乗ってもぽろぽろと涙だけは止まらずいよいよまずいのではないかと壮五はその様子を不安気に見守った。部屋に入ると案の定玄関で泣き崩れてしまった環に今度は誰に遠慮することもなく壮五から抱きしめて頭を何度も優しく撫でてやった。 「撮影、大変だね……」 「…………そ、ちゃんっ……」 「うん?」  乱れる呼吸の合間で、環が言葉に詰まる。  とんとんと背中を叩いてあげればその唇が滔々と台詞を紡いだ。 「"あいしてる"」 「……うん」 「"ずっと俺と居て"」 「……うん」 「"結婚しよう"、"おれがずっと守るから"」 「……………うん、……」 「"そーちゃんが"、"大好き"」 「………僕も、環くんのことが大好きだよ。撮影ももう少しで終わりだから、頑張ろうね」 「……うん………」  次の日の撮影は無かったが、環にしては珍しく二日酔いで一五時頃までトイレとベッドを往復していた。  ふと、壮五は環の台詞を思い出しそういえばどのシーンで結婚しようなどという台詞があったろうかと思案した。  彼女に言うはずだった台詞だろうが、本編中でプロポーズのシーンは描かれなかった。回想としてや想像としても環の口から結婚しよう、おれがずっと守るからなどという台詞は一言も発されなかったように思った。  そーちゃんが、大好き  急にドキドキして頭まで湯船に沈めぶくぶくと泡を吐く。結婚、結婚? 「ぶはっ…………!」  息を止めたせいです、と無理矢理心臓に言い訳をしてさっさと湯船からあがった。  恐る恐るリビングへ向かうと、つまらなさそうにテレビにリモコンを向けていた環がこちらを見た。  束の間目があったまま二人の時間が止まった。ように思えたのは壮五だけで、環がおかしそうにどした? と笑った。 「顔ちょ〜真っ赤。のぼせた?」 「えっ」 「茹でダコみたい。うける」 「……失礼じゃないか……? お風呂どうぞっ」  心臓がまだばくばくしているので冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して喉を鳴らして飲んでいると環が真正面から抱きしめてくる。  驚いた壮五の口の端から水が零れ喉元を濡らす。 「ちょ、こぼれたよ……!」 「だらしねー口だな。なめたげんね」 「っくすぐった、もう……やめろ……」 「はー。なんかさ」  急に声のトーンが大人しくなったので壮五はそれを黙って受け止めると、環が耳元で弱々しくしなないでね、と漏らした。 「…………」 「こーいう気持ちんなるから、暗い話すきくない。幸せな終わりじゃないと、不安になんじゃん……」 「感受性が高いんだな」 「知らん。……ちょ~メンヘラっぽいこと言っていい?」 「……どうぞ」 「死ぬとき一緒な」  はず、と言いながらも環の抱きしめた両手に力が入ったのを感じて壮五は息が詰まった。しばらくしてから息だけでうん、と漏らしその広い背中を優しく撫でた。 「ねえ」 「ん〜?」 「結婚しようって台詞あった?」 「は???」 「あの映画の台本」 「……さあ、あったかなそんなん。なんで?」 「おやすみ」 「はああ????」  ベッドに並んで寝そべりながら内心穏やかでなくそう問うた壮五はルームランプのスイッチを問答無用でぶち切ると急にライトが消え慌てた環に思い切り抱きつくのだった。

Episode**タイトルなし

とある環の失言のお陰で二時間程も二人で頭を下げ続けた。 運悪く万里が帯同しない地方の現場で慣れないスタッフに慣れない進行で環が苛立った気持ちも分かった。けれどまあ、不満は言ってしまった者のほうが弱いのが常。壮五は受け入れて謝罪に徹した。 もちろん、当の環も壮五に頭を下げさせてしまっているので壮五よりもひたすら丁寧に陳謝。それを横で見ながらたまきくん大人になったよなあ、と壮五は不謹慎にも頭を下げた拍子に口元が緩んでしまった。 二時間ないところでやっと解放された二人だったが撮影の疲労も相俟ってほぼほぼ無言でホテルに帰った。 「……」 カードキーを通してお決まりのツインルームに鍵を閉めると環がやっと息を吐いた。 「…んっっっとにゴメン…地方まできてみっともなかった…反省してる…ごめん…」 「まあ…。進行も悪かったよ。僕も環くんがイライラしてたのは分かったんだけど。もう少しフォローしておけば良かったって思ってるから」 「…ごめんなさい……」 仕方なさそうに壮五は肩を竦めたが身体は本当に疲れていてさっさと風呂に入って休みたかった。本来ならば二人でゆっくり入ってもいいかなと思っていたのだけれど今日はそんな余裕がなさそうだ。 先にもらうね、と短く言った壮五に環は黙って頷いたのだった。 壮五があがったあとでササッとシャワーを浴びた環は自分のせいで壮五に余計な苦労を強いてしまったことを気にした。何とかその疲労感を拭いたくてシャワーをしている間中考えていたのだが。 「そ〜〜ちゃ…エッ寝てんのっはやっ」 「ごめん、本当に疲れた。君のせいとかじゃなくて今日ほんとうに疲れたから君もはやく寝る」 「寝る…」 「寝る」 そう言って自らの横をばふばふと叩いた壮五は本当に心底眠たそうで罪悪感から環は大人しくすぐに横になった。壮五の目があかないまま半乾きの髪に触れてくる。 「ぬれてるょ………ちゃんと…乾かしなさい…」 「…」 「んう…眠い…」 「寝ちゃう?ちゅーしてい?」 「…は…?…して……」 目のあかないアイドルらしからぬその顔が無性に可愛く思えて仰向けに転がすと半開きの唇を食む。 「はは…どんだけねむてーの…超ブスだぞそーちゃん」 「ん…んんん…失礼だ…でも眠たいよ…キス気持ちいい…」 「……カワイイです……触っていい?」 「いい…けど、セックスまでもたない…」 「抜いたげる」 「君がいいならいい」 疲れ果てた壮五の腹を撫で、ゆるゆるとペニスを刺激していくと深い呼吸のままその快楽に身を委ねていくのが分かる。 強すぎる刺激はいらない。ちょうど心地よいペースでの環の温い愛撫に壮五の全身が幸せになっていく。 「いけそ?」 「…はあ…ん…気持ちいい…」 「口開けてみ。舌吸ってあげる」 「ん…」 ぢゅ、と音をたてて吸い上げられる快感で激しい射精感に飲み込まれ一瞬で理性がなくなる。 心地よかった愛撫がオーガズムに向かってきつく昇りつめていくにつれ疲労感がふわっと軽くなり次の瞬間鋭く身体が震えた。 堪えるように咄嗟にシーツを握りしめながら背中を浮かせ余韻に浸る。 腹に零れた壮五の精液を環は丁寧にティッシュで拭うと微睡んだ顔中に唇をくつけた。 「…ごめんね今日…」 「っ…は………ん…うん…」 「おやすみ」 「……」 とろんとした目がしばらく環を見つめていたがやがてぴたりと閉じた。寝息に安心して下着を直してやり、起こさないように静かに抱きしめるとなんだかんだで環もそのまま眠った。 「………」 もぞ、と身じろいでくっついた体温を見上げると気持ちよさそうにぐっすり眠る環の顔に思わず鼻から息がもれた。人のことを言えない寝顔だ。 首をまわしてベッドの上の時計を見ると時刻は3時を過ぎたところ。 ふと抱き枕のようにしがみつかれていることに気がついたはいいが、寝起きのぼんやりした感覚が覚めるにつれてちょうど太ももの辺りにあるじんわりとした熱に動揺する。 思えば自分だけ気持ちよくしてもらってそのまま寝てしまったし、この状況からすると環が自身の処理をせずに寝たのは明白だった。 「…………」 「んん~……」 どうしようかと考えていると環がもぞもぞと壮五の身体を抱き直しながら下半身により刺激を求めてか腿の側面に股を擦り付けてくる。 完全に目が冴えた。壮五は再び環の顔を見上げて唇に触れると身を捩り横向きに向かい合う。 ちょっとドキドキしたが涎を垂らしてぐーすか眠っている顔を見つめながらそうっと膨れている股間に手を伸ばす。 ハーフパンツの上からでも形が分かる。撫で上げながら小さく擦ると、環の眉根がぴくと寄った。 起きるかな、と思ったが手はそのままにゆっくりと身を起こして環の身体を仰向けに転がす。 「…………。意外と起きないんだな」 そのまま、めくれたTシャツからのぞく腹筋を撫でながら布越しに唇で昂りを確かめると環の腰がビクッと反応した。 起きても別にいいので構わずにハーフパンツの上から口淫を開始した。 「いやっおいっ…なにしてんのっ」 「起きないんだねえ意外と。元気になりました」 「アンタがしたんだろっ…!」 とても嬉しそうに反り返った環の昂り越しに顔を覗かせる壮五に、環は上半身を起こしながら顔を赤くさせる。 下手くそだったフェラも今では環の良いところをちゃんと把握していてやる気になれば開始から数分でいかせることだって出来る。壮五はふふん、と得意気にしっかり固くなった環のペニスを撫でた。 「寝込み襲うとか卑怯」 「卑怯。そもそも君が僕の太ももにこの節操ないもの擦り付けてくるから起きちゃったんだよ」 「エッ」 「あのまま寝たんだろう?」 「…そうかも…」 もう限界ギリギリまで張り詰めているので壮五に触れられているだけでもビクビクと身体が反応してしまう。いきたい、と呟くと壮五は悪い顔でにやっと笑ったまま緩い刺激を続けてくる。 「ねええっ…意地悪やめてっ」 「アレ言って。いかせてくださいっていうやつ」 「ハアアア?!ばかじゃねえの?!いかせてください!!!!!!!!!!」 「ほんっとに君ってプライドが無いんだな…」 「プライドで飯は食えねえかんな!」 「いい心がけだよ」 早速片手で柔らかくこすりながら口いっぱいに頬張ると、ほっぺたの肉で先端を何度か擦り根元から手で扱く。環の堪えた快感がびくびくと伝わる。 そのまま喉までゆっくり出し入れを繰り返すと環が鋭くいく、と震えた。 「っあ…」 熱い衝動。舌の先で先端を吸いながら口内に溢れた精液を少しずつ飲み下す。相変わらず、あんまり苦くはない。環の精液しか口にしたことがないから程度は分からないが、壮五の想像よりもはるかに寧ろ甘いその味はもう何度となく味わっているのでAVさながら「おいしい」の気持ちも分からなくない。 気味悪がられるから言わないできたが今日は唐突に言ってみようかという気分になった。 最後まで吸い上げてやっと口から環のペニスを解放するといかやにも嫌そうな顔でこちらを見ている。今にも口から出してと言いそうだった。 「そーちゃん…」 「大丈夫。おいしいよ」 「……………あ?」 「……えっ…?」 「病院いく…?まじで…」 最近すぐに環は壮五を病院に連れていきたがる。仮に本当に病院に行ったとして何と説明させるつもりだろう。失礼にも程がある、と壮五はため息をついた。 なんとも言えない顔のまま口元をティッシュで丁寧に拭われ文字通り苦い顔でキスをされるのだが、丹念に口内を舌で舐めとりながら次第にまたまた複雑な表情になっていく。 「……どう考えても不味すぎっから…」 「君の舌がお子ちゃまなんじゃないのかい」 「大人舌だから精液美味いとかありえなくね…?!味覚死んでんだよな…味感じてないって絶対…」 「はいはいもうそれでいいよ。セックスする?」 「します」 やれやれもう明け方に近い時間だったが、すっかり乗り気になった二人だ。結局帰りの新幹線の中では疲れ果てて死んだように眠る他ないのであった。

Episode**ソーホットキープマム

世間のイメージとは時に恐ろしいもので、特にこういった表で顔を出して芸事を仕事にしているとなればその余波もひとしおだった。 夢を売るのだから外からのイメージを大事にするのはアイドルの務めだ。仕事の範囲だ。 実際はと言うとどこで誰と何をしていようとも世間に露呈さえしなければまず許される。許されるというよりは知られなければそれを誰かは詰りも出来ない。だから噂の火種はいつでも人だ。故に付き合う友人は選ばざるを得ないし人気者なら尚更だった。 世間からしてみれば知る由の無い事情だったとしてもアイドルとは人間で人間とは常に進む。進むというのは無論時間だけではなく気持ちも身体も欲求も不満もそれら人生の全てがだ。 特別なその時間に没頭したからと言って人としての欲求が満たされるのとは到底違う。必ず誰にもどんな事にも表があれば裏がありそして裏では一つの個として生きているのは当たり前のことだ。 見ていて元気になれるから、ネガティブな発言もしない。凄くクールで格好良いから、なるべく笑わない。優しくて王子様みたいだから、お姫様が特別なんて許せない。可愛い顔で天然発言が多いから、煙草を吸うなんて悲しい。アイドルはファンが彼女でしょう、仕事なんだから「プロ意識を持って」。 世間の狂気的なイメージに優しく寄り沿って歩く。プロ意識ならプライベートは無論含まれない。仕事の範疇は一体どこからどこまでであり個が個を否定出来る程我々は人権の無い見世物だったのだろうか。虚像と向き合う空っぽの身体はいつもどこか満たされないが、それも仕事のうちだった。 特にライブの後のがらんどうのホールをステージから見ていると高揚感とは別にどうしようもない孤独が胸に押し寄せる。何万人の気持ちがあってもステージから降りればただの人。 家に誰かいるわけじゃないしスーパーアイドルが自分の着た服を洗濯しても一人分の飯を炊いても誰も褒めてはくれない。あくまでステージの上でのアイドルとしての自分とそのファンという契約無しにはあんなに居てくれるうちのたった一人ですらも孤独を埋めてはくれないというのに。 「うぇいー。飯なに。いーねやっぱ都内。ライブの後家の布団で寝んのマジエクスタシ~ウィズそーちゃん」 「…ん~。かわいそうにな。君がいるから僕は例外だけどね……」 「?れーがい?」 「しかも付き合ってるし。キス」 「へー??んっちゅー」 壮五は心無い(と言っても蒔かぬ種は生えないので自業自得ではあるが)週刊誌のまるで慈悲も無い記事を片っ端から読むのが癖だったがここのところメッゾについての真新しい詰りを見かけないのでついつい他のアイドルや芸能人として懸命に生きる人間の荒んだ心情の綴りをそっと憂えてしまった。 そもそも一対一になる環境にないのだからファンという立場にある以上、ステージには余計な詮索を持ちこむのは厳禁だ。ライブの瞬間に命をかけているのは本当だ。つまり命をかけてこちとらファンと対峙しているのだから、ファンも命がけで楽しむべきだ。個人への愛だの恋だのそんなくだらないことはどうでもいいから、メッゾ渾身の愛を骨が粉々になるまで楽しむ愛で返してくれ。100あるうちのほんの零れた1のプライベートで人生転落するだなんておかし過ぎるにも程がある。 どうせイメージはイメージで現実は現実。こうであってほしいに寄りそう努力はしているのだから、そうでなかった部分を執拗に追いかけ回すのは本来ならばタブーというものだ。 イメージ戦略から盛大に転げ落ちた壮五の心情は今のところこんな感じだ。半分抉られてはいる。常に。 無論スキャンダル処女解禁の三ヶ月は毎日胃薬を飲んだ程後悔もしていたが、それでもメッゾを楽しんでくれている人がいるのだからそれには報いるべきだし、相方のこの「おれのじんせいはおれいがいのだれにもじゃまさせん」という確固たる奔放さに度々のっからせて貰っている。人間の向き不向きはよーく分かった。環がいるからメッゾがあり続けているのも実によく。 当時の一織に言わせれば「誰がスキャンダルまでメッゾしろって言ったんです。今度あなた方の小指も仲良くメッゾしてさしあげましょうか」との事だったが未だに小指が無事なのは何かの奇跡なのかもしれない。壮五はちらっと環の小指を一応確認した。 「指見てどーした?逆プロポーズか?指輪ほしくなった?買う?契る?」 「この場合、どっちがプロポーズなんだろうね。逆はどっちだと思う?」 「逆があ…女だからあ…でも、そーちゃん男だしな。逆つけたらヘンなるな」 「なるね。じゃあ給料の3年分の買ってあげようか」 「お金で気持ちを表現できると思ってンの~!?」 「ふふ、言われたの?」 「言われた。逆に金でしか表現できねえつったらビンタされた」 そんな中と言ってはなんだったが、環と壮五のスキャンダル癖が、ある春を境にぱったり無くなったことについてはパパラッチも芸能関係者もそして事務所の人間までもが不審に思った。 しつこい雑誌などは「直撃!四葉環の元?セックスフレンドIさんは今!」などと過去に噂された女優をとっつかまえて記事にするほど二人の性事情の行方を躍起になって探しているようだった。 くどいようだが蒔かぬ種は生えぬということで、事実、環も壮五もドラマの関係者とも勿論相手役の女優ともスッパリ関係を断ち種蒔きを止めたので二度と生えぬのは当然の事だ。 将来の為にも、失敗したら取り返しのつかないしかも気持ちの無いセックスなど止めるに越した事はない。壮五は誰の将来がなんだって…と自問自答してはしまうが 「ん~。んま!そーごの料理セカイイチッおかわりくださいそーちゃん様」 「ん。というか、ちゃんと噛んで食べなさい。あと呼び捨てにしたので明日はチゲ鍋」 「いや耳どこにつけてんのそーちゃん様つった、アアアやめて、白米にタバスコいんねーから!ねえ!」 今のところは誰の将来が何と喚こうとも相方兼友達兼恋人になった環について簡単に手放す気にもならないのだった。 (ソーホットキープマム) 某日、某ランドにて園内拡大のニューオープンを大々的に広報したいということでスペシャル特番の宣伝大使にメッゾが起用された。昔アイドリッシュセブンとして他番組の企画に携わったこともあるだけに二人共気持ちホーム感があってやりやすい。 ただ、残念ながら今回はコラボ企画等には積極的でなくアトラクションのボディに化け物が印刷されたり美味しいスイーツのプロデュースも無い。そのかわり園内を一日中遊びながら細かい部分を映像でアピールして欲しいとのことで環は打ち合わせ中に盛大にガッツポーズを決めた。 「おー!七夕だから短冊あるよ!書いていい?いいって。かこ!」 「あはは、いいね。僕も久しぶりにプリンさん書いてみるぞー」 「えっ…あえー…がはくー…」 「どう?」 「どう?きくのね。芸術みがすげーからてっぺんにかざっとこ…」 立派な竹が飾られた広場のブースでは七夕に合わせたイベントを行う予定があるそうなので一足先にメッゾによって逢坂画伯の短冊という珍スポットが完成された。イベントの告知を取り終えカメラが止まると壮五は不満気に頭上を見上げる。 「ちいさいこが見えないだろう…あんなに高くしちゃったら…」 「チビが見たらぎゃん泣きすんじゃん!アンタのファンがどうにかしてこの写真撮る為に頑張るの楽しみにしてる」 「顔が邪悪だぞ」 初夏とは言え充分暑いしカンカンに晴れているのでこまめにメイク直しが入った。日傘の中に入れられながらも二人は和やかに会話を続ける。やり取りはいつもと変わらなかったが耐えきれなかったのか現場メイク担当の女性スタッフがふふっと朗らかに微笑んだ。 「お二人共本当に仲がよろしいんですね…♡」 「そーなのよ。超超仲良しがウリだかんね一応」 「たまきくん超超超だよ」 「御兄弟でもここまで仲がいい人は稀ですよお~?恋人みたいでなんだか見ていてうふふってなります」 「恋人」 「恋人」 「美男カップルですねえ♡冗談です♡」 恐らく一ミリも悪気なく強かに冗談を言ったのだろうが二人は内心穏やかではない。ポニーテールのふと見えた薬指にはシルバーが光る。 「恋人だってよそーちゃん。そういうていでいく?」 「そういうてい。いいかもね」 「仲良し♡オッケーでえす」 「さんきゅ~。ね、おれたち付き合ってどんぐらいに見える?」 環が突然悪ノリの波をサーフし始めたので壮五は黙って見守る。どうかボロよ出ないで。 ポニーテールは一瞬きょとんとしたがにっこり笑って10年と答えた。壮五は思わず噴き出した。 「じゅ…」 「やば…いやじゃリバーレは!?」 「あ~リバーレさんは~、100年ぐらい軽く一緒にいそうですよねえ~」 「ひゃっ………」 「なるほどね…。熟年夫婦ってことにしとくわ…因みにおねーさんは結婚何年目?」 「オシドリフウフですね~♡再婚で三日目なんですう♡失礼しました~」 日傘の中で壮五が無言で環の足を蹴った。環はくっくと笑いながらあにすんだよとそれをあしらう。 あの女性の感度も怪しいが10年連れ添ったぐらいの雰囲気が出ているのならば、多少行き過ぎた仲良しだろうがそりゃあ超超メッゾで片付くはずだ。道理でアホの距離感で生きているメッゾに世間が優しいはずだった。恋人になったのはついさっきの感覚であるが熟したのは恐らく相方という絆のそれで違いない。こと恋人同士としては実に初々しいのでなんならこのロケは初めてのデートというところだろうか。 壮五はその途端ハっと閃きそそくさと万里の側に寄り、小声で提案した。 「おまけ企画~~んカップルにおすすめのスポットスタンプラリ~~~~~」 「今からおれたちが巡るのは恋愛ジョージュのパワースポットかもしれないのでデートしに来たそこの二人は全部巡れな~~~スタンプ押してまわれな~~~~」 「全部押すとお守りになるかもしれないそうですよ。不本意ですが僕たちも恋人のていで全部巡りますね」 「不本意なの!?いやさ、さっきね。ね。そーちゃん。メイクさんがおれたちみてちょ~仲よくて恋人みたいですねっつったの。うけんじゃん。でさ?じゃあどれぐらい付き合ってる様にみえるかって聞いたら」 「十年ってね」 「そう十年っつったの!やばマジおもしろい!ないよね!まだ結成七年だわ!」 「さ、ここが最初のパワースポットかもしれないところですね~~~」 ハートのオブジェがたくさん置いてある、という理由だけだったが確かにカップル向けのフォトジェニックな空間だ。カンペが出たので見ると壮五はどちらかというとずっこけそうになる。環も確認してゆらっと俯いた。笑うのを噛み殺したのだろう。 その反応に再びカンペが出ると今度こそ完全に環が吹きだした。 そのままディレクターのところに駆け寄りカンペを奪うと、カメラに向かってその衝撃的な指示書きを突きだす。 「こんなん笑うから!やめて!」 ディレクターも笑いながら小声でやってくださいと言った。仲はいいのでわざとおとしめる為だとか意地悪でとかでないのは分かったがさすがの環も苦笑いしながら心の中でテレビだぞ、と言い聞かせる。 そもそものカップルツアー提案者である壮五は最早ドツボにはまっているのが最初のフリから分かっていたのでここは言いだしっぺだし乗りきるしかない。否、ノリきるしかない、だ。と腹は括っていた。 「葦原さんのお願いだそうですのでね…拒否権はありませんが…」 「アッシーDだかんね。てかそれっぽいことって何だよ」 「あ、多分画面に注釈が出ると思いますが…」 カンペには"BLごっこ"と書いてあって二枚目には"それっぽいことで"と書いてあった。 同じ局ということもあるのだろう、壮五のドラマの宣伝も兼ねてくれたと分かっているのでありがた迷惑千番で心がバラバラになりそうになる。 自業自得だが人前で環と堂々といちゃいちゃする機会など金輪際無いだろうと考えた壮五の提案のつまるところはズバリそこであったので願ったり叶ったりのこの状況にふとメイク担当の薬指が頭に過ぎった。 言い知れぬ優越感。こんなのはいけないと分かっているのに、そうしなくてはいけない振りをするのが最高に壮五の気持ちを煽る。 環という誰もが羨むスーパーアイドルと相方で仲間で友人で、恋人であるその権利を与えられている今この瞬間壮五は環に一番愛されているということを隠さなくてもいいのだ。 壮五は狂気的な興奮を努めて涼しい顔で仕舞いこむとこんなものは朝飯前、何せ男とのベッドシーンを華麗に演じた僕ですので、と余裕たっぷりに環を見返したのだがどうやら彼の方が躊躇している。 昂る壮五の心音を察したかのように呆れた顔をしていた。 「…キスシーン再現って横暴すぎ。テレビだよ。なんでアンタそんなノリノリなん」 「しごとだからね。カットされるかもしれないし」 心にもない。スタンバイに真っ赤なハートが追い打ちをかける。 環がそっと壮五の方を向くとその思ったよりも真剣な表情にコイツ、役作りまでしやがって、と壮五は冷静にドキドキしてしまう。そういえばカメラが見ている。そうだ、カメラどころじゃない、人が、人間が二つしか無いその目両方を恋人同士である二人に一心に向けてこちらを見ている。 そんなとんでもないシチュエーションのさなか顎にかかる環の手が、どんどん近付く気持ちよさそうな唇が、思わず壮五は環の目をじっと見つめた。もう触れる、触れてしまうギリギリのところで、環が息だけで「ホンキ?」と言った瞬間チュ、と唇が引き寄せられるようにしてくっついてしまった。 「……!!!!!!!!!!!」 途端壮五は夢から醒めたように非常に冷静になった。 ぶわっと演技でない紅潮が露出している全ての肌を真っ赤に染め上げたのを見て、環がそれに盛大に吹きだす。 「ぶは、やば、マジでやっちった…!」 「あうい、いいい、いまみましたかみんなさ、環くにキスされました!不快です!」 「そーんな嫌がることなくね?目の前に唇あるとついな~へへ…」 画面のテロップに「四葉環の大暴走」と書かれていたが壮五にそれを笑ってやれる余裕は無かった。全国放送の特番で相方とのキスシーンが流れてしまった。絶望しながら頭を抱える。 リンリンとさきほどからスマートフォンが何かを通知しているがどうせグルチャがまわりまくっているのだ。この話をネタに。からからと笑って環が横でそれに加わっていることも分かっている。 「何かチェックした時より公然イチャイチャがっつり入ってる気しね?バンちゃんめっちゃ笑ってたしな。HQで録画しといてよかったー」 「いらない…いらない…どうして僕としたことが軽率にこんなこと……」 「これでBLのオファーおれにもこねーかなー。メッゾで主役やりたくない?」 「や!り!た!い!わ!け!あ!る!か!頭がおかしいのか君!?」 「公然セックスできんよ。アンタぜってーガチでイクな」 流石に白目を剥きそうになって壮五はソファで縮こまった。 環は面白そうにそれを横目で見ながら、グループチャットの内容を一部音声読み上げ機能で再生しうなだれている壮五の耳をこれでもかと汚す。 「メッゾ やっぱリ そうイう 関係 だッタ」 「仲 イイと は 思っテ いたけど」 「おめで と さん」 楽の「おめでとさん」で壮五がスバっと顔をあげてそのグルチャがアイドリッシュセブンだけのものではない方のトークルームだと気がついた。震えながら環に向き合って「やめて…」と懇願した。 「ああダメだ…すごく落ち込んだ…トリガーさん……え、それって全体グルチャじゃないよね…?」 「ほら、あのー忘年会で酔っ払ったアンタが作るって駄々こねて作ったやつあんじゃん。おれらとトリガーとリバーレとズールとマネも入ってるっけ?」 「"【へべれけ】逢坂壮五【わがまま】"!?!?!?!?!?!まさかここで自業自得に殺されると思っていなかった…早めに削除しておくべきだった…でもアルバムがすごい豪華だから消したくないんだ…僕が消えたい…」 ぶつぶつと何かを呟きながら時折唸る壮五の頬にキスをして、環はスマートフォンの内カメラを向ける。 「はいー。そーちゃん、いくよ。ハイチーズ」 「へ」 条件反射でカメラをしっかり見た壮五の顔はきょとんとつぶらな目をしていたので環は即座にカワイイしオッケー!と目にもとまらぬ早業でSNSに投稿してしまった。部屋着だし膝を抱えているし、すっぴんだし腐抜けた顔をしているし、壮五は急いで自身のSNSを開いて確認すると既に500、600とどんどんお気に入りの数が増えている。 肝心の投稿文は「#夫婦ではありません」だった。 「おふざけも大概にしろよっ……」 「結婚はしてねーから夫婦じゃねーじゃん。嘘じゃないもん」 「頼むからこれ生放送とかで引っ張るなよ…!僕恥ずかしいからバレちゃうよ!」 「バレちゃうん…」 今度は口同士がくっついたちゅ、という軽い音で環がスマートフォンを放った。 リンリンとお互いのチャット通知がやかましく鳴り響く中、実に背徳的な長いキスを止める理由もない。対策はしていたが一日中外にいたので紫外線を浴び火照った肌が環と触れるたびにひりひりとした。その過敏さがまた、気持ちいいなんて。壮五の気持ちが俄然盛り上がる。 付き合ってから数カ月ちょっと、仕事とはいえ初めての遊園地デートで他人に見られながらキスをした。仕事のはずが相方が恋人なもので半分プライベートだし見られたらいけないしバレたらいけない、なのにすべてが「ごっこ」で片付く二人の関係にこのときほど興奮したことはない。仲良し、最高。 「…メッゾまたやってる~とか言われるぐらい公式ちゅ~増やしてく?」 「……わけないだろ、ばか…いい加減にしてくれ…」 「またまた。コーフンしたくせに。帰りの車ずーーっと手触ってきてめっちゃかわいかった」 「……………狸寝入りしてたのか……忘れろ…忘れるよー忘れるー。環くんいいこだからスっと忘れるー」 「どっかのだれかさんが悪いこにしてくれたんで忘れません」 とはいえ、環に問答無用で横抱きにかかえあげられた壮五はとても気分がよいのでがっちり首にしがみついていい匂いのする耳元に軽く口づける。 耳が弱いので当然びくっと環が反応したのが嬉しくて壮五はふふふっと足をぶらつかせた。 「やん……こしょばい…」 「みみすきなくせに。ふっ」 「っおい!きもちいからやめろ、んっ、くっそ…なまいき」 耳朶を甘噛みするほどスイッチが全開にオンな壮五をベッドにぶん投げた環は二人分の通知音が今もなお鳴り響くリビングから隠れるようにして寝室の扉を閉めた。 その晩特番を見たファンの投稿"超超超仲良し"で二人が日本のトレンドに入ったのは言うまでも無かった。

Episode**ファンファンピュアラブスイートメイズ

この歳になっても無邪気溌溂なシチュエーションを以てしてメディアがメッゾに若さを求めてくるというのは、十中八九いつでも自由奔放な環のせいだろうと壮五はいつも思っている。 年齢が上がるにつれポップでカワイイな衣装80:シックで大人な衣装20の割合が逆転するとたまにであったとしても膝から下を露わにしたハーフ丈のパンツやカラフルな水玉模様のタンクトップを着用するのは正直言って恥ずかしい。パンツと合わせた白の薄いカーディガンを羽織っているとはいえとてもじゃないが27歳がしていい格好でない気がするのだ。真夏の陽光が眩しいがそぐわないのでサングラスもかけられない。 だってトータルで見たらあまりに面白い。熱い砂に塗れた足元に壮五は目を落とす。 一方、環はというと着たものでイメージが左右されることなどほぼ無い。 普段からハイセンスな柄物を躊躇なく身につけるし猫の耳付きのパーカーだって未だにたまに着ているぐらいだ。世間の24歳が普段使いできるようなワードローブではない気がするのだが、何故か環が着てやればなんだってさまになった。 背が高くやや筋肉質だがすっきりと引き締まったその身には今日、淡い色のダメージデニムに背面が凝ったデザインの蛍光グリーンのTシャツで袖をぐるぐるに肩までまくっている。 いや何でだ。色使いはともかくチョイスは多分逆だ。自分にどんな振る舞いをしてほしいのか分からないが恥ずかしい。これが全国の書店に並ぶ雑誌の表紙になるかと思うとめちゃくちゃに恥ずかしい。 先を見遣ると環はとても嬉しそうにスタッフと岩場を覗いたりしている。海での撮影は今月三回目であった。 「ね!カニ!カニ!あげる!」 「いらないよ…元気だな…撮影までに衣装汚さないようにね…」 「ノリわる~~。へーきだって。てかなんか今日海めっちゃきれいじゃねえ?」 「そうだね。快晴だし気持ちがいいよ」 眩しいので目を細めながらキラキラとする水面を壮五が見遣ると、途端環が吹きだした。 「?どうしたの」 「今日そーちゃんなんかかわいくね?なんだ?ふく?」 「…近所の商工会でふくびきやってそうな君に言われたくないよ」 「小声でシンラツ…よしよしかわいーな~。ガキんちょみてー」 「海での撮影始まったら覚えておけよ」 「臨むところだな。びっちゃびちゃにしてやんよ」 やがて撮影スタッフの声に促され、待機場所であったパラソルの外に出た壮五は「海での撮影時、カーディガン脱いでもらってもいいですか?」という地獄の要望に笑顔でわかりましたと答えたのだった。 (ファンファンピュアラブスイートメイズ) 「二人共お疲れさま!すごくはしゃいでいて見てて楽しかったよ。近くの施設でシャワーを借りれるようだからそこまでは車で移動だっていうんだけど、……大丈夫?」 「ねーごーめんってばーー」 「絶対にゆるさない…万里さん、結構濡れているので、シートだめだと思います…」 「大丈夫!ブルーシートをしいたから防水ばっちりだよ!」 「そおちゃあん」 「いいからはやくのってくれ!」 壮五がカリカリしながら怒鳴ると、うなだれながらも環は先に社用車に乗り込んだ。 二人共一旦海に沈みでもしたのか頭からつま先まで全身がずぶぬれで壮五のくせ毛がへったりとしょげていた。環の商工会Tシャツもぐたぐたに濡れていて羽織ったタオルもすぐに水浸しになるほどだ。 車内は万里が気を利かせてかなり涼しく温度設定されていたのだがアホほど濡れていた壮五はすぐに身体が冷えてしまった。弱めて貰おうかとも迷ったが、どうせ環は暑がるだろうし施設までは五分もかからないと言われたので軽く歯の根をカチカチと言わせながらもじっと我慢していた。 さあいざ目的地に着くと随分古びた市民プールだった。環があからさまにげんなりする。 確かに、都内から車で大分離れた人気の少ない穴場スポットでの撮影だった。だが確かとは言え周囲を生い茂った緑に囲まれまるきり廃れたこの雰囲気といったら。とてもじゃないがにぎわっている様子はなく、閑散とした駐車場で車のドアが開くと強烈な塩素の匂いが鼻についた。 「いやいや…廃墟ロケ思い出す…無理なんだけど…」 「楽しかったじゃないか。ここも廃墟だったら面白かったね」 「ジョーダンやめて…」 「…カメラないよね…?」 「え…」 顔を見合わせた二人にないよと万里が苦笑する。それを聞いた環は遠い目で「企画並にぼろそうなのウケル…」とスマートフォンのシャッターを切った。 道中で冷たくなった全身がだる重くよろめきながらも壮五は車を降りた。濡れた衣類がずしっと纏わりつく。芯から凍えた身では真夏の外気温ですら心地良かったが温度差で鼻水が出てくるしビーチサンダルがパタンパタンと音を立てざらつく足裏が不快だし口数は自然と減っていく。 環は震える壮五の様子を気にしながら、助手席に積んであった二人分の着替えを持って車を降りた。よろよろしている壮五の横にひっついて歩く。 「……寒かった?顔色わる。お湯出るといーな」 「出るかな…期待はしていない…」 ずびび、と壮五が鼻をすする。ティッシュ取って、と言おうと環を見たが先に受付に行っていた万里が必死で鼻をすすっている壮五を見て慌ててポケットティッシュを渡してくれた。 「くるま、寒かったね?ごめんね。気がつけばよかったんだけど…」 「いえいえ、ティッシュ頂いてしばってすびばせん、ありがとうございばす」 「体調崩さないようにね…。これ、軽食が入ってるから。シャワー済んだら少しゆっくりしていて。あと鍵。何かあるといけないし鍵は常時閉めておいてね」 「ヤッタ。あんがとバンちゃーん」 「終わったらすぐに迎えに来るから」 廃れた市民プールとは言え一応鍵のかかる休憩室を貸し切ってくれたということで多少二人の気が緩む。 万里はこのままスタッフとの打ち合わせが入っているのでしばらく時間が空くが撮影はこれで終わりだし、後は帰るだけだ。ぐったり濡れた衣類が鬱陶しいので早速シャワーを浴びに出ることにした。 すっかりオフモードになった壮五が急にさむい、いたい、ぬれててやだ、と文句をぼそぼそと零し始めてしまったので環がはいはいと言いながら手を引いてシャワールームを目指す。 場所がわからずうろうろしているとトイレの看板の奥に、シャワーというほこりのかぶった表示を見つけた環だったがあまりの廃れぶりに一瞬躊躇した。 これは全然全く期待できないと思いつつ銀のドアノブを軋ませると案の定暗いじっとりとした空間がそこに待ち構えていた。 ざらついた黒っぽいコンクリートに囲まれた奥の方にたった一カ所のシャワーブースが仕切りもないまま鎮座している。曇りガラスが嵌まった小さい天窓が頭上にあったがそこから届く精一杯の光だけでは、到底その雰囲気を綺麗に明るくしてやることは出来ずにいるのだった。 環は入口の電気のスイッチと思しきものを渋めにパチン、と押し込むとやれ古い蛍光灯が、赤みを帯びながらジーと震えた。 「いやスンゲー。モロ廃墟っ、てかこれぜってー水なやつじゃん。そーちゃんだいじょぶ?」 「砂落とすだけだし…スっといく、スっと」 「一個しかねーし。うける。オンボロ過ぎ」 「ちょっと本当に水か君先に行って」 「ヤダよ…。一緒いこーぜ。なんか変な水出てきたら怖さを共有したい」 「そんなところまでメッゾしたくない…」 言いつつ早くこの重だるい衣類から解放されたくて壮五がごそごそと脱ぎ始めれば環もぽいぽいと服を脱ぎ捨ててすぐに裸になった。 にしても、環の背丈よりちょっと高い部分に固定されている銀(に水垢がこびりついて薄白く曇っている)のシャワーヘッドから水を出すためには壁にあるコックをひねりひねればそこから出た第一水を身に浴びなければならない。被弾しない方法を悩んでしまう。 「ジャンケン」 「やだ!!!!!君さっき僕にしたこと忘れたとは言わせないからな!!あれ全国誌だぞ!!!のったら一カ月口きかないから!!!」 「はい。すいません。やります。いきます。せい!」 まるきり勢いのままにぐいっと環がコックをひねると「ぼじゅるろろるろろ…」という怪しい濁音ののちとてつもない水勢でヘッドから水が噴き出た。ブースの外にも盛大に噴射され細かい粒子が肌に叩きつけられてめちゃくちゃに痛い。そして、とんでもなく冷たかった。 「つっべて!!マジ真水!!」 「いだだだだ…ちょ、待ってよわくしろ…」 「イタ、イテ……ふは、うける、いてー!」 環はおかしくなりながらもなんとか強烈なシャワーをくぐりコックを再び半分ひねる。 すると今度は勢いが急に落ちまるで急須で注ぐお茶ほどに弱々しく衰えてしまったのを見て我慢出来ずに腹を抱えて笑いだした。 「ぎゃはは!!いや極端かよ!!!」 「ふふっ…!中間がないっ……」 「アンタじゃん!!!!」 「うるさいな!もういいや、これでさっと洗ってはやく休憩しようか」 こうと決めたら早い壮五が海水を浴びた頭から急須のお茶に打たれに行く。が、2秒で後退してきたので環が受け止めてなに?とその顔を覗いた。 「さああむいいよお……」 「いや…だろうよな…超水だもん」 「ウ、無理、寒い…抱きしめて…」 唇の色を変えて本気で寒そうにする壮五を即座に抱きしめた環はガチガチに震える身体が少し怖くなって濡れた口を舌で舐めた。特に性的な意味は無かった。どうぶつ同士がお互いを舐め合っているようなそれに近い感覚だ。壮五も抵抗せずに環の温かい舌の温度に追い縋る。 「からだつべてーな。もういい?洗えた?」 「ウウ、もういい…」 「じゃ身体拭いて待ってて」 環から離れた壮五はまるで生まれたての小鹿の様によたよたと歩きタオルにくるまったまま動かなくなってしまったので、乱雑に素早く自らを丸洗いした環はその恐ろしい程冷たいシャワーのコックを元の位置にひねるのだった。 休憩室は畳ばりの和室で、テレビもないし最早冷房もない。密閉されているからか空気が停滞していたのですりガラスの窓を少し開けると蝉の声がより大きくなって室内に充満した。環は真水を頭から浴びたせいで流石にそこまで暑くはなく万里が用意してくれたお茶とおにぎりを広げながら、まだ爪先の青白い壮五を見遣る。 「そーちゃん抱っこしよっか?さみーだろ」 「……いいよ、この部屋はあったかいから」 「ほー。んじゃ来て。おれが抱っこしたい」 「……」 ぽんぽん、と環が足を広げて間の畳を叩くので壮五は四足で近寄りそこにすっぽりおさまった。 おさまってやったというべきか。背中が熱を帯びる。膝同士が触れると二人の体温の差が如実に感じられた。壮五は環に完全に身体を預けて足を投げ出すとすらりときれいに伸びたそこに環の両足がくっついた。 耳元であしひやっとしてきもちー、と環が呟いた。 蝉が喚く。ふやけた身体の内側からじわっと熱が生まれる。環と壮五の両方からだ。 ぴくっと壮五が動いたのを察して、環は壮五の敏感な首筋に鼻を埋めるとああ、ここも冷えてる、などと思う。 「…駄目だぞ、いくらなんでも」 壮五が身を捩り環の気持ちを先に牽制した。こしょこしょと白く冷たい耳朶が頬に触れるのでそっと唇で触れてみると環は自身の唇が今までどんなにか熱を孕んでいたのかを知ったのだった。 「なんもしねーし。そーちゃんが冷たいからあっためてんじゃん。チンだよチン」 「君が言うと卑猥に聞こえる」 「チンが?いやそれはそーちゃんが悪いだろ」 くすくすと零れた笑みで穏やかな心地が二人の間に広がる。 重なった身体の熱。触れている肌と肌との感触。触っているだけならこんなに気持ちいいのに、と昨日の身体の交わりにめちゃくちゃに緊張していた壮五の姿が環の脳裏に浮かんだ。 運命の事故セックスからは二カ月程経っていてこんがらがりながらも恋人同士だと認め合ってからは二週間。付き合うと決めた日の一回から、ようやく二回目となった昨日のセックスだが初めての一回より、二週間前の一回より、うまくいかなかった。 うまくいかなかったというのもおかしいのだが、最後まで終わってからの環の持ち得た感想は「痛いの我慢してんだろな」という何とも複雑な思いであり、壮五に我慢させているのも痛くなくしてやれないのも、それででも嫌だと言ってくれない壮五の気持ちをも、環は一旦全部飲み込んで朝を迎えた。 他人の身体を触るのにこんなに恐怖心を感じたのは初めてだった。勿論、二人共。 「環くん」 「はーい?」 「今日も泊まりに行ってもいい?」 蝉の鳴く部屋が静寂に満ちる。壮五は腹で重なっている環の手を気持ちきゅ、と握ると言葉を返してくれなくなった環に「いやならいいです」と思ったよりも拗ねた声が出てしまってそのまま黙った。 何がいけなかったのか、昨日は身体がとても緊張していてそれがずっと解れなくて壮五は自分でもすごくすごくしんどかった。しんどかったというのは挿入が痛いとかオーガズムを上手く掴めないとかそういうセックスにおいての苦悩だけでなく環が何度もやめるかと問うのも痛くないかと慎重になるのもきっと自分がそう見えているからだと思ったら、どうにか環と一緒の熱量で温度で身体の熱を共有したくて仕方なくなった。 そしてそれが存外、簡単にはいかないことがとても、とても、とてつもなく苦しかった。 付き合って一度目のセックスから環に触って貰えなかった二週間、壮五はその熱が頭から離れなくて困った。自慰で誤魔化す時だって初めて環とセックスした時の気持ちよさを身体はちゃんと覚えていた。幾度もまたして欲しいと口から零れそうになるのだがはたと壮五は、また自分から誘ってしまうのは頭がおかしな人間だと思われやしないかと思いとどまってしまった。 こうしてほしいとか、ああしてほしいと素直に言えば言うほど環とのあり方までもがすれ違っていってしまう様で怖いと思った。 どんな事を言っても、どんな事を望んでも、本当に環は心の底から自分を許していてくれるだろうかと突如急激に不安に苛まれてしまった。 それに、環を自分に繋ぎとめておくのならば、せめて環が満足いくようなセックスをさせてあげられる自分でいたかった。環にとってのセックスが発散だとしたら、今までしてきた水準をなるべく下げずに保ってあげたい。そう思うほどに、壮五は自分が男性の身体であることに傷ついた。 元々相方で仲間で友人で家族だとかいうアドバンテージがあるからこそ、もっと好かれたいのだ。もっと環の望む自分でいたい。そうしたら、二週間放っておかれることもないだろうし、痛いか辛くないかといちいち気にさせることもない。きっとだ。いや、絶対だ。 セックスから日を置く度に、壮五は一人、どんどん自分に自信がなくなっていった。 幾つもの身体の交わりをどうでもいい人間と無意味にしてきた二人が初めて、愛情を持って人の身体に触れることへの責任感を感じていた。 大事にしたいのだ。お互いがお互いを。それは至極当然の感情に過ぎないのに、愛のない触れ合いが愛のある触れ合いと全く同じ行為だというだけでこんなにも不器用になってしまう。 環はふっと蝉がうるさく鳴いていることに気がついて、何か言うべきだと思った。否、何かじゃない。 既にすれ違おうとしているセックスへの恐怖心をお互い触って確かめておかなくてはいけない。そう思った。 「…そーちゃんさ、痛くなかった?昨日」 「…………」 「おれが…そーちゃんとセックスしたくないわけないじゃん。泊まりにくんのも、嬉しいに決まってんじゃん。けど、痛いとかやだとかはそれとはカンケーなくない?一緒にいんのにさ、セックス関係ないじゃん?」 「…しなくても、いいってことか」 「違う。最初っからいきなし完璧にきもちくなれないのは、おれもそーちゃんも悪くねえだろって言ってる」 壮五が、くっと息をのんだのが分かる。 環はすっかり体温の上がった壮五を抱きしめた。 「別に頑張んなくていーし。おれたちアホみたいにめっちゃ時間かけてゆっくり今のメッゾになったんだからさ、おんなじくやってきゃいーじゃん。そーちゃん、ほら、ドヘンタイでインランだからそのうち死ぬほどきもちくなれるって。ね」 うるさい、とかなんだいそれ、と壮五に言われるのを期待して環はわざとふざけたのだが、壮五は身を捩って足の間からこちらに向きじっと環の事を見詰めた。紫の綺麗な瞳が今にも泣きそうに潤んでいるので環は思わず目をそらしてしまいそうになる。 「ね………ハジメテしたとき、……きもちかった、よね…?」 「…ん……そーちゃ…」 真水でパサパサになった髪の毛がふあっと顔をかすめ壮五が環に抱きついた。耳元ですん、と鼻をすする音がしていたたまれなくなる。泣かせたいわけじゃなかった。環はそっとその背中をさする。 「…僕も、ちゃんときもちよかったんだよ………うそじゃない…」 「うそなんておもってねーよ、おれとセックスしたんだからんなのわかってんよ、泣くなっつの…」 「きもち、よく、なり、たいんだけど…」 「おれもしてあげたいよ、ねー、一回だぞ、たった一回うまくいかなかっただけじゃん…いつもみたいにもっとわがまましていーよ?"いたいったまきくんのバカ!へたくそ!"とか言ってよ…」 「んいたいのはぼくがちゃんとじゅんびできてないからでったまきくんがへたかどうかはまだよくわからないしっばかってそもそもそんなにいっぱいいってないだろっばかっ」 言ってるな。と環が苦笑して壮五の頭を撫でれば再び鼻水をすすった壮五はごめんねと零してからそれきりしばらく何も言わなくなってしまった。 『殺人必至!香辛料2億倍マシマシ!※心臓の弱い人は決して食べないで下さい』と書かれたスナックの袋をベリと開けて、壮五は手元の台本に目を落とした。 来週から始まる連続ドラマの主演が決まっていたので台詞をそろそろ煮詰めたい。 ゴールデンで求められた時の壮五の役柄としては珍しくないでろ甘いラブストーリーだったが今回ばかりは多少勝手が違った。役の性格がちょっとおかしくて共感があまり出来ないのと王道のラブストーリーなのに今までのようにヒロイン役との絆を手っ取り早く身体で深めることが出来ない。 全体的に気持ちをどう作っていけばいいか割と真剣に考えていた。 「………」 帰宅してからすぐに環が「今日やっぱしないことにしよ」と言ってきた。 内心傷ついたものの昨日のショックが無かったことになったかと言われればそうではないので壮五は大人しく頷いた。 環が言う様に一緒にいるのに必ずしもセックスが必要じゃないという考え方も一理ある。一生しないわけじゃないし今日セックスをしなかったからどうということも無いのだ。環が言うからきっと無いのだろう。 そう割り切って、壮五は壮五で気持ちの区切りをつけた。ゆっくり恋人になっていけばいい。 環の言葉はいつでも光に満ちていて壮五の身体を熱く満たす。一体いつからそうだったろうかなどと少し昔の自分達に思いを馳せて苦笑した。 好きなものを聞く環と、嫌いなものを尋ねる壮五。辛いのが好きでしょ?辛いのは苦手かい?おれのどこが好き?僕のどこが嫌?ずっと一緒にいてくれる?君をみてるよ。好かれる言葉。嫌われない言葉。安心させる言葉。不安にならない言葉。そして、お互いが求めている言葉。 考え方が正反対なのではない。思っていることは同じはずなのに捉え方が真逆なのだ。 自分が好きであることを伝えるのに必死な環と自分が嫌われないことに必死になる壮五。 考え方はきっと昔とさほど変わらない。まるで宇宙との交信のようだった二人のコミュニケーションもただ一つだけ「大好きだよ」だけはその通りの伝え方しか無かったからそう伝わった。それだけだった。 だからメッゾの根底ははじめから今まで壮五は環を環は壮五を「好きである」というシンプルで本来揺るぐはずがないもの。分かっているし、そのはずなのだけれど。 壮五は大事な台本が汚れたらいけないので買い置きの割り箸をパキンと割って殺人スナックを口に運んだ。小気味良い辛さだ。美味である。 するとちょうどのタイミングでげっと言う声と共に環が汗だくで風呂から戻ってきた。壮五が見上げると心底嫌そうに顔をしかめながら汚いものを触るようにして袋をつまみあげた。 「でった……殺人必至ってお菓子でひと殺しちゃだめじゃん…マジでやめろ?ケツ痛くなんよ…」 「だって今日しないって環くんが言うから」 「昨日もしたしキューケー。セックスもおれも逃げねえから大丈夫だよ」 隣に腰を降ろして暑そうにTシャツの首をぱたぱたとする環に、壮五は真顔で台本を押し付けた。 「愛作るから付き合ってくれ」 「…もう条件満たしてるからステップアップでケッコンしとく?」 「は?環くん相手役ね」 「いやはじゃねーし。おれがヒロインってこと?ん~待って裏声練習する」 笑いながら環がえー、なになにーと裏声で台本をめくる。しばらく無言で目を通していたが突然壮五が環を真っ直ぐに見詰めて両肩を掴んだ。そして環の壮五歴史上見た事がないぐらい溌溂とした顔でニカっと笑った。 「今からこの世界でイッチバン僕が君の事を愛してるって証明する!」 「ウッ、カワイイ、マジか!!どうやって!?おれも世界一アンタを愛してます!!」 「アレ、ねえ僕としたことが間違えてしまった。僕じゃなくて俺でしたな」 「来週クランクインなのに台詞一発目から間違えんのはやばくね???てか無理、今の顔何?そんなん出来んのそーちゃんもっかいやってもっかい。おねがいっ」 「あはあああ、やめて…抱きつくなあ……」 台本をぶん投げた環が壮五をがっちりと抱きしめてソファに転がる。抵抗のしようがないのでなすがまま環の頬ずりを受け止めていると油断していた口をかぷりと塞がれた。 しないと言っていたのでびっくりしてうろたえているとぱっと口を離した環がカライと一言零した。それを聞いた壮五は殺人スナックを食べた口で環とキスをしてしまったことが無性に恥ずかしくなって軽く環の足を蹴るともがいて腕から逃れる。 「しないって言ったじゃないか、ばか」 「ちゅー?いつ?言ってねーし」 「……」 「え?言ったっけ?」 環のあっけらかんとした返答に壮五はみるみる赤くなりながらそっぽを向くと足音をたてて寝室に駆けこみ勢いよく扉を閉めた。閉めたはいいが中はびっくりするほどの極寒で暑がりの環の仕業だろう。クーラーの温度設定が18度になっていた。頭にきて即座に電源をぶち切る。そのままタオルケットにくるまり目を瞑って怒りの籠城だ。 「……」 したものの。壮五は環がすぐに追ってくると予想したのに中々来てくれないのでそっと目を開けて耳を澄ました。冷蔵庫を閉める音。炊飯器の予約炊きの設定音。電気のスイッチを切った音。 からりと引き戸が開いて環が寝室に入ってくる。壮五は再び目を瞑ってそれを無視する。枕元にある充電ケーブルをスマートフォンに接続した音。カケル2。こつこつと爪が画面に当たる音が数秒響き、やがて消えた。シーツを滑る身体との摩擦音。いやあっちーし、と零してエアコンのスイッチが入る。ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、と9回連続で電子音が鳴り、設定温度が27度に変更された。どさりと横になる音。 「消すかんねえ」 環の静かな声と共にルームライトが一番弱い光に絞られた。びっくりするぐらい全然構ってくれなくて壮五はとても寂しくなってしまった。もうちょっと相手にしてくれたっていい。しないと先に言ったのは環のくせに。ああけれど、昨日うまく出来なかったのは自分、だったか。 壮五は無言でのそりと起き上がってベッドから降りる。籠城は失敗だし、台本も読めなかったし、環には構って貰えないし、ついでに歯も磨いていなかった。 「…あ、…おれもだな。ねーまてこら無視やめろ」 何も言ってはいないが環には壮五が歯を磨きに向かったのなどお見通しだった。それも何だか面白くない壮五は不機嫌そうにして洗面台に立つと背後から環が歯ブラシに手を伸ばした。 「無視やめましょうー。傷ついてますタマキクンはー」 「……傷ついたの僕なんで無視します」 「え、何に傷ついてんの?エッチしないこと?する?…しよっか?」 はあ、とため息をついて壮五はさっさと口をゆすいだ。今日はもう通じ合える気がしない。細かいすれ違いが多くて疲れてしまった。こうなった時の環の愚鈍さに対する苛立ちは多分寝て起きないとリセット出来ないと判断しきっかけもくだらないしそのまま黙ってやり過ごすことに壮五はした。無論、環が少しだって悪いわけじゃないことをよくよく分かっていたからだ。 自分が素直になれないだけなのでこれ以上求めたら喧嘩になる。 「疲れた。寝よう」 「おれにー?ねーー」 壮五は寝る、じゃなくて寝ようにしたのはせめてもの譲歩のつもりであったのに環にそんなことはやはり、伝わらなかった。ぐっと腕を掴まれてその場で抱き込まれ唇を割られると歯磨き粉の香りが鼻から抜ける。壮五は弱く拒否するのに、環はとても強引にしてきて気持ちがとことん噛み合わない。アレ、地球の裏側にいるぐらいなんとかだ、と壮五はこうまでしても感じているキスの快感にいたたまれなくなった。 「っ……はあッ……もう、違うよっ……」 やっと離れた環に減らない口からついて出るのがそんな言葉でしかないことが、壮五にもっともっと自分を否定させてしまう。違うのはこっちだ。キスは嫌じゃないのに焦る心とは裏腹に両手は環を押しのけていた。 「……やだ……?」 環の顔が不安げに曇る。黙ってしまった環に壮五がハッとした時には既に遅かった。視線が逸れて表情を変えないままにこぼれたぼそぼそとした声が排水溝に吸い込まれていく。 「…そーちゃんがやなら、別にしなくっていいよ。セックスもキスも、おれ我慢するし…。他のやつとしたいわけじゃないし、たまに触ってくれるとか最初ん時みたいにしたいとき言ってくれればいいし、…そんなやならおれからはもう言わない」 「………」 「違うって言われても…そーちゃんが欲しい言葉……いま全然わかんねえし………てか、」 拗ねたようにして朴訥と話し続けていた環が急に俯いた。 予想外の反応だったので何も言えないまま固まっていると二の句が次げずに言葉を詰まらせた環がベチ、と自分の頬を叩いたのを見て壮五の心臓がびょんと大きく跳ねた。 「…あーー、くっそ、うまく言え、ない、ぃ…」 とうとう言葉尻が濁ったのを聞いて、壮五は環に飛びついた。 先に拗ねたのは壮五だし素っ気ないのもいつものわがまま、どうせ分かってくれるだろうなどと甘え過ぎていたようだ。ぎゅっと一度強くしてから背中を高速でさする。 「ごめんごめんごめん、ほんとにごめんね、違うんだ…!環くん全然悪くないからね…!」 「…なんで、おれがわりんじゃん…」 「僕が環くんに甘え過ぎてしまった…傷ついたよね、ごめんねっ…」 「う゛、き゛す゛つ゛い゛て゛な゛い゛…さ゛わ゛っ゛て゛い゛い゛の゛か゛よ゛……」 「いいいいいよっ…泣かないでくれ、ごめんね…ごめん……」 いいと言ったのにこそっと触れる程度にしか腕を回さない環の代わりに壮五は自分の持てる全て渾身の力をもって環が軋む程強く抱きしめた。 大人になっても変わらず感情表現が豊かな環はしょっちゅうよく泣くし笑うしそして怒る。けれども壮五が環に対して精神的に甘えられる様になってからは壮五の喜怒哀楽にいちいち狼狽して振り回されることはほとんど無かった。 壮五の無茶な我儘は環への信頼の証拠だとちゃんと分かっていたし、ありのままの感情表現が出来るようになった壮五は20歳の時の彼よりも間違いなくのびのびと生きている。だから、環にとってみればそれが壮五の健康バロメーターでもあり、ひとつの安心感だった。 しかしながらそこに恋愛要素の微塵も乗せていなかったメッゾがいきなり愛を乗せてみたところで言うなれば彼らは恋愛初心者。そんなものは当然、上手くいきっこなかった。 今まで他人との身体の繋がりこそあれど愛など決して求めてはこなかった両者が何もかもを分かり尽くしている、分かりあえるだろうと過信とも言える深い絆の上にいながら自信満々にしてお互いのお互いがどんどん乖離していく。 加えて環は、壮五もメッゾも今はまだ両方が大事だ。 愛を乗せることになったのは大層喜ばしいことだと思ったが、元からある方の、壮五が愛を乗せていなかった方のメッゾも大好きだった。 最終的に環の結論としては愛が無くても側にいてくれるならばそれでいいと言いたかった。 でもそれというのは、愛を自覚した壮五にとってどう聞こえてしまうのかが怖くて言えなかった。 触りたい。だって間に愛が無くても触って嫌がられることは無かった。一緒にいたい。間に何が無くとも隣にいて居心地が悪くなったと思ったことは決して無かった。なのに壮五が愛だと思ったらこれらは全部愛になり、意識した彼に拒絶されてしまう。一度こうなったものを、簡単に元に戻せないことぐらい分かっている。 やきもきしてそれでも嫌いにはなってほしくなくて、身体の関係があってもなくても好きだとたったそれだけを言いたいだけなのに"正反対"だからか一ミリだってうまく伝わらない。 そのくせ壮五の心の拠り所で居ることが環の幸福のはずなのに、そこを護れずして愛などいらない、くだらない、と、そう思ってしまったら「壮五のことが恋愛的に好きな自分」が、やっと叶った愛を手放したくなくて泣いてしまうのだから致し方もない。 「も゛お゛お゛…あ゛い゛め゛ん゛ど゛く゛せ゛え゛え゛……そ゛お゛ち゛ゃ゛ん゛だ゛い゛す゛き゛……」 「うん、うん、僕も大好き、わかったから、ね、ごめんね」 「きすもセックスも、やめたくない、ぃ…でも、もし、もしそんなんでおれのことイヤになるぐらいだったら、しなく゛っ゛て゛い゛い゛か゛ら゛あ゛…す゛き゛で゛い゛て゛…う゛っ゛…」 「うん、キスとかセックスが嫌なんじゃなくってねっ…ええと、ああ…、これほんと僕が悪いな…ごめん…」 「…ん゛う゛、ぜんぶおれがわるくていいからキライな゛し゛………」 「はい……ごめんなさい……」 さらさらと背中を撫でていた壮五の手が環の襟足を柔らかく掻きあげてくすぐる。穏やかな眼差しで伸びあがった壮五は環の濡れた目尻に吸いついて弱くて優しい甘過ぎる涙を唇で掬い取った。 甘やかしてくれる歳下の恋人、甘やかされていてくれる歳上の恋人、認識の違いはいつだって重階層の迷路となって二人をいかにも得意げにすれ違わせてくれる。 側に居たら、愛を認めたら気持ちが通じあうかと言われたら決してそうではないのを痛感する度に近すぎるお互いの心が常に剥き出しで、繊細なそれに素手で触れているのだということを壮五は改めて思い知ったのだった。

Episode**ノットクローズ

--- 衣擦れの音が充満しお互いの甘ったるい香りにいい加減脳がいかれてしまいそうな気がした。 熱い身体、奥まで深く穿たれた欲の塊に締め付ける内壁と溶け合って零れ落ちて行くようなダメになるキス。好きに支配された壮五の全身が震える。 温度の高い室内に、クーラーの自動運転ががりがりと音を立てて冷風を生みだそうとしている。環の顎から滴る汗がそよぐ風で一瞬のうちに冷える。 のぼせた赤い顔を見下ろすと環はやはり今日も約束は果たせそうにない。 「つーかやっぱダメ。ゴムなしではしない。ごめんな」 「……またうそついた…」 「だってやっぱイヤなんだもん」 「じゃあキスしてくれ…」 「キスならやだまで出来る。ずっとしてあげんね」 「ん……すき…」 遊ぶように啄ばむキスに壮五はうっとりしながらその快感を追う。ただ単に唇を触れ合わせる軽いものからお互いの喉の奥まで舐め合っている様な深いものまでキスという行為に異常に偏愛を持つ壮五だが、大袈裟でなく環が許せば本当に何時間でも貪りあっていられるぐらいにはキスをするのが大好きだった。 女性とのセックス時にはどうだったかと言われると正直そこまで意識して性行為をした覚えがないのでこんなに拘って唇を求めることは恐らく多分、きっとしていなかったとは思うのだが。 とにもかくにも環とのキスは最高に気持ちが良い。環が上手だということも相俟ってかセックスの最中、例え挿入していたとしてもキスをされれば意識が全て唇に持って行かれそうになるほどだった。目を見られながらゆっくりと近づいて来られたりすると期待値がぶちあがって触れられた瞬間達してしまうのではないかと錯覚する。実際、達する時にキスをしていてくれないとイキきれないとでも言うのだろうか、物凄く不完全燃焼気味になってしまうので環は少なくともイク直前には必ず口を塞いでくれた。 「……明日誕生日じゃん。なにほし?」 「…ちゅう、一年分券…」 「頭悪そう過ぎて怒られんぞ…」 「ゴム無しセックス…」 「言うと思ったわー。ヤダ。それも怒られる」 「誰に?」 「良い子なそーちゃんがすきなひと」 「は?僕めちゃくちゃ良い子じゃないか。それは不本意だ」 「良い子っつーんはそんなふしだらなお願いを誕生日にねだりません」 「じゃ良い子な僕は何が欲しいんだい」 「まともな会話とかじゃね?」 ピロートークといえど例外なしの通常通りにふざけまくる。といってもお互い体力の限界ギリギリまでセックスに費やしてしまうので、長くおしゃべりをしている余裕は無かったりする。意味のないおふざけを言い合いながらくっついていると自然とまどろんでどちらからともなく寝息が立つので朝まで灯りがついたままなどはよくあることだ。 今日は泊まりがけの地方ロケの最終日で、明日の朝は8時半にはロビーに集合する。現在時刻は23時55分。何故刻むかというと今日が5月の27日だからだ。明日は壮五のもう数えなくていいと言われた何回目かの誕生日である。あと5分。 「明日…どんなに遅くても7時には起きるからね…」 「起こして。あ、そーちゃんまだだぞ、もすこしだからがんばろっ」 「ん……」 「寝んな~!あと3分、なっ!起きてて!」 「…………」 努力虚しく力尽きた壮五の寝顔にあと少しだったのに、とがっくり肩を落とした環は10秒前から一人でカウントダウンをし日付けが変わった瞬間実にアイドルらしからぬ気の抜けた半開きの唇にキスを落としたのだった。 --- (ノットクローズ) ----- やわらかくてあたたかい感触で目が覚めた。 いつもの壮五の髪の匂いが鼻孔に充満していつの間にか寝てしまっていたのかと身体を起こす。不思議とだるくはない。自室の住み慣れた感覚にふっと安心する。 ようやく隣で眠る壮五に視線を落とす。 端正な顔立ちに濃い睫毛。ふっくらとした唇はきれいなピンク色で無駄に可愛らしい。少しパーマをあてたようにふわふわでやわらかいきれいな長い髪の毛…? 「…そ…?」 弾力のありそうなつやっとした肩に普段とは違うやわらかな印象を抱いて一瞬環は目を閉じる。数秒してから再び目を開いてじっとその姿を見詰める。 待て。こいつはどなただろうか。壮五の雰囲気はある。髪の色も顔立ちもとても似ている、いや似ているというレベルじゃない、そのままである。しかし、サイズ感がちょっと違う。 全体的に小さい気がするし何より髪の毛がしっとりふわふわのロングヘアであり良く見るとなだらかな曲線の身体は女性そのもののやわらかな丸みがあるように思う。 女…?誰…? 環の記憶は昨夜の壮五とのセックスから日付けが変わるまであと少しだというのに寝落ちしてしまった壮五に仕方なくおめでとうのキスを勝手にしたところで終わっている。 と、そんなことをしているうちに壮五の様な女性がみじろいで目を擦った。お目覚めしてしまう。 「う…あさ…?おはよう…目ざまし鳴ったかな…」 「…そーー…ちゃん…ですか…?」 「は……?」 「いやーおっぱいあんな…。誰?」 「……?……へ…」 何だか声まで2トーンぐらい高い気がする。ゆっくり身体を起こした壮五が環のガン見している自らの胸元に視線を落としやわらかそうな二つの大きなふくらみを確認するときょとんと心底不思議そうな顔でこちらを見た。常の二倍は黒目がちな気もする。 「おうさかそうご…です…」 「いやいや、おれの知ってるそーちゃんは男だな」 「僕の知ってる僕だってそうだけど…」 「まじか。昨日何してた?」 「ロケ。セックス。あとさんぷんーって言ってるの分かったんだけど眠かったー」 「まじだな。そーちゃん何で女んなっちゃった?」 「…分からないよ…でもここは君の部屋?だったら夢じゃないか?ホテルにいたし僕たち」 「ユメ。はあ。なるほどな。おんなじ夢見てんの?すげ」 「本物の僕が見てるかどうかは分からないんじゃない。というか君の願望なんじゃないのか?実は常日頃僕が女の子だったらなって思ってるんだろ」 「願望…?申し訳ねーけどマジで一回も思ったことねーな。もしそーちゃんが女だったらぜってーー避けるタイプ。関わり合いたくない感じな」 「おい、どういう意味だ」 ふわっとあくびをしたどうやら壮五はその豊かな胸のふくらみや身体の全てをまるで隠すことも恥ずかしがることもなく環の隣に佇む。あまりにも堂々としているものだから、久々に見た女性の身体だったが驚くほど何も感じなかった。もしこれが壮五だから、という理由でそうなっているのであればメッゾすげーといわざるを得ない。壮五がもしも女性になってしまったら、という夢の様な設定を乗せたとしても二人のメッゾは揺るがない。そういうことになる。頑丈過ぎた。慄く。 「どうしようか?とりあえず、朝ごはん食べる?」 「…おー。何かあったかなおれんち」 ベッドからひょこんと降り立った壮五の、背は小さいがすらっとしたその全身が目に入ると、環は思わずちっちぇ、と口にする。 「ちょーーちっちゃくね?え、これヘーキ?顔ちっちゃ…!手えちぃっっちゃ……!」 「ほんとうだね。すごく環くんが大きく感じる。ちょっと抱っこしてみて」 「図々しさは健在で安心するわ…」 壮五が両腕を広げてくるので脇の下に手を入れてぐっと力を入れた瞬間羽根の様に軽々とその矮躯が持ち上がって環は衝撃を受けた。軽すぎる。 反動で思ったよりも高く持ち上がった壮五はびっくりしてひあ、と可愛い声が出てしまう。 「び、っくりするぐらい軽いな…」 「急に高いだろ!怖いよ!」 「だってめっちゃ軽かった…不安…ぎゅってしたらつぶれねーの…」 「してみて。潰れたら目が覚めるかも」 「こええよっどういう発想だよ…!」 怖々とそうっとベッドに降ろすと笑いながら壮五の方から抱きしめてくるのを、環はいつもの三割程度の力でしか抱き返せないのだった。全身がやわらかな風船のようでキメの細かくて荒れのひとつもないつるつるな肌は触れているだけで消えて行きそうな儚さを感じてしまう。 急に怖くなって、いつもの壮五に触りたくなった。夢だったなら、もう醒めてもいいのに。 曇った環の顔を見ながら、壮五はお構いなしにけらけらと笑っていた。 「ねえ、僕服何着たらいいかな?」 「…え、夢だしもしかしたらそこらへん開けたら入ってるとかじゃねーの」 「下着もないし…僕一日中ノーパンで過ごすのは嫌だな」 一通り箪笥をひっくり返してみたが、現実に忠実ないつものワードローブである。下着どころか女性用の衣類の一枚も入っていなかった。夢のくせに融通がきかない。 その間も素っ裸でとことこキッチンを歩きまわる壮五をさすがに目に余してしまいとりあえずのTシャツとパーカーを与えた。言わずもがなのオーバーサイズで太腿の真ん中辺りまでは平気で隠れてしまうほど環のサイズでは大きかった。 一応環の下着を渡してはみたものの、ウエストというかそもそものサイズ感が全く大きくて腰にも引っかからないので仕方なくノーパンのままである。なんだか不憫に感じてきてパンツぐらいはコンビニで買ってきてやろうかな、と環は思った。 壮五が冷蔵庫から卵を取り出してこちらを振り返る。 「スクランブルエッグの気分だからそうしてもいい?」 「あー、うん。あんがと」 「はい、環くんはパンを焼いて」 「うす」 全くいつも通りだ。壮五と過ごす朝と何ら変わりがない。この全くの違和感の無さに環は気持ちがぶれそうになって少し苦しくなってしまう。壮五が女性だったら。もし、本当にそうだったなら。 環はパンに焼け目が付くのを見ながら泣きそうになってしまった。 「食べたらパンツを買いに行きたい」 トーストとスクランブルエッグ、ベーコンもあったのでそれも焼いてすっかり朝食だ。 夢の中なのに牛乳の賞味期限が切れていて壮五に怒られた。先程から妙に忠実過ぎるし環自身の夢ならばもう少し都合の良い世界であってもいいだろうにとうなだれた。 環が三枚目のパンをかじったところで壮五が唐突にそう言ったので首を傾げる。 「買いに行きたい…?おれがコンビニで買ってきてやっからおとなしくしてたら」 「ううん、ちゃんと下着やさんに行って買いたい」 「は…?」 「それで、服も欲しい。せっかく女性になったしスカートとか履いてみたい」 「…は……?」 「たまきくんとデートしたい!」 「………はっ………!?」 その小さな口でトーストをまるでネズミみたいにちまちまかじる壮五を見ながら環は眩暈を覚えた。外にノーパンで…いや、そうじゃない、例え壮五だとしても今は女性の身体なわけであってそんな中街を堂々と二人で歩くわけにはいかない環はどうにか説得しようとうまい言い訳を考える。 その間に壮五は恐らく環の思考など筒抜けなのだろう。あっけらかんと夢だから、と前置きした。 「別に人に見られてもいいと思うんだ。デートしたくない?」 「夢…か…そ…え、でも…夢だって、もしかしたらなんか追っかけまわされたり、写真とられたりとか夢なりにへんなことなったりしねーの…?」 「それはわからないよ。でもなったら逃げたらいいじゃないか。いつ君が目覚めるかわからないしそうと決まったらはやく行こう!」 「ゴーーインっ……だってどーすんの、服とかっ!」 「服はこれでいいよ。ワンピースみたいに見えるだろ?」 「超前向きだな。めっちゃ安心するわ。わかった、おれも楽しむ」 「それでこそ僕の相方」 満足そうにした壮五がにこにこしながら環の口の端についたケチャップを舐め取った。 「やばい。めっちゃ入りずらい」 「え、女性と入ったことない?」 「は……あんの?」 「お忍びでだけどね」 ぶかぶかのくま柄のパーカーにきつく紐をしばった大き過ぎるスニーカーをはいてまるで幼女の様な出で立ちをしながら壮五はパステルカラーのランジェリーショップに躊躇なく進んだ。 ノーパンなのは言わずもがなだし胸のふくらみもオーバーサイズなのに誤魔化しきれておらずけっこうでかいなと環は男の本能でそう思う。気まずそうに店内に足を踏み入れる。 「どれがいい?」 「どれも一緒に見えんな~。…これは?メッゾ」 「あ、きれいな空色だね」 「紫も入ってるしきれーじゃね」 「じゃあそれにしようか。サイズ測ってもらってくる!」 「さいず…?ほー、そういうもんか…」 環の直感で店内に入ってすぐの目立つところにあった空色の上下セットにものは決まりサイズを測りに消えた壮五を手持無沙汰に待つ。なんだか段々緊張してきた。どこに目をやっても下着だらけだしなにかスマートフォンを出して変に思われても嫌だし、とおろおろしていると店員が「かれしさんですか?かけてお待ち頂けますよ」と試着スペース脇の椅子をすすめられた。 どうやらこの世界では自分はアイドルの四葉環とは認識されないようだ。密かに感動する。 妙な緊張感に身を包まれながら椅子に座っていると、試着室のカーテンから壮五が顔だけ出してきょろきょろと辺りを覗い小声でたまきくん!と呼ぶ。 「きて」 「?なに」 「どう?」 何事かと近寄るとちょっとカーテンを開いて既に身につけていた先程の下着をどうかと問うてきた。ふいうちに驚くが、実に素直にいいんじゃん、と口から零れていた。 「ほんと?これでいいかな」 「…ん。かわいーとおもう。たぶん」 「わかった」 シャ!と勢いよく再び閉まったカーテンに阻まれ環はちょっと照れた顔をさすった。 けっこうな値段のした下着の会計を環が済ますとかわいらしいショッパーを手にして上機嫌な壮五は引き続きオーバーサイズのパーカーをひっかけた矮躯で次は服がほしい!と言った。 現実でのこの場所は隣駅にある近所のショッピングモールだったが夢の中でもまったく同じ作りで同じお店が並んでいた。普段は近づかないレディースファッションのフロアに二人で向かう。 エスカレーターに乗ると前に乗った壮五の双葉がちょうど鼻のあたりにふよふよとしていてせりあがる段差があってもまだ環の方が目線が上であることに改めてちっちぇ、と環は思った。 「どこにいく?」 「これから?」 「そう。それによって服装かわってくるだろ?」 「あーそーな。でも、せっかくだしいろいろ歩きたくない?おれらのこと誰もしらねーっぽいし」 「うん。じゃあ、動きやすいほうがいいのか?」 「…おれそのカッコもかわいーと思うけど」 「…?そうなのか?じゃあこのままでいい?」 「さすがに下ははいたほうがいいんじゃね?」 「うーん。これはこれで慣れてきたからまあまあ快適だ」 フロアに着くと壮五はきょろきょろと辺りを見回して周囲とはすこしディスプレイが個性的な感じのするショップに足を踏み入れた。新作というコーナーにかかるアウターについたタグをひっくり返して何かを確認してからすぐに店員に声をかける。環はそれを黙って後ろで見ていた。 「あの」 「はい!」 「このパーカーに」 「あ!これうちのメンズラインですね。彼丈でかわいらしいですね。とってもお似合いです。素敵にお召し頂いてありがとうございます」 「ふふ…彼の趣味です…あの、これに合わせて出来れば全身のコーディネートをして頂きたいのですけど」 「はい!もちろんです!こちらへどうぞ!」 はあーー、と環は壮五の頭の回転の良さにひたすら感心した。ここが件のパーカーのブランドのレディースラインだとは思いもしていなかった。しかしここにきて壮五が環の服のブランドの系列をしっかり把握しているだなんてなんだかドキっとした。絶対に壮五は普段着たりしないイメージなのだから余計だ。実は環の思っているよりも色々と把握されていたりするのかもしれない。 それからしばらくは着せ替え人形の様にあれでもいいこれでもいいと店員と盛り上がる壮五は、最終的にパーカーの下に着る為の淡い水色のストライプの入ったロングシャツワンピースとスニーカーとキャップを手に入れた。 手持ちが足りるか不安だったが、なんとか入っていた分でおさまったのでほっとする。インナーとしてきていたTシャツを脱いだのでそれが入ったショッパーをぶらぶらさせながら壮五はずっとご機嫌だ。 環の真似をしたのか黒のキャップをちょこんと被った頭がこれまた小さくて思わずぽんぽんと撫でてしまう。 「ぼーしかわいーね」 「おそろいにしたんだ」 「はは、うれしー。てか髪結わいたら。ちょっと暑そう」 「あっじゃああそこ!なんだかキラキラしてないか」 はずむ声で壮五が指差した方を見ると、ごちゃっとたくさんの細かな装飾品がまとまっているアクセサリーショップがあった。 またもや躊躇なくその店内に入っていく壮五に通路も狭いし若干入り辛い雰囲気を感じながらも環はそのあとを追う。 「種類たくさんあるんだな、どれがいいかな?」 「結わくだけじゃん、おんなじじゃねーの」 「けどいっぱいあるよ。みて。メッゾ」 「流行ってんのかな?けっこーあんね」 「さっきの下着みたいだね。これでいっか」 「だんだんテキトーなってきてんじゃん…」 「お買いもの飽きてきた。なにか食べたいね」 「ふ…。うん。あ、じゃ下でコーヒー飲もうぜ。今プリンのメニューあっからおれそれがいい」 コーヒーという単語にうんっと頷いた壮五に、ふと元の壮五を重ねてこれは夢だったと、またいちいち環はドキっとした。 購入したきれいな色のヘアゴムで低い位置でふたつに髪を結わいた壮五はその容姿に似合わぬ水出しのブラックを啜りながらふう、と一息ついたようだった。 人のいない壁際のカウンターに並んで座り環も期間限定のメニューであるフラペチーノを一口飲んだ。ここぞとばかりに店内を歩きまわった疲労感がじわじわきている。こんなにゆっくりと人の買い物につきあったことがない。ちょっと疲れた。 人のというか、女性の、だろうか。世の男性はさぞかし大変だろうなと少し思った。 「たまきくん~」 「はいはい。飲んでみんだろ」 ふいに腕をつつかれて壮五の間延びした声はいつだっておねだりのそれである。いい加減慣れたのでストローを向けて差し出すと身を乗り出してその唇でストローを食む。ちゅ、と中身を吸ったのが分かるとすぐに離れた唇はあまいと動いた。環はそれにしばし見とれる。 くるんとした目が環を見ると、そのあまりにも呆けた顔に吹きだした。 「キスするかい」 「……夢だし、いっか」 「いいよ。誰もみてない」 少し目を伏せた壮五にそっと唇を重ねて離れ際にぺろと舐めるとプリンの甘い味がした。思わず笑ってしまった。 「プリン味」 「え?」 「そーちゃん、いえ帰んね?」 「…せっかく服も揃えたのにか?」 「えっちしねーの」 壮五の腕がぴくんと震えた。そして、男の壮五はしない、出来ない、のかもしれない女性特有の甘い声で「する」と呟いた。その雰囲気に環の本能が腹の底で渦巻く。 生き物本来のセックスの理由である生殖が成り立つ雌雄の抑えられない欲望。壮五という女性の身体にこれ以上ない、否、今までにないぐらいに欲情していく。 やっと夢らしくなってきた。 ぐるんと世界の反転。いつの間にか玄関でお互いの口内を貪りあっているのに気が付き環はそのぼやっとするほどの激しい興奮にかぶりを振る。 柔らかくて強く握ったら潰れてしまいそうな身体がひどい熱量で腕の中にいる。 「…くち…はなしたらいやだ…」 「…ん……誕生日だからなんでもいうこときーてやんよ」 「夢だからゴムつけないで」 「っそ…れは、だめだろいろいろ…」 「夢なのに?誕生日なのに?」 「泣きそうな顔してもヤダっつの…」 潤んだ瞳に見つめられカシャとまたシーンが変わる。ベッドの上でお互いの身体同士が溶ける。まるで手の平にのせられたチョコレート。体温で徐々にゆるくゆるく形が崩れて行く。甘ったるい匂いだけが濃厚に乱れてその周囲が汚れていく。 男女のセックスの汚れはどこまでも残る。拭っても拭ってもこびりついたお互いの精の香りは消えたりしない。ぐちゃぐちゃに濡れて喜ぶ壮五の入り口には既に三つ分の指が埋まっていて奥をくすぐる度に喉からきれいな声が漏れた。 環の雄の部分を最大限にいじめるその声は耳からも目からも環を支配して固く組まれた壮五の手の平をより強く握ってしまう。 約束なので唇は本当にずっと触れている。塞いだり触ったり舐めて齧って好きに弄ぶ。 「あ、す…き………すき、たまきくん………」 「ん……だいすき、そーちゃん…」 「……いれてみて…」 目が合う度にどうしてかカシャカシャと移り変わる。どんどんスライドしていってしまう。急な快楽に苛まれて目を閉じると、やはり昂りはもう最奥まであつい粘膜に抱かれていて小さな身体が敏感に自分の下で跳ねている。怖い、ぐらいの、快感。 この中に包みこまれているのだと思うと急に愛おしくなってなだらかな下腹をぎゅ、と優しく押し込むと子宮を外からも中からも刺激されて壮五は泣き叫びながら腰を浮かせる。 構わずゆっくりと壮五のいい部分ばかりをごりごりと削りながら出し入れし、呼吸もまともに出来ずもう恐らく正気ではいない壮五を抱き起こす。 「っひ……う…た…たまきく…や、も……」 「……や…?」 「やあ……こわ…こわいからあ…」 「おれも…すげーこわい…夢じゃなきゃやべーよな…」 穿ったまま正面から抱きかかえていると壮五は自ら腰を上下していてこの動物的で本能的なただの性行為についてが何故こんなにも気持ちが良くなってしまうように出来ているのか、殊更不思議に思った。しかも、感情がそこにプラスされてしまっただけでこのなんという情欲、真っ黒な奈落の底にでも落ちて行ってしまうような二人ぼっちの「愛」。 「そーちゃん………」 いつの間にか環は切なすぎて泣いている。男女であるが為にこうなってしまうのなら、心の底から壮五とは男同士で良かったと思った。こんなに不安定でまっすぐな壮五という女性との身体と愛を手に入れてしまったら毎日毎日気が狂うほど欲しくてたまらないのだろう。 幸せとはなんと程遠い深度だろうか。男女の愛を軽く見ていた自分への或いは壮五への罰なのだと、環は思った。 虚ろな目をした壮五に顔を掴まれて目が合った。 カシャと世界が変わる。 「環くん」 「……ん?」 二人でゆったりたゆたうようにしてベッドに寝そべっている。キスマークの咲き乱れたふかふかの身体は環の腕の中におさまったまま鎖骨の辺りで息をしているのが分かる。 髪をやわく撫でる感触が気持ちよくておかしくなりそうでまるで中毒のようにそこを撫で続けている。 「ごめんね」 乾いた声でそう言った壮五の何がごめんねなのか、夢の中の環は「気にしていない」のかどうしても聞けない。徐々に意識が乖離されていく。女性の壮五が何かを呟くのだが環の意識には届かずに夢の中で気が狂ったように頭を撫で続ける自分だけがぼんやりとしていく。 「男の僕は愛してくれる?」 「女の僕は愛されている?」 同時に囁いてしまった。 壮五の目がじっと恋愛ドラマを見詰めているのが分かる。 たまきくんは、こどもとか欲しくないんだろうか 欲しく無いわけないか いつまで好きって言っててくれるだろう もし もし環くんに結婚したい人が出来たら 僕ちゃんとおめでとうって言えるか 言えるわけないか 何で男同士って子供できないのかな 女性の身体に なり たい そしたらきっと ずっと一緒にいてくれるのに ----- ---- 夢の中で環はふっと目を覚ました。 隣には誰もいなくて自分も服をちゃんときていて、何気ない朝だった。 昨日も壮五はナマでして欲しいとねだってきた。射精だけでも中でして欲しいとも。何故かをこうして一人になったとき冷静に考える。 あれは我儘なんかじゃない。きっと負い目がある。自分よりもずっとずっと壮五は二人の将来を考えているはずだ。 諦めようとしたのに一度掴んだら二度とは離せなかったダメな大人二人のダメなりにまともな将来である可能性のほうをも、きっと願っているに違いない。 真面目な性格だからいくら我儘を自由に言える環との関係でだって壮五は恐らく女性の役割であることを、自分に強いているのだろう。たまに忘れないでいようとするのはなんとなく分かる。 多分、環が「まともな将来」を選んだ時にちゃんと選べるようにだ。 「……」 壮五とお互いの完結を無理に続にしてしまったのは自分達だしそこにある様々な問題にだって薄くじゃない、勘付いていたし気が付いていた。 迷ったのに触ってしまったらもう離れることなど容易ではなくて、それでも可能性としては不可能じゃないことも分かっている。いつかもし万が一離れると決意するというのならば、それはきっと今みたいに二人で繋げて二人で断ち切って二人でまた結び直したみたいな人生の形なのだろう。 けれど、一方ではなく双方が納得しないといけないのだから、メッゾは大変だ。 離れるにも離れる為の理由をお互いが納得しないといけない作りになっている。それがメッゾ。逆にいえば繋ぐのだってそうだ。 今の恋人という関係だって、お互いがお互いをやっと納得させて、或いは自分が自分をそれぞれがそれぞれに納得して、結んだ関係なのだから。 だからこそ、壮五が負い目を感じることは環にとっての苦痛だ。 まだ言えない。まだ言えやしないが、いつか正面きって、そーちゃんが女と結婚すんのはヤダと言ってやりたい。 結んだばかりだからまだ戻れるのは明白だ。 環は自分でだって壮五の幸せを制限したくない。壮五が選ぶ「まとも」を選ばせてあげられる自分でまだ居たいと思ってしまうのは、恋人という関係値が未熟だからなのだろうか。 何があっても「恋人」として離れないでいてほしいと強く望んでいてもそれを強制できないのはメッゾがあるからに他ならないのだった。 恋人という頼りない綱の他に仲間、友人、家族というもうこれから先絶対に切れないと言い切れる太い綱が三つもあるお陰もとい所為で、環と壮五はお互いに愛を強制できずにいる。 壮五の気持ちも分かる。 自分がもし女性だったらな、ときっと強く思ったに違いない。それか、好きだと思わなければとか。 ここまで分かってあげられるのに環は口に出来ない。 一生離さない、これぐらいのニュアンスでしか、言いきれない。 明日からは地方ロケ。壮五と3日間ほどのホテル暮らしだと思うと環は少しわくわくした。 一緒に住もうと言ったことも二人でうまく進めていきたい。 だから、28日はちゃんとひとつ言いたいことがある。プレゼントも買ったから、日付けが変わった瞬間に絶対ふざけないで言いたい。壮五がふざけたとしても、環は真剣に伝えたいことの踏ん切りが一つついた。 言ってやりたいことはもちろん山ほどある。けれど、その全部を真正面から正直に伝えられるほどの度胸が24歳という壮五の三つも年下である環にはまだないのだった。 ---- --- 「よつばたまきさん!!!!!!!!!!!」 突如耳元で怒鳴られて環は目が覚めた。心臓がめちゃくちゃに早くなっていて丸くなった目でその声の主を見上げる。 壮五は既に着替えてバッグまで持っていた。なんなら胸元に珍しくネックレスを光らせてまでいる。冷めた表情で見下ろしながら肩をすくめられた。 「もう8時とっくに過ぎてるよ!僕もういくからね。ロビーで待ってるから」 「は…っは!?つかめっちゃ準備終わってんじゃん!なんで起こしてくんねーの!?」 「起こしたよ。何回もね」 「起きなきゃ意味ねーだろ!?あっま……まってっ!!」 慈悲も無くパタンと閉じた扉に急に焦りを感じて全裸のまま飛び起きた。 シャワーを浴びている時間はないのでびしゃびしゃになりながら顔を洗って高速で歯を磨く。急いで着替えを出そうとすると、床に畳まれてある自らの服に気がついた。 どうやら壮五が置いてくれていたらしい。 「まじ嫁っ……すきっ……」 素早く身につけて荷物をまとめねばとバッグを見ると、きちんとあとはもつだけになっていることにようやく気がついた。 膝から折れた。 「ありがたいけどっいえよっ……」 ぼさぼさの髪を手早く整えながら寝ぐせを誤魔化すために結わいてキャップを被る。 スマートフォンの充電器を結んでリュックに投げ込むと、ふっと壮五の胸元の輝きを思い出した。 時刻は8時30分丁度。環は息を切らしながらロビーに着くと文庫本を開いていた壮五が呆れた顔でこちらを見てくる。環はその澄ました顔とやはり間違いない胸元を交互に見ながら口を開閉させる。 「間に合った?髪…ぼっさぼさ…」 「っあ…っいーーんだよっあと帰るだけだしっ!っそれよか!それ!!!」 少し照れくさくて顔が赤くなってしまった。 急いできた勢いで誤魔化しながらそのネックレスを指差すと、壮五はちょっと手で触りながら笑ってぼくのでしょ?と言った。そうである。違いようなくそうである。 けれどだからと言って勝手に取りだしてつけるやつがあるだろうか。信じ難いので二回言うが勝手に取りだしてつけるやつが、あるだろうか!? 環は何故か逆に動揺してしまいすぐに言葉が出なかった。 「……いやっ…そーだけど!まだあげてねーしおめでともいってねー!」 「ありがとう。すごくうれしい」 全然こちらの意図を汲んでくれない壮五にぐっと押し黙る。 否、気合いを入れる。 「ハア、一回しか言えない、聞いて」 「………うん…?」 「メッゾじゃなくて、そーちゃんが好きだから、他の事なんかどうでもいい、そーちゃんと愛のせてメッゾ壊れんのが不安なんじゃなかった、そーちゃんがおれといんのに幸せじゃないかもしんないって思うからメッゾが大事なだけだった、メッゾより、そーちゃんのが一番、いちばん、大事」 「……」 「だから、おれとの愛よりメッゾが大事なそーちゃんなら、いまやめにしよ」 「……やめ、に…?」 「メッゾじゃなくて、んなもんどーでもいいからおれが好きだって言ってみ」 「………」 「そしたら、そしたら…そーちゃんだけで満足するって今日誓う。そーちゃんの身体と気持ち全部くれんなら、あともう一生、死ぬまで、死んでも、何にもいらねーから」 環のまっすぐな視線が、壮五の離れたくなくて不安で不安で仕方ないのにその手を握るぐらいのことでしかアピール出来ない苦しみをやんわりと包みこむ。 環と離れて平気な自分でいられなくなっていくのが本当に怖いのだ。確かめてしまったら終わりになる気がして嘘でも負担になりたくない、けれど嘘でも一緒にいたいのだ。 環は許してくれるだろうか。 女性になれない自分を、生涯許していてくれるだろうか。 「……女の子じゃなくってもいい…?」 壮五は昨夜一人で見た自らが望んでいる幸せな世界の夢のことを、思い出して泣いてしまうのだった。 ---

Episode**マイナーチェンジ

長年の環の燻ぶる恋が事故セックスをきっかけにして見事愛に変わったわけだが、二人の関係性に「愛」が混じることでどんな変化が起こってしまうだろうか。 例えば楽屋。仕事の最中であるその場所には一応鍵がかけられる仕組みとは言え防音でもなければいつ番組のスタッフが訪れてきてもおかしくはない。つまり愛を確かめてはイケナイ状況。たった一度のセックスでお互いの愛おしい気持ちに目覚めてしまった二人は場所を問わず四六時中なりふり構わず「あ、だめだってば、環くん…人がきちゃうだろ…」「いーじゃん、見せてやりてーぐらい、おれでもっとカワイくなるそーちゃんをさ」などと情事を起こしてしまったり 「ねえ。本当に申し訳ないんだけどさ。グミってどうやって作るんだろうか。調べてくれるか?」 「いみわかんねーうえに何で俺が調べなきゃいけねーの…」 「グミにはまっているんだけど、コーヒー味っていうのがなかなか無いんだ。無糖ね」 「あっそ。ねーだろうよ。まずそうだもん」 していなかった。環はグミの作り方を調べさせられていた。 こう見えて骨抜きなので壮五からの頼まれごとには滅法弱い環である。軽く検索した結果をラビチャで壮五に報告してやると画面を見つつ顔色の気になるところに軽くコンシーラーをたたきこみながら結構すぐできるものなんだな、と零した。 「もっとうまそーなのにしたら」 「例えば?」 「王様プリン味とか」 「好きだね、王様プリンさん…」 「大好き。そーちゃんといい勝負」 「へえ。でもすみません。恐れ多くてその勝負は辞退させて頂きます」 「安心しろ。セックスというスパイスが効いてるから多分そーちゃんの勝ち」 「プリンさんとはしないのかいセックス」 「やべー発想に行き着くな。おれに特殊性癖のタグ付いたら困るだろ」 紆余曲折、と言ってもぐだぐだお互いが胸の内で考えていただけで、結局のところ事故でセックスをしてしまったことに関しては一旦「セフレ」に落ち着きすぐに環により「撤回」。そして無事に「恋人」枠に収まった。 壮五が思ったよりも環に堪え性が無く、環が思ったよりも壮五に執着心があったのでセフレという枠組みにしては大分内側過ぎて恋人にするにはお互いちょっとこじらせ過ぎていたというのが本当のところだ。 よって、恋人というよりは熟年夫婦の様な肩の力の抜けた関係性にどことなく二人とも安心していた。認めるのに勇気がいったせいで、挿入前に大喧嘩してしまう事態になったのは恐らくこの二人の関係性の最大の特徴と言えるだろう。 素直になろうと思えば思うほど屈折する壮五と寛大になろうとすればするほど意固地になる環。 シンプルな心の構造のうちにメッゾという大変頑丈なホームを築いておいて良かった。 それがあることでお互いの思いが激しくすれ違ってもどんなに本音から遠ざかったのだとしても、重力で嫌でもメッゾに引き戻される。離れることなく隣に立っていられるのだから。 「そう言えばね、レモン味のコーヒーあったんだよ」 「え、マジで?」 「ちょっと飲んじゃったけど、環くんも飲んでみて」 「やだ」 「間接キスだよ。飲んでみなさい」 「まずい気配しかしないもん、ぜってーーやだ」 ぐいぐいと押しつけられたペットボトルは確かに封は切られていたがどう見ても中身が減っていない。 ちょっと飲んじゃったのちょっとがちょっと過ぎることに慄くもペットボトルを受け取る環に壮五が真顔で頷く。こうして悪ノリと分かっていながらも乗っかってくれるところも壮五が環を好きな理由のひとつである。 キャップを外してすんすんと匂いを嗅いで怪しげに濁るその黒い液体をついに口に含んだ環がどうなったかは御想像にお任せする。 (マイナーチェンジ) 「捨てろんなもん、マジで洒落にならんまずさ」 「何で商品として通ってしまったのか疑問には思うかも」 「自分だってまずいんじゃん!飲ますな!」 「死なば諸共ってやつだね」 順調に雑誌の撮影と取材を終えると、今日の二人のスケジュールは終了。 特に予定もない環は壮五の帰り仕度が終わるのをソファに寝転んで待つ。ラビチャの未読分を消化しつつ女優とのトークルームを消していく。いつぞやのドラマで共演した女優は返事もしていないのによくもまあぽこぽこ連絡をくれるものだ。未読分は10件程もあってスキャンダルが出たとて向こうもそれほど気にしていないのかまたあそぼうなどとのたまっている。 自分も悪いので咎めたりはしないが、女は強かだな、と呆れてしまう。 ふとそういう気分になってきたのでちらっと壮五の背中を盗み見た。 「あー。そーちゃん」 「ん」 「今日おれんちくる?」 「ん、うん」 「えっちしよ~ぜぃ」 「うん」 「ヤッタゼ」 内心ドキドキしていたがおもしろいほどすんなり快諾された壮五のその声に環はほっと安心する。 というかとてもむらっとした。普通に受け入れてくれる壮五にこれまで以上に距離感を意識せざるを得なくて煩わしい半分胸がきゅっと詰まるほど愛おしい。 愛がもたらした変化があるとすれば主に環の気持ちの面での変化が大きいのかもしれない。 環が壮五のことを恋愛的に好きだったことは紛れもない事実だ。けれどこれまで全くと言って良い程メッゾに対して恋人という関係性を期待していなかった環にとって、この状況というのはとんでもないイレギュラーに間違いない。 実際身体の関係を持った時ですらやばいめちゃくちゃラッキー生きてて良かった~ぐらいにしか思わなかったしまさか壮五の方からその関係性を続行していきたいと言ってくれるなど未だに信じ難かった。 いや、事実、まだ信用していない。 こっちは真剣に好きでずっと離れずにいたのだから、がっついて拒絶されたり気持ちの天秤で勝ち続けていくというのは多少なりとも傷つくのである。 格好悪いのでそういうのはなるべくなら表に出したくはない。いつか別れると言われたとしても今はまだそれが当然であるぐらいの気持ちでいないと本気で立ち直れない気がするから。 ともあれ、壮五が今日のセックスを承諾してくれたことに変わりはないので環は自然と口元が緩んだまま機嫌良くソファから飛び起きて楽屋を後にした。 そのまま二人はタクシーで環のマンションの最寄り駅まで向かい、夕飯の買い物に近くのスーパーへ寄ることにした。 相変わらず立地は最低で駅の反対側にあるうえに向こうまで行くのに歩道橋しか手段がない。無論いつでも空いているので壮五も環もマスクを外してゆっくり買い物が出来るというメリットはあるのだが。 「何食べたい?」 「辛くねーやつ~」 「君に辛いやつ出したことないだろう…」 「肉」 肩を竦めた壮五だったが店内に入ると迷わず材料をかごにいれていく。どうせ聞いてもそんなものだと分かっているので環は肉か魚かぐらいの返答にすることに決めている。何にせよ壮五の料理は美味い。 環が映画の撮影で自炊が疎かになったりした時やそうでなくともストレス発散になるとかで壮五は結構な頻度で手料理をふるまってくれた。至福この上無い。 「というか、僕この前から気になってたんだけれど」 壮五がネギを掴んでかごに放りふと環の方を見上げた。 「んー?あ、これ食いたい。買って。ねーよく考えてマジでネギいる?」 「いいよ。いる。ゴムなしでしたことないって言った?」 壮五の言葉の意味を飲み込んですぐに、環は驚愕してその顔をまじまじと見つめる。 さすがの環にもゴムのゴムはコンドームのゴムであることぐらいわかった。 「…はっ、一応ここ外だけどアタマヘーキ!?」 「誰も聞いてない。言ったよね」 「チャレンジャー…。言った。実際したことねーもんね」 さほど気にしていない様子の壮五がそう言うので、環は今までのセックス経験を思い出しながら自信満々に頷いた。事実だ。女優と、というか女性とのセックスでコンドームをつけずに行為に及ぶなどあり得ない。一番の理由としては責任が取れない。以上だ。 環のドヤ顔を横目にした壮五が今度はもやしを放りこみながらしれっと呟く。 「僕めちゃくちゃナマで犯されてるんですが」 「…」 瞬時に壮五の太腿に伝う白濁を思い出す。でも行為のほぼほぼ、あときっかけも記憶にないしノーカンじゃないのか。少しむせた。 「…もやしいらなくね?」 「いる。あとナカでイったことないって言った?」 壮五が再びちらと横目にそう言った。それだって事実である! 環は今度こそ自信満々に、先ほどよりも大きく頷く。女優と、というか女性とのセックスでゴムなしでなど言語道断だったしなんなら射精だってイク瞬間はちゃんと外に放ってきた。これは誰とは言わないが一応弁えとしてそうするのが当然だと教わったものなので実際ちゃんとこうして不祥事には繋がらずに済んでいるわけだ。百%避妊出来るわけではないのは分かっているが、ならばしなければ良い、という考えには至ってもどうもうまくコントロールは出来ないもので…・。 「言った。いつもイクとき外で出してたもんね!!」 今度は環の方は見ずにたらこの賞味期限を見比べて奥のパックに手を伸ばしつつ壮五は呟く。 「いやこの前普通にゴムはつけてたけどナカでいっちゃってたじゃないか」 「……」 やべ、いくっという自らの台詞が耳に聞こえた。不可抗力だったが人生初のアナルセックスの相手が長年の想い人だったこともあり気持ち良過ぎたのが悪い、とは流石に言えず黙った。 「うそ、つきすぎじゃないかな」 壮五の口調は特に怒っているふうではないが、確かに言う通り、壮五に限り酔っていて記憶にないとは言えコンドームなしで性交し腸内に射精してしまっていたのは事実だ。更に記憶にあるほうでも挿入直後のあまりの刺激的な心地良さに思わず抜かずに射精してしまったこともまあ思いだした。 「や、待って。そーちゃんはノーカンじゃね?だって男とすんのは初めてだし」 「男ならポリシー違くなるのかい」 「っん…いや…まあ……ごめんなさい…」 「別にいいよ?でもじゃあ今後もゴムなしでしても良くないか?」 「っは…いいわけなくね?馬鹿じゃねーの」 「もう全部一度してるのに?」 「してても無理。しません。これはマジ」 そう言った環が壮五を見遣ると思ったよりも不服そうな顔をしていて笑ってしまった。まだ何か言いたそうだったが「ナマナマうっせー」と環が零すと壮五はそれきり何も言わなくなった。 そもそも先日まで女を抱いていた壮五が妊娠出来ない男の身体でナマでセックスをすることにおいてのメリットがどう考えてもない。もし壮五が万が一身体の負担を顧みず興味本位だけでそう言っているのなら正直腹が立つ。 けれどきっとそうではないのだ。環は自分が科したセックスにおいてのルールを曲げたくないというのは勿論あったが壮五がどこまでもお人好しで優しすぎる馬鹿な人間だということも知っている。 それが分かっている限り、環は壮五のお願いをやすやすと受け入れるわけにはいかないのだった。 ベッドの上に並んで寝そべり環のスマートフォンで賃貸のウェブページを見ている。 夕飯も風呂も済ませたのでそのあとの行為までは最早ゼロ距離だったが壮五が寝室に入るや否や環から引っ越しというフレーズが出てきたので横にくっついてその画面を覗いた。 「意外とたけーな。スタジオから離れたらやだもんね」 「…んー…そうだね。作業明けは無意識に環くんちに転がり込んで寝てるぐらいだから電車乗ったら終わるかも」 「じゃやっぱこのへんだもんな」 「ここでもいいんだけどな僕は」 「せめーし無理。絶対窮屈んなるって。住むとこにストレスかかると、人っていがいがすんだって!バンちゃんが言ってた」 「…そこそこ高いけど、環くんが気に入ったんなら僕が多めに出してもいいよ」 「タマキクンガってなに。そーちゃんも気にいんないと無理」 急に不機嫌な声音でスマートフォンを放ると、環はついぞゼロ距離の眼前に置かれていた行為へと手を伸ばした。 事故セックスからは二カ月ほど経っている。そして付き合ってからは丸一カ月。前回したのは三日前。回数としては八回目である。 正直環としては付き合っている即ち恋人同士になったのだから毎日セックスしたい。願望こそあれどそれこそ明日の予定だとか壮五の体調だとか何にせよ負担を強いているのはよく分かっているのでペースは慎重になっているつもりだった。 初回と徹夜明けを除けば段々"身体を開く"という難しさが如実に壮五の心的な障害となっているのは明らかでうまく気持ちが噛み合わないまま行為に及ぶのはハイリスクだということも承知の上だ。 気持ちいいを条件反射で植え付け切るまで焦らずにゆっくりと慣らしていくと約束した。壮五も戸惑いながらだが一応ちゃんと頷いてはくれた。 そうはいいつつ、徹夜明けで壮五から誘われてから以降のほぼほぼが環からの欲求なのだけれど。無理をさせているかどうかは、今のところ分からない。分からないが、壮五が嫌だということは一度も無かった。 そしてするとなれば今日も今日とて壮五のお願い攻撃が開始される。壮五は特に変哲の無い顔でサイドテーブルに置かれたコンドームの包みをひとつ手の平に隠した。 「ねえ、一回でいいからしてみない」 「し、な、いって何回言ったらわかんの…しつこい」 「ケチ。年上の言うことはきくものだぞ」 「あースケベな年上の言うことはきかないことにしてんの。わりーね」 あしらうとじとっとした目で壮五が見詰めてくるが、環は素知らぬ顔で軽く握りこまれた手の平をほぐしコンドームを奪い取った。シーツが乱れる。衣擦れの音が響いて、重なる二人の重みにきゅ、とベッドが軋んだ。 同時にキスをしようと近寄った環の顔面を壮五の右手が正面からべちっと制止した。 「ぶっ…」 「待って。今日したいことがあるんだった」 「止め方……!もっと優しくとめらんねーの!」 「ごめんごめん」 そう言って壮五は身体を起こすと黙ってそれを見ていた環に鋭く「寝てみて!」と言った。 「…は?」 「騎上位ってやつをやりたい。いいよね?」 「そんな横暴な誘い方ある…?恥ずかしがってんの?いーけどそれおれ何もしなくていいやつじゃね?」 「羞恥心が少しでもあったらこんなこと言わないだろう。前回で恥ずかしいの全部吹き飛んだよ」 壮五に肩をぐいぐいと押され仕方なく仰向けに寝そべるとそんな環の横で躊躇なく入口にローションを塗り込む壮五の姿に眉をしかめた。軽く勃起し始めている自らを緩く扱きながらぬめる指が二本、簡単にずるりと飲み込まれるのを黙って見守る。時折息を詰めてビクンと反応するのは、前回環が行為中何度も押し込み確認し死ぬほど弄って覚えさせた前立腺を早くも自分で上手に刺激出来ているからなのだろう。感じる度にひくつく身体はもう十分気持ちよさそうだった。 とは言え5分も弄らずにもういいかな、などと壮五が零すので流石の環もびっくりして首を振った。 「いや…まだ全然触ってなくね?ぜってー痛いよ、貸してみ。やったげる」 「いいんだってば、もうするの…」 「駄目だって!血とか出たらどーすんの、ちゃんとしよ、やるから」 前戯が重要なのは男女に関わることは無い。寧ろ自然と濡れる構造でない男の壮五に前戯のほとんどをしないで挿入する、させるというのは暴力と同義な気がした。いれられた事は無いが無理矢理広がる入口の痛みを想像した環は表情を変えない壮五を必死に宥める。 正直緊張で濡れない女性とのセックスほど、気を遣うものは無かった。たった一度だけ実は初めての性交が環だったという信じられない事態があった。どうでもいい人間だったとは言え、めちゃくちゃに緊張している相手を宥め馬鹿みたいに丁寧に扱ったときにはその当時思わず二度としないと壮五に愚痴ったほど面倒だった。 面倒ついでに最後まではしなかった。いくらなんでも発散に処女は重かったしちゃんと確認しなかった自分もそこそこ悪いとは思った。それ以降どんなに言い寄られても純真そうな女性には目もくれない。責任をとるほどお人好しにもなれなかった。 男として女に優しくするのは当然の心理だとは思えるが、イコール雌雄としての感情がそれに必ずしも合致しているとは限らないわけで。 そういう見方をすれば、どうでも良くない人間である壮五が痛いのはまずもって言語道断だし、好きな人と丁寧にする前戯は面倒でも何でもない。愛があるのと無いのとでは時間のかけ方への意識がここまで違うのかというくらい壮五の身体を慎重に扱おうとする自分に環はびっくりするほどである。 対しての壮五が、それに素直に従うかはまた別の問題ではあるが。 「お風呂でもしてきたんだよ、大丈夫だもん」 「だもんじゃねーし…じゃほぐれてっか見てやるから、貸してみってば」 「しつこいな君ほんと…僕がいいって言ったらいいんだよ…」 「………ねー…」 目を鋭くして意固地になる壮五の手首を掴んで引き寄せる。こういう強情さは環が壮五のことを放っておけない好きなところではあるが、自分の苦痛を顧みないで尽くそうとしてくれる馬鹿なところは若干苦手だった。はやく行為に及びたいのは男同士であるが為に本番までに女性とするよりも時間がかかってしまうことを気に病んでいるからだ。 環には分かる。 環を繋ぎとめておくと自分で決めた壮五には、本来環が女性とする行為との差がなるべくあってはいけないと思っていること。面倒だと思われるのが嫌だということ。処女がめんどいと散々文句を言っていた環のことをちゃんと覚えているのだ。 前回も前々回も、眠たい顔でうわ言のように気持ちよかったかをしつこく聞いてくるのが何よりの証拠。不安にさせるつもりはないのに近すぎるせいか肝心な部分をお互い上手く補えない。 引き寄せられて優しく抱きしめられるのに抵抗しない壮五は、そのまま黙って抱かれている。環はどう言ったら納得してくれるか逡巡しながら言葉を探した。 「……慣れるまでちゃんとゆっくりしよってこの前約束したじゃん」 「もう慣れた」 「まだんなしてねーじゃんかよ…」 「…………」 「別にめんどくさいとか思ってないよ。おれそーちゃんが初めて好きになった人だから、ちょーー大事にしてんの。オンナと一緒にすんな。おれのそーちゃんはあんなんよりすっげーデリケートだし弱いしかわいいから、優しくすんの。誰とも、何とも比べらんねーの。分かった?」 顔は見えないが握っていた壮五の手首の脈が速くなった。身体もじんわりと熱くなっていてそっと離れるとあらわにされた不安気な顔が更に狼狽してしまった。死ぬほど愛おしくて環の胸が詰まる。強気でがんがん我儘を言う壮五のことが好きだ。自分にしか見せないその甘えを全部受け入れて安心させてあげたい。変に勘ぐって一人で暴走するところも、自分で決めたら絶対曲げないところも、本音が言えずに強がって我慢してしまうところも大大大好きなのだ。 滑らかな薄い身体を抱き直しながら首筋、耳、頬に目尻へと無数にキスを落とす。無意識に背中に回ってきた手の平が震えていてまるで怖がっている様だった。唇に触れると背中の壮五の指がぎゅっと握りこまれて短くした爪ででも環の背中に傷をつけるのを恐れているのが分かる。初めてのセックスでつけた背中への愛情のしるしをも、彼は覚えている。それだけで酷く興奮してしまう。見てみろ。アンタの一挙一動でこんだけ好きでいっぱいになんのに。環は不安に曇る壮五の顔を見詰めた。 「…触らして。ナカ」 低くそう言った環の言葉に小さく頷く壮五は、まるで自分の考えなどお見通しの環にようやく心を預けた。確かに、前回も前々回も、壮五が勝手に気負って不安ばかり感じてしまっていたのは事実だった。身体の構造上、挿入ひとつとっても面倒だし前戯には一定の時間が必要だし、女性とする程簡単に激しく出し入れが出来るわけでもない。 セックスは環にとって発散であり受ける側の自分の負担は自分で軽減したいと思っていた。それは自分と付き合う以上環に他とのセックスを禁止した壮五自身のせめてもの独占欲の一種だ。 少なくとも環は女性との性行為において快感を見出していたろうし、気持ちがないにしろその代わりになれるぐらいには勝手が利く身体でいたいと思うのは当然のことで。 環が究極自分だけで満たされてくれるにはどうしたらいいだろうと、そのことばかり考えた。 男性の身体である即ち、最愛の人との間であっても当人間では子供が出来ない。逆に言えばいくらナマでしても妊娠というリスクが無いということだ。ゴムなしでのセックスが一般的に男性にとってハイリスクでだからこそ憧れであることはわかる。だから絶対気持ちいいはずなのだ。そして男性同士のセックスで環にメリットがあるとしたらそこだけなのだ。 少なくとも壮五はそう信じて疑わなかった。 気持ちだけはとっくの昔に深く繋がっている事が仇になってしまっているのだ。精神的な満足は正直今までのメッゾという関係で十二分に満たされている。つまり、そこに身体の関係、セックスという行為だけが追加され、関係値としては飽和している気持ちの部分が溢れてしまっているのに気がついていなかった。 女性との関係があったとて本人達がそれについて本気になった試しがないということは元から恋人枠には誰が当てはまったわけじゃない。空白のままだった。だからお互いが特別なメッゾ枠であった壮五と環が新たに恋人という枠をメッゾで埋めただけの話。 あってもなくても良かった女性との身体の関係を捨てたというだけのこと。 そうやって仲間も友人も兄弟も超えた付き合いをいつからかしている二人にとって、恋人同士になったとして特別変化があるはずがない。なので新しく無理に恋人同士という枠を作ろうと必死になっているのには世話がないというものだった。 名前を付けなかっただけで、精神的には既に恋人に該当するぐらいには突き詰めてきたのだから。 「ん……」 「え、でもま…割とやわいよ。ちょっと触ったらいけるんじゃん?」 「っは…じめのほうは…痛くてもしてくれたのに……」 「せいちょーしてんだよおれだって。痛いのヤじゃん」 だからといってはなんだが、壮五が事故セックス後の二人の関係性に違和感を持ったのは当然のことだった。 当たり前の様に恋愛的に好きであることを、性的な行為をしていなかっただけで自覚出来ないというのは環の堪え性の成果である。 どんなに壮五がひどい距離感でくっついてきても、側で無防備に眠っても、一度だって手は出さずに我慢してきた。大事に育んだメッゾが何にも代えられない居場所なのはどっちも同じだが、環にとっては唯一の好きな人が自らの手の内で居てくれる空間。ここがある限り、最悪どちらかが結婚したって壮五と疎遠になることは絶対にない、そう思っていたから。 試される様にずかずか踏み込まれて挙句明け透けに全ての気を許していく壮五を心の底から愛していないと出来なかった。離れたくない。手放したくない。 ただ、壮五にはどんな形であれ幸せでいてほしいと思うのは本当だった。それは今だってそうだ。 環は決して性的な欲求を満たす為に壮五とセックスをしているわけじゃない。好きだから、恋人だと認めてくれたから、壮五がしてもいいと言うから、している。寧ろさせてもらっているぐらいの気持ちだった。 なので壮五が痛みを我慢してまで尽くそうとするその姿は環にとって大きな負担だ。そうさせている理由が分かったところですぐには取り除けないのも結構なストレスだった。また一から信頼を勝ち得ていくしかない。そこだけが環の唯一の苦悩だった。 「い~かな~。どう。痛くねーだろ?」 「…ぅ……」 「ほんとに上のる?普通にしよっか?」 「っ…する……」 「できんの」 環は溶けて無くなりそうな程執拗に壮五の唇を愛撫しながら、大分柔らかくなった入口から指を引き抜いた。忘れないうちに手早くコンドームを装着する。 環にもたれかかる様にして全身の力を抜いていた壮五は温くて長い優しい前戯に文字通りとろとろに解されてしまった。促されて力の入らない身体でゆっくりと環の上に跨り膝で立つ。 「……やばくね…?えっちだな、そーちゃん…」 聞こえているのかいないのか、壮五は肩で息をしながら片手で環のペニスを掴み自らの入り口にあてがった。もう片方の手は咄嗟に環が支えている。無意識にだろうがぎゅっと握りこまれて環はぶるっと震えてしまった。思ったよりもエロい。空いた手でそっとその華奢な腰に触れる。 「あ、……い、いれ…る……よ…」 「ん…」 沈んでいきながらがくがくと震える両足がその刺激を物語る。半分ほどまで飲み込んだところで一旦息を吐いた壮五の目が虚ろに濁っていた。そろそろ前立腺を通る頃合いだが気持ちよさそうでは決してない。多分痛いのだろうが、ここまで入れてしまったのでもうやめろとは環には言えなかった。紅潮した壮五の頬を撫でる。 「…がんばれー、あとちょっとじゃん…前触っていい?」 「え、あ……だ、だめ…」 「痛いだろ。馬鹿だなほんと」 解してはあるのでぎちぎちにきついわけではない内壁だが、されるのとするのでは感覚が違うといったところだろうか。どう動いたらいいか分からずに震えながら動きを止めた壮五を見ながらつい意地の悪い気持ちが働いてしまう。痛みからか半分萎えてしまった壮五の昂りにちょんと触れて環は肘をつき上体を軽く起こした。 「全部いれんのか」 「…っん…」 こくこくと壮五が頷くのでローションを纏わせた手で柔らかくなったペニスを優しく扱いた。 「っい……しょに…したらっ……」 「きもちい?」 「うんっ……」 堪えるようにして快楽を肯定すると、どんどん壮五の腰が沈んでいく。やがて環の手の中で昂りが固く芯を持つ頃には奥までいっぱいに飲み込んだ腹がじんと痺れて壮五は急に切なくなった。泣きそうになっている壮五の頭を撫でながら環はようやっと身体を起こした。抱きかかえられる姿勢に安心したのか環の首に手を回して壮五がぎゅっと抱きつく。 「えらすぎ。めっちゃ頑張った。ちゅーしよーね」 「……」 「いれんので満足した?うごく?」 「きょうは…もういい……」 耳元で壮五が弱くそう言うのでぽんぽんと背中を撫でながら環は思わず笑ってしまった。 同時にあまりの初々しさに鳥肌が立つ。初めてのアナルセックスに翻弄されながらもどうにかパートナーとして環とコミュニケーションをとろうとする壮五の必死なアプローチに気持ちを揺さぶられてしまう。 環はあの一件があってから処女に懲りてベッドを共にする女優には不躾に初めてじゃないかを聞いてきた。自衛という意味で特に何とも思っていなかったにせよ多少反省した。 だってここにきて壮五が自分以外の男と何も無い人生であったことが、環にはとてつもなく貴重なことでとても重要だったということが戦慄く程に分かってしまったのだから。 腕の中で息づく愛おしい身体の内側を割り裂いた存在はこの世界でたった自分だけ、自分が唯一壮五を抱く権利があるのだと思うとそれだけでぞくぞくと背筋が痺れた。愛している人のハジメテがこれほど狂気に満ちた媚薬になるなど思っていなかった。 「はー……だめだ…だいすき…」 「…ん、……?」 「ごめんね、おれドーテーじゃなくて」 「……は…?僕だって違うけど……」 「おれのハジメテ、そーちゃんにあげたかったな~。ヤマさんのせーだかんね。あとでぶん殴りにいこうぜ」 「はじ…?や、大和さん…?……大和さんと…?セックスしたの…?」 そうやってまたややこしい勘違いをする。今ここで弁解するのがが面倒だったのでとりあえずちげー、とだけ言って唇を啄ばむと困惑した顔のままの壮五をベッドに寝かせた。 ひとつの傷もない滑らかで綺麗な肌。呼吸の度に上下する胸にそっと手を這わせる。びくんと震えた両足を抱えあげ壮五の限界まで身体を折り曲げれば、残りの隙間は壮五が環の首にしがみつくことでうまった。ぎりぎり届いた唇を舐め上げて確かめる様に腰を前後する。 「ん……」 「いたい?」 「な、い……あ…」 奥にくっついたまま揺さぶると壮五の身体が強張る。まだ内壁への刺激だけでは達することが出来ないので同時に昂りを握ってやる。ぎゅっと抱き付かれ、擦れた甘い声をもらし始めた口をきつく塞いだ。 どこもかしこも深い交わりにお互いどんどん溺れていく。余裕ぶっていた環も昇り詰めていく自身の快楽に半分意識を絡め取られいつの間にかオーガズムを急いて求めていた。 「んうう、んっあ…い…ッんっ……!」 「っ…」 壮五のオーガズムによるきつい締め付けで一気に達しそうになり環は慌てて腰を引いた。急に抜けて行く感覚で壮五から悲鳴に近い声があがったが、環は自分の絶頂でそれどころではない。 詰まった快感にびくっとひとつ震えると脳内麻薬がじんわりと漏れ出る。白濁をゴムいっぱいに吐き出す感覚が環の頭の中を気持ちよく塗りつぶしていった。 ずぶずぶに塗れた余韻のあと、疲労に身を任せて眠っていた二人は深夜に目を覚ました。 環は鼻の辺りがこそばゆくてふっと目を開けると離れたところで背中を向けて寒そうに縮こまっている壮五に気がついた。すぐにエアコンの温度を上げるとその気配で壮五も覚醒してしまったようだった。 「さみー?こっちきたら」 「………いい」 「え、何おこってんの」 「怒ってない」 不機嫌そうな壮五の声音に頭を掻くと、無理矢理身体を引き寄せてぴったりくっつく。抵抗もしなかったが反応もしてくれなかった。首筋に鼻を埋めて再度何おこってんのーと呟く。 「やめろ、怒ってないってば」 「おこってんじゃんかよ。何、どれ?ゴム?外出し?ドーテー?ヤマさん?」 「…全部」 「ほらあ……」 とは言え、どれも全部弁解出来るので放っておく。聞きたければしつこく聞いてくるだろう。それよりも壮五の冷えている肩を撫でながら足元にぐちゃぐちゃになったままのタオルケットを引き寄せてかぶせる。 すると、よほど寒かったのか首元まで引っ張り上げてくるまった壮五がすん、と鼻を鳴らした。 「そんな寒かった?エアコン消すな」 「いいよ、環くん暑いだろ」 「扇風機かける。もっとはやく言えよ…風邪ひーたらどーすんの」 眠ってたんだからわかるわけないだろとぶつくさ文句を言う壮五が、よろっと身体を起こす。 「便所?」 「ん」 環は枕元にあるルームランプをつけてやると側に丸まっていた壮五のTシャツを差し出す。床に落ちた下着を拾って身に付けながらふあ、とあくびをした壮五がシャツを受け取ってもぞもぞとかぶった。 だるそうに立ち上がってすぐ、鋭い目つきがこちらに向いたのを察しなに、と環が訝しげに見返す。今日は絶対に悪い事はしていない。壮五のDEADと書かれたパンクなTシャツに目がいく。 「大和さんとセックスしたのか」 「いやしてねえなっ」 「はじめてはヤマさんにあげたって言った」 「いーーーってねーじゃん…捏造やばいからそれ…。いいからおしっこ行って来いよ…」 ふいっとそっぽを向いて出て行った壮五の勘違いがとてつもなくかわいくて鼻で笑ってしまった。 戻ってきたら、17歳の頃楽屋で壮五にキスをしたところから長々と説明してやろうかなと環は意気込んだ。

Episode**ハッピーケミカルセックス

齢三十を過ぎて結婚したのが二十歳の頃からの付き合いである仕事の相方つまり男でありしかも三つも年下であり更に可愛いとカッコイイの限界値を更新し続けている現役スーパーアイドルの四葉環でありそしてそんな彼の生来の気質としては飽くなき永遠の少年だという恐ろしい事実を壮五は時折失念してしまうことがある。 撮影から一人帰宅して明日の環の誕生日のお祝い用に買い込んだ食料を冷蔵庫に入れている最中だった。 新居に移ってからはこんなでっかい冷蔵庫誰が管理するん?と環が呆れたほど立派な冷蔵庫を所望した壮五は勿論自分の責任で全ての食材を徹底管理しているいま、見慣れないミニボトル一つが冷蔵庫に入っているのに気がつかないはずも無かった。 「……?」 自分が入れていない、ということは環が入れたに違いないのだがラベルもないし何も書いていない透明なペットボトル、何だかめちゃくちゃ怪しい。見たところ封は切れていないようなのだが。 善は急げと即座に仕事中であろう環のラビチャに写真付きでこれなに?と送るもすぐには既読にならなかった。 「また変なものじゃないだろうな……」 そう壮五がごちてしまうのも、まあ仕方がない。何と言ったって実際二人ともノンケだった五年前のあの日いかがわしい飴玉ひとつでこうも簡単に狂ってしまった儚き人生なのだから。 返事次第では捨てねばと思いながら引き続き買ってきた食品を細かく分類しはじめた壮五はその間の環からの返事のラビチャには気がつかないままキッチンの隅に出して置いたボトルの存在自体をすっかり忘れてしまったのだった。 十九時過ぎ頃の帰宅になるかと予想していたのでそれに合わせて夕飯の仕上げをしていた壮五は洗い物の途中で盛大に手が滑った。鋭い痛覚のすぐ後にじゅわりと滲んだ赤に手を止めた。 そこへ、ずばり目論見通り環が玄関を開けた音がした。大きな声で歌を歌っている。 「んもっとお~どり~たいよ~~~~ただいまあ~~~~」 「おかえり……え!?廊下から歌ってくるのはさすがにやめなさい……!」 「さすがに歌ってきてはないな。いまちょうどおれのパートだったからさっ」 「随分ご機嫌のところ悪いんだけど、これ見ててくれないか?手を切っちゃった」 壮五のその一言に眉根を寄せて高速で駆け寄ってきた環は優しく手を引いてどれ?どこ?まじ?と真剣に顔を寄せると左手の親指の付け根から大出血しているのにびしりと固まった。 「うそでしょ!?!?!?!いま!?!?やっ、え、これ待って二度と見れないかも、い、いたい」 「こっちは見なくていいからこれ、焦げないように見てて」 「いやいや、どうすんのそれ、ビョーインいく?」 「行かないよ。大丈夫。手が濡れてて余計ひどく見えているだけだから。ね、これ見ていてね」 おろおろとする環をキッチンに置いて壮五はさっさと寝室に消えてしまった。鍋と交互に見ながらとりあえず上着とリュックをソファにぶん投げて手を洗おうとシンクを見ると、隅にある薄桃のクリアな液体が入ったボトルが目に入った。 「……」 とっくに捨てられていると思っていたのにここにあるということは、と環は一瞬にやっと笑って即座にボトルの封を切りそうっと鍋に流しいれた。どれくらいが適量かはよくわからないので細く糸みたいにして慎重に入れる。身体に害はないと言われたがあんまり多いといくらなんでもやばそうだ。 「ねーみてくれているー!?」 「どぁッ……!?」 「底焦げ付いたらだめだからねー!?」 「え、はいっ……!!!つーかやば!!!」 急に寝室越しに飛んできた壮五の声にびっくりして揺れた手元の拍子に想定の五倍ぐらいは液体が鍋に流れてしまった気がする。慌ててシンクに残りを捨てると秒ですすいで空のボトルをゴミ箱に投げ入れた。 証 拠 隠 滅。いやでも確かにちょっと、多い、多い気がする。そんなつもりはなかったはずだが何にせよ多い。明日の予定としては誕生日当日なので紡が気を遣ってくれたのか二人でオフではあるが一応起きたら出掛ける予定もしている。予定通りにいかないとそんなもの壮五は怒るに決まっているのに。 ほんの出来心ではあったがやはり軽率な行動だった気がすると思い直しせっかく作ってくれた壮五には悪いが鍋の中身を食べられないぐらい焦がすことに環はした。 「おい、何で強火にする??僕の話聞いていた????」 「げええええ、まって、見して指。にじんでんじゃんもっかいやってきな。ダメ。アウト」 「……何か隠してるな?あれ、隠してるといえば冷蔵庫にあった」 「捨てた」 「捨てたの?何だったの?」 「内緒…………」 「また変な薬とかじゃないだろうな?まあ捨てたならいいんだけど。今度から変なもの冷蔵庫にいれないでね」 訝しげに鍋の中身を確認しながらくるくるとおたまでかき混ぜてそっと味見をした壮五に目を瞑り環は小さく「神様ごめんなさい」と零したのだった。 超絶多量な媚薬(とうたわれる食品)の入った夕飯をじっと見つめながら環はシリーズ史上最高に葛藤していた。 何せこのやばい食い物には環が「貰った」エッチな気持ちになる薬とやらが目安量の恐らく何倍も混入している。普段からえげつないほどエッチな壮五をこれ以上エッチにしようなどとは本来本気で思っていたわけでは無く、なんとなく、誕生日だし、いつもとほんんのちょっと違った刺激があっても、許してくれるんじゃないかなあ、という環の無垢な遊び心なのである。 五年も前になるが後から調べたあの時の飴だって効果としてはそれほど強烈なものではないはずで、ともすればプラッシーヴォ効果というのが特に壮五には劇薬な気がしてならない。 なので適当に誤魔化してちょっと舐めさせたぐらいにしてこれエッチなくすりなんだってとか煽ればきっといつも以上に燃え盛る様なセックスに発展するだろう、だとかもごもご。 とにかくこんな騙し打ちみたいにして料理に入れる気は当初なかった。さっきだってちょっとだけのつもりだったのに。 それに理性の手綱はいつだって環が掴んでいるからこそ今まで男性同士のセックスにおけるあれやこれやの問題を難なくクリアしていたのだ。もし万が一めちゃくちゃ効果のある薬だったら、壮五がめちゃっっくちゃエッチになったところを自分もめちゃくちゃにエッチな気持ちで受け入れるのは大変危険な気がした。 結婚しているとは言えさすがにセックスが原因で病院に行きたくは無い。 「…………」 一方、あまりにも挙動不審な環を訝しげに見詰めている壮五は既に該当の皿の半分はたいらげており、向かい合った環がいつまで経ってもあの鍋で作った料理にだけ口をつけないのを見て段々不安になってきていた。 まさかとは思うが考え得る最悪のシナリオとしてはあの不審なボトルの中身は十中八九媚薬の類で火を任せている間に分量を間違えて入れたか何かして慌ててわざと焦がそうとあの時強火にしたとかか。そうなのか。かといって味見はしてしまっているしというかもう半分食べているんだけれど。 「ねえ。あのボトルの中身、何だったの?」 「えっ、急に……?まさかやっぱちょっとやばい……?ベッドいく……?」 「やっぱ?ちょっと?やばい?入れたのか?鍋に?マジか?正直に」 「入れました……フォークおろせ?な?目が、目が怖いから…………」 「で!何だったの。正直に」 「あっあぶねえからっ……エッチになる薬っ……」 「ああそうつまり君は今僕が普段エッチじゃないって言っているんだね?」 「いやそれ誤解、超エッチです最高にエッチだしカワイイし満足してますっヒ!!!!!!」 じゃあなにがしたかったんだ、と瞳孔の開いた目でフォークを突き付けられて引き攣った顔のまま環が首を横に振りながらフォークの手をやさしくやさしく握った。 「おとこって……そういうの……弱いじゃん……」 「へえ?つまり極論君は今僕のことを女だって言っているんだ?」 「ちがっ、ちがう、ちがいます、あ、ってことはほら、そーちゃんだっておれがエッチになったら嬉しいだろ?(?)」 「そんなこと言って!食べてないじゃないか一口も!」 「いや、でもっ!くっ、食ったらおれエッチになんよ!いーのか!」 「いいも何もじゃないとフェアじゃないだろう!?ほら、食べて!!!」 怒り心頭のフォークで勢いよく串刺しにしたウインナーを口元にぐいぐいと押し付けられて、まさか食べないわけにもいかない環は再度「神様ごめんなさい!!!!!」と心で十字を切りとうとうその媚薬漬けウインナーをおそるおそる食んだ。 味は無論しない。咀嚼して飲み込むと壮五の手によって次次に運ばれてくる具材を無心で胃に詰め込んだ。 詰め込んだはいいものの、その後二十三時を過ぎた頃テレビを消して寝室に移動するまでに二人の体調に特に変化は無かった。 口にはしないが割とむらむらするのを期待していた二人の距離がこれでもか、これでどうだ、と意図せずどんどん縮まっていった。元はといえば環が使用したことのある人間から聞くところによるともうもの凄い薬だからと豪語されていたので出待ちのファンからのプレゼントの中身がそれだった時は密かに大喜びしてしまったというものだ。男なんてそんなものだ。 何にせよ空振り三振の気持ちが拭えなくて多分自分よりも期待しているのに平静を装う壮五の背中がなんだかとても切なくなってしまった。 「……」 「……」 「……」 「……」 この無言の気まずさといったらない。環は怖々壮五の肩を抱いてそのまま耳朶に触れた。 「ねえ、ふつーにしてい?うそだったんかもエッチな薬……」 「……うん。ふふ、それにしても二人揃って騙されたの滑稽過ぎるなあ」 「なー。あーあ。どうせ効果ないんなら言わなきゃ良かった。なんかすんません」 思ったよりもだいぶ穏やかな顔で壮五が笑ってくれたので、安心してぎゅっと抱きしめると環は引きだしから例のボトルの入っていた箱を取りだした。 何も書いていない真っ白な箱で説明書が一つ入っていたのを覚えている。よく冷やしてご賞味ください。 「なんだいそれ……」 「んー。ほら、あの薬入ってた箱。トリセツもある」 「そんなとこに入れていたのか……。成分とか書いてるのかな?見てもいい?」 「いーよ」 環が箱を逆さに振ると、説明書の紙が一枚、それからぽとっと小さな何かが一緒に落ちてきた。 「?これなに」 「……錠剤……?」 「ん?湿気とるやつとか?」 壮五が無言で説明書を読むと、無言でベッドの上に落ちたそれを手に取りパキン、と中身を出した後、無言で口に含んだ。えっと驚いたのは環だ。口をあんぐりあけてその様子を見遣る。 「ええっどん引きマジ狂ってる!!!湿気とるやつ毒じゃねえの!!!!ぺ、しろ!ペーっ!」 ゾっとしている環とは裏腹に壮五はきょとんとした可愛い顔で、依然として無言のままここまで焦らされた愛しの唇に触れ、直後舌を割りいれた。 「ン!」 環はそれこそ驚いたが湿気取り(乾燥材)が猛烈に甘いラムネみたいな味がするのとは知らなかった、などと困惑したままそのキスを受け入れ奪い取り、主導する。甘いからか壮五が小さく噎せたが構わず舐め合っていると鼻から抜け出るしつこいほど甘い香りに翻弄されて目の奥がじりじりと興奮してくる。 口周りをべとべとにしながらやっとこ離れた壮五がかすれためちゃくちゃに甘い声を耳に寄せた。 「キタ、ね……」 そのたった一言に何故だか火花が散った様に理性を逆なでされ、環はかつてない性への暴力的な欲求に溺れてしまった。 これは愛というより性欲だ。色の濃いクレヨンであれしたらいけないこうしたらいやがるだなんて当たり前の気遣いや自身のポリシーが容赦なくぐちゃぐちゃに厚く塗り潰されて行く。 崩れ落ちていく理性に身震いしながらただただ性欲を消化したい獣の気持ちを必死におさえつけながら口に残る甘い残滓をぺっと吐き出す。 「ちょ、ちょっとマジでこれは、やばいのかもしんない、アンタほんとだめなやつだぞこれ」 「だめでもいいよ、たんじょうびだから、ゆるすよ、エッチなきぶん?」 「あたまゆるゆるじゃんかよ、こっこわっ……」 「なんだっけ?エッチなたまきくん、だっけ?」 キスから三秒でテントの張った環の下着を愉快そうにひっぱりながら既に泥酔状態の壮五が躊躇なく口に頬張り扱けば急な刺激にトレードマークである遅漏絶倫のレッテルが早くも大量に飛び散った。 「っ!!げほ、……はやっ」 「っ~~~いみわかんないからちょっともうくちとかやめて、いれる、いれてい?」 「ん、」 急いて震えている環の指がゆっくりなのに強引にして入口に割り込んでくる。いつもの環ならば絶対にしないことなのでそぞろな前戯も余裕の無い息使いも、無理矢理に近い暴かれ方にもとんでもなく欲情してしまう。 もっともっと我儘に乱暴に求めて欲しくて壮五はあがる息のままもういれていいよっとテンション高めに投げかけた。 朦朧とした環が手は止められないままそれでもかぶりを振る。 「だめまだ、もっと、しないと……」 「へいき。したい」 「けが、したら、」 「なおるから大丈夫、はやく」 揺れに揺れている環の理性を更に揺するように両足をぐいぐいと環の腰に絡ませて壮五はただ黙ってじいっと見詰める。余計な言葉は必要ない、なぜなら、目は口ほどに物を言うからだ。これ以上迷う余裕も無いらしい環はぐっと息を止めてから狼みたいなぎらつく目のままに何とか優しい言葉を零した。 「いい、痛かったらぶんなぐって、マジのやつ」 「……うん、ぐーでする……」 「いやできればパーで……」 なりふり構っていられない壮五の左手が手探りでローションのボトルを引っ掴むと自らの腹にこれでもかというほどの量をぶちまけた。 ほぼ白目のまま意識をふと持った環はまだしっとりと汗をかいている壮五の濡れた身体の感触ではっと我にかえった。 ぐったりと横たわるくたびれたその背中には無数のキスマークが咲き乱れているしところどころ噛み跡まである。覚えていないわけじゃないがすべてが甘い甘い夢の様でこの指に触れている生々しい性の痕跡が逆に地獄の様だった。何故か声がガスガスで全く出ないが環はそーちゃんと息を洩らしてそっと揺さぶる。 びくっと一度震えた壮五だったがゆるく首を振って両手を上げた。 「ん、……オエッ…………もう無理、ホントに無理……」 「おれもむり、……どっかいたくない?」 「お尻」 「すんません……」 壮五だって問答無用で声がじゃみじゃみしているのでもしもこの会話を音声だけで聞かれたとしても誰もメッゾのしている会話だなんててんで思いやしないだろう。 風邪よりひどい声帯の酷使で軽く咳き込んだ壮五がブリキのおもちゃみたいにぎこちなく身体を起こすとやっとこちらを向いて固まった。 「なっ、……ごめ、……え?」 「は?」 「ぼ、僕?」 「……は?」 驚愕の表情の壮五からめちゃくちゃそうっと左の頬に触れられた瞬間ぴりっと小さく痛みがはしった。 「いて」 「痛いよね!?!?ご、ごめん、多分もうやめてほしかったんだと、冷やそう!冷やそうね!」 あたふたと慌ててベッドから降りた壮五がひぎゃあと間抜けな声で消えたからには床に四つん這いで膝を震わせているわけでヤリ過ぎのお決まりであるその状態こそを地獄と言わずして何と呼ぶというのだ。 のちに鏡を見た環が左ほおの無惨に腫れたお岩さんである自分の顔を見て「おばけ!」と叫んだのは言わずもがなであった。 さても液体と錠剤の二薬を混ぜ合わせてそこで初めて媚薬効果がうまれるという何ともエッチで楽しい薬をプレゼントしたはずが、説明書をよく読まない環のおかげで危うくただのゴミにされるところであった。 あそこで壮五が説明書を読んだから成功したものの環には「ケミストリー」という名の媚薬の意味も使い方も少々難しかったのかもしれない。 ただ、人生のすべては何事においても結果オーライが最良である。 彼らのセックスライフを豊かにするプレゼントは引き続きひっそりと、募集中である。

Episode**ホトトギスドランカー

目の前に出された真っ赤な塔(?)、いわく辛いスイーツとやらを驚くほど真剣に長いこと見詰めてからようやく壮五は両手でしっかりぎゅっとまっすぐスマートフォンを構えた。 正面でその様子を心底呆れながら見守っていた環も仕方なくおれも撮っていーすか…とスマートフォンを出した。 「環くん写真上手だよね。撮ったら送ってくれないか?もしくはSNSにあげて」 「ラビチャのアルバムに入れとく」 「良かった…僕なんだか感極まり過ぎてこの感動が上手く表現できそうにない…胸いっぱいだから万一食べきれなかったら食べてくれる?」 「マジで断るしょうきのさたじゃない」 言いながら何で出来ているのか環にはおおよそ見当のつかないてっぺんの三角の物体をおそるおそる引き抜いてぱくんと口に入れた壮五のまったく幸せそうなツラと言ったらない。 数秒もくもくっと口を動かしてから幼女の様に綻んだ目から花が飛んだ。 「あ…アメージング…」 「げほっ…急にナギっち降臨したっ…」 「環くんの言葉を借りてわかりやすく言うとね!ちょー美味い!」 「あーそーおれの言葉借りなくてもいーなそれ」 「食べてみて!ほんのり甘味があるから大丈夫だよ!」 「ほんのり?馬鹿舌のほんのりってどんぐらい?」 「王様プリンさんの百分の一ぐらいかな!?食べてみて!」 「ずえんっずぇん甘くねーじゃんそれ、ぜってーやだ」 にこにこしながらずっとこちらに手を伸ばして「あーん」としてくる壮五の指につままれた得体の知れない確実に辛い案件の最早食べ物かどうかすらも危うい物体を、はあなぜどうしてこうも受け入れてしまうような性格なのだろうかと己の壮五へのたゆまぬ愛情に環は多少自己嫌悪した。 めちゃくちゃ嫌そうにだが口をあけてしまったからには突っ込まれた激辛パウダーに塗れたコーンを悶絶しながら咀嚼するしかない。 普段からとても代謝の良い環の額にぶわっと大粒の汗が浮かんだので壮五がすみません!とプリンミルクセーキを即座に注文する。 「う゛わ゛ま゛じ゛で゛か゛ら゛い゛…まじもういっしょうゆうこときかないから」 「そんな泣くほど辛くないってば…大袈裟だなほんとに…」 「この反応を見ろよ!嘘つけないのおれのからだ!舌がびりびりする…あっつい、もう無理…」 「プリンミルクセーキ頼んだから待っていて。というかこの粉なんだろう。市販のものかな?日本で販売されているもので粉状のものは一通りあるつもりだったんだけどイマイチこれだって思うものがないかもしれない。もしかしたらブレンドしているのかもしれないよね。お店の人に聞いてみてもいいかな?あ、でもレシピは非公開とかだろうか…聞いても迷惑じゃないかな…?」 「アンタ何目指してんの?激辛ソムリエ?からいこな博士?アイドルにそのスキル要る?」 水をおかわりしてしくしくしている環を見ながらもコーンのその下の真っ赤なクリームと赤いスポンジをフォークで刺して興味深そうに眺めては壮五が再びぶつくさ言っている。 環は壮五の、あの物がまるで無い簡素なつまらない部屋にこんな恐ろしい辛い粉がたくさん隠してあったかと思うと寒気がした。そういえばたまにある辛くなくしたよ、といいつつちょっとピリ辛の壮五の料理もなんだか最近平気になってきている気もしなくはないような気がしなくもなくて唸る。 「きた。ほら、おいしそうだよ」 そこへいい色のプリンミルクセーキが届いた。おいしそうだよじゃねーよ、と思いながらもおしぼりで汗を拭きひりひりする舌にプリン色の滑らかな液体をのせるとこの世のものとは到底思えない衝撃的な慈愛に包まれ環は一瞬桃源郷を見た。 「愛」 「…あい?」 「プリンがおれを愛してやまない、罪」 「…はあ。食物連鎖切ないな」 とまあ、お互いの欲求が満たされたところで、ここがどこかと何をしているのかをざっくりと補足する。 現在、ツアーの真っ最中であるメッゾの二人はこうして公演の合間に地方の口コミを壮五がピックアップして激辛メニューが評判の店々等々をお忍びで訪れていた。 壮五の伊達眼鏡とキャップ、環のマスクとパーカーのフードで余計目立っている気もしなくはないが今のところ声をかけられたりSNSで騒がれたりもしてはいない。 「…唇。はしっこに辛いのついてんよ」 環が無言で壮五のくちをぎゅっと親指で拭ってやると一瞬びくりとしたあとはさして気にもしない様にして、壮五がありがとうと言った。 都内凱旋公演で東京に戻るまで残るは明日の夜公演のみ。長い様で短かったホテル三昧の記念ツアーもいよいよ終わりに近づいてきている。撮影や収録の都合で行ったり来たりして体力的にしんどかったりもしたがなんだかんだで楽しいツアーだったことに間違いはない。 ただ、今朝になって壮五が「辛いメニューのあるお店に行ってもいい?」と聞いてきたので地方最後のホテルなのに、と思いつつ頷いた環は今夜のセックスがお預けになったことを内心憂えた。 別に激辛メニューを食べたからと言って壮五が腹を壊したことは無いのだったが、その恐れが少しでもあるのならば「食べるならしない、するなら食べない」とキッパリそう言われてからは壮五が辛いものを食べたいと言った日の夜は本番を諦める、のが二人の暗黙のルールになっている。 だが段々それが定着してくるにつれ、壮五が「辛いの食べたい」で食べるめちゃくちゃ馬鹿かアホ程辛いメニューでも躊躇無く楽しめている様に見えるのはきっと気のせいではない。 それに、本番がなしだというだけで触らないわけではなく、寧ろ少しぐらい強引で無茶な無理をお願いしても許してくれるチャンスであるのはまったく否めない。 「あっちょっとまってもうイったからっ」 「ん?」 「ああやめっだめ、だめだ!」 「だめ?」 「うぅあああ、はっ、はあっイくい、くっでちゃ、あっあ…」 普段挿入しながらすると刺激が強過ぎて失敗するので滅多にしないししたがらないがたまにある"いれないセックス"の時にはこうして潮吹きにトライすることもある。 射精後、再度緩くゆっくり刺激して甘イキさせた直後から主にペニス先端を中心に激しく責める。いれられないのは壮五が辛いものを食べたからだと自負しているせいかまあ大体三回に一回、いや二回に一回…ぐらいはその流れにのっかってくれた。 「っううううっ、う、うっ」 「我慢しなくてい~よ。おしっこ出ても風呂場だからだいじょぶだよ」 「あ、だ、あっだいじょうぶじゃなぅ、ぅうううっああだめほんとにっだめだめ!、ッア」 「腹すげーびくびくしてる。はー。いれたい。帰ったらちゃんとエッチしようねえ」 「あ、あでる、やめてたまきく、つらいつらいっ…だめも、」 身悶える壮五の全身にギュウウとかなりの力が入った瞬間、扱き続ける先端からバチャと透明な液体がぶちまかる。おお、成功~と楽しそうにした環だったがやろうとして失敗したことなど無論ない。 痙攣しながら泣き喘ぐ身体を抱き起こしてそれでもまだ手は止めずに口を塞ぐと壮五の理性がちょん切れたのか思いっきり襟足を掴まれた。 「んぐ、いだだだ」 「ああう、やあああもうやめろばかああ、」 「いだだっ!やめてるじゃんイッテ!おい!」 「っう、はあ、ふ、ああ…んっ、つらいい、ばか、ばか…」 「…辛かった?ごめんごめん。今日ぐたってしないね、足りないんじゃね?」 「なぐるぞっ!!!」 気がつくと鼻を啜る程泣いていた壮五にちょっと驚いて目尻や口元を丁寧に舐めてやると限界値超えのどちらかというと苦痛の余韻に身体を震わせやっと肩の力を抜いたのだった。 「はっ……してあげる…してあげるから、もうぼくはいい…ねえっ……」 「いーーから。ちょっとさせて」 久しぶりにいれないセックスをするので、ベッドに戻っても環におおいにある探究心の溜まった燻ぶりが壮五の内壁を容赦なく暴く。壮五の前立腺などもう指に癖がつくほどたくさん触ってきたし痛いと気持ちいいの境界線だって無論掌握済。閉じようとする腿を抑え込みあまり自身が興奮しすぎない様にしつつも甘やかな声で必死に鳴いている壮五の気持ちいいを更に開拓すべく気合いを入れる。 「っさわりたい………」 「エッチ出来ないんだからダメ~。はいローション持って」 「何するんだ、一人だけきもちくされるのいやなんですがっ……」 「あとでよくしてもらうからへーき」 ぴくんぴくんと太腿が継続的に震えはじめると前立腺をゆっくり丁寧に刺激される快感に壮五の理性があるタイミングでどぼんと落っこちたのが分かった。小さくだめ、いく、と繰り返しながらシーツをぎゅっと握り堪える。そのまま前には触らない様にして内壁への刺激だけでドライオーガズムへ導くと荒い呼吸が詰まった瞬間ビクンとそれを受け入れた。 とろんとした目が彷徨って環を捉えると縋る様に手が伸ばされるので掴んでキスをやる。 くすぐるように固いしこりを撫でる手は止めずに熟れて尖る突起をぴんと弾いた。 「はあ……あ、んっ、たまきく……」 「ん」 「だい、じょうぶだから……せっくす、してほし……」 「ん~?」 「ひとりでっいっぱいいくのいやだから……」 「えっちしたってアンタ一人でいきまくってるじゃん」 我慢という概念が吹っ飛んだのか服すら脱いでいなかった環の股めがけて顔を突っ込んでくる壮五を冷静に止め、そのまま深い深いキスで宥める。唇がえらい敏感な性感帯である壮五がこれに抵抗できるわけもなく再び呆気なく組み敷かれてしまう。 「ほらあ、おれの指どこ触ってる?言ってみ」 「っあ………ん、き、もち…ところ…」 「ははっかわいい。きもちいとこ触ってんだ?」 「んっ…」 「そろそろ動かさなくてもイケんじゃない?あててるだけだけどもう気持ちいだろ?」 ざらっとした内壁のしこりに中指をあてがったまま微動だにしないでいると段々壮五の様子がおかしくなってくる。自ら入口をあけたりしめたりしながら身悶え腰を揺らしながら何かを堪える。 「やえ、あ…っき、もち……うっあ」 「なんもしてないよ。イク?」 「いく、いくいくっ…だめそんなのっそこだめヘンだからもういらなっ…」 「固くなってんよ。こりこりしてい?」 「だめっぜったいだめ、だっあ…めだってっばあああっ……!」 絶叫しながらの射精も伴う激しいオーガズムを強制され、さすがに限界だったのかしゃくりあげた壮五に満足して環は緩やかに唇を啄ばみながら快感を掬い取る。頭を撫でながら優しく「んじゃ、さわっていーよ」と囁いた。 「……あぶねー……」 辛うじて何とか挿入を留まることの出来た自分の精神力が神がかっていると自負した環は終わった瞬間に寝落ちた壮五の頭を腕に抱えながら布団を引っ張り上げてかぶる。 しなくていいといいつつもいつも押し負けて舐めさせてしまうのだが年々技術というかレベルというか一体どこで覚えてくるのか口淫の手口がひどく凶悪になっている。びっくりするぐらい気持ちいいのに何だか複雑だった。 最初の頃の壮五のフェラチオといったらする前もしている時もハラハラドキドキで勃つものも勃たないぐらい覚束ないものだった。 下手というか女との交わりであってもさせたこともないのだとハッキリと分かるぐらいに。 「そお~ちゃんフェラへったくそで無理!」 「…。どれちょっと待ってもう一回させてみて」 「噛む気だ!やめろ!トラウマになる!」 眼光鋭くしたこともないんだから当然だろ!と言った壮五をその直後口で犯したのは良き思い出である。 「てかしたことないんじゃなくて。させたことがね~んだろ。潔癖そうだもんね」 「…………」 「されなきゃわかんないよね。どうしたらイイかとか」 「…………」 「これからはおれがいっぱいしてあげっかんね。覚えてネ」 「恐縮です……」 それが今となっては環がいやそんなんおれしたことないじゃんどこで覚えてクンの無理、と早口でまくしたてている間に射精させられる程には壮五の成長著しい。 自分がそれほど我慢強い性格ではないことが分かっているので煽られたら乗っかるしお願いなどされた暁には最終的には聞いてしまうぐらいに壮五には甘い自信がある。出来るだけ我儘はきいてやりたいし好きなようにさせてやりたいので大概のことは押し負けても問題ないのだが実はその見極めが難しいところでもある。 壮五のお願いには自分本位のものとそうでないものがあった。 前者ならおおいに叶えてあげたい。望むならどんなに際どいプレイだって出来る限りやってやったっていい。ただ我儘の理由が後者になると話は別だった。 昨年の話だったか。疲れ果てて爆睡する壮五の髪を撫でながら環は思い出した。 きっかけは確か些細なすれ違いからの喧嘩だったが加えて環がガセネタの女優スキャンダルでバッシングを受けている最中だった。 一週間以上まともに口を聞いてくれなくなった壮五を面倒臭くて放っておいたら自爆したそんな話だ。 その日の深夜急にベルジャンから電話がかかってきた。 「たー…………ま、き……くーーん…ふふふふ…」 「やばい、マスター、くそ酔ってる。きんねんまれにみる泥酔。連絡あんがと」 「よってにゃい、あるけまーす……」 「じゃ歩け馬鹿!おもてえマジで…」 歩けると言った割に壮五が環の背中から降りる素振りは微塵も無く、はふはふと首筋に熱い息がかかる。 確かドラマのクランクアップだったはずなのだが、と環は壮五のスケジュールを思い返す。ただまあ、終わったあとにここでこうしているということは何か気に入らないことがあったのだろう。泥酔するほどいやなことが、きっと。おれか…? 環は部屋の鍵を回しながら十中八九壮五と共演したあの女が何か言いやがったな、などと都合よく目論んだ。何せ今回の壮五のドラマのヒロイン役こそが環と噂されたスキャンダルの相手まさしくその女優だったのだから。 「ほら、降りれ。靴脱いで」 「……」 壮五は珍しくスニーカーを履いていた。ぎゅうっとしがみついてまるで背中から降りようとしないので仕方なく紐をちょっと緩めて無理矢理脱がせてやる。 寝室に入ってベッドに腰を降ろすのに、まだ離れようとしないのでがっちり組まれた両手を軽く叩いた。雑踏に満ちていた壮五の匂いが段々と部屋に馴染んでいく。 「おい。いい加減にしろよ…夜からだけどもう今五時だかんね。風呂入って酒ぬかねーと」 「たーくんこわあい」 「いい大人がガチ酔いすんなっつーの。いつぶりだよ」 「ふふふ、好き」 「……はいはい。上着脱いでくださーい。皺んなるよ。いいやつなのに」 密着した壮五の昂りにはおんぶした時から気がついていた。 一週間とちょっとぶりの逢瀬がよもや"そーちゃん"だなんて最悪極まりない。環は完全に酔った壮五とセックスするのはあまり好きではない。本当に子供の様な突飛な行動をするし触る加減がちょっといやかなり無い。快感に集中出来ないほど要は手がかかるのだ。面倒くさいの極み。これからこのやんちゃなぼっちゃんを寝かしつけなくてはいけないと思うと環からは暗鬱なため息が零れた。 と、突如急な刺激に環がひゃん!と声をあげてしまったのには、壮五の冷たい手指が服をまさぐり胸を撫でたからである。びっくりした心臓がドドドドと急激に脈を上げてきて息苦しい。 「おい!!!!」 「んー、たーくんは何もしないんだよ。そーちゃんが全部してくれるって。えっちいことそーちゃんしたいんだって」 「んもおおいくつだよ!そのキャラもうキツイぞ!」 酔っているからとてそんな勝手な言い分は許さない。環は瞬時にどの口が言うんだと壮五を押し倒して問答無用で口づけるとそれには凶悪な顔で首を振ってむちゃくちゃに抵抗する壮五が本気で環のみぞおちにぐーを入れた。油断していたのでモロに衝撃を受けて縮こまる。 「ぐふっ…!!!」 「っはあ…た、くんはっ何もしちゃっ、いけないんだって……!」 「ぐえ、いだ…もうなんなん…いや……痛い…うっ…」 他人に本気でみぞおちを殴られた痛みを初めて知った環は涙目で即座に降伏した。大人しく壮五の言う通りに寝そべると嬉々とした壮五はせっせとズボンを剥いで股間に顔をうずめた。もう全く意味がわからない。 痛いのは嫌なので抵抗はしないまま酔っ払いの様子を恐る恐る宥める。 「…すんの?怒ってたんじゃねーの?」 「する…怒ってるのたーくん…っ……いたッ……」 「おれは最初から怒ってねーじゃん。口利かなかったのアンタ。まあいいや。触っていい?」 「だめ!!!!!たーくんは絶対そーちゃんに触っちゃだめ!!!!!」 「あはい…」 慣れた手つきで下着の上から環の昂りをつーっとなぞって弄び壮五はぽそぽそとキスを落とす。見目にも随分興奮しているのが分かる。自分のズボンに手を入れごそごそと弄っているのできっとセックスする気はめちゃくちゃあるのだろう。 ただ、今変な動きをしたら容赦なくかじられそうなので環はなるべく刺激しないようにそっとサイドテーブルに手を伸ばし置きっぱなしのローションを手に取った。 「…へい、そーちゃんさん。使いますか」 「ウン」 「よかったら後ろほぐしましょーか」 「だめ、触るのだめ…」 舌打ちをしそうになった環だったが渋々ローションのボトルを、差し出された壮五の何故か真っ赤になった手にぽんと渡した。 「!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!??!」 反射的に飛び起きみぞおちを守るのもすっかり忘れて壮五の左手を引っ掴んだ環はあまりの衝撃に手が震えた。びっくりしすぎて呼吸の仕方が分からない。喉がからからになる。混乱したままそのべっとりと赤く濡れた指先と壮五の顔を交互に見て出ない声で「え!?」と叫んだ。 「待って!待って待って待って!どこから出たこれ何!?血!?何で!?ちょっとケツ見してみ!?どういうこと!?」 軸の無い壮五の身体は肩を強く押されて簡単に転がった。壮五の左手が触れたシーツに指のあとが赤く引いて殺人現場みたいになってしまう。太腿を汚す程滴る血液は全然潤いの無いまま指で無理にこじあけられた衝撃でデリケートな入口に傷がついてしまったが為だった。 事態が飲み込めずに青ざめた環がしばらく固まったまま動けないでいると、壮五が眠たそうな虚ろでへーき、と零した。 「やめてくださいいいいいいいい」 「知らん!ケツ見せろ!」 「いやいや待ってくれ、待って、何!?どういうことだい!なんでこんなレイプまがいのことを仕事前にされなくちゃいけない!?というか僕ベルジャンに行ったあとよく覚えていないよ!」 「だろーーな!馬鹿だ!薬局行ってきたから!薬ちゃんとぬらないとだめだかんね!一生エッチできなくなったらどーすんの!!!」 「へえええええ…なにい……どういうことお……お願いだからパンツ引っ張らないでくれえ…」 半べそをかきながら抵抗する壮五を睨みつけて、塗り薬(店員にちゃんと聞いた)を右手に環も半べそだった。 傷つけてしまった部分が大したことが無いかどうかはよく分からないけれどきっと病院に行っても何と説明したらいいか困るだろうしここは治るまでちゃんと面倒を見てやらねばなるまい。今まで死ぬほど気を遣ってきた入口への入念な愛撫は決して間違っていなかったのだととりあえず環に自信はついた。 だがまさかよもや壮五自身の手で大事な壮五の大事な部分に怪我をさせてしまうことになるなんて予想だにしなかった。相変わらず毎度毎回ぶっ飛んだギアには対策の施しようが無い。自分が悪いわけではないにしろ、かんとくふゆきとどきとはこういうことを言うのだと殊更環の身に染みる。 「恥ずかしいよ…!自分でやるから!」 「恥ずかしい?何が。そーちゃんにはもう一生信用が無い。だいち治ったかどうか分かんないだろうが。もう禁酒だかんね…これはマジ」 「お断りします…と、いうか……せ…っくす……した?」 「するわけないだろ!血ィ出たんだぞアンタ分かってんの!?」 環が真剣にそう言うと壮五はぐっと黙ってそしてとうとう大人しく四つん這いのまま尻を丸出しにする格好を受け入れた。セックスをする以外でこんな意味不明な体位を取らされることになるだなんて昨日の壮五には全く予想できなかったに違いない。 くぐもった声ではやくしてください…と呻く。 「はあ……怖かった…血はやばい…さすがに引いた…いたくねー?しみる?」 「うっ…だいじょうぶです…すみません…」 「ばんそーこーとか貼るもん?貼っとく?」 「いやっ、多分貼ったら大変なことになると思うからやめてくれるか…?」 とはいえ軟膏を塗るのが目的といえどいやにそうっと環の指で入口周辺を撫でられる感覚は壮五にとっても久々である。そういう気が全くなくとも意図せず身体がぴくんと反応した。 壮五の耳がみるみる真っ赤になるのを後ろから見た環は呆れ半分、やはり愛おしさでいっぱいになった。 「っあ……ちょっと、もう終わったなら…」 「よさそーじゃん。撫でてるだけなのに」 尾骨に広く手の平をあてがいゆっくりと上下にさすると壮五の内腿がびくびくっと震えた。合わせて入口が浅く呼吸しはじめ壮五が泣きそうな声でやめろ…と呟く。 「おれは怒ってないから触っていい?」 「っ酔ってる人間の言葉真に受けないでくれ…!」 「はは。酔ったそーちゃんはさ、嘘つけねーんだよ。おれが怒ってるから怒ってたん?」 「っちが、…これからしごとだろっ」 「すぐ済むし。あ、そうそう。おれ気がついたことあんだよね」 蹲って小さくなったままかぶりを振る壮五を優しく引き起こすとぎゅっと瞑っている目尻を解かすように軽く唇でなぞっていく。キスしている、もっと言えば唇で触れているだけなのに壮五の身体が揺れるほどよがってしまうのは彼の性癖がキスという行為であるからに他ならない。 流されたくないとおびえながらも熟れて熟れて真っ赤に腫れた唇が環とくっつきたがって気が狂う程期待している。 そんなもの何もかもお見通しだ。環は口のすんでで笑いながら低く呟く。 「キスってさ。一人じゃできねんだよ。知ってた?」 「んっ」 びくんと腰が跳ねたのは溜まりに溜まった性癖の鬱憤が弾けた証拠だった。口と口がくっついた瞬間ゆるく零れた白濁にチラと目をやった環は熟した甘い唇をじくじくと貪りつつ軽いオーガズム直後で敏感な壮五の先を指で詰る。 鼻先では濁った目がたゆたいすぐに身体が二、三、跳ねる。先への刺激で上手にドライで達している合図。例え直接触らなくても快感を刻みこまれ記憶してきた脳の愛撫とあってはなるほど、ちんけな理性などまるで歯が立たないようである。 壮五の見事な酩酊っぷりに当てられて環とて一週間誰とも触れ合ってこなかった鬱憤が暴発しそうになっていたわけだが、何せ血まみれの患部をまざまざとみせつけられているのでそこは何とか辛うじて踏みとどまれている。 それにしても挿入の出来ない解禁セックスなんてあんまりだと環は内心拗ね散らかす。勝手にこじらせて一人で悩んでうろうろした挙句酔っ払った勢いで我慢してきた全部を解放させるなどまるで意味が無い。 無駄な苛みだ。考えない方がマシだ。我慢の微塵も感じられない顔をしたまま壮五に優しく股を撫でられるのを感じて環はやっとその唇から離れた。 「ぁ……」 「もっとしたい?」 「ん……」 「仲直りする?」 「…ん…あの、……やっぱり、女性ともしたい…?」 がっつり合った目と目のあいだで環が思わずぞくっとしたのは壮五が「しないでほしい」とその目で必死に訴えていたからだ。ガセのスキャンダルをむげにも出来ずかと言って環のことも信用しきれず一週間ずっとこれが言いたくて言いたくてたまらなかったのかと思うと独占欲と嗜虐心がないまぜになって環の下腹に蓄積していく。 「そんな信用出来ない?」 「……ウン…」 「あっそ。したくねーしつかそもそもしてない。そーちゃんじゃないともう勃たないもん。だからちゃんと責任とって」 「…僕でもいいのか?」 「ちがう」 そーちゃんがいーの。決まってんじゃん。 腕の中で眠っていた壮五が身じろいだ。甘くていい匂いのする耳の辺りに鼻を擦りつけて背中を撫でてやるとくすぐったそうにきゅっと丸まって再び深い呼吸で落ち着く。 この頃よりは多少信用されているのかもしれないが、疑り深い壮五のことだ。いつ何の拍子にどんなことを思って考え込むか分かったものじゃない。 照れてお互いの気持ちを言えないぐらいならまだいいが壮五は良くも悪くも想像して空回る。事実を告げていても解釈をねじ曲げたりもする。安心して我儘が言える環境を整えてあげ続けるのもまた、環のしょうもない愛に他ならないのであった。

Episode**ローストクック

「ねえねえ、そろそろ結婚する?」 三徹明けの月曜早朝、根詰め過ぎだと環から例のファミレスに連れだされた壮五はテーブルに設置されていた紙ナプキンで黙々と鶴を折りながらBメロを考えていた。 「つか事実婚みたいなもんだしもう別にいっか?そーちゃんが不安じゃなけりゃおれはそれでいいけど、アンタ変なとこで妙な不安持って暴走すんじゃん?一応聞くけど未だにおれが女と結婚する未来とか考えてたりする?もしくは当たり前の家庭自分で持つ理想みたいなんあったりすんの?」 やはりどうにもAメロに拘り過ぎているのかもしれないことは分かってはいるのだが、実に運びがいい。気に入っているから使いたいのに進行上ありきたりで似たり寄ったりなものになりそうだともうほら答えは自分の中で出ているのだ。分かっちゃいるのに捨てきれないから出来あがらない。はあ。鶴は出来た。 「聞いてる?」 「え?」 「きけよ!!!!」 「結婚?しない」 「えっ」 「だって意味があるかな?」 半目で頭を抱えた壮五はツーコアの低速脳で曲作りと環との結婚を半々で考える。 「今のままでいいってこと?」 「それ以外に何か変えられるか僕たち?」 「超超超ドライだけど今じゃねーかもなこの話題」 呆れた様にトーストを齧る環をぼんやりと見つめ壮五もアイスコーヒーを啜る。 先日十周年の節目を派手で盛大に豪華大仰に締めくくったとて、これまでの何かと別段変わることのない日常サイクルは早くもライブの次の日から始まっていた。勿論気は引き締まった。目標も出来た。継続の凄さをやはり思い知った。積み上げてきた実績の成果は確かに自信としてここにある。 それから環との愛は今年で三年を迎えていてたまに一人で眠る様な時はびっくりするほど自分の人生に馴染んでいる環という存在を実感したりする。 今更隣に居ないなんてことは想像が出来ないほどで、このまま死ぬまで一生こうなのは最早当然のこととして壮五の中にあった。 ただ、この関係性を付き合っているとするのにはもうそろそろ無理があるのもまた事実だったがこれ以上に名前をつけて一体何の意味があるのだろうか。 行き止まりをぶち壊した先の恋人が本当のエンドだと思っていた壮五に環はまたもや続きの方向性を示してくる。かと言って身体の関係があって、信頼も愛情も申し分ないのだし"結婚する"ということに壮五の拘りは心底無かった。 いつの間にかなみなみについであったグラスのコーヒーは細いストローから壮五に吸い上げられて全部無くなっていた。ずごっと氷との間で音が出て驚く。 「つかさ~引っ越ししようかと思うんだけどさ、どこがいい?一緒に住むでしょ?」 「…引っ越し…?…っええっ!?こんないい所からどこへ行くって言うんだ?今のところ何か問題があるのか?」 「結婚の時との反応が…………」 「僕気に入ってるって言わなかったっけ…。環くんちがあるからここにスタジオ作ったんだぞ…」 「いや知ってるから…落ち着け…ここから離れるつもりはねーよ?ただもうせめーじゃんあそこ。そーちゃんの荷物もあるし。風呂も狭いし。キッチンも単身用だし。」 「狭くないよ!広くなったらそのぶん家賃だって高くなるだろう?駅からも程良い距離だし、僕の荷物が邪魔なら定期的に持って帰るからっ」 「やー徹夜明けめんどくせーー。否定してんじゃねーの。ね。もういいやこれも今じゃねーから忘れて」 この二分後に環からあしらわれているのに壮五はやっと気がついたがもうどうでも良くなった。AメロだかBメロだか段々わからなくなってきてそれからどういうわけかああなったりこうなったりしているのにももう慣れた。 壮五は切羽詰まった自分の息抜きの仕方が年々環頼りになってきていることを正常なあたまの時には危機感としてちゃんと感じてはいるのだけれど。 「っうあっ…もうそれいやだ……!きもちよすぎるのいやだっ」 「やなことねーじゃん。カラダは正直な」 「あけ、ねっねてないからっそんなにするのだめだ、おかしくなるからっ」 「いーじゃん、なってなって」 背骨の真ん中からせり上がる度の過ぎた気持ちいいを何と表現したらいいのか分からずに勝手に身体が怖くて震える。しがみついた環の身体だってあまりにも熱いから触っているところ全部が気持ちいい。環の昂りが腹の奥の疼きを引っ掻いて宥めてくれる度精製される快感の溜まりが充血して膨れ上がっていく。 それにしても未だにセックスの快楽に慣れられないのは何故なのだろう。環との三年間に及ぶ性行為は何度してもどれだけしつこくされても最高に気持ちいいままだったしはじめに植え付けられた快感の記憶はいつまでだって鮮烈なまま身体にきざみこまれている。 それに壮五の限度と加減を知り尽くしている環に身を任せるのはきっともうメンテナンスと変わらない。 ぐちゃぐちゃに疲弊した脳を一旦全部すっからかんにしてくれる為の環とのセックスを壮五は毎回よく覚えていない。 「んっ……いい、もういやだ、たまきく…」 「いや?」 「いやっ……せ、っくす、いや…っ」 「そっかあ。じゃ終わりにしよっか」 「う、んっうん、……うんっ」 艶のある目でじっと覗きこんでくる環に優しく頭を撫でられればたちまち死ぬほど満たされた気持ちでいっぱいになる。終わりの言葉に何度も頷いて自然と目を閉じると息も覚束ない口を強く塞がれてどこに向かっているのかどんどん昇り詰まっていく切迫感が最高潮に達した。 大きく震えた直後ぱっと醒める煮えた夢は環の細やかな啄ばみで温く柔らかく拡散されそのまま放心した壮五の重だるい身体と繋がりを解いていってしまうのを、最近少し寂しく思ったりもする。 「…………」 「おーい、大丈夫か。手離して。水のも」 腹の奥がまだ気持ちいい余韻でひくひくとなっているのは環には伝わらないだろうから、離れたくないときはそう言わないといけない。ぎゅっと握った手の平を丁寧にほどかそうとするのを必死に拒絶していると諦めたのかそのまままた正面から抱きしめてくれる。 「自分でもういらないつったくせに」 「……今はまだ、いる……かもしれない……」 「あ、そう」 環が分かってくれていると思うと、三年前よりももっとずっと我儘で甘えたでそのうえ自分勝手に環を振り回してしまうようになってしまっているかもしれない。素直になれないのは元々なのにこの三年をかけてよりそうなったのは否めない。 近過ぎるが遠くなく、身も心もびったりくっついたままだから大事なことであればあるほど余計に口に出す機会が無くなってしまったようにも思う。 「ほんとにもっと?」 「……ん……」 最もそれは壮五の変化に敏感にならざるを得ない環にとって、昔よりも断然複雑な気持ちの移り変わりに直に触れている自覚はあっただろう。 反対に大事なことを口にして確かめたがる様になったのは環の方に違いない。 「っ……」 さっきまで馴染んでいたのだから当然なのだがよく熟れた内壁に簡単に飲み込まれていく感触は何とも言い難い、征服欲というか、世界で一人しかいない逢坂壮五という人間を抱いている、という至極最高の優越感は今までのどんなトクベツでイチバンよりも特別で一番のものに違いない。 きっかけの後は気付けば手中であれよあれよという間にこうありたかった七年間の理想が叶ってしまったわけだがそれがこうして更にの三年間、つまり千日を超える毎日を共にしているという奇跡的な現実が実は物凄いことなのだとふとした日常で思い知ったりなどする。 「そーちゃん」 例えば今。 性愛をひた隠しにしてきた三年前までの二人からしたら絶対にあり得ない光景に違いない。タイムマシンで過去の自分がやってきたらやばい。二度と帰りたくないと駄々をこねるかもしれない。 当然のことながら壮五とのエッチな想像など腐る程した。女を抱いている間だってちょこっとは重ねて考えたりもまあしていた。だから壮五の内側を暴いた熱が、触れた唇のやわらかい感触が、組んだ手の固さ、擦れ合う肌、性行為を待ちわびたあの飢えた目、全部自分の想像通り過ぎて時折超超超長い夢だったんじゃないかとどきりとすることもある。 何も不安になるのは壮五だけではないということだ。 「好き、そーちゃん……」 ちょっと抵抗されたが壮五の負担にならない様に身体を反転させて後ろから犯す。 好んでする体位とは当たる所も角度も違うが壮五の反応を見る限り一番気持ちよさそうなのはこの体位だ。浮いた背骨を指でなぞるとそれだけで艶が喉から漏れ出る。 この反応だってこうしたのは、しているのは自分なのに、どこか信じ切れないところだってまだまだあった。 環は自分自身ですらも自覚に薄いが不安になればなるほどに焦燥と理性が反比例し、優しく出来なくなることもごくたまにだが無いことも無い。 夢かもしれないと思った時点でそうであって欲しくないから理性が飛ぶほどの欲求が爆発する。誰にもやらないし誰のものにもさせない。許さない。自分以外の人間を愛の対象にし得る?そんなこと絶対に許したりしない。 誰からも好かれなければいい。自分だけがその魅力を一人占めしていられたらいい。ずっと隣で不安気にたまきくんと頼っていてくれたらそれでいいのだ。 未来も将来もそんなもの望むならいつだって明るく照らしていてやるから、自分を求めるのをやめないで。 「………、……」 声も出せないぐらいに仕上がった壮五が執拗で丁寧な馬鹿ほどしつこい環の愛撫を嫌がらずに全部受け入れてくれる時、それが環にとって、果ては二人にとっての何よりの特別で一番の証だと、 「ごめん……つらいな、……ちょーあいしてる……」 狂おしい衝動の最中で環はよくよくわかることが出来るのだった。 夢でもなければ想像でもない。壮五の熱い内壁にゴム越しの欲望を吐きだしてしまってから乱れた呼吸の合間心底ほっとする。 嘘のない熱、壮五としかしたことのない本当のセックス。ああ。 生まれてきてマジでよかった。 環はそのつもりだったのにいつの間にか壮五を甘やかしているんじゃなくて壮五が甘やかさせてくれている今のこの関係性でいられることがどの何より、セックスしていることより、メッゾでいることより大事でかけがえのないものであるとそう思えたのだった。 「……ふ、っぅ……」 横暴を許してくれた愛おしさに繋がりをほどけないままじっと抱き合っていると壮五の心臓が脈打つ音の心地良さで環の身体中が愛情でいっぱいに満たされていく。 精一杯与えているつもりではあったが環は壮五に与えられていると確実に思った。 解放された途端二秒で寝落ちた三徹明けの壮五を腕に抱えたまま環は足元でぐちゃぐちゃになっていた上掛けふとんを引っ張り上げてかぶる。 ぬくい壮五の静かな呼吸を聞いていると自然と瞼が重たくなる。 環が目を閉じると、何故か先週スタジオの廊下で会った千の声が脳裏に響いた。 何かあった時、家族じゃないってだけで何も出来ない。それが現実だよ 思わず目を開いてしまった。 目の前で壮五のさらさらなこまい髪がぽそと動く。そーっと背中に手を回してぴったり手の平を当てるとどくどくと規則正しく音を刻んでいた。今はうまいことはたらいているこの心臓が壮五を生かしていてあったかいし息はしてるし喋ったり眠ったり食べたり、歌ったり踊ったりキスしたりエッチしたり出来ている。 でも二人の間には三年経った今でも何の確固たる繋がりの証拠もなくて相方ですとか恋人ですとかそれではいけない場面がもしこの先出てきたとしたら一体どうしたらいいのか環には正直分からなくて怖くなった。 結婚がメッゾの、もしくは世間の正解じゃなくても壮五と家族になりたい。 何があるわけじゃないと信じているがないわけじゃあ決してない。キッチンに佇む壮五の後ろ姿を目にする度にちらつく恐ろしい残像で一瞬息が詰まる経験は寮に居る頃から度々あった。 生死を意識するとどうしても失った時の冷たさだけが思い出されてしまうから抱き合うのが許されるなら愛を確かめ合うのが契るのが護るのがどうか許されるなら出来る限り壮五の人生の全部を主導したかった。 どれだけお互いを理解していてもどれほど一緒に居ようとも、きっと血のつながりや公的な肩書には勝てないに決まっているのだから。 ふと壮五の手が環の手と同じ様に背中にまわる。ねむくない?と蚊の鳴くような声で問われて寝言かと無視していたら目を閉じたままゆっくりと手が上下して呪文のように「ねむいよ、ねむい。たまきくんすっごくねむたい」と呟かれ環は何故だかちょっと泣きそうになってしまった。 「こことかどー?」 「……え?引っ越すのか?どうしてまた」 「あんさーー……二十回くらい言ったけど、せめーんだって。あと気分」 「気分は初めて聞いたぞ」 「聞いてんじゃん。ここ。反対側にはなるけど」 三年前から変わらず使っている環のフライパンであるがどうにも最近焦げ付く。番組で貰ったべらぼうに高いものでちゃんとメンテナンスはして大事にしていたつもりだったが買い替えの時期か、などと壮五は三月レシピの一つであるくまさんパンケーキを焼きながら思った。 後ろではダイニングテーブルで頬杖をついて賃貸サイトを閲覧していた環が既に何件か内見を申し込もうとしているそうでなんやかんやで適当にあしらってきた壮五もいよいよ重たい腰をあげざるを得ないのかもしれないと思う。 「狭いかな。広くなったら僕との距離も離れるかもしれないぞ」 「…いやどんだけここから出たくねーの」 「……恥ずかしい、ごめん忘れてくれ……」 ふざけているにしろ柄にもないことを口にしてしまった壮五はせめて耳まで赤くならないようにと深く呼吸をして気持ちを落ち着かせると焼き立てアツアツのパンケーキを環の目の前の皿に乗せた。 わざとらしく壮五の席に向けて置いてあるタブレット端末には間取りと賃料が見えている。 「やば、美味い」 「まだ食べてないだろう」 「いや分かる。ヤッタ、くまのパンケーキすきすき~」 「……やっぱりちょっと高くなるじゃないか」 楽しそうにしている環は厚切りのバターを溶かし一織からお土産に貰ったという「店舗限定万能王様プリンシロップ」を表面に惜しげも無くばちゃばちゃにかけた。湯気にのってふわんと漂った甘どろい香りはなるほどいつも環の食べている王様プリンそのものの匂いである。 三年より前から壮五は気になっていたが何故かいつも冷蔵庫に常備してあるカラースプレーをこれまた環は惜しげも無くざらざらとかけたパンケーキの大きな一切れを豪快に口に入れた。 「しかもスタジオ行くのに横断歩道渡らなきゃいけないよ。僕明けに信号を判断出来るだろうか」 「……やばすぎる美味さ……王様プリンシロップが全おれを甘やかす……」 「それに駅側だから若干高いんだよ。しかもこことそれほど広さ変わってなくないか?」 「いやーこれは毎日食ったら太るな…一週間に三回…いや一回にしよ…悪魔的美味さ…」 「聞いてる?」 「聞いてるし。明けはおれが迎え行く。駅行く時信号ねーほうが楽じゃん。高い高いってこことんなに変わんないし絶対どう見てもそっちのが広い。次のオフ内見いってこよーぜ」 口の端についたピンク色のチョコがじわっと環の体温でとろけている。 今度は壮五が頬杖をついてそれを親指で拭うと環が即座にその手を掴まえて口に含んだ。 「……ここが好きなんだけどなあ」 「んまあ~思い入れが無いかって言われるとめちゃくちゃあるけど。初めてそーちゃんとエッチしたのもここだしな。あ、喧嘩した時アンタが逃げるとこないのはおれが不安だから今のとこはそのまま借りといて欲しいけど、それともここも借りとこっか?」 「そんなに貯金あるなんて聞いてないぞ。家賃どれだけ払えば気が済むんだ?」 鋭くなった壮五の目つきを牽制しつつあっという間に幸福のパンケーキを食べ終えた環は掴んだままの手を身体ごと引き寄せると唇にちゅっと音をたてる。 昨晩はロケからの直帰で遅かったのでセックスはしなかった。壮五も無言でそれを受け入れるからにはそれなりにそういう気分でどちらかというとオーケーということだ。 部屋着の裾から手を入れて胸をまさぐりながら環が盗み見た壮五は知ってか知らずか目線を下げたままあまいよ、と言った。 やれもうエッチな声だ。鼻で笑った環が立ったまま抱き合い追撃のキスを降らせる。 「あまいー?そーちゃんのがあまいけど」 「……なんだそれやめろ…はずかしい…」 逃げる舌を深追いして喉の奥まで舐め取るほどぐずぐずに口づけ合うとキスが大性癖の壮五はへろへろのふにゃふにゃに可愛くなる。もっと深くなるにつれて壮五の膝からがくんと力が抜けた瞬間抱きとめてゆっくりとその場に二人で沈んだ。 「……昨日しなかったもんネ」 「っ……ここじゃダメだから……」 緩く環の肩を押し返して窓からの光が溢れるリビングでの雰囲気に壮五が首を振った。 「だめ?」 「あかるすぎるだろっ…なんか…」 「なんか?」 「あ、……しちゃいけないこと、してるみたいだ……」 自分の言葉にぞくっと震えた壮五がどこまでも浅ましくていやらしくて環の口元から笑みが零れてしまう。いけないことなんてない。だって二人は付き合っているし恋人同士で愛し合っている。これは全部事実であり現実である。 「セックス、いけないことみたいで興奮すんの?」 「っなんでそうなるんだっ…あかるすぎるからいやだって言っただけだよっ…」 「明るかったら全部見えて最高じゃん」 「はずかし、」 「いーじゃんおれも全部見せんだから」 南向きで陽光の溢れる明るい部屋だ。わずかな明かりにぼんやりと浮かぶ夢の様な姿ではなくてはっきりとくっきりと確かにそこに存在する四葉環の強引な伏し目に射抜かれ動けなくなってしまった壮五は環の目から自分の目を逸らせないまま明るい部屋での確かないけないことを拒絶出来なかった。 「しよ…せっかくだし窓際よけい明るいからあっち行こうな」 「っやだやだ…………怖い、明るいの嫌だ……」 いつもなら洗濯物を展開している場所なのだが、生憎今日はまだ洗濯機をまわしていないのでまるであつらえたかのようなちょうどよいスペースが偶然にもあるというシチュエーションにドキドキと壮五の心臓が高鳴った。 そんな壮五を抱きかかえたまま対面座位の格好で落ち着いた環は改めて"よく見える"細やかに光を反射する髪も肌も目も濡れた唇にとかく目に触れる全てにとても欲情した。 動揺しながらも肩に手を置いてくる壮五の柔らかそうな耳朶を食み、耳の穴に舌を這わせてそうっとくすぐる。声は出さずにぐっと身体を緊張させた壮五は半泣きになりながらそれでも何も言わなかった。 「……」 壮五がはっきり拒否しないということは準備はちゃんと出来ているということで、いつどこで誘っても盛り上がった雰囲気がぶち壊れたりしないのはひとえに壮五の努力あってのことだと環はいつも愛おしく思う。 予測されたセックスの兆しを壮五がどんな気持ちで待ちわび受け入れているのかを思うと堪らない。狂おしいぐらいに大好きで愛している。少しでも多く満たしてあげたい。だってこんなに満たして貰っているんだから。 「環くん………」 ふいに呼ばれて顔を見ると、明るいからこそ見えてしまった壮五の目の中の我慢出来ていない欲情の色が環の体感温度を一気に上昇させた。何が辛いのか切なそうに眉を寄せてからぎゅっと抱きつかれた耳元では現実的に必要であるアイテムがこしょこしょとくすぐるように囁かれる。 「ろーしょん、持ってこないと…いけない……」 「…ゴムもな…」 「……ケチ……」 「はいはい。とってくるから、後ろ馴らして待ってて」 どさくさに紛れて久しぶりのナマでセックスしたい壮五が垣間見え、こんな顔してゴムしないでっていつも言ってたのか、と一瞬ぶるっと震えた環だったがすぐに立ちあがって寝室に向かった。凶悪にえろい恋人が明るいところだともっと邪悪にエッチになってしまった。くわばらくわばら。 ローションをボトルで二つとコンドームなどええい箱ごと持っていく。ついでに冷蔵庫から水も取り出して耐久セックスの準備がばっちり整った。のは、いいのだが。 「っ……、んっ………」 振り切れスイッチの入った壮五はいつだって勿論盛大に振り切れている。 明るい場所が嫌だとか恥ずかしいとか全くもってどの口が言っているんだかと呆れ半分環の喉がごく、と生唾を嚥下した。 膝立ちで自らのスウェットの中をまさぐる姿がすっかり陽光に晒されて意味が分からないほどスケベだった。 確かに慣らしていろとは言ったが別に一人で気持ちよくなっていろとは言ったつもりが無かった。環は柄にもなくドキドキが鳴り止まない胸を抑えたあと側に座って緩く壮五の腰を支えると焦らしながらゆっくりとスウェット、下着、と順に下ろしていく。 壮五の濡れた指先を舐めてからローションを纏わせてやるとぞくりと一回震えるも再び入口を解く作業に没頭してしまう。 「朝起きてすぐ慣らしたん」 「……ん、き…昨日…しなかったから……するかとおもって……」 「したかった?」 「……………うん…………」 ダメだ。環は堪え性無く目の前にしてお預けでいた壮五の身体を引き寄せる。たくしあげた裾から見えている臍のくぼみを丁寧に舐め下生えを食んで形を成している壮五の昂りをごく弱く刺激する。 「っ…………ずるいだろ……前触られたらうしろ、ちゃんとできな…」 「じゃしてやる。けつみしてみ」 「んっ……さきに環くんのさわりたい……」 「いらん。アンタがえろいから元気」 言う間に四つん這いになって震えている壮五の入り口は今朝仕込んだのであろうローションとさっき手に纏わせた分でてらてらと光っていていつもより断然彩度を増しリアルないやらしさとしてうつすこの双眸。 肉の薄い尻を左右に割って広げる様にするとそれだけなのに壮五の内腿が揺れた。 「すげーよく見えるよ。ほら、おれの手ローションでぬるぬる。これ今からいれるかんね」 「…う………なんでそんなこと、…いちいち言わないでいいよっ…」 「せっかく明るいし。"いけないこと"だから」 躊躇いなく二本の指でゆっくりと暴いていく。なるだけ内壁の全部で感じるように少しずつ少しずつ指を埋めていく仕打ちには耐えきれないと言わんばかりにかぶりを振って甘い声を洩らす。途中で何度かぎゅうっと指を締めつけられたのは指だけで軽く達した証拠であまり苛烈にしないように気を付けつつ指先で優しく前立腺を撫でつける。 「うう、うっ…あ…っき、もちい……」 「きもちい?どこ?」 「んっ……ゆび、あ……それ、それでいきたいっ」 いつもより明るいというだけなのに物凄く興奮している様子の壮五は快感に従順でとても素直に欲求をこぼしてくれた。しかしこれはなかなかレアな状態である。酒の入ったときに似ている。 因みに酔っている時の自分勝手で恥じらいのない素直な壮五はそれにプラスして加減が一切無い。デリケートな部分を力いっぱい鷲掴みにしたりアイスクリームみたいにして頬張る姿は無邪気だがまるで悪魔でいつ引っこ抜かれるか噛み千切られるかとハラハラして集中できないほどだった。 だが今は理性もちゃんとありそうだし身体はばっちりほぐれているしそのうえで壮五が気持ちいいからああしてほしいこうしてほしいと素直に言える精神状態というのはそう頻繁にあるわけじゃあない。 シチュエーションが勝った。明るいところでのセックスは最高だ。環はそう愉悦にほほ笑んだ。 「アッッツ……」 「すいぶん、すいぶんほしい、すいぶん……」 正直日光の力をなめていた言えた。クーラーが稼働していてすりガラスが一枚噛んでいるとは言え日の光が降り注ぐ窓際の温度がこれほどまでに灼熱だとは思わなかった。地獄のサウナセックスである。 よもやミネラルウォーターを誤って床にぶちまけたかの様な水浴びレベルの発汗にさすがの環も途中で根をあげた。軽い脱水症状に陥っているのは壮五で先ほどからわけもなく手が震えるので四つん這いで冷蔵庫に辿り着く。 「あつあつ。スポドリおれにも」 「し、しぬ、熱中症になったらどうするんだばか……」 「つかそーちゃんライブより汗だくなのマジうける」 「うけないよ!かいちゃいけないレベルの量だよ!」 「クーラーの温度さげんねー」 このあと環お決まりの十八度設定に壮五がくしゃみを連発することになるのはもはや言うまでもないのだった。

Episode**ニューイヤーニューアス

かつてのスキャンダル帝王、現役の抱かれたい男ランカー、そして十数年間必死にステージに立ち続けたら少しは貫禄のついたであろう「アイドル」の看板を背負ったその立派な四葉環の身体は年の瀬の忘年会から年があけたら新年会でと連日続いた飲み会ラッシュについに屈してしまったのであった。 「おあーーーーーーーー、よ、ったあーーーーーー、そーちゃん、歩けない、おんぶ」 「……どうしてこんなにのんだの……今日はコーラにしろってあれほど言ったのに……」 「うう、ふ、コーラ、つまんなくなっちって……ふふ、あ、うける、マジで酔った、おもしろくないのに笑える、ふ、そーちゃんなんでそんないつまでたってもカワイイん、世界一好きなんですが、うける、ふっ、ちゅーしよ」 「ダメ。ちょっと黙っててくれるか? 一応外なので」 「やでーす、うー、んー、ん、そーちゃん~……」 「やめろ馬鹿、殴るぞ」  本来ならば飲み方が上手いしそこそこ強いこともあり仕事の飲み会でべろべろになることはほとんど無いので世間からは専ら酒豪のレッテルをはられてきた環であるが二日前に八乙女楽としこたま飲んで瀕死になったばかり。昨日もろくに食べられなくて今朝になってやっとこ朝食を摂るぐらいの体調だった癖に逆によく飲んだものだ。  だがまあ、壮五は個撮が入っていたので不幸中の幸いか環一人の出席となったわけだけれどこうなるのならば一緒に飲んでいなくて心から良かったとは思う。  ぽやぽやになった環にしがみつかれながら二人を乗せたタクシーは深夜の環七をまっすぐ西に抜けるのだった。  (ニューイヤーニューアス)  さて、家に帰ってからが酔った環の本番である。  靴が脱げないと不機嫌に玄関に座ったはいいがそこから十分は動かない。さっさと上着を脱がせて除菌スプレーをふりまきお湯を沸かしながら靴は脱げたかと声をかける。 「るぁーーー」 「……新しいな…………脱げたのか?」 「ううう、んがああ、脱げねえし!!!!!! んだこれ眠いしもうやだあ、そおちゃんーーー」  靴も脱げないなんてと一瞬思ったが一昨日の姿に比べたら比較的まともなのでまあいいとする。壮五は小腹が空いたので買い置きの辛いスープを取り出した。 「そおちゃん~」 「んー、今いくからちょっと待ってて」 「おしっこ行きたいからあ~~」 「……ええ、それは大変だ」  小走りでよれよれの背中に駆け寄るとなるほど、一体誰がこんなに固くしたのかスニーカーの頑固な靴ひもを必死になってやっとほどくと半分脱げた靴下のまま環は四つん這いでトイレへと向かって行く。 「ああ、鍵かけたらだめだよ」 「あー」  ときに、酔っ払いのトイレが死ぬ程長いのは八割中で寝ているか吐いているらでお湯が沸き上がりインスタントのスープに注ぐまでに三分程度、勿論出て来る気配はなし。時折声をかけると返事はするので少し放っておくことにする。  明日は午後からメッゾの仕事の予定が入っているので酔いが醒めたらシャワーに促さないといけないが、今日は一体何時になることやら。ふと窓の上にかけてある部屋の時計を見上げると零時を半分は過ぎていた。 「おーい、大丈夫ー?」 「うー」  それからしばらくしてスープを飲み干しカップまで洗い終えたのに環はトイレから出て来る気配が無いのでどれやっとのことで壮五は様子を見に行くことにした。  行きがけに寝室の扉を開けて布団をめくっておく。 「たまきくん、あけるよ」 「ん、……」 「……ん…………?」  開けるよと躊躇なく開けたのは壮五が悪かったのかも知れないがよもやそんなことになっているとは思わなんだ。環は何やら苦悶の表情を浮かべながら壁にもたれて一人で前をゆるゆるといじっていた。  無論、泥酔しているのだから反応も乏しく触っている本人もあんまり気持ちよさそうじゃないので壮五も少し困惑してしまった。  因みに、酔ったはずみにセックスならおおいに何度もあるがまさか勃たないのにトイレで自慰をする環なんて壮五はかつて見たことがなかった。めちゃくちゃ新しい。動揺する。 「……なんか環くん、今日は新しいね!? どうしちゃった? したい? 触ろうか?」 「ん、えっちしたい(ふぁんしーはーと)」 「そんな可愛いフォントで言われても……」 「ううー」 「したいのかあ、でも酔ってるし触っても勃たなくないか、諦めて横になったら」 「きのうもお、してないい」 「いやご飯は食べてないけどセックスはしただろ……怖いよ…………もう、はい、手洗ってきて、着替え用意しておくから」 「う、う、うう、そおちゃん、えっちなくてもおれのこと好きい?」 「好き! はい、手、洗って」  結局、何でか半べその環を寝室まで引っ張っていくとどうやら寝るときに着替えることはインプットされているようで自らもたもたとズボンを脱ぎセーターとインナーもゆっくり剥いで、そして力尽きた。脱げかけの靴下を引っ張って太腿をべちべちと引っ叩く。 「だめだあ……おやすみ…………」 「おい! 風邪引いちゃうよ! そこまで脱いだらあと着るだけだろ!」 「うう、眠い……」 「眠いだろうよ! ほら、着るよ、手伝うから足あげて」 「あう、うういだいいだ、あし、ゆびい、ひっかかってるうう」 「ふふ、もう! ねえ、ちゃんとしろっ」 「さむいい……ヒートテックどこお」 「はい、これどうぞ、上もちゃんと着てね、そこ袖、頭出してこっちこっち……」  すったもんだして何とか着替えた環が腿の間に両手を挟んで寒そうに縮こまるのを見て壮五は湯たんぽ用のお湯を沸かしに立ち上がる。何年か前にメーカーから届いた王様プリンの専用ケース付きの湯たんぽはこの時期の環の必需品。熱くし過ぎない様に加減してそっと足元に忍ばせてやる。 「……」  やがて心地よさそうな寝息を聞いて安心した壮五はこんなところでやっとひとまず落ち着いたのでやれやれと自らも着替えを引っ張り出してようやく風呂に入ることにした。  環と一緒に暮らし始めてからは湯舟には自動でお湯を張っておくことにしている。贅沢と言われたらそれまでだったが、いついかなるときにも風呂だけは沸いていてどんなコンディションでも家に帰れば風呂にだけは安心して入れると思うと壮五にとってはいつからか温かい湯舟に浸かるのが何というか、一日の終わり、リセットの合図で心身共に力を抜くことの出来る大事な時間になった。  これは寮に居る時から変わらない壮五の息抜きの仕方の一つであり、ぼやんと天井を向きほっとゆっくり息を吐く。  それにしても仕事終わりに連絡がきたときはどうしようかと思ったが、一昨日の環の地獄みたいな泥酔に比べたら大分マシで安心してしまった。  と言うのも確かに楽と環は昔から頻繁によく飲んでおり気の置けない仲なのは承知していたがまさか店まで迎えに行くなんてことは今までにまあまず無かったので入口で同じような雰囲気を纏った九条天とばったり会った時は流石になんというか、気まずかった。  だって六本木の路上に待たせた二台のタクシーがそれぞれ迎えに来た大御所アイドルと酔いつぶれたこれまた大御所アイドルを乗せて撤収していく様なんて恐らく週刊誌の格好の餌食、来週辺りまたひとしきり騒がれるに違いなかった。まあこの場合あの場にいた誰にもやましいことは何一つないから別にいいのだけれど。  それに今日みたいに酔っただなんだと自分で言えるぐらいの理性があるならまだいい。この時の環に会話は無論通じないし、人語もろくに話せていなかった。  すぐにしゃがみこむ、握力皆無、荷物はすぐどこかに置いてくるしよれよれでぐらぐらで二歩歩くごとに吐いていた。これは楽も似た様なもので互いにそんなに強いわけでも無い癖に全く信じられないほどの泥酔具合に天と一緒に青ざめて呆れ果てたのは言うまでもない(ブーメラン)。  結果、華奢な二人では自立しない大男をどうやったってタクシーに連れ込むのは困難で痺れを切らした天が近くに住んでいる龍之介に助けを求めるのにそこまで時間はかからなかった。 「ほら楽~~しっかりして~~」 「オエ」 「よっぽど楽しかったんだねえ、こんなになった楽見たことないよー」 「環、吐くなら今のうちだ。タクシー乗ったらしばらく吐けないぞ」 「ウオエ」 「結果助かっているけれど何で御堂さんが一緒に来るんだろうか」 「DVDを見ていた」 「DVD」 「おえ、えうう……」  家まで行くかと問われたので少し悩んで遠いからと断ると、頷いた虎於がそのまま離れてタクシーの扉が閉まる。ちらと見上げると格子柄のマフラーに寒そうに顔を埋めた目線は隣のタクシーに乗り込む龍之介をじっと見ていたので壮五はそこでようやく何となく悪いことをしたのかなという気分にはなった。  二人の詳細もよもや四人の詳細なんてちっとも知らない壮五だけれど、それぞれが繕ってきた私生活をちょっとだけこっそり垣間見た様な気がしていいのか悪いのかは分からないがざっくりといるんだなあみんな大事な人、ぐらいに思っておくことにしたのだった。  それにしても人語を言わないしまっすぐも座れない環がもうこれ以上ないぐらい体重を預けてもたれかかってくるのを受け入れて無心で家路を急いでもらう道中は、存外吐くとも言わず騒いだりもしなかったせいですっかり拍子抜けして安心したのは束の間の話だったのだけれど。 「す、すみません、本当に、すみません」  どうにもならない二人を見兼ねた運転手の力を借りやっとの思いで家の玄関に入れられた具合の環をそこに転がしたまま少し多めに札を渡した壮五は平身低頭平謝りで運転手を見えなくなるまで見送った。申し訳なさ過ぎて危うく土下座するところだった。いい人で実に良かった。  環のもたれていた肩口がいつの間にかよだれでべっとべとになっているのはまあいいとして、靴を脱がせて文字通り引きずって何とか暖房の効いたリビングへと運ぶ。一体何をどうしたら人間こんなに酔えるのか誰か教えて欲しい(ブーメラン)。  ソファに乗せるのは絶対に無理過ぎるので電気カーペットをオンにしてそこに二回転して乗せる。死体かこいつは。疲れた。重たい。とりあえずここまできたことに安心し脱力して側にぽてんと座った壮五はよだれまみれの上着のまま環の腹に突っ伏す。とにかく心底疲れてしまった。 「こんなに飲んじゃダメだろ……馬鹿…………僕の非力さがすごくて何だか不甲斐なくなっただろうが……」 「うゅ……」 「八乙女さんとだとそんなに楽しくなれるのか……ちょっと、…………羨ましい……」  疲れて卑屈になった勢いとはいえ壮五は何とかやおとめさんが、とは言わずに済んだ。セーフだ。仮にもスーパーアイドル四葉環と結婚している身でもあるのに更に一緒に飲んでぐでぐでになれる関係だからという理由であの八乙女楽に嫉妬するなんて一ファンとしては非常におこがましい。無かったことにする。でもやっぱり羨ましいものは羨ましかったのである。  環が安心して吐くまで飲める人。凄く信頼されている証拠で楽の前ではきっと壮五にしない甘え方をしているんだと今日でまた強く確信してしまった。壮五には言えない悩みとか壮五には見せたくないところとか、楽はきっと知っているに違いなかった。必要な捌け口なのも十分理解出来る。  でも悔しいけれどめちゃくちゃ羨ましい。役不足なのは百も承知だけれど本当は環の全部を受け止めてあげたいし環にも自分だけで満足して欲しいだなんて、こんなのはどう考えても醜い束縛だ。環もきっとそれでは疲れてしまうからこの先一生言えない気持ちなのだけれど。 「……はあ、無駄に落ち込んでしまう……僕じゃダメか……ダメだな……ごめんね……お兄ちゃん出来なくて……今日僕のことで盛り上がったのか……? 愚痴……? 直接言ってくれていいのに……こんな僕に環くんは何を求めてるんだろうか……身体かな? ……まあ身体も……ほかの人に求められちゃいやだし……大事だけども……」  どうせ聞いていないからといつもより多めにぐちぐち言いながらのそっと起き上がりいい加減上着を脱ぐ。ここまで泥酔していると寝ゲロはマストなのでだるいが洗面器を持って来る。ついでに毛布も。  明日まで動けないだろうし今日はここで一緒に寝よう。着替えるのも面倒だからもういい。お風呂もご飯もいい。拗ねた。こうして壮五は環の脇の下に無理無理に頭を突っ込んで不貞寝体制に入ったのであった。 「…………あれっ」  数時間後、ぬくぬくの毛布が心地よかったのか、はたまた環の脇の下が居心地がよかったのかは分からないがいつの間にか本気で意識が落ちていて壮五は驚いた。環の胸板が真正面になっている即ち横向きになっている、やばい、吐いているかもしれない。 「あわわ……やってしまった…………」 「すやあ……」 「すやあて……詰まったりしてなくてよかったけど…………」  案の定吐いてすっきりしたのか大変健やかな環の寝顔だがしっかりホットカーペットの上に寝ゲロしていて慌てて環の口元を拭いつつティッシュできれいに拭き取る。  濡れてしまった場所から遠ざけようと再び二回転させてちょっと引きずるとようやく環が唸った。むくっと起き上がって目を擦ったと思ったらいきなり壮五を抱きしめ背中をとんとんと叩いてさするというわけの分からないあやし方をされ呆ける。 「ん、そー、……ゃん」 「――――! もしや僕は君にとって、……赤ちゃんなのか…………?」  楽への嫉妬がカンストした挙句急に抱きしめられて壮五のアイデンティティが崩壊しそうになったので逆に真顔で抱きしめ返しよしよししてやると環はそのまままた横になって眠ってしまった。  真顔のままなるほど赤ちゃん、果たしてそうならば、と壮五は思った。  確かに赤ちゃんなら八乙女楽には出来ないポジションである。万が一出来るとしたら七瀬陸、否、ギリギリ六弥ナギぐらいだろうか。※起き抜けにどうしても嫁として楽に勝ってるところが欲しい  今まで環が壮五の身体を以てして無意識に満たしていたのが性愛それと母性だったとするのならそれはまごうことなき誰にも出来ない役割、つまりセックス以上に壮五にしか果たせないポジションをあてがっていてくれたということ。  甘やかしていてくれたのはそういうこと!? ずっと子供をあやすような気持ちでわがままを受け入れてくれていたということ!? 親愛に友愛、家族愛を併せ持って尚性愛を求めて来る事の出来た四葉環はその時点でよもやド変態なのでは! ?  微動だにせずじっとすやあの寝顔を見つめていると今までされてきた様々な性愛が脳内に巡り、そのどれもが超ド変態プレイにしか思えなくなってきてはたまたそれを許されているのも自分だけ、と壮五は疲れた頭で何とか楽にマウントを取りそっと目を閉じた。    翌日、起きた瞬間からゆうに半日ずっとトイレで死んでいた環が土色の顔でソファに寝そべり具合悪いとやっと一言発するのを聞いて、壮五は何か飲むかと声をかけた。 「ぜんぜん……覚えてない…………迎え来てくれたん……」 「うん。お店出た瞬間に吐いてたよ。八乙女さんも」 「マジか………………すいません…………」 「二人で飲んでたんだよね?」 「うん…………ちょっと、そーちゃん、こっち来て…………」 「え……あ、頭…………? 撫でたい……? どうぞ……?」 「は……? 頭割れるから膝枕して…………」 「……」  壮五には環が母性を満たしたい人にしか見えなくなっていたのでごほんと咳払いをしてソファに腰かけるとぷるぷると震え頭痛に耐える環の頭を抱えて膝の上に乗せてやる。コンディション最悪の頬を撫でて髪の毛をそっとはらう。 「正体不明になるまで飲むなよ……」 「じゃあアンタはそれ守れてるんですか~~」 「僕は僕、君は君。昨日すっごく大変だったんだからな。重たいし喋れてないし、御堂さんがタクシーに乗せてくれたから良かったけど……」  ぴく、と環の身体が反応したので壮五は思わず黙った。環は何故だか昔から壮五の口から虎於の話をするのを嫌がる。本人達同士はそれこそ楽と三人でつるんで楽しそうにしているのだが、そこの関係性と壮五と虎於との関係性とは環の中ではまた別の問題らしくとにかく高確率で面白くない顔をした。 「何でとらっち? 呼んだん?」 「僕が? いいえ。八乙女さんを迎えに来た九条さんが、十さんをヘルプに呼んだら一緒にくっついて来たんだ。お陰でぶらんぶらんの君をタクシーにぶちこんでくれて僕はとても助かったけれど」 「……ん…………? リュウ兄貴?」 「うん。DVDを見ていたんだって」 「DVD」 「そう。だから君が御堂さんに嫉妬する必要は全くないよ」  他意も無い。だが言いぐさがちょっと意地悪だったかも知れないとは壮五も思ったが環は案の定口を尖らせて盛大に不機嫌になった。身体を捩り膝の方に顔を背けると低く唸る。 「……あそ、つか別に嫉妬してねーし、そーちゃんうざ」 「うざい?????? では言わせてもらうけど、君だって八乙女さんと飲んでこーんなべろべろになるくせに、それに僕が嫉妬したら嫌だろ!? 一緒だよ!」 「はああ? 俺ががっくんとどうにかなるわけねーじゃん! なに嫉妬って」 「ど、? どうにかなるって……え? 僕が御堂さんとどうにかなるって思って嫉妬してるのか君…………?」  思わぬ話の方向になってしまって戸惑った壮五が環を見ると若干耳を赤らめながらちらっとこちらを見上げて来る。 「そーだよ? そーしかねーじゃん。あの人昔から何かとそーちゃんのことじっと見てるし、そりゃいいヤツだけど、つかいいヤツだからやなの! 結婚したとかあの人関係なさそうだし、とられたらどっちも大っ嫌いになんだろ、あーやだ、そーぞーも無理! さいあく、頭痛い」  本格的に怒った環を他所に壮五は環の知られざる本音を打ち明けられて色々な意味で軽くショックを受けていた。そもそも結婚した時点で安心しきれていないのもどうなのかとか、そういう他からのアプローチに靡く人間だと思われていたことは心底心外ではあるが、そんなまさかよもやこれほど初歩的な不安を環が抱いていたことに壮五はかつてない甘い衝撃を受け、身もだえてしまった。 「おおああぶえうあうあああ……ダメすっごい可愛いな環くん、何それずっとそんなこと思っていたのか、マジか…………環くん御堂さんに僕のこととられると思ってるの……? 今も? はやく言ってくれ、僕結構彼に対してはずっと塩対応だったと思うんだけど、全然もっとツンケン出来るよ……」 「……つか、とらっちだけじゃないし。誰にだって思ってっし…………そーちゃんちょろいし、誰にでも優しくすっし……いつまたおれに傷つくかわかんねーし……傷ついたら何するかわかんないし……」 「うはああ、ごめん、ごめんね……結婚して舞い上がってたのは僕だけだったかもしれない、不安だったのか、言ってよ…………ちょっと……可愛いからぎゅってしてもいいかな……」 「やだ、そくばくしたら嫌がるくせに」 「好き同士の結婚より重い束縛この世にないだろ、環くんが世界一好きだから、ぎゅってさせてたのむよ」 「世界一好きでも、世界二のやつにとられるかもしんねーじゃんばーーか」 「訂正する! 世界で一番環くんのことだけ愛してるってば!」 「……………………………ん…………それは、おれも、…………愛してる……」  拗ねた口のまま環が両手を広げてくるので愛し過ぎて力一杯抱きしめる。 「環くんよりいい男この世界にいないよ。もっと自信もって」 「…………それは、そう…………でも俺がどんだけいい男でも、アンタが好きでいてくんなきゃ意味ないんだから、仕方ねーじゃん……」  結婚してからもする前も壮五は環の不貞を疑ったことなど一度も無かった。それは環の愛情がまっすぐ一心に自分にしか向いていないと苦しくなる程分かっていたからだしその分ちゃんと伝えてもらっていたからなのだとまた強く実感する。  ならば尚更環が今こうして壮五を信じきれずにいると言うのは愛情不足もいいところ、もしかしたらそういう不安もこれまで楽に向けて零してくるしか無かったのかと思ったら、壮五は愛してるが全く足りていない自身の感情表現の甘えに叱咤するのだった。 「僕にそんなに信用なかったなんて初耳だぞ、何したら安心するんだ?」 「…………えっち…………」 「それは死ぬ程してるが」 「してるけど! たんねーの! もっと!」 「足らない!? あ、そう……」  というわけなので今年は今までよりももう少しだけ、環にちゃんと愛していると言葉にして伝えなくてはと密かに壮五は気合を入れたのである。  地獄の泥酔からの流れを思い出してにやけているとここで思わぬ失態にハッとする。あの後勝手に一日一愛してるを目標にしたはずが、早速今日は言っていないではないか。好きは言ったが愛してるじゃないし、上がったら伝えなくては。 「……三日坊主どころか一日で記録途切れるところだった…………」  忘れちゃならないとふと愛してる、と呟くとこのやけに陳腐な言葉に込めた愛情が湯気に溶け室内にやわらかく響いたのが急に恥ずかしくなってきて白目を剥いた壮五は双葉になるまでぶくぶくと湯舟に沈んでいくのだった。

Episode**BAR light

二軒目だと言った楽の呼び出しに環が玄関の扉を閉めたのは二十三時を過ぎた頃だった。一応スケジュールを確認したところ明日は夕方からテレビ番組の打ち合わせがあるだけなので誘いに応じてついさっき店の前でおちあった。  多少酔っている様子の楽だが穏やかに悪いな、と零してからは店までの口数は少なく感傷的なのは言わずもがな。環は何かあったかと勘ぐるがトリガーにも八乙女楽にもそれらしいネタはなかったように思う。黙ったまま席まで歩いた。  オレンジ色のやわらかな光に包まれた店内は終始ジャズの流れるノスタルジックな雰囲気だ。奥まった方のボックス席で環と楽は向かい合って座る。小さく区切られたそのスペースは一人掛けのソファ二脚とローテーブル。正面はストリングカーテンで目隠しされていて元より会員制のバーだったがよりプライベートな空間になっていた。  どう考えても敷居は高い。こうして楽が誘ってくれるから幾度も足を運べているこの店であるが、自分一人でくるのも、増してや他の友人と来るのも躊躇われる様な上級者向けの店構えに環はいつも少し緊張してしまうのだった。 「おれはボトルあるから、好きなの頼め」 「ん、減らしていーなら俺もおんなじのでいーよ」 「……あっそう。ロックでいいか?」 「うん。んで? なんかあったん」  来る前に夕飯は済ませていたので乾き物のセットを頼んだぐらいにし、早速グラスのふちを重ね合う。こういう時、楽が聞かれないと話をしたがらないのはいつものことでしっぽりと黙る様子にも遠慮なく突っ込んでいってやるのは互いの信頼の証でもある。 「……いや。別に何もないけど。さっきまで一緒にいたやつにふられたから。ちょっと欲求不満だっただけだ」 「へー。なんだ。ヘンにしおらしくすんなよな。なんかやなこと言ったんじゃねーの。がっくんたまに空気全然よめねーし」 「うるさいな……」  環はそう言うが、楽の"一緒にいたやつ"というのが女性でないことはもちろん、ソウイウ相手でもないことなど随分昔から知っている。そんなことだろうと思っていた環は肩の力を抜いて多めに酒を口に含んだ。  この流れの会話はもう何べんもしているので大体の行き先はわかる。ただ、ちょっとだけ今までとは状況が違う様に思えるのは環自身の恋愛事情に変化があったからなのかもしれない。丸い氷を指で遊びながらソファに深く腰掛け直す。 「というか、また撮られたな。来年はぜってーない! とか言ってなかったか去年」 「……ん……忘れた……」 「で、また遊びなのか」 「……でももうない。これからも、何かおこんない限り死ぬまで多分ないと思う」 「ん……? どういうことだ」 「えーー、まあそーゆーことっ」  いつもと違う話の流れに楽の目がみるみる丸くなる。一瞬でぱっと輝きに満ちたと思ったら「本気で好きなのか」とどこか浮ついた声で問われ、環は照れながらも頷いてみせた。 もっとも、壮五の手前誰ととは言うつもりも毛頭なかったし内緒にしないといけないとは思っている。けれどその反面、壮五という人間と恋人同士セックス出来る仲にあるというこの夢みたいな現実を世界中全人類に今すぐにでも知らしめてやりたいのもまた環という人間なのである。だから、気心の知れた楽にぐらいこのはちきれそうな幸福の片鱗を吐きだしたっていいかという気持ちも少なからずあったわけで。 「誰だ? 歳は? 同業者?」 「言わない。三つ上。めっちゃ同業者」 「年上か。なんとなくそうだと思った、いつから」 「好きなのはデビュー前からずーーーーーっと。でも最近やっとそうなってもいいんかなってことがあって、俺が幸せにするって決めた」 「………は……?」 「知ってたあ? おれって結構一途なんだぜ」  眉をしかめた楽が思案しはじめたので、環は笑ってサラミを一枚かじる。 「……お前んとこのマネージャー……は、三つも上じゃねーか」 「探んのずりーだろ……まあ正解するわけねーけど」 「デビュー前からの知り合いで同業者って、高校の同級生……も違うよな……先輩とかか? 有名な事務所?」 「だからっ、探られてそーだって言うわけねーじゃん!」 「なんだよ! おれとおまえの仲でみずくせえと思わないのか!? もし結婚とか考えてるんならいずればれるんだから今言ったって一緒じゃねえか!」 「ぶは……まあ、がっくんにはスゲーかわいがってもらってるけど……。結婚とか、多分そういうのじゃない」  環は我ながら申し訳ないことをしたなとつくづく思う。だって、普通に考えたらそうだ。  可愛がっている弟分が心に決めた人がいると匂わせてきたら、気にならないわけがない。どんな相手であれ、きっと祝福しようとしてくれているはずなのに。 「……結婚はしないって、お前がそう決めたのか?」 「しないんじゃね。わかんない」 「あのなあ……、何回も言ってるが、俺は、お前が幸せになるためなら人との関係を持ってもいいんじゃないかって散々言ってきたんだぞ。それを裏切るような関係だけには頼むから絶対になってくれるなよ? わかってんのか?」 「……しあわせだよ。んなの、当たり前じゃん。好きだったんだからずっと」 「じゃ向こうは何て?」 「好きだって」  楽の口から大げさなため息が漏れる。環は誤魔化すように残りの酒を一気に煽るとグラスを置いた。  納得のいかない顔で瓶に手を伸ばした楽を遮り自ら蓋を開けると空のグラスに再び黄金色が満ちて行く。そういえばこれは壮五の好きなものでもある。ぼんやりとそう思う。 「がっくんだって人の事いえねーくせに」 「……いいんだよ。俺はあいつらとずっとトリガーでいる」 「……仲間がいんのはいつだって最高だかんね」 「そうだ。いいこと言うじゃねえか。で、誰なんだ」 「しつこい~……」  しらを切るつもりの環の様子に楽が口を尖らせながらメンバーは知ってるのか? と言った。 「知るわけない。言ってない」 「逢坂も?」 「……そー……ちゃんは、まあ……あー、知ってる」 「電話かける」 「待って!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! マジで待って!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」  ソファから飛び上がった拍子にローテーブルで膝を打ったが感覚など麻痺している。既に耳に当てているそのスマートフォンをひったくるとあろうことか本当にコールしていた画面を連打して通話を切る。 「気がっ!!! はええな!!! マジでびっくりした、心臓止まった」 「かえせよ。ほんとに知ってんだな」 「や、これほんとに、ほんとにお願いだからそーちゃんにだけは言うな、マジで」 「なんで。じゃあ相手を教えろ」 「いややべえオレってホント馬鹿なの今知った、アホ過ぎて笑えない」 「ほら、着信きてる。かえせって」  楽が手を伸ばしてきたので振動もしないで光っているその画面を見るとやれ逢坂壮五とこの時間でも律儀に折り返しの電話をいれてきた。究極の選択に迫られ天に祈るような気持ちで楽にスマートフォンを引き渡す。 「はいはい。悪いな。変な時間に……ん、四葉と飲んでる。……あーいやいや、大丈夫。全然酔ってない。あのさ」 「いや、がっくん………」 「……はは、おもしろい。あのさ。お前四葉と結婚する気があるのか?」 「んぶっ」  どうかお願いだから変なことにはなりませんようにと祈りながら呷った濃い酒が環の気管に鋭く入りこみ盛大に咳き込む。そんなことはお構いなしに楽の声が低くトーンダウンした。 「あんなら許す。ないなら今すぐ別れろ」 「っ!!!!! はっ、な……え!? なにいっ……え!?」 「大事な弟だ。幸せにしてくれる気がないなら、いくら四葉の念願だろうが許さない」 「い~~ってねえじゃん!! そんなことひとっことも言ってねえよっ!」 「おう。今かわる」 「か、かわられても困るって……まじなにこれ……意味わかんない……」  首を振って拒否するがいつまでも楽はその手を差し出すのをやめてくれない。そのうち根負けして仕方なく受け取り耳に当てるのだけれど、環はすぐには言葉を発せなかった。 「…………」  どうしたって緊張する。結婚だなんて今の二人にとって好ましい話題じゃないと思っている。だっていわば結果オーライでしかないのだ。一方的な環の長い長い片思いの末間違いすれすれで身体の関係にこぎついたというだけのこと。付き合えるだなんて微塵も思っていなかった。なのにこれから何かを契られる雰囲気になるかなど全くもって手探り状態だったし今結婚する気があるのかどうかなど正直怖くて聞けなかった。 環には、そりゃあ、ある。将来の選択肢として壮五がそれを許してくれるというのならば二人の関係の最終形態としてはもちろん大いにアリなのだけれど、残念だが多分現段階で結婚などちょっとも想像していないと、今はまだそう思う。困り果てた環は言葉に詰まったまま壮五の息使いをじっと聞いた。 「……? たまきくん……?」  どういうことかと言われても何と言っていいのか分からない。誤魔化しておかしくなるのは嫌だ。そもそも肝心の壮五は一体どう思った。結婚を二人の形として否定するつもりもないのだが今手放しで肯定してあっさり断られてしまったら自分の気持ちが傷つく気がして無意識に躊躇ってしまっていた。 「あれ。……」  そうこうしているうちに受話器の向こうがごそごそとなる。はっとした環はここで通話が切れたら余計変に拗れてしまうかもと急に焦るとようやくあ、と一言声が出た。 「あ? 環くん? 酔ってる? 八乙女さんも酔ってらっしゃるのかな?」 「……ん……うん、そー。がっくんすげー酔ってる、から変なことばっか言ってごめ」 「結婚って?」 「っ」 「僕と?」 「……よ……酔ってっから……」 「今? いつか? そういうこと考えてくれてるってこと?」  まるで予想だにしていなかった肯定的な展開には口から心臓が飛び出そうにばくばくとなる。環は思わず耳からスマートフォンを離して二度見する。 「……え、は……?」 「なんでしどろもどろなんだよ。二人共あまり酔ってないだろう?」 「……」 「まあいいや。結婚する気はあるから、別れませんって八乙女さんにお伝えしておいて」 「あ……はい……」 「はいじゃない。まったく、プロポーズぐらいちゃんと素面でしてほしいよ」  ブチっとその通話が切れると環は楽と目が合った。  その顔ににやっと笑みが零れるのを見て、環の顔が上から下まで真っ赤にのぼせあがる。 「おめでとさん。お幸せに」 「は……はーーーーーーーーーー!?!?!?!?」 「まあ、ちょっと特殊だからまだ周りには黙っといてやる。おれはいいと思う。逢坂は美人だしな」 「っそ……そういう問題か……!? つか何勝手に間接的にプロポーズしてんだよ……!? 超失礼じゃん!? おれにだってなんかこう、いろいろ段階があんだっつの!!!」 「まどろっこしいのダメなんだおれ」 「しらねえよ!!! ばかじゃねーの!? はーほんと信じらんねえ……そーちゃんも信じらんねえ……」 「いやーいい夜だなー。乾杯」 「ふっざっけんな……」  眩暈を覚えた環がうなだれるのを見遣った楽は特別嬉しそうにして酒を呷ったのであった。

Episode**タイトルが思い出せない

四月一日、午前九時。さすが日本一ハレ男の誕生日は万よし、春の陽光が波に反射してきらきらと清々しくよく晴れたい~日の予感に満ちている。結構結構。一瞥しながらお気に入りのソファにスライムのごとくべたあと横たわる環はぼりぼりと腹を掻いた。 くそだるい。二日酔いより絶対にしんどい。と言うのも昨晩は日付が変わる寸前に迫られて随分と酷い目にあった。 いつもの様に仕事を終えて飯を食って晩酌し、何事もなく二十三半時過ぎに揃ってベッドに入ってからは約三十分弱。そのまま寝ようと本気で思っていたのでぬくぬくのぽっかぽかになった懐に無理くり潜り込んできた壮五には久々に面食らってしまったというものだ。 「寝る? あのね、今日はね、天赦日と一粒万倍日と寅の日が重なった日でね。つまり超超超最高の日だったんだけどね。財布の新調にいいんだって。明日にしようと思ってたんだけど、やっぱり今日のうちにあげた方がいいのかもって思って」  胸にぴったりくっついて何を言い出すのかと思えば、非常に回りくどいがプレゼントを渡したいということらしい。何の日だか知らないが渡すだけならどう考えたって明日でいい。もう寝る気持ち満々なので寝ぼけ眼で首をふった。 「いや……はい……? 明日でいいな……一日ぐらい遅れたってトラ(?)も許してくれるっしょ……眠いし……おやすみ~……」 「ダ~メ~だ~よ~! というか何本当にうとうとしてるんだよっ! 仮にも誕生日なんだからちょっとは期待したらどうなのかな!」 「いたい……きたい~? んな歳でももうないじゃん……マジで眠いし明日にしよ……休みだし」 「もう……僕より先におじさんっぽくならないで。年下だろう! 起きて!」 「ええ~~……」 明らかに開き直った壮五が問答無用で馬乗りになってパジャマのボタンをぴちぴち外してくる。ともあれ、毎晩抱き合って乳繰り合っていた頃に比べたらそれは大分に落ち着きなんなら週にしない日もあったりなかったりする。年をおうごとに先週いつしたっけぐらいの緩い営みで間に合っている二人であったが性にそれほど重きを置かなくなったのはやはり三十代も後半のためだろうか。馬鹿みたいに毎日毎日セックスしていた元気な時代が懐かしいとすら思えるのも恐らく然り。 「ねえってば」 言う間にあれよあれよと剥き身にされてしまってはこちとら仕方ない。決してノリ気なわけでは無かったがやれ愛しの嫁から下着越しにすすっと股間を撫でられて寝ているわけにもまさかいくまい。拒否権なんか元々ないにせよしなきゃしないできっと面倒臭く落ち込むのも知っている。男は黙って忍耐。否、「スパダリは」に素早く訂正しておく。別に嫌なわけじゃないのだ。したいならしたっていいというだけの話だ。これを言うとまた喧嘩になるから絶対言わないのだけれど。 言いつつまんざらでもないので壮五の手を止め身体を起こせばあっさりと形勢逆転。そのままひっくりかえして揃いのパジャマを手荒く剥がす。 「んなんだよもお~~~~眠たいっつってんのにさあ~~。つかオジサンぽくはなってねーんだよな。いつでもビンビンですが。確かめて。明日行きたいとこ行けなくなっても知らないかんな」 「……だから午後からにしたんだよ」 「もお……準備万端かよ……早く言っとけそういうの……」 「ん、」 「まあいっか。はいじゃあ今から、嫌もダメもなし。俺誕生日なんで」 それで結局三時過ぎまでいちゃいちゃぱこぱこして、泥の様に眠ったあとのこの異常すぎる疲労、これは一体なんなんだろうか。日に日に衰える身体が如実過ぎて恐ろしい。 ソファに溶けながらより一層そう思う。 冒頭では雰囲気で清々しいとか言っていたが実際ギラギラの太陽光がギラギラの海に反射したらそりゃあギラギラに決まっていて、眩しいったらない。目に良くないしなんならカーテンを閉めたいぐらいだ。でも、二日酔いよりしんどい気がするのは今だけで、多分二日酔いになったらセックスした次の日のだるさの方が超絶断然マシと言っているに違いない。人間そんなもんだ。 ぼけっと天井を見ながら浴室から漏れ出る壮五のシャワー音に耳をすましていると、やはり人間だもの、水音に触発されてなんだか軽く尿意を催してくるもので。 だるいから動きたくないのにどうしておしっこには行きたくなる。理性に勝ててえらくても生理現象に勝てないのは何と惨めなことだろう。 「……にょういを……あやつりたい……」 当たり前だが呟いたところで尿意は消えない。緩慢に起き上がって仕方なくトイレに立つのをなにゆえこれほど惨めに思わねばならないのか。ともすれば、人間とは用を足している時が一番惨めなのかもしれない。どれほど偉人の誰だってしょんべんには行ったことだろう。虚無を感じながら気怠く用を足したその足で壮五のシャワーに乱入する環の心境としては一抹の罪悪感を背負わないでもないのであった。 「だからあ~、おしっこする時ってなんか負けた気しない?」 「……いや、だから……何に……?」 「何にっていうか……もー何でわかんないかな……てかケツへーき?」 「その聞き方……。大丈夫だよ。ありがとう。というかそもそも排泄は生理現象なんだから勝ち負けの話じゃないんだよ。出さないと死んじゃうんだよ人間は究極。オーライ」 「オーーライーー。はいにょー? もうほんっとす~ぐそうやって生きるか死ぬかの極論言うなよなそーちゃんってさ……なんでそんないっつも極端なん? いい加減やなんだけど。なおして」 「……き、急なダメ出しだね……すみません……」 春は花見ということで、自宅からほど近い穴場へと向かって車を走らせること十五分。眺望台から街を一望できる高台のパーキングスペースは急勾配の立地からか、はたまた街の喧騒とは天地程も離れた静けさからか狭い駐車スペースに車が停まっているのをついぞ見たことがない。 昨晩はあまりに淡泊な環の様子に我慢が出来なくてつい情事へと誘導してしまったのはこちら。身体の負担がどうのこうのを気遣われながらも近場だったし今日は環の誕生日だからということで久々にハンドルを握ることにした。 殊、世間のイメージとは裏腹に意外と安全運転出来るのをメンバー、特に大和なんかにはよくからかわれてしまう。 確かに、過去の配信でレーシングゲームをやらされた時は操作の勝手が分からず一瞬でコースアウトして大破したこともあったし罠にはまって逆走なんてしょっちゅうだったのでそのイメージがついてしまうのは否めない。 けれど、それは飽くまでゲームの中の話なわけで公道での所作については至極丁寧に自信があるし環よりスピードを出したことだって無い。実際に運転するのを任せることが多いのは環が彼氏面をしたがるからでもあって、特に運転に苦手意識があるわけでもない。 冒頭の通りくだらない話をしながらも危なげなく安心安全に目的地にたどり着くと今日も今日とて人気のまるでない様子の高台へと降り立った。 「おお、今日もだ~れもいね~」 「本当だね。こんなに満開なのにね」 「しずか~。息すんの聞こえそう」 環の言う通り黙ったら信じられないぐらい静かな空間には遠くに鳴る船の汽笛の音、鳥のさえずりやどこにあるのか微かな川のせせらぎの音までがまるでドキュメンタリーみたいに聞こえてきて、正真正銘静かなのだろう。都心にほど近い場所だとはとても思えなかった。 「本当に誰もいないとは思ってなかったから何も持ってこなかったよ。ゆっくり出来そうだし飲み物ぐらい買ってきたらよかったよね」 高い所は嫌いじゃない。早速一段高くなった小さな眺望スペースの柵から身を乗り出すと環がシャツの裾を強く掴んでくる。 「あ、アブネーよっ」 落ちるはずもないのに、環はいつまで経っても高いところが苦手だった。素知らぬふりをして眼下に広がっているぎっちり詰まった人生のミニチュアを眺める。人の数より多くある建物の色とりどりをこうして見ていると聞き慣れた街の雑踏が耳の奥にこだましてくるようだ。それとはまるきり正反対の静かなこの場所は何だか別の世界みたいで不思議な気分になる。 別世界、それもまたいい。もしかここが環と二人きり本当に誰もいない世界だったらなあ。そよぐ風が花を散らした。 「……僕、昨日ちゃんといやもダメも言わなかったよね」 「いいからおりれ。たしかに言わなかった。すげーじゃん。やれば出来る。落ちんよ」 「さすがに落ちないよ。環くんも乗ってごらんよ」 「ヤダ。そーちゃんが降りんの。俺今日誕生日」 「あはは、ずるいな……」 それを言われては仕方がない。環が存外真剣な顔でぐいぐいと引っ張ってくるのでいう事を聞いて側に寄ると果たして何がそれほど恐怖心を煽るというのか、黙って強く手を握ってきた。少し湿っぽくなったそのてのひらに苦笑する。 「ふ、手びしゃびしゃじゃないか。緊張しちゃったの?」 「落ちたらどうしようって思うだろふつー!」 「そうかなあ。普通は落ちないと思うけど……」 「落ちない可能性ゼロじゃないんだから、それはもうあぶねーの。やめてください」 どさくさに紛れて肩を抱いてきたので拒絶しないで車の陰になるよう追いやってもたれるとしばらくそのまま佇む。静かだからかくっついている身体の熱がやけに生々しく思えて身じろいだ。堪え性については元々期待していないのでややあって唇が耳に触れてくるのは想定内。腰に回る手の方を先に牽制しておく。 「いい歳こいて、外でいちゃいちゃするのはみっともないよ」 「へー。今誰にいいふりする必要があんの。鳥とか?」  環はふん、と鼻で笑うとよりいっそう強く抱き寄せてきた。火に油だったか。確かに言う通り誰もいないので気にする必要もないのかもしれないけれど、恋人として環を見つめる姿を客観的に見られるのは未だに慣れない。やはり外だと見られる可能性がなくはないと思うと少しの触れ合いだとしても怖くなる。 「誰にとかじゃなくて倫理感かつプライドの問題だろう。誰が見てるか分からないし」 「……アッ……!?」 「エッ……!?」 「ン……いや……待ってそれ、それだな、プライドだ……。おしっこすんの俺のプライドに関わるんかも。めっちゃしっくりきた……あと思い出しちゃいけないやつ思い出した……」 「え……? ……いやだからね、何度も言ってるけど生理現象にプライドはいらないんだってば」 何だか心なし青ざめた様子の環を横目にしていると、微かだが遥か遠くから昇ってくるエンジン音を鋭く察知した。それもそうか。穴場には違いないのだろうけれどこんなに静謐に咲き誇る立派な桜の姿がまさか自分達以外に知られていないはずもない。くっついていた身体をそそくさと離し代わりに軽く腕に触れる。 「行く? 夜はベルジャンでいいんだよね?」 「あ、うん。帰りはおれ運転する」 「いいのに。今度はサンドイッチぐらい持ってこようね」 どうやらこれにて二人ぼっちは終了。短い滞在だったが次の花見客が来る前にと足早に駐車場を出ることにする。 下りの中腹の辺り。ヘアピンカーブで入れ違いになったのは鼠色の軽自動車だ。するとすれ違い様に運転席の環がぴく、と反応する。 「あれ」 「ん?」 「今撮られたかも」 「……」  数秒置いて、え!?と急いで後ろを振り返るも時すでに遅し。おろおろと今更サングラスをかけてみる。どうしよう撮られた?だから外で油断するのは良くないのだ。しかしながらよく考えたらこんな辺境でパパラッチと遭遇する方が奇跡じゃないのか。向こうだってきっと驚いたはずだ。まさかこんなところでメッゾの乗る車とすれ違うなんて。ならば完全な棚ぼたをくれてやったも同然か。困惑しながらうんうん唸っている横で環は悪びれなくけらけらと笑った。 「ウケ~~。何撮ってんだ? メッゾのほのぼのドライブデートじゃん。超セーフ」 ほのぼのドライブデート。言われてみたら確かに車に乗っているところをすれ違い様に撮られただけのこと。いかがわしいことはしていなかったわけだしこれならいわゆる「セーフ」なのだろうか。実に単純だが環の発想には心底ほっとした。 「……もう! うけてる場合じゃないよ! 君も運転するんならサングラスぐらいしておくんだよ!」 何だかつられて笑いそうになるのを必死に堪えて鼻歌交じりのその肩を軽く殴った壮五であった。

Episode**ジェリジェリマウントストーク

時刻は午前零時半前。環は撮影の空き時間などでよく利用しているファミレスの窓際からストーカーよろしく窓の向こうに佇む壮五の動向をじっと窺っていた。  待ち合わせ場所として指定されたというもみの木のイルミネーション前、細く吐かれた壮五の息が白く煙っては消えていく。  そんなド真冬のしかも深夜である。ここから出て行ってから優に二十分は経っているが一体いつまでそこで突っ立っている気なのだろうか。環はイライラが爆発しそうになるのを今で六回堪えた。 「……どんだけ待たせてンのマジ無理」  目深にした黒のキャップの中で盛大に青筋を浮かべながら冷めたホットミルクを一気に飲み干す。  事の発端を思い返せばやはり壮五が断りきれなかったのが一番悪いのだけれど何せ壮五のことをしつこく愛して止まない環にとってみれば空気を読めない、或いは読まない相手の性格に問題があると思えた。  明らかに困った顔で返事を濁したんだから、潔く脈ナシだと認めて遠慮しやがれぽっと出クソ野郎。  外に放置されてすでに二十九分も経った。壮五はぽつんとそこに立ったまま時折スマートフォンを見て何かしらを打っているのでさすがに連絡はきているのだろうがぜってーー許せんとこちらの貧乏ゆすりが止まらない。大体こんなに待たせるなら店の中で待ち合わせしたらいい。仮にも好きな人に寒い思いをさせて悪いと思わないのだろうか。環はついにこのシチュエーションに耐えられそうになくなって今どこ?と壮五にラビチャを送ろうとしたその時だった。 「うわきた……」  大柄な黒い塊、〝リュウ兄貴未満、おれ以上〟と環が初対面の時そう思った上背のある男が壮五の前にやっとこ現れた。遠目から見てもヴィンテージのだっさい(根拠はない)レザージャケットに控えめに言ってだっさい(根拠はない)ダメージジーンズ。随分ラフな格好だ。気に食わない。一回ぺこっと頭を下げたがそれ以上の謝罪の様子は見て取れない。最悪じゃね?もっと謝れ。気に食わない。かくして現状の何もかもが気に食わない環はこの近くにあるのだというバーへと急ぎ向かう準備をはじめたのだった。 (ジェリジェリマウントストーク) Chapter1 「そうご」  テレビ局の廊下で壮五の事を「壮五」と呼ぶ人間なんて身内ぐらいしか知らなかった環は条件反射で即座に振り向いた。声の低さやトーンから虎於かと思ったのだ。 「あ……どうも、ご無沙汰しております」 「……ほんとにな。連絡しても素っ気ないから傷ついたぜ。噂の相方くんもはじめまして」 「……ス」  野生の勘が敏感に働いた環の鼻は瞬時にウマの合わない人間の匂いを嗅ぎ分けて一歩引いた。知り合いじゃなかった。龍之介には敵わないが環より上背がありガタイも良い。ルックスもそこそこで見たことがある様な気はしたが誰かとまではピンとは来なかった。一緒に仕事をしたことは無いとは思うのだが。環は黙って壮五の反応を窺う。 「相方くん、テレビのまんまだね。見たよライ申。今回も全然空気読まない発言しびれたわー。おれあれいつも楽しみにしてんだよね。メッゾもあの番組だけは素で夫婦漫才してて面白いし。仲いいのはマジっぽいね?」 「ン、あはは、素ではないんですけどこの通り仲はいいですね……番組ですし一応台本がありまして」 「台本? 環の発言諸々やらせってことか?」 「……ああいや、環くんのは……素……そういう意味ではなくて……」  壮五が適当に笑ってごまかそうとすると急に険しく眉根を寄せたその男はぐっと壮五に顔を近づけ囁いた。 「壮五。今適当なこと言ってごまかそうとしたな」 「……」 「ねえ」  思わずたじろいだ壮五の一歩後ろでスマートフォンをいじりつつ、間髪入れないタイミングで環がぴりついた。 「時間。バンちゃん来てるってよ」 「すみません次がありますので……また機会があったらよろしくお願いします」 「待ってよ。メッゾの休みいつ?」 「えっ」 「前言ってたバー。連れてくって約束してただろ」 「ば、バー、ですか、お酒はあまり得意じゃなくて」 「あはは、それは聞いたよ。でもこんなドラマ終わったら憂さ晴らしにぱーっとやりたいってお前が言ったんじゃないか」 「エッ、あれ僕そんなことっ……えっと、そうですね、スケジュールの都合もありますし、こちらから改めさせて頂こうかな、ね、環く……」 「ホモドラマの憂さ晴らしに相方くん巻き込んだら可哀相だろ。その次なら三人でも俺は別にいいけどさ」 「……」  折角時間だと釘を刺したのにそこからのやり取りがべらぼうに長い。軽くつま先が揺れていた環だったがふいに出たホモドラマというキーワードには突如ハっとして顔を上げた。 「おっもいだした~~~~~やべこいつあれじゃん! ヒーラギ!」 とは口に出さずに驚愕に目を見開いて改めて顔面を見つめる。  特徴のある顔だった。キリっとした濃い眉毛。筋の通った高い鼻にセクシーな厚い唇。日に焼けた褐色の肌から趣味はそう、言われなくても分かる。サーフィンだ。絶対そう。どちらかと言うとインドア派の環とはほぼ対極に位置する男性タイプである。  ただ、ドラマの時よりも心なししっかり焼けていたし見目も十倍増しでガタイが良くなっているような気がする。そのせいでぱっと見同一人物には到底見えなかった。  しかし、ドラマも終わったというのに柊役が今更壮五に何の用があるというのだ。役柄上の擬似恋愛、擬似セックス(怒!)の相手でしかない癖に。というか、何で呼び捨てしているのか。そんなに経歴のある役者だったか?だとしてもたった一回のドラマの共演でくそ馴れ馴れしいヤツ。  環は明らかに不機嫌丸出しで素っ気なく壮五を催促する。 「そーちゃん、じーかーんー」 「はは、相方拗ねちゃったじゃないか。ほら時間だってよ。寝る時間ないわけじゃないだろ? 今日中には一回連絡くれな」 「あはは……はい……」 「……」  押し負けた壮五がまさかの返事を約束したのには愕然とした。黙っている壮五を横目に環は車に着いたら言ってやりたいことが山程あった。てかこーんな押しに弱いんそーちゃん!こんなんちょっと暗いとこで一回ちゅってしてみよって言われたらしちゃうじゃん!困った顔してちゅってされんじゃん絶対!ダメじゃん!マジかよ!  悶々としながら車に乗り込んで一発がつんと言ってやろうと息を吸い込むと万理がにこにこしながらお疲れ様とクーラーバッグを寄こしてきた。 「ちょっと現場まで距離があるから、おやつ買っておいたよ!」 「っだはあっ、プリンじゃん! バンちゃん天才! 大好き!」 「あ、コーヒーも。すみません万理さん、ありがとうございます」 「いえいえ、どういたしまして~。いくよ~」 「はー天才……プリンうまそう~~……いただきまーー、ッハ……」  そうじゃない、と環はかぶりを振った。プリンの余りのうれしさに先程までのイライラを全てもっていかれきれいさっぱり忘れかけたことにびっくりしたので思わず声が出てしまった。  すぐに壮五が訝し気にしてくる。 「どうかした? まさか忘れ物?」 「ちっげーし、いやてかっあの男なんなん? ケッコー会ってんの?」 「そんなわけないだろう。ドラマ以来だよ。食べながら喋らない」 「食べてから喋ってんですー。ほんとかあ? その割に馴れ馴れしくね? てか連絡先全然切ってねーじゃんかよ。終わったら全員切ってんじゃなかったんウソツキ」 「なんで怒ってるんだよ。男と恋愛ドラマなんてやると思ってなかったんだしイレギュラーだろっ扱いがよくわからないんだよ僕だって」 「怒るだろあんなん。しかもアンタめちゃくちゃ押しに弱くてびっっっくりした、普段あんな感じなん? 何アレ。連絡すんの今日。しないよね?」 「エッ、ちょ、ちょっと待って、すっごいなんか、おぞましくて口に出して言いたくないんだけれど、まさかさっきのやり取りに嫉妬してるのか環くん」  心の底からの軽蔑の眼差しというのを今初めて他人からされた環はその凍える程冷ややかな壮五の視線に固まって狼狽えた。こんなに恐ろしい目で人を見ることが出来るなんてやはり壮五は人間としての何かが欠落しているとしか思えない。深い怨念の兆しを感じて環はプリンを握りしめたままそっと首を振る。 「そんな冷たい目でおれのこと見ないで……おれが悪かった……でも連絡すんのはヤダ……」 「なんだそれ。君が変な態度とるからだろう。それに連絡しないのは無理だ。万一機嫌を損ねて僕の恥ずかしい話を業界中に言いふらされたらもう死ぬしかない」 「ねええええ」 「そういうわけで、一回食事には行くことになるとは思うけど、あらぬ疑いは一切持たないように! 分かった?」 「わかんない。むり。あいつヤダ。ぜーーーったいそーちゃんのこと狙ってる。不意打ちでちゅーされんよ。行ったらバーの便所でエッチなことされる」 「……ふ、君じゃないんだから(小声)」 「おい」 「エット……、ヨクワカンナイケドアブナイコトハシナイデネ?」  まったく完全に車中であることを忘れた会話に万理のカタコトが釘を刺した。二人で顔を見合わせると「聞いてバンちゃんヒーラギがさ!」「以前ドラマでお世話になった」と慌てて同時に言い訳を始めてしまった。  それからものの数日で今日に至るわけだが環は壮五が何故か今になって少し緊張しているのが今朝から死ぬ程気に食わなかった。  店の場所はすぐに聞いたし待ち合わせの時間も場所も教えてくれた。昨日まではだるそうにしていたのに何で今日になって不安そうにそわそわするのだ。少なからずあいつを男だと意識したということか。大憤慨である。 「今日やだっつっても迎え行くかんね」 「……うん」 「……そんなやなら行かなきゃいいじゃん……」 「ドタキャンはさすがに心象良くないだろ、僕の芸能生命がかかってるんだから」 「はあめんどくさ……。もし干されてもおれがしこたま稼いでやるし。やなこと我慢するぐらいならはやく嫁に来い」 「ヒモは嫌だよ。情けない。あの、でももし、もし万が一やばいことがあったらヤバイって連絡してもいい……?」 「絶対ヤバイから。待ってる」 「……」  そう言って今日に限って個撮の仕事へと出て行った壮五を見送ってからは約十二時間。環はくだんのファミレスに早くから出向き例のもみの木を見下ろすことの出来る二階席に陣取ったというわけだ。  マップによるとバーはもみの木から徒歩十秒ぐらいの地下にある。環はそそくさとリュックから滅多に使わない地味なニット帽を引っ張りだして被るとまとめた髪をしまい込みなるべく明るい髪色が目立たないようにする。それから白のマスクをつけちょっと猫背になった。  必殺、その辺にいるちょっと背の高いオニイサン。意識して猫背になると意外とバレないもんだ。冬は何故だか特に。 しかしこれはもはや確信でもある。あの男は絶対に一回目で手を出す人種だ。壮五が万が一酔っ払って二人でトイレに消えたら問答無用で突撃しなくては。 「つかヤバイ時にどうやってヤバイって言うんだっつのな」  マスクの下でぼそりとそうつぶやくと環は地下への入口へと小走りで向かった。 地下とて立地は都心の高級ブティック街の片隅である。少し緊張しながらドアを開けた店内は見目より存外騒がしくバーはバーでもベルジャンとは似ても似つかぬ雰囲気で環はまだしも壮五はどちらかというと嫌いな部類の場所だろうなと無意識にほくそ笑む。こんなもの、壮五の好みがまるで分かっていないも同然。ま、ぽっと出だからしょうがないけど。  カウンターに並んで座る二人を見つけて逐一監視できるよう待ち合わせと偽り二人用のボックス席を希望する。ちょっと陰になっていてすこぶるいい席だ。ついでにグラスでビールを注文した。 「……」  リュックを降ろしてふかふかのソファに座った環は改めて後ろから二人が並んでいる姿を見てみると壮五はとても華奢でより不安になった。実際、背は低くないし女に比べたら肩幅だってそこそこあるのにやはり隣の男がゴリラだからか。きっと力づくで抑え込まれたら抵抗なんて出来そうにない。  思えば芝居とは言えキスもしている、つまりこの世界で唯一自分以外に壮五の唇に触れた男。そしてあの艶やかな性のシーンを曲がりなりにも引き出した男である。条件反射で夏乃の掠れた喘ぎが耳の奥で聞こえその異常な嫉妬心は環の心を囂々と音を立てて燃やす。  とは言え柊というキャラクターはめちゃくちゃいいヤツだった(原作のファン)。夏乃のことを世界で一番大事にしてくれたしエッチの時だって自分の快感よりも夏乃の反応が第一というスパダリぶり。ちょっと天然で空気の読めない発言はあったけれど肝心なところではいつも理性的で紳士的だった。  だからこそドラマの配役には結局不満も出て来て、あーおれがひーらぎだったらこーすんのにな~~とかここはもっと優しくしろボケ!!!!!!などと視聴中何度砂を噛むような思いをしたことか。  無論壮五はこのドラマを話題にしただけで理不尽にぶちギレるので漫画もドラマも今でこそこっそりとたまに見返す。純粋に作品として好きだしなんなら夏乃役を壮五が演じたのは一ファンからしたら大正解過ぎて褒めちぎりたいポイントでもあるのだがそれを真剣に伝えるにはまだ壮五の傷が癒えていないのがただただ残念でならなかった。 「…………」  しかしまあ、時折こうして冷静に考えてみるとドラマじゃない、台本なんかじゃ決してなく本当に恋人として壮五と関係していることを考えると恋愛フィクションとはやはりドラマチックな筋書きなのだなと思わなくもない。実際の日常生活に溶け込む恋愛要素の些細な幸福なんて、きっとドラマにするには地味すぎるのだろう。そんな小さな愛だって心から好きな人との積み重ねだからこそ愛おしいと思える、なんて考えは多分壮五と好き同士になれなかったら自分じゃ一生気が付かなかったかもしれない。  ただ、愛し合った者同士でしか感じ得ないセックスにおける生々しい愛の熱量はフィクションなんかじゃ描き切れないものだと壮五と付き合ってからは妙に実感もする。 他人の身体を暴くのは言う程簡単じゃないからこそ今日までこつこつ地道に積み上げてきた信頼関係がどれほど愛と関連していたのかを思い知る。信用されているから身体を開いてくれるのだろうし信頼してくれているからこそ性愛を以て愛を確かめ合うことだって出来る。 だからと言って勘違いしないで欲しいのは好きだと自覚してからもこの何年後に抱いてやろうだなんて下心は微塵もなかった。ただひたすら壮五のことが好きだったから、身体の関係なんてなくたってずっとずっと大事な人として接してきただけのこと。傷つけるなんて以ての外だ。 たかが遊びのセックスぐらいじゃ壊れないと確信したから及んだ情事だってちょっと魔が差した程度の小さな過ちだとも言おうと思えば自信を持って言えた。 寧ろ今の状況が逆におかしいのだとは頭のどこかで思うようにしている。これは保険みたいなものだった。本気半分、のめりこみすぎたら重たくなるしもしもいつか壮五が離れたいと言ってきた時こっちが死にそうになったら元も子もない。そうならない為にたくさんの人間との無駄な擬似関係作りで鍛えてきた。つまり身体の関係なんて愛においてそこまで重要じゃないということ。 それに、環は自分の独占欲の為に壮五の人生を束縛するなんてそんな大それたことはしたくないと思う。今は飽くまで求められているから全力で返すというスタンスからぶれてはならない。何より自分自身が深く傷つかない為に。それから、大事なメッゾがなるべく永久にここにある為にも。 「……はー、最悪、帰ったら絶対エッチしよ……」  環は何だか余裕ぶっていられないほど、壮五が不本意で他の男と居るのが嫌で嫌で堪らない気持ちになってきてしまった。出来ることなら今すぐにでも壮五を連れ出したいぐらいの強烈なジェラシーをぐっと我慢し、ただひたすら不機嫌な顔でその様子を窺うのだった。 Chapter2  正直なところ今日が嫌過ぎたせいなのか三日前ぐらいから胃薬を飲んでいたなんて環には口が裂けても言えなかった。日程を決めるとかでぽつぽつと数日かけて続いたラビチャのやり取りも壮五はすぐに終えるつもりでいてもいつの間にか長い会話になっていたりする。  相手役の事をいまいちあしらいきれない部分としては、勿論撮影時の情けないエピソードを握られているというのも大いにあるが人間的にあまり好きじゃない基、得意じゃない部類なのは本当。シャットアウトしようにもどうしてか他の人間と違って上手く遮断出来ない。或いはさせてくれないのが最も苦手な要素であった。ぐいぐいくる話の流れで使っている駅だとか大体の居住区だとかはあっさりと引き出されてしまっている始末。壮五はこと環の言う押しに弱いとかいう自らの弱点を自覚して打ちひしがれた。  今までも環に言いくるめられることが無いわけではなかったが、ある程度強めに出ても環なら許してくれるし言いたくないことややりたくないことは言う前に環がスマートに察してくれるのでどう考えても環と一緒に居るのは快適だった。優しいし面白いしかっこいいし何より自分のことを一番に考えてくれた。 「…………」  そんな気はないと言いつつ、やはりそういう目で見られているかもしれないと思うと緊張して胃が痛くなった。環と比べるなんて話にならないレベルなのにさっきからいちいち比較し環なら、環だったら、環とならと全部のシチュエーションにげんなりとしてしまってかなわない。帰りたい。 「次のやつ、実はハリウッドなんだ。身体作りに気合入ってから随分見た目変わったって言われる」 「確かに、一瞬どなたか分からなかったです。身体厚くなって羨ましいな」 「はは、お前は相変わらず薄くて華奢で綺麗な身体だもんな。今の対格差だったらボーイズラブっぽさがもっと強調されててよかったのかもな。またオファーきたら受ける?」 「……っぽさ……あはは、すごく難しかったから僕はお仕事では出来ればもう遠慮しておきたいですけどね……」 「仕事では?」 「……ん……? 仕事で、も……?」 「指も細いよなあ。ちょっと手貸して」 「エッ……」 「ほら、女みたいな手」  冗談じゃないと言いかけ慌てて口を噤むも半ば無理矢理重なった手のひらには首筋まで鳥肌が立つ。壮五は引き攣った笑みでなんとかやり過ごすと遠い目でカクテルに口を付けた。店に入ってからは本当にずっとこんな調子だった。  死ぬ程興味のない一方的な仕事の話もそれこそもっと死ぬ程興味の無いプライベートの話も大仰で押しつけがましくて微塵も楽しくない。  唯一の逃げ場のドリンクだって酒はあまり得意じゃないと言った矢先、スクリュードライバーを勝手にオーダーしたのには心底戦慄した。自分はサイドカーを気取ってドラマとかけているつもりなのだろうが面白くもなんともないのだ。いい加減にしろ。おかげで全く進まないのを変に緊張しているのだと勘繰られた末の過剰なスキンシップ、ご愁傷様である。  大体にして〝ホモドラマ〟の鬱憤晴らしじゃなかったのか。何さりげなく次のオファーを期待しているのだ。何があっても二度と受けたりしない。ああ、、、でもまたスタッフに腹を切るとか言われたらどうしよう、ここは潔く切ってもらおうか、でも事務所の評判が悪くなっても嫌だしなあ、とかいう甘さがだめなのだ、引き受けて苦しむのは自分、分かっている、分かっているのだけれど。  こちらの言い分に構わず強引で上からの物言いの人間には悪い意味で弱くなってしまうのは壮五がどうにかしたいと思っていることの一つでもあった。 「……」 「いや、動物は好きなんだけどさ。セックスの時気が散るの嫌で飼ってないんだよ。犬とか猫とかいたらいたで可愛がっちゃって仕事しなくなりそうだしさ。壮五は動物飼ってるのか?」 「ああ……まあ……犬……っぽいものは飼ってますね。いや、飼われてるのかな……寂しくなくていいですよ、一緒にいたら楽しいし」 「犬か。大型犬?」 「どちらかと言うと」 「名前は?オス?メス?」 「オスです。名前は、あ、たーくんですかね」  それにしてもただ一緒にいるだけなのに、どうしてこうも嫌な気分にばかりなってしまうのか壮五はもはや不思議でならなかった。悪意があるわけでもない、むしろ好意的であると捉えていいはずなのにどうしても生理的に受け付けられないのは最早前世からの拗れた因縁か何かがあるのとしか思えない。  ああもう本当に早く帰りたい。犬の話を掘り下げられては困るのでタンブラーなみなみいっぱいのオレンジをやっと飲み切ったところで壮五はそそくさと便所へと立った。 「いや、参ったな……」  誰もいないのをいいことに壮五はそう声に出して呟くとますます嫌になってしまう。店はうるさいし会話はつまらない。話題も自分の自慢ばかりで飽き飽きしたしそもそも人としての相性が合わない時点でもうそこまで気を遣う必要もないのかなと壮五は思い始めた。  かなうなら常時座ってするタイプの壮五は二つある個室の片方を占領しながら唯一の寄り辺とも言える次の一杯を考えた。用をつけて帰るにしてもこうなったら好きな酒ぐらい飲んでからお暇したって罰は当たらないだろう。  環が迎えに来てくれたら帰りにベルジャンで口直ししたいと言ってみよう。というかもう来てもらおうかな。そう思ってスマートフォンを出した次の瞬間、ドアが軽くノックされた。 「壮五」 「…………?」  やけに薄気味悪い声音だ。警戒していいレベルだと判断して声は出さずに様子を窺う。 「今どんな感じ。体調悪いなら家近いから寄れよ」 「………………?」 「大丈夫。何もしないよ」  いやいや待て待て一体何をする気なのだ。驚くべきところはいくつもあるがまずはそうだな、トイレに立っただけなのに体調を気遣われるところだろうか。もしやあのスクリュードライバーに何か入っていた?にしては至って身体には何の変化もない。何もしないの常套句にはさすがに寒気がするし家が近いだなんて一言も聞いていない。  これってあれだな。万が一の為に録音しておいた方がいいのか。  そっとスマートフォンのボイスレコーダーを起動してから壮五は潔く鍵を開けた。 「体調悪くなるようなものを入れたんですか。犯罪ですよ」 「……まさか。酒がすすんでなかったみたいだから腹でも痛いのかなって」 「トイレに立っただけなのに様子を見に来るなんていくらなんでもおかしいでしょう。何が目的ですか」 「上手いな。芝居向いてるよ。どうしてそんなに警戒する?」  壮五が思わずたじろいでしまったのは男の股間が既に誤魔化しの利かぬ盛り上がりを見せていたからで身震いするほど気持ち悪くて若干青くなる。  同時に本気でソウイウ目で見られていたことへの最高潮の怒りが沸点に達する。ただでさえ嫌いなのにもう信じられないぐらい大っ嫌いである。何せ一ミリも酔っていないしいざとなったら正常な判断で正当防衛を繰り出す準備は出来ているので強い語気できっぱりと嫌悪の気持ちを口にする。 「僕は飽くまで役を全うしただけのことであなたとも共演者の枠組み以上に親しくしようという気は一切ありません」 「あっは、俺だって素のお前になんか興味ないよ。じゃあ聞くが柊だと思ったらどうなんだ? 柊やってるおれのことは好きだったんだろう」 「……は……?」 「共演女優とだって本気で恋人同士だと認める為にセックス出来るんだろ? おれはまだ柊が出来る。夏乃は柊のことを愛してる。なら愛せるだろ?」 「……あ、あい……? ……?」  何度頭の中で反芻してみてもかなりとんでもねえ理論である。どうしようもなくとんでもないのは分かるのだが何故だかこれは自分で蒔いてきた種の様な気がして頭ごなしにそうじゃない! とキレるにはあまりにもタイミングを逸してしまった。  ギンギンのテントは明らかに嫌悪の対象であり向けられた性的な好意だって然り。だけれど役作りの気持ちがリアルに近ければ近い程スムーズに演技の仕事を全うできる壮五にとってその理論は全力で否定したら無論、ブーメランである。だからこそやっていることがこの男と一緒だということを今すぐにどうにか絶対に否定したくて堪らない。堪らないのは山々だったが何せここにきて思い当たる不祥事の節々が邪魔をしてくる由々しき事態。  壮五はあろうことか人生の自業自得に口を塞がれ何一つ否定的な言葉を発せなくなってしまった。真面目か。 「……え、ええと……いや、でもそれは違うと……いや違わないか……いやでも、お酒に何か入れるのは絶対にはんざi」 「入れてねえって。いいから来いよ。ちょっとそういう気分になっただけだろ。役だと思えないわけ。リハーサルだよ。カメラ回したらまた泣くのかもしれねえけどさ」 「ッイ、ナ、泣、うわ、むッ、むかつきますね!? そんな風に言うの最低ですよっ僕は本気で取り組んだからこそっ」 「組み敷かれて泣くの。はは、お前ムカツクとかいうんだな。ああ、四葉環口相当悪いもんなあ。四六時中隣に居たらやっぱ移るもんなんだ。似合わない。キャラじゃねえよ。もっと上品に喋ってよ、アイドルん時みたいにさ。おれ好きなんだよね、アイドリッシュセブンの逢坂壮五」 「っ…………」  人間、頭に血が昇ると咄嗟の言葉には本当に詰まるものなのだなと壮五は妙に冷静に思った。だがこれでこの男には人としての配慮の必要はまるで無いことが分かった。下品でデリカシーのない格下の人種。相手にするだけ損で無駄だ。 「全部録音してますから。今後は共演NGにしてもらうように事務所に相談します」 「……ま、別にいいよ。でも今日は帰さないぜ。俺がその気で誘ったことぐらい分かってたろうに、来ちゃったら同罪も一緒だろ。ホントに嫌なら来ないんじゃないの」 「お話になりませんけど。僕はあくまでお酒の席のお誘、い……を、」 「それにさ、ホントに嫌なら飲んじゃだめでしょ? 何入ってるか分かんないんだからさァ」 「…………犯罪……」  急展開とはこの事か、と壮五はさっさとこの便所という密室空間から逃げ出さなかったことを殊更後悔した。嘘みたいに突然視界が歪み立っていられないほど変に眩暈がして思わずよろける。  背をついた便所の入口のドアは奇しくも引くタイプ。これで押すタイプだったらどんなに良かっただろう。自らの身体が出入口を塞ぐ形で壮五がドアによりかかれば案の定音を立てそのまま屈辱の壁ドンである。拒絶の両腕だってどうしてこんなに非力なのか、より腹立たしく思えてこんなことなら環と一緒に毎晩腕立て伏せをしておけばよかったなどと頭の片隅で嘆く。 「ううう、やめてください!」 「別に減るもんじゃないだろ。恋人だっていないくせに。男なら分かるだろ、発散のセックス」 「間に合ってます! 恋人いないのはそちらでしょう! 勝手にそっちの都合で発散させないで!」  膠着状態も劣勢なのに変わりない。キスはアウトだと必死に抵抗して首を振ったら余計にぐらぐらしてくるし情けないのか自業自得なのか壮五はもうなんだか泣きそうになってしまった。 「そーちゃん!?」  そんな時、ここには何の筋書きもないはずなのにベタなドラマの展開みたいにいつだってこうして環が現れてくれるのをまさか予感していたわけもない。 けれど、その声を不思議とすんなり受け入れられてしまうのはおよそ七十八億分の一の確率で環が相方として自分のもとへやってくるという前から決まっていた二人が出会う運命、共鳴の証だと信じても別にいいんじゃないかと思うのだ。 Chapter3  「あ!!!」  一人で飲むビールまずすぎ、と無心でナッツをかきこみげんなりしていた環はほんの一瞬目を離した隙に席を立った壮五の後ろ姿がトイレへと消えるのを捉えた。店に入ってからは一時間も経っていないし見たところ一杯しか飲んでいない。  よっぽどつまらないのだろうなと鼻で笑った次の瞬間ゆっくりとした足取りで件の男が席を立つわけである。まさかとは思ったがそのままトイレへと消えるのを確認し目を瞠る。  ウソダロ!  環は慌てて立ち上がろうとしたが思いとどまって浮いた腰を一旦落ち着けた。だって、だって、いくら何でも一杯しか飲んでいない壮五を便所でまさか抱けるわけがないと思い数秒考え込んでしまう。  どう考えても素面だろう。素面のそーちゃんに迫って無理矢理やばいことしようとしたって何のメリットがあんの? キンタマもがれて終わりじゃね?  常日頃の壮五の言動を考えると、窮地に追い込まれた壮五が股間を蹴り上げるなんて造作もないことだと思う。人にやられたら嫌なこと、あいつ絶対出来るタイプだし。  瞬時に激怒した壮五が問答無用でちんちんを蹴る想像だけでもんどりうった環だったが一応心配は心配だ。だけれどどちらかというと程々に壮五を牽制するべくしてビールを飲み干し少し経ってから腰を上げたのだが。 「……マジか……」  トイレの前にどんと置かれた清掃中の看板には流石に眉を寄せた。奥まった場所にあるここはフロアからは完全な死角。騒がしい音楽に搔き消されて話声など当然聞こえやしない。  確かに壮五は一杯しか飲んでいないはずだけれどもしそれがめちゃくちゃ強い酒だったら? どころか万一何か変なものを飲み物に入れられていたとしたら。 最悪の嫌な想像にやや急いて看板を押し退けると重たそうなドアの上部にはめ込まれたすりガラスの向こう側、ちょうど壮五の背丈ほどの人影がべったりと張り付いているではないか。 「!?!?!?!?! エッ、マジで!?!? そーちゃん!?」  動揺しつつもすぐ様開けようと咄嗟にドアを押したのだが手首が痛くなるほど重たくてびくともしない。引くのか!?と慌てて作りを見るがやはりドアは向こう側に押すタイプ。ガラスの向こうの壮五(っぽいシルエット)に向かって必死に叫ぶ。 「えー!! うそだろ!! そーちゃん!? そこどいて! あけらんねーから!」 「…………!」  拳でがんがんドアを叩くとそれに気づいたのかシルエットが若干身じろぐもすぐにまた元に戻ってしまう。 これは。 まさかと思うがこれは。  か べ ど ん さ れ て い る ? 「マジでぶっころす」  即座に鞄をぶん投げた環は精神統一にひとつ息を吐くと青筋の浮いた両腕渾身の力で全体重をかけドアを押し込む。怒り心頭、ホラーよろしく少しだけ空いたドアの隙間に両手の指をねじ込んで無理矢理にこじ開ける。 「うおらあああ、っこ、んんっ、ば、ん、わあああああっ……」 「っ、……たまきく……」  徐々に割かれていく密室で最初に見えた柊は驚いた顔をしながらも目が据わっていてひどく酔っているみたいだった。様子がおかしいのはひとまずおいておくとしても壮五に手を出そうとした事実に憤慨している環なのでがっちりと目線を合わせたまま重たい扉に身体を割り入れ褐色に焼けた腕を強く掴む。 「なんだあ? 相方はストーカーかあ?」 「環くん……」 「ッハアアア、おむかええ、きたからああ……ハア、とりま、こいつは殴っていいでスかああ……??????????」  案の定ドアに向かって柊の壁ドンをくらっていた壮五が何のつもりかはしっと環の服の裾を掴んだところで一度理性の緒が切れた。問答無用で柊のシャツの首根っこを引っ掴み力任せにぶん投げたのだが存外簡単に吹っ飛んだのにびっくりして一瞬固まる。 「え、っやべ、死んでないよな……」 「はあ!!!!!しんでてもいいよ!!!!かえる!!!!!!!!」 狼狽えた環だったが直後、顔を真っ赤にした壮五が叫んだのにびっくりしてすぐに駆け寄る。 「へーき、何かされた!? かえろ、いまタ、おあっ……」  床にへたりこんだ壮五が手を掴んで強く引き寄せてくるのでなすがままに膝をつくとそのままがっちり抱き着かれて身動きがとれない。  もし今人が来たらきっと大事になる。柊は別にどうなってもいいが被害者とは言え巻き込まれるのは壮五だ。環が必死になって頭を働かせながらタクシー、かばん、会計、と目まぐるしく全部に逡巡しているとぎゅっと耳にくっついた壮五の熱いほっぺたがふと離れ、どうしてか代わりにしっとりとした唇の触れてくる生々しい感覚に環の身体が跳ねた。 「……そ、おい、……なにし、」 「ぃやばい…………」 「ヤバイ」 「ほんとにやばい、だめかも、これほんものかも」 「ホンモノ……? ……待って、どこさわって……」  言いながらあらぬところをがしがし触ってくるはしたない指を握り込んで必死に牽制するのに逆に言ったらこっちも両手がふさがった状況。手の絡んだままやたらと顔中に唇をくつける壮五を何とかあしらおうと声をかけるのに今度は犬みたいに口をぺろぺろ舐めてくる。全く手に負えなくて焦る。 「ん……んん、ま、まって、ま、マテ!」 「ふ、……僕は犬じゃない、……だめだな、おかしくなってる、ごめん環くん」 「ぜんぜんごめんて顔じゃねええけどお……おれここ、つか、便所はやなんだけどっ……帰ろうよ……!」  全くこういう時の壮五の有無を言わせない強引さは一体何なのか。たじろぐ環は何とか傍若無人を窘めようと酔ったみたいに赤くなっている壮五の頬を撫でてみる。  すると、何の合図ととったのか空いた片手はすぐに頭の後ろにまわって執拗に襟足をさわさわするしもう片方は固く指を組んだまま膨れた自らの股間に無理矢理もっていくのだからもうどうしようもない。 「……ン、……帰れるかな……」 「凶悪すぎ……ヒイラギんとにやってくれたな……」  余裕で確信犯のその口調に翻弄されながらもまさかこんな所でことに及ぶわけにもいくまい。それこそ見られたら大事件、とうとう一織の気が狂うかもしれない。  ぐらぐらの壮五を抱き上げて一旦個室に押し込むと全速力でかばんを回収し会計。まだ床で伸びている柊をどうしようか迷ったがどうせ喚いたところで酔っ払い扱いだろうしそのままにしていくことにした。  アホな大人両方の面倒など見ていられない。自業自得はその身に受けて然るべきである。 「…………」  こんなに人生でてきぱきしたことなど無い環が全てを瞬時に終わらせて颯爽と壮五を入れた個室を開ける。なんとなく予想はしていたので驚きはしなかったが、案の定「やばい」状態である壮五が自分で前をいじる姿を目の前にしてもここは断じて心頭滅却。どろどろの手指をペーパーで拭って全然フル勃起の昂りを機械的に下着に仕舞い不埒な顔面をマスクで覆う。 「はい、おんぶ」 「……んぅ」  見目は限りなく酔っている状態に近い気がするが果たして明日壮五の記憶はあるのだろうか。背中に固く擦れる刺激で堪えきれない甘い声がマスクの隙間から漏れるのを耳元に囁かれながら環はまた黙って心頭滅却で耐えるのであった。 Chapter4 「……する? していんだよね?」  やっと玄関に辿り着きおぶった壮五をおろしてすぐ、ついつい切羽詰まった声で身体をまさぐってしまうのは都心からマンションまでの近くはない距離の移動中ひどいお預けをくらった反動である。  環は湿ったマスクを雑にひっぺがして床だがとりあえず組み敷いて口を塞いだ。 「ん…………」  けれど、待ちきれなかったのはどうやらお互い様らしい。長い問答の中で徐々に主導を奪われていくのは素面の環の方で気が付けば上顎をしつこく舐めとられる過ぎた快感に息も絶え絶え抵抗していた。 「っ……はあっ……すとっぷ、そこばっかずるい……」 「うう、うーー、ごめんたまきくん、僕だめだ、いれたい」 「…………え゛っ……」 「君にじゃない、でも、貸して、あれ、あの、お、オナホっ」 「……え゛……!?」 「持ってたよね!? ある!? 捨てた!?」  必死の形相と相俟って超超超らしくない衝撃的な告白に目がテンになったまま呆けていると胸倉を捕まえられておねがい、と切実に訴えかけられてしまった環は思わず挙動不審になってしまう。  お、お、オナホ、壮五が。どういう心境、というか、ソウイウ衝動……? 雌雄の生殖本能を刺激するとはつまり本来の欲に忠実になるということ、つまりのつまりは当然のことながら壮五も男であるがゆえの「イレタイ」?  環が急に怖気づくのは普段のセックスにおいての役割を考えた時壮五にとってはどっちが本当の欲望なのかという本質がチラついたからだ。  分かっている様で分かっていなかった。壮五がいつも物理的に許してくれるからセックスという行為自体が出来ていたのだということ。 「……」  地味にショックを受けて黙った環だが壮五はそんなことを察する余裕も無い様子、口が触れたままにそわそわと囁いてくる。 「ね、ある、ない、どっち……」 「……あ、……や、な……いかも……捨てた……」 「ンないのかあっ……じゃちょっと手、手でいいから貸してほし、さわ、触って……」  早口で言われても最早手でいいの意味が分からなくて戸惑うがとにかく前への刺激が欲しくて堪らないのは強く理解した。環は何も言わずに壮五の身体を抱き上げて寝室へ向かうあいだにひとつ冷静に覚悟することにした。 「…………」  いれてほしいんじゃなくて、いれたい。  寧ろその欲の形しか知らない環にとって壮五のこの切実なお願い事がどんなにか切実かなど分からないわけもない。なるほどならば、いれたらいい。別に尻でなくともいいのならとっておきの性器を環だって持っている。 「……たまきく……」  無言でベッドに腰かけさせると何だか妙な雰囲気になったが構わない。半端に脱げかけだった壮五のジーンズをひっぺがして露わになった真っ白な内腿に手をかける。やわい肉にそっと沈む指先。 「口ですんね…………」  流石の壮五も、え、と驚いたがオナホでいいなら口でするのがダメなわけない。 環は一つも躊躇しないで舌をあてがい口に含んだのが壮五本来の性欲の味なのだと思ったら意図せず強烈に満たされた支配欲で興奮してしまった。自分がされるときには決していい気分だけが残る行為じゃない。  でも、互いが互いで同じ役割を果たせない今、これで壮五がちょっとでも満たされるならそこに何の迷いも持ったらいけない。いれていいかと問われなかったのはそういう関係を今は望んでいないのだとも察することが出来るというもの。いれてみてもいいとは微塵も思っていないが(痛いのは嫌)だとしても、代わりにオナホを求められるのは何だか癪に障った。  互いの持った全部の欲を二人だけで補い合えないなんてそんなことがあってたまるか。壮五の思う全部は環のやれる全てで叶える。絶対。何があっても。オナホにですら任せてなんかやりたくない。環の歪な独占欲が腹の奥にぐるぐると渦巻く。  百戦錬磨の環の戦歴に女からのフェラチオが含まれていないはずもなかったが大体が一方的にされるので任せていれば射精できた。だから、まさかするのを前提に真剣に想像したことなど当然ながら無い。  半ば夢中で行為に耽っているとふと優しく髪に触れられるので目線を上げる。 「……どうしてしちゃうかな、こんなこと……」  湿った熱い指先で敏感な耳朶をやわやわと握られていると環もいよいよ何だかよく分からない気持ちになってくる。想像の五倍は口内が気持ち良く思えるのは一体どこがどう感じているからなのか全くもって分からない。分からないが、そもそも胸も耳も首も口も実は壮五より敏感であることを環は今まで見ないふりをしてきた。  たまにそういう意味で主導権を握りたがる女も居たが万一弱いところを暴かれ攻められたとしたら欲に忠実な自分の身体がどこまで快感を拾ってしまうのかが恐ろしくてその気を感じたら絶対に隙を見せない攻めの一方でやり過ごしてきた。  コントロール出来る許容範囲以上の快楽を知るのは嫌だ。怖い。ただでさえ大きくてわがままな身体。万一無理性になったとき自分が誰と何をしているのか分からなくなるのが環にとっては本当に地雷だった。 「環くん」  なのに、今となっては世界で一番信用している壮五からそういう風に優しく触られると嬉しくて気持ちよくて頭がバグってしまいそうになる。それはどこか守られている様な錯覚。暴れたら傷つけるのに組み敷いたら勝てるのに自分が精神的にとても弱い立場にいる気持ちになってしまう。  何があっても全力で守るかわりに抱きしめていて欲しい、常に幸せでいっぱいに満たすかわりに永遠に頼っていて欲しい、他に誰もいらないから、自分だけを一心に見ていて欲しい。  複雑に相反しながら共存する壮五の為に強くあろうとする環と本来弱い本質の環のバランスは壮五の振る舞いたったひとつにこんなにも左右されてしまう。  次第に切羽詰まっていく息遣いが酸欠でもやっとしている環の脳内に反響する。喉の奥に触る度、背骨の真ん中を通り抜ける快感。さっきからずっと襟足を撫でられ続けていてくらくらした。不思議と挿入の欲求は湧いてこないのに下腹が震えるほど気持ちいい。 「っはあ、……ん」 「た、っンっ……」 「んっ……!」 「ごめ、ごめんっ……」  突然頭をがっちり固定されてびっくりして身体が引けた環だったがこういう時にとんでもなく無理性になれるのが壮五のギア段階の無さでもある。  そのまま喉奥で溢れた温い体温でハッキリと我にかえった環はその大半を飲み込んでしまってからやっとこ首をつよく振って口を離した。 「ぶあ、しっ、げっほ、死゛ぬ゛っつ゛ーの゛!!!!! 馬鹿じゃねえの!!!!」  ばちばちの快楽に一瞬どこかへ行っていた壮五も自らのある意味猟奇的な行為には青ざめながらティッシュを素早く引き出してべたべたの環の口元を必死になってこする。 「ごめっ……ごめんん……ごめんね……!」 「うぶ、う、ちょ、うう……」 「ひどいことしたっ……あれっ、のん、のんじゃった……?」 「だって……はなしてくんなか、んっ……!」  再び強引に口を塞がれしつこく舐めとってくるのをやれやれと黙って受け入れていた環だったが急に下着の中に手を入れられて一センチぐらい浮いた。 「する、僕もする、そのあとちゃんと一回しようねっ」 「いやいいーーーーっ! いらねえからっ! つかキライだからっ!」 「き、嫌いでもしてくれたからっ」 「いいっ、いいからっ、つかくすり? か知らんけど、どうなったん! 身体ヘーキ!?」  先をじりじりと詰りながら決死の表情で口を寄せようとする壮五を力づくで抑えた環が慌ててそう言うとぱっと顔をあげた壮五がそのまま固まる。 「……?」 「??? なんできょとんとすんの……なんともないならいいけど……」 「そういえばもうあんまりアレかもしれない」 「ない?」 「ないと思う」  いそいそと正座で直り不安気に環を見て来る姿がいつもの壮五過ぎて環もようやっと一安心出来た。一時の物凄く形勢逆転の兆しには精神的にもどっと疲れた。今ある環のアイデンティティ全てを以て対抗したがあとちょっとで崩壊するところだった。 「よかったあ……もしやばいへんなくすりだったらたいほされるんかとかめっちゃ思ってた」 「……否めない……二度とこのようなことが無い様にします……」 「それな。だから行くなっつったのに」 「ん……」  素直にしおらしく頷いたのが可愛く思えて頭をわしわしに撫でながらなんかされた? と環が問うと真顔で首を振った壮五だったが突如あっ! と叫んでベッドの下にぐちゃぐちゃに脱ぎ捨ててあったジーンズのポケットをまさぐった。 「……」 「え、なに……? スマホなんかあったん?」 「……ううん」  そのままサイドテーブルに伏せて置かれたスマートフォン傍らで、環の手を引き再びベッドにのった壮五は咳払いをひとつしてから両手を広げた。 「よし、続きしようか」 「あのさ、マジで一体何がよしなん?? 人の口にナカダシしといてよくいったな????」 「だから僕もするって言ったのにいらないって言ったのは環くんだろ」  呆れた環が言いつつも引き出しからコンドームとローションを出すとそれを引き取る壮五は口を尖らせて抗議してくる。  全くどの口が言うか。だが、環はそんなことよりも今回あらわになった新たな壮五の気持ちの一面の落としどころを一刻も早く決めておきたくてそわそわした。  例え万が一でもソウイウ欲が壮五に沸いた時、迷わず一番最初に頼ってくれるシステムを今ここで構築しておくべき。要はオナホにマウント行為である。 「……あのさあ」 「うん?」 「でもさ、あの、今日みたくいれたくなったら絶対言って。オナホもダメ。家にあんの? もし持ってたら捨てろ」 「……え……」 「ね。絶対。そしたらまたしてやっから。俺が。ねー、はい、やくそく~」 「…………」 「や、やくそく~~!」 「うーん、今後はこんなこと無いんだから大丈夫だよ」 「まんがいち! あったらでいいの! 捨ててね? ね!?」 「えーうんー、いやそもそも」 「なんですっぱりいいよって言えないん! 使ってたん!? やば、それは浮気、マジのやつじゃん、っそーっちゃんのっクッソバカっ! むかつくっ! ああ~~~今すげーやだっ! ヤダ~~~~~~っオナホ嫌い~~~~~っ」 「ふ、いや、浮気て……イタタタタタタタタタっ」  曖昧に頷いて返事を濁すこの壮五の態度が今ばっかりは泣きそうなほど腹立たしくて堪らなくなってしまった環は行き場のない寂しさで思わず壮五の肩口にがじがじと齧りついた。男に抱かれるのも言語道断ではあるが今日初めて環は壮五に何があってももう二度と女を抱いて欲しくないと強く強く思ってしまったのであった。

ビードロの蝶々

初めて発情したあの瞬間のことは、今でも鮮明に覚えている。 体育館の掃除当番だった。身分の高い人間が集う都内でも有名な進学校に通っていた逢坂壮五は、当時中学二年生だった。ちょうどオメガバース性の教育も授業で一通り終わり、ちょこちょこと同級生のオメガ性に発情期を迎える人間が多くなって、自身の性別がオメガである壮五は常に発情抑制剤を持ち歩かされていた。 とはいえ、それまでの壮五の認識では、オメガという性別は希少で男性妊娠が出来、三ヶ月に一度発情期がくる、というごくありふれた知識のみで具体的に発情するとどうなってしまうのかはいくら図解され口頭で教えられても実感はわかなかった。 だから、本当に突如降って湧いた、身体の奥底から生まれ得るあの得体の知れない恐ろしい感覚を、その時全身を以て理解した。 どくんと脈打った身体が突然かっと熱くなり、持っていたモップは握っていられずに手放した。膝から折れて息苦しさに胸の辺りを引っ掴んだ直後、脳が認識する。本能で発情期だ、と思った。 いけない、警告のアラートが壮五の頭の中で鳴ったが割れ出たフェロモンは既にふわんと漂っている。 からん、と同じくモップを投げ捨てたアルファ性のクラスメイトのその顔を、 「逢坂…?」 瞳孔が開いた捕食者であるその顔を、 「これ、逢坂の…?」 二度とは忘れない。 「っ………!」 「逢坂、すげえ、いい匂い、なんだこれ」 「やめ、やだ、やめてくれ…」 「発情期?すごい、甘い、おかしくなる、逢坂」 「……やっ……だれか!」 くだけた腰で逃げ出そうと必死に床をはいずるが、クラスメイトの強い力に暗がりへ引きずりこまれてしまう。咄嗟に首を両手で庇ったのは、父に口酸っぱく「首だけは何が何でも守れ」そう言われていたからだ。 首を守りながらでは抵抗が出来ない。乱雑に学ランのボタンを引きちぎられて、ベルトを外されていく。怖い、怖くて動けないのに、身体は快感を感じていた。 触れられる全てに熱がこもって、下肢に集まる。ぼろぼろと零れる涙は熱い身体への恐怖、クラスメイトへの憎悪、そしてアルファへの渇きだ。 どろどろになった入口を乱暴に指で押し広げられるのだが、何故だか痛くはない。ただただひたすらに気持ちがいいという感覚しかなかった。入れられることを既に望んでいる。待ちきれない。 頭はどうだろう、満ち満ちた絶望で快楽の隙間は無い。たすけて、だれか、こわい。 「やだ、い…」 ずぶっとアルファの昂りが挿入されると文字通りわけのわからない非常な快感が全身を苛んだ。苛烈な刺激にびちゃ、と自身の先端から白濁が零れる。痙攣する身体にもお構いなしに、アルファ性はオメガ性を食らいしゃぶる。 「っあ、い、や…め、やぁ、っん…!」 本能のままに唇まで塞がれると、ずぼずぼと激しく腰を振られ中を擦られる感覚によがり狂ってしまう。知らないはずの快感はいつの間にか脳に焼き付いている。もしかしたら、生まれた時から知っていたのかもしれない。こうなる運命に、抗う術はない。オメガ性が劣勢だという意味を身体がこれでもかというように思い知らせてくる。アルファから求められたら拒絶できない、それがオメガだった。 クラスメイトは何度も中で達した。壮五も奥を突かれる度に何度も何度も達して、それでも満たされない渇きにもっと欲しい、もっとくれ、と頭とは正反対の動きを身体が勝手にしてしまう。やがて騒ぎを聞きつけた教員に止められる頃には壮五の意識は半分以上落ちかけていて、決死の覚悟で守り抜いた首だけが唯一の救いだった。 「…………ゃ、だ………」 「逢坂さん、大丈夫ですか、今抑制剤うちますよ…」 「たすけて、………こわ、…ぃ…」 「大丈夫、アルファは今近くにいませんからね」 「………きもち、い……」 泣きながら、どうしてこの口は気持ちがいいと言ってしまうのか、怖くて苦しくて仕方がなかった。 抑制剤が効くまでオメガ性の教員に抱き締められたままに、依然として中で達している感覚は消えずいつまでも涙が出ていた。脳裏に開いた瞳孔が鮮烈に刻まれている。アルファ(雄)がオメガ(雌)を捉えるその顔がその後一年間は壮五の瞼の裏から消え去ることは無かった。 そんな初めての発情期を、壮五の父である逢坂壮志は異常に毛嫌った。 壮志はベータだが、FSCという大きな成功を背に乗せている身であり愛する一人息子である壮五の性別がオメガと知った時の取り乱しぶりはひどかった。せめてベータであれば、と口癖のように言われ続けてきた壮五にとって、壮志は人生の重荷だった。 中で出されてしまっていたのでアフターピルを処方してもらう為に病院へ行ったが、帰宅するなり「首は大丈夫なんだろうな」ときつく咎められ壮五は苦しくて泣いた。 レイプされたというのに、まだこの身体は細かく震えて恐怖でいっぱいだというのに、壮志は将来の自分にしか興味がない。跡取りという望んでもいない未来を生まれた時から抱かされていた壮五が、初めて壮志から逃げたい、と思った瞬間だった。 それから、発情期の間は部屋から一切出られない生活のまま中学を終えて高校に進学した。 あの時壮五を襲ったクラスメイトはたまたまだが進学先が一緒で同じ学校に通っている。しかしアルファ性はオメガ性のフェロモンで起きるヒートについてを、この世界ではあまり強く糾弾することはなかった。 ヒエラルキーの頂点にいるアルファは、社会において地位が高く対するオメガは低いのだ。理由はひとつ。アルファは優勢で、オメガは劣勢だから。オメガは妊娠して繁殖するのが定めのこの社会は、壮五にとって抗えぬ運命の一つだ。 まだ、性別に翻弄される前、人間として平等だった頃に、壮五にはやりたいことも夢も希望もあった。 ミュージシャンであった叔父の逢坂聡に音楽を聴かせて貰うのが、幼い壮五の唯一の楽しみで、色々なジャンルの音楽を教えてもらう度に世界は広いんだ、と大人になったらどこへ行こう、と思った。 まだ自分の中に確固たる音は無いが、いつかもし自分の、自分だけの音が出来たら、聡に聞いて欲しいと思っていた。叔父さんのように、歌を歌ってみたかったんだ、と言いながら。 「…………」 しかし、高校に進学した壮五を待ち構えていたのは壮絶なオメガ性との戦いだった。 聡は中学にあがる直前に亡くなった。よく考えると、自分が好きな聡はアルファ性だった。 恐怖だった。 壮五は、自分は無意識に聡というアルファに惹かれて、本当は聡の音楽でなく性別に惹かれていたのかもしれない、と根拠のない絶望でしばらく大好きだった聡の音楽が聴けなくなった。 発情期は体質でいつもきつく、一週間部屋で一人閉じこもりながら熱を慰めるのはどうしようもなく寂しく、苦しく、辛く、そして気持ちが良かった。オメガの身体は快楽に素直でいる限り、壮五を裏切らない。 アルファを求めて止まない性を、受け入れて望み通りに快感を与えてあげることでしかコントロール出来ないのは、壮五のオメガ性に対する嫌悪感を日増しに助長させていった。 学校では発情期がいつ来てもアルファやベータの邪魔にならないようにとオメガだけでクラスが分けられ、次第に社会的地位の低さ、という現実を肌で感じるようになった。 勉強は好きだった。わからないことを解いて行くのも、知らないことを満たすのも、壮五にとっては楽しいことだったので成績はクラスに関係なくいつも上位に位置した。四半期毎にあるテストの答案と、学年での成績表を出すと壮志は相変わらずせめてベータであれば、と性別の愚痴を零した。 「壮五」 そんなある日、壮志に呼ばれて部屋へ行くと瓶に入った錠剤を渡された。 ラベルも何も貼っていない、ただの半透明な茶の瓶だったが蓋に抑制剤とマジックで書いてあった。 「……これは…?」 「まだ試験が通っていない、試作段階の抑制剤だ。うちの開発で進めている」 「抑制剤…」 「オメガ性に特化したものだ。お前の身体で実験してみろ」 一日一錠、毎日欠かさず飲むことで発情期を止める薬だった。 止める、というがこれは抑えるとはわけが違った。発情を弱める薬ならば一般的に出回っていたが弱める、というだけで発情期が全く来なくなるわけではない。フェロモンの匂いも抑えられないし一週間は身体は発熱しているしまともに社会で働くには少し効果が弱い、と壮五は使用しながらも思っている。 しかしこれは、完全に発情を止める、という薬だった。 「副作用とかないんですか…?」 「わからない。マウスでは特に何も起こらなかったそうだ」 「……止めるって、飲み続ければ効果が持続するの?」 「飲んでいる間は一切発情が起こらない」 「…一切」 「そうだ。試してみる価値はあるだろう。発情さえ来なければ、ベータとあるいは、アルファと同じ様に暮らせるはずだ」 曖昧に頷いた壮五だったが、内心半信半疑だった。 そもそも試作段階なのだからあまり期待はしていないが生死に関わる副作用などはないのだろうか。きっとそれだってわからない。飲んでみた結果次第、ということだろう。 壮五はついにマウスにされるのか、と茫然としたがこのころになると自分の人生など生まれた時からつまらないものだったんだ、と何事にもやる気が起きない毎日だった。どうせ死んだって構わないとすらうっすら思ってしまうほどにはオメガ性に疲弊してしまっていたのだ。 だから、正直どうでもよかった。 発情期が来ようが来まいが、結果、自分がオメガ性であることには変わりないのだから。 その次の日の朝から、壮五はその薬を言われた通り毎日一錠飲み続けた。 体調に変わりは特に無かった。普通に過ごしていくうちにそろそろ発情期だなとカレンダーを見るが、予定日を過ぎてもその周期に発情はとうとう起きなかった。 「来なかったよ。発情期間も、通常の身体だった」 そう壮五が報告すると、壮志は続けるように、とだけ告げ、それから一年間、ついには高校の三年間を終えるまでに壮五に発情期間は来なかった。 「ギター?いいけど、僕でいいのか?」 「いいよ、学祭でやろう。曲は逢坂が決めていいよ」 「ほんとう?うれしいな。やりたいのはたくさんあるよ」 発情期の来ない人生。それは、夢のような出来事だった。 壮五はすっかり苦しみから抜け出して、オメガ性は相変わらず変えることなど出来ないが高校生活を自由に満喫していた。壮志からは日に日に跡取りとしてのプレッシャーが増してやることも覚えることも積み重なっていくのだが、壮五はそれを片っ端から上手くやった。 そして自分のやりたいことも上手にこなした。高校で仲良くなった友達とは音楽の話で意気投合しいつの間にか忘れ去っていた音楽への憧れが胸に蘇る。 いつか自分の音を表現できたら。その思いは薄くだが確実に積もり積もって楽器の練習をする度に、古い音楽を聴く度に、聡を思い出した。 アルファ性の叔父。まだオメガだと自覚する前に自分が大好きだった音。 性別に惹かれたのだと思ってしまって以来、怖くて敬遠していたそのCDを、ついぞ引っ張り出して恐る恐る再生した壮五は、あまりの胸の満たされように涙が零れた。 聡の音楽が好きだ。その気持ちはアルファもオメガも一切関係ない、純粋な気持ちであったことに喜び打ちひしがれた。心から安心した。聡の音が、自分の羅針盤であってもいいのだと。 大学へ進学するとますます壮五のその気持ちは膨れ上がった。 壮志は聡を音楽など確証のないものに傾倒するから不幸に死ぬと言った。 不幸に死ぬ、とは一体どういう意味だろうと深く深く考えた。結果、聡は決して不幸な人生で死んだわけではなかったと思った。 「音楽がやってみたいんだ」 唐突に壮五がそう言ったのに対して、壮志は当然激怒した。 一人息子に五の名を付けるほど期待していたのだから当たり前だ。しかし壮五は曲げなかった。何度言っても了承されないのに見切りをつけて、ありったけの抑制剤をスーツケースに詰めた。 優に三年はもつかと思うほど大量のその錠剤を大事に抱えながら、壮五は生まれて初めて自らの意思で父を遮り外へ飛び出した。発情期はこの時で五年、きていなかった。 飛び出した壮五は、ある日事務所にスカウトされたのをきっかけにしてアイドルを目指すことにしていた。 歌って踊る、というのは多少大変そうだったが音楽をやるという目標には遠くない。大量の抑制剤を引きながら事務所へ向かう道のりで、人目を引く長身の少年を見つけた。 一目でアルファだと分かった。背が高くどこか大人びた顔つきだが、電柱に書かれた住所を見ながら小首を傾げるその姿はまだあどけなさが残る。困っているようだったので声をかけるとどうやら行き先は同じだという。 「じゃ、一緒にいこうか」 「うす」 これが、四葉環との出会いだった。 (ビードロの蝶々) 「環くん、午後の予定ちゃんと見た?」 「みーたって。うたがってんのかよ」 「そうじゃないけど…」 環との関係は初めはどうかと思った。紆余曲折して先にデュオでのデビューが決まった時も、それから足並みを揃えて7人でアイドリッシュセブンとしてデビューする時も、環はずっと子供のままだった。 三つしか違わないが、それ以上の歳の差を感じてしまう程幼い思考の環はアルファ故か随分わがまま放題だったしそれを許されていた。 同じ歳の和泉一織はそれとは比べ物にならないほど秀才で落ち着いた子だったが性別はベータ。その兄である和泉三月は壮五と同じくオメガだった。 他に、年長でリーダーである二階堂大和はベータだったし、類稀な恐ろしい程の美貌を持つ六弥ナギはアルファ。最後に天然ぽややんだが驚く程の歌唱力を以てセンターの座を任された七瀬陸はオメガだった。 壮五以外のオメガ二人には当然定期的に発情期はきた。その度にオメガ性である二人が甲斐甲斐しく世話を妬いた。同性同士は発情に左右されないのだ。 この日、メンバー一同が揃った夕飯を囲んだ食卓で、陸がガタっと立ちあがってしゃがみこむと発情が突然きてしまったことを示唆した。時期はもう少し先のはずだったので、アルファもベータも少し油断していた。 すぐに影響の弱い大和が、環の身体を緩く牽制した。ナギはぱっと立ちあがり少し距離をとる。 三月が陸に駆け寄って部屋へと連れて行くのを、環の視線がじっと追っている。壮五はふと目に入ってしまったその横顔に、ぞっとした。胸に沈んでいた開いた瞳孔がゆらゆらと浮かび上がる。思わず環の腕を掴んだ。 「環くん………」 「……え…」 こちらを向いた環の目が心配そうに壮五を覗いて、なに?と言った口調はとても優しかった。 ほっとしてううん、と手を離す。 そこで初めて、環がアルファ性だったことを強く意識した。壮五は今発情期が来ない身体だ。どの性別にも影響されず、誰のヒートを引き起こす心配もない。だが、オメガだ。 違うことなき、オメガ性であることをこの時ようやく思い出した。 その頃になると環は壮五を相方としてとても大事にしてくれた。体力の無い壮五を気遣ったりオメガ性であることでひやかしを受けて困っても環が強く庇ってくれた。アルファとオメガのユニットなので、当然恋愛関係についてを取材されることは少なく無かった。 その度に環は付き合ってません。ときっぱり否定してくれたし、環からもオメガ性だからというアルファ特有の性別への執着は感じられなかった。 だから、日に日に、壮五は環を人として好きになっていった。 オメガが抗えないアルファの四葉環ではなく、性別を抜きにした恋を環にしてしまった。 「そーちゃん、ここさ。この音歌って」 「どこ?」 「これ、時々うまくとれなくなる」 「気にならなかったけれど…」 「いーから、おれが気になる」 レッスン室で新曲の練習中、環の指摘するその音をぽん、とピアノで鳴らしてやるとそこに合わせて環が口ずさむ。環はダンスがはじめから得意だったが、何せ歌も上手だ。壮五は自分の声と溶け合う様な環とのメッゾとしての声の相性がとても好きだった。 重ねてメロディをのせていくと、何気なく環と目が合う。 そしてふと微笑んだ環のそのあまりにも優しい眼差しに壮五の胸が一瞬にして高鳴り顔が赤くなってしまったのが分かった。慌てて譜面に目をやると、環は歌うのを止めてしまった。 「……目が合ったら、ちょっと照れてしまった、ごめん……」 「そーちゃん」 呼ばれて目線を上げると、そっと環の唇が壮五の唇に触れた。 驚く程あたたかなその感触に壮五はとても安心してしまう。まるでしっくりくる。お互いがお互いを求めてもいい合図はとっくの昔に出されていたかのようだった。 「やじゃない?」 そう言いながら環が頬を撫でてくれるので、壮五は心地よくて目を閉じた。触れられるだけでどうしてこんなに安心してしまうのか、自然と環の胸にすり寄っている壮五がいた。 「いやじゃないよ……」 「マジ?うれしい、ドキドキする」 環は壊れ物に触れるように壮五の身体に腕を回すとしっかりと抱きしめてくれた。 「…あ、……っ」 「……そーちゃん、好きだ、愛してる……」 二人が付き合い始めて程無くすると、アルファとオメガの身体の相性はぴったりのようで、蕩けるような身体の交わりは文字通り癖になった。相変わらず壮五に発情期は来なかったが、そのお陰で性別に振り回されずに人と人同士で好き合っているという感覚が強く、壮五は心の底から環を愛した。 勿論、環は壮五がオメガ性であることなど気にも止めなかった。それは無論壮五に発情期が来ないからに過ぎないのだが本能で我を忘れて貪る様にオメガを食らうアルファを知っている壮五だけに、そんな環の理性的な愛撫は安心して気持ちいいと思うことが出来た。 アルファを渇望するのも抑制されている壮五の身体は、ついぞ七年間発情期が止まったままだった。 某日、壮五単独での取材の為、いつもよりも早い時間に電車に乗っていた。 春も終わりかけで初夏にさしかかろうかという時期だったが少し車内は暑いくらいだった。窓の外を見ながら、ともすれば汗ばみそうなその身体の異変に壮五はふとおかしいと思った。 今朝はちょっとだけ寝坊してやや急いて支度をした。けれど待てよ、起きてすぐにしたのはなんだったろうか。 「………ぁ…」 思わず声が出た。口を軽く手で押さえると同時に強い強い発情の感覚が七年の時を経て脳裏に蘇った。咄嗟に周囲を見渡すと、既に何人かのアルファがその匂いに気付いてきょろきょろと辺りを見回していた。 まずい、次でおりなくては、そう思ったががくんと腰が抜けてその場に座り込んでしまった壮五を、向かいにいたサラリーマンが支えた。じゅわっと焼けるようなその感覚に、この人はアルファだ、と身構える。 「っごめ、…なさ、…ちがう、まって……!」 「君か?すごい匂い…」 ドアに強く押し付けられて咄嗟に顔を背けたが、はっと気がついて首筋を両手で覆う。 「ったすけて……!」 擦れた声で壮五が叫ぶと、数人がかりでアルファは引き剥がされ、すぐに女性が壮五に駆け寄って大丈夫ですか?と声をかけてくれた。とても大丈夫ではない。首を振る。 「だれか!発情期の子がいます!オメガを集めて!」 「…はー、はあ、…はあ…こわ、…は、ぁ…」 「大丈夫よ。抑制剤はある?」 「あ、る、かばん…」 首を強く覆ったまま恐怖に慄く壮五にオメガ性であろう女性はかばんから薬を取り出してくれた。しかしそれは通常の抑制剤だった。なんとか口にするが効くのかどうかわからない。 壮五は今朝、今日まで一日たりとも忘れることはなかった試薬の抑制剤をついぞ飲むのを忘れてしまったのだった。 そうこうしているうちに壮五の身体はどんどん熱くなった。特にぼう、と燃える様な下肢への欲望がつい伸びてしまいそうになる。しかしこんな電車内の公衆の面前ではどうしてもそんなことはできないので、なんとか縮こまって必死に耐えるの間にも何もしていないのに何度か軽く達してしまう。 周囲のオメガはそれを察して囲う様にして壮五を隠してくれるのだが、恐ろしいほど強く放たれてしまっているフェロモンに隣の車両からもアルファが詰めかけてきていた。 「降りてすぐに、トイレへ逃げ込んだ方がいいかもしれない、」 女性はその異常な事態に、そう呟いた。 少しして、緊迫した空気の中ようやく電車のドアが開いた。壮五は背中を押し出されるようにして外に出ると、駅のトイレを目指して一目散に駆けだした。フェロモンは通り過ぎる人まるで全員を振り向かせる。 泣きながら何とか駆けこんで鍵をかけた途端、強烈な嘔吐感が腹からせり上がる。間に合う間に合わないもなく蛇口をひねったように吐瀉物が口から洩れた壮五はそのまま床に嘔吐する。 苦しくて苦しくて、何度もえづいて吐きだすも、胸部の不快感は消えない。まさか薬の副作用なのかと咄嗟に青くなるがそこへ突如トイレの扉がガン!と強い衝撃で揺れ壮五はびくっと身体を震わせた。 「おい、匂い、くっせーぞオメガ!出てこい、ぶちおかしてやっから!」 「ヒートおこさせやがって!何こそこそしてんだ!」 気性の荒いアルファの苛立ちが躊躇なく壮五をずたずたに傷つける。もうこれ以上ない程の恐怖に心を支配されながら、咄嗟にスマートフォンを握りしめた。 震える手で環の番号をタップして、通話ボタンを押した。 「っ………」 「もしもし?」 「たまきくん…………」 耳元で環の声がした途端、助けて欲しくて嗚咽が漏れた。しゃくりあげる壮五に外から強い罵声が飛ぶ。 「泣いてんじゃねえ!発情期くらいちゃんと管理しとけやオメガ!出ろ!」 「っ………う…」 「……誰そいつ、何してんのそーちゃん、どこいんの…!」 「た、…まきく……」 「そーちゃん!答えろって!今行く!すぐいくから!駅!?スタジオ?!どこにいんの!」 「……わからな、…たすけてっ…」 バタバタと受話器の向こうが騒がしくなった。どうした!?と三月の大きな声がしてわかんねえ!そーちゃんがたすけてって!と環が怒鳴るとブチンと通話が切れた。動悸がして息が苦しくなる。 「っ!……ぃ…やだ、環くん……」 震える手がもう一度通話ボタンに伸びたその時、環から着信が鳴った。スライドしてたまきくん、と言うと切んな!と怒鳴られた。 「ご……め…」 「っごめん、おこってない、大丈夫だから、とにかくどこまで行ったん、おぼえてないの?今どこにいんだよ」 「え、えきの、トイレ…電車、で……発情期、な、て…」 「………何時の電車に乗ったのか覚えてない?」 「っ……………じゅうじ、に、ふん」 「まってろ」 もう通話は途切れなかった。カツカツと画面を操作する音が耳に響いて、自分を探そうとしてくれていることにほっとする。そこへ、ドアの外の様子が一転するのが分かった。 「アルファの皆さん、これより立ち入り禁止になります。ご了承ください」 「ヒート鎮静剤です、御服用ください」 電車で壮五を助けてくれた女性の計らいで、駅員が数人がかりで事態を収めに来たようだ。ドキドキと激しく脈打つ鼓動に壮五の呼吸も合わせて早くなる。 コンコン、と優しくドアがノックされて大丈夫ですか、と声をかけられた壮五はとうとう声をあげて泣き出した。 「鍵はあけずに、聞いてください。まだフェロモンがおさまりきっていないようですから、しばらくここのトイレを使用禁止にしておきます。今、下から抑制剤を入れますので、受け取って服用してください」 「……っは、……」 「お身内の方に連絡は取れそうですか?」 「っここ、………ここは、何駅ですかっ…」 「都営新駅です」 同時に環が通話口で、とえいしんえき!?と時間から割り出してくれたのを聞いて、壮五は深く頷いた。 駅員から抑制剤を受け取って飲み込むと、緊急時に使用する即効性の抑制剤だったようですぐにほとぼりが引いてくる。 「……環くん……」 「え!?」 「ごめんね、ぼくの机から、抑制剤、茶色の瓶の、持ってきてくれないか………」 「……忘れたのか、飲むの」 「…………うん……」 「っばか、だな、ほんとに……」 「……う、んッ………」 ついたらまた電話する、と言われてそのまま通話を終えた壮五は、つかの間の抑制効果に安心しながらもやはりオメガという人生に今一度心から疲弊した。 自分の不注意とは言え、たった数時間飲むのが遅れただけで七年間たった一度ですらきていなかった発情期がきてしまったことに恐怖を感じた。あの抑制剤がないと、もうこの仕事を続けることも、どころか普通の生活を送ることすらままならないかもしれない。残り少ないことを思うと一体どうすれば手に入れられるのかだけで頭がいっぱいになった。 発情期が来ない人生の、ああなんと尊いことだったろうか。 しばらくすれば、即効性なだけにその効果は切れるのが早いようで再びぼんやりと身体が熱く気だるくなった。誰もいる気配の無いトイレで、一人その興奮を慰める壮五は辛かった学生時代を思い出して咽び泣いた。 服にこびりつく吐瀉物を気にする余裕もないぐらいに昂りが治まりきらない壮五は、両膝をついて自らの指を入口から乱雑に割り込ませると、ぐちゃぐちゃと音をたててかきまわす。興奮する口からは自然と環の名前がついてでた。触って欲しい、アルファ性にめちゃくちゃに犯されたい。はた、と気が付くと、環に犯されたいのかアルファに犯されたいのか分からなくなってしまっていることに壮五は衝撃を受けた。 発情期がきてしまったら、環は壮五をオメガとしてしか見られなくなる。 心の底から、絶望した。 「………っなんで……」 こうなるんだろう、 床に置かれたスマートフォンが音をたてて環の名前を表示したが、壮五はそれに出ることが出来なかった。 二度、環から着信があったがそれを見詰めつつ無視していると、きい、とトイレの外扉が控え目に開いた気配がした。 「そーちゃん……?へーき!?いきてんよね!?」 ドアの向こうで弾む環の息が狭い室内に響く。 「たまきくん………」 「よかった、電話、気付かなかった?くすりもってきたよ、開けれる?」 「……ありがとう。下から、いれてくれる?」 「う、ん、つか……普通の抑制剤も飲んだんだよな?」 「ぅん、くさい……?」 「……くさくねーよ、……すごい、甘くていい匂い、でも、」 「ほらね……」 扉の下に空いた隙間から差し出していた瓶が壮五に素早く引き取られたことに驚いた環はそーちゃん?と声をかけた。 返事はされず、ざらざら、と瓶から薬を出した音が聞こえるが、同時にかちゃんと音がして空瓶が隙間から転がってきた。環は目を見開いて、慌ててドアをノックする。 「は……?そーちゃん?全部飲んだ……?あけろ、そーちゃん」 「たまきくんは、アルファだろ」 「なに!?あけろって!」 鍵の空いた扉の中で壮五は俯いたままただじっと突っ立っていた。 その扉を勢いよく開けた環はというと 「っ……」 得も言われぬ壮五の強いオメガのフェロモンにびくっと震え完全にヒートを誘発した。よろけて目を閉じるとその匂いに必死に耐える。環の様子に壮五は抑揚のない声で呟いた。 「ほら……我慢できないでしょ……」 「っなに……そーちゃん…?」 「どうせ、オメガってだけで、僕のこと好きになったんだよ、本当は誰でもいいんだよ」 そう言った無表情のままぼろぼろと零れる涙は、トイレの床にてんてんと染みをつけて、壮五の壊れそうな心の叫びを代弁した。環はその痛々しい姿に強く傷ついたが、どうにかこうにか理性を保とうと歯を食いしばって震える全身を叱咤する。 「なんでそんなこと言うの」 「事実だからだよ。僕のこと犯したいでしょ?今すぐセックスしたいよね?」 「……っ、おれは……」 「抗えないんだよ、アルファとオメガはそういう運命なんだ」 「っんなの、……くっそ……!」 異常なほど冷や汗をかきながら環は戦慄くこぶしを握り締めると突然後ろを振り返りタイルの壁を右手で思いっ切りぶん殴った。び、っと鈍い音がしてタイルに皹が入る。 肩で息をしながら青筋が浮くそのこぶしを、もう一回打ちつける。 「おれは……!まけねえ……!」 「……たまきく、」 「負けない、性別とかアルファとかオメガとか、そんなんカンケーない、んなくだんないことで、おれはそーちゃんを好きになってんじゃない……!」 こちらを向き直った環は強く噛んだ唇から血が滲んでいた。泣きそうに歪んだ顔で、両手を広げる。 「こいよ、しょーめい、してやる、おれは……そーちゃんがやなときには絶対!ぜったいにしない……!」 環の両手がぶるぶると震えていた。理性と戦っている。性別と、血と、必死に戦っている。 なのにそれでも、壮五はオメガの性には勝てないのだ。環は負けなくても、壮五は絶対に勝てない。だって、それが劣勢性の定めだからだ。本当は初めて会った時から、性を抑制していた時から、環と壮五は運命の番であることをお互い本能で理解していた。惹かれあって好き合うことは「運命」の所為だった。 壮五はそれを今更だがしかたのないことだった、と思う。 だから、アルファ性に触れて欲しいオメガ性の欲望に勝てず、壮五は環の胸元にすり寄った。 その強烈な快感に環は苦悶の表情を浮かべながらも、震える手でそっと、そっとだ。きゅっと壮五の身体に腕をまわした。息を吐いて首筋に鼻を埋めると、誘うフェロモンを強く耐えて優しく名前を呼ぶ。 「そーちゃん……」 「もういいよ……ぼくたち運命なんだから……我慢しないで」 「ふざけんな、おれが負けないっつったら負けない、そーちゃんもがんばれよ、オメガ性に負けんじゃねえ、おれのこと、アルファだから好きなのかよ」 「だったら……?」 「だったらじゃねえだろ、ばか……」 そうはいってもオメガに抗えない壮五は、環の血の滲んだ唇を数回ぺろぺろと舐めてしまう。顔を背け泣きながら耐える環の首筋に伝う大量の汗の雫を一つ一つ啄ばんで舐め上げる。 「いいよ、もう、しちゃおうよ」 「よ、くない……好きだ、そーちゃん、大好きだ、大事にすんだよ、だからっ」 「僕も。アルファの君が好き、ね、これでいいだろう、気持ちなんて諦めよう」 「っ…………そんなこと、泣きながら言うな……」 今の壮五はこれからのオメガ性としての人生を、環というアルファと過ごして行きたかった。 もう一人で性別に苦しむのは嫌だった。環をアルファとして受け入れ、アルファとオメガの契りを今ここで交わして欲しかった。オメガとしての快感を今すぐに満たして欲しい。環というアルファとセックスして番になれたら他のことなんてもうどうだっていい。 発情期のオメガである以上、壮五はアルファが欲しいとしか言えなくなる。例え発情が終わり望んでいなかったと後悔するのだとしても、今はもう噛まれたくて噛まれたくて仕方がなかった。 「たまきくん」 しかし、本能に支配されている壮五を、環は絶対に信じなかった。今の壮五は嘘の壮五だと知っている。あとで苦しくて泣くのは本物の壮五自身だ。そんなのは絶対に嫌だ、そう頑なに心を持った環は震えながらも必死に自らのアルファ性を抑制する。 「そーちゃん……」 「好きだよ環くん、噛んでほしい」 「だめだ、ちゃんとほんとのそーちゃんに聞いてからじゃないとだめ」 「ほんとの?今の僕は嘘か?」 「そうだよ」 「……僕の事は、好きになってくれない……?嘘だとだめ?」 「………なるよ、ちゃんとなっけど、今はほんとのそーちゃんを助けてやりたいから。これから嘘のそーちゃんのいうことも、聞いてあげる、大丈夫だからな」 依然震える環の手が壮五の髪を優しく撫でる。先程壮五が抑制剤を飲んだ為か、徐々にだがはっきりと醒めやるヒートに環の余裕が少しずつ出てきた。胸にぺったりはりつく壮五をそっと引きはがすと負けない、キスする、と小さな欲に抗えずふっと一瞬だけ唇に触れた。 「ん、……もっとつよくして」 「だめ」 「環くん……」 「だめだ、我慢してんの、わかれ」 「環くんッ」 辛抱出来ずに壮五は血の滲む唇を大きく塞いだ。びくっとよろけて壁に背をつく環は、むりくりに入り込んだ壮五の舌が口内を丁寧に舐めまわす感覚に身悶えた。 「んッ、ふ、……ぅア…ん……あ、」 「んむ、ん、ん、はあ、たまきくん、すき、すき、えっちしよう、すきだよ、たまきくん」 「やえ、だめ、ぁめ、やだッ……やめろ……やめろっ」 「たまきくん、ぐちゃぐちゃだからすぐはいる、ね、きもちくするから、おねがい、いっかいだけ、」 「そーちゃんっ……!そ、ちゃん、だめだ、だめ…っっ…どけ、馬鹿!」 たまらず環は壮五の熱い身体を押しのけて個室へとかけこんだ。一瞬で理性が吹き飛びそうになりいやだと言いながら昂りを自分で強くしごく。ぶるっと震えながら何度か白濁を零すと、その狂気的な衝動に全身が震える。アルファ性に逆らえない。壮五、或いはオメガをめちゃくちゃに犯してしまいたい。 扉を隔てた向こうで、壮五がたまきくん、と泣き叫んでいるのを耳にしながら環は怖くて怖くて、膝を抱えて泣いた。はやく元に戻ってくれ、じゃないと。また。 「た、ぁき、く…」 突如、その声から濁った音が漏れて環は外の様子に耳を澄ます。ごぼ、とくぐもった嘔吐音が響いた。 「……そーちゃん?吐いてる?平気?」 「っえ、っげほ……おえ、…ぅ…」 もう一度大きく響いたごぼぼ、という音の直後どさと倒れ込んだのが分かった。 急いで扉を開けると、トイレの床に横向きで倒れ込んで痙攣しながら吐き続ける壮五の目がゆらっとうつろっている。 「そーちゃん……!」 床に、服に、消化されていない錠剤が胃液と共に大量に吐き出されていた。 「そーちゃん!そーちゃん、…そ、…そーちゃ……」 「う、ぐ…っえ………」 尚苦しそうにえづいている壮五に環の本能が助けを呼ばなくては、と咄嗟に意識を扉の外へ向けた。 気がつけばもう壮五からフェロモンは出ていない。震える手で、外扉をあけてありったけの大声でだれかと環は叫んでいた。 尋常ではないその様子に、一人の女性がどうしましたか?と声をかけてきたので、なりふり構っていられずその手を強く掴んで助けて!とトイレの中へ引っ張り込んだ。 「……どうしたの?発情期?」 女性は一目で壮五をそう判断すると、さっとかばんを放って環に救急車を呼んで、と言った。 「お名前は?」 「…………、…」 「聞こえている?聞こえていたら、右手を少し動かしてみて」 壮五に反応はない、うっと時折痙攣しては苦しそうに呼吸をつづけた。大量に吐き出された錠剤を見て鋭くこれは抑制剤?と環に投げかける。 「うんっ」 「どのくらい飲んでしまったの?」 「わ、わかんない、でも、瓶の中身、なくなってた…」 「他に飲んだものはある?」 「…ふ…普通の、抑制剤…?」 「普通の…?これはどんな抑制剤なの?」 環は上手く応えられなくてぶんぶんと首を振った。看護師だといった女性は壮五がきちんと横向きになっていることを確認してすぐにスマートフォンで救急車を呼んでくれた。おろおろと立ち尽くす環にも大丈夫よ、と声をかけてくれ、側にいてあげて、と促される。 「……っ…そーちゃん……」 「………」 壮五の白くなった指先に恐る恐る触れると、強い快感は感じない。心地よさだけがじわっと広がって泣きそうになり、環はその冷たい手首を優しく握ったのだった。 壮五が大量の服薬によるオーバードーズをしてしまってから、すぐに搬送先の病院への入院が決まったが、しばらくは面会謝絶で環は何度も病院へ行っては追い返される日々が続いた。 聞くところによると、逢坂家の人間も一切接触が出来ていないようで、事務所に何度か問い合わせの電話がきていた。 そうして誰からもどこからも隔離された壮五はというと、認可前の抑制剤の長期使用による副作用で二週間ずっと強い発情が終わらないでいた。朝も昼も夜も、火照った身体は静まることを知らずに一人きりで永遠に快感と過ごす十四日間はまさに地獄だった。達しても達しても留まる事を知らないオメガ性の鬱憤はまるで七年間の腹いせとでも言わんばかりに壮五をイキ狂わせた。 終始、環のことは頭から離れない。運命の番だもの、当然のことだった。 けれど、今気がおかしくなるほど求めているのはアルファ性への渇望だ。とにかく今すぐに奥まで穿たれたいしアルファの精液を切に欲している。一日に数度やってくる白衣に泣きながら誰でもいいからアルファを呼んで欲しいと懇願してしまう程の欲情だった。 それこそ、死にたいだなんてそんなことを考える余裕も無い毎日ではあったが、徐々に身体から薬が抜けた状態に慣れてくると、通常の抑制剤でなんとか正気に戻れるようにもなったし、食事をしたり、カウンセリングを受けたり、簡単な本を読んだりと、少しづつ逢坂壮五という人格を再形成し始めていった。 いつからか一日の終わりにはカウンセリングとして毎日必ずアンケートをとっている。フリースペースは好きに書いていいことになっていて壮五は一番はじめから今までの全てに決まって環くんに会いたい、と毎日毎日綴った。 それから入院してひと月も経つ頃、壮五はようやっと環の声を聞かせてもらえることになった。面会の申し入れは毎日環から、それと一週間に一度、逢坂家からきていた。知らせを受けた壮五は実家からの申し入れだけは絶対に許さないでほしいと震えながらお願いした。今実家に戻ったら環とはもう二度と会えない気がしたのだ。 代わりに、環との面会を強く希望する日々が続くとその甲斐あってついに今日、顔は合わせることが出来なかったが、外と繋がる内線電話で話をさせてもらえることになった。 「……………」 壮五は、ひと月ぶりの環との会話に対する不安と緊張で既に泣いてしまっていた。 自分がオメガであるというだけで冗談にならない程の迷惑をたくさんかけてしまった。環にだけじゃない。事務所にも、仕事先にも。 それでも今日まで欠かさず毎日毎日訪れてくれた環はきっと優しくしてくれるのだろうと思う。もう疑うことは出来なかった。オメガだから、否、環がアルファだからというだけで壮五を好きでいてくれるわけじゃないということを壮五はちゃんと冷静に分かっていた。 「……そーちゃん?」 「た、たまきくん……」 「なにもう泣いてんの?へーき?」 「っう、ん、ん……いろいろとごめんなさい、あ、いたか、た……」 「……うん……ごめんな、話すのにも時間かかったな」 久しぶりに耳に届く環の穏やかな声音には心の底から身体中が満たされた。発情はしていないけれど会いたくて会いたくて、激しくしゃくりあげながら温もりを求めてしまう。 そんな壮五の様子に、環も苦しそうに何度もごめんな、と呟いた。 「そーちゃん?」 「…んっ…」 「出れたらどこいこっか?もう夏終わっちゃうよな。今年海いこっていってたのにな」 「……ぅん」 「多分会えんの秋だし、なんか美味いもん食いいく?一緒にさ」 「……」 「はやく、ぎゅってしたい、ふつうに、…普通に、ちゅーしような」 環の言葉に壮五は堪え切れずにわんわんと声を出して泣いてしまう。オメガ性である自分は、普通に恋人とキスをすることすら難しいのかと思うと、いっそこのまま死んでしまいたいぐらい悲しかった。 そうすればこの性別から逃れられる、オメガという恐ろしい人生から、解放される。それを口にしてしまいそうになって、壮五はかぶりをふった。こんなことを言ったらきっと環は悲しむだろうから。 「する、……好きだよ、アルファじゃなくても、だいすきだよ……」 絞り出したその言葉は精一杯の虚勢だ。オメガはアルファを決して裏切れない。 壮五の目からぼたぼたと涙が落ちた。 「なあそーちゃん?」 「………うん…」 「性別関係ないよ、まあ、関係あってもなくてもどうだっていい、おれはオメガの嘘のそーちゃんも、いまのほんとのそーちゃんもどっちも愛するから、オメガだからって嫌いになんてなんないからさ」 「っ……」 「番になろう。怖がんなくていいよ。おれ、どんなそーちゃんも絶対に守るから」 おれと生きよう、と環が声を詰まらせた。 環は、救急車の中で壮五が意識を取り戻した際に、あの薬がないと普通の生活が出来ないとひどく取り乱したのを忘れられずにいた。 勿論、薬のおかげで環と壮五が性別のコンプレックス抜きで心から愛し合える関係を養ってこれたのは十分理解していた。けれど、そんなに長く発情期が来ない身体というのは平気なのだろうかと環はずっと心配していた。 認可の下りていない薬。いつか大変な副作用が出て、壮五が苦しむ結果になるのではないかと思えてやんわり辞めさせようかと思っていた矢先だった。 つまりは簡単なことだと思えた。環と番になれば、壮五のフェロモンは環にしか感じられなくなる。オメガの特性である発情期に壮五が苦しむというのなら番となった環が都度慰めてあげればそれでいいはずだ。 例え、壮五がその度にオメガ性に苛んでも、だ。 環はいくら発情セックスと言えど番になった自分さえ理性を保っていてあげられれば、壮五を守ってやることが出来る、そう思った。果たしてそれがアルファとしてどんなに難しくて苦しいことでも、環は負けたくなかった。 性別だろうが運命だろうが、壮五を好きでいることの理由がなんだろうと構いやしないのだ。オメガだから好きなのだと詰られても、壮五がそれで納得するなら頷いたってよかった。 とにかく、壮五を安心させて楽にしてやりたい、それだけだった。 環の目論み通りの秋の頃、壮五はやっと病院から出ることを許可された。 まだ退院には程遠かったが、ようやく日帰りで外出が許された。病院では発情期を綿密に管理されていて、少しでも前兆があればすぐに引き返すようにと環は医師から念押しされていた。 これまでは、数回の通話のみの面会から、対面での面会が出来るようになり、院内の散歩を許され、と今日に至るが毎回壮五の調子は悪そうだった。おまじないのように通話口では環くんに会いたいと繰り返し、会えたら会えたで触っていて欲しいと時間の限りずっと手を握って過ごした。 アルファに囚われている壮五のオメガ性をどうすれば安心させてあげられるのか、今の環にはまだ分からなかった。セックスしてキスでも出来ればいいのかと思うが、それは医師から断固禁じられている。 それでも、今日は二人で静かな場所でゆっくり過ごそうと、郊外にある高台にレンタカーを借りてきていた。外の風を浴びて眩しそうにする壮五は心無し晴れやかな顔に見えた。 「誰もいないね。そういえば、仕事はどう?」 「そーちゃんいないから、メッゾの仕事やべーんだけど。はやくよくなってくれ」 「……うん、一人でやらせちゃってごめんね」 「頑張ってるつもりだけど、やっぱおれだけじゃ不満みたいだぜ。皆そーちゃんはどう?ってすっげえ言ってくる」 「そうか……心配かけて申し訳ないな」 そう零す壮五の口ぶりからすると、アイドル稼業をやめるような気持ちにはなっていないようで環は少し安心した。 面会時から時折ふと漏れる壮五のオメガ性への恐怖は、日毎に生きる気力をも失わせてしまいそうでいつか何もかもが嫌になってしまわないかを環はいつも不安に思っていた。 眼下に広がる街並みを遠くに見ながら、壮五がたまきくん、と呟いた。 「ねえ」 「……ん。なに?」 「今発情期になったら、僕のこと噛んでくれるか?」 「…………いいよ」 「じゃあ……今、セックスしたい」 環は黙って首を振った。壮五は見ないふりをしてキスは?だめかな、と続ける。 「したいけど、だめだって言われてんだからだめだろ。退院できなくてもいいの」 「……いいよ」 「そーちゃん」 環は投げやりな壮五の言葉を窘める様にして、薄い背中に手を置くと途端壮五はぽろぽろと涙しながら遠くを見詰めたまま、怖いよ、と言った。 「発情期がきたら、また環くんに我慢させてしまう……」 「番なったら我慢しなくていーじゃん。好きなこといっぱいしてやんよ。嘘のそーちゃんもめっちゃ幸せにすっからさ」 「アルファの環くんが怖い」 「……それは……はじめてきいた。怖い?」 「僕、昔、初めて発情期が来たとき、アルファの同級生にレイプされてるんだ」 「……」 「すごく、怖かった、目は僕のことなんか見てないのに、オメガの僕をぐちゃぐちゃにしてあっという間に食べちゃうんだ、乱暴にされているのに痛くない、すごく、すっごく、気持ちがいいんだよ、アルファとのセックスに、僕は本能じゃ勝てないんだ、だから、だからね、はやく環くんと」 「そーちゃん……」 「ずっと、環くんだけにずっと食べていて欲しいんだよ、一生、発情期じゃなくっても」 「いいよ、ずっと一緒にいる、だから泣くな」 「いまっ……」 「……………」 「今しよう、それで噛んで、お願いだから」 何故壮五が今になって急に番に執着するのか環にはいまいち分からなかった。 壮五が望むのなら退院して、或いは医師の許可を得たらすぐにでも番になったって構わない。でも今は医師の言いつけを破ってしまったら壮五の拘束期間が延びるだけなんじゃないのか。 それに発情期でもないのにうなじを噛んだって意味がない。何も番えないのに。環は仕方が無いのでぎゅう、と後ろから抱き締めてこれで勘弁して、と囁くと、壮五は俯いてやだ、と言った。 しばらくそのまま佇んだ。壮五の手が環の手に触れ心細そうに掴んだのをきっかけに環はそっと離れた。 「……腹減ったよ、そーちゃん。飯食いいこうぜ」 「……」 「そーちゃん?」 「環くん……」 次の瞬間、環は急な激しい眩暈で一瞬くらっとよろけた。鼻腔から脳に向かって真っすぐに何か物凄く甘美な艶い香りが一直線に突き抜ける。 この感覚は。でも、そんな、まさか、 「きちゃう、ごめんね」 環はぐちゃぐちゃに困惑した頭で咄嗟に壮五を見遣ると案の定、発情の愉悦でうっとりとしながらやっと欲しかったアルファ性つまりこちらをじっと見詰めていた。 突然の強いヒートにうろたえる。嬉しそうに小走りに近づいてくる壮五から逃げ出さなければならないのに胸に飛び込むその身体を、意味がわからないくらい甘くておいしそうなその香りを、環は受け止めてしまった。 「たまきくん、やくそく、今発情期なったら噛むっていったよ」 「っ……ぅ……」 「セックスしよう」 ガタガタと震える環を壮五はまるで愛おしそうに撫でつけると、そのまま二人砂利道にへたりこむ。問答無用で壮五の熱い唇が耳や頬や口に次々と軽いキスを落としていくと気持ち良過ぎて全身の力が抜けていく。抵抗の術なき壮五の強烈なフェロモンに環は文字通り悶絶する。 「すき、すごく、大好きだよ」 「っあ……」 「いいよ、乱暴にして、環くんが好きなようにして」 「……は、……ぅ、…」 尚もゆっくりと唇を舐めとられ、堪えていた環はもう何だかどうでもよくなってきてしまう。大事にする、何を。嘘のそーちゃん、どっちが。噛みたい、はやく、強く、自分だけのものにしたい、このオメガを。 環は塗りたくられていくアルファとしての思考に溺れていくのが分かった。ブチっと音をたてて自身の唇をかみしめると、絡む壮五を跳ねのけて運転席まで必死になって辿り着いた。助手席に置いてあったバッグへ縋りつき念の為だと医師から預かっていたヒート専用の鎮静剤を急いで探り封を切る。 おもしろいぐらいに手が震えている。腕に押し付けると先から細い針が突き出て薬が投入される仕組みだったが、痛みなどまるで感じなかった。すぐにじわっと頭の中のもやが取り払われていく。即効性に優れているが、十分しか持たない。そう医師から言われたのを思い出す。 その瞬間、助手席にのりこんできた壮五が弱く血の滲む左腕を掴んでれろれろと舐めてからそのまま再び唇をふさいでくる。先程よりかはいくらかハッキリとした頭の中でその蕩けた舌を捉え絡め取るとやっと環は主導権をもぎとった。 「ん、ッ……」 おかしくならないほうがおかしい。壮五の舌はむせかえるほどに甘くやわこくて、零れる唾液も首筋も全身が砂糖漬けになっているかのようにどこもかしこも甘いのだ。興奮して汗だくの壮五が淫猥な手つきで環の昂りを撫でてくる。 「……はあ、は、っは……そーちゃん、だめっ」 「だ、め、じゃない……するの……」 「しないからっ……はやく薬のんでくれよっ……」 「っないよ」 壮五のその言葉には環の全身からサアと血の気が引いた。 「ない?は……?なんで、」 「さっき、薬局、何買ったと思う……?」 「…………」 環は言われてぎこちなく足元を見遣るとぞっとした。壮五のバッグから覗いていたのは誘発剤という文字だった。自ら発情を誘発したというのだ。つまりは全部、壮五の望みだった。 絶句した環に壮五は狂った眼差しで訴えかけた。逃げないで欲しい。受け入れて欲しい。堪え切れない程のこの地獄からどんな形でもいい、助けて欲しい。 環という「アルファ」に。 「噛んで。僕、うそじゃない僕がちゃんと言ってただろう」 「……っそこまでしてなんで……」 「環くんに食べられて無くなりたいんだよ」 「何いって、っじゅ、じゅっぷんしか鎮静剤もたないんだぞ……!」 「……言っただろう、無理だって。勝てないって。悪い事じゃないんだ環くん、だって君は優勢性のアルファだから、そして、僕が運命で、劣勢性の、オメガだから」 するっと首に手を回されて狭い車内で密着し合う。熱い身体に触れると、触れているだけなのに気持ちいいのだ。これに抗えるアルファ性が果たしていると言うのだろうか。 環はもうやめられない、とようやく腹を括った。今触れているのは紛うことなき自分の運命の番でありオメガ性である。だが、壮五だ。守りたい、と本気であの時思った、愛する人。 だから、するならちゃんとしたいと思った。お互い性別に翻弄されたとしても、自分だけは納得して番になろうと努力する。 いい加減窮屈なので後部座席に行くよう環が促すと、壮五は緩慢にドアを開け大人しく後部座席へと移動した。これで二人の障害は何一つない。壮五が恍惚に微笑んだ。 「はあ、ずっと、待ってた……あたまがおかしくなっちゃうかと思った」 「もーなってんだっつの、ばかそーちゃん」 向き合ってしっかりと抱き合うと環はほんとにいいの、と壮五に囁く。 「後でほんとのそーちゃんが泣いたってしらないかんな」 「泣かないよ、だって発情期来る前だったじゃないか。僕が望んでるんだ」 すりすりと全身を擦り付けてくる壮五を窘めつつ、シャツのボタンを丁寧に外していく。肌着をたくしあげ痩せたその胸に舌を這わせた。ちゅ、ちゅ、と吸う様に口付けると壮五は敏感に反応しながら環の肩口をぎゅっと握りしめる。 「…ぁ、…ゃ……きもちいぃ…」 「っマジむかつく、絶対またしばらく会えないんだかんな、」 「ぅん、ぅ、……ん、ん」 「いいのかよ、そーちゃん」 「……い、ゃ、ずっといてほし…」 「だろうがよ、なんでこういうことすんだよっ」 「っ……さわって、ちゃんとここいれて、ね、おねがい……!」 「聞けよ……!」 言いながら壮五のズボンのホックを外し腰を抱き寄せるとズボンを膝下まで下げぐちゃぐちゃに濡れた下着の上から入口辺りに指を優しく押し込む。 びくんと過剰に反応した壮五の腰が大袈裟に揺れた。 「……いれんのな?」 「あ、う、うん、うん!……いれて……!」 興奮からはあはあと早くなっている壮五の呼吸を宥めて、環は自らのホックを外す。壮五がすかさずジッパーを下げて浮かせた環の腰からジーンズを足首まで下げた。そのまま環の昂りめがけて吸いつく様に頭を寄せると、はっきりと形を成すそれを下着越しにべろべろと舐め上げる。 「……いーもう、いれられるよ、上きて」 「はあ……は、はあ、たまきくん、たまきく……」 壮五の足首からズボンを抜いて下着も下げて引き抜いてやると、もどかしそうに身体を捩る壮五は環の上に跨りいれて、としがみついた。 甘い匂いが互いの脳を揺さぶる。じっとりと濡れた壮五の入り口を指先で探し当て、熱い先端をあてがうと待ちきれない壮五が自らゆっくりと腰を沈めながら身悶える。 「…ああ、あ…う……きもち、あ、…ぜんぶ、ぜんぶいれて、ね」 「………っいれてんのそーちゃんだし…、んだこれ、やば、」 「おくに、おくまでほしい…」 「っっ、や……うあ、待って、すげ……イ、きそッ」 「中いっぱいほし、ねえ、ね、たまきくん、たまきく……」 「あ、ッちょっとま、うごくなって、待って!」 「おくついてほしい、動いて欲しいっ……」 「っ……で、るっい、……くっ」 ビクっと環が跳ねた瞬間壮五の喉が逸れ、中に零された感覚で身体が強く痙攣する。環は鎮静剤が徐々に切れてくるのがよく分かる。壮五の淫らな香りがどんどん濃く深くなってくるのだ。堪らなくなって震えている壮五の身体を掻き抱く。 「……くそっ、めっちゃきもちい、どーすんのそーちゃん、おれ薬切れるよ」 「い、ッよ…ん、めちゃくちゃに、して……」 「……インランっ、嘘のそーちゃんドへんたいだな……!」 「っ……あ、」 「奥突くよ、いい」 「い、……」 ぎゅっと壮五の身体を抱きしめ固定したまま環は腰を振る。動けない壮五はいいところばかりに当たっていて過ぎる快感から逃げることが許されず泣き叫びながら幾度もオーガズムを超えた。 「あああ、あ、あ、あっだ、めあ、いやっだめ!いってる、い、あっ……!」 「やれっつってんのそーちゃんだかんな、やめねーぞ…!」 「やっ、あ、ゃめ、ないで、!やめ、ぃ…く、いっ、たまきくん、いぃくっ」 「いーよ、おれもいーよな…!」 「ん、うん、うん…、っん、ふ、うあ、あっ!」 環はそのあまりに気持ち良すぎる快楽が恐ろしくて泣いていた。身体が本能で壮五を欲している、壮五の匂いで腹いっぱいに満たされたくて、もう食べるところなどないのに骨までしゃぶりつくしたくてたまらない。食べられちゃうんだよ、といった壮五のまさにその言葉通りの暴力的な性衝動に、環はどうしたって勝てないのだと思い知った。 抱きかかえていた壮五から根元まで入っていた昂りを引き抜くと、シートに壮五を押しつけて後ろから再びゆっくりと割り込ませる。壮五はその感覚に自重を支えきれずに肘から折れたが環に持ち上げられ腰を高くあげたまま嬌声を続けた。ずぶずぶと奥を突かれて錯乱する。 「っは……はあ……ごめ、ん、ごめんなそーちゃん」 「あ、ぅ、いく、待って、環くんっう、待ってほし、いまだめだから、い、まっイ……」 「……っごめ、ごめん、ごめん……」 「っ……っ、っ…………!」 「っ、そーちゃん……、…」 「……はー、は、はっ……だめ、いって、んッ、る、っから…」 「すき、好き……、そーちゃん……止めてくれ、お願い、したくない、もういやだッ……」 「い、……っ……」 「っ噛んじゃうから、どうしよう、そーちゃんっ……」 我慢できない、と環が泣きじゃくりながら壮五の肩を甘噛みして必死に堪える。優勢性の環が勝てない本能に劣勢性の壮五が無論勝てるわけがなかった。 再び緩く腰の律動が始まり、脳までもがだぶだぶと揺さぶられる。もう受け止めきれないので考えないことにする、ただひたすら快感だと思うしかない。環が必死に噛んでいい、と幾度も幾度も聞いてくるのは分かるのだが、壮五には受け答えできる余裕が一ミリもなかった。 「そーちゃん……!」 「っあ、あ、ぁ、あ……だめだ、またッ……」 「っ噛むよ!いいのかよ……!」 「う、っあ……いっちゃぅ……」 「そぅ、ちゃ、ん……」 底なしの快感を追うのを自分ではどうあっても止められない環はそれでも壮五がいいと言うまでは絶対に噛むまいと、理性の最後の細い一本を必死に必死に守っていた。どうしようもないこの衝動を我慢できているだけ凄いと思って欲しかった。負けているが、守っている。勝てないが、許されたかった。 誘発剤を使用した本来の周期でない発情の為、効果が切れれば当然その衝動も弱まる。その影響で頭が幾分か醒めてきた壮五は発情が終わってしまったら番になれないことを急に思いだして環くん、と呼びかける。 「そーちゃん……」 「環く、んっ」 「噛みたい……っがまん、もう、」 「いい、よ」 「……いいッ……」 「うん、いいよ……」 苦しそうに泣き喘ぐ環の声にぐっと上体を起こした壮五は震える手を首筋に伸ばすと、ここ、と告げた。 環ののどがゆるく大きく上下する。束の間の理性の狭間。 「いいのか……」 「……うん」 「ほんとなッ……」 「う、んッ……」 環は大粒の涙を流しながら、震える唇でうなじにキスするとその美しい白い肌に、自らの歯型をがり、とゆっくり刻んだのだった。 つづく 綺麗な美しい蝶だと思った。 向こうが透けて見えるぐらいに薄っぺらくてキラキラと光り輝く燐粉を散らし環から遠ざかっていく。 欲しくてたまらなくなって、その行方をはじめは目で、次第に跡を追い気がつけば全速力でその姿を追いかけている。ひらひら、ひらひら、蝶は頼りなく上下して環を弄ぶかのように周辺を艶やかに舞った。 だが、どうしてかどうしても追いつけない。かわされ逃げられもう夢中になって手を伸ばし掴むのか叩き落とすのかその頃には見境の無い自らの両手が乱暴に空をきる。 その欲望が果たして何にあたるのかを、やっと掴んだ、否、掴んでしまったその手を開いた瞬間気がついてしまうのだ。 砕けた硝子の羽根。ばらばらになってしまったその残滓は環の手の平を細かく鋭く傷つけた。 手の平を汚す生の残骸。血だらけの手の平の上で虚ろに見上げた硝子の虫の目が訴える。 ――――もう少し弱く。でなきゃ、死んじゃうよ。 「大丈夫。僕、性別はオメガだけれど、発情しない身体なんだ」 慣れない収録現場の楽屋で弁当を食べている途中で、環は壮五の顔をまじまじと見つめた。 話のきっかけは「オメガとは相方を組めない」という申し出を社長にする許可を壮五から得ようとした環の「発情期いつ?大体わかんでしょ?」という言葉からだった。 「発情しない?どういういみ?」 「……内緒に出来るなら教えるけれど、言っちゃいけないこととかすぐ言ってしまうだろう」 「はああ?」 「とにかく、こればかりは今は言えないけれど、事情があってもう何年も発情していないんだ。だから、メッゾとしての活動に支障は絶対にないから。事情を言えない僕が言うのもなんだけど、信じて欲しい」 「……」 呆れながらから揚げを頬張った環だったが、よくよく考えてみたら確かにこの半年で壮五に発情期がきたことは無かったかもしれない。 「するよ。内緒。できっし」 「……でも、今は……言えない。ごめんね」 「えー。むかつくな。いつならいいん」 「いつ、か。ふふ、ええとね。まずは時間を守れるようになったら。あときちんと挨拶出来る様になったらかな。それから、台本事前にチェックしたりね、」 「あーもーーんないっぱい一気に言われてもできない!」 「一気にする必要ないよ。ひとつずつ、出来る様になっていってくれたらいいんだよ」 「いや、てかそれいつになんだよ、そーちゃんの内緒聞けんの」 「さあ。環くん次第じゃないかな」 うまくはぐらかす壮五がふわっと笑ったその顔を環は出会って初めて「好きな顔」だなと思った。 その笑顔がもう一度見てみたくて、壮五の言う約束を環は精一杯出来る限りで頑張ってみた。すると「エライね」という言葉ととても嬉しそうにしてくれた壮五の笑顔は、壮五のことをオメガだと強く警戒していた環の心を段々と溶かし解きそして強く支配していった。 壮五の言う通り、それから一年経っても二年経っても壮五に発情期は来ず次第に壮五がオメガであることを度々忘れてしまうほど環は壮五のことを相方として、一人の人間として、受け入れていった。 元はと言えば行方不明になった妹の理を探すために芸能界に飛び込んだこともあって、周囲からどう見られるだとか自分の目的以外の事に悉く関心の無かった環だったがある収録の事件をきっかけにして壮五が自分のことを「見ていてくれている」と意識し始めてからは、これは本当に無意識だ。 この「オメガ」のことを生涯「守りたい」と「本気で」思った。 だから、壮五との初めての性的な行為はとても緊張した。 もし性行為中の何かをきっかけにして万一壮五が発情してしまったら、もうこんなに深く愛してしまっている壮五のことを見境なくただただくだらないヒートの衝動なんかで噛んで傷つけてしまうかもしれない。望まない番の欲望を本能のままに満たそうとしてしまうかもしれない。そう思ったら怖くて手が震えた。 初めてじゃない、お互いそう言っていたのにあまりにぎこちなく遠慮がちに触れる環にあてられて壮五の身体も強張ってしまった。 「……やばい、どうしよ……震えてる、アンタのことほんとは傷つけたくない……」 「……だいじょうぶ、僕だって男だよ」 はにかんで笑ってみせた壮五がぎゅっと手を握ってくれたのを境にして複雑に折り重なった二人の「運命」がここでようやく表だって動き始めた。 身体を重ねる度に深く心地良くまるで溶け合ってひとつになっていく様な感覚が「アルファ」と「オメガ」であるせいだなんて環は微塵も思わなかったし懸念していたような事態に陥ることは勿論、そんな気配ですらも壮五からは漂わなかった。 理性のある身体の繋がりは心から安心できた。ベータ同士の恋愛なんかはきっとこんな感じなのだろう。二人でベッドに横たわりながらバース性や性別の高い高い障害を忘れて色んなことをあけっぴろげに話すのは間違いなく幸せな時間に違いなかった。 それからほどなくして恋人として付き合っていくということをメンバーと事務所に正式に告げてからは、壮五の部屋に寝泊まりすることが多くなった環だったが或る時やはり壮五のルーティーンに気がついた。 「それ何の薬なん」 ぴくりと動きを止めた壮五が持っている茶色の瓶は、思えばいつも机の決まった場所に置いてあった。 大抵の私物をきちんとどこかに仕舞う壮五にしてはいつも剥き出しのままだしっぱなしにしていた物だったので言われて見れば違質な光景だ。きっと忘れたらいけないからなのだろうけれど。 何も答えないのでそっと近寄って覗きこむと、黄色の蓋には「12」とただ数字だけが壮五の字で書いてあった。 毎朝必ず、絶対に何があっても決まった時間に壮五はこの薬を飲んでいた。 「……」 「そーちゃん?」 「前に」 「…………」 「発情期が来ない事情を言えないって言ったことがあるよね」 「ああ、うん」 「これから言うこと、絶対誰にも言わないって約束してくれ」 神妙な面持ちで真っ直ぐにこちらを見た壮五はやはりどこかおびえた目つきで瓶を握りしめた。 壮五から薬の経緯と、未認可の説明を回りくどくされてからというもの、環の心は実に曇った。だいいち、今日までで七年も毎日欠かさずこの得体の知れない薬を飲み続けている壮五の身体は本当に大丈夫なのだろうか。 それから、いくらバース性に影響されないことが二人にとっての幸福だからと言って、身体のことわりをねじ曲げていつか大変な思いをするのは壮五なのではないかと大変不安に思えた。 それを素直にそう言ってしまうのは、環の良いところであり無神経なところでもあった。 見る見る険しい顔になった壮五が眉根を寄せる。 「だって、じゃあ、……僕が薬を飲むのをやめて発情してしまっても君は僕のことを僕として見られるっていうのか?」 「…………」 「そんなこと出来るわけないんだよ、環くんは今の僕が好き?僕は、今の僕が好きだ、だから、」 「……分かってるよ、でもさ、」 「っ分かってないよ……!」 「そーちゃん……」 「オメガとして発情したら、僕は環くんのことアルファとしてしか見られなくなってしまうんだよ!いいか、ぼくたち普通の人間じゃないんだよ!アルファもオメガも、普通の生活なんて、普通の、生き方だなんて、そんなの出来っこないんだよ……!僕たちがそうである限り、死ぬまで、一生、バース性に縛られて生きていくんだ、そんなの嫌だ、嫌だから、これがないといけない、君が何と言おうと僕は君とずっと一緒にいたいからっ……飲むのは絶対に、やめないから」 息を弾ませて取り乱す壮五の言い分は勿論、苦しい程理解出来た。 何故なら逢坂壮五という発情のないオメガとの運命の恋を知るまでは優勢性が一体この世の何に優れているのかを環はずっと疑問に思っていた。アルファにとって切り離す事の叶わないオメガという弱い人種の生き方のことをこの世界で最も毛嫌いしていたのは環の方だったはずなのだから 環はこれ以上何を言ってもきっと壮五の負担になるのだろうと思ったら口を噤むしかない。かわりに震えている手を引いて身体を引き寄せると「そんなことない」と心の中でどんな壮五でだって心から愛することをこの時一人誓ったのだった。 「……ッ……」 強く噛んだ環からの契りの衝動で声もなく大きくびく、と一度震えたあとからは徐々に醒めゆく発情の興奮に弄ばれ壮五も、また、環もその場でただ茫然となった。 刻んだ噛み痕から震える口をそうっと離すとゆるく透明な糸が引いてふつんと途切れてしまった。 荒い息、狭い車内、燃える様に熱いお互いの濡れた身体。甘い匂いがゆっくりとだが意識から遠のいて行くのが分かる。 「…………」 環はこの惨状に無意識に冷や汗をかきながら重なり合いそうな悪しき記憶と濃淡の曖昧な現実の狭間で一人怯えていた。 番になるということは一生壮五の側にいるということ。例えば望まれなくてもそれは消せない刻印だということ。既に一度"誤ってしまっている"環にとって壮五の言い分は絶対に辛いものになるのだと思った。 後悔している、とそう言われてしまうのに恐怖を感じている。 壮五はというと、まだ息が整わず華奢な肩を大袈裟に上下しながらシートへと突っ伏していた。 未だにぐるぐると身体を巡っている番の契りの強烈な快感で甘イキを多数繰り返しながら本来幸福でなければならないその衝動をやはり飲み込みあぐねている。 無事に番えた。だけれど番うのがゴールじゃない。壮五のオメガ性に対する強固な憎しみはどんな苦しみにも勝ってしまうのだから致し方ない。オメガ性なんかに産まれてこなければ。オメガ性なんて自分の中から消えて無くなってしまえば。 やっとのことでそれらの舞台は整った。条件の全てをクリア出来たなら、やっと環と本当に一つになれるのだと壮五は信じた。 「環くん」 そのとかく不穏な壮五の声音は環の嫌な予感を増長させる。 返事はせずに苦しそうな身体を優しく撫でてから引き起こして何を言い出すつもりか知れない唇をそっと強引に塞ぐ。言わなくていい。だってオメガの壮五でなかったら、この運命は成り立たなかったのだから。 ひとしきり受け入れてくれたが、深くなる前に首を振った壮五は頑固な瞳でこちらを睨んだ。 「……番を、」 引き攣った喉からかいしょうしてほしいと擦れた音が漏れ同時に壮五の目から涙がどんどん溢れ出た。 言う方も辛かった。言われる方が絶対辛いと思っていた環は悲しいのイチバンを壮五に譲ることにした。ニバンメに悲しい環だから壮五を抱きしめて温かい頭を撫でると不思議と悲しい気持ちが半減した気がした。 「そんなことしなくても、おれがなんとかするから」 声を殺して堪えた壮五が詰まった声でできない、と呟く。 「かいしょ、う、したら、僕もうオメガじゃ、なくなるから、だから、ずっと、」 「オメガでいいって」 「よくな、っ……」 「だってアンタがオメガじゃなかったら、おれたち番になれなかっただろ」 「っ…………」 「そーちゃんが苦しかったのはおれと出会う為だったんだって思っても、いやだ?」 「……だって、環くんがっ……オメガとは、一緒にやれないって、い、言う、からっ……」 壮五がとうとう涙に濡れた嗚咽を漏らすのであやすようにして抱きしめ直した環だったが正直驚いてしまった。バース性に疲弊した学生時代の話は山ほど聞いてきたがそのどれをも差し置いて壮五が重んじたのが環の一言だったとは。ここまで壮五を追い詰めてしまった一因がまさか自分にあったのかと思うと環は自らの過去の過ちを今まで一度も吐露しなかったことを心底後悔した。 「……おれが言ったから」 「ん、オメガ、世界で一番キライだって、言ったから……」 「……そっか……ずるかったな、おれが内緒にしてたのが悪かった」 「…………」 「そーちゃん。おれが嫌いなのはオメガじゃない」 環は僅かな空白ののち、アルファのおれだよ、と俯いたのだった。 (ビードロの蝶々-2-) かつて、環が預けられていた施設におけるアルファという性別は環一人、そしてオメガもただ一人だけだった。人口の割合を見ればその比率は決して特異とは言えず稀少な存在になりつつあるオメガという性別の子供が施設に受け入れられる件が稀と言えた。 大多数の団体においてはオメガ専用の里親会が牛耳る保護施設があるのでそちらへ誘導するか受け入れ自体を断るのが常であったし、それはオメガ程ではないにしろアルファという存在においても似た様なものだった。 アルファを血統として求める人間からすれば、遺伝子の有無など正直どうだって構わないという考え方が多いためだ。アルファ同士での血縁を最優先に考える大企業の所謂セレブな層に万一にでもオメガやベータが生まれようものならば。 出生の詳細は知らないままであったが、環と同じ歳のオメガは透き通るような白い肌と深い漆黒の髪と目の美しい少年だった。あどけなさの中にもオメガ特有の危うい繊細さを湛えていて誰がどう見ても「守るべき対象」に違いは無かった。 一方、施設内では珍しいアルファの環はというと上流階級に多い血統のアルファ性とは違い、ベータの両親から生まれた異端なアルファ。 法則もメカニズムも分かっていないがベータ同士からアルファや或いはオメガの性別を持った子供が生まれることは極めて稀有で特異だった。 一般家庭に突飛に生まれ落ちたアルファであった環は果たして一体「一般的なアルファ」で居られただろうか。 答えは無論NOだ。 環の父は酒乱、ギャンブル癖のある男であり、母はいつでも優しい人だったが夫の暴力に悩んでいたせいか突如病に倒れそのまま還らぬ人となってしまった。母の没後に父が行方をくらましたお陰で施設に入れられることになったわけだが中身がどんなにいい血だったとしても産まれるところを間違えてしまっては何の意味もない。 施設育ちのそれでも"アルファ"であった環のことを、羨む人間など到底居るはずもなかった。 そんな中、九割を占めているベータの中にこれまたたった一人、環と、オメガと同じ歳の子供が一人だけ居た。 三つ年下の妹である理が里親に出されたすぐ後から二人とはよく一緒に居る様になり所謂親友といえるほどの仲良しになった。 自分がアルファであることを良くも悪くも重要視してこなかった環だったが性質上施設内ではいつでも集団のお兄さんだった。 性質上というのもアルファとしてということであり、オメガは無意識のうちに守るべき対象、果ては自身の番にすべき対象として本能的に保護する傾向にある為必然的にオメガの彼は環を頼りその時はまだ「人」として好意を持っていた。 ベータの彼も同様だ。物怖じせずにいつも堂々としている環のことを素直に三人の間のリーダーだと認識したしオメガの彼はベータの彼にとっても守るべき対象、つまり自然とアルファ、ベータ、オメガの順に力関係が決まっていった。 環はそうせざるを得ないとはいえ自分がアルファだからという理由で二人の前に立っていたわけではない。ただ、お兄さんとして、弟を守るという意味で先頭にいただけだ。性別に優劣は感じておらず、例え無意識だったとしても自分よりも弱いから自分が守らなくてはという気持ちに忠実にいただけだった。 あくる日のあの日環は十四歳の誕生日を迎えたばかりだった。 施設からのプレゼントは昨年と同じ図書カード。誕生日がくるまで買うのを我慢していた漫画を親友の二人と買いに行く約束をしていた。 通っている学校は三人ともばらばらで中でも施設に程近い学校に通っていた環は常に二人よりも帰宅が早かった。何の気なしに昨日と変わりない施設の門をくぐったところで突如今までに嗅いだ事のない「美味しそう」な匂いが鼻孔をくすぐった。 何とも例えようが無い。とにかく美味しい匂いだ。空腹に漂う御馳走の匂い。世界一いい匂い。だが我慢が利かないと分かってしまう程頭の中がその匂いに満ちていくのを環の最後の理性では"恐怖した"と記憶している。 匂いにつられてふらふらと建物の裏側に回る。トイレの換気扇のパイプ。表側と違って薄汚れた白い壁。じとっとした薄暗いそこには種が零れたのか野生の水仙が咲き乱れていた。 その鮮やかな黄の真ん中でこの施設にたった一人しかいないオメガ性の彼がきつく胸を抑えて震えていた。真っ赤な顔でこちらを見上げる潤んだ瞳のなんという艶。 「……環………」 全身の産毛が総毛立つ。その時既に環の本能はこの喉にひりつく甘ったるい香りの根源が「彼」から発されているのだとこれ以上ないほどハッキリと理解していたのである。 「………――…」 名前を呼んだだけのつもりだった。まるで棺桶の中に横たわる様にたくさんの水仙に埋もれたオメガの彼を自分が押し倒していると分かったのはずっと後だ。気がつけば夢中で彼の唇を食らい、シャツのボタンを引きちぎって薄い胸を露わにしている。その速度についていけない頭と気持ちがバラバラになる。 性教育を受けた次の日からオメガの彼は番防止の黒い首輪を常にしていたはずなのに、あろうことか今はそれが無い。露わな首元にじっとりと汗が滲んでいる。 いけないと分かっているのにその焦燥で焼け焦げそうな環の心がアルファの本能を止められないことに狂いそうな恐怖心を感じていた。 それもそのはず、発情したオメガのフェロモンは動物的に環というアルファを誘っているにすぎず、生殖に感情は無用。番になるのに秩序など関係がないのだ。 ほぼ無意識でどろどろに解れたその入り口に昂りをあてがうと、無論初めての性交、オメガの内壁を貫いた。 ビビっと電気が走ったかのように背を逸らしたオメガ性は息をするのを忘れた様にあ、と言ったきり全ての反応が停止する。そんなことに構っていられないのは環のほうで、華奢な腰を掴みオメガから溢れる潤いだけで大きく出し入れを繰り返すと、まるでスイッチの入ったおもちゃだ。オメガは狂ったように嬌声を洩らし始めた。その声に強烈に煽られわけがわからないまま中に興奮をぶちまける。 なんだこれは。何が起こっている。なんでこんなことに。 混乱の最中オメガが必死に制止を甘く漏らすがまさかそれで終われるはずもない。 理性の振り切れたアルファの本能が早急にオメガのうなじを噛むつまり彼を番にすることを強く望むとそれを敏感に察したオメガは激しい息使いの中でいやだ、助けて――とベータの名前を叫んだ。 ――、――、何度も何度もその名前がオメガの喉から零れる度に、環は心の奥底でなんて自分はひどいことをしているのだろうと激しく絶望した。 ――と――は先日環に交際の報告をしてくれた。二人共仲が良かったので少しも驚かなかったし当然幸せな気持ちになった。照れて笑うオメガ。ベータの彼ははにかみながら応援してくれるか、と言った。 環はそれにとーぜんじゃん、よかったな――、と笑ったというのに。 「……!」 がりっと自らの歯がオメガのうなじをとらえると声にならない壮絶な快感にオメガ性は全身でオーガズムを迎えたのが分かった。アルファに番われて急速におさまりつつある発情の気配に環のヒートも徐々に醒めやる。 キスしようとしていた自らをギリギリで押しとどめ目からやっと気持ちの涙が零れたのに束の間環は安心する。止まった。制御出来る。だが晴れて行く頭の靄と同時に現実のあまりの凄惨さに震えてしまう。 何と言う恐ろしい衝動だろう。何と言う慈悲のない本能だろう。何も取り返しがつかないこの状況を誰にどう救って貰えば自分達は報われるというのか。 だってアルファとオメガの番は一度結んでしまったら二度と、 「っ……!」 何とない衝撃の様だった。快感の去りきらない下肢のせいだ。環が最後に見たのは血を浴びた水仙の黄色、オメガが見開いた眼の中の幸福の黄色だ。後頭部に突如激しい衝撃を受けた環は痛いだとか苦しいだとかそういった感覚の一切ないまま、暗転した。 「散々だったね。気にすることないよ。だって環アルファだし」 環が病院で目覚めた時にはオメガの彼もベータの彼もこの世界から居なくなっていて後頭部を思い切り鉄パイプで殴られたせいなのか二人のその顔と名前がどうしてもうまく思い出せなかった。 何度も見せて貰うアルバムは自分と並ぶ二人の顔だけどういう理屈かべったりと黒インキで塗られた様になっている。 でも環には言えなかった。これ以上頭がおかしいと思われるのが怖かった。 「ベータとオメガじゃ番にもなれないのに仲良く心中なんて救えない」 「環と番ってた方が何百倍も得なのになあ。そのオメガもおかしいやつだ」 「……おかしい……」 「ああ、当然だろ?俺達はアルファ。産まれただけで価値がある人間だぞ。オメガはアルファに選ばれる権利はあっても、アルファを拒否る権利なんか無い。増してやベータがそれを横取りする権利もな」 「酷い傲慢だ」 「ああ、傲慢だな」 「……ごうまん………」 瞬く間に事件の噂は広まったというのに環を悪く言うアルファも詰るベータも怖がるオメガもそこには居なかった。 代わりに親友を悪く言われて心はズタズタに傷ついている。だが庇っても、或いは詰っても、黒塗りのオメガとベータは悲しみも喜びも怒りもしない、出来ないと思ったら、 「…番なんて何人作ったって一緒だよ。気にすんなって」 心の底から堪えられなくなった。環の心の錠前が音を立てて閉じた。 だってあまりにも罪悪だ。強烈な罪悪感。二人がいなくなった理由を永遠に一人で考えているとわけが分からない程悲しくなった。まともな他人から見たらどう思うだろう。奪った?ぶち壊した?身寄りの無い彼らの幸福をアルファという悪魔の血が通う自分が、たったアルファというバース性に生まれただけの自分が、本能に勝てずオメガを求めたたったそれだけの自分が、二人分の未来を強奪しめちゃくちゃに破壊しこの世界にいられなくしてしまったというのか。 じゃあ何故性教育の時に教えてくれなかった?施設の大人の誰がこの恐ろしい衝動についてを教えてくれた?止めてもくれなかった!悪くない、自分は悪くない。悪いのはオメガだ。オメガがフェロモンなんかを放つからいけない。 黒塗りのオメガだけじゃない。オメガとはそういう生き物ありアルファとはこういう生き物なのだ。でないと、そうであってくれないと。 「忘れちゃえよ。これから番なんていくらでも出来るんだからさ」 アルファとして生きていけないと、そう思った。 黒塗りのオメガが特別なんじゃない。彼だって"オメガ"なのだ。 そう思えば思う程、環はオメガという人種が心の底から受け入れられなくなっていった。 環にとって他者と関わり合わないという選択は孤独に勝る安寧。アルファとしての社会から距離を置いた環の周囲に人はほとんど居なかった。偶に物好きのベータが環のストリートダンスをひやかしに来たりはするがそれ以外での人との交流は無いに等しいものだった。 そんなある時、クラスメイトのアルファが突然番の一人であるオメガに怒鳴ったことがあった。 数日前からもめていたのは知っているので見て見ぬふりで周囲が距離を取る。静まりかえる教室。二人の間の空気が張り詰めて数秒後、青筋を浮かべたアルファは「解消する」と一言そう言った。 環は知らず身震いした。 アルファとオメガの番の解消方法は現状二つある。番のどちらかが死ぬかアルファが解消の宣言をオメガにするかの二択だった。 「解消する」とはつまりはその宣言ということになり、それを受けた番のオメガは今この瞬間から金輪際生殖機能を果たさない身体になってしまったということ。そしてその機能は死ぬまで復活することは無いということ。 「……」 このたったひとことのアルファの宣言で一瞬にして作りかえられた己の身体の無残な違和感にスコンと何かが抜け落ちた様な顔でオメガはしばし立ち尽くした。 次の瞬間一斉にその場の全員が引いた。凍りつく室内。音を立ててその場に失禁したオメガが何がおかしいのか突然手を叩いて笑いだす。 「わたしだけが不幸になるなんて許さない」 オメガが真顔でそう言った次には青ざめたアルファごと開いていた窓の外にくるりと反転し消えた。甲高い笑い声が遠のきながら響いたあと、落下の着地音を全員が聞いた。 俗にアルファから行う番の一方的な解消はオメガにとっては死と同義だ。アルファには優勢性故の番の解消の権利が生まれながらにしてあるが無闇やたらに使用しないのがマナー。近年はアルファオメガ間における番解消の法律の制定が物議されるほど問題視されている行為でもあった。 何故なら番を解消されたオメガは先に述べた通り生殖機能が失われる、つまり発情期が来なくなり母体としての機能を果たせなくなってしまう。 そして精神的にも非常に強いダメージを負わされてしまうので心のバランスを崩し一般的にまともな生活が出来なくなるとされている。 環も実際に見るのは初めてだった。たった一言、しかも怒った勢いで言った様に思えた。そこに解消の意思があったから発動してしまったのだろうがあまりにも簡単にオメガの人生が狂った事に衝撃を受けてしまった。 同時に環はある事実に気が付いてしまった。 「…………」 番の解消方法。"番ったアルファ"が死ねば良かったんだ。 そうすれば誰も、黒塗りのオメガもベータも、今まで番ってきてしまったオメガの誰ひとりとして不幸にはならない。ならなかった。 自然と身体が震えた。真に死ぬべきだったのは自分一人だけで良かったのではないかだなんて。 途方に暮れてとぼとぼと一人教室を出ると環はひたすらにゆっくりと帰路へとついた。施設へつくと頭では行きたくないと思っているのに足が勝手に建物の裏へと回る。環が人生で初めてオメガという生き物をダメにしたその最初の場所で立ち尽くす。 謝りたかった。 環はずっと、彼に、名前の思いだせないオメガと、そしてベータに心の底から謝罪したかった。 弟だと、家族だと思っていた人間の人生をぐちゃぐちゃにしてしまったことをずっとずっと後悔していた。抗えないなんて結果論だ。首輪をしていなかったのもそう。もっと自分に自制心があれば、もっと自分が強くありさえしていれば、こんなことにはならなかった。大事だと思っていたのに偽りはないのに、おめでとうと心からの言葉に嘘はないのにオメガの発情とアルファのヒートというただそれだけで全部が嘘になってしまった。 言い表せないのだ。どう償ってももう何も変わらないのに生きていかなければならない。そのしんどさが他の誰に分かるというのだろうか。 今度こそ終わりにしようと思った。この世界から二人で消えることを選んだ彼らを本当はずっと羨ましいと思っていた。自分もそこに加わりたかった。誰が待っていなくても、そこでもし二人から責められても、死んで謝りたいと思った。 だが、環にはどうすれば死んでしまえるのか、或いは、死ぬ勇気とはどうすれば出るのかが、分からなかった。これまでの様々な思いが眼前に聳える死という解放への未知なる恐怖を余計に浮き彫りにする。 震える身体は死んだ様に冷えているのに熱い鼓動がどくどくと脈打ち生きている代償だと言わんばかりに息をするのですらも苦しくしてくる。 環は、アルファであることに今度こそ疲れ果ててしまったのだった。 親友を死に追いやった環の心の重荷は、オメガ性を憎みアルファ性である自身と距離を置くことでしかバランスが取れないままだったのにオメガである壮五とアルファである自分を認めてしまう度本当は心の奥底ではこれほど汚れた自分が壮五と恋をして番になって愛を育むだなんて贅沢なことが許されるのだろうかと思ってきた。 彼らが得られなかった喜びを壮五と叶える度に、そして幸せにしたいと覚悟する度に、出来るだろうかと、奪うことでしか何をも持てないアルファの自分は奪われることを悲しんだオメガの壮五を幸せになんて果たして出来るのだろうかと思った。 オメガの未来を手酷く奪った自分が好きになってはいけないはずのオメガ。なのにオメガであるからこそ運命であり、世界にたった一人しかいない壮五と番になれるのは自分だけなのだと思い知ってしまった。 強欲なアルファだった。そのうえそんな自分の過去が壮五に知られてしまうのが恐ろしくて生涯一度であってもしてはいけなかった過ちについてを隠してきた。 夕闇に溶け込むように徐々に二人の姿が夜へと黒く沈んでいった。並んでシートに座りながら握った手の平はいつまでも固く結ばれたまま。 環の低い声が時折言葉に詰まりながらもあの時オメガが嫌いだと言った理由、壮五に嫌われるのが怖かった為に今まで口にしなかったことを一人朴訥と喋り続けたのだった。 「…………」 やがて、どのぐらいの沈黙が続いたのかさだかでは無かったが、壮五が突然にげようか、と零した。 「……え……」 「この世界から、僕たちも」 すっかり闇に慣れた環の視界は隣に佇む壮五のビー玉みたいに綺麗な目の輝きをはっきりと捉えた。真っ直ぐ前を向いたまま作り物みたいに美しい横顔で壮五は行こうよと続けて言った。 「……どこに」 「ふふ、……天国でも地獄でも、どこだっていいよ。君がいたらなんだっていい。だって、これが僕たちの運命なんだろう?」 「運命……?」 「……ごめんね。一生発情しない"オメガ"でいられなくって……」 壮五が手の平をぎゅっと握りしめるので環はいよいよ本気にしてそっとその青い頬へと手を伸ばした。 年越しによる派手な下界の喧騒を避け、ここはと言うと地上から遥か高い高い時計塔の中。 通常なら展望スペースまで稼働しているはずのエレベーターはあろうことか今朝になって故障したそうでいつもならこの時期観光名所であるのにほとんど人が居なかった。 一万段あるという階段を馬鹿みたいにぜえぜえ言いながら二人で昇った先の地上約ウンメートルから見下ろす夜景を環は壮五の一歩後ろで「あんまそっちいくなこえーから」と薄眼で覗いた。 「見て!寒いうえに高いよ。冬大好きだし高いところも大好きってよくわかってくれているよね」 「へーへー良かったな。写真撮って送ってやれよ。パパは寒さと高さで震えてますって添えろよ」 「昨日はスイーツビュッフェのはしご券とプリンワールドで散々遊び倒したくせに」 楽しそうにして壮五はスマートフォンを構えた。かじかんで真っ赤になった指先。シャッター音が止むと環は恐怖心を感じながらも側に寄って氷の様に冷たくなっている壮五の手を握りこみポケットに入れた。 「あったかい。下のクロックカフェにも入ってみたいけど、足ががくがくしてるから少し休んでからじゃないとだめかなあ」 「おりんのまたきつそうな……。さすがにおぶってやるって言えない」 壮五の笑った息が白く形になって煙る。 結婚記念日だと旅行のパンフレットを渡されたのは何せ今年が初めてだった。 上二人が18歳。下は17歳と所謂出来ちゃった婚で世間を賑わせてから随分歳月を経たものだと環はその時の様子をぼんやり思い出しては時たまおかしくなってしまう。 「絶対やだ、産まない、まだ間に合う、産まない!産まない!」 「間に合うも何もねえよ、いい加減にしろ…」 「だってどうするんだ!?オメガだったら僕可哀想過ぎて心中してしまう恐れがある!というかその時は君も一緒に死ぬんだからな!!!!」 「あーいーよ!望むところだっつの!もういいから信じて!センセーも怯えてんじゃん!ゼッテーーーアルファ!おれのがそーちゃんのこと百億倍好きだから!」 「そ、そんな根拠のない理論で僕を犯罪者にするつもりなのか…!?産みません、先生、この人を説得してください…!」 妊娠が発覚したその場で取り乱した壮五を果ては事務所総動員で何とか説得したはいいものの。 その後も毎日毎日我が子に向かってオメガだったらどうしようオメガだったら一緒に死のうね、どうかアルファかベータに産まれておいで、と念仏の様に唱え続けるのを渋い顔で聞きながら環は壮五が寝静まったあと、小声でだいじょーぶオメガでもちゃんと説得すっからなんでもいーから丈夫にうまれてこいな、な、と必死に胎児の機嫌を取りまくったというものだ。 とりあえず結果としては女児の双子を授かり性別検査では見事二人共がアルファで病院から家までどころかその後三日三晩泣き続けた壮五の姿を環はきっと走馬灯ででもはっきりと見ることになるだろうと思う。 あの日世界から逃亡しようと言った壮五は直後そのまま本来の発情を催してしまい真っ暗闇の車内で夜通し朝まで発情セックスを強いられた。 ボロボロのまま早朝に病院に帰れば既に捜索願を出された後でめちゃくちゃ大事になってしまった。 結局言いつけを破ってキスもセックスもしこたましてしまったお陰で主治医には匙を投げられ即退院。仕方なく発情を避けながら仕事に復帰したはいいがその後妊娠が発覚し先の通り揉めに揉めつつ最終的には無事産休に入ることとなった。 因みに二度目の妊娠は出産後初めての発情による賜物で、壮五としては一度目と全く同じ事を繰り返したが結果は恐れていた男児のオメガだった。 この時は優に一週間は泣き続けた壮五だったが周りからの手厚いサポートもあり今のところ何とか家族心中には至っていない。お陰さまで優しくて中々気立てのいい子に育ったと思う。 三度目の正直では発情中の"うそのそーちゃん"のくせに二度と中出しはさせて貰えなかったが今でも夫婦仲はとても良い。つまり、めでたしめでたしである。 しばらく景色をぼうっと眺めていた二人は地鳴りの様に深く激しい鐘の音色でついに新しい年を迎えた事に気が付いた。鼻の頭を赤くしながらちらとお互いを見遣る。 「……あけおめ。……ことよろ。」 「ふふ…あけましておめでとう。今年も、よろしくお願いします」 ぺこ、と頭を下げた壮五がそのまま伸びあがって唇に触れ「おとしだま」と言ったのには恥ずかしすぎて環の顔から火が出そうになった。 すぐに抱きしめていらねーから返す、と口づける。 「いらないとは失礼だな」 むっとした壮五が可愛くてもう一度口を寄せると同時に目の前に大きな花火が上がった。 壮五が音に驚いて竦んだがすぐにスマートフォンを構え怒鳴る。 「びっくりした!こんなに近くにあがったのは初めてだよ!」 「お、落ちんなよ、もっと下がれって」 「すごい!」 撮影に夢中の壮五の腰を抱き寄せるとふと環の目の前には季節外れの蝶々がへなへなと頼りなく浮かんでいた。 環は咄嗟に壮五の上着の裾をぐっと握り締める。硝子の羽根。あれは。 (もう少し弱く。でなきゃ。) 「環くん」 「……ん?」 「世界から逃げるならもしかしたら今かな?」 「…………」 「なんてね」 壮五は本気か冗談か分からない目をして何も無いはずの向こうをじっと見つめた。 幸福を探して彷徨う繊細で美しいビードロの蝶々は脆くて儚いが鋭い生き物である。 奪う両手に傷をつけながら粉々にされるたった一度の快楽をただひたすらに求めてひらめく。 ――――もう少し強く。でなきゃ、うまく死ねないよ。