件の狗について(壮環です!!!)
Episode01件の狗について
まともな生活。ナニソレ
ステップの途中、断線しかけているイヤフォンからノイズ混じりに流れていたダンスミュージックを背景に突然の熱い衝動で四葉環は膝をついた。額から噴き出た冷たい汗がだらだらと流れ全身煮える様に熱い。身体を動かしていたので余計に呼吸が苦しくてその場に倒れ込むとどろっと下着に欲が零れたのが分かった。
またかよ、と環は肩で息をしながら心底嫌な気持ちになった。当然だった。何せ二週間も続いた重たい発情が一昨日ようやく明けたばかりだったのだから。予期せぬ事態に縮こまって身悶える。
普通のオメガと違って、或る時から突然不定期に来る様になってしまった環の発情だったが、ホルモンバランスだとか心因性がどうたらと医者の蘊蓄ばかりで何の対策も施されないまま二年程が過ぎてしまった。
要は確かな原因は分からない。薬も効かないし対策のしようがないのだ。
心当たりは、あり過ぎて環には見当がつかない。発情期を売り物にしている生活に、数え切れない程番を作っては解消しているし、金には常に追われている、住むところも頼れる人間も今は何一つ無い。というかストレスって原因何だっけ。生きてることじゃねーんだっけ?
発情の強弱だってマチマチで息も出来ないぐらい苦しい性欲が襲う今日の様な日もあればきているのかいないのか分からない程軽い日もある。ただ、オメガフェロモンは一定に等しく発されているらしい。
本人の体調に関わらず発情セックス目当てに群がるアルファの客はひっきりなしだった。
万年指名率一位の環のことを特別贔屓にしてくれるアルファなど山ほどいるにはいるのだが、既にきつく勃起する程激しい発情に見舞われている環は今すぐにそのお得意様達を呼び出す余裕はない様に見えた。発情している間だけ金に換えられる身体なので勿体ないと言えばそうなる。
幸い誰もいない夜の公園での発症だったお陰で今のところ身の危険はなさそうだ。今のところだが。
「……は…あ………ッ…」
とりあえず数回慰めれば少しはおさまるだろうしそれから抑制剤を飲んで店に向かうか誰か呼べばいいと朧気に思い、覚束ない足取りで公衆便所へと辿り着く。三つあるうちの一番近い個室へ入り込もうと壁に手をかけたその瞬間、
「めっけ。淫乱のい~匂い」
「…!あ、…やめ…っ…」
「どーせ風俗落ちの貧乏オメガっしょ。首輪もなしにやめろも何もないじゃん」
突然背後からシャツのえり首を掴まれた。無遠慮な声。続けてねっとりと耳に舌を這われ腰が抜ける。
触れられている箇所から独特の蹂躙感。じりじりと焼けつく様な快感が広がり、ということは当然アルファなのだろうが後ろから抱き込まれて身動きが取れないし顔も確認出来ない。力の入らない全身で必死に抵抗してみるが、ポケットに入れておいた財布を抜かれ目の前に身分証を突きつけられる。耳元でよつばたまき、びーがた。と読み上げられぞくっと震えた。
「だんせいせー。はは、やば。オメガでsubなの?初めて見た。おれ、アルファでDomだから相性めっちゃいーじゃん、あそぼうな」
無邪気な声でそう言われながら首筋に舌を這われればもう数えきれないほどの夥しい噛み痕が、また一つうなじに増えてしまった。
-
(件の狗について)
-
<1>
「だ、えあッ…あ……あ!あ…あ、や、め…んっ………!」
「今だけ番なんだからそんな嫌がることないじゃん。こっちむいてみ」
「っは……あっう、なか、しないでっも……いっぱ、くるしいか、らっ…」
「嫌だね。これアフターピル?こっち何。あ、解消薬か。ほんとに金持ってないのウケる。稼げてないの?売れないのか。カワイイオメガっぽい感じじゃないもんね」
好き勝手言われながら腹が苦しくなるほど腸内に射精されているが発情期なのでアルファのペニスで穿たれるのは心底満たされる。これで知らない人間じゃなくて、金が発生していればもっと最高だった。
因みにレイプ経験は無いので少しばかりシチュエーションに興奮した。ただ犯されているだけならば無理矢理されるのもそこまで嫌じゃないらしい。環は常日頃の性に溺れた廃れた生活に今更希望や絶望を感じるのは正直飽き飽きしてしまっていた。
落ちてきた災難には上手くのっかった方が勝ち。底辺に生きている現状では避ける体力などとっくに残っていないのだ。だが乗っかる方法は簡単だ。自分の否を可にすればいいそれだけだ。
だってそうでないと死にたくなる。自分は少しだって悪くないのに。
それにしても失礼なやつ。これでも店では人気ナンバーワンだ。NGなしのセーフワードオプションも可能。金さえ積んでもらえれば何だって出来る。その金がないのには理由があって稼いだ9割を借金の返済に回されているからだ。身内にクズが居ると大変なのだ。急な発情でしんどいオメガを見つけてすることがレイプのアルファ様とは違って。
環の気持ちは強気だが前後不覚でわけがわからないままぐるぐるに回っている視界で苛烈な快感を必死になって堪えている。潤いすぎてぐちゃぐちゃな入口だが激しい抜き差しに若干血が入り混じる。尚も後ろからがんがんに奥を突かれ容赦なく腸内に射精される滅茶苦茶な仕打ち。
最初に噛まれているので現時点ではこのアルファ専用のオメガである環は抗う隙も余裕も無いまま慈悲の無い冷たい床に泣きながら四つん這いで平伏した。
ただのアルファだったらまだマシだった。体格的にはさほど変わりないしオメガとしての欲が吐精で多少おさまれば抵抗だって出来るはずだ。なのにそれを許されないのはこのアルファがあろうことかDom性だからに他ならない。
腰を掴まれ激しく揺さぶられ性交としては確かに気持ちいいのにレイプされているという恐怖心が先行してうまくオーガズムにたどり着けなくなっている。発情しているオメガにとって上手くイケないのは酷い苦痛に間違いは無い。
かぶりを振って唸るばかりの環に舌打ちが降る。
「なあんもできねー犬だな」
びゅる、と精液を捲かれながら突然解放されrollと冷たく言い放たれれば身体はビクンと反応する。ダイナミクス性を授かった以上Domからのコマンドには従う他ないので震えながらも仰向けに転がった。くそ、金を取りたい。コマンドまで発動させやがって。性質上怯えながら見上げると、真上から照らす裸の電球が逆光になり相手の顔はまるでよく見えない。ただ、圧のかかる目がじっとりと上から見下していて目が離せずにいた環の顔めがけてぺっと唾が吐かれた。びっくりして軽くイク。
「発情しか価値ねえくそ駄犬が、おれと目合わせてんじゃねえよ」
同時に、息をする度に白濁が溢れて止まらないアナルを一気に最奥まで貫かれあまりの衝撃に声が出せないまま一瞬意識が吹き飛ぶ。気持ちいい。しぬほど。飛んだままでいたいぐらいに。しかし願い虚しくすぐに激しいピストンが開始され環はすぐさま覚醒し壊れた様に喘ぐ。横暴な攻めにギリギリ堪えていた目の前がとうとう真っ暗に沈んでいく。
環はバッドトリップに入りそうになる。容赦ないコマンドが脳内にがんがんこだましてまるで宇宙空間に投げ出されたかのような恐ろしい不安が眼前に広がる。否だろうが可だろうがこうなると何も考えられない。怖いのは嫌だった。誰でもいいから止めてほしい。
「やぁああっ…!やっ、やっ!あ、っなん、うっだめあッあっ…うっッ!」
「look!しね、しね…見ろ…look…しね…しね、しね…」
「!はっ……、あ…う……」
lookのコマンドで無理矢理見開かされた目の先。強烈な圧力だが当然コマンドの力は無い「死ね」という命令が目と目の間で繰り返される。それは最早Dom/subの契りにないただの罵声のはずなのに環の全身が溺れた様にその言葉で満ちる。腸から注がれた死の精液。腹にまで満ちて胃に流れ膨らみ食道からごぼごぼとせり上がる。息を吐いたつもりがびしゃっと胃液を嘔吐してしまった。
「きったねーな!」
間髪いれずに拳で右頬を強く殴られその反動で再び嘔吐する。
環は泣いているのか吐いているのか痛いのか気持ちいいのか生きているのか死んでいるのかわけがわからなくなって咄嗟にぎゅっと縮こまった。
「おい」
突如おいという一言でぴたりと止んだ罵りに便所には環のパニックの喘ぎだけが反響する。
同時に凝縮された密度の濃い圧力を肌で察知して環は身震いすると、入り口に痩身の黒い影が立っているのに気がついた。人だ。やめさせてくれるかもしれない。助けてくれるかもしれない。虚ろな目で必死に肩を上下させながらそちらを向き小さくたすけて、と息を洩らす。バッドトリップしかけているので喉が引き攣り上手く喋れずもどかしさにしゃくりあげる。
「しばらく撮ってた。証拠はバッチリだな」
黒い影に見えたのはその男が全身黒の衣服に身を包んでいたせいだ。男はスマートフォンをこちらに向けて画面をじっとみつめながらその場を動かない。画面越しの牽制の眼差しは依然レイプ魔に向けてプレッシャーを放ち続けていてしばらくするといつの間にか環を除いた二者間での睨みあいが静かに続いていた。
この状況はというととどのつまり、Dom同士のグレア抗争が勃発している。
グレアとは簡単に言えばDom性の権力を象徴する為のオーラ、主に眼から発せられる圧力のことでコマンドを使ってsubを支配する本能を持つDom性にしか授からない特殊な能力だった。subをコントロールするコマンドが有効になるのもそのせいでグレアが強ければ強い程ランクが高く即ち権力がある強いDomということになる。
因みにDom間でのこの睨みあいに負けるとどうなるかと言うと。
「………ッチ…」
たった数秒で滴る程の冷や汗を全身にかきがくがくと腰が抜けそうなほど震える情けない身体を引きずりながら、環を凌辱していた男が逃げるように空間から即座に撤退した。
自分よりも強いDomに睨まれると弱いDomは恐怖が身体を支配し本能で負けを認める。そして強いDomはsubにとっても断然魅力的にうつる。何故ならグレアは無論コマンドのコントロールの強さや深さにも関係してくる、つまりDomの支配を本能的に望む身体であるsubにとって支配力が強ければ強いほど深く満たされることができ、sub性としての幸せをより感じることが出来るからというわけだ。
環は困惑しながらも震える身体でやっと起き上がると、それを見た黒服の男が側にしゃがんで膝をついた。
「……発情期……?」
優しい声だ。ほっと安堵はしたが何も考えられないまま軽い虚無感に苛まれ環は自ら身体を抱きしめてぎゅっと目を閉じた。犯される事には強がっていても殺されるかもしれなかった恐怖には今更ながら身体が強く震えだす。
本来ならばDomからのコマンドで支配されるのはsubにとってはとても気持ちのいいことだ。
主従関係を結んだDomの支配下におかれながらこの人のいうことをききたい、支配されたいという本能を生まれながらに持つsubはそれを満たされないと生きてはいけない。大袈裟でなしに衣食住と並んで必要不可欠な欲求である「支配」はDomにとってもsubにとっても定期的に補充しないといけない大事なものだった。
けれど先程の様に見ず知らずの相手や信頼関係の薄いDomに無理矢理コマンドを発動されたりプレイでお仕置きされた後アフターケアをされずに放置されたりすると満足どころか精神的に不安定になってしまうのもsub性の仕様も無い定め。
つまりsubの支配欲求は"アフターケア"が非常に重要な鍵となり個体によって例えばいじめられるのが嫌でないsubだとしてもそれは飽くまで信頼関係の上に成り立つプレイ。ぐちゃぐちゃになるまで犯されても尻が腫れるまで執拗にひっぱたかれても行為が終われば頑張ったね、エライね愛しているよとその褒めの言葉であるリワードが無いと充分な満足は決して得られない。
対してのDomは優勢性故に劣勢のsubに対して支配の主導権があるだけでなくグレアでの権力行使もまかり通る。subの気質を逆手にとってプレイで弄ぶ、ペットとして側に置いて生涯侍らせる、奴隷の癖をそのまま反映する、などDomの性格と癖でsub性の人生は決まるも同然だった。
生まれた時点で理不尽で不幸ならせめて囲われるのを以て幸福とするsubもいれば妥協出来ずにパートナーを選ぶ為リスクを顧みず不毛なワンナイトを転々とするかどちらにせよ随分と肩身が狭いのは事実だ。
近年の法的な治安としてはやっとバッドトリップについての注意喚起がされているぐらいでまだまだsub性に対してのDomがしてはいけない細やかなルールや社会的な保身の措置は今のところ無かった。
Domの良識に頼るしかないというあまりにも発展途上の現状にオメガ性に限らずsubの従う本能を利用した悪質なレイプ事件や時には傷害、殺人にまで至るのは残念ながら珍しいことではない。
その上でもとかくバッドトリップという現象はsubにとってかなりの精神的負担になるし抜けるまでの症状が実に様々なので運が悪ければバッドトリップの反動で発作的に自殺してしまうケースも、恐ろしいが少なくはないのが今のところの実際である。
入りかけで件の男が止めてくれたので環は今ごく軽い症状で済んでいたが、あの状況で完全にバッドトリップしていたらどうなっていたか分からない。不安定な精神バランスにわけもなく涙が出た。
「……」
その間も男はしばらくその様子を黙って見ていたようだったが、苦しげに嗚咽を漏らす環を見兼ね個室からペーパーを持ちだして吐瀉物で汚れた肩や腹を拭いはじめた。
そのうち丸出しの環の下肢に目がいくとごぷ、と未だに溢れて止まらない入口の白濁に眉をしかめた。
男は環の反応を見ながらそっとその苦しそうな入口に指を差し込み中に溜まった残滓を掻きだしてくれようとした。
「…僕もアルファだから、今触られるの辛いだろうけど…」
発情期とは言え無理に身体を開かれたせいでかなり敏感だし番ではない人間の指でもあることから耐えがたい嫌な悪寒が環の全身に広がる。
ご存じの通りバース性の性質上、発情期中にアルファに噛まれ番にされたオメガはそのアルファ以外との性交が難しくなる。それはアルファに限らずベータでも同じで噛まれたオメガは噛んだアルファ専用の身体に一瞬で造りかえられる仕組みになっている。だから噛まれた番以外の人間からはちょっと触られただけでも生理的に受け入れられず拒んでしまうし何より気持ち悪くなる。頭も痛くなる。
因みに番がいないオメガがアルファを誘惑する為のフェロモンもアルファに噛まれれば噛んだアルファにしか感じられなくなる。皮肉だがアルファの専用というのがまったくもってぴったりだ。最も、何もかもの主導権が手中にあるアルファ様にとっては番になったオメガのことなど"専用肉便器"と同義であるのは間違いないのだろうけれど。全く理不尽な世の中である。
「んっ……」
「ひどいことされたな…かわいそうに…」
「……ううっ…あ、ちょ、っと…待って…」
「このままじゃ服が着られないから少し我慢していてくれ」
だからと言っても過言でもないしおかしくもなんともないのだが、今の時世このオメガという身体だけでもめちゃくちゃに卑下された。生まれる前にバース性が分かる技術も開発され、近年ではオメガとして受胎した命の半分はその生涯の苦悩を憂えた親の希望で堕胎された。
胸糞悪い話だ。誰も好き好んでこの性別に生まれてくるわけじゃあないのに。
だが、良くも悪くも半分は環の様にこの世に日の目を見る。生まれてきたことを嘆くかどうかは自分次第。上手く生きているオメガだっていないわけじゃない。最も、ふるいにかけられようやく生まれたオメガのもう半分は自分で死ぬ道を選んでいるのも現実だ。つまりはそういうことだ。
誰も好き好んでこの世界に生まれてきたわけじゃあ決してない。
「あ、ッ…う、ゆっくり、してっ…吐き、そう…」
「……平気か…?ごめんね、もう少しだから…」
「う……」
そんなオメガの本能的なものなので事後処理とはいえ堪え難い嫌な感覚はどうしても避けられないのだが男もそれを理解しているようでなるべく刺激しないように優しく触れてくれているのは分かった。なので環も頼り切る他無いなりに身を任せ必死にそれを堪えた。
しばらく吐き気に耐えながらもバッドトリップから徐々に抜けつつある環はふとこんなに優しいアルファはそうそういないなどと思い始めた。少なくとも環は今まで生きてきた中で親切で謙虚な心優しいアルファになど一人も出会ったことがない。一人もいないのだ。きっとこの黒づくめ、前世で死ぬほど悪いことをしている。それか現世で人をいっぱい殺しているとかに違い無い。
だって真夜中の公園でレイプされていた風俗落ちの底辺オメガを助け更に身体のケアをするだなんて、普通に考えたら天下のアルファ様(しかもDom)にあるまじき行動である。脳がやばいか特殊な、環はまさかマジで殺されるやつかとそこで急に緊張した。
気がつけば結構な深さまで指を入れられていたのにびっくりして腰を引き鋭く牽制する。
「…もういっ……薬のんで終わり…番解消して、ピルと抑制剤飲むから、もうほっといて、こえーから…」
「?怖いって…?僕?何に見えてる?一応全うな人間のつもりだけれど…」
困った様な顔で環を見詰めた男は手に残ったレイプ魔の精液を心底嫌そうにしてペーパーで拭った。
まじまじと見ると端正で綺麗な顔だ。美人。凛としていて華奢だが背が高いせいか弱々しい印象は受けない。アルファなのは例え言われなかったとて分かった。気品のある傲慢な気配。間違いない。全身黒のタイトなシルエットはとてもシャープでモデルか何かをしているのかもしれないと環は勘ぐる。もし有名人だったら尚更やばい。裏でどんなことをしているか分かったものじゃない。
「いいよっ…見たらわかんじゃんおれ店でウリしてるオメガだぞ、アンタみたいないいとこの匂いさせたアルファ、おっかなくて近寄りたくないっ…」
「…風俗で働いているのか?大変だな。解消薬はこれかな?水買ってきてあげるよ。君が飲んだの確認したら、望み通り大人しく撤退することにするから」
「…っ…財布、金出していいよ、水買う分ぐらいは入ってる。とおもう、借りつくりたくないっ…」
環は軋む身体でおそるおそる床に投げ捨てられていた財布を指差した。
男は苦笑して立ち上がると無残な財布を拾って、ついでに散乱していた衣服と小物をまとめて持ってきてくれた。わざわざ身分証を見ない様にと裏返しにして渡してくる。
「水は奢る。待ってて」
「え、まっ…」
問答無用で颯爽と出て行った男に環はチッと舌打ちをした。ほら、自分勝手だ。まだ身体が震えて上手く立てないのをいいことに自ら貸しを作って後からオメガでsubの身体を最大限に悪用するつもりなのだ。鬼だ悪魔だ人の風上にも置けない。
思いつつ痺れる両足を何とか持ちあげて環はいそいそと服を着た。完全にバッドトリップから抜けたのか随分気持ちが楽だった。それはいいが股間の熱はやれ冷めない。最初の衝動よりはいくらかマシだが未だに発情はおさまっていないようだった。人の中に出すだけ出しておいて上手くいかせてくれなかったあのレイプ魔のことが段々とても腹立たしく思えてくる。
んのへたくそ。無理矢理したんなら気持ちよくしろ。お前との番が解消されない限り常連のお得意アルファに慰めて貰うことだって出来ない。最悪。下手したらこの汚い便所で一晩中オナニーコース。マジで最悪。
「はい」
「ウワ!」
「ごめん、驚かせた…」
今夜の事を考えながら残金を確かめようとしていた環は急に目の前に水を差し出されて驚いた。微塵も戻って来た気配が感じられなくてさてはこの男、普段から気配を殺すような仕事をしているなと勘ぐる。
そして用意していた小銭を乱暴に突きだして「まじでもーどっかいって!」と睨んだ。
「奢るって言ってるのに。ではこれはありがたく一旦預かります」
男がほやんと笑ってごそごそと懐から二つ折りの財布を出した。見目にも高級そうなしっとりした柔らかいレザー。云年前に買ったきりのぼろぼろでみすぼらしい自らの財布を握り締め、環はそっぽを向いた。金持ちのアルファ。さぞいい暮らしをしているのだろう。むっかつく。そして次に「今小さい財布できてしまったからこれしかないけど」と男がふかふかの笑顔で差し出してきたものを見て呆気に取られる。
「気が変わったよ。一時間いくらだって?後で一生分支払うよ」
環が先程水の代金として男に渡した100円の、1000倍がそこにあった。
Episode02件の狗について
<2>
一般的に番解消薬が効果を表すのは服用から約2~3時間後である。
つまりその間は番われたアルファ以外との性交渉、どころか接触ででも生理的な悪寒を感じるし無理に触れられれば様々な症状が身体に如実に現れてしまう。
清潔そうな広いバスルームに真っ白でつやつやの大きな浴槽。膝が痛くない様にとタイルの床にアホ程敷かれた乾いたバスタオルの上で平伏す環の手元は、固形物のほとんどない吐瀉物と大量の精液に塗れた。
体勢もされていることも先程のレイプ魔と大差ないが環の様子はどうも違う。苦しげにえづきながらも甘えた猫の様にか細く綺麗な声で喘いだ。
発情の強い性欲と番われた身体の本能とを一緒に上手く愛でられてしまっていて環には抗うという選択肢が与えられておらず男にされるがままその身を預ける。
奥まで注がれた汚れた精液を指でほじくられて丹念に掃除されるその嗜虐的な扱いにはまずバース性が拒絶をし男を嫌がる身体は何度も胃液を出すようにと促す。
裏腹に吐瀉物を吐きだす度に深い声でこれ以上ないほど男は褒めてくれ、支配に飢えたダイナミクス性はお仕置きに擬態したその行為と優しく丁寧なリワードを紡ぎ続ける男を本能から激しく求めた。
懇願されてもこの状態で挿入するのはかなり身体に負担がかかるので番が解消されるまで流石に出来ない。発情による堪え難い性欲に環はアナルペニスの両方を自ら刺激する手で幾度も幾度も射精へと昇りつめた。
どのくらいそうしていたかはぬかるむずぶずぶの意識の中に沈む環の理性ではハッキリとはわからないが吐き気が消えてただの強烈な性衝動だけで動いたのは覚えている。
アルファとの発情セックスで一番気持ちいいのは当然、噛まれる瞬間であり番われるその時だ。甘ったるい声が耳朶に触れた唇から脳にとろとろと流れてくる。
「噛むよ」
歓喜の衝動はアルファの深い歯型によってもたらされ血流に乗り全身を駆け巡る。甘い。痛覚。強い痺れ。まるで注がれているのだ。誓いの祝詞があまりにも気持ちが良くて白濁を吹きだした。
そして気付けば永遠に撫でられている。言葉で手の平でペニスで舌で口で止まない快感を植え付けられながら番われたアルファとの深い発情セックスに没頭していた。呼吸は喘ぎでオーガズムにはもう波などなくずっと気持ちが良いのでイクという感覚から環は一時的に解放される。
おかしくなるなんてものじゃない。煮詰まったジャムの様に甘く解され全身が溶けて無くなりそうだった。
「goodboy。おしりとろとろだよ。入ったらいけないところまでいけそう。いってみようか」
しつこく奥をノックされているのは分かったが、最早どんな刺激だとしても限界の自信があった。声が出ているのかも分からないが耳にはだらしない喘鳴が鳴り響いている。開きっぱなしの結腸に先を引っかけられた感覚で環の視界が極彩色の激しい点滅ののちとうとうブチンと途切れたことを暗転の瞬間で察した。精神が崩れ粉々になって暗い闇の彼方へと紛れていくのに、どうしてか環は不安の微塵も感じてはいなかったのだった。
その記憶からは何億光年も離れていたように感じた。
永遠の無意識を彷徨って突如深い眠りから浮上した環はぼんやりと天井に焦点を合わせた。きっと元は白いクロス。今は淡いオレンジ色のルームランプがやわらかく色をつけている。疲労なのか身体はびっくりするほど重たくて動かない。ずぶずぶに沈むほどやらかなベッドは寝心地で言うと文句なしの500点満点だった。雲に寝たらきっとこんな感じだ。え…死んだ?
「あれ、起きちゃった?やっぱり明るくない?消そうか、ライト」
死んでない。誰かいる。誰だっけ。どこだここ。
環はそこまで思ったところで急にハチャメチャに激しいセックスの記憶が眼前にフラッシュバックして身体に力が入った。愛液がどぼっと尻から溢れたのが分かる。中に出された精液ではなく自らが濡れていたせいだ。首を捩って同じ様に隣に沈んでいた男を見遣る。銀糸の細やかな髪を短くし、頭のてっぺんで双葉に似たくせ毛をふわふわと揺らしながら穏やかに微笑まれ、何も言わずとも目と目の間で強烈な「愛」を注がれた。
言葉が出ない。強くて気持ちいい支配。Dom/subの契りが環の身体に満ち満ちる。
「…目だけで気持ちいい?そんなに強くしたつもりなかったんだけど。相性ばっちりだね。やっぱり番解消しなくってもいいかな?」
「ん……怖い、いやだ…」
「怖い?どうして。嫌なら仕方ないけど、僕一生噛むよ?同じじゃない?」
頬に落ちたキス、たったひとつのキスであるが環の脳内がぶわっと幸福に満たされる。知らず伸びた手が男の腕を掴んでおり言わずもがな「もっとちょうだい」のおねだりをしていた。愛おしそうに紫の目が笑う。すぐに横から覆いかぶさる男は丁寧に唇を啄ばみ舐め軽く齧りへべれけに開いた環の口内を丹念に愛撫した。
異常な気持ちよさだ。苛烈でもなければ辛くなど全く無い。ただただひたすらに心地いい速度で頭を撫でられ続けている様な、心の奥深くまで手を入れられてゆるりとかきまわされている様なとにかく中毒的な快楽に環は一瞬にしてサブスペースに入った。
それを見た男はあまりの環の堕ちっぷりに心底嬉しそうに笑う。
「すごいな、コマンド言ってないのにはいれた?goodboy。気持ちいい?」
「……うあ…う、ん……もっとしたい、えっち、…きもちいとこ、触ってほしい…」
「あんなにしたのに?いいけどね。present。見せて。君の気持ちいいところどこだっけ」
presentのコマンドに環は息を上げながら身体を起こしゆっくりと両足を広げる。期待してどろどろになった環の入口が男に向かって拡げられ淫猥にひくつく。とてつもなくいやらしく上手にコマンドを遂行した環のその姿に満足気に微笑んだ男が身を乗り出す。興奮から真っ赤になった環の耳元に低くgoodboyと囁いた。
褒められた快感で泣きそうになる環を焦らさないうちに男のしなやかな指が二本まっすぐに挿入された。
喉を逸らしてその衝撃を堪える環はもうその男の事以外考えられない。男の支配下で気持ちよくコントロールされる。この人のいうことを聞けば確実に気持ち良くしてくれる。揺らがない絶対的な支配関係がいつの間にか築かれている。
蠢く指に熟れた前立腺を擦られて環はわけがわからない程の快楽に再び溺れていく。
「んあ、あう、いっ…だぇっ、あ、きもちっ…う、やだいくっいくっ…」
「いいというまでいっちゃいけないことにしてみようか?いじわるされるの好きみだいから」
「あ、すっ…きじゃな、あうっいってい?あ、やだいくまって、いきた、いくから、いいっ?いっ?」
「ダメ。我慢するんだよ。できたら御褒美あげようか?何がいい?」
「だあめ、やッむり、むり…!」
「無理?」
「むりい……」
「ふふ、可愛いから許してあげる。いいよ、上手にイケるところを見せて」
そうして男にぐっと前立腺を強く押しこまれるとあまりの快感に環の腰がビクンと跳ねた。既にドライオーガズムで苛烈に達していたが男の指が依然外に向かってぎゅっと肉を押し込んでいるままなので続けざまに二度、三度、と声も出せずにイキまくる。見た目はとても苦しそうだったが環にとっては天国の様な状態で生きているとか死んでいるとかそういう概念を忘れる程のトリップだ。
気持ちよ過ぎて肉体的な苦楽が分からない。言うなれば脳を直接愛撫されている。両足をピンと伸ばして指だけでおかしくなれる環のsubとしての才能に男は恍惚に笑みながら環の痙攣する膝の裏をべろりと舐めた。
「goodboy…!すごく上手、えらいね。いれてもいい?嫌?」
「んん、ほし、奥…指じゃないの……」
男が環の合意から間髪いれずに奥まで貫き欲しいを即座に満たされた反動でがくがくと震える環をじっと見下ろした。どこをも見ていない環に「look」とコマンドを入れる。
ゆっくりと男と目を合わせた環は呼吸を忘れるほどの深いグレアに抱かれてしまいその瞬間身も心も全部男に投げ捨てた。今首を吊れと言われても喜んで出来る。目を抉れと言われても舌を噛み切れと自らをずたずたに引き裂けと命令されてもそう例えば「コマンド」ではなくともこの男の欲求だというのならば今すぐに出来る。多分その過程で死んでも気がつかない、それぐらい、環のサブスペースが深すぎた。
傍から見たら戻れないんじゃないかと懸念されるぐらいだ。万が一ここからコントロールを失ってのバッドトリップは非常に危険だ。落っこちてしまった穴が深くて広くてとてもじゃないが環自身では二度と上がってこれない。
男はそんなことはお構いなしにサブスペースの大宇宙をたゆたう環を自由自在にコントロールする。まるで環の全部を知り尽くしているかのような実に巧みな支配。危険と紙一重の深い深いトリップを楽しんですらいるようだった。
「look…こっち見てごらん。気持ちいいね、どこがいい?言ってみて」
「あ………腹……あつい、おく……すっげ、イイ…」
「奥好きか?」
「す……キ……」
激しくはしないでとんとん、と優しく最奥をつつかれまたしても環のイイをどんぴしゃに操りながらより深く言葉すらも言われないほど深い場所へと落とし込んでいく。溶けてなくなっていく感覚で環は今度こそ本当に何にもわからなくなった。
肉体精神感情存在あらゆるあるべきものが無くなった解放感で文字通り無。究極の奈落で環はひたすら男の声だけに従った。
いくつものコマンド、リワードを投げかけられながら全てを男に委ねてからはどれぐらいの時間が経ったか知れない。未だゆらゆらと何者でもなくなり浮遊していた環はふと確かに男の声で意識を持つ。
「…すごいねえ。とってもいい。でも気持ちいいのそろそろやめようか。続けてたくさんしたしお腹すかないか?」
「…………」
「おいで。大丈夫。抱っこしてるから戻ってきてみて」
「…抱っこ、」
「そう、大好きだろ?こっちも気持ちいいよ。しばらく抱っこしててあげよう」
浮遊感の延長で男の声が環の耳に直に感じる。抱っこというのをキーワードにして徐々に肉体が重だるく精神とくっつくとようやく腕の中でやわらかく抱かれている感覚がして環はぼんやりとだが安堵した。凄く深い部分からゆっくりと引っ張り上げられてきたので存在が不確かで漠然とした不安が薄く膜になって目から零れた。
「おかえり。どう?眠る前結構激しくセックスしてしまったからあんまりするのもどうかと思って。すぐサブスペース入っちゃったし相当きもちよかったろ。溜まってた?」
「…………」
「今は限界まで落としてみたよ。毎回するのは危ないけどちょっとは身体軽くなったかな?」
「……?…」
「まだ分からないか。もう少し落ち着いたら何か喋って。あ、無理にしなくていいからね」
男に優しく撫でられながら、抱きかかえられているという心地良さは現実の満足感とサブスペースの快感との境目であり繋ぎ目でもある。環ははっきりと意識が覚醒すると確かに大好きな抱っこをされているという現実の快感にきちんと戻った。びっくりするぐらい身体が軽い。
にこにこと笑う男と目が合ったが今度は凄まじい愛情は感じられずほっとする。同時に様々な疑問が頭の中でパンクしそうに溢れ返った。ひとまずそうだな、気になるのは、と環は憮然と男を見上げた。
「…つか誰アンタ、何者……」
「??ふっかいところから戻ってきてはじめにそれ言えるのは君ぐらいのものだよ。びっくりしたな」
「めちゃくちゃ気持ちよかった、今の何」
「ふふ。君のサブスペースが物凄く深かったんだよ。上手に入れてえらいえらい。とても疲れてたんだね」
ちゅ、と優しく額にキスをされた環は、次にとりあえず男の名前を聞くことにしたのだった。
Episode03件の狗について
<3>
この世界でDom性を授かったからには行儀よく礼儀正しくsub性を可愛がることが出来なければ一人前ではない。もっと言うと生まれてきた価値がない。
逢坂壮五は思春期の中程にアルファ性とDom性をほぼ同じ時期に芽吹いた。
大企業の御曹司であった壮五にとって一流階級の暮らしは大変窮屈でそれでいてひどく優越感だと思った。空っぽの毎日。巡る札束を押し合いへし合い死に物狂いで引っ掴む人間を見ているとああ、自分というのは選ばれた人間に違いないと思った。だって、こんなにもたくさんのものが手の中にあるというのに、何一つ欲しくはないのだから。
ただ、金が無いと死ぬのだということだけは分かる。叔父はミュージシャンという大変自由で果敢な人生を送っていたのでとても羨ましいと思った。やりたいことがありそれを真っ直ぐにやるというのはただそれだけだって凄いことだ。憧れたし実の父の固苦しくて立派な生き様に辟易していた壮五にとって叔父は唯一の風だった。黴くさい豪邸を吹き抜ける息吹。
しかし表現者の成功の概念は壮五には分からなかったが、彼は自由を激しく燃やしたのと引き換えにいのちの蝋燭を随分短くしてしまった。売れないと金がなくて金がないと食えないんだそうだ。
ふと、凪いでしまった風に途方に暮れた壮五は栄養失調という言葉の意味を無意味に辞書で引いた。
大学生になると急に人々は上流階級の壮五のアルファ性を羨むようになった。羨望というか嫉妬というか仲良くしようとしてくれる人全員の目が金マークに見える。オメガは特にそうだ。発情期があるので仕事も人よりは休むことが必然だし法的に守られているように見えて実のところ社会的に弱い立場である。彼らは貪欲だった。壮五に気に入られる為ならば何だってしてくれようとする。
ただ、壮五はDom性も持っているので。
「オメガなのはいいけれど、君sub性ではないよね」
「…はい…」
「僕はDomなので、普通の人間とはどうしてもお付き合いは出来ないんだよ」
中々思うパートナーには巡り合えないのだった。アルファの欲求を満たすにはオメガが最適だが、Dom性の支配欲を満たされるにはどうしてもsub性でないといけない。好みの問題ではない。身体的構造の問題なのだ。そういう生き物なのだ。
バース性を二の次にしてしまうのはダイナミクス性の欲求を疎かにすると精神衛生上まるで良くないのでパートナーになって貰うにはsub性であることは大前提、そして出来ることなら、願わくば、オメガ性であれば尚のこと良い、などという条件が壮五を孤独にしていった。
何せ、オメガ性でだって産まれてくる割合としては少ないのにその上ダイナミクス性を授かるのは人口の約3割、そしてその中でsub性を持ったオメガの割合など一体どういった比率になってしまうだろう。
より良い質を求めるならばまず自分が質をあげなければと、Dom性としての人間性を育成するスクールに通いながら良質なDomを名乗るべく難しい試験も受け見事認定された。
認定試験をクリアするにはマナーやルールをきちんと尊重することが最も大事で、今までの正しい人生の履歴などは大いに役に立った。尚、一般のDom性はほぼ100%の確率でこの試験に認定などされない。それもそのはず、生まれがきちんとした血統で、Dom性であることに誇りを持つという条件に見合うのは御曹司ぐらいのものだろうから。
壮五も資格についての価値は正直どうだって良かったがでは何故これを取ったかというとだ。実は資格をとった人間にしか照会出来ないパートナー探しのシステムを使いたいが為である。
オメガでsub性。しかも生まれがきちんとしているだなんて最高だ。いくら稀有だといっても一人、いや三人ぐらいはいるだろう。そんな一縷の望みを持ってやっと検索をかけた結果はなるほど、0件だった。
それほどまでに稀少な人間がこの世界に果たして存在しているのだろうか。
認定試験が生きがいだったような壮五は大学を卒業ししばらく実家の仕事を見ていたが、あまりのバカバカしさに投資業で食っていくことに決めた。飼い犬に手を噛まれた父の吠えを読みに失敗して負けた時などはちらっと思い出す。
それ以外は大分快適な人生になった。
今でも定期的にシステム照会はしてみる。けれど何億回見たとて0が1になったことは無かった。
sub性は大体がベータだったので誤って妊娠させてしまう恐れも不用意に番になってしまう心配も勿論ないのだったが、ふと街で香るオメガの媚薬を察する度アルファ性の欲求だけを満たすためだけにオメガを買うことが多々あった。ダイナミクス性は生理現象に似ていて支配させてくれるsub性がいなければ体調が悪くなるし半ば処理感覚でsubを支配するのだったが、バース性はそうもいかなかった。
脳に直結した性欲は発散させるまでとにかく苛立つ。オメガを自分のものにしたいという野性的な本能が番防止にとしてある首輪をガジガジと噛みちぎろうとする。オメガとの性行為に理性はほぼ無いも同然だったがやがてそれを壮五はみっともないと嫌悪するようになった。もしオメガでsubの人間に会ったらもっとちゃんと理性的に大事に出来る自分でいる為にとわざと発情期のオメガとばかり身体の経験を積んでいった。
そのお陰というのもなんだが、発情期のフェロモンにあてられても見境の無くなるようなヒートは起こさなくなったしよく飼い慣らされた性欲を自分でコントロールできるようにもなっていった。
無論、そこまでの間に泣いてもらったオメガもsubも星の数ほどいるのだけれど。
パソコンの前でじっと取引のタイミングを窺う壮五は今日も今日とてこの世界のどこかに居るのであろうオメガ性でsub性の人間の事を考える。
優しくしよう。躾されていない駄犬でも自分が飼い慣らせばいい。好きなものをいっぱい与えよう。愛されたい。束縛が好きな人だったら嬉しい。ずっとべったり側にいてくれるほうが安心する。向こうが嫌だと言っても出会ったら二度と離さない。会いたい。出会いたい。僕のオメガでsubに早く会いたい。最早今はそれが壮五の生きがいだった。
ソファの一番端にきゅっと足を抱え込んで丸まり、可愛らしい猫耳のフードパーカーを目深にした四葉環という青年についてを、壮五はこれほど完璧な理想が叶うことなどこの先の人生で二度とあるものかとそれぐらいに運命を感じていた。
偶々通った人気の無い公園だった。市場があいていてもいなくても四六時中パソコンの前でじっとしているのでごくたまにだが夜の不穏な街の空気を吸いに出たくなるときがある。誰とも約束せずに一人で静かなところを歩いているとまるで透明になった気分になれるのだ。誰も見ていない。誰も気にしていない。好きに歩いて好きに笑って好きに歌ってみたりする。勿論、誰もいない公園でだ。そこは壮五のいつものステージだった。透明になって好きなことをするところ。
反抗も苛みも不満も不安など専ら無い、現状も未来も過去だって忘れてただただ透明になる時間。大好きだった叔父の音楽を誰にもったいぶらずにもどこに遠慮せずにとも大声で歌ってもいい時間。褒められなくても好きなことをした生き方を心の底から羨ましいと思ったが、そんなことを自分自身が思うことすらどこか馬鹿らしく感じてしまう節もあった。
自分の好きなことが本当に好きなことかどうかを確かめられずにくすぶっている人生。
ダイナミクス性を持って生まれた人間は、たまにこうして制限されることもある。
巷で話題のアーティストにアイドル、バンドとかミュージシャンとか、壮五は叔父の影響だけでなく自らの「なりたい」世界のひとつにそれらはあり、応援しつつ憧憬しつつ時折妬ましくさえもあった。
Dom性をもって生まれたからには芸事の類をすることは法律で禁止されていた。
人口の約三割という少ない人種へ対するそれは紛うことなき差別行為であるがグレアという能力を生まれつき携えるDomという得体の知れない生き物というのは軽蔑視されて然るようなところもある。
壮五のようにアルファという血統な上に生まれも育ちも生粋の金持ちならば話は別だが一般的にダイナミクス性はDomだろうがsubだろうが持たざる周囲からの理解に乏しく肩身の狭い人種であることを日常で思い知っていた。
ただ、生まれのお陰で生活に困るようなことは今までに一切無かったのは幸運で、その上やりたいことだとか普通の通常の"一般的"な人間が望むようなことを"持つ者"が欲しがるのは本来ならば贅沢な話であることを壮五はきちんと理解している。
そのささやかな贅沢をしに壮五が一人で立ち寄る公園はいつも大体決まっていて人が居ない時間帯も把握している。歌う気分ではないにせよ外の空気でぼやっとしたいと思っていたので何の心構えも無くふらふらと訪れたのだ。
環と出会う為に。
「ダンス?好きなのか」
「…まあ。ストレス発散って感じ」
「身体大きいし見栄えがしそうだよね。subなら気に入ってもらえたら芸能事務所とか入れるんじゃない?」
「じむしょお?信頼できないしまずもってオメガだから無理。借金もあるし」
「ああ…発情期が不定期なんだっけ。それも大変だったね…」
作りたての湯気のたつパスタをじっと眺めているので食べないのかと問うと、環は壮五とパスタを交互に見ながら訝しげに眉を寄せる。
「んでこんな良くしてくれんの。それにおれと番なったって何も得なことねーよ」
「それは君が決めることじゃないよ」
「アンタが決めることなん?」
「ふふ。一方的なのは好みではないから、君がいいよと言うまでは何度でもお願いするさ」
「いみわかんね。いくら抱えてっか言ってやろっか?」
「先にごはん食べたら?冷めちゃうよ」
「……あと八百万ぐらいかな。増えてなきゃ」
ぽつんとそう零した環が静かにフォークを手に取ると行儀よくいただきまあすと手を合わせたのを見て、壮五にはもうどういう感情か言い得ぬ強烈な庇護欲が吐きそうになるぐらい胸いっぱいにせりあがる。
頼られたい。この貧弱で脆弱でか弱いオメガを何とか今すぐ安心させてあげたい。
興奮を悟られないように努めて冷静にうん、とひとつ頷く。
「それぐらいなら払ってあげるよ。僕と番になろうよ。」
「っ……は…!?」
「八百万だろう?まあ確かに小さくはない金額だけど、幸い僕が余裕で賄える金額だから」
「…?待って、何が目的なん?おれなんかアンタにしたっけ?どっかで会った?」
「まさか。会ってたら手放したりしないよ」
「詐欺師!?だます!?身体つかうよりしんどいことって何かおもいつかねーけど、もっとひでーことさせるきだろ!?やばい、にげる、アンタやっぱ怖い、さよなら」
「っ!!!やだ!だめだ!何でだい!?しないよ!だましたりなんてそんなことしない!ちょっと待って!待って~~~~~~!」
「やああだああああああ…!!!!!離れろおおお…!!!!!」
即座に玄関へと駆けだした環に驚いて壮五は思わず腰にしがみつく。身体の大きさでは勝てないのでそのままずるずると玄関までひきずられながらも必死に弁解する。
「いいます!正直にいうから!とりあえずご飯食べてくれないかな!?」
「何で!?どく!?どくが入ってる!?睡眠薬的な!?さよ~なら~!!」
「ちがう!!!!!そんなことしないったら!!!!!オメガでsubの子を生まれた時からずっと探してたんだ!!!!!!!!!」
その言葉にようやくピタっと動きを止めて訝しげに環が振り返ったのを見て、やっと壮五はほっと胸をなでおろした。どうやら回りくどいのは良くないらしい。時間を置かずに結論だけを伝えるのが有効なのかと肝に銘じた。
ここにきて実力行使では意味が無いので、環の目をじっと見ながらも条件反射でグレアが出てしまわない様に気をつける。
「さ、さがしてたんだ…わかるかな…僕は、ずっと君の体質つまりオメガでsubである人間をどうしてもパートナーにしたくって、ずっとずっと探してきたんだ…理由はひとつだよ、その方が全部都合がいいからだ、見つけたら随分前から嫌がられても番になろうって決めていたんだ、幸せにするから、ね、ね…」
「やっぱ自分勝手じゃん。嫌がられても番になろうって決めてたってどういうこっちゃ。……でもまあ、アルファっぽいよ。まだそっちのが信用いく」
「そう、良かった…。ご飯食べよう。せっかく作ったんだ、僕も一緒に食べるから…」
怪訝にだがようやくソファに戻りパスタを口にした環がもくもくとその大きな口いっぱいに頬張るのを見て、自然と壮五の口元が緩んだ。大きな犬みたいだ。こういう言い方もなんだが、やはり超超超気に入った。直感を信じて良かった。何なら既にもう大好きだ。絶対離さない。絶対に逃がさない。死ぬまで、死んでも一生側にいる。おく。
ぼさぼさになった頭と乱れた衣服を直しながらキリっと居直る。
「ねえ、環くんだっけ。君の事めちゃくちゃ好きになってしまった。やっぱり番になろう」
「は、いやほえとこえとははなひべふ」
「どうして?お金はあるよ。一生面倒みる。アルファでDomの方が、君にとっても都合がいいだろう?」
「んぐ………そりゃそうだけど。りがいかんけい?が一致してるならわかんなくもないけど「好き」はちょっと微妙じゃね?うさんくさすぎ。番は取り消せないんだぜ。アンタはんなこと関係ないかもしんないけど、おれはオメガなんだよ。簡単に信用するわけねーじゃん」
「そう……。思ったより傷つくな…。まあ、そうか……。軽率だった…。僕が悪いね…。確かにそうかもしれない…。どうしようかな、じゃあ番はあとでもいいや。まずはお店やめようか。僕部屋のサブキー作ってくるから手続きが終わったら連絡してくれ。借金ってしたことがないからよく分からないんだけれど、お金は一括と毎月とどっちがいい?一括だと怪しまれたりするのかな?とりあえずはおろしてくるね。途中でまた発情しちゃったら困るし返済には一緒に行こうね。あとケータイ持ってないって言ったっけ?それ僕が不便だから好きなの買ってあげるね。今日行く?普段はどこに住んでるのかな?引っ越しの業者必要だったらすぐ手配するよ。あ、そうだ今夜は何食べたい?好きなものがあれば言って!作れそうなら作るし、外食がいいならそれでもいい!あとね!」
首輪いつかいにいこう!?という壮五の怒涛の"自分勝手"具合には、さすがの環も何も言い返せずに歯をぎりぎりと言わせるばかりなのであった。
Episode04件の狗について
<4>
どんな人間だって根っこの部分は一緒だ。
飽きたら捨てるし満足したらどうでも良くなる。一生側にいて、一生愛してくれるなんて、そんな夢みたいな現実はあり得ない。
はじめは興味があるから側へ来る。気持ちいいからセックスする。本能に抗えない性別のしがらみを満たしたいから優しくしてくれる。
店に来ていた常連アルファなんかはいい例で無論「何も考えないで気持ち良くなる時間」をわざわざ買いに来ているんだから当然だ。それで商売をしているのだから、こちとら求めたりしたらそれは虚無。無駄。虚しい上にしんどい。
欲求を満たしている間だけ契られるアルファとオメガにしかない永遠の契約だって科学の進歩で超手軽にその永遠の快楽を味わえるようになった。まったく一晩ぽっちの番と何度永遠したらいいんだろう。ああ、取り消すことが可能なんだからそれはもう永遠じゃないのか。これだって超虚無。
死にたい。否、死にたかった。誰にも大事にされない人生の路はトゲトゲで痛くて氷の様に冷たい。
麻痺してくれない裸足で歩き続けるのは環にとっては正直とても困難でどうでも良くなりたいがそれが許されないから苦しくて泣きたいのに発情期になればアルファの仮初の愛情ででも満たされてしまう。擦り減り摩耗した心にあたたかく降り注ぐ嘘の愛はそれでもあたたかいから救われてしまうのだ。
愛されたい。大事にされたい。自分のことだけを一秒も目を離さないで見ていて欲しいのに。
環は広いリビングに響くタイピングの音を聞きながら朝からモニターに向かいっぱなしの壮五の背中を見詰めた。
この真摯な優しいアルファだってどうせ飽きる。熱烈に番関係を求めてきたはいいが簡単に靡いたらそれこそ劣勢性の愚鈍の極み。自分の身は自分で守らなければいけないしここでほいほい信用したら負けだ。
相性がいいのは事実だと思った。こんなに気持ち良いグレアは初めてだったし、わけがわからないまま身を預けて意識を飛ばしてしまっても今のところ酷い目には遭っていない。
世間一般の常識ある人間というのはおもにこういう感じなのだろうか。プレイの強要もバッドトリップのオプションも、そんなことしなくてもただただ愛してくれるものなんだろうか。
フツーの人?それとも、本当に物凄くいい人?
「……環くん。お腹すいたら適当に食べていてね。作り置きでも良かったら冷蔵庫にあるし、出前とりたかったら頼んでいいから。カップ麺も取り寄せてあるからお湯沸かして作ってもいいし」
「……いーよ。プリン食いたい。…下のコンビニ行ってきていい?」
「ダメだ。僕が仕事終わるまで外には出さないよ。って昨日言ったよね?いい子にしていて」
ちりっと一瞬張り詰めた空気に黙って従う環はさくじつ注がれた怒りのグレアを思い出して身震いする。
拾われてから数週間、ひと月には満たない頃であったが環は壮五の琴線を探っていた。
壮五は本当にちっとも怒らない。どんなに悪いことをしても環の行いに対して優しく注意し宥めて軽くお仕置きする程度でその後も無論当然の様に過剰なほどのアフターケアをしてくれた。当たり前だが何の罰にも感じられなかった。
こうあまりにも優しくて懐が大き過ぎると環は漠然と不安になった。得体が知れないというか、ちょっと気持ち悪いとも思った。
とは言え、借金も返済してくれ、毎日の生活の保証をしてくれ、優しくて綺麗で、このまま信用してしまいたい、という気持ちがあるのも事実だからこそより慎重になってしまう。
環はこのままだと壮五のことを何の見返りも無く好きになってしまいそうだった。本当はもっとべったり側に居てずっと構っていて欲しいのに舞いあがった気持ちにいつかしっぺ返しを食らう可能性がゼロじゃないことを思うと心底怖い。
その恐怖が行き過ぎて、先日黙って外に出かけたことがあった。
数々の悪行もついにネタが尽きてしまい壮五も仮眠をとってしまっていて暇だったのだ。
思えば確かに壮五に断らずに外へ出たのはこれが初めてだった。それまでとんでもない所業をたくさん仕掛けていたがさっぱり琴線に触れなかったので野良犬の様にふらっと外に出かけるぐらい何でもないと、環は本気で悪気なくそうした。
つまり悪いことをしようとしたわけでは無かった。ちょっとだけ心配してほしかった、それぐらいのものだ。
その二日後、つまり昨日の早朝、何の気なしに普通に帰宅した。その間はと言えば特に何もせずただぼやっと街を歩いて少し贅沢しようとコンビニで買ったプリンを一人海岸沿いの公園で食べたぐらい。
発情もしなかったし屋外で一晩を過ごすことなどしょっちゅうだったし慣れている。当然だったが別に誰かと身体を交えようとしたわけでもない。
「……」
店にでも戻れば多少は怒ってくれるのだろうか、そんなことを思いながら玄関を開けたすぐそこでスマートフォンを穴があくほど見つめていた壮五が環の姿を確認した途端出会って初めて無論今までに見た事がないぐらい怖い顔をした。
目と目の間で強烈な支配関係が瞬時に構築され、環の全身の産毛が総毛立つ。驚く間も無く壮五が一言「kneel」と呟いたことで環の膝ががくがくと震えその場にへたっと座り込んだ。
「っ……」
「look」
「あ、……」
「イエスかノーで全て答えるんだ。いいね」
「へ、あ…」
「誰かと会った?」
「ん、…な、なに、あってな、…」
「sheus!いうことが聞けない?じゃあ何してきたのか言ってごらん」
「っな、なんにもしてないっ……!ちょっと散歩してきただけじゃんか、なにおこって、」
「一晩かい?誰とセックスしてきたの。怒らないから言って。それと今度からしたいなら寝ていても起こして。何も言わないでどこかに行くのはもう二度としないでくれ」
「し、してないって……うそじゃないっ……」
「もうどっちでもいい。come。逃がさないから、絶対誰にも渡さないから。君はもう僕のものなんだぞ。今更他のアルファを選んだりしたら、…殺すからね」
耳元でそう囁かれながら緩慢にじっくりと抱きしめられて何のリアクションも許されずに環はただただその重たい束縛を受け入れた。
しばらく抱きしめられたままに黙っていると壮五が不安気に呟く。
「僕のこと嫌か……?」
頷けるわけがない。そっと首を横に振ると震える手で壮五の背中にゆっくり触れる。
「外に行かないでって言ってるんじゃないんだ、黙って消える様な真似しないで欲しいんだよ、びっくりするから」
「……ごめん……」
「ううん。分かってくれたらそれでいいから。あと、スマホ何で何も返答してくれない?」
「み……見て、なかった……」
「……そう。分かった」
そう言って身体が離され環は恐る恐る表情を窺うと目が合う前に口に軽く触れられた。
「もうこんなこと絶対しちゃいけないから、お仕置きだよ。シャワー出して、お湯をはってきて。出来る?」
「……ん、…」
「goddboy。さすが僕のsub。愛してるよ」
言わずもがな、その後の苛烈なお仕置きとでろでろに甘やかされたアフターケアに深い恐怖心と至高の快楽を植え付けられ嘘でも本当でも自分以外を選ばなかった場合「殺す」と言われた衝撃を今朝からずっと考えていた。
人の根底は一緒。サイクルの仕組みも感情の歯車も大体同じ。
殺したい程愛するだなんて会って間も無い人間に永続する感情のはずがない。ただ今だけ、他人に玩具を取られたくないだけの我儘な金持ち、そう思えば思うほど環の気持ちは一心に壮五に向いた。
裸足の足の指がもぞっと動く。
嫌われたくない。離して欲しくない。疑っているのに愛して欲しくて仕方が無い。環はきれいに掃除されたフローリングをじいっと見つめながら出来るなら今死にたい、とそう思った。
「…………そーちゃん」
「………?僕のこと?」
「もしおれが死んだらアンタも一緒に死んでくれる?」
「勿論」
壮五は画面から目を離さないまま即答した。
「っ……絶対だぞ。捨てたら死ぬからっ……飽きたら死ぬからな……!」
「おおいにけっこう。捨ても飽きもしないから特に問題ないよ。…って、こら」
気がつけば部屋中が環の発情の匂いで満ち満ちる。
死ねない。そんな勇気はない。だから辛くても生きてきたんだ。答えのでない葛藤にもうこれ以上難しいことを何も考えないでいたくて棚からくすねた発情誘発剤を噛んだ環の覚束ない理性は壮五の首筋を加減しないで強くかじった。
急にそうされてびくりと一瞬跳ねてからちょっと待って、と言った壮五は少しの間のあと画面から目を離した両目でようやっと環を捉えると即座に身動きできないほどガチガチに拘束していく。
そんなふうにグレアを施されてしまえば立ってはいられないほど強烈で濃厚な壮五からの愛情は飢えた環の脳髄をあますところなく優しく愛撫し求めていた「強い束縛」を見事に体感させられてしまう。
ただ抱きしめられているだけなのに涎をこぼしながら自制のきかない愛されたいの気持ちが口からだだもれていくのだ。
「はー、……う、……ずっとこうしてて、……もっと、つよくぎゅってして、ほし……」
「どうしたら信じて貰えるのかなあ。環くんが不安にならない方法をいつも考えてる。僕の何をあげたら君はこんなに不安にならずに済む?僕はどこにも行かないし、君を捨てたり嫌いになったりはもう一生しない……って、こんな言葉じゃ余計不安になるのか?」
「ふあん……?」
「不安だからいつもセックスしたいんだろう?君のsub性が全然満たされていないってことじゃないか。どのぐらい寂しいの?どうしたら満たされてくれる?何でもするから、僕のこともっともっと欲しがって」
契約したDom性だからとか、噛んでくれたアルファだからとか、そんな理屈が吹き飛ぶ程のただただ深い慈愛を唇からゆっくりと長い時間をかけて注がれて例えばそんなことをされて正気でいられるsubもオメガも果たしていると思うのか。
望み通りの何も考えない気持ちいい時間に溺れて環は壮五の言う満たされない不安から今だけは確実に解放されている。
だとしても何が欲しいか、どうしたら満たされるか、そんなこと、環自身にだって分からない。
セックスする身体の快楽じゃなくて、愛してるよの支配的欲求じゃないなら、一体何をされたらこんなに恐怖を感じなくなってくれるのか、実のところ自分が一番よくわからないのかもしれない。
ただでさえ不安定な発情を無理に誘ったお陰で、環の承認欲求はどんどん加速し壮五が何かアクションを起こすその度に終わるんじゃないか、やめるんじゃないか、嫌になったんじゃないか、やっぱりいらなくなったんじゃないかとどうしようもない黒が途切れることなく胸を覆う。
「環くん、だめだよ、落ち着いて」
いつの間にかがたがたと震えている全身をそうっとゆっくり撫でられながら平坦な壮五の声が真っ暗な途方のない闇の中に届いた。
「そっちじゃない。そっちはとっても暗いから、僕の声をちゃんと聞いて。不安にしたね。この前怒ったからかな。君が嫌なら仕事控えるね。落ち着くまでずっと一緒にいよう。どうしたらいいか二人で考えてみようか。僕に何かしてほしいことはある?」
バッドトリップしかけていた環の精神が非常に危ういバランスで踏みとどまっているのが分かる。壮五の抑揚のない声にしがみついて落ちたらやばいとすぐ背面に迫る恐怖と半々になりながらずっと一緒にいてほしい、と弱く吐露した。
「いいね。ずっと一緒にいるね。それからどうしよう?」
「……そ、う、ちゃん……の、役に、たちたい……」
「役に?そうだったんだね。ありがとう。そういうことなら分かったよ。考えておくね。それから?」
「…………番、に、してほし、い」
「……goodboy」
とても優しく微笑んだ壮五は毎日毎晩のように噛んでは解消を繰り返しあざの様になってしまった環のうなじのある一カ所を丁寧に舐める。そしてもう二度と他のアルファが噛むのを許さないための契りを躊躇なくまた、加減なく刻み込んだ。
性行為の伴わない番の契約はこれが初めてで、環はじわっと広がる快感に似た熱がうなじから全身に流れて行くのを感じなんとも言えない安堵よりも濃厚な幸福感、とでもいうべきかとにかくめちゃくちゃに安心して眠たくなった。
お決まりの抱っこでゆらゆらと揺られながら、仮初の発情がバッドトリップの終息と共に薄れぽかぽかの体温に紛れて霧散していく。
「かわいいな。赤ちゃんみたい。もっと泣いて僕を困らせてくれていいんだよ。まだまだ僕、うんざりするほど君に裏切られていないよ。たくさん試して。僕は君を絶対に許してあげるから」
大きな窓から注ぐ陽光を背に真っ黒な影のように逆光を纏う壮五の支配。必要とされる為の自らの代償があまりにも小さすぎることに不安になっている環だから壮五が唯一欲しがる番という関係を素直に簡単に明け渡してしまうのが怖かっただけだ。
本当なら全部あげたって構わない。本当にこのままずっと一緒にいてくれるなら。
壮五が「転職かあ。どうしようかなあ」とぼやいたのをぼーっとした頭で聞いた環はおれまた店やろうか、と言う前にまどろんだ意識が途切れたのは不幸中の幸いだった、のかもしれない。
Episode05件の狗について
<5>
今日はとてもいい天気だ。窓の外のすっきりと晴れた空を見て壮五はそう思った。
例の猫耳のパーカーを身につけて部屋のフローリングを掃除してくれている環のゆっくりとした動きを大変心穏やかに見詰める。
約束したので仕事はやめて、それからは随分経った。無職になったものの生活の水準は下げないまま今は環と二人かなりのんびりとした毎日を送っている。日がな一日ごろごろしてだらだらしていちゃいちゃする。相変わらず不定期な発情ではあったが不安が過ぎてバッドトリップするようなことはあれから一度もないのでなんだかんだ番となってべったり一緒にいることで気持ちは紛れてくれていそうだ。
「今日のお昼は牛丼だよ」
「おー、ヤッタ」
とはいえ、とりあえず今はある分の貯蓄で生きられるとしても、今後一生安泰なわけではないから何かしら稼がないといけない。などと思いつつ牛丼を頬張る環の愛らしい口元を眺めていた壮五は、つけっぱなしのテレビで歌うayaというアイドルにくぎ付けの環の目玉に今更気が付いた。
先程から壮五は環のことをこれでもかとじっと見つめているのに、当の環はともすると壮五を見る時よりも熱い視線を画面に送っているのが分かってしまったのでちょっとだけ嫉妬する。
「……好きなの?」
「え?」
「真剣に見てるから」
きょと、とテレビと壮五を順番に見てから「まあ」とだけ言った環がちょっと嬉しそうな顔をしたのを壮五は見逃さない。女性性である彼女は確かベータ。業界人ということはおのずとダイナミクス性は持たないのだろうが顔は確かに人形みたいに可愛らしくて上品な雰囲気もある。歌唱力が非常に高くみかけよりも力強い歌声で評判だったか。歳はきっと環よりずっと若い。
テレビを見詰めながらそう思ったところで歌唱後の束の間弾ける笑顔を突如しまいこんだayaは「情報を探しています」と真摯な顔でこちらを見詰めた。
「どんな些細なことでも構いません。兄を探しています。ご協力よろしくお願いします」
次の瞬間パッと画面が切り替わり、テレビいっぱいに映った顔はどう考えてもまごうことなき目の前にいる四葉環だった。
あまりの出来事に声も出せず、今度は壮五が環とテレビとを何度も往復する。
「え!?」
「まじか。やばい。借りてたケータイ置いてきたから連絡すっかり忘れてた」
「……っえ!?」
メディアでおおっぴらに顔写真を公開されたのは彼にとっても予想外だったようで、それでも特段のんびりとした声音は変えないまま環は再び牛丼を口いっぱいに頬張った。
美味しそうに食べているからいいにはいいが、混乱した壮五の頭は並べられた情報を処理する速度が追いつかずただ環をやはり見詰めた。
ayaは兄を探していますと言った。兄。ayaは妹?アイドル。借金は親のものだと環は言っていた。彼女にも負債が?それとも彼女の負債だった?どちらにせよ影響力のとても高い人気アイドルがこれほど公に声をあげていたらきっと環のことをそれなりに、いや、血眼になって探しているのと違いないのでは。
「んっ?!知らなかったとはいえ、妹さん…に連絡はしなくていいのかい?」
「んあー。するかー。心配性だから今の状況言ったら揉めそうだけど」
「というか、彼女は君がお店で働いてること知っていたの?」
「いやいや。言うわけねーじゃん。店潰されちゃうだろ」
「………????」
「まあ、あいつはあいつなりにおれとは違う形で散々苦労してるから、余計な心配も負担もかけさせたくないってのが本音。親父の借金もおれがそれを肩代わりしてることも、理には言ってないよ」
「……そう、なのか……」
「理とは昔、施設でバラバラになったまんま。そのあとはあいつもおれもお互いがどんな生活して生きてきたのかちゃんと知らないから。金の面倒はみてやれないしこんな身体じゃ会うのもリスク高かったし」
平然とそう言うが環にとってそれらの全てがどんなにか辛い選択だったかなど最早明白。黙って身体を売って父親の借金を背負っていただなんて事情を身内だろうと他人だろうと知られて嬉しい人間などいるはずもない。
憂欝そうに表情の曇った環にかける言葉がないのでどうしていいか分からなくて、というかどうしてあげることも出来ないからこそ壮五は不甲斐ない気持ちで無言のまま頭を撫でた。
「……なに」
「ううん。何も出来ないから……」
「別に、……アンタがそんなこと気にしてもしょうがないじゃん」
「そうかもしれないけれど」
「だから言ったろ、おれのこと番にしたって何もいいことないよって」
「そんな話はいいよ。いくら君でも、僕のsubを傷つける言葉を言うのは許さないよ。愛してるから、ちゃんと君も君のことを大事にして。身体だろうと心だろうと君の事は僕が一番大事にする。だからその次に君が大事に愛してあげなくちゃ」
「…………」
環ははにかんでついぞ初めて嬉しそうに「あんがと」と笑ってくれた。
爆裂可愛いその顔に衝撃を受けた壮五はもう世界中の幸福を纏めて身体の穴と言う穴からぶちこまれたような気持ちになってしまい胸がぎゅうううと苦しくなった。
番になったメリットなんて環にあってくれたらそれでいい。こちとら環というsub性でオメガ性に頼られているという事実だけでお腹いっぱいだし安心してこの手の中にいてくれさえしたら他は何をしたって許してあげられる自信があるのだから。
こうして、何の因果か壮五は環の妹、ayaというアイドルと対峙することになったのであった。
「兄ちゃん……」
「おお、久しぶり。連絡取れなくなっちゃって」
「なっちゃってじゃないでしょ!?今どこにいるの?ちゃんとした生活してるの?」
「してるしてる。これ、新しい連絡先。んで、この人、おれの番」
「……番……?」
某事務所の応接室。
対峙したソファの真向かいに座るayaのぐりぐりに大きな瞳がつるんとこちらを向いたので、軽く会釈をした壮五だったが、圧倒的な嫌悪の目線を向けられて若干たじろぐ。良く見たら確かに顔立ちもそっくりだし何よりその真っ直ぐな強い意思の宿る目は血の繋がりを色濃く感じられた。
「逢坂壮五と言います。いつもテレビで拝見してます。力強い歌声と魅力的な笑顔に元気を頂いてました。環くんとは半年程の仲ですが」
「半年?兄ちゃん。この人とたった半年で番になったの?どうして相談してくれなかったんだよ」
「……ケータイ壊れてたし……」
「ホントは不本意?解消薬が間に合わなかったの?」
「いや違うから……」
だったらどうするつもりだったのかを壮五は瞬時に察してああなんだか、そうだな、とりあえず仲良くなったら気が合いそうだがこのまま敵意を持たれたらまずいだろうな、とそう思った。
余計なことを言ったら多分修復不可能な溝が出来ると思ったが何せドアルファでドDomである壮五なのでどうしてもどうやってもどう下手に出ても滲みでる余裕は消せっこないもので。
「一応、同意の上でそうさせて貰っています。もし今後、彼が僕との番関係を嫌だと申し出ることが万一あれば、僕は死んで彼を解放することを誓います。申し遅れましたが、出生はファイブスターカンパニーの元跡取りで今は理由あって外で一人で生計を立てております。性別は見ての通り、男性性、アルファでDom性を持っています。今のところ彼の生活を支えるに不足ない程度の貯金は」
「人の話が聞けなさそうな人だけど、兄ちゃん丸めこまれたりしてない?難しいこといっぱい言われて都合よく使われてるのに気が付いてないだけなんじゃないの?」
「……ありま、す……」
「おれが信じる人をお前にとやかく言われる筋合いはないけど、心配してくれてんならそう素直に言ってくんないとおれ以外には絶対伝わらないぞ」
「兄ちゃん以外に伝わる必要ないじゃんか。わたしがお金出そうか?番はしょうがないけど、不慮の事故なら得意だよ」
「いやヤクザじゃん……」
小さくため息をついた麗しい唇が綺麗な花柄のコーヒーカップとくっついたのを見て壮五はまるで少女漫画の一コマみたいな絵面だな、と呑気に次元を疑った。
物凄い警戒心と拒絶を真っ正面から遠慮なく叩きつけられてはいるがここで逆上したって彼女の自分へのイメージがいい方へ転がることはない。何たって彼女だって環のことが大事で大切だからこそこうしているのだろうから、今は理解して貰えなくても少しづつ認めてくれたら嬉しい。
とさっきまでは思っていた。環の本日の身の拠り所の話題になるまでは。
「いやっ……!住所もちゃんと教えますし彼だって今は僕のマンションが好きですっ……!」
「寝床が好きか嫌いかなんて話をしてるんじゃないんですうううううう」
「あーー……あのお……そでのびっから両方からひっぱんないでー……」
「兄ちゃん!?わたしと来るでしょ!?」
「環くん、帰ろう」
「……。 仲良くしてよ……」
かくいう有名事務所のエントランスではあるがまるで対極の二方向に引っ張られたままの環がやはりのんびりとだが仕方なさそうに「あや」と口にした。
「ベータのお前には分かんないだろうけど、おれは普通の人間の暮らしは出来ないからさ。今はやかもしんないけど、おれはそーちゃんがいないと死んじゃうんだよ」
「それは番だからでしょ!?」
「違う。subだから。ほかのDomが皆この人みたいだったらおれは今理のところに行ったっていいけど、そうじゃないからおれはおれのことを大事にする為にそーちゃんと一緒に居なくちゃいけないんだ」
「…………」
「心配してくれてありがとな。連絡は、なるべくする」
そう言ってとことことこちら側に歩いてきた環はいこう、と壮五の手を持ちその手ごとばいばいというふうに横に振った。
ayaの悲しそうな顔は、とてもよく環に似ていて一瞬ひどく心が揺らいだ壮五だったがこうして環が選んでくれたのだから何を言う権利も増してや二人をどうしてやれるちからも、自分には無い。頭を出来るだけ長く下げてから環と共に自動ドアを潜り抜ける他ないのだった。
事務所を出てしばらく歩いたところで、環はめんどうだったろ?と苦笑した。
「面倒じゃないよ……。家族なら当然の反応だろうし、でも、僕も環くんのこと手放したくなくて大人気なかったよね……。すみません……」
「はは。嬉しかったよ。上手くやってくれようとしてさ。けど理にはおれの性別の厄介なとこどうにも出来ないのはほんとだし、発情したら結局誰かに面倒みてもらわなきゃいけないだろ。だからいいんだよ」
「……うん。僕、あの子がこの関係のことちゃんと許してくれるようになるまで頑張るから」
「許してるよ。じゃなきゃあの場で殺してたと思うよ」
「…………………………」
朗らかにそう言った環の言葉が本気かどうかよく分からなくて黙ったが、すこぶる本気な気がして若干震えた。芸能界はそんなに危険なものだったのか、と改めてそれぞれの生活圏にある苦悩はやはりそれぞれなのだろうななどと壮五は青ざめながら思いを巡らせた。
それから、この時事務所のエントランスに居合わせたという男が環の番号に電話をかけてきたのは一週間もあとの話だった。
ここから単話
Episode**バースデイ
いくら境遇の所為とは言え、こう毎日毎晩本能からの欲求を少しも拒絶できない環の身体を見ているとイツドコデダレニこの姿を見られてとって食われやしないものかとハラハラする。
無論、当然だが無暗にどこかに出すつもりもない。番の権利はようやく勝ち取ったので劇薬に遠くはないこの淫らなオメガの匂いも他の雄には絶対に感じ取ることは出来ない。でも、けれど、だとしても、匂いの問題と環の持つ性的な魅力とはまた違うと思うのだ。
うなじに刻まれる幾つものアルファの歯形。身体の仕組みは薬で無かったことに出来たが、痕跡までは消えず番った証拠はオメガの首に一生残った。いうなればこの数分、今まで他のアルファに身体を許してきた証拠でもあって。
バース性に殊従順な環は身体が欲しがったらそれに抗うことが今のところ全くと言っていい程に出来ない。まあ、身を売って生計を立てていたと言われたらそれまでで、立派な、むしろ立派過ぎる商売道具に育ったのだと捉えたのなら百点満点の花丸なのだろう。
「…………噛むよ」
もう番っているのだから一ミリも必要のない行為だが、この汚れたうなじを見る度に心には黒く苦い渦が巻いた。苛立ってしょうがない。なに他人に噛ませてるんだ、何でもっと早くここに来なかった、自分だけが良かった、今はもう自分だけの環に違いないはずでそれ以上どうしようもないのに、他人の跡が残っているのが堪らなく気に入らない。痣になるほど毎度強く噛んでしまうのはこれらのどれよりも特別なものであることを懸命に誇示したいが為だ。
「ッい、たいぃ……」
痛いという言葉には脳の奥がびり、としびれ警告してくる。しかし、Dom性とアルファの本能はひとつしかない自分だけの番の身体がよもや複数のお手着きであることを俄然責めたがった。すごく我慢しているつもりでも吐精に昇り詰めるとやはり制御しきれぬ独占欲には勝てなくて困る。過ぎればどうとでも言えたが自分自身が一番よく理解していた。
環の処女も初めての番ももう二度とは手に入らないのにそのどれをも持ってはいないという事実に血統のプライドが納得出来ないと苛立っているのだということを。
ともすれば、リワードをしつこくしてしまうのはそういった執着心を抑えきれないことによる罪悪感からくるのかもしれない。
だから、セックスの後すぐにサブスペースに入ってくれる環には心から安心する。欲求に対して十分な満足を与えられている証拠でもあるわけだし、否、それは言い訳だとして、何より理不尽に醜い嫉妬に抵抗出来ずに抱き潰す「失敗」を繰り返してしまう自分を悟られたくなくて必死になっている。
何をしたところで、番であることはもう死ぬまで変えられない。だから、誰を経由したかより誰で留まったかが大事だなんて、心から思って言えたならきっともう少し格好がつくのだろうけれど。
(バースデイ)
「…………」
深いサブスペースを抜けた直後だというのに今日の環は理性の残った顔をしていて少し気になる。
激しい交わりのあとは例の如くしつこいリワードでそのまま気持ちよく眠ってもらうのが通常のセオリー。くったりと力の抜けた大きな身体を撫でて様子を見つつ季節柄かさついていた唇にクリームを塗ってやる。いつもなら眠ってしまっても不思議でないのにぼんやりとしたまま意識を漂わせているので体に触れながらどうかしたのかと問うてみた。芯からセックスに没頭出来ない理由があったのかもしれない。と言っても酩酊状態なのは明白だったしちゃんとした返事を期待しているわけでは決してなかったけれど。
横になったままゆっくりと目が合うと、環の瞳に若干色が入った気がした。
「……ん……」
「ん?」
高揚の余韻かまだ震えのおさまらない指先が口元に触れてくる。高い体温。環がキスをせがむのは珍しいので本当に何か嫌な行為があったのか不安になってすぐに顔を寄せた。
「なんだい。もしかして何かいやだった? 言ってるだろう、ダメな時はセーフワードを言ってって」
「…………お……」
「……お?」
「お……おめでと、って……言って……」
「……へ……?」
「…………あ……でも……やっぱし……抱っこ……」
唇に少し触っていた指先が頬を滑って頭の後ろにまわる。襟足をくすぐり甘える仕種に疑問はさておき腕枕で返答しておく。鼻先の擦れ合う程近くで息を交わし合いながらあえて何も聞かずに唇を啄むと環からはようやく安堵の嘆息が漏れた。理由は何にせよ少なからず環にはセックスに没頭できないほどオメデトウと抱っこの欲求があったのだろうなと思う。仮にも身体を預けてくれているsubの欲求に気が付かないなんてDomとしてはいかがなものか。己の未熟さに打ちひしがれそうになるのを堪えて早速敗因の究明にかかるとする。
「……ねえ? 何がおめでとう? 教えて欲しいな」
「ん……? ん……抱っこがいいから……おめでとはもういらない……」
「君が欲しいならおめでとうも抱っこもいくらでもあげられるけれど、お祝いして欲しいことがあったならちゃんと教えてくれないと困るよ」
「……困んの……」
「そうだよ。困る。君が嬉しいことは僕だって嬉しいに決まってるんだから」
「……ふーん……あ……でも、嬉しくは……別にない、から、やっぱいいよ」
どうしてはぐらかされているのだ。環が眠る前に耳をいじられるのが好きなのは知っている。淡い室内灯に反射してきらきらしている産毛をなぞってじっと見つめた。
「…………goodboy。いい子だから教えて。キスはそのあとだよ」
「えー、……しつこいなあ……ンー……今日……タンジョウビだから……」
「タンジョウビ」
「ん。タンジョウビ」
「っ……え、えっ、えーーーーー!? た ん じょ う び !?」
「イタ! えっ、耳ひっぱってるっ!? いいたいぃっ! やめてっ!」
「ちょっと待って! 嘘だろう! ばかばか! なんでそんな大事なこと黙ってるんだよ! というかもうあと二分しかないじゃないか! ノー! すごく、すっっごくいけない子だぞ!」
「んやううっいいってええええからああああ!!!!!」
さてもこうしている場合じゃない。とりあえず今日のうちに言わなくてはいけないこと、環の身体を引き起こし力いっぱい抱きしめる。壁にかかった電子クロックの59という数字を見ながらまずは「おめでとう」と囁く。
「環くん。この世界に産まれてきてくれて、ありがとう。僕のところに来てくれて本当にありがとう。大好き。一生、なんなら次の一生もその次の一生も君と出会って僕だけの環くんでいて欲しい。誓って。この先ずっといつまででも僕以外の誰のところにも行かないって」
「……みみぃ……ひっぱったくせに……(小声)」
「ふふ、ごめんね。びっくりしてつい。ね、絶対だからね。君の全てを愛してる。お誕生日おめでとう。遅くなってごめん。明日はおいしいものたくさん食べようね」
「……べつに……なんもいらないから……」
00:00の表示の瞬間照れて伏した目にlookのコマンドを入れて視線の合ったまま触れるだけのキスを短く強いる。
期待に揺れ潤む水色がもっとと言う前に優しく押し倒してやるのは今与えてやることのできるせめてものバースデイプレゼントといったところだろうか。
ただいま明け方の寝室、今度こそ何もかも忘れてしまう様なべたべたに甘いバースデイセックスで文字通り溶けて形の保てなくなってしまった精神を時間をかけてゆっくりゆっくり奈落の底から呼び戻されている最中である。
一体何をされているのかは何度落とされてもよく分からないが、とにかく気持ち良くて楽ちんで壮五の施すトリップは深くても浅くても最後はいつでも極上に甘かった。
「辛くない? ゆっくりでいいよ」
トリップ中は壮五の声だけが頼りだ。ぼんやり暗い温い空間に精神だけで揺蕩い彷徨う絶妙に軽くて楽な気分はこの世の何に例えようもない。
ただ、「慣れてくる」と落ちるまでのあいだを感じる余裕も出てきた。
その際通り過ぎるのは、どうやらこの人生を形成している産まれてから今までの様々なたくさんの記憶のようだった。多分、時間にしてみたらそれは物凄く一瞬の出来事で避けたり見ないフリも出来ないままいいことも悪いことも必ず全て通過していった。
確かに一瞬ではある。きっと一秒にも満たないほんの短い瞬間ではあるのだけれど記憶の一番はじめ、底にごろんと横たわっているのは「抱っこ」と共にある強い「虚しさ」だ。
いい匂い。でも二度と感じられない。あたたかい。やわらかい。裏腹に、人は死んだら臭く固く冷たくなるのを今はもう知っている。この時は自身を抱くふかふかの優しい匂いの手が身体がいつかは朽ちるのだなんて一ミリも考えていなかった。透明で無垢な記憶に水を差し濁してしまうのはいつだって汚れた自分。生きていく重たさを生々しく感じる。
まあでもその一瞬だけ朽ちない記憶に揺られながらほとんど同時にサブスペースに入ったなら、虚無ごとすべてやはりどうでもよくなってしまうわけだけれど。sub性として積もった心の負荷をきれいにクリアにしてくれる壮五の声を聴きながら温いぬかるみに揺蕩う快感はsub性だからこそこのうえなく幸せな時間と感じることに間違いはないのだろう。本能が感じる苦楽の矛盾に抗うことは当然出来ない。
「……ねえ」
ひどく優しい手つきで頬を撫でられやっとのことで目を向ける。サブスペースを明けた直後はまるで産まれたてみたいにどこもかしこも上手く動いてはくれなくて、それでいて新品のぎこちないまっさらな軽快さ。今までに深く蓄積した生きる疲労から何だか少しずつ解放されていっている「ような」気持ちだった。
とても楽だが言わば空っぽ状態の不安はどうしても拭えない。だから、眠るまで壮五に触っていてもらえるとすごく安心したしただ抱きしめられているだけでもsub性の欲求はどんどん満たされていくのが分かった。
もっとも、満たされるのが分かるというのもおかしな話で、本来ならばこれがきっと正常な行為の恩恵。つまり今までどれだけぞんざいに扱われ、足りていない欲求に渇望した挙句与えられてこなかったかを思い知る。
だけどそれでも生きて来られた。Domに構ってもらえなくておかしくなったsubなど山程見てきた。ならあとどれぐらいすり減ったなら自分の番だったのかとも頭の片隅では思ってしまうのである。
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの」
壮五は金持ちだし頭もいい。実家だって大きな会社だというし結構ないたずらをしても怒らないなど懐の大層大きいのかと思えば、無断で出かけたたったそれだけで死ぬほどブチ切れたりする。お互いまだよくわからないことの方が多いけれど深い紫の奥に見え隠れする壮五の狂気じみた執着や束縛を、不快に思ったことは今のところ一度も無い。
どころか、不安に思う気持ちの方が強い。いつ興味対象でなくなるか知れたものじゃないしいつかそうなるのが怖いと思う反面、番を許してしまった今でもそうなったって仕方がないものとも思っている。
オメガでsubだなんて産まれただけでマイナススタート。できることに制限がある以上、自由なんて一生望んでいる暇などなくて、だれかのものであるうちが一番の幸せ。誰かのものであってこそ、価値のある存在。そんな風にしか思えなかった。
ここ数年は自分の産まれた日なんてどうでも良かった。そんな余裕は無かった。それぐらい、あまりにも生きるのに必死な毎日が続いていた。
「おめでとうって言って欲しかったのなら、今日一日ずっとそうだったんじゃないのか?我慢したのはどうして」
「……」
だから、今朝はいつにも増してゆっくりと起きた。好きな時間に美味しいごはんを食べ、こんなに綺麗なあたたかい部屋で過ごしている。おまけに一人じゃない。孤独じゃない。優しいDomに必要とされ、多少激しくとも甘いセックスに没頭し、くたくたになった余韻で眠る、その夢みたいな一日を終えようとした時、ふと、産まれてきて良かった気がする、と思った。
抱っこに纏わりつく虚しさは結局のところ二度とは埋められない寂しさだと思うのだ。それは恐らく一生払拭出来ない。
でも、求めていた無償の愛を理由なく与えられる今にそれを重ねて勝手に補うのが果たして本能なのだとしても産まれてきたことを嬉しいとそう思えそうになったのは紛れもなく自らの理性的な感情のはず。
出会えてよかったと思っているのは壮五だけじゃない。
いつかいらなくなる時が来ても、それまでいっぱいお利口さんにしているから、どうか、どうか一秒でも長く側においてくいてれたら。
「まあ、もう過ぎてしまったから仕方がないけど、今度こういう我慢したら怒るからね。重要なことはきちんと話して。それで、明日はスーツを仕立てに行こうね」
「はあ? すうつう? やだ。窮屈なのきらい」
「ダメだよ。マナーも教えてあげる。出来なくてもいいけれど、明日はそのまま僕の好きなお店に一緒に来てもらうからね。ちゃんと教えてくれなかったお仕置きだよ」
「ええー。何の店?」
「内緒。君の好きなものがあるところかな」
「え、マジ、それはプリンでは」
「ん~。どうかなあ。首輪、どれにしようね。青いのがいいかな。楽しみ」
今となっては世界で唯一の寄り辺となる壮五がこうして本当に楽しそうに笑ってくれるとやっぱり無条件に嬉しくなる。こんな自分のバースデイプレゼントには勿体ないほどの優しくて綺麗なご主人様。ナイフもフォークもきちんと使ったことなどないけれど、壮五にもっとたくさん褒めてもらえるように、今日は少しだけ頑張ってみることにする。
Episode**蝉の泣き方
芽吹いた時から腹の奥が疼いてしょうがないのだ。それに、誰のでもいいというわけじゃない。アルファとオメガの間にのみ有効な番の契り。厳重な首輪の意味としては不用意に噛まれない為、であるけれど発情期のオメガにとってその枷は気が狂う程邪魔なものだった。涎を垂らして泣き叫びながらアルファを欲するこの熱を性別に負けてコントロール出来ない哀れなオメガはその首を絶対的な強者であるアルファに差し出しそしてたちまち死んでいった。
無論他殺でない。首輪を外したオメガが発情期セックスでアルファに噛んでもらうというのは最高のエクスタシーなのは確かだが、だけどそれに責任を持ってもらえるかは果たしてどうだろう。
番になることは特定のアルファとしか性交渉が不可能になるということ。加えてアルファの機嫌を損ねなどして万が一番を解消されなどしたら。
精神的におかしくなってしまう。それを横で見てきた。首輪は命だ。運命の番にでも出会わない限り、風俗落ちした底辺オメガの貰い手などそうそういるわけがない。
「借金分五十万引いて、四万二千円ね。ごくろうさん」
発情専門のオメガ風俗に身を落として二年、四葉環はいつもの様に数枚の紙幣を握って湿った建物から外に出た。晴れた陽の光、継続的な蝉の騒音。夏。耳鳴りがする。
三ヶ月に一度、一週間の発情期間だけしか金を稼げる機会の無い環にとってこの決して大金とは言えない少ない稼ぎはとても貴重な収入だった。
これで今日から約九〇日間を生き延びなければならない。
「……ちょっと多い、ラッキー」
ともあれ金があるうちに済ませなければならないのはまず薬だ。
環はフードを深く被り薬局へ入ると発情の抑制剤とアフターピルを調達する。発情期以外でも発情が不定期に来ることの少なくない環なので、自分自身で身の安全を護らなければいけない。
オメガにとって発情期セックスにおいてのアルファの精液を注がれるというのはイコール精度一〇〇%の妊娠率。責任を取ってくれる良質なアルファがそもそも環を抱くわけがないので、自己責任で避妊薬は必要だった。高額なので給料を貰うとその足で買いに行くのがルーティンだ。
薬局を後にすると余計な金は持ち歩かないで銀行へ預ける。少ないながらも貯金はしていて残金を確かめたらそそくさとショッピングモールに入る。真夏の炎天下を外で過ごすよりは日がな一日涼しい建物の中で暑さを凌ぐに越した事はない。
ぶらぶらとゆっくり店内を歩きまわりながら、ふと一週間の労働の御褒美にと冷たい飲み物を購入した。
(蝉の泣き方)
父親が借金を残して消えたという通達を受けたのは今から五年程も前の話だ。母が病気で死んでしまってからというもの生活能力のない父から隔離され施設に入った環と妹の理とは二人きりの兄妹だった。
生まれた時の医師のバース性の診断は環がオメガ、理がベータ。バース性についてかなり医学的に解明され胎児の時点でも性別が分かる様になると、オメガ性という世間的に劣勢の性別はどちらかというと疎まれた。
アルファ同士で血縁を固めた上流階級の人間などは特にそういった傾向があり一定の確率で起こり得る突然変異で万が一にもオメガを宿したりすると迷わずに堕胎させることなど稀ではない。
只でさえ人口の割合としては少ないオメガ性はその体質や生き辛さといった観点からこの世界に生まれてくることですらも選ばれる時代になっていってしまった。
かと言って、オメガ性が全くいないかというとそうでも無くて、全体の人口の約三割はオメガ性だった。なのだが、どうしてか三割の大半、八割といっても過言ではない過半数が女性性で残りの二割に当たる男性性のオメガは、やはり社会的にとても立場が弱かった。法的に見ればオメガは社会から守られるべき存在で制度もしっかりあるというのに男性性だというだけでほとんどがその制度を利用しきれていないのが現状だ。
職に就くというところでもその余波はおおいにあり、男性性で発情期に毎回休みを取られるとあればよほどの大企業で福祉活動として受け入れてくれるところ以外では毛嫌いされてしまう。
環の様にまるで成人になるのを待っていたかの様にある日突然借金の肩代わりをさせられオメガの発情専門風俗で身体を売るオメガなどで無い限り、最低賃金で細々と生活を強いられるのが特に男性性のオメガという現状の生き方に他ならなかった。
ともすればそんな生活の中でのオメガ性の性欲は殊厄介で発情期になればアルファに満たされたいその衝動だけでアルファを求め夜の街を徘徊するのだって珍しくない。
望まない性交、身体の欲求、性別からの本能的な命令、二つの性を分かつ優勢劣勢の壁は分厚く簡単には解決できない根強い社会問題であることに他ならなかった。
その社会問題を解決するのがいつになるのかは知らないが現状を生きねばならないオメガでsub性を持つ環である。慣れた様子でエレベーター前のベンチに腰掛けてじっと人通りを観察する。
営業マン。くたびれたスーツ。指輪。減っている靴底。よれよれのシャツ。汗だくの首。サンダル。子供連れ。下卑た女性の細い腰。神経質そうな眼鏡。目が合った。緩慢に立ち上がる。
「……ねー。オニーサン、アルファ?」
「………だとしたら?」
「じゃなさそーだから言ってんだけど」
ちらっと時計を見た男性に環は笑みを零す。どうやら今晩の寝床は確保できそうだ。
「華岡公園分かる?」
「……ああ」
「涼しくなったらそこいるから、気が向いたらあそぼ、待ってんね」
そう言って一歩引き踵を返す。あの男は来る。だって絶対に欲求不満のDom性だから。
環が目をつけるDom性の大半が、何故か感覚遮断を好む傾向にあった。環自身はそういった趣味は特に無いが贅沢を言える立場ではないのでいつも好きにさせた。コマンドに制限をつけたこともなければセーフワードを教えたこともない。最も聞かれたことがあまりにも少ない。それほど相手のDom性にとって環というsub性がどうでもいい存在だということだ。それには当然慣れた。
今夜の寝床であるそこそこ高級そうなマンションの一室は防音完備のまるきりDomがこしらえた籠城といった感じでプレイの残骸がそこらへんに散らばっている辺りあまり優しくしてはくれなさそうな雰囲気だ。
「……ん……」
真っ黒な布で視界を奪われていて環は無意識に震えた。目隠しは感覚遮断の中では最も苦手だ。暗い所はあまり好きではない。
無造作に触れる骨ばった手指の感覚を必死に拾い何とか恐怖心を宥めつけて耐える。
したくないわけじゃない。されたら身体は喜ぶし快楽には勝てないのが性別の咎。なのにどうして、こんなにも虚しくて切なくて、寂しくて苦しいのだ。
ああだけれどいつもいつも平気なら、きっとそれはそれで「生きていない」も同然なのかもしれない。
「……っめ、かくし、取って欲し……」
抑えきれない背中の悪寒に耐えきれず環がそう零すとまさぐる両手がぴたりと一瞬止まった。
「ねえ、……ン、」
束の間の休息ののち再び無言のままに無遠慮な手が這いずる。触れ方から分かる苛立ちに余計寂しくなってしまう環は没頭しきらない快楽の狭間で徐々に頭が黒に支配されていく。
途方の無い闇だ。落ちたらいけないのだ。怖い暗い深い黒。何かの大きな口にも思えたし底の見えない谷底の様にも思える。心が砕け散るほどの深い闇を身体がはちきれんばかりに詰められてしまったらひどく傷つく。sub性を持った自分のこの人生の全てが揺らぎ壊れ無くなってしまう気がするのだ。
「はず、はずしてっ、たのむから、お願いだから、バッドトリップしちゃうっ……」
胃から昼間の甘いカフェオレの名残がせりあがる。上手く出来たら食べ物にだってありつけるはずだった。不安だけれどゆっくり眠ってまた明日を人の隣で迎え媚びて奪って満たして満たされて果ては与え奪われまた一人になる、幾度これを繰り返したら幾度これを堪えたら「一生」は終わるのだろう。
吐いた衝動で一気にバッドトリップへと転落した環だったがわけもわからないまま闇を彷徨い気が付いたら朝の公園のベンチで目が覚めた。
何一つ記憶にはないがバッドトリップしたsubの面倒を見てくれるDomなどきっとこの世にはいない。その気持ちは分からなくもないが、ここまで連れて来る労力を以て一言リワードをくれたって罰は当たらないのに。
鈍い頭痛の奥に挟まるsub性の欲求がギスギスと心を貪る。朝露で湿ったシャツの上からそっと自らを抱きしめてえらい、生きてる、とのっけから失敗に終わってしまった次の発情までのワンサイクルをこうしてまた一人、環は始める。
ジージー、ミンミン、カナカナ、ジリジリジリ
夏の早朝。忙しない蝉の七日間の生涯。幼い頃母親に聞いたことがあった。
蝉はどうしてあんなにうるさく鳴いているのかと。
すると母は誇らしそうに胸を張り、自分を愛してくれる人を必死に探しているのよ、愛を求めているの。自分が生きてる間にちゃんと次へ繋げるためにとそう言った。
ジージー、ミンミン、カナカナ、ジリジリジリ
今朝も蝉は必死に繰り返した。ここにいる、愛してくれ、愛してくれ、と死ぬまできっと、命一杯に求め続けるのだ。あの時母が胸を張った理由は今になっても環には分からない。だって教えてくれなかった。鳴き方も求め方も、蝉が次に繋げたその命はじゃあどうしたら愛で満たされるのかも。知る術もないので見様見真似でぎこちなく愛を求める果たして自分は上手く鳴けているのか、何度も何度も満たされたそのうちの一体どれが愛だったのかも未だに分からないというのに。
「……最悪……」
バッドトリップの後に環は決まって思うことがある。
これを何回も何回も繰り返したその先に短いながらも胸を張って生きていたオメガの一生を遂げた母が待っているのかもしれないこと。優しく抱かれる腕の感触も、ゆられて眠る抱っこの記憶もこんなに鮮烈に残っているからいつだってすぐに思い出せる。
求めても二度と手には入らないけれど、いつか、いつかこんな蝉の生き方しか知らない野良犬の自分を誰か愛してくれたらいい。期待は勿論しない、でもどうあがいても蝉じゃないから蝉みたいには生きられないのをこんなにも虚しく思ってしまう。
いいよな蝉は、七日頑張ったら、愛されなくても終わりになる。
環は蝉の強くて眩しい生き方に憧れる狗である。儚い蝉に愛を教わった大変哀れな狗、でしかないのである。