ナギミナ無配再録+α
Episode01ナチュラルベイビーチューナー
ギャギャ、とアンプを通して鳴り具合を確認した狗丸トウマのエレキギターの心地は、まるで鋭いナイフの様な切れ味を以て狭くて暗いライブハウスの壁面々に反響した。ネイルで真っ黒にした形の良い爪でこれまた真っ黒な涙型のピックを握る好戦的な赤の目玉がちらっと横を窺った。
トウマの目線の先、キーボードの前でご機嫌に微笑み手をぐーぱーさせながら客席を覗くのは棗巳波。その少し前でマイクの位置調整をしながらベースを構える御堂虎於。そしてステージの真ん中でしなやかな細い身体をぐっと真上に伸ばして地声で発生練習をする亥清悠だ。
おなじみズールのメンバーであるが、何やらこの狭過ぎる小さなステージ上にはおさまりきらない彼らのポテンシャルが目に見えるほど溢れかえっているではないか。歌って踊る普段のスタイルよりも俄然前のめりで、しかしどちらかというと「レッフェス」に近い緊張感であるのが窺える。
高揚しているが期待は恐怖と裏表。やれる自信が満タンあるのにそれよりも大きなプレッシャーが彼らをより強烈に鋭く光らせる。
「…………」
そんな中巳波はこの光景をまるで真上から見下ろしている様な気分で今現在の心境を俯瞰した。
何を隠そうここ三ヶ月半、メンバー一丸となって死ぬほど練習してきた「バンドの生演奏シーン」撮影の本番まであと十分もない。巳波自身は扱い慣れた楽器とはいえ余裕ぶるのも演技で誤魔化さないといけないぐらいには正直とても緊張していた。
思えば皆よく頑張った。仮に実際に触ったことがあってもライブを経験したことがあったのだとしてもそれを生業としている人物を想像し生命を吹き込むとあってはやはりそれなりの理解力と解釈の深度、多少の苦労なんかも必要不可欠なわけである。実にユニークな人物設定とは裏腹に演者なズールとしては、勿論経験値として悶え苦しんだ日々だった。
ステージ上手、ギターフリークで朝から晩まで三度の飯よりギターが大好きという執着系変態ギタリストを演じる狗丸トウマ。女よりギター、金よりライブ、ちょっと空気が読めないがくよくよしない性格で常に明るく声がでかい。ワンルームの風呂なし賃貸にはところせましと大好きなギターがコレクションしてあり、初登場から最終話までずっと赤のSGを好んで使っていた。トレードマークは童貞という愛すべきおバカキャラ。金もないのに愛煙家で好きな銘柄はラークだ。
対極の下手、キーボードをやや真ん中寄りとするのならばそれよりも端に鎮座するベーシスト。低音に対する偏愛癖を持つ無口な節約家に扮した御堂虎於だ。神経質そうな眼鏡で作中は滅多に喋らないしずっと隅でべんべんばきぽき四弦を叩く姿は正に勤勉。金にもきっちりしている為バンドの資金繰りは全て彼に任せておけばまず安泰という几帳面ぶり。ただ性格に難有リで家賃と必要生活費の節約の為に作った彼女が三十一人居る。小奇麗でしっかりした物言いの割にご察しの通り住所職業不定のヒモ男である。
「巳波。出だしの音出してくんない」
そこへひょっこり現れた悠に頷いて望み通りに音を鳴らすと実によく通るいつものきれいなつよい声で悠は周囲一帯の世界観を魔法みたいに変えて行く。
これが文字通り天才シンガー役の亥清悠であるが、巳波はこの悠の役どころが今回とても気に入っていた。
名前を藤瀬超(ふじせこゆる)といったが彼は至極普通の一般家庭に生まれ落ち、ごく普通の人生を経て、ごくごく普通のサラリーマンになったなんとも凡な青年で、特別に歌や音楽の才能があったとか声に魅惑的な特徴があったとかそんなシンデレラ設定は一切なかった。
おまけに度胸があるか臆病かと言われたらやはり臆病で歌もはじめから上手かったわけではないし特別目立った何かを持っていたわけでもない。というからには物語としては主人公である超のボーカルとしての成長譚。字面だけ見たらよくある話なのかもしれない。
けれど、悠、基超が天才シンガーと位置づけられるまでの葛藤や苛み勿論努力や挫折、その分の成功も含めて心情全ての脚本がひどくリアルだった。心理描写はとてもリアルなのに見せ方としては非日常な要素がふんだんに大胆に使われることによって展開のまるで読めないおかしな筋書き。演じ手としても視聴者としてもとても惹き込まれてしまうものだった。
仮にも作り手としては素がカリスマ性の塊でしかない悠をいかに凡に見せるかをじっと窺っていた巳波だったが歌の上手くない悠、中指を立てる発想の無い悠、人混みに紛れて見つけられない程普通の悠が日に日に出来あがっていくにつれ役者としては率直に凄いな、とそう思った。
「……調子はどうですか。震えてませんか」
今はズールの棗巳波としてそう問うたのだが悠は実に素直にうん、と頷いた。腹の奥底にじわっと愉悦が響く。
そんな巳波の役どころはというと凡で臆病な主人公を天才に叩きあげて行くアル中でヘビースモーカー、おまけに辛口でヒステリックな気の狂った作曲家だ。若い頃から挫折と成功の連続で上手くいく時もいかない時も常に何かに苛立ってきた人生。だってうまく飛んでもいずれ落ちる。しかし落ちてもいずれまた飛べるのだ。何の意味があるのかを必死に考えて生きてきた。自慢の音に乗せるために何が、見知らぬ誰かに届けるためにどんなものが必要なのかを真剣に、真面目に。だからこそこんな自分の気持ちが届いた人にも届かなかった人にも心底絶望してきたというのに。
だけどきっと待っていたのだと思う。超みたいな人間と巡り合うのを、ずっと。その機会を、ただじっと。
誰にでもある葛藤と誰にも知り得ない自分だけの気持ち。されど自分だけの気持ちは自分にしか分からないはずなのにそれは誰にだってあるもので。
超の音は超にしか出せないけれどだからこそ他の誰にも共感し得ない自分だけの音や歌に響いて共鳴させられる才能。凡人であるからこそのその全うな悩みはきっとこの世界の多くの人間のだれにでもある悩みであり、踏み出すか逃げるか、やり遂げたら成功か、何の為にどれを選ぶのか、まるで日常の分岐点と同じふうに超がシンガーとしての自分に向き合う姿はまさに「誰のどんな人生にでもあり得る葛藤」なのだから。
そうやって超が成長していく度に全く違う、ともすれば正反対な人生であるにも関わらず、現実世界の亥清悠という存在の影響力とどんどんシンクロしていくような気がした。
実際に彼がどう思っていたかは分からないが巳波に悠がそう見えたのと同じように巳波は自身も役とぴったり同調していく気分だった。
愛しい僕のシンガー。彼がこの手を飛び立つまであとどれくらいだろう。あつらえた様に寄って来た個性溢れる音楽家たちが一つの音をバラバラな五つの音で表現することのなんと難しくなんと心躍る瞬間。
始めは「誰にでも出来ること」のはずなのにそこに自分の意味や理由が生まれれば「自分たちじゃないと出来ないこと」に変わるのだと役を経る中で狂おしいほど痛感してしまった。
こうして実際にこのドラマの為に"棗巳波"が作った曲を、実在しないバンド「00」の一員に扮したズールが演奏するライブシーンの撮影という状況は巳波にとって人格の境目が大分分からなくなるほどの没頭だった。台本通りに演じ台本通りの心の動きを模しているだけなのに何故だかこれほど役に溺れたことも共鳴し得たこともない。
だから純粋に、楽しいな、と巳波は今心からそう思っていた。
この業界から距離を置く決意をする前の自分はまるで透明な器だった。それも作り立てで瑕なんか一つもない柔らかい硝子。水の中に落ちたらたちまち溶け込むのに触ったら固くて冷たい表面、その水に溺れやっとのことで満たされた内側から見えた世界は一体どうしてかはじめから歪んでいた。
誰に何を求めていたわけでもどこに誰と逃げようとしたわけでもないのに、いつしか何も持っていない自分はとても惨めでだからなのかいつも空っぽだった。
周りはみんな分かっていたと思うのだ。
自分がつくりたての綺麗な硝子だということ。
触ったらその分汚れていくしおかしくなるほど簡単に瑕がつく。でも見た目は当然透明な器。よくよく見ないと瑕なんて誰にも見えないということ。
歪にゆがんだ外の世界が手垢と細瑕でどんどんどんどん曇っていくのをそれでもただその内側でじっと見ているだけだったのは何より自分自身が色を持たない透明な瓶だと認めたくなかったからだ。
透明は個性だがプラスにもマイナスにもなれない零の位置。即ちの誰しものスタンダードな透明からいつまでたっても逃れられない自分のことをどうやっても好きにはなれなかったからなのに。
いい子で居たくて塞いだ鼓膜に身体の奥から触れてくる在りし日の無邪気な旋律。それが段々ハッキリとしてくるにつれ日常のしがらみを全部ハサミで切ってしまいたい衝動に駆られたのは今思えば自分自身のSOSだったのだろう。抵抗の余力を虚無から生み出すギャングスターな自我の芽吹き。
四六時中鳴り続ける平凡で退屈で一定速度のメトロノーム。
思えばこのカチコチといつまでも憮然と刻まれるつまらない音こそが何も持たない空っぽの自分の心臓の音だったに違いない。
それから思い切ってすべてから離れた挙句風の様に自由な作曲家に唆されてマシンガンまで持ったなら、求められた需要を満たす、失敗しないで期待通りにこなす、称賛を浴びて評価され消費されて全てが車窓の風景のように過ぎ去って行った虚しさだけでは決してなく、好きだったから苦しいことばかりじゃなかったことを思い出した。
満たされない透明な器だった頃の自分が守り続けてきた棗巳波という存在を今になってようやく自らが抱きしめてあげられた気がしたのだ。
きっと全ては今までもこれからもこうしてギャングスターの仲間達と臆病な誰かの代わりにマシンガンを撃つために。
綯い交ぜの一体誰の感情なんだかわからない緊張と興奮で少しだけ足が震えている。作り上げてきた一つの景色がとうとうあと一ピースで完成しようとしているのだから興奮したって無理もない。
間もなくスタンバイのライムライト。オーディエンスはファンクラブで募った正真正銘のズールファンだけ。誤魔化しの利かないライブパフォーマンス。一緒だ。ズールでも、00だとしても。
真っ白な熱い光を華奢な身に浴びながら純真な眼差しで悠がこんばんは、と小さく頭をさげた。繊細で臆病な超らしい仕草だった。
「いやー、もう練習しなくていいと思ったら寂しくなるもんだよなーー」
「分かる。たまにならまたやってもいいかなぐらいは思ってる実は」
「あっは、虎於ってほんとチョロいよな」
「ふふ。いただきます」
クランクアップの打ち上げが終わりほろ酔いの四人組が立ち寄るところと言えば駅前の屋台ラーメンに決まっている。狭いカウンターにぎゅうぎゅうに座った男四人であるが左からトウマ、巳波、悠、虎於と何故だか何事にも大概この順番で座っていたりする。
「虎於これあげる」
悠がのっけから虎於のどんぶりにほうれんそうを投げ捨てた。虎於の眉間に皺が寄る。
「またお前」
「いいじゃん。好きだろ?」
それを見た巳波が実に滑らかな動作で悠のどんぶりからチャーシューを二枚剥がした。
「じゃあこれは私が貰いますね。好きなので」
「やー! だあめー! 返せよ巳波!」
狭いスペースですったもんだしているのを横目にトウマがのんびりと笑った。
「ハルー、好き嫌いしてるとでかくなれねえぞお」
「もう伸びないし! 肉ドロボー! 巳波の鬼!」
「ああもうほら、俺のチャーシュー一枚やるから。こう、肉で丸めて食ってみたらどうだ。美味いぞ。多分」
「あらあら。御堂さんまるで観世音菩薩ですね。急に母性でも芽生えたんですか?」
「ふ、まあな。野菜の旨味ってやつが最近よく分かる。歳かな」
苦笑して麺をすすった虎於に巳波はふと目をやると、珍しくもなんともない光景のはずなのになんだか今日は妙におかしく感じて横並びでやかましくラーメンを啜る自慢のギャングスター達がとても愛おしく思えた。
全部一緒に見てきた四人で全部一緒に乗り越えてきた。罪も罰も四人分だから重たいが投げ出さないでいられたのはきっと四人分の奇跡と悪運があったから。死ぬまで絶対に言わないが柄にもなく一生ズールでようなんて思えるぐらい今ははっきりとした自分の居場所になっていること。
それが今とても嬉しくて温かいと思えた。
「どうだ? 美味いだろ?」
「……ん……んん……ん……」
「そうだミナ。ズールでもバラードやろうぜ」
「急ですね。いいですけど愛の歌なんて今更私たち柄じゃないと思いませんか? ちょっと恥ずかしくないです?」
「いいや。世界中の女が涙流して聞ける優しいやつが一曲ぐらいあってもいい」
「また……随分グローバルですねえ……」
「おれもやりたい」
やっとほれんそうを飲み込んだのか悠がごく平坦にそう言った。
「けどフラジャイルは歌ってると辛くて泣きそうになるから、もっと前向きなやつがいい」
「あら。一応指定通りの愛の歌だったんですが」
「あれ恋じゃん。恋はまだ一方的な気持ちだろ? しかも実らなかった」
「……うふふ。繊細な人。じゃあ今度は前向きな愛の歌にしましょうね」
うんうんと頷いた悠の言う通り、劇中歌のひとつでフラジャイルというタイトルで作った巳波渾身のバラードは到底ズールではそれこそ一生歌えそうにない優しい優しいメロディだった。
だが故意でないにしろそこに混じってしまったエッセンスには勿論、数年前に軽やかな羽根みたいにこの世界から姿を消した彼の木漏れ日が宿っているのは幾分仕方のないことである。
巳波は桜春樹の紡ぐバラードの音が世界で一番好きだ。
意味を持った一定速度のつまらないメトロノームはいつしか巳波の気持ちに比例してどんどんテンポを変えて行くようになった。春樹とのテンポは静かにめくるアルバムみたいにゆっくりでそこから早くなることも増してや音が途切れてしまうなんてことももう決して無い。終わらないけれど、その続きは二度と無い。ずっと静かに永遠このパッケージで遺されていくのだと思っていた。
だから、フラジャイルを作った時、多少、それでもほんの少しだ。ほんのちょっと春樹への恋心を模した自覚は巳波にはあったのだけれど、無論思い出として区切ったつもりも気持ちを終わらせたつもりも全く無かった。なのにそうはっきりと恋だと言われてしまうと途端に「終わった」んだなと今更ながらに愛になれなかった恋の気持ちに自らピリオドを打ってしまった気がして悲しくなってしまったのだった。
ラーメンを食べ終えてやっとそれぞれの帰路につくと、巳波は色んなテンポがごちゃ混ぜになったままの自分の気持ちに翻弄されて泣きたいのか笑いたいのか悲しみたいのか喜びたいのか分からなくなってゼロアリーナの見える公園のベンチに座りぼんやりと一人佇んだ。
春待ちの風がつよく後ろから吹き抜ける。
しばらくすると革靴のコツコツというゆったりとした歩調が遠くから聞こえた。巳波はその音をじっと聞きながら無意識に、乱れてしまった自分の速度をその一定のリズムに合わせて整えていく。
「〈寒くないの〉」
どうしてか心底安心する音なのだ。横に腰をおろした金髪碧眼の桜春樹の大事な大事なお友達である六弥ナギは真夜中だからかマスクもしない口でそう言った。
「…………」
「撮影は無事に終わりましたか」
「……はい」
「それなら良かった。疲れてしまった?」
「いいえ。少しぼーっとしたい気分だったので」
「メランコリックですね。手を貸して」
冷たい空気でかさついた手を優しく握られれば混沌としたままの心にとくんと確かな灯がともる。
雑然とした脳内の床にやれ汚く散らかっていた楽譜は角を合わせて棚に戻すとする。苛立ちで殴りつけてバラバラになった鍵盤もあるべきところへはめてあげよう。折れた羽根ペンはそうだな、テープでなんとか修繕なんてどうだろう。山積みのビールの空き缶は全部まとめて捨ててしまおう。心いっぱいに燻る紫煙と絨毯みたいに積もった桜の花びらが幸福の黄色い炎で優しく優しく燃えていく。
ぴったり重なった手の平を介して聞こえる六弥ナギの鼓動のリズム。一定でおおらかなその音は巳波の狂った調律を一音一音ゆっくりと元に戻してくれた。今もこうしていつの間にかナギのテンポで頭も心もいっぱいに満たされている。
まどろんでしまいそうな充足感の中、夢心地に巳波は呟いた。
「……ズールでバラードを歌いたいって言うんです」
「〈へえ。いいじゃないか。私も聞きたい〉」
「前向きな愛の歌がいいって」
「はは。では、前向きに愛を育まないといけませんね」
「〈誰と〉」
「ワッツ? ワタシでしょう。それとも他に誰かいるのです?」
不満気に顔を覗きこまれてやっとのことでナギと目が合った。もうすっかり元通りでつまらないメトロノームのテンポの上に巳波は早速前向きな愛とやらを並べていく。
「桜さん」
「は? 〈待っていて。今とびきり最低なハルキの言葉を思い出すから〉」
「ふふ。どのくらいのはやさがいいかな」
見上げた紺碧の夜空に瞬く黄色の宝石を数えながら鳴り響くナギの鼓動を頼りにしては一つづつの愛をなぞって歌にする。出来たてほやほやのこのメロディがどうか自分の、彼の、世界で一番好きなバラードになるように。
巳波が無邪気に〈愛しています〉と囀ると、その奔放で頑なな唇から零れた愛を逃すまいとしたナギには軽く啄ばまれてしまうのだった。
Episode02センツァテンポバスター
そりゃあ誰だって自由なテンポを背負うのはきっと楽じゃない。だがその面倒を見るのだって絶対に楽じゃない。絶対にだ。
六弥ナギは数秒前まで超ご機嫌で布団の上を転がり回っていた酔っ払いがふと死んだ様に静かになったのを見て大きな大きなため息をついた。
「棗氏」
普段は滅多に呼ばなくなったその呼称で軽く身体を揺するも微動だにしないので恐らく寝た。寝たのだろう。うつぶせのまま動かない棗巳波を仕方なく仰向けに転がしてやる。
やれやれと思いつつ全く無防備に寝顔を晒して、つまり安心して寝てくれているところを見るとまあ悪い気はしないからいいのだけれど。乱れた前髪をそっと撫でつける。
さて、事の発端はというとだ。
亡くなってからは随分経ってしまったが、桜春樹の住んでいた一室を引き払う為にと里帰りを果たしたのはつい先日の話になる。向こうは真冬でとても寒い時期だったけれど何のタイミングかお互い口裏を合わせた様に予定がぽかりと空いた先週一週間を巳波と二人ノースメイアで過ごしてきた。
とはいえ、せっかく二人で出向いたのに夢にも化けても出なかった春樹の残像はそこにはもう跡形もなくなっていてただただ寂れた懐かしい部屋を綺麗に掃除して解約してきた。
生前日本に帰れなかった春樹の魂がもしオボン(日本の風習だから分からないけれど)に戻ってきたら居場所がないと困るだろうと思ってずっと返せなかった部屋だったのでナギの心の蟠りはひとつ減ったような気もする。
まあけれどとにかく自由な彼だから、きっと忘れものでもない限り戻ってきたりはしないのかもしれない。埃だらけの部屋を掃除をしながらそう思った。
巳波はというと部屋につくや否や浮ついた顔をしながらそのまま残っていた調律の狂ったピアノで知らない曲を随分長いこと弾いていた。かじかんでいた手が何度も狙った音以外をはじくのだけれど構う事無く一心不乱に奏で続ける。どちらかというと楽しそうにしていたので気の済むまで好きにしたらいいとナギはしばらく放っておいた。
やがて音が止んだのでそっと様子を窺うと待っていたのだろう。巳波はナギさん、と手招きをした。
「ちょっと聞き苦しい音もありますが、最後ですから桜さんの曲を弾きましょう」
「〈最後? ピアノ、持って帰ると言ってなかったか?〉」
「〈そう思っていたんですけど、何だか桜さんが一緒に持って行かれたような気がして。だったら弔ってあげないと〉」
巳波が平然とそう言うので、黙って肯定したナギは別にしめし合わせる必要もないままあの日レクイエムとして送ったサクラメッセージをなぞった。
そのうち巳波も混じって二人で好き勝手夢中になって弾いていたのだけれど。途中から巳波が馬鹿みたいにぼろぼろと涙をこぼして泣き始めた。分かっていても最後までやめられなかったのは巳波の大好きな春樹の、大好きだったピアノまでもを葬るメロディの切なさで身がきれそうなのはナギも同じだったからだ。
終息のペダルをきった瞬間、わんわんと声をあげて泣く巳波を抱きしめてそっと鍵盤の蓋を閉じてやった。
宥めているのにまったく泣きやんでくれない巳波が春樹に永遠の恋をしていた事実そのことにいつまで経ってもぜんぜんちっとも勝てないままなので、ナギもちょっとだけ、ほんのちょびっとだけ泣いてしまった。
けれどそれからの巳波は何か一つの枷が外れたかのようにひどくご機嫌で甘えたで、ノースメイアを余すところなく観光し最後の日はオーロラまで見てきた。気落ちした様子もないその帰りの飛行機で「帰ったら温泉に行きたい」と言うので休みを合わせて一泊の温泉旅行をしににきた、というわけだった。
今日だって一日中上機嫌で温泉も夕飯もしっかり楽しんでいたがそれほど強くもないくせにバーラウンジでぱかぱかグラスをあけているのには案の定。止めても聞かない性分なのは知っているから横目にしながら見守った。ここにはピアノがなくて心から良かった。あったらきっと朝まで歌って踊れと言われていたに違いないから。
こういうときに思い出すのはやはり壮五、大和に、それから龍之介。普段から酒癖が悪いわけではないにしろ一旦このメンバーと飲ませるべきだろうかとは思ってしまう。勿論、反面教師として参考までにだが。
「…………」
とかく仰向けにすうすうと眠る巳波のはだけた浴衣を直してやり布団をかぶせる。少しだけ魔が差しそうにはなったが巳波は泥酔してもそれなりに覚えているほうなので本人の了承なしに変なこと(変なこと?)は出来ない。大人しく電気を消してナギは隣に敷いた自らの布団にもぐった。
それなのに何が気に入らなかったというのか朝から不機嫌な巳波の顔はナギにとって不服そのものだった。
ナギが起きた時には既に巳波は猫っ毛をぼさぼさにしながら布団の上に座っていて伏し目でずっと黙っている。とりあえずおはよう、と言ったがぶすくれた声で早口におはようございますと返されてしまいナギは頭を掻いた。
「〈いびきでもかいていた?〉」
「別に」
「〈何で怒ってるの?〉」
「別にと言ってるでしょう」
ふいっとそっぽを向いて明らかにツンケンする巳波であるが、ナギには心当たりも無いのでまあいいかと放っておくことにした。自由な巳波のテンポにいちいち乗っかっていたら身が持たないからだ。かく言う自分も相当自由な自信があるのであくびをして顔を洗おうと立ち上がった。
「顔を洗いますよ。ミナミもおいで」
「……」
拗ねた顔だが立ち上がったのでそれがあまりにも愛おしく思えたので声には出さずに笑ってしまった。機嫌が悪い巳波も嫌いじゃないから困ったものだ。お互い気分屋ではあるが滅多に喧嘩に発展しないのはひとえにナギが巳波を怒らないからに尽きる。
ごくたまーにだが、巳波がわざとナギを本気で怒らせようと口論を仕掛けてくるのだが大体の大抵が言い負かされるか抱きこまれて終わる。根拠の薄いああだこうだそうじゃないそれでもないにはナギは絶対に靡かない。
元々人に好かれたいナギだから、愛されていると分かっている人間についてをマイナスな言葉で語ることはまず無い。
情熱的で真っすぐで真摯な愛情を頑なに貫き通せる強さを持っているだけあってひとたび愛を確信しようものならば執着的で嫉妬深く、なるだけ縛っておきたい性分であることは玉に瑕なのだけれど。
だから、巳波が難攻不落の攻略対象ならどっちが主導権をとるかは最も大事なポイント。だって愛しているから許せるのと許したから愛せるのとでは全然意味が違うのだから。
それに、巳波の不機嫌の理由など大体が春樹だ。
ナギにとって桜春樹という絶対的な不滅のライバルを背景に、巳波の心の隙間を全部地道に自分で埋めて行くというのは切ないのに愉悦で愛おしいのに苦しくて、勝っているが不戦勝の、やはり間違いなく虚無はある。
「〈ハルキの夢でも見た?〉」
タオルを差し出しながら巳波にそう問うといいえ、と彼は清々しい程あっさりと嘯いた。
「〈じゃあ放っておいてもいい?〉」
「ダメ」
「〈なら理由を言って。何でもするから〉」
狭い洗面台のスペースでじっと返答を待っていると巳波が急にほろりと目から雫を落とした。
「……泣き真似は通用しませんよ」
「〈嘘泣きだと仰るんです?〉」
「抱きしめてもいいですがそれで満足なら素直にぎゅってしてぐらいなぜ言えないのです?」
「チッ」
「<舌打ちは品がないな>」
大袈裟に肩を落とした巳波はやり取りの何が気に入ったのか分からないがその一瞬の嘆息の分だけ明るい顔になって足取り軽くナギの脇からすりぬけていった。ほっと溜息をついてあとを追うとあっという間にご機嫌にリセットされた巳波はせっせと布団を畳んでいた。
「もういいのですか?」
「何がです?」
「ハグ? オア、キス?」
「じゃあしてください」
にっこり笑って巳波が大きく両手を広げるのでそのまま惜しまず力いっぱい抱きしめると今度はとても素直に背中へと両手がまわった。控え目にだがぎゅっとしっかり抱き返されて単純にナギは嬉しくなった。キスがしたくて離れようとするとしがみついたままの巳波がそれを阻止する。
「〈……キスはいらない?〉」
「ノースメイアに行ったら」
「ん?」
胸に顔を埋めた巳波のくぐもった声が身体に直接響いて束の間耳をすませる。
「〈桜さんでいっぱいになってしまって〉」
「〈……うん〉」
「日本に帰ってきたのに」
「〈うん〉」
「〈まだ桜さんでいっぱいで〉」
「〈嫌?〉」
巳波は首を振る。
「だから、昨日あなたでいっぱいにしてほしかった。出来なかったから、意味がない旅行だったなって。ただの自己嫌悪です」
こんなにぴったりくっついているのだから、心臓が早くなったら即座にばれるに決まっている。焦ればそうするほどとくとくと増す血流と胸の切なさにナギはきつく息が詰まった。分かっているだろうに、巳波は知らないふりで狡く上向く。
「だから本当は、今もまだ桜さんばっかりです。つらいから掻き消して」
吐息まで薄紅にしてそう吐いた巳波に突如強烈な嫉妬を催したナギは瞬きも忘れてその臙脂の目玉をじっと見つめる。
勿論出来るならそうしてやりたいが、永劫勝てない親友の影をこの人からは恐らく一生拭いさることなどかなわない。だけど万一上塗りの愛がいつか元の色を覆せたら、
「とても難題ですね」
さぞ幸福なのだろうけれど。
ナギはべりっと巳波の身体を引き剥がすと唇の寸前で止まり口を尖らせた。
「元はと言えば、ミナミが酔う程アルコールに溺れるのが悪いでしょう?」
「え」
「酔っ払ってしまったら私が勝手にしたと言うに決まっています」
「なんですそれ。私が悪いんですか。止めたらいいでしょう」
「〈じゃあ昨日止めたらセックスしていた?〉」
「〈……意地悪な人!〉」
眉を寄せながらも巳波からちゅっと唇に触れられて嫉妬と羨望、少しの希みと正直勝ってるという暗示を胸に結局今日も掴めぬ自由なテンポに振り回されているナギにその自覚はないのだった。
Episode03ワンモアタイム
ここに来るまでの間に持っているもの持っていたかったもの望んでいたもの望まれたかったものいらなかったものそれでも捨てられなかったものそれら一切の何もかもを捨ててきた巳波がたった一つだけ、どうしても手から離れないものがあった。
たった一個だ。たったそれきりの一つがこの両手から絶対に離れようとしないのだ。
「…………」
震える指先が愛おしい一台のピアノに触れた。
ふと気が付けば真上から浴びる熱いピンライト。静寂に息を詰める人間の確かな気配。二時間弱の没頭から急に我に返った巳波は言葉に詰まった。
台本通りにいくならば台詞はまだある。ただ、"無理でないなら台詞より音で表現してくれて構わない"と稽古の一番始めから監督から言われていた。その意味がようやく巳波には理解出来た。
すぐ側で食い入る様に自分の一挙一動を瞬きすらせずに観ている圧倒的な存在感が全て一瞬で遠のく。今も尚演技中なのに、それも誤魔化しのきかない舞台の本番真っ最中だというのに、ああ、これが、「リアル」。
巳波には今、本番十公演を通して今日初めて脚本家が台詞に込めた想いの音が聞こえてしまった。
それはあまりにも熱くて重たくてこの世界にいかほどの愛情があったかをまた、どれほどの憎しみや悲しみやそれでも希望や光に苛まれながら幸福を求めていたのかが痛い程苦しい程狂おしい程に胸いっぱい溢れてしまいそれが何故だかとても感傷的で切ないメロディに思えてならなかった。
音符に気持ちを乗せる術を知っている巳波は、勿論それを教えてくれたかつての彼の想いもいっしょくたにその細いしなやかな指でどうしてか恐る恐る愛を紡いだ。
アスファルトを濡らすそぼ降る雨の様なか細い旋律が日々を彩る様々な出来事を経て徐々に豊かな色を帯びて行く。雨が悪いわけじゃない。晴れの合間に乾いた土は雨を乞い潤う大地で生を養う。芽吹いた緑が母に焦がれてぐんぐん伸びれば夜のネイビー、星の瞬きはイエロー、快晴は空色、地平線の橙、暮れ行くトワイライトに紛れたバイオレット。
愛は赤だ。憎しみは黒。なら悲しみは真っ青で喜びは薄紅色だろうか。幸福は何色だった?
毎日にかかる虹の欠片の端々ひとつひとつがなんてドラマチックでエキサイティング。意味の無い人生など意味の無い人間など意味の無い瞬間など一秒だって誰にもない。そう、誰にも。もちろんあなたにも、わたしにも。だからあの時言ったのでしょう。
楽しかった、と。
一心不乱に聞こえた音を奏で続けた一分半、滔々と続くはずだった二十行にもなる独白の一幕を巳波は舞台上で独りピアノを打ち鳴らし、その間中ただただひたすらに桜春樹のことを思い出していたのだった。
「素晴らしいピアノでした。あれはアドリブですか?」
打ち上げからの帰り道、アルコールでふかふかの身体を持て余しお腹がすいてしまった巳波は駅まで迎えに来てくれた六弥那ナギを巻き込んで機嫌良くラーメンをすすっていた。
快く誘いに応じた割にはオウ、だとかアウチ、だなどと呟きながら未だに上手く「麺を啜る」の出来ない隣人を見遣り巳波は心底嬉しそうに笑う。
「ええ。なんだかそうしたい気分だったので」
割り箸を持つ綺麗な長い指。箸の持ち方は完璧だったからこそ王子様の数少ない欠点を眺めるのはとても嫌いじゃない。巳波はうふふ、と笑いながらも自らは音を立てて上手に麺を啜った。
「<というか、わざとラーメン屋にしたろう。私が上手く食べられないのを見るのがそんなに好き?>」
「あら。いいえ? 一体どうして私があなたにそんな意地悪をする必要があるんですか」
「<しかもちょっと酔ってる>」
「よってません。それよりも舞台、どうでしたか。面白かったですか」
「……ふう。それは勿論。あの場に誰もいなければ構わず舞台上に駆けあがって抱きしめてしまいたくなる程情熱的で官能的で純粋な音楽でしたよ。まるで」
「<ねえ>」
唐突にナギの言葉を遮った巳波は傍らにあった餃子を箸でつまむとそのまま超美系の口へと押し付けた。
「ワッツ……? <急に甘えてくるのは愛しいけれど驚く。食べても?>」
「…………」
「あむ。……んん、ギョーザ、とても美味しいです」
「<脚本家がね、本番中に亡くなったんです>」
巳波が真顔でそう言ったその言葉にはナギの咀嚼が止まって片頬をハムスターみたいにしたまま、少なくとも巳波は今までにこんなナギの顔は見た事がないと言っても過言ではないぐらい素っ頓狂な顔をした。
文字通り面食らったナギの顔を巳波はああ、愛おしいなどと過ぎらせながらじいっと見詰めそれでも嘘だとは言わなかった。嘘じゃなかったから言わなかっただけなのだけれど。
「<本当に?>」
「<こんなひどい嘘をつく人間に見えますか>」
「<見える。でも本当に嘘じゃないの?>」
「じゃない。ひどい。怒りました。帰ります」
ぷくっと頬を膨らませ残しておいた味タマを一口でたいらげると巳波はさっさと席を立った。半分も食べられていないナギのどんぶりをちらっと見つつ「おごってください」と言い残してがらがらと立てつけの悪い戸を引いて外へ出た。
夜の深いネイビー。笑った三日月のイエロー。ぬるい人肌はとろけるベージュ。
巳波は店のすぐ側に突っ立ったまま、凍える真冬の晴れた星空を見上げる。
十日間十公演の内昨日までの九公演は、台本通りそのままの台詞を言って幕を閉じてきた。それでだってひどく感傷的にはなった。死んだ脚本家だけれど詰りたくもなる。だって役者に一人ぼっちで愛を語らせる台詞なのだから当然悲しい言葉が軒並み羅列して九公演の内九公演は演技なのかそうじゃないのかよくわからない涙だって出た。
その度に不安になって、舞台を降りても自分がどこにあるのか分からなくなった。今まで変な言葉だとばかり思っていたが「心にぽっかりと穴が開いた」などという表現がまさにぴったり。気持ちに深く入り込んだ台詞の刃は他を傷つけるばかりでなく散々自分をも傷つけてくれた。
例えばどんなにか恐ろしく凄惨で残虐な台詞かというと。
存外早く店の戸ががらがらと開いた。
「ごちそうさまでした。美味しかったです。また来ます」
「…………」
「オー! <巳波! 舌を火傷した! けれど、……悲しかったね。さっきはひどいことを言ってごめん>」
「……」
「<寒いから帰ろう>」
「私、どうしても上手く言えずに苦労した台詞がひとつだけあるんです」
マンションまでは歩いてすぐなのでマイペースに一人で先に歩きだしたナギの背中に向かって巳波はそう投げかけた。
「台詞?」
「ええ」
振り返ったナギがあまりにも優しい顔で手招きをするので暗示にかけられたかのようにふらふらと隣に追いついた巳波のかじかんだ右手はナギにさも当然かの様に握られ、それから巳波もそれをさも当然かの様にきゅ、と握り返した。
「<もう終わったのなら思い返さなくてもいいのに>」
「<終わったから我慢はやめるんです。あなた、ちゃんと面倒見てくださいよ>」
「<えー。悲しいのは私も悲しくなるから嫌だ>」
「<……頼りにならない人>」
はあ、と零した息が白く形になって見えたのにすぐにまたどこかへ行ってしまった。隣を見上げた巳波は穏やかな顔で黙って歩くナギの口からもそっと形づく息吹が見えては消え、できてはこわれするのを見詰めて堪らない気持ちになる。
鼻の奥、喉のもっと奥底から赤ワインを煮た様にむわっと香るむせかえるほど芳醇な色香の気配。互いの手と手の間で肌を通してゆっくり浸透していく。
やがて高級マンションの玄関が緩慢に閉じ施錠されれば固く門を閉じた二人の根城。微かなアルコールの匂いを巳波の唇から軽く舐め取ったナギは上着も脱がないままソファに座って同じ様に黙ってそうする傷ついた彼の気持ちを自らの胸に抱き寄せた。
「ミナミ。 <何が言えなかったの?>」
「<当てて>」
「<世界一難しいおねだりだなあ>」
隙間なくぴったりとくっついた胸の奥でどくどくと共鳴する愛のありか。巳波はそこに耳をくつけて切ない程深い愛情の音が途切れずに聞こえているのを夜明けに窓が白むまででもずっとずっと感じていたい気分だった。
今日だけじゃない。明日も明後日も、今度こそ聞こえなくなるまで一時たりとも聞き逃さないでいたいのに。
知ってか知らずか、しばらくするとナギはそっと巳波を引き剥がし着ていたニットの型がついてしまっている頬をおかしそうに撫でると子供をあやす様にとても優しく諭した。
「……さあ、疲れているでしょう。今夜はゆっくり寝られますよ。明日はあなたが言えない台詞を無理に言う必要はないのですから」
カチンときたのは巳波だ。どう考えたって今はじっと抱きしめたままでいて欲しい自分の気持ちを汲むべきところだっただろう。鈍感。変人。AB型。巳波はあからさまに機嫌が悪くなった。
「<何言ってるのかわからないです>」
「<はあ。酔うと本当に面倒になるな……>」
「なんですって? 日本語で言って」
「hm……愛しています。 <世界中の誰よりも大好き> メイビー、 <春樹よりも>」
「…………本当に何言ってるかわかりません。わたしは桜さんの方が多分じゃなく好きです」
「<はあ? どうして? 春樹はもう巳波が悲しい時思い出でしか慰めてくれないよ。こうして抱きしめて酔っ払った巳波の世話をしてくれないだろう。キス、ちゅ、これだって出来ない。心配しないでも天国に行っても素敵な女性を口説いているよ。それこそ今私たちがこうしている間にも>」
「そういうところが嫌いです。鬱陶しい。黙ってはいはいそうですかってぎゅうっとしていられないんですか。これだから同世代は余裕がなくて嫌なんです」
「<余裕なんてあってもなくても変わらない! 春樹より好きだと言わないともうこのまま一生離さない>」
「ええどうぞ。王子様の気が済むまでいくらでも。出来るものならこのまま一生離さないでいてごらんなさい」
ふんっとお互いがお互いをぎゅっと固く抱きしめ合いながら無言になること数十秒、いつもの通りに堪えられなかった巳波が先に吹きだした。
くつくつと肩を震わせる巳波にほっと微笑んだナギは「私の嫉妬は海よりも深く空よりも天遠くまで轟ます」と一筋縄ではいかなかろうともそのあたたかな愛しい<ベージュ>を勿論一生離すまいとより強く抱きしめたのだった。
Episode04スコール
二人にはたったひとつだったが桜春樹という深い融合点がある。
無くなった実像を確かめる様に丁寧に緻密にお互いの持つ桜春樹の片鱗をより多く探そうと頻繁に会う様になってからナギは巳波に、巳波はナギに存在している桜春樹についてを嫉妬するようになっていった。
だから話の結びはいつでも「それ本当に桜さん(春樹)ですか?」でどちらも自分の持つ春樹のパーツの方がより実物に近いのだと信じて疑わないしあんまりかけ離れたことを言われた拍子には怒って拒絶もした。
ある日急にツンケンして何も喋らなくなた巳波に、ナギはため息をつきながらどうしてここまで春樹を見ている角度が違うのかとふと思うことがあった。
お互い春樹のことを好きなのは当然で大事に思っていたのは話をしていたら誰にだって分かる。
だけれどどうにもナギには巳波の見えている春樹という人物像が自分の見てきた春樹という人間とは随分違った見え方をしている様に思えて仕方が無い。それはまるでそう、男女の恋愛関係の様な、恋焦がれる目線での熱っぽい口調。
さながら好きな人の話を頬を赤らめはにかみながらも打ち明ける少女の様な瞳を巳波からは幾度も感じた。
が、つまりもし万が一そういう目で巳波が春樹のことを思っていたのだとしたら、今日までの人生の展開はあまりにも巳波にとって凄惨で正気ではいられないほどの傷なのではないか。
否しかし、では、そうだったとしたら。
「……棗氏。シカト解除です。私が悪かったと思っています」
「別にシカトしてませんし」
「良かった。つかぬことをお聞きしますが<棗氏は春樹の事が好きだった?>」
「……好きじゃ、<なかったらこんな事あなたとわざわざ話しに来たりしないでしょう。今更何ですか>」
「オーケー。<じゃあもっと野暮なことを聞くけれど好きというのは、えーと、> ラブ? ライク?」
「はい?」
切れ長でやんわりした目がきょとんと丸く見開かれてナギは不覚にもほんのちょっとだけ可愛いなと思った。だけれどこの場ではそのことを特に意識したつもりもなかった。恋の音は至極微かで薄く僅かに香るのだという。
「六弥さん、では聞きますが、あなたは桜さんのことを愛していたのですか? それとも愛されていた?」
「イエスでノーですね。愛してはいましたし愛されてもいましたが私は春樹にそういった意味で身体を求めたことも求められたこともありませんから。ライク以上、ラブ未満。それで棗氏は?」
ナギがこうして真剣に問うているからこそ巳波は余計に彼の意図が分からなくて黙った。
茶化してもいいのにどうしてか、ナギの直接的な春樹への愛の種類の言及にほっとしたのも事実。ほっとしたというのは春樹にとってナギは性愛の対象ではなかったという意味でだ。
だって何かにつけては可愛い可愛いと春樹が引き合いに出してきたナギとの愛の種類が紛う事無き親愛であるということが確かに証明されないままあれも知らないこれも知らないと自分の知らない新しい春樹をナギから垣間見る度覚える嫉妬の味に何度も、今だって面白くなくて拗ねていた最中なのだから。
「眠っている桜さんを見ているのが大好きでしたよ」
そう一言零し澄ました顔でコーヒーに口をつけた巳波のことをナギはもうじっと見つめてしまっていた。
色濃く漂う甘い何かがたったそれだけで桜春樹を愛していたと裏付けるだなんて綺麗で純真でそれでいて醜くて悲惨な身体の傷をあらわにしている様で、何故だかぎゅっと心が痛くなった。
だってということは、やはりつまるところ心も体も全てを愛し許し合っていた人間を巳波は失ったということ。噛み合わないのも当然だ。
「<道理で見ている角度がこんなにも違うわけだね。春樹の欲を身体が知っているあなたと知らないわたしでは悲しみの温度も深さも違うのでしょう>」
「ん……?」
「<まあ棗氏にならあんなに女性を愛した春樹の気持ちが揺らいでしまうのは当然なのかもしれない。曲の作り方も教わったのなら尚更>」
「ちょっと待って、少し話の方向が分からないです、ええと、<愛、っていうのはその、……>」
突如どもった巳波をナギはその真っ直ぐな目でまたもやじっと見つめる。巳波の表情の変化にさっきからひどく惹かれてしまう。こういう顔もするのか、と何やら慌てている唇が言葉を紡ぐのを待った。
「<別にわたしが一方的にそう思っていただけで、あの人から何かされたわけでも何かしてほしいと言ったことがあるわけでもないですから>」
「ワッツ。お付き合いをしていたのではなくて?」
「してません。好きだったのは確かにラブに近いかもしれませんが、ラブと言ったって」
「<想いも伝えずに?>」
「…………」
盛大に傷ついた顔をして目を逸らした巳波を見たナギはまるで今この瞬間呪いにかかったかの様な鋭い胸の痛みに気がついていたのだけれど気がついたからこそそんな彼を傷つけるのをやめることが出来なかった。
行きつけの落ち着いたカフェの窓際、ふと曇りガラスの僅かな隙間から濡れたアスファルトが見える。雨が降ってきたのだろうか。さっきまであんなに晴れていたのに。
「<じゃあ……知らないんだね、春樹は>」
「やめてください……。知る必要がないことでしょう」
「<こんなにあなたから愛されていた>」
「<やめてと言ってるんです。それに知っていたのに知らないふりをしているんだとずっと思ってきました。だから別にいいんです>」
「出ましょうか」
「……え?」
あまりに突然のナギの提案に困惑した巳波はさっさとカードで会計を済ませる姿を見てああそうか好ましくない話題だったからもう止めにしたかったのだと勝手に想像し慌てて上着を手に持ち席を立った。
考えてみればそれはそうだろう。故人の思い出を互いに共有しあう目的で今までこうして会ってきたのだから、こんな個人的なしみたれた感情など誰だって聞きたくはないに決まっているのに。
とにかく不快な気分にさせたのなら謝ってそれで忘れて貰おうと思い先に店の外に出るとどうしたことかそれはもうひどいどしゃぶりだった。今朝はあんなに晴れていたのに。
巳波はどうしようもなくてただ立ち尽くしていると黒っぽい傘を持ったナギが後ろから肩を抱いてきた。
「<巳波。傘を借りたから。いこう>」
「ええ。ありがとうございます、あ……あの、さっきはおかしな話の方向になってしまって、すみません、お会計、次は私が持ちますから出来ればまた桜さんのお話、」
「ええ。いつでも。会計なんて気にしないで。話し足りないですしなんならこれからでも。けれどちょっとだけこのどしゃぶりの中を歩きたくなったので私に付き合ってください」
巳波にはナギが優しい顔で何を言っているのかよく分からなかったが、離れたら雨に濡れるのでぴったりと寄り添ったままその歩調に合わせて道を歩く。雨の中を歩く趣味は巳波にはないので本当はちょっと嫌だった。肩に回ったままの大きな手の平があたたかい。
「ねえミナミ。ハルキ、……<春樹は、こんな時どんな風にエスコートしたと思う?>」
巳波はまるでナギの言っている意味がわからないので派手にスルーした。何も言っていないがナギは構わずに一人で続ける。
「<こんなどしゃぶりの日は、傘の中でどんな風に好きな人を口説くのかな>」
まだ何が言いたいのか分からない。巳波はそのまま無言で歩くも握られている肩がじわっと熱いことがなんだか、すごく。
「<巳波、どう思う?>」
ふいに問われてナギが棗氏ではなくて巳波と自分のことを呼んでいるのに初めて気が付きびっくりして上着を持った手に力が入った。スイッチの瞬間が全く分からなくていつからそう呼んでいたのかまるで見当がつかない。
対してそんなことはちっとも気にしていないであろうナギは、傘を叩く雨粒のバラバラという音に紛れて穏やかな口調でまた続けた。
「<私は春樹のことを一番よく知っている。あなたよりずっと。だから巳波がその時素直にすきだと彼にもし言えたのなら、きっとこう言ったでしょう?>」
巳波は咄嗟に嫌な予感がしてそれ以上ナギが言葉を紡ぐのを恐れ、顔を上げ睨みつけた。
「なんですか、嫌ですそんな話……!」
「<ありがとう、おれもだよ>」
懸命に遮ったのに悪びれなく誤魔化した春樹の優しさが直後脳天を貫いて巳波は一歩も歩けなくなってしまった。
立ち止まって肩からナギの手を振り払うとよろけるように後ずさり傘の範囲から外れてしまう。
「…………」
知っている。知っているさ。そういうから、絶対そう言うと思ったから今日まで言わなかった。言わずにおけば終わらなくて済んだ永遠の恋が今終わってしまった。
そう思った途端、巳波は自分にこれ程激しい感情の起伏があったのかと感心するほど急速に心の器が悲しいで溢れかえって溢れた悲しいが今度は目からどばっと流れ出た。
ここがどこかなど誰かに見られたらとかそんなことは最早どうだっていい。巳波はいつの間にか大雨に打たれながらさめざめと泣いていた。
伝えられないんじゃなくて伝えなかった。春樹と出会って春樹と過ごすうちに生まれてきてしまった愛を見苦しいし傷つくからと一度も外に出さずに監禁して施錠して見ないふりを貫き通して存在を認めなかった。死の間際だって言おうとすら思わなかった。ただ、この世界の派手な人生から解かれて軽やかな羽根の様に風にのって飛び立つ彼が少しだってこちらを見てくれなかったことを多少虚しいとは思った。それぐらいだ。
だから、いなくなってからほっとしたのはもう隠さなくてもいいということ。誰に言うわけでもどこに見栄をはるわけでもないから巳波は春樹を好きだったことを春樹が死んでから一切隠してきたつもりは無かった。
自分としては幸福だったし気持ちなんてめちゃくちゃに楽だった。好きを否定しなくても誰にも嫌われないし疎まれも蔑まれもしない。万一されたって別にいい。だって、一番そうしてほしくない人にはもうこの気持ちを知る術はないのだから。
巳波はずっと、一生、桜春樹を好きでいたかった。
それなのに。
「ひどい、ひどい……どうして言葉、に、するんですか、っ最低です……」
「<ひどくてごめん。でも、だって死んだ人間、しかも春樹には私、一生かかっても勝てないと思ったから、巳波を諦めさせなくちゃと思ったんだ>」
「なにいってるのかさっきからぜんぜんわかりません、あなたなんて一生だいっきらいですっ」
「……う……」
ナギは巳波からぶんなげられた大嫌いに一瞬とても傷ついたが秒で治った。いちいちそんなことを気にしていたら春樹には勝てないし大嫌いならまず嫌いになってもらわないといけない。努力しよう。
あきらめたらそこで、……割愛。
「<巳波>」
「だいたい、さっきからひとのことを呼び捨てにして、一体なんのつもりですか、馴れ馴れしいんですよっ」
「<だって好きな人のことは名前で呼びたいんだ> いけませんか? ミナミ」
「いやですっぜったいにゆるさないっ」
心霊スポットと噂され滅多に人の寄りつかないこの公園は、今日も今日とて人っこ一人おらず静かに古びたベンチだけが佇んでいた。怖い怖いと思いながらも毎日近くを通っていたらなんだか愛着がわいてきていつしかナギの散歩コースの定番になった。幽霊が出るなら、春樹も出たりするかな?などと汚いベンチに座って考えながらぼやっとすることも少なくない。
幽霊は一度も出ない。春樹も勿論いない。
「棗氏。知っていますか? ここには幽霊が出るそうです。」
「知るもんですか。出せるものならば出してみてください」
「Oh……。今あなたの最愛のハルキをなんとか召喚しますから、待っていて」
「もうほんとに何言ってるんです! いりません!」
怒って鼻声を荒げた巳波を再び傘の中に入れてナギはそのまま冷たく濡れた身体をごく自然にぎゅうっと抱きしめた。あんまり自然なものだから、今更慰めようったってそうはいかない、などと強情になっていた巳波はその後大分しばらく経ってナギの温かい体温を感じ始めてからようやくおかしなシチュエーションだということに気が付いたのだった。
深めにさされた傘のお陰で顔は二人とも隠れている。もしかしたら周囲からは男女が抱き合っているようにも見えるのかもしれないとはいえその行為の軽率さにさすがにはっとする。
「ちょ、っと……。桜さんはこんな、……」
「おや、ハルキの真似ではありませんよ。私のオリジナルです」
「…………」
どういうつもりなのか巳波にはまだ怖くて聞けない。ナギとは春樹が死んでから特に頻繁に会ってきたことを自負していた巳波だったがこんなに意味のわからない人間だとは今日まで思っていなかった。扱いに困ってどう逃れたらいいのか方法が分からなくて途方に暮れる。文化の違いはあれど泣いている男を慰める手段がこんなに熱烈なハグなのはいかがなものかと思う。
拒絶する、で合っているのか分からないが巳波は意を決して身を捩り密着した互いの胸の間に無理無理両手を割り込ませるとぐっと力を入れて身体を引き離そうとした。
「もう十分です、あやして頂いてどうもありがとうございました」
顔を上げて言いきった直後、なんだか妙な微笑みのナギと目が合うと濡れた前髪をかきあげられてびくっと震えた額にひとつ、鼻先が触れそのまま動揺している唇にひとつ、ちゅ、ちゅ、と口をつけられた。
「………! えっ」
当然、パニックになって固まった身体をそのまままた抱きしめたナギは赤くなる耳たぶの側でようやっと愛を囁いた。
「言うてハルキはダメな大人ですから<彼よりも優しくできる自信があるよ。今は嫌いでも嫌いから好き、好きから大好き、大好きを通り越して愛してるまでまずはレベル上げといこうか>」
「……何語ですそれ……」
何故だか真っ青になった巳波の手を取って颯爽と自分の高級マンションへ招き入れる王子でアイドル、そしてオタクの六弥ナギの恋愛に今までもこれからも決して不可能は無い。
Episode05バースデー記念
遠くを走る車の音ですら拾えてしまうようなとても静かな駅の待合室はちょうど暮れ行く西日を受けて燃える様な赤に染まっていた。
巳波がナギの聖地巡りに付き合い始めてからはもうだいぶ経っていて、今年も例外なく夏に入ってすぐに僻地の海の街に行こうと誘われた。
何がそんなに人の心を狂わすものかと面白半分の物見遊山と思っていた巳波だったが、それらを抜きにしても春樹の声と日常を知っているナギといる時間は何だか思い出の風化を堰き止められている様な気さえして心地よかった。
誰とも共有できないと思うからこそ一人で抱えるのに、一人で抱えると今度はあんまり痛くて見返せない。大事な思い出とはそういうものだ。
けれど、時折泣きそうになりながら春樹との逸話を大仰に話すナギだって今もまだ絶えず降り注ぐ花びらの残像を一つ残らずかき集めようと必死なのだと分かるから強がる前に分け与えてしまいたくなる。
だってもう今となっては、互いが持った春樹の欠片でしか彼の言葉や姿を共通して思い描くことが出来ない。その事実こそが今現在相性や居心地はどうあれ巳波とナギが望んで二人で一緒にいる理由の殆どと言っても過言ではない。
ただ、桜春樹を媒介にしたこの歪な関係性を純粋に「友人」と呼べるかどうかは、少なくとも巳波にはまだよく分からないでいる。
同時に、あの雨の日の喫茶店を境にナギが望んでいるという関係性についても。
夕刻のいい時間だと言うのに人の一人も居ない辺鄙な古い駅。
ぼんやりと目に移す時刻表。見た感じやはり電車は日に数本で、これに乗らないときっと帰りの飛行機には間に合わないのだろう。
自分の趣味だからか意外とマメな所を見せるナギは時間配分や旅行における全ての手配を整えた状態で誘ってくるので巳波は本当に何も考えないでナギの隣をナギの言う通りに歩く。
自我が無いとまでは言わないけれど、ふとした瞬間に落としてくれる春樹の片鱗を触る以外の目的は特に無く、美味しいご飯も美しい景色もナギの口から良く出る「えもさ」も束の間に過ぎ行く車窓の風景の如く流れていってしまった。
興味がないわけじゃないけれど、こうしてナギと二人だけで捉える風景についてを巳波はまだ特別なものだとは思えていないのだった。
ふと、夕映えの朱いヴェールがかかる室内に汚れたアップライトピアノがあることに気が付いた巳波は蓋のしまった無骨なそれをじっと見つめた。
ご自由にどうぞと印刷された張り紙は乾いて褪せたドライフラワーみたいだ。
「……時間があったら弾くでしょうか」
「? ひく?」
「ええ。ピアノ」
「……Hm……〈弾くかもね。空港で人だかりが出来たことがあるよ〉」
「何を弾いたんですか?」
「Oh、ナイスアイディア」
何故かウインクをして立ち上がったナギが砂埃のひどいピアノを慈しむ様に一撫でするとゆっくりと蓋を開けた。
誰もいない小さな駅の待合室。巳波は緩慢に立ち上がると軋む椅子に座ったナギのその隣にそっと佇んだ。
「日本の音楽は緻密で美しい」
流暢な日本語と共に古い童謡の単調で繊細な和音が鳴り響く。容易に想像出来た。
「これを空港で? 可笑しい。人だかりも出来ますね」
「イエス。大胆かつチャーミングなハルキらしいでしょう? 〈それから、あの時は知らなかったけれど、春樹の中には常に春樹の曲があったんだと今になって思い知るよ。俺の曲をきかせてあげると言って弾いた長いメドレーのほとんどの曲が、今や私たちのメモリアルミュージックだ〉」
「……あら、マウントですか」
「マウント? ノー。ワタシ達とはワタシと貴方の事でもあります」
座って、と埃に塗れた椅子の半分を明け渡すナギは穏やかな顔でハツコイリズムをチョイスした。
「〈一緒に弾いて〉」
「嫌ですよ」
「〈なら巳波の曲にしようか。春樹の匂いがするから〉」
「あの。わざとなのは分かりますがこんなところで引き合いに出さないで頂けますか?」
「Oh… アーユーハッピー?」
「最悪です」
こんな返答にも嬉しそうな顔をしたナギは勝手によくよく聞き覚えのあるイントロを弾き始めた。そちらがその気ならとかつて臨んだ大舞台で奇しくも敵わなかったアイドリッシュセブン屈指のダンスナンバーで割入って対抗し主導権を奪う。
初めてのブラホワは懐かしい。色んなことがあったからこの時の気持ちはより鮮明に覚えている。
勝ち負けに拘ったセンターを勝たせてあげたくて書いた反面、心に訴えかけられる強いシンガーである彼の歌声に込めたかったのはこれからのズールの在り方でもある。
それはどこか宣誓的でずっと誰かの為になりたかっただけの臆病な自分達への決別とそれを糧に進もうとする新たなる一歩への決意。終わりと始まりを線引きする為の区切りの歌。
桜春樹の様な自由な風になど到底なれない自分だけれど、気持ちに音をつけて生み吐き出す力を与えてもらえたのは事実だ。ならば誰かの理不尽をこの声の限り詰り蹴散らし自分達を求めた心が欲する音と言葉で干渉したい。
優しさが故に攻撃する術を持たない選択をする人達の積もる鬱憤や飲み込んだ不満の蓄積をこのズールという器で少しでも請け負い晴らす事が出来るのなら。
自分達が本当にまっすぐに歌いたかった正義は、〝今まで〟も〝これから〟も聞いてくれる全ての人の為にあるということ。
両曲のサビのミックスされた攻防は今が今のセッションにしてはなかなかの出来である。
ナギが機嫌良く次の曲のイントロへと差し掛かる。
「ミスターユキの曲は好きですか?」
「……勿論。彼のはまるで緻密な銀細工の様」
「〈いい表現だなあ〉」
こうして新しい音と出会う度、人の生き方が多様にあることを知る。それぞれの葛藤、それぞれの選んだ道、繋がった先の今。
少し緩めのテンポでナギの指が紡いだミライノーツを奏でてという曲は今までのリバーレには無かった様に思う音がたくさんあった。形が変わっていくのを恐れないかわりに掴んだ手は絶対に離さない。光溢れるメロディは彼らにいだかれた証みたいだった。
迷惑をたくさんかけたことは承知の上で、懐の大きな彼らに随分助けてもらった日々を巳波は黙って追想する。謝罪では補いきれない傷をアイドル界につけてしまった。理由があったとしても自分達の一生の罪悪だと思うし、本来ならば今もアイドル活動を続けていていい様な存在でないとも思っている。
だからこそ、彼らが全てを乗り越えるのを目の当たりにした時、自分達の罪の大きさに気が付いた。
自分達のせいで失った時間を取り戻せないことに傷ついたことを今でも後悔している。
だがそんな彼らが願い望むやり遂げる姿をから、自らの愚行に立ち直れないほど傷ついていても逃げずに必死になって今日までやってこれた。
彼らに与えられたのは自分に熱意をもって誠実に生きるというとても難しい枷でもある。
世界はすっかり日没。手元の陰る待合室には未だ二人とピアノだけだ。そろそろかという終息の気配になんだか嫌な予感がした巳波は次の音がもしも装飾音だったらナギの足を踏んづけようと思った。
「〈ああ、もう電車がくるかな〉」
「……」
予測通りサクラメッセージのイントロの一音が鳴った瞬間アウチ! とナギが叫ぶ。その拍子に浮いた左手を捕まえてから自分の左手でマジカルパワーを咄嗟に促すと涙目でいたナギは嬉々としてそれに乗っかってきた。
「ダッイッスッキ!!!」
やれやれである。ところで、サビ前まできて気が付いたのだが巳波の握ったナギの手はいつの間にか指までぎゅっと組まれていてびっくりした。
ともすれば、巳波の左手、ナギの右手が一緒になって軽快にマジカルパワーを紡ぎだすというとてもおかしな構図になっていて一瞬とても戸惑った巳波だったがトータルしてもサクラメッセージだけは今は聞きたくなかった。不本意とは言えここは耐え忍ぶしかない。
横目にはすっかり暮れた夜の闇にホームでは古くなった街灯の黄ばんだ光が点灯した。ちらちらと暗い辺りを照らすのは遠くからやってきている電車のライトだろうか。
「来たんじゃないですか。電車」
「ノー! まだ途中ですよ? 最後まで歌いたいです」
「馬鹿言ってないで、行きますよ。帰れなくなったら叱られてしまいます」
あっさりと弾くのをやめてしまった巳波にナギは大人しく黙りこそしたが名残惜し気にピアノとこちらを交互に見てくるので静かに蓋を閉め微笑み返した。
「電車に乗ったらイヤホンぶちこんであげますから。さ、立ってください」
「マジカルパワーを選んだのはミナミですよ」
「それと、手は離して」
「ワッツ? 握ってきたのもミナミですよ? もう離れなくなってしまいました。てっきりイエスの返事と思って期待しましたが?」
もう一度思い切り足を踏ん付けると、何がどう離れないなのか難なく解かれた右手の拘束である。
痛い!と叫んだナギの後ろでゆっくりと電車がホームインしてくる。
「〈足を踏むのは良くない!〉」
「〈口だけじゃないですか〉」
「???」
「知りません」
そっぽを向いてまばらな人気のあった電車に躊躇しないでさっさと一人乗り込むと、その後ろを慌てて追いかけてくるのを巳波はじっとりと見遣る。
まったく、この程度の痛みで手放してしまう愛情ならばきっと今はまだ未成熟もいいところ。踏ん付けてもひっぱたいても泣いても怒っても離してくれなくなるまでは返事は保留しておこうと決めた巳波なのであった。
地下組
Episode00 羽のないひと
pixiv掲載中
ダンマカ地下組(カバクオ前提)
随所にR-18G描写がありますので気をつけてください
梶木様との合同誌に収録しておりますハヤシパートのみの再録です
紙在庫まだ若干数ありますので是非☆彡
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【X年】
長い廊下の最奥、頑丈な重たい扉を開けた時広く簡素な部屋の中で真っ先に目に入ったのは傷だらけの両腕と落っこちてしまいそうな大きな目玉から溢れる透明な叫びだった。
声にはならないその悲痛な感情はその時確かに「助けてくれ」とそう強く強く訴えていた。
その時一体どういった口説き文句がこの口から出たかなどカバネはもう忘れてしまった。
反射的にその細腕を掴むとしゃくりあげるのも構わずに部屋の外へと連れ出してお前が天子かと問うた。
大雨の晩である。静謐な建物は丸ごと深く雨音に沈みどんよりと湿気て暗い。
途中鉢合わせた番人の幾人かには廊下の隅で眠ってもらっていた。
「僕は」
随分くたびれた風貌の彼はそれらを後目にそう言ったきりしばらく黙ったが、小さく「そうだけど、クオンだ」と答えたのを聞いて何だかどっと安心したのを覚えている。
兵器と言うからにはもっと人の感情とはかけ離れているものかとも思っていた。握る腕は何ともか弱いが温かい。涙は透明で滲む血は赤。人の言葉もきちんと喋る。この分ならば理解力だってきっとある。
カバネは元来た道をすいすいと戻り地下の水路へと難なく辿りついた。とめどなくゆらめく水面は明かりもないのに黒黒と艶めかしく光る。
ここ、ナーヴ国は大きな湖と隣接した河川をも擁しておりとにかく水には困らない。水源の乏しいゴウトにとってこの国の瑞々しい潤いに満ちた豊穣は喉から手が出る程に羨ましいところだった。
かつては水源をめぐっての協定もあちこちと結んでいたはずだが、時代の移り変わりと共に国の形も色も変容していくもの。
今は自国を守る為、それぞれが様々に理由をもって正義を掲げなくてはならない厳しい時代である。
ゴウトは大昔から薬学に秀でており、その国柄人命を救うという行いにおいてとてもポリシーの強い気質でもある。
どんなに水面下で動いていたとて火の無いところに煙は立たない。
救いきれない命を幾つもこの手から零してきた。屍の上に成り立つ平和を偽善だと罵られても守れるものを守る強さを貫いてきたからこそカバネは英雄と呼ばれるのを厭わないでいられる。救うことに強くあることが出来た。
だから、非人道的な行いを正すのは誰の役割でもないにしろ誰しもの責任であることをカバネは良く知っていた。
暗く狭い水路のへりを最後まで行き、外と繋がる鉄格子の前までやってきた。
振りむけば随分と疲弊している様子の「クオン」はどうやら足を痛めているのだと今更ながらに気が付いてカバネはやはり自らもひどく緊張していたのだと自覚する。
殺戮兵器。その存在だけで人を殺めることの出来る歪んだ呪いの器。
それがこの、傷ついた人間、若しくは、人の形をした何かだと言うのだからあまりにも悪寒がするのは事実だ。
改めてその姿を見つめるとクオンはひどく濁った目でこちらをじっと見つめ返してくる。
「……僕を殺すのかい」
格子の外、水面に強く叩き付ける小さな雨粒の波紋はどんなに遠くの岸へも辿り着く揺らぎになる。
英雄の生涯へ終わりなく影響し訴え続ける永遠の波紋の一滴は、まさにその時クオンの目から落ちたのである。
(羽のない人)
クオンの姿格好を明るいところでよく見ると余計に痩せていて貧相でおまけに雨に打たれて青く冷たくなった唇が震え目も当てられないほど不憫だった。
ゴウトでは水の生めない土地柄、湯あみは滅多にしないのが原則だったが今日ばかりは例外だ。
殺戮兵器の世話など誰にさせるわけにもいかないとカバネ自らがその小汚い身体を労わる羽目になったのをコノエなんかは面白くは思わなかっただろう。
その証拠にまるで犬か猫でも洗うという様にして両袖をまくったカバネの背中を困った顔でコノエは見つめた。
「カバネ様……やはり私が……」
「存外うるさい奴だなお前も。何があるか分からない。未知の生き物を大事な側近に触らせるわけにいかないからな」
「……お言葉ですが」
「お言葉だな。無礼者。いいからそこで俺が死ぬか死なないか見ていろ」
「カバネ様ぁ……」
その間も、浮いた背骨を震わせながら石造りの丸く広々とした湯舟の真ん中で縮こまるクオンの姿は相も変わらず不憫だった。鞭で打たれた跡か、いくつもの赤黒い痣がそこかしこに散らばって癒えきっていない首や腕の深い切り傷は汚く膿んでもいた。
痛いも苦しいも言わないが当然痛いし苦しいのだろう。
本当に犬か猫みたいに思えてきたカバネは決してそうではない彼との意思疎通と信頼関係の構築の為に洗い場へと呼び寄せた。
「クオン」
ぴく、と鋭く反応したクオンは抱えていた膝から顔を上げゆっくりと振り向くと何? と言った。
「身体を洗う。こっちに来い」
「それは命令?」
「命令? ……ああ、違う。えーと、お願いだ。なあコノエ。この場合は俺の個人的なお願いになるな?」
「ええ? はあ……」
「うん。だから来てくれ。クオン」
どうにも警戒されているのは気分が良くない。そう思ったカバネが石鹸を溶いたたらいから上質な布を引き出してにこっと笑ってみせると、クオンの瞳の奥がほんの少しだけきらめいた気がした。
なみなみに揺蕩う湯の中から立ち上がった骨みたいな二本の脛がら。歪に浮き出た肩の骨が今にも皮を突き破ってしまいそうなほど痩せっぽちの身体でクオンは素直にカバネの側にきた。
「……僕が嫌じゃないかい……」
「嫌? どういう風に」
「僕は僕自身にストレスがかかるとそれだけで君たちを殺せてしまう。恐ろしくないかい」
クオンの言葉でコノエがたじろぐ。その気配を目で牽制してカバネはゆるゆるとクオンの背を擦ってやりながら疲れ切った問いかけに軽く首を振る。
「いいや。しかし、なるほど。理屈は分からないが呪術みたいなものか」
「……違うよ。僕は僕の意志で人を殺したりなんかしないし出来ない。物理的な痛みや精神的な苦痛で僕が何か起こしてしまうみたいだ。それこそ理屈は分からない。あの人達は何も教えてくれないけれど、僕の目の前で何人も人が死ぬのを見てきたよ。必ず血を吐くんだ。内臓をどうにかしてしまうのかもしれない。違うかも。分からない」
「カバネ様」
我慢できなかったコノエが鋭くクオンのセリフを遮る。
きっと想像したのだろう。知らぬうちに身体の内から呪いに蝕まれた挙句、血を吐き息絶える主君の姿をまざまざと。
コノエの気持ちはカバネにも十分に分かる。だが今はこのとてつもない危険因子を擁する為の大事なタイミングだ。それに、非人道的行為の代償にはどうやら重たすぎる人命なのも確かで。
「……コノエ、邪魔をするなら外にいろ」
「し、ません。そのつもりもない。なのでここにおります、そこを代わりましょう。コノエはあなたより長く生きながらえてはいけません」
「堅物か? そういう融通のきかんところは良くないぞコノエ」
「融通!? きくものですか! 側近ですよ!? 王死んだらだめでしょう! どうかお気を確かに!」
当人間での真剣な小競り合いはもやんもやんと広い湯の間に反響する。その湯気の合間についふふ、と軽やかな笑みがこぼれたのを聞いて二人は同時にその傷だらけの背中を見つめた。
「仲がいいんだね。喧嘩しないで。僕は今、なんだかずっと久しぶりに楽しいから多分ストレスは感じていないと思うんだ」
「……ほらコノエ、お前のせいで笑われた」
「わ、わたしのせいですか? ……すみません……」
「っふっふふ。それより、王様なの? 身体洗わせちゃってるけど、もしかして打ち首かい?」
「……打ち首か。人の行いとして背くべきことは誰かが止めるものだ。悪党ならそれもいいが噂通りお前は違うな。望んで兵器になったわけじゃなさそうだ。違うか?」
カバネがこれを本格的に企てたのは長きに渡って侵略対象であったナーヴをどう攻めたとしても強い火傷を負うリスクには変わらないと分かってからだ。近年のナーヴ国の傍若無人ぶりときたら目に余るほどの横暴。放っておくには少し度が過ぎるも機会が定まらずに近隣国共々長く業を煮やしていた。
だが、街の酒場に忍び様々に行き交う他所の人間の言葉を選り分けて聞いていると自然と浮彫になる言葉はそう多くはない。
カバネが、時たま聞かれる「殺戮兵器」の噂の真相をその目で確かめてみたくなったのはいつもの酒場の裏で葉巻を燻らすとある男たちの会話からだった。
その二人組は短く刈った襟足の真下に不思議な模様の入れ墨があった。
「驚いた。天子は賢いよ。数億冊ある書庫の本を端から順に読む。失敗作は何人も処分してきたが俺はあれほど慈悲を理解した天子は今までに見たことがない」
「今の天子はパーメニデス様自ら育てられたと聞くが、この実験に強く反対していたのも彼だったな……」
「やはり一派ごと焼かれたのはそのせいか。天子は泣いて暴れたそうじゃないか」
「順繰りに世話役が回ってきたが流石に憐れんだよ。殺戮兵器でも育ての親には情がうつるものなのだな」
「人と変わらない感情を持っていては務まらんだろうに。既に新しい器はあるようだから直に処分は免れないだろう。発端にはパーメニデス様も絡んでいたんだろうがな。権威の上では血も涙もない」
「ただ……、恐ろしくなってきたのは本当だ。この刻印があれば天子の力で死ぬことはないと分かっちゃいるが……。あの国は近頃残虐を好み過ぎる。脅威の象徴になる代わりに人の道からは大きく外れることだろう」
それを綻びだと捉えるには多少こじつけが過ぎたかもしれない。だがカバネはこの時内心の興味として仮に殺戮兵器に慈悲の、人としての情感がもしも本当にあったとしたならそれはつまり限りなく人なのではないかと思えたのだ。
このあと軽く天子の存在について興味を示してみるがコノエには酷く反対された。それは正しかったしとびきり全うな意見だったに違いない。
「……違わないよ……でも、事実、僕は君たちをきっと意図せずに殺すことが出来てしまう。王様も、側近の君も」
「…………」
「国の外には出たことが無かったから君達がこの世界でどれほど偉くて貴重な人達なのかは分からないけれどきっと死んでしまったら多くの人が悲しむし、困ってしまうだろう? 僕と関わるとおかしな事になってしまうよ。誰に言われなくても分かる。そういう存在なんだ、僕は」
ふっと高い天井を見上げどこか諦めた様にそう言ったクオンはしばらくして再び背を丸めて項垂れた。
「…………」
コノエには黙っていたがもしもこの天子という存在がほんの少しでも人の命を奪うことに対して何かしらの自己肯定があったなら攫ってからどうにでもすればいいと腹を括っていたカバネでもあった。
しかし今目の前にいる天子は、大事な人を失う痛み、悲しみ、少なくともそれを慮ることの出来る感情を持ち、自らが犯してしまう罪に苛み嘆いている。カバネはこんなにも当たり前に清らかな感性を持ったクオンがナーヴの殺戮兵器だとはもう微塵も思っていなかった。
造り出された咎を無理矢理に背負わされた、人。クオンはまごうことなき人間である。
ならば天命はただ一つ。
英雄は救われたい者を選んだりしない。
カバネは、たらいの湯を問答無用でクオンの頭からぶっかけ、続けざまに湯舟から湯を汲みざばざばと大波の様にしてその傷つき汚れた身体を丸洗いしてやると本当に犬かと思った。
ぶるぶるっと頭を振ったクオンはこちらを振り返り困った顔で人懐っこく笑った。
「何するんだよ、王様」
「カバネだ。さあ、のぼせるまでもう一度湯につかれ。この国は水源に乏しい。熱い風呂に浸かれる機会はそうそうあるもんじゃない」
なあ、コノエと振り向くと、何やら諦めた顔ではいと力なく答えるのでその腹を軽く拳で殴る。こんなにも自らの心の内が深く知れている側近は国を統治してからも未だコノエ以外にいない。信頼しているからこそ受け入れて欲しい。
この殺戮兵器を人にしてやるという英雄譚を、今ここから始めようとすることを。
湯舟に入ったクオンは再び膝を抱えはしたが大分リラックスした様子で二人の顔を交互にみつめた。きっと何か問われるのだと分かるのでカバネとコノエは二人揃ってそれを黙って待っている。
クオンには不思議な訴求力があった。
「カバネ、とコノエ?」
「それでは国王の失礼に当たります。カバネ様です。私のことはコノエで構いませんが」
「ああ、いいさ。カバネで構わない。様が煩わしくてストレスになったら困るからな」
「ッエーーーーッ!!! そんなバカなことがありますか! 呼び捨てはちょっとあまりにもあれではありませんか!」
「あっはは、コノエ、ヤキモチだね。分かるよ。僕はぽっと出だもん」
「そうなのか? 仕方のないやつだな。お前もカバネと呼んでもいいんだぞ」
「……ネモハモナイコトヲイワレテハコマリマス……。身体を拭くものを準備して参ります……」
そう言って言葉にこそあえてしないが、信頼と服従の代わりにそそくさと姿を消すコノエは、こうと決めたカバネの行いを阻むはずもない。
コノエが黙ってついてきてくれるのをカバネはいつでも心から求めている。世界中の誰が敵になってもコノエだけはこの未熟な王の味方でいてくれると思うからこそ、カバネは自分の正義を貫くことが出来る。
「ねえカバネ」
そこへ、もう明らかに光り輝くクオンの瞳が無防備にカバネを見上げた。
「僕は君を信頼してもいいのかい」
「それはお前が決めることだ」
「外の世界は楽しいかい」
「それもお前が決めるんだ、クオン」
「……僕はね、カバネ。君といればもしかしたらもう人を殺さなくても済む気がしているんだ。でもそれがどんなに君にとって迷惑なことかを、僕は今必死に考えているんだよ」
「賢いな。考える必要などない。お前はこれから先もずっと俺だけを選べ。人として生きるなら人は殺さなくていいんだ。クオン」
人になりたいか。そう問うたカバネはこんなに深い赤色のことをかつて知らなかった。宝石のようなクオンの目にじっと長く見つめられると何故だかその要求に手を差しのべずにはいられない。言葉にされない切実なSOSはカバネの手をそっとクオンの頬に添えさせる。
「なりたいよ」
クオンは頬に触れるカバネの大きな掌に自らの痩せた手を重ねると、そうぽつんと零したのだった。
その晩、食欲がないと眠たそうにしたクオンが言うのでひとまず先に寝室で休ませることにした。
どこに放るわけにもいかないのでカバネのベッドで寝る様に促すと再びコノエが何か言いたげにするのでお前も寝るか? とからかえばコノエは咳払いで抗議した。
「お食事はいかがしますか。こちらにお持ちしますか?」
「ああそうだな。そうしよう」
「用意して参ります」
そうして柔らかく煮た鳥のスープをコノエが持ってくる頃には気を失った様にぐっすりと寝入るクオンの寝息は部屋中に満ちていた。
本来余所者のしかも男を乗せる場所では決してないだろうに大きな寝具の真ん中で小さく丸まるクオンをカバネは満足そうに見つめていた。
カバネはもうすっかり有頂天だった。
クオンという殺戮兵器がこうも人として魅力的に見えてしまうというのはカバネにとっての大誤算でありこうして全てを預けてもらえばそうされる程不思議と気持ちが高揚した。
誰かにされるのじゃなくて、クオンにされることにきっと意味がある。だからカバネは誰かが助けるのでなく自分がクオンを助けるということに強い使命感すら感じていた。
これが天子の魅力なのかクオンという人間性の魅力なのかはその時は分からなかった。或いはどちらでも良かった。ただひたすらその存在に求めていてもらうことが愉悦で仕方がなかった。
これほど急なカバネの傾倒は珍しく、傍から見たらクオンが何か特殊な力を使って敵国の王をたぶらかした風に見えてもおかしくはなかったのかもしれない。
しかし、それらを一番近くで見てきたコノエがカバネの没頭とも思えるクオンへの執着を制止しなかったのはクオンがどれほどの殺戮兵器だとてカバネを騙すような人間には到底見えなかったからだった。
それに、直感だけでなくとももう何年もの間カバネの近くで彼の生き様を見てきたのだからよく分かる。
理由は何であれカバネはクオンのことを深い部分でとても気に入っている。これからより一層大事にされていくというのは最早言われなくても分かってしまう。
コノエは人と人との関係性とは決められた枠組みに自らがはまっていきながら築くのではなく、ふいに手をとったそこから生まれるものの方が本来の在り方として正しいのかもしれないなと思う。
ならば主君であるカバネの大事な存在であるクオンのことを従者の自分が無下にするわけにもいかない。
「大分お疲れの様ですね」
「……足を痛めていた。ここまで来るのにも辛かったかもしれない。様子を見て怪我の手当てを頼んでもいいか」
ぼそぼそとそう言ったカバネ自身も実際かなり疲れていた様で、ろくに噛まずにスープをかきこんだかと思えば躊躇なくクオンの隣に寝そべった。
「今日は気苦労が多くて疲れた。お前ももう休め」
「はい……。少し心配ですが、仰せのままに」
「ふん、相変わらずの心配性だな。……何もないさ」
微睡みに溶け込むカバネの呟きに肩を竦めるも黙って傅く。コノエはいつもの様に夜の香に火をつけるとしばらくの間その様子を眺めた。
煙が天井に向かって細くゆったりと揺蕩う。
「コノエ……」
五分程で寝室を出ようとすると、掠れた声でそう呼ぶのが耳に届いてコノエは音を立てずにすぐに側へ寄る。
カバネはクオンにすっかり気を許しているようであろうことかその声には気が付かないで寝入っている。余程疲れたのだろうと気遣ったコノエはなるべく声を顰めた。
「どうされましたかクオン様」
「あのね」
「はい」
「熱が、出るかもしれないんだ……喉が痛くて身体の芯がぞわぞわする。こうなるといつも高い熱が出るから、僕を外に出してくれないかい……」
寄せた耳に熱っぽい息でそう囁くクオンは既に発熱しているようであんなに冷たかった身体は首から手の指先まで真っ赤になってしまっていた。
コノエは腕の傷口から垂れていた透明な水にも気がついて棚から新しい布を取り出し優しくあてがってやる。ちょうどいいのでこのまま怪我の手当をしてしまおうとベッドの脇に跪きクオンを覗き込んだ。
「ではお側にいましょう。薬は飲んでも問題ございませんか。それから首と、腕の傷口も酷くなっている様ですので私が見てもよろしいですか」
「……聞いて、からだが、……ストレスを感じているかもしれないんだよ……君もカバネも殺したくないんだ……お願いだよ、外に出しておくれ……」
例えば、こうしてゆっくりと瞬くクオンにじっと見つめられながら切なく何かを乞われたとして心が揺らがぬ人間などいないのではないだろうか。たった一瞬でも連れ出してやる方法を考えてしまいそうになってコノエは思わず唸った。
「……身体のストレスは重々承知しておりますが、しかしお外には……。ですから、提案です。クオン様がお辛く感じたことを私にお伝えくださるのはどうでしょう」
「…………」
「苦しいならどう苦しいのかを教えてください。すぐに対処致します。人は欲求が叶わない時にストレスを感じやすいもの。出来得る限りではありますがこのコノエが今晩中クオン様のお望みを叶えて差し上げます。いかがですか」
大仰な仕草で頭を下げるコノエを見てクオンは観念した様に苦笑する。
「……ふ、あはは……コノエ、魔法のランプの精霊みたいだ……」
「あんなものより有能ですよ。私に回数制限はないので安心してください」
「……分かったよ……。でも、……異変を感じたらすぐにカバネを連れて離れておくれ……約束だよ……」
「かしこまりました。必ず」
クオンの潤んだ瞳が安心したように揺らめくのを見てコノエは内心ほっと胸を撫で下ろした。カバネの心を深く捉えて離さなかったこの濃い赤にまさか自分が逆らえるはずもない。恐ろしい程の訴求力には平伏だった。
「ねえ、コノエ」
「何なりと」
「心が不安になった時、コノエはどうするんだい」
「……ご不安ですか」
頷いたクオンが熟れた熱い手を伸ばしてくるので迷わず握ってやると骨ばった細い指に力が入った。
「僕は心が不安になると身体が耐えることを許してくれなくてね。咳が止まらなくなる。でも、今日は不思議と出ないんだよ。不安だけれど安心もしているみたい。変だよね。ご飯もね、本当は食べてみたかったんだ。だって、明日が今日の続きかどうかなんて分からないだろう?」
一息にそう言ったクオンの声は苦しそうでもどこか楽し気でまるで子供みたいに無邪気だ。明日が楽しみだと素直に言えないのはまだ自分がここにいることを迷っているからなのか、或いは明日が今日の続きであることを願いながら諦めているようにも思える。
その気持ちはコノエにも何となく察することが出来た。殺戮兵器は人に非ず。されど彼は恐らくナーヴで過ごした今日までの人生で、人になりたいと純粋に願うにはあまりにも人としての感情を知りすぎてしまった。
クオンは自らの望みの代償が決して小さくはないことを嫌になるほど理解していたに違いない。
そんな臆病なクオンがそれでもカバネの手に縋ったのはクオン自身がこの人になら、カバネにならばと救いを求めてもいいのかもしれないと、助けを求めてもいいのかもしれないとそう思えたからではないかとコノエは思うのだ。
「随分心配性なのですね。大丈夫です。きっと今日の続きに違いありません。傷口の消毒をしましょう。これでは明日の朝シーツと腕がくっついて離れなくなってしまう」
だったらそれは正解だ。
クオンには自分を任せる人間について見る目もあるということだ。
何と思ったわけでもなかったが立ち上がって側を離れる流れで自然と頭を撫でてしまうのはクオンという人間そのものの魅力であるとコノエは思った。労るべき存在。また、大事にされるべき存在でありそれに相応しい人であること。
出会ってまだ一日も経っていない他人にこれほど急速に心を掴まれることなど後にも先にもそうそうあるまい。
クオンのこの不思議な個性に魅了されたのはコノエとて同様だった。
だから、全ての起因は全員にあり、それによってどれほどの屍が積み重なって崩れても、一人を恨んだり疎んじたり、増してや責めたり詰ったりなど誰にも出来るはずがないのである。
数日すると、国内外では毒蛇に揶揄したクオンの指名手配がそこかしこに散らばった。噛まれたら即死、噛まれる前に駆除しその骸を国に献上した者にはナーヴ国の名誉を与えるというものだ。
これによってクオンは再び王宮内、基、主にカバネの寝室内での軟禁生活を余儀なくされた。
とは言っても、クオンの用は全てコノエが出来る限りで叶えてくれたし不自由など無い。
身体の調子が戻るに連れて食欲も出て来たクオンの瞳はますます明るく光り輝いた。
書物が好きで異文化には特に興味を示したクオンはゴウトの歴史や風土文化などには三日程もすればとても詳しくなった。
あんまり飲み込みが良いからと感心したコノエが、ゴウトの街の良いものについてや時には隣の国にまで出向いて地産品だとか、装飾具、文化的な見世物の話までもを土産にするものだからここいら一体の地域についてをクオンはどの文献よりも詳しく克明に習得したに違いない。
少し前まで濁った川の目で殺すのかと言った顔を見ているカバネだけにクオンのその様子にはとても親身になって喜んだし暇をしないようにと四六時中クオンを構っていてくれるコノエにも心から感謝していた。
その一方では、クオンの指名手配とほとんど同軸でまずはクオンの身体の構造を暴くべく信頼のおける医師、薬師、科学者や時には呪い師などとにかく何かきっかけの掴めそうな人物をカバネ自らが当たりクオンの事情を話した。
誰からどう見ても非人道的行為にあたるであろうナーヴ国の産み出した天子という存在について。その力、危険性、そしてそれらからクオンという人間を解放するという計画。同時に天子の力、即ち殺戮兵器を生み出す技術そのものの解明と徹底的な根絶の意志。
元来、ゴウトの部族は他国の人間よりも少しだけ頑丈で多少は長くも生きられた。
それ故に生き物として生まれ落ちたもの全ての生命をこの世界で一番貴んで生きてきたと言っても過言ではないしそれほど強い正義感と医学に長けた使命感を誇りに持ってゴウトを築き上げてきた。
そんなゴウトの人間がクオンの境遇を知ってナーヴに怒りを覚えないはずもない。カバネが全てを言い終える前には誰しもが真剣になってクオンの身体のことを解明しようと意見を出していたしすぐに協力者としても名乗りをあげてくれた。
疑っていたわけではないにせよ、殺戮兵器と聞いて怖気づかないとも思っていなかったカバネは内心で己の未熟さを恥じた。
この国の人間がこんなにも自他に恥じない正義感を常に持ち人の為に何かを想い自分を動かしていくことが出来る者たちであること。ゴウトに生まれゴウトに育ち果てはそのゴウトという国を背負う王になった身として自国をこれ以上誇らしく思ったことは無かった。
早速、カバネが持っていた酒場の男たちの情報源らを思い返しながら天子という存在が今ナーヴにとってどういった状況にあるのかを推察してみることにした。
まず、酒場の男の話を真に受けるとするなら天子の力は個体に固執せず、人であれば人といった何かしらの器に入れるものと捉えられる。
更に、新しい器は既にありその為にクオンを処分しなければならないのならクオンという個体に入った力を新しい器に入れ替えて使うのだとも。幸いにもナーヴは天子の力の量産には恐らく至っていないと考えるのが妥当だ。
また、育てるという概念があるならば天子の始まりは胎児の可能性も高く、成長に一定の時間がかかるのは想定できる。
遺体を回収したがるのは、個体が死んだ状態であっても力の入れ替えが出来ると考えられるし、ということはクオンがナーヴに渡りさえしなければ天子の力の保有権はこちらにあり、新しい器への継承も不可能。
出来れば秘密裏にしたいはずのクオンの回収に指名手配という古典的かつハイリスクなやり口でしか手を打てないのならクオンの居場所が分かる仕組みにはなっていない。
つまりナーヴが現時点で分かっているのはクオンが居なくなったということだけで、どこにいるのか、生きているのかも果たして知れないということになる。
ナーヴは力を持ったままのクオンの身体を血眼になって探している。ならば尚更調査にかける時間に余裕があるとは思えない。
まずはクオンの身体自体が特別な構造であるのかを確かめさせてもらうことでその日の話はまとまった。
「クオン」
今夜の夕食はコノエが習ってきたという隣街の郷土料理だった。クオンにあれこれ蘊蓄を言いながら得意気にするコノエは昔から手先が器用で料理も裁縫も上手い。
勘がいいので何をやらせてもすぐに満点を取れる男だったしそれでいて忍耐強く勤勉で気の優しい性格はどんな場面でも実に頼りになった。
おいしいおいしいと言いながらなんでもぱくぱく食べてくれるクオンにならば特に振る舞う甲斐もあっただろう。
「うん?」
そんな平穏に水を差すのも気が引けたが、カバネは食器を片付けようとするコノエのいなくなる前に今日のこと、これからのこと、もっと先のクオンの未来についてを話そうと決意したのだった。
「コノエ。食器は後でいい。お前も聞いてくれ」
「かしこまりました。こちらで聞いております。お茶の用意をしましょう」
「……クオン。まずはお前の身体について話をしたい」
「僕の身体について? もちろんいいよ。なんでもするし、どんなことでも答えるよ。……人になるための話だものね?」
この察しの良すぎるクオンの発言にはカバネでなくとも度々ひどく困った。咄嗟に上手い切り替えしが出来ないのはそこに至るまでの全部をすっ飛ばして結論だけ伝えてしまうことで一番に伝えたい主旨とは切り離してはいけない気持ちが、違う言葉にすり替わってしまわないかと不安を覚えるからだ。
カバネが一瞬口ごもるとクオンはいたずらっぽく微笑む。
「カバネがそうしろって言ったら僕は喜んでそうするよ。だって、カバネとコノエは僕の世界で唯一無二の信頼出来る人達だからね。仮に騙されて死んでもいいんだよ。カバネがそうするのがいいと思ったのならそれはきっと僕の正解だからね」
「……。急な話ですまないが、明日からお前の身体を詳しく調べさせてもらいたい。多少は痛い思いもすることになるかもしれない。だが、必ず助ける。今一度信じてくれるか、クオン」
まるでふざけているかの様なクオンの軽口をいなした射るように鋭いカバネの真剣な眼差しを一心に受けても尚、クオンはより一層穏やかに笑い慈愛に満ちた柔らかな表情で頷いた。
「僕という殺戮兵器はね、カバネ。君が拾ったんだから、もう君のものなんだ。何をされても恨んだりしないよ」
「…………」
「だからどうか、もし僕が万が一人になれなかった時も、嫌になっても、君がこの世界からいなくなってしまうまででいいから、こうしてただ側においていてくれるかい」
いい子にしているから、とはにかんでそう乞うたこの思いは結果的にクオンが戒めとして生涯変わらず持ち続けていた幸せそのものだった。
だって自分が望んだのだ。永遠ぐらい永い間も、こうしてカバネが側に居続けてくれたらいい。クオンは確かにそう望んだ。
明けない夜を千年間共にすることがどれ程途方のない永い時間であるのかをこの時のクオンはまだ、想像すらしていなかったから。
解呪の方法についての手がかりがほとんど無い中、身体の検査の開始からは随分経った。血液を調べたり一定の条件下での身体の数値を記録されたり意味があるのか無いのかも誰にも分からない闇雲だった。
クオンは嫌な顔をひとつもしないで半年以上も全ての指示にきちんと従っていたが身体の造りとしては通常の人間と何一つ変わらないということしか未だ分からないままの毎日にはついにクオン自身も与り知らぬ心的ストレスが限界に達してしまった。
注射痕だらけになった腕に今日もまた新しい針が刺さる。刺す方にも悪気はないことが分かっているのでクオンがいつもの様に親指を握り込んだ時だった。
「げほ!」
突如強く咳き込んだ拍子に少ない量だが明らかに鮮血がクオンの目の前に散らばった。
「……!」
ものの一瞬で自分の所為だと理解したクオンは咄嗟に距離を取って同じ部屋で文献を読み漁っていたカバネの名前を叫んだ。振り返ると同じ室内だが向こうには影響がなかった様で内心ほっとする。きっとごく僅かな力が働いてしまったのだと自分自身に言い聞かせてクオンはカバネの側に走り寄る。
「どうした」
「カバネ、カバネ……どうしよう、そんなつもりじゃなかった……」
「……大丈夫だ。落ち着け。もっと俺の側に」
「ごめんなさい、す、すぐに離れたよ、大丈夫かな、カバネ……ごめんなさい……」
心臓が早鐘の様に打たれている。気が付けばぶるぶると震える両手がカバネの腕を跡がつくほど強く握っていたがそれよりも強い力でカバネの手が肩をしっかり抱いてくれていてほんの少し落ち着いた。
腕に針を刺されるのは痛かった。ほとんど毎日血を抜かれるのも本当は嫌だった。日に日に汚くなる腕を黙ってケアしてくれるコノエに腕を差し出すのももう辛かったのだ。
自分の為にやってくれていることなのだから耐えなくてはいけないと思えば思うほど追い詰められてしまったのは上手く吐き出せなかった自分自身の弱さだとも自覚している。
だからこうして限界点を超える前に、本当は言わなくてはいけなかったのに。
「クオン、外へ。コノエと一緒に部屋へ戻っていてくれ。我慢ばかりさせたな。すまなかった」
扉を開けると中の様子を察していたのであろうコノエが目くばせだけでクオンをカバネから引き取る。
「カバネ……」
「先に休んでいろ。今日は俺も早く帰ろう。そうだ、久しぶりに湯をはろう。なあ、コノエ」
「はい。先週は雨も降りましたから。先に帰って準備をしましょう、クオン様」
「……カバネ、……ごめんなさいと伝えてくれるかい……」
「ああ。必ず」
その日から、身体の構造を調べる全ての工程は取りやめとなり穴だらけの腕に注射針が刺さることはなくなった。クオンは彼らのその後をどうしてもカバネに聞くことが出来ず、またカバネからその話題を出すことも一切無かった。
代わりにクオンの周りからカバネとコノエ以外の人が再び居なくなった。山の様にあった文献は寝室とその廊下へと持ち込まれそこから昼夜を問わず三人で書物を読み耽る日々が始まった。
「……やはり解呪の条件が必ずあるはずなんだがな」
「身体構造上僕は人間なのかい」
「そうだ。妙な造りの臓器も無い。一番ストレスのかかった状態での血液にも異常はなかった」
「それはあの日のこと?」
「ああ。身体に問題がないのならもう調べても無駄だからな。あいつらにはお暇してもらった。気にしていたか?」
「……そんなの、しないわけがないよ……」
カバネが知っていながらわざとそう言ったのと分かったのでクオンは口を尖らせて意地が悪いよと呟くとふと笑ったカバネが立ち上がった。
「さて、休憩するか。コノエ、何かあるか」
「樫の実でよろしければいくらでも。先日収穫祭がありました」
「ああ、……もうそんな季節か」
気が付けば差し込んでいた大窓からの西日にカバネが手を翳した。燃えるように色づく木々の紅葉に重なる茜は月日の移り変わりをひどく感傷的に彩る。
何の進捗もないままクオンのいる生活は日常となりつつあった。
日が暮れると肌寒く感じる季節だ。夕飯もそぞろにしたカバネは薄い羽織を肩からかけベッドの上で数枚の古い記事を読んでいた。深夜も二時を過ぎようというところ。横になったクオンがうとうとしながら小さくカバネと呼ぶので文字を追う目はそのままにうんと返事をする。
「……思い出したんだ、今……」
「うん?」
「あの国で……僕のことを生まれた時から育ててくれた人がいてね……」
「……」
「死んでしまったんだけれど、……彼は……僕の呪いについて、良くは思っていなかったんだ……」
「パーメニデス……」
「! 知っているのかい? カバネ、どこでその名前を?」
「後で話そう。それで? パーメニデスは何か言っていたのか」
「……それが有力なものかどうかは分からないよ、でも、彼は、パーメニデスはね、司祭様に殺される前の日の晩に、明日の朝、本の読み方を教えるからねって言ったんだよ」
「…………」
「僕は小さい頃からパーメニデスの側でずっと読み書きを習っていて、書庫にある本で読めない字なんて無かった。理解できないものだって一緒だ。おかしなことを言うなと思った。だから楽しみにしたんだ。明日の朝になったら、僕の読めない知らない新しい本をパーメニデスが持って来てくれるんだって」
「それで、その本は」
いつのまにか布団から飛び出て興奮気味にまくしたてるクオンのこんなに真剣な顔は初めてだった。カバネの問いかけには答えに詰まったものの、その繊細に記憶されているのであろう頭の中の引き出しを次々に開け放っているかのような必死の逡巡。
「どれのことなのかは、……記憶にもそれらしいものはない、でも……パーメニデスは自分の机の鍵のかかった引き出しに日記を入れていたはずなんだ」
「……日記……まだあれば手がかりになりそうだな」
「でも、違うかも……捨てられているかもしれないし、それに……読めないかもしれない……」
「いや、それでも今の闇雲な状態よりも先は明るい。明日の行き先が決まったも同然だ、クオン」
一瞬の強い衝撃がよもや抱きしめられた感触だと分かるまで随分かかった。
けれど、そうだと分かってからの方が理解を超えた感情でいっぱいになったクオンは行き場のない両手が宙に浮いたまま固まってしまった。
「……カバネっ……」
「安心した。あれだけ助けてやるだなんだと豪語したのに何もしてやれないまま爺さんになるかと思った」
「……そんな、こと……それでも僕は……カバネに感謝するよ……この力がありながら、誰も傷つけることなく歳をとったってことだよ……」
「あのな。前から思っていたがもうちょっといったらそれはもう屁理屈だ。限りなく屁理屈の肯定だからな。改めろ。とにかく、目的が決まったらやる気が出てきた。今日はたっぷり寝て明日から計画を立てる。コノエ! 五時に来い!」
雑な呼びかけにも扉の外で律儀に返事をしたコノエには思わず吹き出したクオンである。くつくつと心のままに笑ったあとクオンはいきなり抱きしめられたことで緊張していた身体を再びベッドに沈めカバネの袖を引っ張る。嬉しいと楽しいが混ざってむずがゆい感じのする何とも不思議な感覚だった。
「ふふ、あと三時間もないじゃないか。早く寝ないと」
「ああ。おやすみクオン」
「……おやすみ、カバネ、コノエ」
◇◇ ◇
埃にまみれたパーメニデスの机の引き出しには思った通り、日記帳、それとクオンへと書かれた手紙が残されていた。癖の酷いパーメニデスの筆記体の日記をクオンは読めなかった。けれど、手紙に書いてある文字は読むことが出来た。
何の法則も無い文字の羅列。意味の分からないそれを何気なく声に出して読み上げたクオンはその途端、目が眩むほどのまばゆい閃光に包まれ立っていられずにその場にしゃがみこんだ。
カバネとコノエ、二人が同時にクオンの名前を叫ぶ。
きっと来てはいけない、そう思う気持ちばかりでクオンは咄嗟には何も言葉にできない。
一瞬の強い光のあと、すっかり元通りになった部屋の中では何かとてつもなく恐ろしい違和感を己の身体に対して抱いた三人がしばし黙ってみつめあっていた。
互いの姿格好には勿論変化などない。だが、何かが抜け落ちてしまった様な確かな喪失感で息が詰まる。胸の奥が切なくて仕方が無かった。
ややあって、不穏を振り払う様にしてカバネが静寂を破った。
「……クオン」
「……あ……へ、平気だったかい……? 二人とも……」
「カバネ様、お体は……クオン様も……」
その時、背後から現れた突然の銃口に気が付くのが遅れたのはカバネもコノエも一緒だった。
クオンがあ、と声をあげた時には咄嗟に振り返ったコノエの胸の真ん中、続けざまにカバネの眉間、そしてクオンの右目を鉛玉が貫通していた。
装飾銃は連続で弾を放つのには向いていない。それをたった三発でものの見事に全員を仕留めたのはのちの天空都市アークへと成り上がるナーヴ国の現王、シャリテである。
「日頃から狩りはしておくものだな。見ろ、この大仰で無愛想なままごと銃でもネズミ三匹を一発で仕留められた。才能があるのかなぁ?」
真っ白な大理石の床にはみるみるうちに夥しい量のクオンの血が溢れる。握りしめた手紙は血に染まり最早解読は不可。一瞥して投げ出された日記帳を拾いあげたシャリテは鼻を鳴らしてそれを衛兵に押し付ける。
「読んでおけ。癖字が酷くて眩暈がする。このゴミ共をさっさと谷へ。二度と上がって来られないようにな。ああそれにしても何と馬鹿なクオンだろう。解呪の方法なんてあるはずもないのに。パーメニデスにも言っておけ。お前が匙を投げたせいで未だ、カイハツチュウ、だとね」
目から真っすぐに射抜かれて息絶えるクオンの側に膝を着き恍惚とその死に顔を眺めたシャリテの整った顔がにたりと歪む。広く高い天井中に高笑いが乱反射したのを死したクオンの耳だけが朧に記憶していた。
次にクオンが気がついたのは谷底の浅く激しい流水に顔を叩かれているという何とも不快な感覚からだった。
とても冷たい。口の中に容赦なく入ってくる川の水の刺す様な冷たさで身体が内臓から冷えきった様に寒い。
次第に歯の根が合わなくなってくるがそこでやっと動く、という電気信号。脳が手を突っ張れと命令してくる。
クオンはおかしなくらいに震える身体でやっと上体を起こすと口から自然とカバネ、と零れたことでしばしその名前をゆっくりと胸の内に反芻した。
カバネ。遠い記憶ではない。温かいのはベッドだ。カバネと眠る広いベッド。コノエ。言ったら何でも叶えてくれる器用で優しいカバネの従者。
「……カバネ……、コノエ……」
かじかむ身体で辺りを見回すが二人の姿は見えない。
見えたとて、とそこでクオンは右目を撃ち抜かれた時の一瞬の衝撃をフラッシュバックして心臓が止まりそうになった。頭を抜けた弾道の熱をはっきりと思い出す。
すぐに視界が揺らぎ身体の自由が利かなくなったけれど意識下の中で唯一、聴覚だけはしばらく残っていたことも。
シャリテは谷へ捨てると言っていた。二度と上がってこられない様にとも。ここはどこだ。谷ならどうして自分は生きている。
混乱しながらもようやく岸へと上がるとその場にへたりこむ。命からがらが正解かは分からないが今の状況にこれほどしっくりくる言い回しは最早思いつかない。クオンはとにかく自らの姿を見える範囲で確認してみることにした。
恐る恐る触れた右の目は丸い眼球が瞼の下にしっかりと感じられる。治っている? 傷跡が見えるからとコノエが巻いてくれた首と腕の包帯。青紫に変色した冷えた両手の爪先。胸にあててみる手の平が感じ取るのは明らかな心臓の鼓動だ。
「やっぱり生きている……」
そう呟くもクオンにはそれがいい事なのか悪い事なのかは一向に分からずに激しい川の流れをじっと見つめながら途方に暮れてしまった。
今となってはそれしか思い浮かばないしそうとこじつけるしか思い当たる節もないがもしもパーメニデスの手紙を読んだ時に放たれたあの光が関係しているとすれば、何等かの作用で自分は生き返った可能性が高い。
究極、忌まわしき天子として産まれてきた自分の身体がどうにかなるのはもうこの際慣れっこだしどうだっていいとも思う。
しかし、あれが夢でもないとするなら変わらない事実としてカバネとコノエ、ついに二人ともを巻き込んで死に至らしめてしまったことになるのだろう。
恐らく同じように谷に落とされたに違いないからせめて亡骸ばかりも探さなくてはと思う反面、動くにはひどく重だるく億劫でせっかく生き返った(?)身体には申し訳ないが、ここで死んでしまった方が楽な気がする程だ。
朧気だがシャリテは解呪の方法が無いとも言った。カイハツチュウ、それもパーメニデスが匙を投げたせいで。
呪いを疎んでいたパーメニデスのことだから本当は解呪についてもナーヴには秘密にしていたことがあったのかもしれない。
一方で、シャリテが呪いの器であるこの身体を捨てたということはカバネの危惧していた力の入れ替えが終わった、つまり用済み。もうこの身体には呪いの力が無い可能性が高い。
これはクオン達にとっての大変な吉報に違いなかったがそれを一番に知らせなくてはならないカバネもコノエももう死んでしまった。
「…………」
肩を落としたクオンからはもうため息も出ない。
こんなことになるのなら、せめてカバネとコノエ、二人と共に死ぬことぐらいは許してくれても良かったと思わないか。ああでも、これも天罰なのかもしれない。こんなところで孤独に二度目の死を迎える羽目になるのはきっと人になりたいだなんて業の深いことを一瞬でも思った罰。ならばそれは受け入れる他ない。全てにおいて悪いのはそう、望んでしまった自分自身なのだろうから。
クオンは何だかひどく疲れた気持ちになってしまってそのまま目を閉じたその時だった。
「ぁいっぐし……!!!」
「っ……!」
「さっむ……カバネ様~……! クオン様~~……!」
どういった奇跡か、いつものコノエのくしゃみが聞こえたのには若干警戒したクオンだ。リアルな天国、まさか地獄かとも思案しながら半信半疑で声の主を探して辺りを見回す。
「コノエ……!」
「! クオン様、どちらに!? カバネ様もご一緒ですか!?」
「いいや、一人なんだ、ごめんね、コノエこそどこにいるの? 手を振ってくれるかい?」
会話が出来たことにほっとして必死に目を凝らすのに視界の中で動く気配がするものは見つけられない。声が聞こえるのに姿が見えないせいで余計に心細くなり震える足で立ち上がったその時だった。
「あ、見つけましたクオン様! 上です、今降りて行きます。そこで待っていてください」
上と言われて頭上を見上げると背の高い木々の合間にもう一層ある岩壁が見えた。ちらつく影はあっという間にコノエへと形付き、そのあまりにも見慣れた姿に安心したクオンはさめざめと泣き出してしまった。
「コノエ……」
「寒かったでしょう。上に洞を見つけてあります。すぐに火をおこしましょう。歩けますか?」
「……う、ん……」
「カバネ様もきっと近くにいらっしゃるはずです。でなければオレが生きている道理が通らない」
「……コノエ……」
「はい。おいでください。背中ですみません……オレも何だか身体が上手く動かなくて」
向けられた広い背中に遠慮をしている余裕はクオンには無い。ずぶ濡れだがじわっとほのかに温いコノエの体温に触れるとより一層、ますます涙が出て来た。
「……クオン様。お身体は大丈夫ですか」
「さ、むい、ねっ……う、コノエ、君こそ、背中から弾が突き抜けたのを見たよっ、へいきかいっ……」
「やはりオレは死んだのですね。油断してしまっていたので一瞬でしたが……。今は何ともありません。クオン様は大丈夫だったのですか。お守りしきれずに申し訳ありません」
「……う、ん、いいんだよ、君が、生きていてくれたからそれだけで……」
「……カバネ様はどこにいらっしゃるのか……火を起こしたらまた探してきたいので、しばらくおひとりでも大丈夫ですか。人は恐らく来ないとは思うのですが……」
泣きながらもクオンは改めてこのコノエという人間のカバネに対する絶対的な信頼ときたらどんな呪いや不可思議も敵わないことだろうと感心した。或いは、そう思い込むことでこんなにも一旦の平静を保つことが出来るのならば恐ろしく強靭な精神力であることに違いない。
主の安否の分からない今、無事でない可能性を微塵も感じさせないコノエの心情とてまた心細く不安でもあるだろうに。
「さあ、つきました……」
そんなコノエだったがクオンを背負いやっとこ上の洞に着くころには嘘みたいに汗だくで谷の冷気に身体から湯気が煙った。整わない息は単なる疲労だけではなさそうで、クオンはいつもの癖で自分のせいかとすぐにコノエから距離を取る。
「僕のせいだね……!」
「ああ、いえ、恐らくそれは違いま」
「あ。おう、やっぱりお前だったか。理屈は分からんが一回死んだ身体だと動くのはしんどいもんだな。火を起こしておいた。クオンも無事だな。ひとまず良かった」
「……えっ」
「か、」
「カバネ!」「カバネ様!!!!!!!!!!」
洞の入口から首だけ覗かせてあっけらかんと手を挙げて笑ったカバネを見てすぐに駆け寄ったのはクオンだがその場で膝をついたまま俯いたのはコノエだった。
「カバネっ……君も生き返ったのかい……!」
「すっかり油断したな。コノエが撃たれたのは確かに覚えているが」
「カバネもそのあとすぐに撃たれて……額の真ん中を通って頭の後ろから弾が抜けたよ……」
「……さ、最悪だな。まさか正面から撃たれて死ぬとは生前思ってもいなかった。なあ、コノエ」
「っ、………………はぃっ……おまもり、しきれ、ずっ……」
「なに、一蓮托生だ。お前が生きていて良かった」
ひとたびは万が一でも二度と聞けないかと思いもした穏やかなその声には嗚咽を嚙み殺して頷いたコノエだったが滲んだ涙をぬぐいようやっと顔を上げた先のカバネの格好には目玉が落ちるかと思う程驚いた。
「いやほぼハダカーーー!!!! お召し物はいずこへーーー!!!!!!」
「寒くてな。乾かしている。お前もクオンもさっさと脱げ。風邪をひくぞ」
「お風呂があったらいいのにねえ」
安心しきった顔で朗らかに笑ったクオンがもぞもぞと躊躇なく服を脱ぎ始めるのでコノエはいよいよよく分からなくなってきた。
想像以上に呑気な二人の様子におどおどと狼狽していたが最終的には黙って下着一枚で火の側に正座する。
「水は腐るほどあるがこの状況じゃあすぐに風呂とはいかないな。しかし……」
同じく下着一枚で洞の外をまっすぐ遠くに見ながらカバネはこんなところがあったとはな、と呟いた。複雑な顔をしていたコノエもそれにはそっと頷く。
「……そうですね。ここは死の谷でしょうから、人が降りる道も無いはず」
「死の谷……昔の人が骸を捨てにきたっていう所かい」
「ええ。その通りです。今はきちんと埋葬していますが、少し前まではゴウトもここに死者を葬ってきました。古い習わしです。降りたら帰ってこられなくなるという言い伝えもあってか昔からここには人が寄り付かないのです」
カバネがそれに頷くのを見てからクオンが続けて先住民もいないのかいと首を傾ぐ。
「確かに、それは分かりません。何せ上が地上だとしたならここは地下とも言える未開拓の地。居てもおかしくないのかもしれませんが、その存在が一切表面化しないのもそれはそれで難しいことかと」
「そうか。火を起こしたら煙がたつものね。大きな獣ぐらいならいそうだけれど」
「いるかもな。油断していたら寝首を掻かれるかもしれない。嚙み砕かれないように気を付けないとな。ああ、それと、少し確認したいことが。落ち着いたらでいいから一旦俺を殺してみてくれないか、コノエ」
「? いったん……? 何て?」
「殺せと言った。死なないはずだからな」
コノエは無言でその言葉の意味を咀嚼しようと努力はしたがどうやらキャパオーバーだ。どう反応したらいいのか分からずに固まる。
すかさずクオンが割って入った。
「死なない? どうして分かるんだい」
「俺はこの先の奥の深いところまで流されていたからな。二、三回は溺死した」
「まじですか」
「まじだな」
「……どういうことだろう……待ってておくれ。確かめて来るよ」
そう言って立ち上がったクオンの手首を掴んで制止したカバネは呆れた顔でやめなさいと窘めた。
「? そういうことじゃないのかい?」
「そういうことだ。わざわざここから下に飛び降りて確かめなくともお前はきっと生き返る。だが痛覚まで失ったわけじゃない。痛いのには変わりない。やめておけ」
クオンが眉を寄せて心配そうに再び腰を降ろす。
「苦しかったのかい」
「多少はな」
何とも嫌な方向の会話に今か今かと発言権のタイミングを見計らっていたコノエは必死の形相で手を挙げた。
「あの! そこまで分かっているなら私がカバネ様を殺す必要もないでしょう!」
それにはカバネとクオンが揃って顔を見合わせた。
「……ああ、まあ、それもそうだな。お前達で試すわけにもいかないと思って。死なないと分かっているからか自分が死ぬのには抵抗がないもんだなクオン」
「ほらほら、そうだろう? 少し信じがたい気持ちもあるよ。ねえコノエ? カバネは何度も死んだから分かるかもしれないけれど、僕たちはその感覚がまだ分からないもの」
「…………ああ、? いえ、私はできれば死なないと分かっていても死にたくは……」
クオンに同意を求められて困った顔でコノエがそう言うと大げさに肩を竦めたカバネがやれやれと首を振った。クオンも不思議そうに首を捻る。
「なんだ、そうなのかい?」
「冒険心のないやつだな」
「あ、頭のおかしなことはほどほどにしてください……お二方と違って私はただでさえパニック状態なのですから……」
「コノエがそうなるのは意外だよ。お茶でもあれば良かったんだけど……」
「お茶ぁ……ですかぁ……」
クオンのまるでたおやかな発言にはがっくりと項垂れため息を吐くコノエである。
その様子に苦笑しながらもクオンは先程からどうしても寒さと、それだけではなくとも震えてきてしまう手をぎゅっと握りしめてねえカバネ、と話を続けた。
「きっと、あの光のせいだね」
「……まあ、そうだろうな。近くに居た俺とコノエも何等かの影響を受けてしまったと捉えるのが一番理に適う」
「ナーヴは僕を捨てた。解呪こそきっと叶ってる……でも、全部僕の所為だ」
罪悪に沈むクオンの声だが解呪という言葉にだけは途端に反応したカバネの目が微かに揺れる。頬にすっと赤味が帯びるのを見たコノエの顔は思わず綻んだ。
「やはりそうか。力は渡ってしまったが仕方がないな。自覚はあるものか? というか、ちょっと来い」
「な、え、何、うぐえっ……」
またしてもカバネに今度は半裸で力いっぱい抱きしめられたクオンは今度こそ泣きそうになって息を詰めた。いっそ無条件で与えられる優しさが怖くもあった。
だって、こんな状況でもカバネはクオンの身体が天子の力という柵から解放されたことを喜んでくれるというのだ。どうやったって視界が一気に溺れていく。
「……約束は守った。死なないぐらいどうってことない。言っただろう。一蓮托生と。気に病むならここはおあいこでどうだ」
「……お、あいこ、じゃ、……つりあわないよっ……」
二人の会話にコノエが身じろいだのは決して喜んでばかりもいないクオンの言わんとすることが目から一気に溢れ出たからだ。
誰の所為でこんなことになってしまったか。誰のお陰で何を果たし、誰の所為で何を失ったか。それでもクオンのわなわなと震える青い唇は分かり切った答えを求めてカバネの手を放そうとはしない。
「…………こんなことになって、僕を……僕を、助けたことを、後悔していないかい…………」
【0】
「……カバネ様が」
「国王が討たれたとは本当なのか」
「コノエ様も共にとの噂も……」
「しかしご遺体はあがっていない」
「死の谷に落としたというのは」
「匿っていたという噂のあった子供がやはりあの毒蛇だったのだ」
「スパイか」
「違いない」
酒場のカウンターで洋酒を舐めるカバネは心底一人で出向いて良かったと思った。
コノエの予想通り、この分だと今更表立って帰ってもどうにも良い方向には転がりそうもない。死なない、基、死ねない身体になったことをどう説明してもクオンを悪く思う人間はゼロではないだろう。
万が一受け入れられたとて、自分達が仮に百年、千年、とこのままの状態だとしたならそれを見た人々は次第に「化け物」と呼び始めるのも想像に難くは無い。少なくともまだ人である感覚の真っ当なカバネはそう思った。
だが、だからと言ってこのままゴウトを野放しにしておくわけにもいかない。
片や隣国はただでさえ人でなしの集団。
殺された時に素性は知られているだろうし王を討ったとなれば領土を広げる為に近いうちに仕掛けてくるに違いない。
端的に言えば新王を立てるのが安定には一番手っ取り早い。国を固めるには必ず王は必要な役割。ただ。
「カバネ様にはお跡目がいないのに次と言っても一体誰が」
「くわえてコノエ様にも……」
そう、そこなのだ。カバネ及びコノエ亡き今この国の支柱は無いも同然だった。
カバネはとても若くして王座についた。その若さと持ち前の強いカリスマ性でみるみるうちに国としての士気をあげ、奪う為の戦いも守る為の戦いも勢いのままに経験してきた。
お陰でこの近隣では最も勢力のある国としてナーヴ国と唯一対抗出来る軍事力を持っていると言われてきた。その自負もある。それ故今から守るものがあっては枷になると例え数多あった政略結婚の申し出であっても無駄な柵とならぬよう足蹴にして今まで国を広げてきたわけだ。
コノエはカバネよりも二歳年上だったが幼い頃からの互いの主従関係に曇りはない。よってカバネよりも先にコノエが落ち着くはずもない。そんな相手がいたと聞いたこともないし、というか多分本当にいない。どれほどの美女に言い寄られても何故だかあくせく逃げ回っていた記憶しか出てこない。
小さく頭を抱えたカバネはどうしたものかと思いを馳せながら閉店まで周囲の話に耳を傾けた。
一方、ものの数日ですっかり洞を居心地の良い塒に仕立て上げたコノエは留守を任されたクオンと共に夕食を啜っていた。
「意外と食べられるものが多くて良かったですが……。お口に合いますかクオン様」
「もちろんさ。コノエが作ってくれたものに美味しくなかったものなんてないよ。コノエは何でも出来てすごい」
「お口に合いそうなら良かったです。家が料理屋なのでこのぐらいは」
「……ンっぐ、ええっ、そうだったのかい? どうしてカバネの側近に?」
「父が先代の国王様の側で働かせてもらっていました。国王様が亡くなった後は宮廷で料理人をとカバネ様が。その関係でカバネ様とは随分幼い頃から一緒にいたもので、まあその、何というか、弁えているつもりでも、時折家族というか、……弟の様にも思えて、ああ……何の話でしょうね、すみません……」
そう言ってはにかんだコノエが本当に恥ずかしそうに目線を下げる。クオンはほほ笑んで彼の人柄を溶かし込んだ様な優しく温かいスープをゆっくりと啜った。
「そうか、コノエはカバネよりも歳が上なんだね」
「はい……。カバネ様は昔から賢いお方ですが、お優しいので優先順位がいつもおかしくて困ってしまう」
「あはは、分かるよ。カバネはきっと自分のことを一番顧みない人だろうね」
「仰る通りです」
「人を救ってばかりなんだね」
「……そう、だから、英雄と呼ばれています」
どこか寂し気にそう零したコノエは、そんなカバネの度重なる自己犠牲を本心では良く思っていなかった。
英雄と呼ばれる栄誉はカバネの勲章となり権威となり引いては国の象徴となる。だけれどそれを成し続けるのがとても簡単なことだとは言えない日々であったことをコノエは知っている。
時には大怪我をしたこともあった。それでも死のすれすれを幾度も二人で交わしてきた。
だから、今回のあっけない自らの死にざまを思い返す度、コノエは震える程恐怖した。それで言ったら本質的に死なない身体は大いに結構だ。だが、自分の命よりも大事な存在を守り切れなかった喪失の衝撃を初めての死で辛辣に痛感してしまった。
カバネが生きていたから嬉しい気持ちよりも、死んでしまった悲しみの気持ちの方が少しだけ強かった。
きっと二度と癒えない。カバネが死んだ事実でコノエは深く深く傷ついていた。
いっそあのまま死んでいたなら味わうこともなかった感情なのは確かだ。だとしても、今尚続いている死からの続きには、続いたが故の恐怖こそあれど抱き合わせた心からの安堵があるのも複雑ながら実際で。
「……どんな形でもカバネ様が生きていてくださったのは、クオン様のお陰でもあります。ありがとうございます」
そんなコノエの言葉の裏に隠された僅かな影は、例えコノエに自覚がなくとも繊細なクオンにとって気が付かないはずもない感情である。
物事には必ずきっかけがある。それをクオンはよく感じている。負い目があるからそんな風に言われると尚更不安になる。邪険にされて然るべき存在。正義の善意に甘える弱さを捨てられない身勝手な咎人。だからと言って今更拒絶されるのはとても怖い。今からでも遅くないからもっとひどいことになる前に関わるのを止しておけば、ここで二人から離れておけば、頭の隅では理解できる選択肢にぶるぶると震えるこの心。
クオンはなるべく平静を装い狡猾にコノエに吐露する。
「……僕が側にいて迷惑じゃないかい」
「はは、……何を今更。勿論です。カバネ様があなたを邪険にするはずもない。私もクオン様が大事なのです。どうかお気に病まずに」
こんなにもはっきりとコノエがそう言ってくれるのは、無論そうするしかないからだ。けれど嘘でもいいからそう言っていてもらわないことには黙って側にいるのにも不安でどうにかなりそうだった。
見えやしない人の気持ちを探るのはこんなにも苦しい。確かめられずにはいられないのに確かめてしまうのが恐ろしくもある。現にクオンはこうして答えのある誘導尋問でしか自分の心を慰めることが出来ないでいる。
例え嫌々でもいいから、今は側においていて欲しい。
もしも人の本心が見えたなら、世界はきっともっと単純だったのかもしれない。
しかし今だけは心が誰にも見えないものであることに、クオンは救われていたのだった。
◇◇ ◇
本来、水源の豊かなナーヴ国との国交はゴウトにとってもその他の国にとっても有益なもののはずであったが、シャリテが現王になってからは他国との国交は完全に断たれた。
当然ながらそれを良く思わない国はゴウトに限ったことではなく、水に恵まれた豊かな土地を擁するナーヴ国についての侵略を計っていた国は実際に多くあった。
それだけに、いつもの様に若いカバネが先陣を切った末の結末には誰もが驚いた。カバネ、コノエの訃報はあっという間に国内外に広まり沈黙の籠城であるナーヴ国の脅威を一層慎重に警戒せざるを得なくなったのは言うまでも無い。
ところで、カバネはと言うとあれから色々と考えもしたが結論としては小細工の不得手な英雄の隠れ蓑が長くは続くことは無かったということになる。
というのも、考えたってどうせ今誰彼に国の手綱を渡したところでカバネにはこの現状がどうにかなるとも思えなかった。適当な人間がいるわけでもないし、ならばこうして肉体が健全である以上は悪く言われるかもなどというみそかすみたいなリスクなどねじ伏せてカバネ自らが指揮を執った方が百倍手っ取り早いと思ってしまったのだ。
だから、ある日突然ひょっこりと三人で国に帰り今までの経緯を話して死なない身体になったことを暴露しつつその原因となったナーヴ国に対し再び徹底的に攻める計画を王自らが持ち込んだというわけだった。
呪いについて明るみにすることに一抹の不安もあったコノエだったがいざ帰還してみればそれもいらない杞憂に終わった。英雄、そして国王たるカバネの生まれ持った強いカリスマ性がどれほどの人を魅了する力があったのかを改めて痛感せざるを得なかった。
不死となった英雄の帰還はこうしてゴウトに大歓迎されたが、これをナーヴに知られてしまうのはまだ少し都合が悪い。よってしばらくは王宮のごく一部での極秘情報扱いとすることとなった。
帰還後カバネはすぐに拠点を一旦ゴウトの国外に移し、クオンを匿いながら日夜戦略を練った。
次の天子は恐らくまだ胎児の可能性が高い。万一産まれていたとしても自我を持たない赤子がゴウトに脅威をもたらすことなど不可能だろう。ならば天子が苦痛を理解するようになるまでナーヴはきっと動かない。それまでに叩けば必ず勝機はあるはずだ。
それに、ナーヴ国が殺したと思っているであろうカバネとコノエは今や兵器も同然の身体。肉体的な死を失った二人を擁するとなると戦力は格段に上がる。混乱の最中であるゴウトの秘密を知る数少ない戦闘員数であっても十分に戦うことが出来るであろうという目論見だった。
そうして着々と進められた侵略の計画にカバネとコノエを中心にしてそれでも百余名を集めたゴウトの精鋭は既にその腕を揮う機を〝待っていた〟。
この時カバネは計画の立ち上げから攻めの待機に至るまでの期間について余裕を持ったつもりは一切なかった。
増してや、どんな形であれ一度は惨敗で破れているナーヴ国についてを甘くみていたつもりも、無論、一切。
だから、新月の前の嵐の晩、叩き付ける様な激しい豪雨のもとゴウトの国の入口に悪魔の所業が施されたのはカバネにとってはもちろん、コノエやクオン、この計画を知る全ての人間にとって全くの予想外だったのであった。
「…………!」
「カバネ様っ……」
何とも言い様の無いこの激しく内臓の掻き回されんとする痛覚は、カバネもコノエもこれが初めての感覚だった。
雨風の音に混ざって甲高い声で激しく泣き叫ぶのは真っ白い布にくるまれたどうやら赤ん坊だ。
コノエが先にそれに近づこうとするが手前で大量の血を吐いて動けなくなった。原因の分からないこの凄まじい身体に対しての威圧は最早確実にこの赤ん坊から発されていると分かっていてもカバネ、コノエ両方の身体が全く前に進まない。
それどころか濡れてぬかるんだ地面に口から次々と吐き零れる鮮血がどぼどぼとたまっていく。
「う、げほ……!」
騒ぎを受けたカバネ、コノエ、クオンと共に駆け付けた数名の部下だったが赤子の泣き声が微かに聞こえてきた時点で全員が口から血を吹き出してすぐに息絶えた。
訳もわからず蘇生したクオンが震える口元で「呪いだ」と呟いた瞬間にも、再び口から大量の血が溢れる。
「……何で……」
「っ、天子だ、ナーヴが近くにいる、隠れていろ」
「天子……?」
要するに、苦痛に理解は必要ないのだ。つまり自我が無いとは程度を知らないのと同義。これはとんでもない失態だった。
狼狽した目で不安気にしがみついてくるクオンを宥めながらも、カバネは己の読みの甘さに心底吐き気を覚えて唇を噛む。
とかく今はあの赤ん坊が雨風に晒され苦痛に泣き叫ぶのをどうにかして止めなければならない。だが、容赦なく襲い掛かる無垢な呪いを浴びながらではいくら不死身の身体であっても幾度も力尽きてはまた進む、それをコノエと繰り返しやっと手の届くところまでこぎつけたのは発生からどのぐらい経過してからだろうか。
「っ……」
考えてみたらこんな豪雨にたった一人で放置された赤子が泣き叫ぶのは当たり前のことだ。何も知らない無垢で必死な顔を見つめたカバネはどうしようもなくいたたまれない気持ちになって自身の血で真っ赤に染まった両手でその小さな兵器を抱き上げ、そこで息絶えた。
コノエが咄嗟に倒れ込んだカバネごと抱きとめるとカバネの腕に抱えられ次第に泣き止もうとする命へのあまりの冒涜に悔しくて悔しくて血の涙が流れ出た。咽び泣くコノエの腕の中でびく、とカバネが蘇生する。
それを見届け入れ替わる様にして力尽きんとするコノエはゆるせません、と血を零しながら目を瞑って横たわった。
「…………カバネ」
「クオン…………」
元天子であろうとも、解呪されたクオンは死ねないただの人だ。呪いに蝕まれ幾度も息絶えたその虚ろな目にカバネは覚えがあった。
「君は一体何をしているんだい」
「よせ、この子を殺しても意味がない……」
「この子、この子なものか、兵器だ、天使の顔をした悪魔の殺戮兵器だよ、僕の呪いを継承したんだ」
「……そうなのかもしれないな……落ち着け、クオン……」
「落ち着いていられるわけがないよ! 君が大事に抱えているそれは僕でもある、殺すんだよ! 手放して! 憎むべきだ、君と君の国を、大事な仲間をこんなにぐちゃぐちゃにした、許せないよ、僕は、僕、は」
泣き疲れたのか雨粒を受けながらカバネの腕の中で静かになった赤ん坊にクオンはかつて抱いたことのない強い強い憎悪を感じ預かっていた短剣を抜き出して勢いのまま振りかざす。憎い。そして哀れだ。無自覚にこんなにも多くの人間の命を奪っておきながら尚、平然と生きる権利を主張せんばかりのこの表情。許せない。ナーヴも、天子も、この世界に何一つ必要のない殺戮そのものも。躊躇っても震えてもいない。クオンは本気で殺してやろうと思った。純粋な殺意だった。
「……クオン……」
それを自らの腕で受け止めたカバネは、ひどく悲しい目でクオンを見上げた。同時に、蘇生していたコノエがクオンの戦慄く肩を後ろからそっと抱く。
「クオン様……大丈夫です……」
「……大、丈夫……?」
「ええ……。カバネ様も、私も、そして、クオン様、あなたも、生きています。だから、大丈夫です」
コノエの目からは雨に紛れて透明な涙がとめどなく流れて止まらなかった。それを愕然と見つめるクオンにはもう自分が自分の感情で流していい涙などとうの昔に無かったことに気が付いて辛くなった。
今、真に悔しいのは。
過ぎ去らんとする死の嵐によろけながら立ち上がったカバネが赤ん坊を抱きしめて自国へ一歩踏み込んだその瞬間、辺り一帯に水しぶきが沸き立った。
こうして一夜にして壊滅したゴウトはその長い長い歴史に幕を下ろしその後二度とは地上に姿を現すことは無かった。
赤ん坊が泣き止むのをどうにか止めることに成功したカバネ、コノエ、そしてクオンだったがその直後遠方に潜んでいたナーヴによる一斉射撃によって天子の赤子と共に見る影もないほどの蜂の巣にされてしまったことで呪いの継承権は再びナーヴへと渡ってしまった。
一時、ナーヴ国というあまりの残虐さに打ちひしがれて蘇生してもすぐには立ち上がれなかったのはカバネもコノエもクオンとて一緒だった。
かくして、嵐のあとの清々しい程晴れの朝日はどうしようもなく残忍だ。
いつの間にかそのまま気を失っていたカバネは突如一晩で息絶えた自国がゴウトという国そのものの墓場になってしまった光景を、例え千年経ったその後でも忘れ得なかった。
人の気配の一切感じられない変わり果てたゴウトの街並みを歩くコノエが声を上げて泣いたのを見たのはカバネもクオンもそれが最初で最後だ。
生き残りはいなかった。
それでも、拠点へ帰ろう、と微かに笑うカバネの眼差しにクオンはまるでいたたまれなくて俯いてしまった。
その道中クオンが幾度決別を決心しようとしたかは数えきれない。歩調が止まりそうになる度にコノエが先で足を止めて待っていてくれる。
どうかこのまま置いて行ってくれと、罪悪感で圧し潰されそうなクオンの喉まで出かかるのに言えない。言えなかった。
こんなに、これほどに取返しのつかないことを二人に被らせてもなお、一人で生きていくことすら選べない自分をクオンは心から、それでも恥じただけだった。
拠点で待っていた多くの仲間は、カバネ王の生還を再び喜んだが、その口から紡がれる祖国の訃報には愕然とし昨日まであんなに燃え滾っていた戦意もほとんどの者からは喪失してしまった様に見えた。無理もない。信じがたいがたった一晩で赤ん坊に殺されたというのは、よもやかのカバネ王を冠するゴウト国。そして祖国である。
ナーヴという未知との戦いがどれほど険しいものかを想像するには十分すぎたのだ。
だがそれでもカバネは一国の王でありそして英雄でもある自身の在り方を貫いた。自国を仇された復讐の火がめらめらと揺れる目で誰にともなく強くこう言い切った。
「俺はナーヴを討つ」
それを聞いたコノエが一つ息を吐く。まっすぐに空を睨んだカバネが続ける。
「どんなことがあっても、必ず。ついてきてくれるか、コノエ」
「当然です。あなたがあるところにあり続けるのが私の役目。例え地獄の果てまでであってもお供致します」
「頼む。絶対に報いてみせる。戦況は見ての通り苦しい。人員はお前達だけだ。時には守ってやれないこともあるかもしれない。だが、ここにお前達がある限り、ゴウトは滅ばない。誇りはあるか」
カバネのこの頑なに強かな意志はゴウト国が復讐を糧に奮い立つには十分な発破だったことだろう。
ここからまたやり直す。カバネはこの時本当にそう思っていたし、望みだってまだまだ捨てていなかった。
ゴウトはここにある。必ず報いる。そう信じていたからこそ、三度クオンを擁したのだから。
【2】
滅びたゴウトにはすぐに規制線が張られ日夜ナーヴの見張りがつくようになった。呪いで息絶えた国民の弔いの計画は当然ながら叶わず日に日に平らに均され跡形も無くなっていく祖国の形を身を切られる様な思いで見つめたのは昨日や今日の話じゃない。
近頃は、いくら変装していても、クオンもコノエも増してやカバネなんかは大っぴらに外を歩けるような存在ではなくなってきた。
百人全員で動くわけにもいかないので拠点は置かずにいくつかのグループに分かればらばらに行動していたわけだが、最近は全員で集まれるような場所も限られてきてしまった。
急速に広がるナーヴ国の侵略は衰えないどころか勢力を増すばかり。避けるのが難しい程街にあふれる追手に怯え地上を逃げ回る様にして暮らす日々に誰しもの限界が来ていることにもカバネは気が付いていた。
そこで、地下の塒のことを思い出したカバネ達は一旦思い切ってそこに拠点を置き鋭気を養うのも時期であるとついに日の当たらない地下の空洞へとゴウト国の移住を決めたのであった。
【5】
◇◇ ◇
クオンは夢を見ていた。
明るい太陽の下、空からは無数の花が降る。カバネが側に寝そべっている。コノエも遠くで昼寝をしているようだ。クオンはカバネの隣に腰を降ろして降り注ぐ花々に埋もれていくカバネをじっと見ていた。花で顔が見えなくなる度に幾度もそれを払い何時間も、何年も、何十年も。
夜は来ない。花も止まない。目覚めないカバネととっくの昔に花の下に埋もれてしまったコノエ。狂った花の雨。落ちるのを止めた命の砂。自分以外の誰もいられないこここそが、そうだ、きっと、地獄。
「…………」
ゆっくりと目を開けたクオンは、暗く湿ったいつもの地下の気配に安堵する。
日の光は未だゴウトを強く拒み地下に降りた時からつけ始めた三十日ごとの壁の傷は優に六百を超えた。
つまり、地上からゴウトが消えてからは五十年程も経っていることになるが、カバネ、コノエ、そしてクオンの容姿は初めて死んだあの時のままだった。
体温はある。血も赤い。睡眠も食事もとる。生きるルーチンは変わらないのに、老いて生きいつかは死ぬのが定めの人間と共に暮らしていると時折とてつもない恐怖に襲われた。
ゴウトは元々平均寿命のとても高い長寿の人種だ。それでも屈強なゴウトの男達の筋肉は年と共に次第に衰え、髪も白く細くなった。優しくも強く光輝いていた眼差しはただただ穏やかな蝋燭の灯の様に静かな揺らめきへと変わっていく。
当時、カバネやコノエと変わらない歳で精鋭部隊に入っていた青年は今や七十を大きく超えた。かつての祖国には妻子もあったが恐らくあの晩呪いに息絶えた。埋めてもやれなかったと酔って時折咽び泣くこともあった。
きっと各々長く傷が癒えずに十年は話題にすることが無かったあの嵐の夜の出来事も年長者が百を迎えたお祝いにと夜通し騒いだ夜からはそうやって家族や故郷の話をたくさんするようになっていった。
みんなどこか勘付いていたのかもしれない。
ゴウト国は自分達が生き延びることの代償にこれきり地下を出ることは無い。百を超えたぐらいで死は訪れなくとも二百までは生きられない。復讐の炎は生涯消えずとも、老いに蝕まれる自分達にそれを果たすことはもう恐らく、叶わないのだと。
「クオン様」
「……やあ、久しぶりだね。邪魔したね、すぐに片づけるよ」
「いいえ。ここしばらくお顔を見ておりませんでした。よければそのまま」
「ううん。直にコノエも来てしまうから」
だから、限られた地下空間ではこうして時たま鉢合わせてしまうゴウトの人間の顔を、どうしてもまともに見ることの出来なくなってしまったクオンはもう長い間ほとんど寝室から出ていない。
ゴウトの人間が年老いていく様を見るのは辛かった。
もう五十年もの間牢屋にも思えるこんな地下での閉じた暮らしをする羽目になった根本を彼らが考えないはずがない。
それに、見た目のまるで変化しないこの姿をきっと気味が悪く思うだろうとも。
そうやって言葉にするのを躊躇い仕舞い込んだ挙句疑心暗鬼にも被害妄想にも陥ってしまうクオンを、穏やかな目の彼は寂しそうに笑ってもう一度引き留めた。
「去年でしたか。クオン様の手当てなされた山猫が子を成して戻ってきています。カバネ様と見てらしてはいかがですか」
「……ああ、……懐かしいな、こんなところに迷い込んだらいけないから遠くにおいてきてもらうように言ったのに……」
「なに、彼女にとっては谷中が庭の様なものに違いない。きっとクオン様に我が子を見せたかったのでしょう」
「…………」
苦笑を返事にしてそのまま部屋に戻ったクオンに今度はカバネが声をかけたのは真夜中のことだった。
カバネはコノエと共に時折地下から出てどこかへ行っている。谷を散策してくるのか、それとも地上へ行っているのかは分からない。聞こうとも思わなかった。
地下での暮らしは少なくとも地上よりはよっぽど平穏で、目の前で起きた数々の凄惨な出来事が信じられないぐらい遠くに霞む程だ。痛覚はそのままに鮮明なフィルムは意図せず風化していく。
生き物の記憶のつくりはそういう風に出来ている。誰かの死の瞬間は悲しくとも生きている者に起こり得る幸運を受け入れられる様に出来ているものだ。
今更埃に塗れ不鮮明になった記憶のガラスを綺麗に拭いてやることもない。
引いては、二度とはこの安寧からゴウトを連れ出してはいけない。十分頑張ったのだから。
老いるゴウトを見守るここは、安楽の揺りかご。どうか安らかな眠りまでゆっくりと揺らし続ける役目を死のない自分達が背負っているのだとクオンには思えた。
このあまりにも身勝手な気持ちは身勝手だと思うからこそクオンは一人大事に抱えた。
そして地上に戻ろうとカバネがもしも決意しようとする時には、クオンは、せめて自分だけはそれに反対しようと心に決めていた。
身勝手だからきっと言えるはずだ。嫌われる覚悟ならとっくの昔に出来ている。カバネが自分を手放してくれるのを、クオンは本当はずっとずっと待っていた。
「なんだ、クオンにはやたらとくっつくな。俺には見向きもしないのに」
「クオン様の匂いをきっと覚えてらっしゃるのでしょうね。律儀で賢明な子だ」
「……ここにはもう来るなって言ったのに。お母さんになったのかい。偉いな……」
子に乳をやるからか、真っ白な毛並みは乾いてぼさぼさになり艶も無い。固く浮き出た背中を何度も優しく擦ってやると、嬉しそうに濡れた鼻先を近づけてくる。
その一方で膝を尻尾でばしばしと叩かれるカバネは不服そうにしながらその自在な尾を眺めた。子供達によじ登られて身動きのとれないでいたコノエが笑いを堪えて一匹をカバネの膝の上に置く。
「随分やんちゃ坊主ですから、お怪我をされませんよう」
「……」
親の色素とはまるで真逆の真っ黒なその一匹を、カバネが無言で優しく抱え上げ見つめたのを見て、クオンはどくんと心臓が震えた。悟られない様に息を止める。
「お前は炭みたいだな。母親は真っ白けなのに。父に似たか?」
「はは、……ぶち模様もいますから、あり得ますね」
「まだ赤ん坊だから分からないかもしれないが、世はお前が思うより厳しいぞ。しっかり生き残れ」
「カバネ」
突然立ち上がったクオンの足が震えているのを察したコノエが、すぐに側に寄ってくる。
カバネが愛おしそうに命を抱き上げるその姿は否が応にもあの日の出来事と重なりどうしようもない程記憶の波に苛まれクオンは吐きそうになる。姿の変わらないせいもある。小さな命の無垢のせいもある。
クオンはここでこれまでの何もかもが堪えきれなくて息が上手く出来なくなった。諸悪の根源であるのは自分自身だと分かり切っていたからこそずっと我慢してきたこともある。
本当は衰えていくゴウトの姿を黙って見ているのはもうとっくの昔にクオンには耐えられていなかった。
どこにも行けない、誰にも言えない、だけれど、優しくばかりされてしまうこの罪悪感を受け入れるのだってとてもとても辛かった。
ゴウト国というたくさんの人の未来を完膚なきまでに破壊したのはナーヴではなくクオンだ。
それで気が済むならばゴウトの人間に何度殺されたって憎まれたって構わない。けれど、それでは到底済まされない多くの犠牲をクオンは背負ってここに立っている。それが分かるからもうゴウトと共にここにいるのは辛くて苦しくて心の底から悲しいのに。
はらはらと涙は零れても自分よりもどれ程か辛いであろうカバネやコノエの気持ちを思うと、何一つ伝えることの出来ないクオンは黙って寝室に戻った。
山猫が名残惜し気に小さく鳴いたが、今のクオンにはそれすらも追い打ちでしかなかった。
気が付けば、部屋の天井が見えていて、横を向くとコノエが暗鬱な顔で俯いていた。
クオンは何だか久しぶりにすごくスッキリした気持ちがしてゆっくりと身体を起こすと、関節がぎしぎしとなって少し動かし辛い。
「……何か飲むか」
ベッドの正面にある椅子に座っていたカバネがそう言ったことでクオンが目覚めたことに気が付いたコノエは手を差し伸べかけたが何も言わなかった。
「…………」
抜け落ちたのは心の靄だ。溜まりに溜まったはちきれんばかりのクオンのストレスは行き場を無くしてとうとう自分自身に返った。手をついた部分が濡れているのに気が付いて振り向くと胸を中心にしてべったりと赤黒い血が染みていた。
傷口など無論もう無い。死んでいる間に治ってしまったのだろう。それが無性に虚しくもおかしくも感じられてクオンはふっと苦笑する。
「……馬鹿だな、僕は」
「…………」
「せめてもっとマシなことをすればいいのに、存在以上に意味が無いことしか出来ないんだね」
「…………」
「……そんなことを、……おっしゃらないでください……あなたの存在に意味が無かったことなど、いままでに一度だってないではありませんか……」
カバネが黙ったまましばらく何も言わないのを見て、コノエが必死になって言葉を絞り出す。
「言ったはずです……お辛いなら、どうお辛いのか全て仰ってくださいと……可能な限り、私がお助けすると……お忘れですか、クオン様……」
「……はは……懐かしいな……。ちゃんと覚えているよコノエ。でも、それは呪いがあったからだよ。ストレスがかかったところで今はもう見ての通り自分しか殺せない。君が僕の願いを叶えてくれる義理もない。それに、僕はコノエの大事なものを奪ってばっかりだよ。そのうちきっとカバネも奪ってしまう、だからもう、……」
「クオン」
やっと言葉を発したカバネは少し怒った顔をして指で机をとんとんと叩く。呆れた様に一つため息を零してハッキリと大馬鹿だと言ったのを聞いてクオンは、否、コノエもたじろぐ。
「こんなところにずっと一人でいるからそうなる。ここ数年まともに部屋から出ていないだろう」
「…………」
「人が人と言葉を交わさずに自分とばかり対話していてはそりゃあ頭もおかしくなる。死ねないのに死にたくなったり、どこにも行く必要がないのに逃げ出したくなる。言葉を交わしたらいい。皆お前が部屋から出てこないとかれこれ十年ぐらいは言っている」
明らかにキレ気味のカバネの語気にはコノエが慌てて割って入った。
「ど、どうしてお怒りですかカバネ様……クオン様、皆心配しているのです。彼らはクオン様が老いていく自分達を見てお気に病まれているのではないかと……」
完璧なコノエのフォローには咳払いをしてもごもごと言い訳を始めるカバネである。それを横目に心底困った顔でコノエが口を噤む。
「……そう、要は心配している……。怒ってない……あんまり屁理屈だからちょっとイラっとしただけだ」
「今はいけません。カバネ様こそ少し時間をおつくりになってクオン様とお話くださっては……」
「うるさいな……」
地下の暮らしが穏やかなのは確かだった。
二人が五十年間ちっとも変わりないのも。カバネの言う通りクオンだけが長い間一人で抱えてきた何もかもの思い込みのせいで目を背けてきた平穏を仮初めと思っていたのはいつの間にかクオンだけになっていた。
強かに生き、自分達がやれることをやるだけやってきたゴウトの五十年。
とっくの昔に彼らを地上にあげナーヴを討つことを諦め、ゴウトが生きられるだけ生きるのを見届ける決意を固めていたカバネは彼らの意志を最後まで引き継ぐのはよもや自身という王とその家臣一人だけであるという事実をちゃんと受け止めていたに違いない。
進まない己の時間軸に囚われていたクオンにはそれが分からなかった。ならばその気高き高潔なゴウトが、今更クオンを憎んだところで何になるというのか。
「…………」
またもや自分のことに精一杯でしか生きられないクオンはそれこそ意味の無い断罪を自分に施したことに気が付いて呆れる。
だがそうすることでしか昇華されなかったであろう罪意識は本当に自己満足ではあるが少しだけ、楽になった様な気がした。
罰が悪そうに黙って二人の様子を見ていたクオンの表情に気が付いたコノエは安心した様に眉を下げて笑う。
「本日はカバネ様の戴冠記念日です。夜にはクオン様も夕飯がてらおいでください」
「は、やらないと言ったが。無駄は慎め」
「なに、騒ぐあてですよ。畏まったことは行いません」
「俺は余興か!」
「そうは言ってないでしょう……カバネ様は本当に難しいお方です……」
そうやって迎えた夜にはコノエに連れ出されるまま随分と久しぶりに夕食のテーブルを囲むと、歓迎された宴の席はとても華やかで活気に満ちていた。
五十年も前に陥落した国の民とは思えない程の満ち満ちる生気。ゴウトは確かに今もここに生きていた。
ひどく勧められるので勢いに乗せられてぱかぱかグラスを空けたクオンは次第にぼんやりとしてくる意識の中でああ、たのしいなあ、そういえば生まれて初めてお酒を飲んだかもしれない、とそう思った。
「おいクオン。大丈夫か。飲めないならそう言え……」
「ん、カバネ……?」
「馬鹿みたいに飲んでいるから強いのかと思っていたら」
「んう? おさけつよい……? はじめてのんだよう……」
「…………」
初めての飲酒で感じた独特の浮遊感はクオンの気持ちをどこまでも楽しくだけさせてくれた。ゴウトの国は綺麗で優美で皆優しくて強くて楽しい。国の木である樫は実が成ればたくさんの人で収穫祭を行う。それを使った料理もとても美味でその時期に低い家屋の並ぶ街並みを照らす夕焼けがクオンは好きだ。
好きだった。カバネに背負われ寝室に着いたクオンはベッドに座ったまましばらくぼんやりと呆ける。
見兼ねたカバネがため息を吐いて上着を引っ張った。
「ほら、寝るなら上着を脱げ」
「んん。あれ、このえはどうしたんだい」
「潰した。たまにはいいだろう。まああいつはザルだからすぐに立ち直るだろうけどな」
「ふうん、かばねはつよいのかい……」
「強いのかいぃ? 当たり前だ。酒に呑まれる王がどこにいる」
珍しく得意気にそう言うカバネがクオンにはどこかかわいらしく思えてベッドに横たわりながらふふ、と笑みが零れる。
そりゃあもっとたくさんいいところがあるし特筆すべきところではないのかもしれないけれどクオンはカバネの時折起こす癇癪や強情で素直じゃないところが実に人らしくて好きだった。英雄の時にも王もである時にもきっとそうであるからこそ滅多には見せられないカバネの我儘な素顔。
酔いからかはたまた自分がいくらか楽になったからか、クオンは今ならば自分の心情を素直に伝えてしまえると思った。
もうこれ以上ゴウトを見守るのは辛い。それは死んでみても変わらない。カバネとコノエをこれ以上の災禍に巻き込まない為にも離れてしまった方がいい。
これは屁理屈じゃなくて強がりでもなかった。
「カバネ?」
「うん」
「ぼくを助けてくれて本当にありがとう」
「…………」
「十分だ、これでもうじゅうぶん。本当はもっとはやくに言うべきだったこともわかっているんだよ。今まで怖くていいだせなかった。それも全て僕自身のためにだ。半端なままで逃げ出す僕をゆるしてくれるかい」
カバネは自身も羽織を脱いで椅子に投げるとベルトを緩めてベッドに腰かける。呆れた声音なのは分かるが酔った今のクオンに怖いものなど無かった。
「逃げる。何から」
「……君たちからさ……ごうと、から……」
「…………」
「もちろん、カバネからもね……」
横になってそう言ったクオンの目が幸福な夢を求めてかゆっくりと瞬く。現実との境目が分からなくなりそうなぬるくあまい酔いの狭間。
だが、酔ってやっとこ口にするクオンの精一杯の主張だとて、カバネがまさかそんな傲慢を許すはずもない。
鼻で笑う気配にクオンは瞑っていた目を開ける。
「逃げる、ね。本気で言っているのか? このゴウト国王の俺から?」
「……カバネが何者だろうとぼくには関係ないもの」
「減らず口を。俺がカバネである限り、お前の所有権は消えない。どれほど続こうとも生涯な。命をかけて、国をかけてお前をこの手に入れた。俺が拾ったんだから俺のものだ。何をされても恨まないとお前が言ったんだぞクオン」
低く淡々とそう言われて広い湯のことを思い出す。懐かしい。たまにしか使わなかったがあそこもクオンは大好きだった。湯気の煙るのを思い出してついほほ笑む。
「……ああ、いったかも……でもずっとむかしにね」
「いつ言おうが俺が忘れないなら有効だ。お前はこうも言った。万が一人になれなかった時も、嫌になっても、俺がこの世界からいなくなるまででいいから、ただ側におけと」
「よく覚えているね」
「クオン」
肩を掴まれ見上げるとカバネは見たことの無い顔をしていた。少なくとも今のクオンの記憶にはなくて何を思っているのかが表情から読み解けずにぼんやりと見上げたまま黙る。
「……逃げられると思うなよ、俺は」
自他共に認めるしつこいタイプだ、と耳に囁かれながら口をつけられてクオンはびく、と震えた。
そのまま無骨な指先が首筋を這って頬を滑る。前髪を上げられたと思ったら額にも口が触れる。瞼、目じり、最後にひどく優しく唇に触れたカバネは揺れる瞳で子供みたいに必死になってクオンを見つめた。
「お前が嫌になる権利なんてない、ずっと俺だけを選べと言ったのを忘れたのか」
「……だって、君は僕のせいでこんなことになったんだよ……僕が君を選んだから、もっともっと辛いことになったんじゃないのかい……」
「それでも、俺はお前を助けたことを後悔なんてしていない」
「……」
悲し気に眉をしかめたクオンがカバネの頬にそっと手を伸ばして首を振ると、その手を強く握り返されまた優しく口を付けられた。ぎゅっと切なく目を瞑り、きっと誰よりも一番自分のことを責め続けてきたのであろうカバネの心の綻びはやはりクオンにあった。
クオンが傷つく度にクオン以上に傷ついてきたのはカバネだ。自身の不甲斐なさに幾度も手放してやった方がクオンは幸せになれるのかもしれないと思った。それをしなかったのは一番辛かったはずのクオンがここに来るまでカバネから離れようとしなかったからだ。
全部を一生懸命守ってきた。でも全て守り切れずにここに居る。これほど情けない王がこの世界のどこにいるというのだ。カバネだって今日までずっとずっと自分の肩書に傷つきながら生きてきた。
「……こんなにも何も果たせない無様な俺がお前にまで逃げられたらコノエに笑われてしまう、どうか、側にいてくれ……何も出来ない、何もしてやれない、やれなかった、俺はお前が思うよりもきっと愚者だ……」
立場上誰にも甘えられない王様に唯一その身を晒し愛される権利を持てるのが妃。
それを持たず家臣にも衛兵にも頼ることの適わない心の許しを請うということを知らないでここまで来たカバネは無意識に今、クオンにそれを求めようとしているのかもしれない。
肉体的には何度も死んだ。だが、精神的に死んだことなどこの五十年でただの一度だって無い。
それこそはクオンがここにいてくれたからで、クオンが甘えてくれたり頼りにしてくれる度にそれはカバネの精神的な支えとなったしクオンが必要としてくれるからこそどんなに打たれようともここに辿り着くことが出来たのだ。
逃げられて追わないでいられるほど、簡単な存在じゃもうないのに。
「許してくれ……嫌でもいい、どこにも行かないと、それだけでいいから、約束してくれ……」
「それが、君を苦しめることになると分かっていてもかい……」
「当たり前だ、俺はもうこんなにお前を苦しめているんだから、お互い様だ」
「言っておくけれど僕はずっと問うよ……。君が苦しむ度に、僕といて後悔していないかを……生きている限りずっと……」
「……ならば何度でも答えたらいい。〝後悔などしていない〟」
驚く程にじっとりと濡れて性的な光を放つクオンの濃い赤に近いところで見つめられると、カバネの理性の琴線がひどく弾かれて高く鳴り響く。
互いをまさぐる両手が欲の何を知っていると言うのか、それでも触れ、見つめ合い、唇を預け合えば、知らない愛の真似事になるのだから本能とは不思議だ。
愛おしいが分かるならば人肌の熱が恋しくならないはずもない。体温の、呼吸の、生きている事のどれほどの尊さかを知り尽くすには十分すぎるほどに失ってきた命の重さたるや。
肌が重なる度に死ねない身体が温かいことに泣きそうになる。目を合わせるその度に運命を共にしてきた様々な感情が綯交ぜになってどちらともなく慰める様に名前を呼び合う。
だからこれがちんけな愛などという言葉などに収まる行為ではないことをカバネもクオンも察してしまう。
数多の人の死に触れ、たくさんの感情を容量以上にインプットされすぎて麻痺してしまった人間の心。
人肌は怖いのに失う恐怖を知っているから触れていたい。命や感情がどれほど重たくて熱いものかをこの身が裂ける程痛烈に知っているからこそ火傷してでも抱えていたいのだ。
言葉にするほど軽くはないから確かめ合うことでしか互いのことを繋ぎ止めておかれない悲しい生き物同士が今も必死に互いに繋がれていようとして求めあう。
間違ってもいないのに決して正解ではないこの形が永い時の予感に傷つき蝕まれながら出来上がったカバネとクオンの愛によく似た心の繋がりそのものの形であること。
「ん、うう、……」
拡げられながら捩じ込まれるひどい熱量に眩暈を覚えながらクオンはその愛おしい熱をも貪ろうと必死になる。
およそ痛覚は感じない。頭の中がわけの分からない甘い痺れでいっぱいで、言うとするならすごくしあわせだった。
クオンのやわい内腿が大きく震えるのを見てカバネがふっと息を吐いて止まる。理性の狭間で揺らぐ瞳が何とか気持ちの良い方向に流されてしまわないようにするのに精一杯で、必死な顔のままクオンを見つめる。
「クオン……まだだめだったな、すまない……」
「ン、……だめ……? 痛く、ないよ……大丈夫……」
言いつつぐっと両足でカバネを引き寄せたクオンの所業に翻弄されつつせがむ様にしがみついてくるその身体を抱きしめてやる。
しかし、受け入れたことなど無いであろうクオンの身体がよもや根本まで食まれたこんなに深い繋がりでもって痛くないわけがない。入れている方ですらぎちぎちに狭い入口で締められ多少の痛みを感じているというのに。
「クオン、手を放せ、大丈夫じゃない……」
「うう、いやだよ……最後までする……」
「さいご」
「うん、ちっとも痛くないからキスしておくれよ」
「……初めてじゃないな?」
「初めてだよ、失礼だな」
随分ハチャメチャなクオンの要求には若干疑念を持ちながらも最後まで応えてやったカバネ王のやや劣勢気味であるこの主導権はこの時もその後も言わば永劫、クオンのペースに翻弄され続けることとなった。
「……触ってもいいかい……」
それからというもの、頻度は多くは無かったが、度々互いに何かを思う夜には身体を交わすことも珍しくはなくなった。
コノエは何も言わないが、二人の関係性についてを何かしら悟っている様でカバネがときたまいるか、と扉の外に話かけても返事が無いのが普通になった。
それをカバネが咎めることも無かったしコノエも特に言及したりもしなかったけれどクオンにはそれがひどく申し訳なく思えた。
反面で、没頭はとめどなく続く。
大抵はクオンが声をかける。初めての時よりは明らかに快楽も拾える様になると挿入で感じる内壁の良さも自然と分かるようになった。
だが、それに慣れてくる頃には、満たされたくて求めているのに行為で生じる交感神経の乱れがクオンをひどく不安に貶め、求めた癖に行為の後には寂しくて切なくて必ず泣きたくなってしまった。
どんなに優しくしたつもりでも絶対に泣き出すクオンを見ていると、こんなになるまでセックスでしか埋められないのが何なのか分からないカバネはその度に困った。
だって、求めるのはクオンだ。泣いて楽になるならいいが、そうじゃなさそうだから余計にどうしたらいいか分からなくてただただ抱きしめていてやることしか出来ない。
何ともない時のクオンに聞くとそれだけで充分だと笑うのだが、カバネにはそれが何となく辛かった。
一度自分で死んでからのクオンは泣きたい時に泣くのを我慢しなくなった様にも思う。それが心の解放になっているのか、それともすぐに溢れてしまうほどいつもいっぱいいっぱいでいるのかはカバネには分からない。
今日も今日とて、部屋に戻ると抱いてもないのにクオンが布団にくるまって泣いていた。
近頃は墓を掘る日が続いたのでそれを嘆いているのは察しがつく。カバネは上着を脱いで壁につるすと静かにベッドに腰かけこんもりとなった布団に向かって話しかける。
「また泣いているのか……出ておいで」
「いやだよ……悲しいんだ、ゴウトの人が、死んでいってしまうのが……」
「人は死ぬ生き物だろう。老いは誰にでも来る。それが世の理だから仕方が無い」
「でも……」
「往生したさ。ゴウトの男は短くとも百は絶対に超えるからな。あいつは長く生きたよ。病気もしなかった。続いてしまったからナーバスになっているんだろう」
布団をめくると枕にしがみついて泣いていたクオンの瞼は赤く腫れ、やれいつからこうしていたのかと痛々しさにそっと触れて撫でてやる。
こうして日々生きたゴウトの誇りが順番に消えていくのはどうしても避けられない仕方のないことだった。
しかし、全うしたと皆晴れやかな顔をして息を引き取っていくここは未だ暗い地下の洞。その虚しさが、悔しさが、墓を掘る度再び己の胸の内に静かに燃え盛るのをカバネは自覚していた。
ナーヴ。ゴウトはまだここにある。
綺麗に五つ並んだ十字架の前に一人佇むカバネの意志がまた強くナーヴへと傾き始めていた。
◇◇ ◇
【121】
カバネ様……俺はやりますよ…………ナーヴの連中に一泡ふかせるんです、見ていてください……
「…………お前がやらなくとも、俺が先にやってやる、……大丈夫だ、任せておけ」
……カバネ様……はは、夢を、ああ……見ていた……十八の頃の夢です……お変わりのないその姿が、最後に見られるのは、なんだか俺も、若返った気持ちに……
「十八だったか……お前は特に有能だったからな、ここにきてからも苦労をさせた、すまない……」
滅相もない……コノエさん
「……コノエ」
「……」
カバネ様を……どうか
「また生意気な……俺の役目だ、果たさずには死なん」
……羨ましいよ、……ナーヴ、必ずや…………
最後の埋葬が終わった時、百と九つ並んだ墓の前に座り込んだカバネの背後に跪いたコノエはそのまま何時間も微動だにしなかった。
気持ちの整理などという生半可なものではないのだろう。目を背けたくなる様な光景についてをクオンは離れたところからただただ見つめていることしか出来なかった。
老いと死を失った英雄はその両方で自国であるゴウト国の全てを今日で失くし尽くした。大事なものの何もかもを失う恐れはこれでもう無い。残ったのはこの身一つ。
今こそが、自らが一矢となり滅び切ったゴウトの亡霊として蘇る時だった。
カバネの心はまたもや揺らがずに奮い立つ。
「さてコノエ、飲むか」
ふと冷淡な声音でカバネがそう呟くとコノエは息を詰めて頷いた。
「勿論です」
「なにがいいだろうな。酒まで造ってしまうなんてお前はやはり器用だな」
「滅相もございません。皆百を過ぎてからはどうにもワインが好きでした。自分で言うのもなんですが、美味いと思います」
「決まりだな。クオン、何してる。こっちに来い。今日は飲みすぎてもいい日だ」
今ばかりは絶対に泣いてはいけないと歯を食いしばって耐えていたクオンはカバネがそう呼ぶのでしばらくしてから側に行って腰を降ろした。
最後のゴウトであった彼の中でナーヴを討つ夢が一つも潰えていなかったことでこの生活が、この環境が、当たり前ではないという事実を突如浴びせられた気分だった。
全うに生きていられたらこんなに苦しむべき人じゃなかった。
ずっと穏やかだった地下の空気が一変した。
クオンもあの赤ん坊のことを思い出して怒りに震えたしコノエだって亡骸の街を見て泣き叫んだことを鮮明に思い出したことだろう。
こうして始まった土の下に眠るゴウト国に捧げる歪な祝杯は夜通し続いた。
朝になるまで吐いても飲み続けたカバネが息もそぞろに嘔吐しながら流した涙がお開きの合図で、それに付き合ったコノエもいくらザルとて正体不明の瀬戸際だった。
吐きたくて泣いているのか悲しくて泣いているのか苦しそうに鼻を啜ったカバネは酩酊状態のままクオンの手を引く。
「……クオン……」
「カバネ、部屋に行こう……飲みすぎだよ、王は酒に呑まれないんだろう……」
一度は潰れて寝ていたので酔いのすっかり醒めていたクオンである。泣いているみたいに涙を流すのがいたたまれなくて指でカバネの目の下をごしごしと擦っていると、ふと視線を感じてクオンはコノエの方を振り返った。
「……コノエ……」
そうクオンに呼ばれて虚ろな目を合わせはしたが、コノエは困った様な、切ない表情で微笑むと黙ったまま目を逸らした。
「……」
それに衝撃を受けたのはクオンだった。ゴウトの民が滅びた今、残ったのはカバネ、クオン、そしてコノエの三人だけだ。じゃあ例えばそのうちの二人が身体を許し合う関係だと分かっていてもう一人は一体どう思うだろうか。
主従関係はこの際関係ないのは明白。だって、自分と同じ境遇の生き物はゴウト国に限らずこの世界にはたったこの三人しかいないのだ。かつてクオンの感じた孤独などてんで比べ物にならないほどの深い喪失なのではないか? 今までのコノエのよりどころがゴウトの民だったのだとしたら?
今日で本当に全て失ったのはコノエだ。それらを全て胸の内に押し込んで笑って目を逸らした横顔をクオンは穴があくほど見つめてしまった。
「……」
「……コノエ……」
「はい、あ、……お手伝いしますか……?」
「うん……僕一人じゃカバネを連れていけないから、手伝ってくれるかい……」
「かしこまりました」
クオンがそう言うので気怠い身体に鞭打って立ち上がったコノエは多少ふらつくが吐いたからか大分落ち着いたなと頭を振る。
こんなに酒を飲んだのは人生で初めてかもしれないと何食わぬ顔でカバネを支えたコノエだったが、泥酔したカバネの手を取った直後明らかに動揺したクオンの顔を見たら思わず吹き出しそうになってしまった。
だって、もう何十年間もカバネとの仲を続けておきながら、今更になってそんな顔をするのは反則だ。あまりにもクオンらしい。
かつて二人の仲を知った当時、コノエがそれほど驚かなかったのはどこかでカバネがクオンのことを何か強い感情で束縛していると常日頃感じていたからかもしれない。
だから、結局はどういう形であれクオンがカバネの人生で特別な人間になると思えたからこそ、コノエは今日までこうしてカバネにするのと同じ様にしてクオンのことを敬ってきたのだ。
それに、ここは広くも狭い地下の空間。秘密があったとて隠しきれないことなんてよく考えたら分かるだろうに。割り切れもせずに何かと深く考えすぎてしまう繊細な性格も、こんなに長く生きる上では考え物だとコノエは内心で苦笑した。
気まずそうに黙るのも、何か言いたげにこちらを見上げて何も言えないのも、余計な気遣いばかりしてしまう優しいクオンがそうするからこそ愛おしくも思える。
「クオン様」
「え、うん……?」
「オレに気遣いなど必要ありません。クオン様がゴウトにいらした時からオレには何となく分かっていましたから」
「……ん、ん……? 何がだい……」
「クオン様がカバネ様にとって、たいせつなお方になることです」
「…………」
一瞬で燃える様に頬が色づき俯いてしまったクオンが微笑ましくてコノエはまた吹き出しそうになってしまう。
きっとこれからカバネはナーヴを討つ為に地上へ行くと言い出すだろう。死を顧みず、否、死することすら今は叶わないその身だが、カバネの中ではもう敵うか敵わないかは大した問題ではないはずだ。
死したゴウトの意志は今日こうして全てカバネが背負った。重たすぎるのは明白。だがそれを支えどこまでも支持し鼓舞するのが自身の役目でもあるとコノエは思っている。
そして、実際今日に至るまで紛うことなきカバネの精神的な支えとなってきたクオンの存在が、今日からのカバネにとってもどれほどの糧になるか知れない。
地上に行ったとてゴウトが蘇るわけでもない。報復という名の醜い戦争をしかけに行くだけのカバネがどうやったって傷つかないで帰って来られるはずもない。そんなカバネを安心して預けられる場所がここにあるのはコノエとしてもとても心強くもあった。
この先二人がどんな関係性になろうとも、コノエはカバネの従者であることはいつか全てが終わるその時まで変わらない事実であり、そうあり続けることだけが、今はもう自身の持てる唯一の誇りとも言えた。
一蓮托生、本望だ。命ある限りカバネの背中を守り続ける役目は今も昔もコノエがその身で成し遂げてきた大役だ。どこへ向かいそこに何があろうと無かろうとカバネが見ている景色をこの目で見るのを許されるのは従者としてこの上なく幸福なことなのだから。
◇◇ ◇
ゴウトの墓の前にいると飽くなき復讐心がざわついて怒りのエンドルフィンが絶えない。だが、冷静になったら終わり。これが最後だ。この火が消えたら恐らく自分自身が二度とは立てないであろうことをカバネは薄々勘付いていた。
それほど不死の夜は長かった。これまでに失ってきた数を数えて圧倒されつつもこの手に残ったものを指折り数える。クオン。そしてコノエ。地下に築いたゴウト国の残骸は今や亡霊の住処。失ったものに入れたらいいのか、残っているのものに入れたらいいのか思いあぐねて項垂れる。
誰がどう見ても、カバネ王は失敗したと思っていただろう。
だって、ナーヴを討とうとしたことでどれほどの代償を払ってきたか知れない。たった百人で攻めようとしていた浅はかさ。解呪の仕組みもよく理解していない中途半端な状態で急いて戦いに挑んだのは、己の身体に起こった変化を受け入れるのに精一杯だったからだ。
自覚すら乏しいまま動いてしまったのは愚の骨頂。自身との対話が足りていなかったのは生前からのカバネの悪い癖でもある。
クオンは未だに誰のせいかを問うてくる。今のこの状況は自分のせいだと詰ってくれと言わんばかりに。或いは、そうではないと言って欲しいのも分かる。
だけれど近頃は、後悔していないと答える度に自分自身を責められている様な気がしてしまってカバネは上手く応えられているかと不安になる。
少しでも返答に迷えばクオンはきっと傷つくだろう。やっぱりそうかと絶望する。カバネはクオンにそう思われてしまうのが今は何よりも怖い。
「カバネ」
「…………もうそんな時間か」
「……少し早いけれど、大体ね」
はにかむ口元を見るのが精一杯なのは、ここでクオンが何も思わないはずがないからで、自責の念からやはり件の問いを口にされるのが嫌だからだ。そそくさと立ち上がるとすれ違う様にしてクオンより先に墓場を後にするのも同じ。
繊細なクオンがこうして会話を避けているカバネに気が付かないわけもない。
それを分かっていながらも避けるのをやめられなかったカバネは次第にコノエが間にいないとクオンと喋ることに自信がなくなってきてしまっていた。
「……クオン様、そういえば先日お手伝いして頂いた根菜がそろそろ収穫できそうなのですが、時間があればまたやってみませんか」
「随分育つのが早いんだね。勿論だよ。頑張って収穫するよ」
「良かった。一人でするには少し多く蒔き過ぎたなと思っていたので。カバネ様はあれの煮たものがお好きでしたよね」
「……ああ、……楽しみにしている」
「……」
「任せてください。食後のお茶はいかがしますか」
「僕がやるよ。……たまには」
そう言って席を離れるクオンの背中を見つめながら、この何とも言えない居心地の悪い空気をどうにかしなくてはならないと思っているのはコノエであった。
何があったのかは知れないが、二人の間にそれとなく埋まらない溝が出来ているのに気が付いたのはもうしばらく前のことになる。
とにかくカバネがクオンとの会話をしたがらなくて困った。冗談も言えない様な冷めきった空気で短い返事ばかりを繰り返す。クオンもそれに気が付いているようで気を遣ってか自分からは必要以上には話さない様にしているみたいだし、いやいやそれでは悪循環だろうといい加減子供かと言いたくなるのを毎度堪えた。
実際三人しかものを交わす人間のいない中でこれは正直辛かった。
いっそただの痴話喧嘩なら何百年でも放って置くのだがそれもまたコノエには判断が付かないのでこうして介入してみているわけなのだけれど。
「はい。熱いから気を付けてね」
「ありがとうございます」
「ありがとう」
ほれみろ、目も合わせずにありがとうだなんて、英雄カバネにあるまじき姿ではないのか。だがまあ、元来拗ねやすいところのあるカバネだから、これもまた距離感の近いクオンにしか出来ない態度でもあるのかもしれない。難しい人柄だ。二人とも。
コノエは気が付かれない様に呆れつつクオンが淹れてくれた湯気の煙る熱いお茶を啜ったはいいのだが。
「オヴァア……ぐおんざまごれはあ……」
「ニガア!!!!!!!!!」
「あれ! なんだい! ごめんなさい! ん?」
脳天直下に痺れる激烈な苦みに悶絶したゴウトの亡霊を見たクオンは慌てて椀の匂いを嗅ぐも口はつけない。
「んん?? 教えてもらった通りにやったんだけどな?」
「ちょ、ちょっと何を入れたのか知りたいので向こうへ行きましょうか、カバネ様、すぐにお水をお持ちします」
「間違ってセンブリを入れたんじゃないのか……」
「あり得ますね」
「せんぶり? せんぶりは薬だよ」
「そうだな……」
「ですね……」
「間違うことあるかな?」
「あるかもな……」
「ですね……」
不服そうにしたクオンを連れ茶棚に向かうと、やはりしっかりセンブリと書かれた紙袋が開かれていて流石のコノエも無言で指をさしてしまった。
「ああ……? あれ……そうだね、本当だ……ぼーっとしてたのかもしれない……ごめんよ……」
「っはは、いいえ。紛らわしかったですね。次からは別のところに仕舞っておきますね。その……随分健康になった気がします」
「もう……からかわないでおくれよ……」
恥ずかしそうにはにかんだクオンにこっそりと覗きに来ていたカバネも苦笑する。
久しぶりの空気感に全員の心が束の間綻ぶ。どんな罪悪も感傷も、人は心に仕舞っておけるからこそ生きていかれるもの。常に抱えてそればかりを思うことなど無いのに、責任感が強ければ強いほどまるで意固地になって反芻したりする。
表には見せないだけでそれぞれに思いつめていた感情がある。
しかしそれを共有できるのはもうこのたった三人しかいなくなった事実をもしかしたらまだ全員がきちんと受け入れられていないだけなのかもしれない。
ただ、カバネはそれからもクオンとは目を合わせて長く喋ることはなかった。時が解決すると思っていたコノエと、カバネの気持ちを優先しようとして同じ様に押し黙ったクオン。
この後生涯に渡って尾を引いたカバネとクオンの二人のすれ違いの始まりはきっとここからだったに違いない。
【138】
カバネが英雄でも国王でもなくなったことに対して彼自身が認めることを、コノエは随分前から覚悟してきた。
実際、もう十分だとも思う。こうしてもう百年以上も死ねない身体でいるからいつまでもゴウトの国のされた仕打ちについて責任を感じる。報いる心が死なないのは肉体が滅びないからだ。実体があるからいつまでも頭の中に残っている。
カバネが自分で自分のことをあの時死んでいた身だとそれ以降の何もかもを許す事が出来たら、ゴウトはそれで完全に滅び、カバネはカバネとしてこの無限に続く時間を正直に生きることが出来るはずだった。
勿論、カバネの自責の念が生半可なものでないこともコノエは重々分かっている。
しかし、今更になってナーヴを討ち果たしたとして、カバネに何が残ると言うのだろう。これで本当に亡霊なら納得がいく。いつまでも後悔の思念に囚われて怨みの炎へと姿を変えたのなら。
実際カバネだってきっと分かっている。
これ以上の努力がまるで無意味であることをきっと自分よりもよくよく分かっている。
だから最後に王として何を果たすのが有終の美であるのかを日夜一人墓の前で問うていたに違いないのだ。
最後の墓を掘ってからは五十年弱。武器を鍛造すると言い出してからは三十年強。月の満ち欠けを見ない地下では時間の感覚が狂ってしまうようだが、クオンが律儀に刻み続ける壁の傷はよもや数えきれる数じゃない。実に百六十年を地下で生きてきた。
眠っていないのかはたまた眠れていないのか、目の下に濃い隈をのせたカバネがついにその口から「地上へいく」と発したということはゴウト国王に長い長い間従してきたコノエにとって王への最後の忠誠の場になる。
迎えてみると存外奮い立つ。無限の平穏に侵され鈍ったかと思われていたこの身一つでの命の攻防への強い執着が蘇る。
ここにきてコノエはナーヴを討つ、それだけを考えてもいい時間が本当は一番楽だったことに気づく。
成すか成さないかはどうでもいい。長きに渡り溜まりに溜まった復讐心をぶつける機会がやっとやってくる。
それに、何十年ぶりかにカバネがクオンの目を見てはっきりと地上へ上がりナーヴを討つと言えたのはまさに自身が果たすべき責務を今一度強く見据えられたのだという自尊心でありそれをクオンに見届けて欲しいと思えたからこそなのだから。
亡霊に迷いも微塵も無い。それを受けてクオンは長い間黙ったが、最後には思いつめた表情でいってらっしゃいと零した。
そしてやはりカバネの目を見て問うのだ。僕を助けたことを後悔してはいないかと。
虚ろな亡霊を鞭打つのが無意識なのかは果たして。
「言わなくては分からないか」
「…………」
「無論、後悔などしていない。今も、昔も。俺も、お前もだ、クオン」
最早今更打たれたとて沈むわけにはいかないカバネにとってはこれが最後の否定の言葉となった。
【167】
◇◇ ◇
ナーヴ信仰、という摩訶不思議な言葉を聞いた時、コノエは一瞬で身の毛がよだった。カバネも恐らく同様で、ナーヴの蹂躙によって今は廃れてしまったが、かつての繁華街だと言う南の街で固唾をのんだ。
百年ぶりの地上は変わらず太陽があり大地があり、それから気候が毎日違う。人が居て食べ物があって、だが、変わらないのはそれだけだった。
話によるとナーヴ国はこの百年で世界中の喧嘩を片っ端から買い、そしてその全てを力でねじ伏せたと言う。
それには勿論、天子の呪いという圧倒的なその破壊力を以てした命への冒涜そのものを堂々とナーヴ国の権威と象徴としたのに違いない。
無論あんなものに勝てる人間はこの世界のどこを探してもきっと居やしない。
結果的に倫理観のかけらもない所業についてを誰かが正す術もないまま皆絶対的な死の前にひれ伏したのだろう。想像にはまるで難くない。
とにかく、これまでに対抗してきた国は全て焼き尽くされた。それでも尚地上の蹂躙に飽き足らない様子のナーヴ国は更なる権威の設立のために今度は天子の名を使って宗教組織を立ち上げたと言うのだから驚きだ。
それも、元はと言えばナーヴのせいでこれほどまでに荒廃したはずの地獄みたいな地上からの脱却を諭しており、なんでも〝天子の力〟で天空都市を建立するのだそうだ。カバネは思わず鼻で笑ってしまいそうになるのを堪える。
「……そうだな……その教徒さんたちは、天子の力が何たるかを知っているのか」
「天子の力? お詳しいのかい? 確か神様かなんかなんでしょう? パンフレットがそこかしこに落ちていますよ。ま、たっかい入会金が無いと入れませんけどね。天空都市だかなんだか知らないが、うちみたいな貧乏人には手も足も出ない。まだここは慈悲のある方です。もっと南に行くとナーヴの流した毒水のせいで大地の根っこから腐ってしまったところもあると聞きますし。何にせよひでえ話ですよ」
「……南と言うと」
「ほら、昔からいるなんとかって民族が離れないところあるでしょう? あの辺だと思うけどね」
「なるほど」
「黒縄夜行か……死人信仰の国と言われていたな……」
「ええ……。あんなところまで……」
ナーヴに属する教徒は日々増えていて街の真ん中に聳え立つ大きな円型の建物が本部だと言う。そこまで分かれば十分だ。これ以上地上の荒廃についての話を聞いていたら具合が悪くなってくる。
「行こうか」
「はい。ごちそうさまでした」
この分だと通貨も変わっていそうで不安だったがコノエが何食わぬ顔で並べたコインを見て店主は目を輝かせた。
「あらあ、お客さん随分古いの持ってるね。いいのかい、使っちゃって」
「ええ。生憎手持ちがそれしかないもので」
「ああそう。一枚でいいよ。来年で通貨が切り替えになるから使う分は早めに換金しておくといい。残りはきっと、プレミアになる」
店主はこっそりとそう耳打ちしてくれた。
当てなく街を歩くカバネの背を追いながら、街中に溢れたナーヴ教会という文字が目に入る度にコノエは心底吐き気がした。
恐らく天子には人を殺す以外の力なんてない。物は言い様。天空都市を造る技術は立派なものだと百歩譲って言えたとしてもそのからくりが分かれば教徒は殺戮兵器を信仰させられていることになる。ここまでくるとやはりナーヴはどこまでも非人道的思考であることは明白。この先地上にとってどんな時代がやってくるにせよ許されざる存在なのは確かだ。
よもやカバネがそれを理解していないはずもない。
街の灯りからは遠く外れ、小高い丘の木の下でやっと腰を降ろしたカバネは図々しくも地上の中心で明るく光り輝くナーヴ教会を見つめ嘆息した。
コノエもその横に腰を降ろすと全く同じ気持ちになり嘆息しかけて息を止める。
「嫌になるな。確かに長かったのかもしれないな、百年は」
「…………それでも、変わらずナーヴはクソです。オレには意味が分からない」
「ふ、」
「……すみません、頭に血が上っていました。ご無礼な口を……」
「いや。そっちの方がお前らしくて好きだよ。お前が側近でいるのにも随分慣れてしまったもんだな。昔、急に敬語を使って来だしたのを思い出した」
「やめてください……お恥ずかしい……」
「ああ、お前がオレと言うたびに中華鍋を投げつけられていたのも」
「カバネ様! やめてくださいと言っているでしょう!」
カバネが珍しく声を上げて笑うので、なんだか嬉しくなったコノエも遠くには感じないその光景を懐かしく思い出す。
「俺はどっちでも良かった。古い友人みたいにして酒を飲んで騒ぐ二人を子供の頃から見てきたからな。お前とそうなっていくのかと思ったらそれだけで嬉しかったよ」
「…………どうして感傷的になるのですか……ナーヴは目の前です。こういう話は帰ってからクオン様がいるところでしてあげたのなら、きっと喜んで聞いてくださいます……」
「どうかな」
「……どうと、言いますと」
「クオンが知らない俺たちの話をしたら、あいつ拗ねそうじゃないか?」
「え? はは、クオン様はそんな風に思う方ではありませんよ」
「なんだ、随分理解した風だな」
「いやっ、……もう、拗ねやすいのはどちらでしょうか……」
からかわれていると分かっているので軽くあしらうが、カバネが自分からクオンとの仲に言及してくるのは初めてでコノエは少し動揺する。
ナーヴを討ち果たす、とまではいかなくともこの身体なら何かしらの報復は気の済むまで出来るはずだ。それを果たし自分達が帰る場所はもはや地上にはない。
ならば、クオンとゴウトの待つ地下へと帰還した暁には、きっと二人と一人になるのだろう。
カバネとクオン、それからコノエだ。
敬愛する二人の関係に心からの祝福が無いわけじゃ決してないからこそ仕方のないというこの思いにはきっと生涯落としどころなど見つからない。
ただ、コノエはこの時ふと、生涯、という期間についてを疑問に思った。
果たして、自分達の生涯とは一体いつまでのこととなるのだろう。つまり、復讐を成し得たあとの二人と一人の期間はどれぐらい、続くのだろうと。含みはない。純粋な疑問だった。
「さて、寝るか。明日はあの周辺を見て回る。どの程度の警備なのかも把握できればいいがな」
「はい……」
かくして、満月の灯りをも掻き消すナーヴの人工的な光を遠くにしながら、コノエは浅い眠りにその身を委ねた。
暗い地下の片隅で、クオンは一人本を手に取った。
長い間その気になれずに書物には触れていなかったがふいに目に留まった。誰の者かはわからないが床に積み重なったものの一つを手にしてゆっくりと固い表紙をめくってみる。
久々だったし読み耽るつもりも毛頭無かったが、ゴウトの昔話をまとめたのであろう古いフィクションはクオンの思考をみるみるうちにその世界に引きずり込んだ。
時間を忘れて立ったまま最後のfin.という文字を読み切ると続けてその下にある本を手に取った。上下巻だった。
それをすっかり読み切ったあとも頭の中は空想世界に浮遊したまま、物語に出てきたパンとミルクが無性に食べたくなって日持ちのするものをたくさん置いて行ってくれたコノエのメモを見ながらパンを探す。
それを携えてクオンは墓場へ向かうとその数多の十字架の前に腰を降ろした。
二人が地上へ上がってからはクオンは毎日の大半を墓の前で過ごした。本を読むのも、物を食べるのも、時々毛布を持って来て皆と眠る時もあった。どこへ居たってカバネとコノエが居ないなら、ここに居た方が寂しくはない。
そのうち、読んだ本の中にあった死者へのお祈りの仕方を真似て手を組んで跪き一人一人の名前を思い浮かべながらどうか安らかに、とクオンは心から祈った。
そうするのが正しいのかどうかは分からない。パーメニデスに教わったたくさんの「常識」はナーヴでの常識だったのかもしれないし今となっては自分の価値観が世界にとってどの程度正しいものであるのかがクオンには分からなかった。
増してや、自分がそんなことを祈るのはとてもおかしいことかもしれないとも思ったが祈りは例え咎人であっても平等に許されるという言葉を見つけた時、クオンは間違っていたとしても今の自分がしても許されるのが祈りならば命ある限り永遠にでもありし日のゴウトの全てに祈り続けようとそう思った。
幸い、積まれた書物は山ほどあったので、朝に祈りを捧げ終えてからはほとんどの時間を読書に費やした。
ある時、墓に花を供えるというのを見てクオンはこれもとても久しぶりに洞の外へと出た。
薄暗いし湿っぽいのに変わりは無いが、風が通り絶えず水の音が響く外の世界にクオンは内心、心躍った。
花。どんな花があるだろう。ゴウトにはどんな花が咲いていたかな。そんな風にうきうきしながら谷へ降りようとして半ば滑り落ちて行ったクオンである。泥だらけになりながら己の身体能力のあまりの低さにおかしくなって笑ってしまった。
一瞬で全身を擦りむいたがすぐに皮膚が再生する。クオンは見ないふりをして血が出ていたところを谷の冷たい水で濯いだ。
意味はないが血を洗おうとしたのだからこれでいいのだ。クオンは嘆息をぐっと堪えた。
足元を見ると、綺麗な群青色の花弁を剥き出しにした花が低く蔓延っていた。
「……かごでも持ってきたらよかったなあ……」
思わずそう零すのも無理もない。最初から百を超える墓の一つ一つに供えるつもりだったのにまさか百本の花を両手じゃ抱えきれないのは明白。クオンは今度こそ嘆息する。
考えなしの自分の行動にはほとほと参ってしまう。
「想像力が足りないな……カバネに叱られてしまう……」
だがせっかくここまで来たので足りなくとも花は持って帰りたい。クオンはそのつゆ草を二本摘み他に小ぶりのヤマユリと芥子を手折ってから洞へ登るくぼみを今度はゆっくりと辿った。
時間はかかったが無事に地下の洞へとたどり着いたクオンは早速自分のコップに水を汲み摘んできた花を活けてから墓の前に置いた。
ともすれば場には似つかわしくは思えない瑞々しい生命力。祈りの糧に己が手で摘み取った。
「…………」
クオンがあんまりいい気にならなかったのは、死者に手向ける花束を自分の手で摘んだからかもしれない。花を手折る時そこに殺意は無かった。無垢な思いでただ単純にゴウトに捧げたいと思った。
花の命に罪は無いのにそれを摘み取るクオンの行為は果たして美徳と言えたろうか。
クオンはなんだかとても強い罪悪感に苛まれて日が経つに連れその花達が茶に変色ししわしわになって枯れていくのをどうしようもない懺悔の気持ちで看取った。
花を摘むのを止めたクオンはそれきり外に出ることは無かった。代わりにゴウトと自らのせいで潰えた花の命に祈る時間が少しだけ長くなった。
カバネとコノエが出て行ってからもうすぐ半年を超える。クオンは今日もゴウトの前に膝を着き手を組む。そしてたった一人で心からの謝罪を祈り続けたのだった。
◇◇ ◇
コノエはもう何時間もカバネの身体を抱きしめて離さないで居た。
だって、こんなにもカバネが自分に絶望した姿を晒したことなどかつてコノエは見たことが無かったからだ。
どうしたってこの人にはもう傷をつける箇所が残っていない。全身に飽き足らず恐らく心の最奥までもをぐちゃぐちゃにされたカバネは否、ゴウト国王は、今ここで死んだ。
だがそれでいい。いいのだ。コノエは再度カバネのことを強く抱き直す。
こんな無茶苦茶な長い長い地獄の様な運命からは解放されて然るべきだ。十分役目は果たしたのにどうしてカバネだけがこんなに傷つかなければいけないのだ。
今はナーヴのナの字も全て忘れて自らの死を受け入れていい時だ。これ以上の自責は必要ない。必要ないのに。
「俺が間違っていたのかコノエ」
「ちがう、そんなわけないでしょう、大丈夫です、あたなは立派だ、だからもう終わりにしましょう」
「終わりってなんだ……ゴウトは俺が死なない限り終わらない、だが俺は死なない……いつ終わる? 何を持って終わりだ。なら何がいけなかった。俺は何を間違えた」
「カバネ様…………」
「クオンか?」
「違う、」
「そうだな、あいつは悪くない、なら俺だ。俺がいけないし、間違っていた」
「もう、っ、黙って、」
コノエの懇願にカバネは従った。重たい沈黙の中コノエの堪えた嗚咽が響く。
ナーヴ教会の周辺一帯を取り巻く無数の四角い簡易的な建物の中には、ナーヴ信仰とやらに洗脳されたのであろう人々が住まっていた。
一様に同じマークの描かれた上着を羽織り、静謐に暮らす教徒達は決まった時間に礼拝堂へ出向き口々に各々の祈りを捧げた。誰も居ない教壇に向かって傅き手を組んだその恰好はまさに信仰そのもの。
誰が何に祈るのかは自由だ。だが、ナーヴにだけは、ナーヴ国という人の命を微塵にも貴ばない悪魔にだけは何をも祈ったところで意味があるはずが無い。
天子の力、即ち呪いを証明することさえできればこの信仰に亀裂をもたらすことも出来ただろう。だが、それが付け焼刃の計画では難しいことと分かっている今、何も知らないで祈る教徒のせめて一部でもいい、その偶像崇拝に気が付くきっかけとなってくれるだけでも十分な価値はある。
ある、はずだった。
朝の礼拝に度々天子は現れるのだと知った二人はそこを狙うことに何の疑問も抱かなかった。天子には気の毒だが、元はと言えば崇められる様な存在では無い。根本の解決の為に産まれて来るのを絶やすべき存在だ。
だから教徒の前で天子の呪いの力を証明しその存在意義そのものを分かりやすく否定した上で長年苦しめられてきたナーヴ国の呪いのシステム自体を解明出来たら御の字というのがカバネの立てた計画だ。
もしそれで本当に自分達の解呪の方法が見つかれば儲けものだ。パーメニデスの遺した解呪の仕方は恐らく未完成だったからこそ死なない亡霊がここに存在する。
百年の間にはきっと解呪の開発も進んでいる。何せ天空都市まで造ろうと意気込むナーヴ国様なのだから。
これを聞いた時はかなり理に適っている作戦だと密かにコノエは感心した。こんなにも変化していた地上とのギャップに早くも適応しようとするカバネのポテンシャルには脱帽する。
何が起こってもどの時代でも、カバネならきっとその時々に寄り添った主導者に、否、王にも英雄にもなれるのではないかと、本気でコノエは思った。
実際、教徒に紛れて礼拝堂に侵入するのは容易くて開け放たれた入口、思った通りの天子の出現、その壇上に飛び乗ったカバネが天子の呪いによって血を吐き零しながらも警備の胸を貫いたところまでは順調だったのだ。
呪いによって死したカバネが壇上から蹴落とされすぐに蘇生したのを見てシャリテによく似た金髪の司祭が高らかにこう叫ぶまでは。
「天子様をお守りなさい! その身にご加護が宿らんことを!」
その途端、まるで操り人形みたいにして教徒達が列を成してカバネとコノエを囲む様にして立ちはだかった。
「…………」
「……」
絶句したのはよもや彼らに死の恐怖が微塵も見てとれないという事。かたや礼拝に刃物を持ち込み事実人を一人殺している大悪党のカバネである。前から順番に殺される可能性だっておおいに考えられるというのに。
「死をも恐れぬか、愚かな……」
「包囲を抜けましょう。見たところ全員丸腰の様ですから」
コノエの言う通り、礼服に身を包んだ教徒達に武器らしきものを持っている者は見当たらずその身がまるで鉄壁でもあるかの様にして胸を張り隊列を組む。じっと見下ろすその数多の目には一体何が映っているというのだろうか。
教徒の包囲の中心で、頭上を見上げたカバネは司祭に向かって投げかけた。シャリテには奇しくも一言も叶わなかった百年越しのナーヴ国への嫌味が響き渡る。
「百年経っても相変わらず悪趣味な文化だな。鳥肌が立つ。人の命を散々弄んでさぞ愉快だったことだろう、ナーヴ国王よ」
「……司祭と呼ぶがいい。国王はこの世界には存在しない」
「司祭? そうか。なら司祭様、そこの天子くんは元気かい。お前はいつ用無しになって殺されるんだろうな? 人を殺す力しか無いのに偶像崇拝もいいところだ」
「は、……無粋な事を。お前は何者だ。王みたような口の利き方は癇に障る」
「はは、いや、悪いな。産まれてから今日まで王以外の仕事をしたことがないものでな。お前は名ばかりの宗教団体の司祭様だったか? 口先が上手いだけなら天職だろう」
「…………門とカーテンを閉めよ」
カバネの嘲笑に真顔になった司祭がそう言うと入口が閉まり窓という窓の全てに黒い幕がかけられた。
そして何の躊躇もなく、撃てと一言口にすると驚く間も無く辺り一帯を教徒ごと一斉に射撃した。
「……!」
「な……!」
このやり方には覚えのあるカバネである。怒りの沸点は死の明けから既に最高潮へと達していて蘇生の瞬間に憎悪の雄たけびがこだました。
「ナーヴ…………!!!」
「なんだ貴様、死なない身体か。面白い。捕らえるか。追加の教徒を呼べ」
「カバネ様っ……」
「く、貴様ァ……人の命をなんだと思っている……!」
「ものによろう。教徒がいくら死んだところで痛くも痒くもないわ。死体に沸いた蛆程もいるのだからな」
カバネよりも早く壇上に駆け上がるコノエは青筋の浮いた額で恥を知れと刃を向けるがその切っ先は届かない。寸手で射撃に阻まれ死に落ちた。その陰から飛び出して司祭の首めがけてカバネが振り抜いた刃はやれ咄嗟に盾に使われてしまった哀れな天子の首を飛ばしてしまった。
司祭の構えたまたもや装飾銃から放たれた弾丸はやはりデジャヴ。今度はカバネの喉元に命中し教徒の転がる礼拝堂の床にたたきつけられた。
喉が潰れただけで息絶えられずに悶絶しているとコノエが酷い顔で寄ってきた。身体の修復まで声が出せない。痛覚が思考を蝕む。
「……カバネ様……」
「なるほど。怪我も治るか。化け物だな、化け物」
「…………外道が」
カバネが復活するのを待ちながらコノエは低く呟くも鋭い熱が頭を抜けて、また撃ち殺されたのと一瞬で悟る。
暗転。
気が付けば再び入口から教徒がぞろぞろと列を成し先程とまったく同じ形で取り囲まれていて唖然としてしまった。その光景に押し黙るカバネも最早抵抗の仕様が無かった。
床に転がる教徒の死体を何とも思わないと言うのか。自分もこうなることを厭わないと言うのか?
「動けば撃つ。また、教徒ごとな」
「……」
「…………」
これはどう考えても失敗だった。無抵抗の教徒に囲まれその命の采配は自分の身動き一つで決まる。いくら教徒とてこれ以上の犠牲を避ける為には一旦逃げるのが賢明。カバネはコノエに目くばせするとそっと頷いた彼もまた、瞳の奥が疲弊していた。
だが、ナーヴは人の心を持たない。決して甘くはなかった。
この時カバネは人の情の欠落しきったナーヴ国自体そのものがよもや殺戮兵器だったのだと今更になってやっと気が付いたのだ。
「さあ、裏切り者に制裁を」
先程よりも多くの教徒に取り囲まれていてどこから割り入るかを逡巡していたのも束の間、礼拝堂いっぱいに駆け付け取り囲んでいるおよそ一万人の教徒全員の突き出したかわるがわるの鋭い刃に何百回と続けて殺されていく中でカバネはついに継続的な死を経験することとなる。
それは、抵抗も思考も放棄した無。カバネとして何もかもの一切を考える暇のない程の永い殺戮。
途中から本当に分からなくなった。痛覚も感情も、とぎれとぎれに聞こえてはまた途切れてしまうコノエの声ももう何もかも。
しばらくすると恐らくコノエが止むを得ず教徒を攻撃したに違いない。無抵抗のカバネとカバネを殺し続ける無垢な殺意の教徒と、そして教徒の壁に阻まれカバネに届かない手を必死に伸ばすコノエ共々最後の一斉射撃で全てがおしまいになった。
教徒のせいで射撃が届かず死にきれなかったカバネがやっと意識下で膝をつくのを許されると足元で同じ様にして呻いていた教徒に気が付いて思わず見つめた。
だって不思議だったのだ。
分からなかった。人は個々に人格があり、そして自らの意志で行動できる感情のある生き物。
ならば今、この瞬間、彼らは何を思って何を信じ、何に向かって生きているのかがさっぱり分からなかった。
現にこうして、言うなれば自分達は少しだって悪くないはずなのに銃で撃たれその命を手放さんとしている。
一体ここに何がある?
一体ナーヴの何をそこまで信ずるのか。
カバネはこの瞬間だけは、仇討ちを忘れ苦しそうに呻き死にゆく一人の人間に向かって純粋に投げかける。
救いとはなんだ。祈りとはなんだ。そんな者たちが願う思いとは一体なんだと言うのだろう。
「……これの、なにが、お前達を救ってくれたんだ……?」
「カバネ様……!」
蘇生した瞬間問答無用で茫然と膝をついていたカバネを抱えたコノエはここでようやく悪夢の様な礼拝堂から飛び出した。驚いた。ここに来てどうして敵国の人間に対してまで情を感じてしまうのか一瞬怒鳴りそうになってしまった。だが、だからこそカバネは英雄なのだ、といらなく腑に落ちてくる気持ちに涙が出てくる。
途中しつこいほど幾度も背後を撃たれたが死なない限り構わないと無我夢中の全力で、ここからは遠く遠くの死の谷へと向かって止まらないで走った。
馬鹿みたいだ。英雄などもう真っ平だとでも言えたならこの人はどれだけ楽になれただろう。もう誰かの何かを救うのは止めだ、優しすぎた、世界の全部を救うことなんて出来ない、傷ついた全てに情を注ぐことなんて必要ない、それでいい、カバネは今死ぬ、これで死ぬ、自分がこれで終わりにする、もういい、もういい、
コノエはカバネを強く抱きしめながら切り立つ崖の終わりを躊躇しないで駆け抜けた。
「コノエ……」
「何も言わないで、クオン様のところへ帰りましょう……」
「……クオン…………」
落下途中で交わした言葉はそれだけだ。
次にコノエが目覚めた時、カバネは側で黙って座っていた。
谷底の冷たい水に浸かったからか指先も唇も真っ青のまま。
そして虚ろな目をして心からの自身への失望を静かに吐露した。
「……俺は、一体何がしたかったんだろうな」
「……帰りましょう……オレだけしばらく気を失っていたようで、申し訳ありません……」
「聞いたか」
「いいえなにも。もういいのです……やめましょう、それより少し休みましょう」
「死こそがご加護だとよ」
「……カバネ様……」
「言われてみれば確かにそうなのかもしれないな。なら、ゴウトはあそこで滅びていて良かったのかもしれない。俺みたいな中途半端で愚かで未熟な王が牛耳っていたら、あれよりももっと酷い結末を迎えていたかもしれない。……俺たちの様に。余程マシだったか、どうだろう、どう思う」
コノエは震える唇を噛み締める。こんなにも全て人の為に頑張ったカバネがどうして最後にこれほど投げやりな言葉を吐かなければいけないのか。堪えきれずにカバネの冷え切った死体の様なその身体を自らも震えながら抱きしめる。
「……愚かでも未熟でも、増してや中途半端なはずがないでしょう……?」
「ふ……、それは、お前がそう思いたいだけだ。結果を全て並べてみたらいい。俺は何も成し得ていない」
「分かりました、もうそれでいい……自分を認められないのは仕方がない。貴方は長い間王で英雄でいらしたから、自分の許し方が分からないだけです。オレはもうカバネ様を王とも英雄ともお呼びしません、だからどうか、もう自分を責めるのはお止めになってください、どうか……どうか、」
「…………」
黙るカバネは長い間添い遂げた側近から王と英雄の肩書を突如そぎ落とされて、良くも悪くもぱっと肩が軽くなった気がした。
だがその解放は喪失にもひどく似ていて、抱えて死ぬのだと思っていたカバネという成分の半分以上が急に瓦解した感覚は言い得ぬ程の不安をカバネにもたらしてしまった。
探しても探しても自分の存在価値が見当たらない。言葉に出来ない虚無、涙も出ない、苦しいのか悲しいのか、泣きたいのか怒ったらいいのか、もうカバネには自分が一体何者であったらいいのかすら分からずにコノエにただただ抱きしめられたままある一つの答えに辿り着いてしまった。
「俺が間違っていたのかコノエ」
やっとの思いで地下の洞へと辿り着いたコノエだったが、これまで生きてきた中で一番の疲労を感じていた。
よもや実体に滅びはないし怪我や病がどんなに深くとも自動的に修復される不死の身体。だが、積み重なった心の傷は今で約百と六十余年分。軽度な傷などひとつも無い。どれだってずっと重症で、治る暇の無いままこんなことになってしまった。
歩こうとしているカバネの身体がちっともいう事を利かないでいるのを同じ様な面持ちの自分が支える。
最低限度の奉仕がもうコノエにとっても精一杯で崩れそうになる両脚を懸命に叱咤する苦しい気持ちがじわじわとコノエ自身の心を蝕む。休みたい。一旦全部、止めにしたい。してやりたい。
幸いにもここには一瞬だけでも弱りきったカバネを任せても許されるであろうクオンがいる。早く顔を見せたかった。カバネをどうか、どうか、救って欲しかった。
「……ここでいい、墓、に、行きたい……」
「後にしましょう……今行っても……」
「お前は先に休め……ここまで返しきれない苦労をかけた、すまない」
「…………」
どんなにカバネを救いたくともコノエは生涯従者でしかない。カバネの生き方に黙って付き従うしか役目のない側近だ。例え王の没落でだって生きている限り従者の役目が解かれるはずもない。
だが、ゆっくりと墓場の方向へ進むカバネのあとを追うコノエは今初めてカバネについていくのが辛くて嫌になった。
もう耐えられないと分かっているのに自分から傷つくことでしか懺悔出来ないのはまごうことなきカバネの弱さだった。王であるカバネならしない。英雄である彼もきっと今だけはしない。
だって、完膚なきまでに打ちのめされた粉々の心が今墓場で何を思えると言うのだ。何をも報いることの叶わなかったゴウトに何を語りかけられると言うのだろう。
もしもクオンならば今のカバネに何と声をかけるだろうか。そしてクオンになら、今のカバネが救えるだろうか。
墓場に降りる入口でカバネはすっかり立ち止まった。それを受けて少しの段差を降りるのも辛いのかと察したコノエは先に中へ入ろうと目をやると、
「…………」
「……クオン、……さま…………」
墓の一つ一つにたてられた蠟燭の淡い灯りで中は信じられないぐらい明るかった。百の十字架に手向けられた百の炎、その全ての前に一人跪き手を組み祈るクオンはどうしてかひどく清らかで神聖で、穢れないものに見えた。こちらに気づいて柔らかく微笑むその姿はまるで、
「…………カバネ、……コノエ…………」
神様、みたいだった。
「…………」
「……」
だがその反面コノエが言葉に詰まる程絶句したのはこれほどの地獄があるかと強い強い既視感と絶望をクオンに覚えたからでもある。果たして彼が祈るのは誰にだろう。何を誰に祈る。ならば祈りは何になる。救いか、誰の、はたまた自己満足か、コノエは思い出したくない強烈なフラッシュバックに苛まれ一瞬で眩暈を催す。
それを感じたのはどうやらカバネも一緒だった様でここまでやっとこぎりぎりで堪えていた琴線が今まさに全てぶち切れてしまったのだろう、とうとうその場に崩れ落ちると心底苦しそうに嗚咽した。
「…………誰に、」
「カバネ……?」
「だれに、なにを……祈ったら、」
「……コノエ……?」
「俺は、救われるんだ、……教えてくれ、……なあ、……クオン…………」
事情の知らない無垢なクオンが戸惑った表情でカバネの背を撫でるがもうカバネには自分が跡形もなく壊れていくのを止められない。
決定打は奇しくもクオンだった。カバネの咽び泣く声が虚しくゴウトに響き渡るのをコノエもクオンも膝をついたまま長く長く聞いているしかないのだった。
【168】
一旦本当に全てが空になり底をついてしまったカバネとコノエの精神力は肉体の良し悪しに関わらずしばらく何も出来ない日々が続いた。
帰って来てから日を置かずコノエが上手くいかなかったことを簡単に話してくれたがその酷く疲れ切った様子にクオンも深くは追求しなかった。増してやカバネは起きていても寝ていてもずっとベッドから起き上がれずに何日も寝たきりで地上で余程のショックを受けたのだとは聞かなくても察することが出来た。
実際、二人とも今までに見たことがないぐらいに疲弊していてクオンはそんな二人の部屋を日夜行ったり来たりして精一杯看病し続けていた。
自分も起き上がれない程くたくたなままなのにコノエは相変わらずカバネの様子を気にしていたが、そのカバネはあの日から目も合わせてくれないしクオンが何かを問いかけてみても一言も喋らなくなってしまった。
夜中にそっと覗くとカバネの閉じた目からはいつも涙が溢れている。眠る度に何か辛い思いをしているのかと思うと、どうにかしてやりたい気持ちでいっぱいになるのだけれど今のカバネに何をしてやれば楽になるのかはクオンには分からなかった。
ただ側にいることしか出来ないし求められてはいないであろう会話を少し試みてみたり、本当はされたくないのかもしれないが時折身体を撫でてやることぐらいしかクオンのカバネへの干渉権は今は与えられていないようにも思う。
閉ざした心が何を思うのかクオンには明確には見当がつかない。本当はこの時もっと強く触れていれば良かったのかもしれないが、クオンは近寄ることすら嫌がられてしまうのが怖かった。嫌われても好きでいる覚悟を持てなかったのは、もうとっくの昔からカバネは自分を助けたことをきっと後悔しているのだと分かっていたからなのかもしれない。
ただでさえ時間の経過が狂っている地下での静寂は、優に一年ほどは続いたのだった。
◇◇ ◇
日課になっていた墓での祈りを終えたクオンがお湯を沸かそうと水場に戻ると、ぼさぼさの頭のままあくびをするコノエが立っていた。驚いて思わず大きな声が出る。
「コノエ……! 起きて平気かい?」
「ああ、クオン様。おはようございます。ちょっと調子がいいのでそろそろ歩こうと思って。いつも使っている茶葉はこちらですか?」
「お、おはよう……。うん。ごちゃごちゃしていてごめんよ。整理整頓が得意じゃないみたいで……」
「なに、自分が分かればいいんですよ。まあでも、……オレも使いたいのでちょっと片づけますね……」
そう言ってコノエが苦笑したのも無理はない。この一年程しんどそうに横たわるコノエにはどうしても聞くに聞けないあれこれをクオンが一人で必死に模索してきた結果、泥棒に入られたかの様な凄惨な茶棚の有様は実にクオンらしく散らかってしまっていた。
上から順番に棚を開けながら物を出すコノエがああ、とクオンを振り返る。
「これからはクオン様も使うでしょうから一緒に確認しながら入れていきましょうか」
「助かるよ……ごめんね、何も出来ないし増してや自分きりの生活能力すら微塵も無くて……」
「何を仰いますか。クオン様が毎日お茶を淹れたり粥を作ってくれたりしたからオレは今こうしていられるんです。ありがとうございます。クオン様は何でも出来るお方ですよ」
「…………」
屈託なく笑うコノエに心から安心を覚えたのはクオンだった。長い間伏せっていたとは思えない、どこか吹っ切れた様に明るい笑顔は彼の精神が多少でも回復を見せた証であり彼らしい細やかな気遣いもまた然り。
ほっとする反面やはり無理をさせていないかともクオンはその様子をじっと窺う。
「……あの、コノエ。お粥、最初はたくさん失敗してしまったからお鍋を二個捨てたよ……」
「ふふ、そうでしたか。ご苦労をおかけしました。その失敗のお陰でしょうか。昨日のも一昨日のもちゃんと美味かったですよ」
「良かった。でも今日もお粥だよ。僕はお粥しか作れないからね」
「今日も作って下さるんですか?」
「当然だよ。コノエは今起きたばっかりだもの」
コノエは、と言ってしまったことにクオンは我ながら正直やってしまったなと思った。これではお互い探り探りだが明らかに避けていたはずのカバネの存在について自分から話すきっかけを置いてしまったも同然。
しかし肝心のカバネはというと未だ一言も口をきいてくれていないし食べるのも飲むのも寝るのも、泣くのも、生きるのですらも、辛そうにしている。昨日まで同じ様にしていたコノエにはまだその姿を見て欲しくなかった。
いくら分かっていたとしてもコノエはショックを受けるだろうし、きっとカバネも見られたくないと思うから。
「…………」
そんな風に一瞬で曇ったクオンの表情を見て思わず苦笑したコノエはやはりこの単純で素直で分かりやすいクオンの生き方がとても羨ましいと思った。語弊なく、人として愛おしくも。
だからこそクオンはきっと今日もゴウトに祈るのだろう。誰かに何かを請うているわけじゃなく、きっと純粋にゴウトを想ってそうしている。救われるという概念はきっと無い。
見えない何かを大事に想うから人は死者に祈る。
純真で無垢に祈る姿であったからこそ、痛みを覚えるほどにクオンが神々しく美しく思えた。ならば恐れる必要も失望の理由も無い。
クオンは間違いなく自分達にとってのメシアである。
だって、クオンがこうして死ぬまでゴウトを想い祈るならゴウトはきっと、それでもう報われているのだろうから。
「……カバネ様は頑張りすぎたのです。やれる限界以上のことを何度もしてしまった。だから今は心の赴くままにお休みになるのが一番です。オレはもう大丈夫です。あの方ほど多くのものを背負ってはきませんでした」
本心からそう言ったコノエに自己否定のつもりはひとつも無かった。大丈夫だと思ったから起きてきたしカバネよりも辛かった覚えもちょっとだって無かった。
しかしそれを聞いたクオンは悲しそうに俯くのだった。
「…………そんなことを言わないでおくれよ……コノエも、君も十分、たくさんたくさん、傷ついただろう……カバネの限界に君がいつでもついていったなら君の限界だってもうとっくの昔に過ぎていたのに……」
「……」
「僕は何も出来ないから、傷つく君たちをただただ見ていることしか出来ない。頑張ったなら褒めるよ……コノエ、たくさんありがとう……ゴウトは必ず報われたよ……」
もしもカバネが聞いたなら、きっと救いの言葉には思えなかっただろう。何も成し得ない自分を責め続ける彼にゴウトが報われたと言うには余りにも無責任であるから。
「……クオン様……」
だけれど、カバネばかりがその重圧に苦しむ権利を持っていると思っていたコノエにとってクオンのその労いはカバネ王の死によりやっと終わった従者という役割の自分を救ってやる唯一の昇華の言葉だった。
辛くて苦しかったのは事実。カバネと比べる必要のなくなった今、これほどまでに心が救われる言葉を、クオンから言われたことに意味があるのだと思った。
いつの間にか膝をついて泣き出していたコノエはクオンに優しく背を撫でられながら、ついに今日、従者としての自分を葬ってやることが出来たのだった。
もう迷わない。傷ついても構わない。国王として英雄として未だ死にきれずにもがいているであろうカバネのこれから先のどんな姿であっても受け入れ支えそしてまた生きる。命の続く限り。
例えこの永遠が、千年先まで続いたのだとしても。
この時コノエはそう決意したのであった。
【207】
すうっと息を吸って一つ深呼吸をしたコノエは、もう三年はまともに見ていないカバネの顔を今日こそは正面から見る為にとカバネの部屋の前でグーのポーズをした。
ノック。ノックだ。ノックをすればいい。
「…………」
生気の感じる気配の微塵も無い室内からは物音ひとつしない。だが、今日は絶対に見るのだ。顔を。カバネの。コノエは、固唾をのんだ震える手でやっとこ小さくこん、と一回扉を叩いた。
「あ、………か、カバネ、さま……」
返事は勿論ないに決まっているので開けてもいいかと聞こうと再び息を吸い込んだ瞬間、存外その扉はあっけなく開いた。
「コノエ。久しぶりだな。何か用か」
「…………」
想像していた展開とはだいぶかけ離れたそのシチュエーションにコノエは思わず言葉を失ってしまったが久しぶりというか、ずっと見たかったその顔があんまりにもカバネ過ぎたがためにはやくも胸がいっぱいになる。
「何だ。そんなに見つめるな。穴が開く。クオンは」
「あ、な……? く、クオン様は、……ええと、昼寝をされています……」
「……入るか。大分まともに喋っていないから、会話になるか分からんがな」
どうしたことか部屋に招き入れられ半ば白昼夢の気持ちで中に入ると、カバネはちょっと居心地の悪そうにしながら適当に座ればいいと呟いた。
「……」
「……で……」
「……え……」
「用は。何かあったから来たんだろう」
「…………よ、用、……その……本当は毎日お顔を拝見しに伺おうとしていて……今日はじめてその、こんって出来たというか……だから何か特別あったわけでは……」
「……」
「あ、お、お顔を見られて、安心しました……それだけです……」
これではどっちがまともに喋っていなかったのか分からないほどしどろもどろに言葉を紡いだコノエに呆れたカバネは目を逸らしてまたぽつ、と零す。
「もっと伏せっていると思ったか」
「…………」
「……まあ、実際どこか悪いわけじゃないしな。俺もお前も。それに、いつまで考えても何も変わらなかった」
「……オレがいくら考える必要はもうないと言っても、きっと考えてしまわれるのがカバネ様でしょうから……」
「ふん、そういうことだな。ところで、俺はまだお前にとってカバネ様なのか? 呼ばないとかなんとか言ってなかったか」
コノエが冗談と思って恨めしそうにしてカバネを見たのに、揺れる瞳はその答えをちゃんと待っている様で言葉に詰まる。
人の感情は難しい。決めたことを守り通すのはその人間にとっての信念でもあるというのに、コノエは自らの決心についてをたった今とても迷ってしまう。
カバネを王と、英雄と呼ばないと言ったことは彼を守る為の決意だった。だけれどどうしてそんなに弱い目をして元王に求められた元従者がその願いを無下にすることが出来るだろう。コノエはひどく切なくなって俯く。
「……呼び方に、固執しているつもりは無いのです……お嫌なら次こそ改めます」
「…………毎日何をしているんだ」
次には突然カバネがそう言うので顔を上げると床を見つめる下がった猫背の肩が身じろいだ。何をしているかを問われるとは思っていなくて毎日のルーチンを咄嗟に思い返して畑ですかね、とコノエは頬を掻いた。
「オレも別にこれと言って何かしたいわけじゃないので、どうせやるならお二人が食べる物をと思ってやってるだけなのですが……」
「……そうか」
「時間を持て余しておいでですか」
「いいや? そうじゃないんだ。一人で考えたい事は、山ほどあるからな」
「……クオン様とお話になるのは、お辛いですか……」
「なんでだ?」
カバネがしっかりと目を見て問い返してくる。コノエはそれにどきりとしてしまった。
「いえ、ただ、……まともにお話をされてないと仰ったので……」
「辛いよ」
「…………」
「俺が不幸にしてしまったうちの一人だ。心が死んでも今もまだこうして生きるのをやめさせてもらえないでいる。死んだ方が楽だと、どうして助けたと、責められているようで、……辛くなる。あいつは悪くないのにな」
「…………」
「顔を合わせるのも正直嫌なんだ。だからクオンと面と向かって喋るのは、今の俺には苦痛でしかない。すまない。俺が悪いんだ。まだもう少し、クオンを頼む」
コノエが何も言えずして頷いたのは、それがまるでカバネ自身の事の様に聞こえたからだった。
クオンを助けたから、こんな気持ちになる。心の死んだ屍の様な自分でいるのはとても辛くて苦痛で、それでも生きるのをやめさせてもらえない。死んだ方が楽。どうして助けてしまったんだろう。顔を見ると責めてしまいたくなる。自分は悪くないのに。
コノエは内心全くその通りだとも思うからこそ、何も言えなかった。
後悔しないと言い続け、言わば救い続けてきたカバネのクオンに対する温情はきっといつからか罪悪感となり劣等感となりそして卑しくも嫌悪感にまでなってしまった。
それは今までの全ての出来事が、クオンを助けたから起こり得たことだと認めることになり、結果自らの招いた災厄で自国は滅んだし挙句王として責務を幾度果たせど報われず最後にはその災厄だけが己に残った。しかも永遠の時間というおまけ付きで。
クオンを憎むのは簡単だけれど、それが出来ないからカバネは苦しむ。否、もう憎んでしまいそうだからこそ距離を置いて必死に自制しているのかもしれない。
だからコノエはまさかそんなカバネに対してクオンと喋れとも増してや頼れとも言えるはずが無いのだった。
「またお顔を見に来てもよろしいですか……?」
「……たまにならな」
穏やかにそう言ったカバネは、ドアを閉めた。
久しぶりにコノエの顔を見たからか、その日の夢はとてつもない悪夢だった。
何度も何度も馬鹿みたいにナーヴに挑んだ滑稽な日々が長い長い時間をかけて走馬灯みたいに鮮明に繰り返される。勿論、全部の結末をカバネは知っている。目を覆いたくなるような惨状の数々の中心にいつでもカバネはいた。
こんなにたくさん死んだ。あんなにたくさん殺した。誰も彼もカバネの持ち込んだ殺戮兵器を取り巻く全てに巻き込まれて死んでしまった。
これは変わらない事実だった。では後悔していないかとクオンが執拗に問うのは何故だ。全部自分のせいだと分かっていたからだろう。全部クオンのせいなのにこんなになるまで、最低の底辺に行き着くまで、助けたことが間違っていないと肯定してやる必要はあったのか。
ならばこのロードムービーの途中のどこかでお前のせいだともし仮に叫んでいたとしたら、何か筋書きは変わっていたのか。
憎むべき対象が、ナーヴではなくクオンになっていたら、一体どこの何が変わっていたと言うのだろう。
きっと結末は変わらない。
だってカバネが本心で後悔した時にはもう既に遅かった。この終わりに辿り着く分岐などとっくの大昔に過ぎ去っていたというのだから。
今更誰を憎んでも誰のせいにすり替えても過ぎた時間は戻らないし失った全ての命は還らない。
だが、分かっているのにおさまらないのだ。じゃあ、この怒りは、憎しみは、悲しみの全ては、どこへぶつけたら自分は報われるというのだろう。
誰にも報いることが出来なかった無様な自分を、せめて自分だけでも報いてやる方法は、一体どこにあるというのだろう。
悪くない他人を傷つける方法もその意味も分からないカバネは自分が救われる為の方法をある日突然一つだけ思いついた。
自分を憎む自分を許してやるには、自分を傷つけたのなら少しは気が紛れるのではないかと。
最初は自分自身の存在自体が虚しいという気持ちが勝っていたので腕を少し傷つけるだけでは何にも感じなかった。虚しい自分が虚しい自傷行為をしてみたところで滑稽過ぎて笑ってしまいそうになる。
それはきっとプライドだった。自分が弱いと認めるのが嫌だったのだ。
ただ、次第に自分に何かを重ねることを覚え始めるとそれはまた違った感覚だった。
例えばナーヴ。シャリテの非道なやり口やクオンという悲しい生き物を産み出したはじまりの悪にして自身最大の生涯憎んでも憎みきれない悪だった。叶うなら人としての慈悲も情も全て捨てた悪鬼になったこの手でナーヴ国という全てをぐちゃぐちゃに破壊してやりたい。ゴウトがかつてそうされたように。
気付けば自分の臓物が床に散乱していて目を瞠るが痛覚はまるでない。血まみれの手には使い慣れた己のナイフ。殺したのは。
目を開けると夢みたいにすっかり元通りの身体と、血塗れの床がちぐはぐでカバネはどれが現実なのか度々分からなくなる。
自分を殺すことに意味は無くても、自分に憎悪を宿し夢中で傷つけるのはどこかのぼせた没頭でキャパオーバーだった自責の念の無意識の昇華でもあった。
これは強いノイローゼになっていたカバネの唯一の心の解放で、王であるが故、誰にも頼れず誰にも見せられない弱さを抱えてきた頃の自覚も心も持たないプライドだけが空っぽのカバネを操縦し未だに王としての責務を果たさせようとしていた。
本当は心の折れたカバネにはもう何も傷つける力など残っていないし誰かの為とか何かの為とか他人の為に悪を憎む正義すら跡形も残っていなかった。
そうして何百回と自分を傷つけ殺し続けていると、空の自分になった時ひどく楽であることにカバネは気が付いた。
長く自分の中に溜まってきた様々な感情を手放している気分。気持ちはどんどん軽くなっていった。
だから、コノエが来れば何気ない会話もちゃんと出来た。相変わらずクオンが来たときだけは顔は見せずに追い返してしまうけれど、このままいけば、このまま自分の中での何かが消えていけばいつかはクオンともまた喋られる日が来るんじゃないかとカバネは密かに自分に期待したのだ。
しかし、カバネが自分を殺しながら失っているのは憎悪や悲しみ、今まで溜め込んだ負の感情だけではなくて、人として生きるための大事な気持ちをも根こそぎ手放してしまっているのをそれをしているカバネ自身も、増してやクオンやコノエが気付くはずもない。
程度によらずきちんと蓄積されていくカバネの三百年近く繰り返された自傷行為の代償はある日突然訪れた〝クオンへの憎悪〟でついに感情の決壊線を超えてしまった。
そもそもカバネはクオンのことを愛していた。身体を繋げたこともあるし度重なる戦いにおいての精神的な支えは間違いなくクオンだった。
それは初めて目にした時から、その手を引いた時から、言葉を交わした時から、どこから始めたって構わないほど出会った瞬間から抱いていた感情で、愛していると一言で括るのでは到底言い尽くせない。守るべき人。愛らしい人。頼られたい。好かれたい。叶えたいし可能な限り側にいたい。甘えても許される存在であるくせに、失望はされたくない。
クオンが笑ってこの世界を全うするのをカバネが望んだからこそ、全てが始まった。
だが、裏を返せば、クオンにさえ出会わなければ、クオンにさえ心奪われたりしなければ、今に繋がることは無かったということ。
カバネの脳裏にノイズが走る。
思いたくない。クオンは大事な存在で、クオンを手放したくなかったから、その執着が招いた災禍がクオンよりも先に持っていた全てを自分から奪った。思いたくない。王ならばきっと国とクオンを天秤にかける必要があったタイミングが必ずある。だけど、クオンがこの手から零れるのが嫌だった。救いたかった。じゃあ、それはクオンじゃなくてもそうだったか。クオンと国とどっちを取るかを一度も迷わなかったのはクオンだったからじゃないのか。嫌だ。思いたくないのだ。
国を捨ててクオンを選び、今、結果的にクオンが、この手が執拗に望んだクオンだけが側にいることを、幸せに思えだなんて。
「僕を助けたことを後悔していないなんて嘘だよ」
嘘じゃないのに何で喜べない。後悔したと言ったら深層心理では国と引き換えにしてでも選びたかったクオンが今ここに居ない未来も肯定することになる。
「後悔してもいいよ。僕がいることで君は苦しんでる」
後悔なんて、
「君が望むなら、僕は何度でも死ぬよ」
どんなに嫌になっても、
「君がこの世界からいなくなるその時まで、ただこうして側においていてくれるかい」
カバネの思考が動いた。そうか、自分がいなくなれば、クオンが側にいなくてもわからない。寂しくないし欲しいという執着もきっと無くなる。
簡単なことじゃないか。だってクオンはもうきっと自分がクオンを助けたことを後悔していることを分かっている。
カバネは初めて自分が死ぬことに意味があると思った。
自責に苛んだ苦し紛れの選択じゃない。クオンをここから解放するための死だ。
引いては、クオンから自分自身を解放するための、死なのだから。
カバネは狂った顔のままとても清々しい気持ちで自身の首を躊躇なく掻き切った。やり慣れた方法はすぐに死を彼にもたらしたが部屋中に飛び散ったごまかし様のない鮮血は少しして目覚めたカバネの心を握り潰した。
当然だけれど、ずっと必死になって大事にしてきた想いまでもを殺したところで世界は何も変わらない。
仮に全部から解放されたとてここに残るものだって変わるはずがないのだ。空っぽの身体。虚しい十字架。気持ちの宿らない懺悔をまた一人で繰り返すだけ。
あの日クオンはここから逃げ出したいと望んだ。それを許さず束縛したはずの自身が今、クオンから解放されようとしたというのだからおかしな話だ。
狡猾な生き物だ、自分という人間は。
「……これを、救いに出来る人間だったらな……」
それは、最後の最後にやっと自身の死を求めたカバネにとってあまりにも。
【498】
◇◇ ◇
「コノエ! 見たかい? 芽が出たねえ!」
「え、ほんとっすか? 別の種じゃなくて? あんだけ育てるの難しいとか書いてあった割にはすんなりでしたね?」
「何だか久々にうきうきしたよ。枯れないようにしなくちゃね」
クオンが床の積読の一冊から見つけてきた花の種は日光に向かって咲くという太陽みたいな花だった。
暗い地下では上手く育つはずもなかったが、クオンがどうしても蒔いてみたいというのでコノエも一緒になって手入れをしてきた。
「マジっすね。やりましたね、クオンさん」
「うんうん。咲くだろうか?」
「いやあ、どうでしょうか。てか、太陽ない場合どこに向かって咲くんすかね?」
「……うーん、見えてはいないけど上じゃないかな? 太陽は間違いなく存在しているわけだしね」
畑から戻るとカバネがお茶を淹れていたのでクオンは口を噤んでいつもの様に朗らかにほほ笑む。
「ちょうど良かった。カバネさん、昨日までの新聞、そこに仕入れてありますから」
「ああ、……いつもすまないなコノエ。ありがとう」
そのままソファに座って新聞を広げたカバネを横目にしながらコノエがそっとクオンに囁く。
「……クオンさん、いいんすか」
「え?」
「せっかく頑張って作ったじゃないっすか。食べてもらいましょうよ」
「……え……いや、僕はそういうつもりは……」
極端に辛そうな顔をするのでこれ以上は言わないが、内心コノエはすべての出来事はもう時効だと思うようにしている。
拗れた本人同士はまだあの永遠のスパイラルの中心でぐるぐるしているのかもしれないがそれに付き合う精神力はコノエには正直もう残っていなかった。
まあ別に、三人仲良く話をしたからなんだということもないし、カバネともクオンともコノエ自身はなんともないように話が出来るので暮らすには全く問題ない。
なので、時たまこうして間を取り持とうとしてみるのだけれどそれも端的に言えば暇つぶしでもあった。
というかこれでも良くなった方なのだ。
だって、空間に仄かに香るシナモンの匂いが言葉を直接交わせない二人にもこうして同時に感じられているのは即ち、喋らなくても同じ空間にいることぐらいは出来る様になれたのだという大きな進展でもある。三百年ぐらいかかったけれど。
「カバネさん、クッキーもあるんですけど食べますか?」
「ん、くれるなら貰うが」
「はい。新聞ついでに樫の実の粉を見つけて。それで、久々にクオンさんと一緒に焼いてみたんすよ」
「……樫か。随分とまた、懐かしいな」
「ねー。あ? 樫だけにっすね。さすがっす」
「いやうるさいな……」
呆れたカバネが珍しくふっと笑うと、その途端、悠久の時が渦巻き巡るこの地下にかつてのゴウトの華やかな片鱗が蘇る。
こうしていつまで経ってもカバネはゴウトの中に居る。或いは、カバネの中にゴウトがあり続けているのかもしれない。
だが、千年間の時を経てこの地下の洞に変わらず住まい続けるのは。
「地上もあまり芳しくはないようだな」
「まあ、無理もないことっすよ。人が住める環境であとどれぐらい持つんすかねえ」
「……さあな……俺たちには関係ないからな」
「ん! クオンさん、美味しいっす。食べてみて」
「ふふ、……うん。僕もお茶を淹れようかな」
静かに終わらない時を刻む、かつてのゴウト国王であるカバネと、その従者のコノエ、そして天子と呼ばれる殺戮兵器だったクオンという、今はもう何も持たない三人のただの人である。
「羽のない人」おわり
Episode01噓をつく人
かつて岸壁の岩肌を削って開拓された石造りの王宮を始点として、外に向かって扇状に広がりながら栄えていった細やかな街並みは今や世界の流通の要となる大都市である。
人口こそゴウトをやや下回るが国の端から端へとかかった低い水道橋を携えるこの国のこれからの発展の可能性は無限大にも思えた。
好戦的では決してないものの、財に潤う余裕からか発言には甚大な影響力を持ったこの国は各国の様々な問題にも絡んでいるいわば貸しの大国でもある。
そう言うゴウトも一度大飢饉に見舞われた年には、すぐに食料物資を救援してもらっている大きな借りがあるしあのナーヴでさえも詳細は知れないにしろここには少なからず借りがある模様。外交嫌いの卑屈な門もこの国にだけは渋々開いた。
ともすれば、ある意味最強の後ろ盾があると言っても過言ではないこの街の繁華街は年中眠らない。
昼夜を問わず人の出入りが絶えないここでは路地の隅まで様々な匂いをのせる渇いた熱風が吹き抜ける。
カバネはとある酒場の屋根に寝そべりぎらつく街の灯りで微かにしか光らないわし座の一等星を眺めた。
そして、真下の裏路地で交わされる男女の逢瀬に耳を傾けていた。
「本業は彫金師なんすよ」
「素敵。どんなのを作るの? お金払うから作ってみて」
「ええ? 参ったな。実は売れてないんすよ」
「もう。分かるわよ。売れるようにしてあげる、って言ってるのよ」
時代を問わずに酒と異性は人の綻び。いついかなる時も呑まれるべからず。
これは王位を継承する前の若い頃から散々やらかして学んできたカバネ独自の教訓でもある。それに付き合わされてきたコノエにとってもそれは勿論同様だったがあの頃の彼はまさかこういう形で夜遊びの経験が活きるとは思ってもみなかっただろう。
今日知り合った赤の他人とも躊躇なく唇を交わす濡れた音が静かに響く。
「……どうやって?」
「それは秘密よ。ねえ今からしたらいつ頃出来るの?」
「ん~、寝ないでやれば二日ぐらいっすかね」
「手も早いのね。今から宿を見繕うわ。追加のお金はあなた二日分と彫金代でいい?」
返事も待たずにそのままコノエの手を取って再び明るい路へと躍り出たこの女だが、何を隠そう国の大臣の妻だというのだから神は人の欲望には随分寛容というものだ。
とは言え、これは大都市の王宮で数多属する人間のほんの僅かな解れ。情報を持っているかいないかは分からないし接触するのはちょっとした賭けだ。火遊び自体がバレてしまったら面倒事にもなるし上手く躱して知りたいことだけを舐めとるのも時と場合によってはまあ余り簡単とは言えないもの。
だがまあ今回は、名も無き彫金師を売れっ子にする自信があるということなのでそれなりの権力、若しくは何か流通に強い人脈があるかもしれない。すっかりハズレなわけでもなさそうだ。
「はあ……何が二日ぐらいっすかねえだ。彫金出来んのかあいつ……」
小言が出る程には一抹の不安もあったが真面目で冗談の通じない様なところのあるコノエのことだ。丸きりやれない様なことはいくら口から出まかせだとしても言わないだろう。
しかしいかんせん二日は長い。
否、本当に彫金するのだとしたら短いのかも知れないがここに拘束されるには長いという意味だ。勿論、芸達者なのは頼りにはなるのだけれどまた随分と微妙な期限にしてくれたものだ。
この周辺の地理情報は頭の中に記憶済みのカバネはあたりをつけたホテル街に屋根をつたって先回りして待っているとやれ一番高級な連れ込み宿に引っ張り込まれるのを見遣って深いため息を吐いた。
かくしてこれは、鉄壁の籠城ナーヴ国がこの国の門を叩いたとの噂を聞きつけた若きゴウト国王と青き従者のとあるスパイ行為の一部始終の様子である。
(嘘をつく人)
事の発端はと言うと、先代の急死でなにやかにやとあった事務処理がやっと整ってひと段落したカバネが、いつもの様に近隣国で情報収集をしに行きたいと言い出したことにある。
それが変に拗れてしまったのは普段ならばそうですか、どちらにで済むはずの会話を、この日に限ってコノエが返答を渋ったのが原因だった。
「……お忙しいのに?」
「大体ひと段落したろう。それに俺が行きたいんだ。俺の知りたいことを他所から報告されるのは好きじゃないしな」
「それは重々承知しておりますが……やはり窮屈でしたか……?」
「あ??????」
まずもって何故そんなことをコノエが言ってしまったかと言うとだが、これはただ単純に王位を継承するとなった途端カバネが王子時代とは比にならないぐらい日々をどちゃくそ忙しそうにしているのを見ていたからで、やっと落ち着いたのに何で今? と思ったのが正直にひとつ。
それから、そんな毎日に疲れ果てとうとう派手に息抜きがしたくなったのかと割かし本気で思ったのがひとつだ。
つまりこれは本格的に王の側近という距離感で動くのが初めてであるコノエの半分お節介な感情でもあった。
だが、例え濁らせようともコノエの言いたいことなど即座に嗅ぎ取ってしまう嗅覚については、王であってもそうじゃなくてもカバネという人間の性格であり実に繊細なところでもあるわけで。
「おま、俺が酒を飲んで女をはべらせたいが為に都会に行くと思ってるな……?」
「そんな……滅相もございません…………」
「っへーー、そうかいもう分かった、そんなに俺のことが信用ならないか。まあ無理もないかあ。昔の豪遊譚にお前が居なかったことなど無いからなあ~~?」
「いやだから、信用してないとかではなくって、オレはご無理されているんじゃないのかってことを…」
「いいさ、ならばお前が俺の指示通りに動くのでも構わんぞ。俺はそれを見ていてやる」
「……え?」
「えじゃない。お前が言い出したんだ。男に二言はないぞ。あといいか、二度と俺を疑うんじゃねえ」
「もう、疑ってるわけじゃないでしょう? そりゃオレがやって済むんなら何でもしますよ。何をするつもりなんです?」
顔色を窺いおずおずとコノエがそう言った途端、通りがかった中華鍋で頭をぶん殴られるのを見遣ったカバネはふふんと鼻をならした。
「潜 入 捜 査 だ」
「…………」
まだ王座について間もないカバネの丸きりふざけきったドヤ顔には肩を竦めてやれやれと呆れたコノエである。
だがいざその蓋を開けてみれば絶対におふざけでは済まされそうにもないめちゃくちゃ本気のスパイ行為の計画であることに心底真顔になった。
というか、一体これをどうやったらあんなに軽口めいた雰囲気で画策出来るのか知りたい。
こんなのはもしか失敗したら国と国同士の諍いになりかねない。ケロっと潜入捜査だとか言っていられる案件では最早ない。はず。多分。
コノエは難しい顔でカバネの几帳面な作戦ノートを見つめた。
「要は、ぉ、……私がこのターゲットから情報を聞き出せばよいと……」
「うん。でな、この女は根っからの色魔らしくてな? 国の政治で忙しい旦那にゃ相手にしてもらえないのか夜な夜なお忍びで街に出て男を買って歩いてるんだと。だからちょちょっと接触して、確率は高くはないが万一ナーヴの話がちょっとでも聞ければラッキーってとこだろ? 何が言いたいか分かるな? つまり失敗はナシだ。どうかよろしく頼むぞコノエくんよ」
早口でそう畳みかけコノエの肩をバシバシ叩いてくるカバネの顔の意地の悪さときたらない。
なんだか恨めしくなってじっとその顔を見つめたコノエだったが、いやまてよと思い直した。
よく考えたらなりたてとは言え国王自らが他国の重要人物にスパイ行為で接触するなどどう考えても言語道断。どのみち大人しく計画を聞いていたところで最終的には自分が背負う覚悟をすることになったのだと思ったら何も落胆する必要などちっともない。
そうと分かればなんのその。何の抵抗もなく素直に傅けるのがコノエである。仰せのままに、と深く頭を下げたその姿にさも面白くなさそうにしてそっぽを向いたのはカバネだった。
元来自分で疑問に思ったことは自分が晴らさないと気が済まない質であるカバネは、国王である父の言う事など聞いたことの方が少ない。
何でも自分の身体で確かめ何でも自分で経験して理解したい。だから誰かの冒険譚は誰かのものであり、自分のものでは決してなかった。
それは王になったからと、背負うものを持ったからと言って、変えてはいけないスタンスだとカバネは思っている。
だって、それこそが王として誰に任せるわけにもいかない大事な役割の一つであり引いては自分の国との対話、或いは敵国とのコミュニケーションだともとれるわけだ。忙しいからと言って疎かに出来ることじゃない。
それに、街の情感は人よりもよほど正直だ。誤魔化しのきかない人々の毎日の暮らしはその国の今をよくよく表す。
それを自分の目で直接見て感じるのもカバネは好きだったし、誰かの何気ない会話にこそ物事のヒントが隠れているというのもちゃんと知っていた。
とは言え、先代が死んでからは随分慌ただしかったのも本当だ。
とりあえず引き継がなくてはいけなかった急ぎの仕事は山ほどあったし、それを周りに聞きながら処理していくのは楽じゃなかった。
実際、王子という立場だけで戴冠もまだの若造によく皆従ってくれているとも思う。
カバネは自分が未熟であるのは承知の上で先代に怨みも不満もあったわけじゃ決してないが自分が受け継ぐのは王座のみと決めていた。
コノエをすぐに側近にあげたのも父とは違う新しい国をここから始めたいと、物語の一ページ目は絶対に自分の名前から始めたいとカバネ自身が強く思っていたからでもある。
ゴウトは人も街もたおやかで慎ましく、高潔な美しい国。
それを築いたのは先代にしろ先代のみに決して非ず。国民の一人一人が永きに渡りゴウトに住まうプライドを持って生きてきたことのとてもよく分かる良い国だった。
それを踏まえて今のゴウトが抱える軍事的な問題を解決するためには何が必要であるのかを前線にいながらカバネはずっと考えてきた。
帆の無い船に風は味方しない。何かを変える為に誰かの心を動かすその為に、今この国に必要なのは原動力だと確信している。
だからカバネは帆でなくオールを持つことに決めたのだ。例え追い風が吹かずとも自分自身が動力になり進む術を見出そうとしていた。
時代は絶えず変化している。この世界に生き残るには望まない争いも守る為ならしていかなくてはいけない時が恐らくもうそこまで迫っている。
それを肌で感じていたからこそ、このタイミングで王座を任されたのはゴウトからの天命だとすらカバネは思っていた。淘汰されるのを防ぐ術としての軍事力は絶対に悪じゃない。
先代には出来なかった守る為に攻めるゴウトを自らが先頭に立って切り開いていくこと。
それが今のゴウト国に必要な自分にしか負えない役割であると理解していたカバネはこの時から既に〝背負っていく〟星回りにあったのかもしれない。
だがまあ、なんだかんだと理屈をつけたが身分を隠して街に出るのはカバネにとっては半分趣味みたいなものだった。
要は人の人生が好きなのだ。
何はなくとも毎日を生きる姿こそどんな美談よりも尊く面白いものである。
カバネは自身の望む軍事力とはまた別に、ゴウトはいつまでも今のままであればよいとも願う。
この先百年、例え千年続いた先であっても、健やかに育つ樫に囲まれた優しい土地に日々を慈しむことを知る人々が何の疑念もなく住まい永く永く繁栄し続けること。
変わらぬ平穏を守る覚悟があったからこそ、カバネは何の迷いもなく王位を受け取ったのだから。
カバネから見たコノエもかなり聡いとは思うがまだまだ青かった。
だが、こちらの無茶ぶりに振り回されながらも何だかんだと手前の器用さで臨機応変に躱せてしまうのはカバネの敵いっこないところでもある。
今だって実際、カバネがやろうとしていた計画をそつなくこなしあの女に数いる商品の中から見事自分を手にとってもらうことに成功した。ここまでくれば何かしらの情報を掴むのはもう楽勝だと思う。
あとは、何をどこまで聞き出して来られるかのお楽しみというわけだ。
「…………」
気が付けばわし座が低くなってきた。
カバネはやっと屋根を降りるとぼったくりの屋台でウォッカを一杯注文する。
片や従者が高級宿のい~い寝床で二晩過ごすと分かっているのに外で寝るのは癪である。
グラスを持ったまま問答無用で件の二人と同じ宿の窓口を叩いた。
「一部屋あいてる?」
ならば、ここはひとつ最近はやりのブティックホテルが一体どういう構造なのか見学としけこもうじゃないか。
一人かいと訝し気にした受付のオーケーサインを後目にしたカバネはすぐそばを通った強い色の香りを咄嗟に捕まえた。
「まさか。ふたりで」
女に目くばせするカバネは、さて俺は一体何になってやろうかと思案するのであった。
時に、彫金が出来るか出来ないかと問われるとセンスの有り無しを含めて「出来る」と応えても恐らく遜色は無い程度だとコノエは自負していた。
そうは言ってもくそほども広い室内で女が手元をじっと見つめる中多分だけれども結婚指輪に細工を施すなんてシチュエーションはまあこれが最初で最後であろうと思う。
「いいんすか。大事なものじゃないの」
「勿論大事よ。私の物だもの」
囁く様にして嘯く声はどこか寂し気で憂いを纏う。きっとこの人は何をしたところで満たされない人種だ。本当に欲しいものの代わりに本物には敵わない幾つもの紛い物をあてがって自身を慰め続ける哀れな生き物。コノエは女の心のもっと深いところに触れようとじっと想像する。
こういうのはやはりカバネの方が得意だ。カバネはずっと昔から共感能力に非常に長けている人で言ってもないのに思った感情の根こそぎ掴まれて弄ばれる。
逆に言うと弄べるなら慰めるのなど簡単で人の気持ちの弱い部分に触れながら撫でるのが物凄く上手い。
だから、カバネが落とすと決めた人間がその重たく真剣な束縛から逃げられないのは当たり前でそれに見合った自身でいることすら無意識に強制させられているのだから恐ろしい話だ。
かくいう、自分みたいに。
「寝ないでやったら二日と言ったわよね。もし寝たらどうなるの?」
寂しい匂いは指輪にばかり向き合う無骨な手に柔く絡み邪魔をしてくる。
手を止め真横にぴったりくっついた体温をそっと抱き寄せながらここは核心で揺さぶってみる。
「はは、この程度の細工だけならもう終わり。見てみて。ていうか、帰らないで怒られないんすか。エライ人の刻印でしょこれ」
「怒るはずないわ。放っておくのは興味がない証拠なの」
「……そんなこと言って、本当は愛されたいくせに」
リングの内側に彫ったのは片翼の羽。穴の空いた心にはいくら何を注いだところでいっぱいになるはずもない。虚しくて悲しい自分に酔っているだけだ。
不毛な身体が求めるのもまた不毛でしかないからこそ幾度も繰り返して本物になろうとする。
なれっこないのに。
「遊びじゃ満たされないのは分かってるんでしょ?」
「…………」
「本物は一個しかないのに、いつまでも逃げてちゃそりゃ手には入らないでしょ」
「……私に興味ない人に何したって無駄よ。いいの。不毛だから傷ついて、傷ついたからまだ好きだって分かるんじゃない。逃げてないわ」
「……傷ついてるんですか」
「…………」
「なら話は別だ。あなたは傷つけられているから満たされるだけだ。優しくされたらきっと、本物が恋しくて戻りたくなる」
女の身体を持ち上げるのなど勿論コノエには造作もない。こんなに力の差があってこんなに体格の差もあるのに互いに互いの身体だけが目的だからと望んで密室に二人きりになるリスクについてを彼女が真剣に考えたことなどきっとないのだろう。
暮らすには十分で、金に困ってなんていない。
それでも、自分を女として傷つける方法を選ぶのもまた重度な心の貧困であることをコノエは察する。
不憫だ。だが、こんなに綻びだらけなのはやっぱり都合が良いのだ。
傷心の心ほど見透かし易い。傾倒の具合も信頼の程度も。誰にでも身体を開くならもっとそう。
真っ黒な関係を乗せるには広くとも簡素な穢れ無い白のベッドは悪趣味だ。だから急いて交わす嘘の吐息に混ぜ込むのはほんのちょっとの真心。
利用するために抱きしめるのに変わりはなくともせっかくなので傷ついた人の気持ちを慰めてやりたいというコノエの真面目でお人好しな一面は従者にならば殊ぴったりだったに違いない。
あわよくば本物に帰してやれたらとまで思えるのはあの彫り込んだ羽にはきっと少なからず彼女自身が未来を欲しがっているのだと分かるからだ。
「……そんなに忙しいの」
「外務担当だもの」
「……どんな仕事?」
「簡単に言えば他国との窓口よ。だからあまり家にいないの。政治には詳しくないのね」
先程まで本気の口説きモードだったコノエは急に炙り出された彼女の素性の片鱗に思わずガッツポーズをしそうになる。
これ以上ないビンゴ! 稀に見るラッキーチャンスの到来だ。
これでピロートークは決まったも同然。あとは内も外も全部見せてもらえればこれにてミッションはクリア。仕事だとしても人を騙すのはやっぱりあんまり得意じゃないとコノエはほっと一息つく。安心からか指先がどんどん温かくなってくる。比例して切羽詰まってくる肌の触れ合いに室内は情事の甘い匂いで満たされていく。
「私のこと本当に何も知らないの? 自分で言うのもおかしいけどこんなことしてるから有名よ。生まれは? いまどこにいるの?」
「生活費が欲しくて来ただけ。何しろ売れないんで」
「お客はどのくらいとったの」
「聞いてびっくり、あなたが初めてっすよ。どこ行っても才能ないみたい」
「コノエ?」
「……!」
「本名?」
「まさか。源氏名っす。好きに呼んでくれていいっすよ」
「結婚したら本名教えてくれる?」
「け、何て………?」
「結婚」
「けっこん??????????」
「私、あの人のこと忘れる」
そう言ってがっちり抱き込まれてからあまりにも飛躍した話の方向にびっくりしすぎて固まる。
女の行きつけである風俗店が即席で用意してくれたクソダサな名刺にコノエと入れてしまったのは確かにうっかりで、出来上がったものを渡されてから陰で見ていたカバネに後ろ頭をひっぱたかれた。
使えなくなった名刺を咄嗟にズボンのポケットに入れたのも勿論うっかり。捨てておけば良かった、捨てて、おけば、良かった、心から……。
「いいでしょ。彫金師として生活出来る様にしてあげるから、その代わり私のことを愛してよ」
「え、か、代わりに愛、はちょっと……」
「コノエ」
「あっはい……」
普段名前で呼び捨てにされるのなんてカバネか親ぐらいのものだ。反射的に反応してしまって余計に焦る。
「ホンモノにしてよ。誰かのじゃなくて私、あなたのがいい」
「……????????」
読心術がクソ難しい。そもそもの話人の感情なんて知ったこっちゃないのだ。読めたからなんなのだ。仮にそれで自分ごときが全部コントロール出来たら世界はもっと簡単だ。完全に適材適所に負けている。どこから間違っていたのか思い馳せる間にもあれよあれよと事は進んで真心どころの話じゃなくなる。
この女、望んでいたのは未来じゃなくて自分の自由か。
平時性善説をニュートラルにして生きているコノエに寂しいから他のもので満足しようとする女の浅ましさなど毛頭理解出来るはずもない。
完全に読み違えて無駄な隙を見せたのはこちらだった。立て直したいのは山々なのに今度は雄の余裕が微妙である。だってカバネが忙しいならコノエが暇であるはずもない。
健全な人の身体である限り日々の鬱憤を抱えた雌雄がもつれてくんずほぐれつなら気持ちはどうあれ快楽に勝てないのもまた性。追って未熟が拍車をかける。
「っホンモノは、オレじゃつくれないっ……」
「なんで」
「なんでも! 誰とでも作れるのならそんなものはホンモノじゃないのですっ……!」
「あの人がホンモノだとは限らない」
「わた、お、ウ、オレっだって一緒ですからっ」
見ての通り動揺でひっくり返りそうである。キャラぶれが酷いが気にしている余裕は無い。
コノエは今後どうやってこの展開を納めたらいいのかまるきり想像がつかなくて困り果てる。
イエスで逃げるは最悪隠し子疑惑、ノーで逃げるも〝コノエ〟が知れている限りこの女の権力で万一見つかった時厄介な事になる。
しかも今時点で何の情報も引き出せていない。せっかくの外務大臣の嫁。ナーヴでなくとも何かしらの内部情報だって持っていたかもしれないのにこれではピロートークなど以ての外である。
いっそイエスで長期間の接触に切り替えて乗り切
「あなたにはホンモノがいるの?」
「…………ウン……?」
「いるの?」
「……イ、……」
「……」
「イル……」
突如女からのどう考えても明らかな神トスにはコノエの手が震えた。これだ。これに乗っかるしかもう手はない。情報は仕方ない、聞けたら聞くに路線変更、自分にはホンモノがいる。ホンモノとの生活の為に自分の身体でお金を稼ぎにきた哀れな若い男! これしかない!
女が明らかに落ち込んだ顔をしてそう、と漏らすのでそれに合わせてコノエも目線を下げてごめんね、としおらしく零す。
「生活費ってそういう生活費……子供は?」
「……いないっすよ、だって自分達が食ってくのに精一杯なんだから」
「……私、騙されたのね」
「んえ?」
「あなたの言葉がホンモノだと思ったから、私はあなたのホンモノになれると思ったの。見る目がないわね」
仕方なさそうに苦笑した女の顔を見て白目になりかける。心臓が委縮した。
「でも、これは嬉しかった。すごく上手よ」
「ああ、……ありがとう……」
「今日持ってる分全部あなたに使うから、こんなこともうやめたら? 諦めないでこっちでがんばんなさいよ」
「…………」
「コノエ」
「はいっ……」
離れた身体が寄ってきて唇に軽く触れられ何だか知らんがうまいこと終息の気配を感じ取ったコノエである。手を握られて顔を上げる。
「ねえ、お酒飲みたくなっちゃった。付き合ってくれない?」
最早俎上で九死に一生を得た魚であるコノエにははいと言う以外の選択肢など無いのであった。
一方、街の灯りがいつまでも衰えないのを開け放った窓に腰かけて眺めるカバネはというと自身の定めた目的はすっかり達成してしまっていた。
匂いに惹かれて引っかけた女はこの区画の奥にある風俗店の従業員。その身体いっぱいに詰まった実に様々な噂話を根こそぎ聞かせてもらったところだった。
広いベッドに機嫌よく横たわるしなやかな身体は生きるに貪欲な強かな生命力。一夜の息抜きには最適だったとも言える。
「イオリ。寝ないの? 何見てるの?」
「外。熱いけど風が気持ちいい国だな」
「まあねえ~。どこから来たんだっけ?」
「ふ、そんなのは内緒だろ。どうせもう会わないしな」
「ケチー」
女の軽口をいなしつつもふと遇に階下を見たカバネはその光景にびっくりして思わず咽た。
「? どしたの?」
「げほ、いやっ……そうだ、あー、酒買ってこようかな、何飲む?」
「えーいいのお? ジン」
「オーケー」
返事はろくすっぽ聞かずして平然と部屋を出たカバネはダッシュで廊下の端まで行くと四階建てのブティックホテルの非常階段から翻る。
屋根をつたって降りても目立たない暗がりまで行くと更にそこから中心街まで急ぎ戻る。
「っおいっ……!」
やっとこ人混みをかき分けて腕を組んで歩いていたとある男女の男の肩に手をかけるとカバネは息を切らしながらコノエを呼んだ。
「トウマ! どこ行ってた!」
「えっ……」
「……トウマって言うの?」
「あ、あれ? あーー、ああ、あっ、イ、イオリさん、えっと、」
変な顔でもごもごしだすコノエの反応にはそれだけで全てを察したカバネである。下手くそか。内心呆れつつ女の手を払いのけがっちりとコノエの肩を抱いて睨みつける。
「俺のなんだが。あんた誰だ」
変な顔のコノエから変な声が出た。一瞬訝し気にした女だったがすぐにぱっと笑顔になる。
「もしかしてホンモノくん?」
「……ホンモノ……?」
「ウ……」
「はあはあ、なるほどねえ~」
顎に手をやり何やら納得した様子の女はあっけらかんとカバネに向かって手を振った。
「別に何にもしてないの。彫金頼んでたのよ。見て。上手いわね、あなたの彼氏」
「……彫金? トウマ」
「はい……え、ウン、そう、あの、ごめん、ネ」
「ほんとに何もしてないのよ? なんならホンモノくんともお話してみたいから一杯付き合ってよ」
「……? 仕方ねえな。詳しくはそこで聞くか」
「キャー! やったー! 今夜は人生一楽しい夜だわ!」
謎に浮足立った女が意気揚々とバーへの扉を開くのを見てカバネはコノエを見遣った。
「どゆこと?」
「ああ、はあ、もう何もかもすみません……」
「なんか聞けたのか」
「まったく、何一つ……外務大臣のご婦人だそうです……」
力なくそう言ったコノエだったがそれを聞いたカバネの瞳がきらりと光り無言でバーへと踏み出すのを慌てて追いかけた。
「元は幼馴染みだよ。産まれた時から一緒。な」
そして、馴れ初めをと聞かれればでっちあげの馴れ初めを実に流暢に口から出まかせ、好きなところをと問われればはにかみながらコノエに身を寄せ「こういうとこ」と零したカバネのあっという間に女の世界観に入り込む恐ろしい程の覆面ぶりをコノエは戦々恐々と黙って見ているしかない。
こうしてカバネの達者な口ぶりを受け五分も経たずに見事楽しそうに心を開け放つ女の様である。それを自由自在に弄びながら何でもないようにしたカバネは突如鋭く核心に触れた。
「でね、今度ナーヴに行ってみたくてさ」
これにはさすがに女の眉根が寄る。
「……ナーヴに? 何をしに?」
「観光だよ。他に何が?」
「あら、あそこはここと違って入国に審査があってとても厳しいのよ。開いた国でもないし。どこのお坊ちゃんかしら?」
「そうなのかい? なんだ。綺麗な湖があるって聞いたから見てみたかったのに」
「ああ、それも残念。湖は今水質が良くないみたいで先日水道橋から水を引かせてくれないかって相談があったの」
コノエの喉がこくんと鳴ったのを横目にカバネも一度酒を呷る。
「…………へえ。河は無かったかな、あの国は」
「あるの。私もそれが不思議だったのよね。深い事情は知らないんだけどね。でもそうよね、せっかく湖があるのに観光業でもすればいいのに」
「本当に。だが、……いつかは行ってみたいもんだぜ。なあ、トウマ」
「……うん」
湖の異変という全く新たな情報にぎらつく眼差しがカバネの逸る高揚を物語る。きっとこの足で見に行くか、そうでなくとも近いうちに必ずナーヴへと出向くことになるのは想像に容易い。
あっという間に情報を引き出したカバネの手腕に脱帽したコノエがここでふっと息を吐く。
「あとね」
すると、女は楽しそうにカクテルグラスを一気に呷ってほほ笑んだ。
「ナーヴには天使がいるんだって。何のことかは分からないけど、本当だったら素敵よね」
「……天使?」
響きの割には不穏な印象しかない。カバネは再びゆっくりとグラスを傾け束の間思案した。
「……テンシ」
この日からひと月を置かずにこの歓楽街が半壊滅した原因が水道橋から巡ったナーヴの毒水のせいだと知ったのは全ての何もかもが終わってからだった。
資産家故に軍事力をほとんど持たなかったこの大都市がナーヴから仕掛けられた真っ向勝負にはどうあがいても勝てるはずもなく、ものの一夜であっけなく陥落だ。
それにより突如主要な流通の断たれた他国々は否が応でもそれぞれ国交を閉ざさるを得なくなり国家同士が疑心暗鬼になった暗黒時代の幕開けとなる。
そして、恩を仇で返すことを厭わない卑劣な国として世界から非難を浴びたナーヴ国の閉じた独立国家がここから本格的に始まった。
戴冠式を終えた直後の正装のまま大都市の降参の知らせを聞いたカバネはすぐに新たな時代の厳しい洗礼の渦中に既に自分達は巻き込まれていたことを察する。
ここから先は血生臭い世界になる。今刃を持たなければゴウトはあっという間に屍の一部として積み重ねられてしまうのは最早明白。
握る拳がさせてたまるかと戦慄いている。それを見たコノエも沈痛な面持ちで側に佇んだ。
「情報はあったのに、……何もできなかった」
「……はい」
「他人事じゃない。戦う力がないばっかりに守ることすらできなかった。今のままじゃゴウトも同じ轍を踏む。守る為には力が必要だと思わないか」
「……仰る通りです」
王宮は壊滅。国の主要人物の生き残りも無論いなかったという辛辣な情報はナーヴの非道をこれ以上なく物語る。コノエの脳裏に嫌でも過ぎる羽の彼女の体温はまだ身体のそこかしこに残っているというのに。
熱く乾いた風。酒と性の喧騒。一晩で夢のように朽ちた大都市とその歓楽街。
されどその夢現に消えたのは。
ふと呼ばれた様で顔を上げたコノエだったが耳の奥の柔らかい余韻でそれが記憶だと気が付く。
別れ際に名刺をひらつかせ忘れないわ、コノエくんと楽しそうに笑った顔はあまりにも鮮明だ。
人の命は何故ひとつきりしかないのかと失うたびに痛みを覚えた性根のとことん優しいコノエには、これからの時代を生き伸びる事が少し重荷になってしまうのかもしれない。
それでも進むことを止めないのは、カバネがそれを望まないからだ。
ならばコノエは覚悟しなければならない。本当に失いたくないものを選ばなければいけない時が万一あるとするのなら、心に決めたたったひとつを迷わず選べる自分でいられるように。
窓の外を遠く見つめていたカバネはついにこちらに向き直る。
飽くなき正義をその瞳いっぱいに湛えた強い決心にみつめられればコノエの心は奮い立つ他道は無い。
「ならば、俺が先頭に立つ」
「はい」
「例え世界が俺を見放しても、俺は俺の正しさを貫きこの国を守る」
「…………」
「未熟は承知、それでもついてきてくれるか、コノエ」
それを聞いたコノエはふと腑に落ちた。
人の命がたったひとつきりなのは、
「勿論、……仰せのままに」
その一つしかない命をかけて守れるものなど恐らくきっと、同じ様にたった一つ分しかないからなのだろうと。
「この命にかえても、カバネ様の貫く正義をお守りすることを誓います」
文字通り〝正しさ〟を掲げたカバネ王率いるゴウト軍に守れない正義など無いと近隣国家に言わしめるようになるまではおおよそ三年半。
零してしまった命の数を数える間もなくついにゴウトは世界の悪であるナーヴ国と正面切って対抗出来ると言われた軍事国家となる。
その全ての采配を執りながら大小問わず正義を守る為に起こった争いには一度も負けを喫さなかったカバネのことを人々は敬意を込めて〝英雄〟と呼んだのである。
◇◇ ◇
ゴウトの国の木である樫は種類を問わず土地のあちこちに群生する。
秋には国の一大イベントとして収穫祭が催され、それに合わせて王宮の庭園を解放し三日間お祭り騒ぎをするのが定番だった。
先日政略遠征から帰ったばかりということもあって収穫祭にかこつけて一躍国の大スターである英雄率いるゴウト軍への労いの訪問が後を絶たず窓口としては疲労困憊を極めていた。
「コノエ様いらっしゃる?」
「忙しいんだ。用件を」
「ではこれを渡してくださる?」
「コノエ様への個人的な預かり物はしない。誰も彼も懲りねえなあ次!」
「コノエ隊長にこれ……♡」
「不可! 次!!!!」
「ゴウト国にご武運を!」
「ありがたく賜ります。国王陛下に必ず」
「カバネ様にこれを」
「ありがたく賜ります」
「トウマさんにこれを」
ふと聞き慣れない名前に顔を上げた窓口はつば広の帽子を被った女の深い色の瞳と目が合った。
「……トウマ?」
「ええ。お達者でとお伝えください」
そう言って翻る無垢のスカートは裾がひどく汚れており気品のあるハイヒールのかかとも傷だらけだ。
束の間それに気を取られていた窓口がはっとなって受け取ってしまった白い封筒をひらひらとする。
「あ、おーい、トウマなんて王宮には! ……まあいいか、次!」
「カバネ様にご武運を」
「ありがたく賜ります」
「コノエ隊長愛してます!!!!」
「知るか! 花火でもあげとけ!」
そんな賑わった様子の外を穏やかな眼差しで見つめるカバネはその後ろで黙々と山の様な贈り物を仕分けているコノエを見遣る。なんだかここ数日機嫌が悪いように思う。
「ここは今日も平和で何よりだな。収穫祭も無事に出来て良かった。巷ではゴウト軍のファンクラブがあるらしいぞ」
手を止めないで苦々しく笑ったコノエがはあ、と気の無い返事をする。
「街を歩きづらくてしょうがないのはそのせいですね」
「支持されるのはいいことだ」
「疎まれるよりはそうかもしれません」
「また卑屈だな。よし今日はもう止めだ、休憩休憩。疲れたんだろ。一緒に飲むか?」
いやに拗ねた口調を労ったつもりのカバネだったが、逆に逆鱗に触れてしまった。コノエが驚愕の顔でふるふるとする。
「な、何て? 飲むですって? あなたはすぐそうやって……! 腹に穴あいてんだからダメに決まってるでしょ……!」
「あ、あーー、なるほど、それでずっと怒ってたのか。いや、悪かったよ。あれは俺が悪いな。だがいつまでも根に持つのは良くないぞ。それに結果オーライだ。生きてるしな」
「……もう絶対二度とオレの前には出ないでください……毎晩夢に出るんです……」
けたけたと悪びれなく笑うカバネに大憤慨したコノエであるがまったく何がファンクラブだ、英雄業も見目ほど楽じゃないんだと珍しくそっぽを向いたのであった。
Episode02夢にみるひと(クオン)
クオンの暮らした真っ白な部屋の中にあったのは二台の寝具と机が一つ。それから、テーブルと、揃いのイスが二つあった。
カーテンのかからない大きな大きなガラスばりの窓は外と自分を隔てている透明な檻。外からの雨や風からは守ってくれたが内から起こる罵声と暴力からは当然ながら守ってはもらえなかった。
物心がついた頃にはこの広い部屋に一人きりだった。
自我を持ち人としての感情が宿ってからも言葉を知り操る機会を持たなかったのでおおよそ五歳前後までは自らの感情表現を他者に言葉として伝えることが出来なくて苦労した。
何も知らなかった頃は悲しい時やつらい時に目から出て来る涙のことをいつも不思議に思っていた。自分の身体から塩辛い水が出る理由がどこにあるのかを考えたりその仕組みを思ったりしているといつの間にか悲しい気持ちが薄れてどこかへ消えてしまう代わりに朝が夜になっていたり、反対に夜が朝になっていたりした。
一日の大半は一人だったが、訪ねてくる人は毎日いて毎日違った。そのうちの誰かしらが朝昼晩と日に必ず三回やってきて毎食と身の回りの最低限の世話をして帰っていった。
言葉は喋れなかったが、人が訪ねてくるのはどこかほっとした。たまに聞きとる言葉を真似て唸る様に話しかけると返事がかえってくる人とこない人がいた。機械みたいに朴訥とした返答ばかりの人、少し喋ると怒鳴ってくる人、何も言わずに淡々と作業をこなす人、様々だ。
この時点で、自分が人から好かれていないことをハッキリと自覚していたクオンはどうにかしてこのうちのたった一人にだっていいから大切にされたいと思うようになっていた。
「おはようクオン」
そんなある日、七つの歳になったクオンの元へやってきたのがパーメニデスだった。
パーメニデスはいつも穏やかな微笑みを絶やさない優しい温厚な老紳士で、産まれて初めてまっすぐに目を見て話しかけてもらえたクオンは人間の瞳のあまりの美しさに息を呑んで見惚れた。
初めてちゃんと見た人の眼球はとても綺麗だった。晴れの光を浴びてつやつやと潤う不思議なパーツ。もしかして自分にもついているのかと思うとそれはまた不思議でたまらなくなったクオンは急いで窓まで走ると微かに反射してうつった自分の顔をじっと覗き込んだ。
「自分の顔が見たいのか?」
「……あぉ、ぅ……」
他人から発せられる言葉の意味は何となく理解していたがそれで正解なのかは分からない。きょとんと見上げたクオンに懐から手鏡を取り出したパーメニデスはそっとそれをクオンの手に握らせてくれた。
「…………」
鮮明に映る自身の真っ赤な瞳を見つめるクオンは、その燃える様な美しい色彩が光を浴びてきらきらと煌めくのを一日中観察していたのだった。
(夢にみるひと)
「クオン」
「うん?」
パーメニデスが毎日一緒に居る様になってからのクオンのアイデンティティの確立は相当に早かった。
字の読み書きや言葉の練習などはひと月もすれば大人よりも流暢になったしずっとずっと疑問に思っていた全ての物事の理屈は本を読んだりパーメニデスに聞くことで見る間に解けていくものだからそれを楽しいと感じたクオンは人としてありとあらゆることに興味を持って過ごした。
パーメニデスは毎日書庫へクオンを連れ出しクオンが選んだ好きな本を好きに読ませてくれた。
例えば目の構造の本。人体の構造、涙が出る仕組み。脳と感情の繋がり、ヒト特有の不可解な〝心〟の見解。
それから生き物の種別、起源の論文。国の歴史、世界の成り立ち、宗教、信仰、繁栄、文化、最も好きになったのは星と天文学だ。
クオンは選り好みしないで知らない事には何にだって深く興味を持ったし一度読んだ本の中身についてを一文字たりとも忘れることは無かった。
「星座や神話って究極のところはなんなんだいパーメニデス」
「そうさな。一言で言うと人の空想さ」
「……空想? 驚いた。じゃあ神話をつくった人は頭がイカれていたの?」
「ええ? あっはっは! そうかも知れないな? 最初に星を見上げた人が相当のロマンチストだったから出来たのかもしれない」
「世界ったら適当じゃないかい? なら神様はどこに居るの?」
「っふふっ、すまない、さっきの君の見解があまりにもユニークでしばらくまともな受け答えが出来そうにないよ」
肩を震わせるパーメニデスに呆れて、冷めてしまった紅茶を啜るとダージリンの華やかな香りが鼻に抜ける。
まさかこれが誰かの空想だったとは。ならば実際にはアポロンもハデスもアフロディーテやゼウスですら居ないということになる。でっちあげの神様。クオンは神話が好きだったので少しショックでもあった。
「はあ、おかしい。神だったか。神はね、クオン」
「……うん」
しばらくすると、涙目を擦りながらパーメニデスは穏やかに笑った。
「君が信じるなら必ずそこにいらっしゃる。君が信じるものは君が自分で決めるのだ。だから、君だけが信じる神がどこかにいてもいいんだよ」
「……僕だけの神様」
頷いたパーメニデスの大きなくしゃくしゃの掌がクオンの頭を優しく優しく撫でる。
晴れた朝には陽光が、夜には月の光が降り注ぐ白い壁のこの部屋にパーメニデスと一緒に暮らすクオンはいつしかこの場所にとても愛着がわいていた。
いつの日かナーブ国からの〝使命〟を与えられるその時までは。
人の生命活動の終わりを死と呼ぶということを、頭の中では理解していても実際に目の当たりにしてしまうとそれを単なる終わりとはもうクオンには思えなくなっていた。
死への空想はたくさんした。クオンにとっては不可解なもののひとつだった。
人にとっての死と動物にとっての死は明らかな差異があり、理屈は同じなのに感情を伴う喪失がいかに人間という高度な脳の造りにそぐわないかが顕著だった。
生きる為に殺すのは世界のヒエラルキーを俯瞰しても当然の摂理であるのは分かるが、だけれど、殺さなくても生きられる術を考え得る思考能力を持ち得た人間が何の為に人を殺すのかについてクオンは懸命に考えた。
「……パーメニデス、僕の使命は人を殺めることかい……」
ある時突然部屋に訪れた国の死刑囚だという男は屈強な身体と数多の人の命を故意に奪ったとても強欲な瞳をしていた。どうしてか光らない、艶の無いその色を不気味に思ってすぐ、クオンは侵入してきたその男の殺意で全身が硬直した。
青筋の浮いた拳はまるで鉄の塊みたいに大きく硬そうなのは分かるのにこれが身の危険を察したパニックの思考、と妙に冷静な頭の片隅で思う。しかし、動けない、動かない。恐怖は後から迫るのだろうか。その中でクオンが一瞬で想像出来たのは彼が今自分に対して何が出来るかだった。
誰も居ない広い部屋に殴打の鈍い音と壁には少しの血が飛び散る。
「……っ……、っ…………!」
声帯が委縮して声だって出ない。殴られた頬がじんわりと麻痺した痛覚に侵される。痛いかどうかは今は理解出来ない。怖いかどうかも然り。ただただ受けた衝撃を感じ取るのに精一杯でわけもわからないまま自分を守ろうとするのがきっと防衛反応なのだろう。
頭を抱えて縮こまるクオンは気持ちがついていかなくとも勝手に動いた身体の赴く方へ行くしかない。
息が苦しいのは呼吸がとても浅くなっているから。頭では分かっているのに落ち着いて呼吸なんて出来ない。どうして、何でだろう。
しかしながら死や恐怖とは、こんなにも単純にしかも人の手によって降りかかっていいものなのか?
ぐっと目を瞑ってどうしたら回避できるのかをやっと考え始めたところで、クオンはもうしばらく自分がこうして蹲っていることに気がついた。
「…………」
静かに目を開け周囲の状況を恐る恐る窺うと、どういうことか男は口から血を流してもがき苦しんでいた。
口には轡がはまっているので言葉も紡げず、喉からせりあがるのであろう赤い鮮血をごぼごぼととめどなく零すその様にクオンはただただ呆気に取られて茫然としてしまった。
何でか震える手がそれでも死の気配を生々しく察してその男の太い腕に触れる。
「……ど、どうしたんだい、……ごめんよ、誰か呼んだらいいのは分かるんだけど、足が震えてうまく動かないんだよ、このままだといけないよね、……どうしよう……」
初めて経験する他人の死がリアルタイムでどんどん進んでいくあまりの凄惨さに慌てふためくクオンはまさかその原因が自身にあるのだとはやはり微塵も想定していない。よもや自分のことを殺そうとした男だということなどすっかり忘れてゆっくりと体温の冷めていくその様子を泣きそうになりながら見ているしかなかった。
後で思えばあれだけいつも一緒にいたパーメニデスが何故その時に限って部屋にいなかったのかとか、事切れたのを見計らった様にしてシャリテ王子が部屋に入ってきたのなど、その時のクオンには疑問に思う余地などあるはずもない。
愉快そうに手を叩きながら部屋に足を踏み入れたシャリテはとても歪に笑った。
「クオ~ン。よくやったじゃないか。いい子だ。とてもねえ」
「……? ひ、ひとが……」
「悪人には天罰が下る。従ってこれは当然の結果。そして、それを下す権利を持つ死神はお前なのだ。我が愛しの天子よ」
「……天、……罰……?」
意味は容易に理解出来なかったが胸がひどくざわつくクオンである。無言で側に来たパーメニデスは男に殴られたはずみで出たクオンの鼻血を白い布で優しく拭いながら「無事でよかった」と一言だけ呟いた。
「これまでの父上の愚行には付き合いきれないというものだ。今までとはちょっと違う形にしていかなくっちゃあねえ。これから世界はナーヴ国が全て治めるのだ。クオンにはそのお手伝いをしてもらうんだよ。分かるかい。お、て、つ、だ、い、だ」
「…………?」
困惑したまま何も言わないでいると、パーメニデスは目を伏せたまま暗い顔でクオンに目くばせをする。
「クオン、お返事と誓いを」
「……あ、……は、い……シャリテ様のお望みのままに……」
「賢い! パーメニデスは物を教えるのがなんと上手いんだ! 上手くことの運んだ暁には初代教祖に任命するとしよう」
「身に余る光栄でございます」
「さあ、今日はクオンのハレの日だ。いい肉を運ばせよう。おい、何をしている、このゴミを早く谷へ。臭くてかなわん」
去りゆくシャリテの後ろ姿を見つめながらクオンは何だか夢みたいだと思った。
とびきり悪夢、起きたらきっと昨日と同じ今日が始まる、そうしたらパーメニデスに聞くことがある。
人の死とは人にとっての悲しい出来事であるのかどうか。ならばそれは何故か。そもそも感情とは人にとっての瑕疵なのではないか? それから人の死が人によってもたらされた時どちらがどう正しいかを誰が決めるのか。正義の為なら人を殺しても正しいのか。
とても近くで死の片鱗に触れたクオンは男が死んだのは自分の所為であることを無意識に自覚していた。
理由のつけられない心の軋みがなんだか喉をからからに乾かしてささくれだたせている様な気がしてクオンはその日の夜までに狂ったようにたくさんたくさん水を飲んだのであった。
その出来事を境にクオンは天子と呼ばれる国の位と権威を授かった。
しかし途端、外の世界に無理に連れ去られることが多くなったのは紛れもなくナーヴからの近隣国に対する戦略でもある。
傍から見れば隙だらけの権威者であったクオンは、ナーヴを面白く思わない他国からすれば格好の餌食だった。だが、それというのは無論、わざと敵国にクオンを攫わせる様に仕向ける為の卑劣な策略に過ぎない。気が付けばクオンはクオンの与り知らぬところで瞬く間に五つの小さな国を亡ぼす任務を完遂していた。
そうやってシャリテから命じられる〝お手伝い〟を繰り返していくうちに、何をも理解していなかったクオンも流石に自分の身体が何か特異な体質であることには勘付いた。
それ以上に何も知る由のない敵国は丸腰のクオンをまるでナーヴの思惑通りに人質として扱い、様々な要求を投げかけた。
もちろん、クオン自身が何もしなくとも人が殺せることを知っているナーヴにとってそんな要求に従う理由はない。長ければひと月程も応答しないこともままあった。
だからその間、クオンが敵国の牢で何をされどんな仕打ちを受けていたかなど微塵も興味があるはずもない。
いつも傷だらけになって疲弊しそれでも敵国の衛兵を嫌でも殺してしまってからまた国へ戻るしかないクオンを待つのは誰もいないあの広い透明な檻だけだった。
唯一の恃みであったパーメニデスもクオンが天子の称号を受けてからは一切会わせても喋らせてももらえていなかった。
どころか、心身により強い負荷をかける為にと外で傷ついたクオンのケアは必要最低限しか行われず、傷が化膿してひどい熱を出してからようやっと薬を与えられたり手当が行われるような様だった。
「…………」
「クオン様。お怪我の具合を」
「いらないよ……触らないでおくれ……」
「シャリテ様に叱られてしまいます。どうかご慈悲を」
「……僕が偉くないことを知っているのにどうして君たちは傅くんだい。シャリテがそう言うからかい。僕の命令もじゃあ、聞いてもらえるのかい」
「お力になれる範囲であれば」
「いっそ殺しておくれよ。事故でなら僕はきっとパーメニデスを殺さなくて済む」
「冗談はよしてください。貴方様を殺めたものが生きていられるはずもない」
あんなに光に満ちていたクオンの目はいつしか仄暗く濁り、くすんでされた赤に変色してしまった。いくら晴れの光を浴びても光らない目の奥にはクオンがクオンとして生きられる限界の兆しが日に日に降り積もっていく。
それから、あまりの苦悩の日々に疲れ果てたクオンがとっくの昔に自ら死のうと試みたことを知った時に激昂したのはシャリテである。
シャリテは丸三日クオンを幽閉し毎日一晩中鞭で叩かせ罵倒した。挙句、死ぬのは自由だがパーメニデスがどうなっても知らないと吐き捨てられたことで、これまでようやく抱えてきたクオンのちっぽけで壮大な正義は見る目もない程粉々に打ち砕かれてしまった。
人としてのプライドなどもう持てるはずも無い。クオンは天子として生きる以外の道を完全に閉ざされてしまっていた。
だが、言わせてみれば確かに、クオンを敵国の人質として痛めつけてきた全ての〝悪〟はクオンにしたことの代償としてそのままそっくり還っているだけに過ぎないのは事実だった。
なのに、必死にやめてくれと懇願するクオンの言葉の意味が日に日に違うものになっていくのはひどいことをするのを止めて欲しいからじゃなくて、自らを死に至らしめるまで人を憎むのをやめて欲しいと思う様になったからだった。
こんなことを生きている人にしたらその代償として自らの命で還せやしない反動がその身に降りかかる。なぜ分からない。圧倒的に理に適っているこの方程式を過つ前にどうにか理解して心を改めてほしい。
痛くしなくても命を奪わなくても、人が人らしく人として生きる方法を何故選ばないのか。クオンには確かに人の愚行が歯がゆくもあった。
「やめてくれ……僕を傷つけると貴方たちが死んでしまう……」
「ほう、それは危険だ。身体に毒ガスでも仕込んでいるのか? ナーヴならやりそうだがな」
「その通りだよ……僕がされたことは全て君に戻っていくよ、どうか、ナーヴを侵略しようという考えは今は一旦考え直してほしいんだよ……お願いだよ……」
「なるほど。独特の命乞いだ」
「この国の素晴らしいところはいっぱい知っているよ、長く続いた立派な国だ、こんなくだらないことで亡ぼすのは勿体ないだろう、僕はそう思うよ、お願いだから僕の話をよく聞いておくれ、僕は」
「クオン様。お見苦しい姿はナーヴの名誉の為にも極力お控えください」
突如の牽制に驚いてクオンが声の主を見上げた途端、右頬から勢いよくつま先で蹴られたのを理解する頃にはスパイとして紛れ込んでいたのであろうナーヴの衛兵以外の人間は蹲って血を吐いていた。
信じがたい光景に言葉を失っていると今度は左から顔面を蹴り飛ばされてわけがわからなくて眩暈がした。
だって、どうしてナーヴの刻印を持った人間、つまり、味方である衛兵にわざわざ敵国の地で蹴り上げられなければならないというのだ。
怖い、ナーヴが人の生き方の何をどこまで失っているのかが怖い。そしてそこから逃げ出すことのかなわない今、自分がその一部として生きているという事実が恐ろしくて堪らない。クオンは震える身体で再度そっとその衛兵を見上げた。沼の底の様な黒々とした支配者の目。
「シャリテ様からのお言伝です。上手くやれないのならかわりなどいくらでも造り出せる。パーメニデスとそれに関係する者たちの全ての命はお前の行動にかかっている」
「……は、あ……う……い、いくらでも、いるなら、どうしてっ……僕なんだい………」
「それは製造都合上たまたまでしょう。きれいごとはさっぱりお忘れになってもっと世界を怨んでください。それがきっと、クオン様の為になるのでしょうから」
「……ずいぶんひどいことを言うんだね、……なら、……もう御免だ、僕がどうしてこの世界に生まれてきたのかをずっと考えたよ、究極人の命に意味は無いのだとも思えた、でも、僕のこれほどまでに無意味な存在に意味を持たせてしまったのは君たちだ、君たちを憎むよ、僕は世界なんかよりナーヴを怨むことをたった今決めたよ、」
「だとしても、貴方に出来ることとは今までもこれからも人を殺めることそれだけなのです。殺戮兵器とはそういうものですから」
「…………さつ、りく、……」
クオンは衛兵のその一言を聞いた瞬間、今までどうしても腑に落ちていなかった「自分がナーヴに生まれた落ちた」理由、経緯、目的、用途、様々な疑問に一気に合点がいった。
「へいき…………?」
殺戮兵器。そうか、最初からそのつもりでこのクオンという物騒な生き物をナーヴが意図的に造った。人を殺す為だけの人造人間。人の形をしているだけでこれはつまりただの器に過ぎないということ?
「…………」
理解しようとしたクオンだったが最後まで何かを思う前にもう何もかもがとても馬鹿らしくなってしまった。
ならば自分は世界のどこにも最初から組み込まれるべき存在ではない。何が産まれてきた意味だ。何が憎むだ。どの口が言うのだ。人じゃないのに人染みた感情を持たされて意味の知らないまま正しいを語るのが殺戮兵器だなんてあんまり可笑しな話にも程がある。
滑稽だ。無意味だ。悲しむのも怒るのも、増してや人を愛おしいと思い情をかけるのも、兵器であるのなら本来ならば知らなくてもいい痛みだ。どうしようもないのはもうこんなにも知ってしまったという事実だけ。
いたたまれない。虚しい。あるようでないはずの心の底から湧き出る屈辱に惨めに溺れていく自身の生き様にクオンは耐えられくなってゆっくりと顔を上げた。
「助けてくれ、死にたくない」
「苦しい、助けて、頼む、あんたの言う通りだ」
「ナーヴにはもう手を出さない、約束する、助けてくれ!」
だが、顔をあげた先のそこかしこに蠢く烏合の衆に言葉を失ったのは言うまでも無い。
突如クオンの耳が意味を持って捉えたのは死への恐怖に取り乱す本物の人の感情だった。嘘だとは微塵も思えない。口から血を零しながら懸命に手を伸ばした先にいるのが自分? クオンはあまりの地獄の沙汰に具合が悪くなる。
間違っていないクオンの正義がやっと人に認められた時にはその手を取る術がないことを思い知る。つまりは殺戮兵器でしかない自分の存在を認めざるを得ないことでもある。
助けてくれと請うこの人々を救うには一体どうしたらいいのだ。兵器が全ての人を救う術を持たないのは当然だ。だが、人を傷つけてまで守りたいものがあったから人から兵器は産まれたはずなのだ。
正面から見たならば自分は守るべき正義に忠実になれない不義理な殺戮兵器だ。
どう考えたって失敗作だ。繕っても人にはなれず、されど人の心は今更無くなってくれやしない。
助けて欲しいのは最早こっちだった。初めて自分が救われたくて涙を流すクオンは誰に求めてもきっと誰にもかなえてもらえないであろう望みを夢見て必死に涙した。
だって誰かに助けを求めたとしても、そして誰かが仮に助けてくれようとしたところで、
その誰かを自らが殺してしまわない保証なんてない。
こんな兵器に人の心が宿ったところで厄介なだけ。今はもうパーメニデスですら恨みがましい。クオンに言葉を授け感情を植え付けたのは優しい眼差しの彼である。
どうしてだ。一体なぜ。兵器を人にした理由は何だったのだ。いらなかった。こんなに苦しい気持ちになるぐらいなら、全部何もかも、自分には何一つ必要なかったのに。
「たす、けて……助けて……これ以上、僕は僕でいる自信がない、助けて、殺してくれ、お願いだよ、だれか、……誰か…………」
しゃくりあげながら必死に助けを求めるクオンの心にかかるこれ以上ない強いストレスは次第に周囲の全てに死を呼び込んだ。慈悲の無いこの世界は誰の味方をも気取らないのかクオンの切実な嘆きには一言でさえも応えてはくれなかった。
衛兵に引きずられる様にしてやっと国に帰ったその日からは何をされても言われても心がまるで動かなくなってしまったクオンである。いくらぶたれてもののしられても痛くもつらくもない代わりに、生きる気力を全部手放してしまった。
もうどうなっても仕方がないと思った。心の中でなけなしの良心が何度も何度もパーメニデスに謝ったが、これ以上クオンがクオンでいることは不可能であり、たとえ自分のせいで大事な人が死んでしまうのだとしても、それに何かを思えるような状態ではなかった。
そう思っていたはずだったのだけれど。人の感情とは殊、難しい。
「殺してやる、いつか、絶対に殺してやる! シャリテ……! シャリテ……!!!!」
衛兵二人がかりで抑え込まれたクオンは今までに感じたことの無い強い憎悪を死んだ心に再び宿してシャリテとナーヴについてをただ一心に憎んだ。
精神状態が芳しくないクオンが自分で何かをするのを一切放棄したのを見兼ねて、実質軟禁状態で天子の研究を強いられていたパーメニデスはシャリテに黙ってある夜クオンの部屋を訪れた。疲れて眠っていたクオンは、夢見心地でその優しい声を黙って聞いて頷くとパーメニデスは長居せずにものの五分程ですぐに居なくなってしまった。
だが、それを嗅ぎ付けまるで面白く思わなかったシャリテはやはりすぐに激昂しその翌日にはクオンの目の前で年老いてくたくたになってしまっていたパーメニデスの首をはねた。言葉にならない衝撃に頭の中が真っ白のまま震えだすクオンを鼻で笑い心底くだらなさそうに初代教祖の枠が空いてしまった、と呟く悪魔の声。
「この裏切り者の一族は皆同じところに埋めよ。教祖とはなんだか野暮ったいから司祭に変えるか。私が担おう。どの愚図に任すより確実だからな」
「っ……シャリテ……、君に、……この国よりも醜悪な天罰が、必ず、必ず……くだらんことを………」
「ふん。兵器は本来人の言葉を喋らんものだ。喉を焼いてやろうか。まあ、直におのれの立場を弁えざるを得んだろうが役立たずの処刑に手間取って疲れた。今日の所は許してやろう。庭に首を並べるのを手伝えクオン」
これを地獄と言わずに何と言うのだ。首を切られる苦痛に歪んだままのパーメニデスの顔のすぐ前で二晩を跪かされたクオンの精神は今度こそ二度とは立ち直れないほど壊された。
この頃からのクオンの記憶はまるで曖昧だ。
あんまり鮮烈なパーメニデスの死は純度の高いクオンの心では彩度良く捉え過ぎた。
日々の食事もしたのかしていないのかさえ覚えていられないし、気が付けば知らない場所で痛みだけを感じ時折全てを思い出して咽び泣いていたり、また気が付けば自室の床で丸まって倒れていたりする。身体はどんどん痩せこけて異常に寒いという意識に引かれることがごくたまにある。急な空腹に耐えきれなくて憑りつかれた様にそこら中をひっくりかえして食べ物を探していたかと思えば呼吸ができないほどの酷い咳が止まらなくて胃液を吐き散らかしていたり、もう自分でも生きているわけがわからないほど何もかもが狂っていた。
だが、いつしかどこにも出ない穏やかな日がまるで永遠みたいに続いたと思えたある晩、クオンは久方ぶりにとてもまともな夢を見た。
朝から夜まで大窓の外をじっと見上げたまま微動だにしないで過ごす毎日。知らない間に眠っているのでそれが夢なのかどうかすらいまいちわからないままではあったがとにかく一人で空に浮かぶ星々をゆっくりと数えていた。
星座は人の空想、いつかのパーメニデスの言葉がもやんと脳裏に浮かぶ。
あの小さな光たちは本当はどこから放たれているのか、天文学は読んだけれどあれだって現時点では確証のない話だ。光の点の繋がりを神に模した最初のひとはなぜあれが神に見えたのか。こちらから見えているならきっと向こうからも見える。手を伸ばしたら届きそうなつよく光り輝く美しい星。見えるかな。僕のことが。
いつかかなうならあの場所に何があるのか知りたいんだよ、パーメニデス。
だってそこには居ると思うのだ。自分を助けてくれる、神様がきっとあそこに。信じる心がそこにあるならそれは真実。そう教えてもらったから。
クオンの心は未だに自身が救われることを、こんなにも夢見ている。
「…………」
冷たい床で目が覚めると薄明かりの空からは雨が落ちていた。
それから一日中、もう夜になってしまった今でも絶え間なくこの透明な檻に降り注ぐ強い雨。何故だかいつもよりもいやにはっきりとしてくる意識は恐らく起きている状態を保つ限界であった昨晩、身体が勝手に気を失ってぐっすりと眠れたせいだろう。
少しでもまともな思考に戻ると急に心細くてたまらないのはあんな夢のせいだ。
寂しい。誰でもいいから抱きしめて欲しい気分だ。けれど、もうこの世界で人と関わるだなんて図々しいことを思ってはそれこそ罰が当たるのかもしれない。たくさんの人を自分のせいで不幸にしてきたのは事実。このまま誰とも干渉せず死ぬまで動かないでいよう。誰にも迷惑をかけないここでひとり、こっそり死のう。
「…………う、……」
突如嗚咽が喉から漏れ出て驚いたクオンは、自分が泣いていることにたった今気が付いた。
さみしい。胸の奥から込み上げるのは一人ではどうしようもない孤独に怯えた本当の自分の感情だ。人の心を持った兵器は、兵器だとて人だ。温もりを思い出せば恋しくて涙もするし自らの咎を自覚して懺悔に苛めば誰に何にと言わず助けを請いたくなる。
クオンは死んだら人の精神がどこへ行くのかを、パーメニデスには聞けなかった。
なぜなら彼が自分よりも長く生きることはよほどのことがない限りありえないと思ったからで、そんな彼に死後の世界を問うのはあまりにも酷な気がしたからだ。
死んだらどこへ行く? 消え失せるのか? それとも死後の世界へ飛んでいく? そんなのは空想だと思った。無だ。死んだ魂が肉体と離れてどこかへ行くなんて想像できない。ただただ消えるのだとクオンはずっと思っていた。
死の直前、最後に思い得たことそれが人の終わりのすべてなのだ。
理解していたら尚更怖い。誰もそばにいない今、怖くて寂しいまま一人で意識を手放すのが怖い。目から溢れ出る死への静かな畏れがクオンの身体をがたがたと震わせた。
「助けて…………かみさま……」
死にたくない
そこへ、雨音の止まぬ暗闇を切り裂いた入口からのまるで閃光は、緩慢に振り返るクオンを鮮やかに照らしだす。眩しくて何も見えない。目を細めてその光に手を翳すクオンは掠れた声で問うた。
「だれだい……」
音を立てずに閉まった扉から素早く迫る人影がクオンのすぐ側まで来ると、深い慈悲の声にも聞こえた。低く「立てるか」とその声は言った。
「……ん、?」
「何で泣いてる? 来い。助けに来た」
「た、……たす……け、に……」
「あんまり悠長にもしてられない。俺はゴウトから来た。ナーヴを侵略するには天子の解放が必要だと思っている。ああ、別に仲間になれって言っているわけじゃない。けど、……いや、細かい話はあとでいいか。行くぞ」
問答無用で腕を引かれてわけも分からずそれに従ったクオンは「助けに来た」という言葉の意味をまわらない頭で必死に考えた。
廊下の明かりに目が眩んでよろけると、躊躇しないで抱き留めてくれた身体の熱に心底安心している自分がいる。でも、助けに来た? 僕を。なぜ。
「お前が天子か」
変わらぬ慈悲の低い声がそう言うからにはこの男はわざわざゴウトから天子を、助けに、来た、そういうことになる。疑念もあるが正直なところクオンの疲弊しきった感情ではとにかく嬉しくて嬉しくて、この男が誰であろうとどうでもいい、今にも縋り付いて抱き締めてもらいたい衝動を我慢するのに必死だった。
嘘でも今だけでもいい。どんな目的でどんな扱いを後で受けることになろうとも、この男が自分を助けに来てくれた、その事実だけで今のクオンには十分だった。
廊下を進むと見張りの衛兵が数人倒れているのが目に入り、こんな時でも殺したのだろうかという疑問がわいてくるのにはさすがに嫌になってしまった。逸るクオンの気持ちにストップがかかる。
「……そう、だけど、…………クオンだ………」
「……クオン。そうか。そろそろ泣くのをやめろ。俺が必ず助けてやる。外に仲間が待っているからそこに合流する。あー、あと、水泳は得意か」
「……すいえい……?」
「苦手か? ちょっと潜るぐらいだから俺につかまっていればすぐ済む。水路を抜けて外に出る」
「……あ、……あのね……」
「うん?」
クオンはぎゅっと強く握られた手の温さにとくんとくんと心臓を動かされている感覚がはっきりと分かる。人を殺すしか能のない殺戮兵器の自分だけれど、人の心がどれほど貴くてその命がどんなにか重たいかを知っている。全部失ってきたけれど、全部取り返せないけれど、それでもその元凶である自分が他人に助けを求めてもいいのだろうか。
助けてくれとお願いしても、このひとに、頼っても、
「…………」
「どうした」
同時にクオンは怖くなる。
こんなに強い人だけれど、天子と、ナーヴと関わったことで不幸にしてしまう確率は残念だがとても高い。
だからどうか、心優しきメシア。
もしもいつか一つだけ望みをかなえてくれる日が来るのなら、どうか、どうかその時は。
「……」
「……」
「……僕を、……殺すのかい」
意を決して見上げた瞳。泣くなと言われたのでそれまで必死に堪えていた涙が目の淵から零れていってしまった。深い夜の様で不思議な色だと思わず見惚れたクオンはその目に宿った確固たる強い意志にもはたまた深い欲望にも見える強引な光にただただ圧倒される。
「そんなわけあるか。助けると言ったんだ。ちゃんと聞いておけ」
「…………君は……? どうして僕を……」
「理由もさっき言ったんだがな。まあ、強いて言えば」
英雄だからだ、と吐き捨てるようにそう言った自信に満ち溢れるその表情は紛れもなく英雄そのものの顔であった。
かつてのカバネのその顔を、クオンはその後千年も先になってしまったすべての終息のその時まで片時も忘れたことは無かった。
もしかしたら、とクオンは今になってふとこの時間のことを思う。
もしかしたら僕は、この時から長い長い夢を見ていたのかもしれない、と。
カバネ
……ん
帰ったらまた……今日みたいに僕と話をしてくれるかい
……。するさ。お前がそうしたいならな
だから、今更になって多くを望むのは流石に許されないかと、永かった夢の日々を終えんとするクオンは淡い光の中でそっと一人目を閉じた。
死とは、生きている限りいつか誰にでも例外なく訪れるもの。
なら、自分が迎える時には一体何を思うのかをずっと想像していたクオンだったが、存外何をも思えないものなのだと苦笑する。
疲れた。もう何に遠慮することなく、やっと自分の感情に素直にそう思えたことでクオンはクオンなりに今まで背負ってきた全ての肩の荷がおりた気がしてなんだかとても楽になった。
もしも本当にここまでが夢だとしたなら次に目覚めた時隣にいるのは誰だろう。
消える直前やはり思い浮かべた夜色の強い目が、クオンがクオンとして記憶し得た最後の想いとなったのをハッピーエンドと呼ぶかどうかは。
夜行
Episode01穴に還る(プラセル)
腹がいっぱいかと聞いている。
一体この世界がどうしてこうであるのかなんて、地獄に生まれ落ちてからは一度だって考えたことが無かった。
正確に言えば考える余裕が出来た頃には後戻りなんて出来ない程に世界は血に塗れ自身の両手は大変汚れていたしそれに考えたってどうせ明日は来る。明日が来るということは腹が減る。
生きるとは殊食わずしては成り立たず、守るのもまた然り。
今日を凌いだら明日が凌げるわけじゃなく明日を凌いだらまた明日を凌がなければならない。食うは生きるなら生きるは、
「アハハ、そう、どーせ死ぬよお。けどボク達だって何も死ぬために生きてるわけじゃないんだよねえ。そりゃ全うに幸せになりたいに決まってるじゃん。なれないからムカついてんだ、ろお!」
生きるは、なんだと言うのか。
(穴に還る)
常日ごろ感じているこの消えない苛立ちの根源を紐解いたら間違いなく一つは空腹に違いない。死んだ土地の死んだ世界には生きたものなんて無論何一つない。他所から奪った金品を媒介にして他所の生きた土地からもいだ命を喰らって生きていく。地上第一二地区。ここに踏み入れば生者はあっけなく明日を盗られ死神の糧となる。黒縄夜行の名の元に。
縄張りの徘徊中、プラセルは勢いに任せて振り回した大きな獲物にひっかけたこうふくないきものの残骸をぼんやりと見つめた。商人か。肌さわりの良い布の中からはいくつかの宝石と弾薬と金が出てきた。一瞬オルカの怒った声が聞こえたが瞬きをゆっくり三度してやり過ごす。すこぶる機嫌が悪かった。軽口も言いたくないほどに。
「…………こう、…………奪ったら移し替えられたらいいのにねえ、いのちさー」
荷物を一つずつ袋に投げ入れながら無気力な独り言をぶつぶつとし散らばった肉塊の一個を蹴りつける。途端、耳の奥で今朝まで泣き止まなかった穴の底からの命の叫びが響いてプラセルは動きを止めじいっと空をみつめ黙った。
この世界は理不尽だ。
ぽとんと産まれ落ちただけでは決して生きていけない無垢な赤ん坊。死んだ土地にとっては間違えて授かったようなもので飢えて死ぬか母体が先に朽ちるかどちらにせよ遅かれ早かれ言葉をしゃべる前にはあの穴へ還るだろう。
正解なんてないが選択としては間違えていない。自分一人の今日の食事もままならないのによわいいのちをどうして守ることが出来るだろう。
誰がいれたかは分からない。その気持ちも責められない。ただ、こんなに大きな月の下、暗い穴ぼこに投げ入れられて深い深い死の底から助けを呼ぶ生きたその声を誰が許してくれるのだろう。誰が報いてくれるのだろうか。
プラセルは一晩中穴の淵に座ってずっとその声を聞いていた。すると次第に助けてじゃない、悲しいじゃない、ただひたすらに腹が減ったと、そう聞こえた。
折角生まれ落ちたのにこんな地獄で、可哀相だよなあ。
「かわいそうだろうが、ボクたちは」
ふいに背中に鈍い熱を感じて咄嗟に大鎌を振りぬく。躊躇なく胴から真っすぐに切り離された下肢の脆弱さには思わず驚いて目を瞠る。小さな手に握られたナイフの切っ先はまごうことなきプラセル自身を傷つけていたのに殺めた命の重さに一瞬だけ絶句した。
どちらかが重たいかの天秤なんてない。そうさ、ボクたちは生きている。殺されない限り。死なない限り。だけれどいつか死ぬんだろう?
今じゃないだけで、いつか、いつかは。
ああ、確かめないではいられない。生きている熱。流れる血液の絶え間なく循環する鼓動の音。死ぬのが怖いなんて思っていない。ただ、ただ、じゃあどうして今こんなに必死になって空腹を満たそうとしているのかを考えるのがひどく辛い。
明日の無い夜行にとって意味のない命なら、どうしたって消えゆくばかりならせめて一人でも多くの幸福を喰らう。このしょうもない理不尽を腹いっぱいに満たすしかない為に。
「……ヴィダ…………」
纏わりついて離れない死への絶対的な不安をかき消すその名がプラセルの今日を一体幾度救ってきただろう。この世界で強くあることがあんなにも美しいのだから、この世界では弱くあることがどれほど醜いことかもよく分かる。心の隙間を埋めてくれるのはいつだって強さで強くありさえすれば、死神だって殺せる。だからもちろん神様だって。
ヴィダが最強でいる限り、黒縄夜行は死なない。仮に奪わなくていい世界になったとしても滅びる定めは変えられない。
ならばいつか夜行が滅ぶとき世界に一つの影響もないのだとしても黒縄夜行が今を生きている限り運命を受け入れるために残りの命を生きている。奪って食わねば朽ちる。生まれ落ちても幸福を知ることを許されない可哀相な生き物だけれど還る場所はたった一つ。
強くても弱くても偉くても惨めでもあの穴に還るのが黒縄夜行に生まれて生きる意味である。
Episode02ディアネイキッドロード(夜行3P)
この世界に神様なんていない
人を殺すのに抵抗が無くなったのはもう随分昔の話になる。
それは黒縄夜行が全うに生き残る術を模索出来なくなったのだということを理解したと同時に生き物ってのは生まれたらどんな生き方をしようが絶対に死ぬ、何があろうと無かろうと偉くても惨めでも幸福でも不幸でもいつかはみんな死ぬのだということに漠然と安心したからだと思う。
だから、どうせみんな死ぬのなら贅沢していい暮らしをして幸福をいっぱいいっぱい知ってる奴から死ねばいい。だって、この世界の幸福の取り分はあんまりな程アンバランス。殺されたってもう十分だろう。一生贅沢を知らないで死んだ人間よりかはきっとずっと幸せなんだから。
それに、幸福な人間が憎いと思うのにだってちゃんと理由もある。温かいベッドで好きなだけ寝るとか美味い飯を腹いっぱい食うとか好きな人と愛し合って結婚するとか他の地区の暮らしを知れば知るほどそしてそれを想像すればするだけ羨ましくて妬ましくて、ずーっと欲しくて欲しくて仕方がなかった。
幸福な奴には多分夜行の惨めさなんて微塵も想像出来ない。奪い殺すのを嫌がり挙句飢えて死ぬ仲間、そうでなくとも厳しいデスゲームに敗れてしまえば否応なしにあのでっかい墓穴に逝く様を幾度も幾度も見送った。
投げ入れる側の顔。落ちていく死人の色。常に漂う死臭の中で眠り生き月に憂え朝日に怯える夜行のことなんて夜行以外の人間にこれっぽっちも分かるはずがないのだ。
羨ましい。飢えの危機に、寒さに怯えずただ毎日が繰り返される平穏の中に居る人が。世界は不公平なのにそれに気づかずのんべんだらりと暮らす人が。
何が平和だ。何が地上だ。そんなことはとっくの昔にどうだっていい、どうだっていいから、幸せになりたい。
幸せになりたい。ただそれだけなのに。
(ディアネイキッドロード)
ドン底を知らない人間が「貧しいなりにものうのうと物を売ったりいい食い物ではないにしろあるもので腹八分目に食事をする」のを殊勝としている様を想像するとプラセルは心底吐き気がした。
それで自分達は贅沢なんてしていないし人を殺さずとも生きていけるなんて神の十字架片手に言う。最もあるもので我慢するなんて綺麗事、あるものが無い場合には丸っと通用しなくなるなんて思いもしないのだ。
主観が既に贅沢だ。これみよがしに偽善ぶってああ気色悪い。まあ、世の中にはもっと贅沢で汚らしい人間なんていっぱい居るから殺す沸点に達するには優先順位は低いけれど。
「神はあなたの行いを見ておられる」
「はいはい。ぶるぶる震えながらやっと言う言葉がそれかあ。神、助けてくれるといいね~」
「ハハ、てめーの神は昼寝でもしてんのか? 随分のんびりしてやがる」
「ダ、アラ、オオオイ、神父様めっちゃイイもん持ってんじゃん!!!!!!!よくぞこんなとこ通ってくれましたな!マジ神はおめーだよ!今日はちっと贅沢できるかもしれないな!」
「エー、マジか~! 肉~~?」
「プチ酒池肉林」
「ぷちしゅちにくりん? は?」
「あ」
オルカと一緒になってはしゃいでいる間に何やら神父がアーメンと十字を切って首から下げたクロスを齧った。途端震える身体はみるみる硬直し紫色に変色した唇からピンクの泡が零れて間もなく実にあっけなくこと切れた。
そのあまりの瞬殺っぷりがツボだったらしいヴィダが大斧をぶん投げ腹を抱えて笑いだす。
「慈悲もねえ神だったなっ、たまんねえや」
「げえー、自害用の毒物首からぶら下げてる神父とかおっかなすぎるだろ」
「趣味悪すぎ~。てかヴィダ笑いすぎじゃない?」
「ハア、ホンット、くっだらねえなこの世の中はよ。何が神だ。いるんならぜひ出て来て欲しいもんだぜ。俺がまとめてぶっ殺してやる」
涙まで流してくつくつと笑うヴィダがそう言うのには地味に説得力があった。
だって夜行に選ばれた唯一の人間であるヴィダならば神だろうが悪魔だろうが躊躇なくまた簡単に殺せる様な気がした。この世界に生きるうえで自分達に黒縄夜行つまりヴィダ以外の信仰は必要ない。もっとも、黒縄夜行にとっては神も同然の存在は血族の死人である。
これが穢れるぐらいならば滅びを選ぶキチガイの血。繁栄はよもや望めない。なら求められるのはただひとつ、穴に潜むいちにんめから選ばなかった或いは選ぶことを許されずに朽ちて行った結末の変えられない未来への高い高いプライドだけだ。
それに報いる為このうちの誰かが夜行の最後の一人になったとしても奪い殺し必死になって生きる。
それが黒縄夜行に、ひいてはプラセルとオルカがヴィダに集う理由であり、暗黙の了解なのだから。
その晩、帰るなりプラセルに金貨一枚を握らせたかと思ったら一人さっさと酒池肉林しに隣街へすっとんで行ったオルカをよそにどこに行って何を食べようか飴を舐めながらぶらぶらしていると寂れ死んだかつての繁華街の暗がり、紫煙の燻りと共にしっとりと女の匂いが漂った。プラセルは驚いて思わず立ち止まる。
「…………珍しいじゃない。こんな所通るなんて。もしかしてお金入ったの?」
「ええ、……あー、ちょっとだけ。やろうか?」
夜行の女は直接的に殺す奪うでの生きる術を持たない。数少ない男手で出来る限りの施しをしているつもりでも、現実、素性を隠して街で身体を売り日々を凌ぐ者も少なくない。みな一様に夜行のプライドを持っているせいで心や身体の傷より生きる事を優先させてしまうのは仕様のないことなのだとは思う。
他とは交わらない。言葉だけを貫くにはこの世界はそれほど甘くもないお陰で絶やす為に生きるわけじゃないならば自身だけでも絶やさない為にはどうにかあるうちは生きなくてはいけなくて。
女が咥えるパイプの煙は確かに嗜好品だが贅沢している身体には到底見えない。寒そうなシャツをひっかけ薄い化粧、汚れた身体で何をも諦めた様に佇む夜行のオンナは強いのか弱いのかプラセルには果たして分からなかった。
「いいの? せっかく贅沢出来るのに。アンタ言ってるじゃないいつも、ぜいたくするまで死にたくないってさ」
まるで男への触り方しか知らない痩せた手がプラセルの頬をそっと撫でるので優しく払って金貨を差し出す。揺蕩う煙のせいで意識がどろりと甘い匂いに浸る感覚に本能でツバを吐き捨てる。よく躾された腹の奥が疼く。
「ふん、贅沢したら死ぬかもしれないしね。贅沢一個、譲ってやるよ」
金貨は女にとって一体どれほどの価値があるだろう。食うにはまさかしばらく分は足りるだろうしオルカのように一瞬でも贅沢するならしたらいい。欲に天井なんてない事を知っているから何が人の贅沢かなどプラセルには良く分からないこともたくさんあった。
うつろな目のまま何も言わない小さな唇を引き寄せると口の中で転がしていた飴玉を口移す。昼間の神父から奪ったプラセルにとっての贅沢のひとつである。分け与えるのはエゴかもしれないけれど純粋に可哀相だと思った。だが一ミリも気持ちよくも何ともないのに口同士に唾液の糸が引くのは解せない。プラセルはやっと路地から身を引き纏わりつくいやな煙から這い出た。
「くッさいなあもお。最悪。お前もボクもまだ死ねないよお。幸せ気取ってる贅沢なヤツらをもっともっとコッチ側に引きずりこんで世界のバランス取ってやらなくっちゃさあ」
「……ソウネ」
「守ってやるから、疲れたんなら寝れば。どうせ報われなくてもそうじゃなくても最後は死ぬんだから」
「なら一緒ね。アンタと同じ墓に入れるんだから夜行に産まれて良かったわ」
「…………死んだあとのことなんてどうだっていいよ」
逃げる様にしてそそくさと背を向ける。いやな煙。いっぱい吸ったらいけない毒の味がした。お小遣いだけじゃなく理性をもなくしそうにされてプラセルは既に若干まわらない思考のまま仕方なく塒に帰ることにした。道中歩くはずみで巡った血に乗る誘惑の紫煙。すっかりぐらぐらの性に蝕まれた頭だ。喉が乾く。水が欲しい。腹は減っていたはずなのに今はもう下腹の奥で待ち焦がれるしつこい快感の記憶だけが脳内をいっぱいに満たしているせいで欲の居所がすりかわりたちまち強い性衝動になりかわる。
けれど今帰ったところでオルカはいない。オルカがいないから、じゃあ、あれ、どうしたらいいのか、……プラセルには分からなかった。
「……、……」
ひどい眩暈がする、とにかく水が飲みたい。おかしなほどに震える手が遠く遠くから濁った川の水をやっとこ引いている蛇口の栓を全開にする。どうにも飢える。喘ぐほど乾く。渇望に脳内が塗りつぶされどうどうと流れる薄く茶色がかった濾過のされていない泥水だったがそこに口をあてがい一心不乱に喉を鳴らして渇きを満たす。
煙は粗野な造りの強い薬物だった。鼻腔の奥でじっとりと甘い匂いが離れず堪らない。痺れる様にして股間に熱が溜まっていく。同時に奥に触れられる快感を知っているからかみぞおちの真下より深いところが小さく痙攣し始めているのがぼんやりと分かる。そして次には気が狂いそうに寂しくて寂しくて悲しい気持ちへと叩き付けられている。誰かに触っていたい。どんなに詰られてもいいからどんなに酷くでも構わないから人の体温に触れていて欲しくて仕方がない。
死人は冷たくなる、だから死にたくない、たまに贅沢したぐらいで、殺されたくなんてない、羨ましい、羨ましい、奪わなくても贅沢できるニンゲンが、心の底から羨ましいから、だから、殺してやりたくなるのだ。
「ころす、殺す、殺す……! 羨ましい、むかつく、ボクだけが辛いなんてイヤだ、可哀相だろお、みんな殺してやる、不幸になれ、全部、ぜんぶ……! 死ね、死ねよお……」
気が付けば濁った水と胃液だけが喉からげえげえと零れた。悔しくて苦しくていつの間にか声をあげて泣いていた。寂しい、羨ましい、助けて欲しい、この地獄からボクを、夜行を、どうか、いるんなら、なあ、神様、
「!」
突如前髪を乱暴に掴まれてその鋭い痛みにハっとする。微量ながらも強烈なフラッシュバックに苛まれていたプラセルが思い出した様にして必死に息をつぐ。
「あ、っ……ぐ、う……」
「ああ……? 何してんだお前。アホみたいにキマってんじゃねえぞ」
「っ……ヴィ、ダ……」
「あの短時間ぶらぶらしただけで盛られたのか。さすがに馬鹿すぎんだろ」
ベチンと力一杯頬をひっぱたかれて確かにめちゃくちゃに痛いのと腹の底から気持ち悪いのと怖くて寂しくて羨ましくて寒いのが同時にプラセルの一つしかない口をせめぎ合った。ぱくぱくと餌を待つ魚みたいになるのでひとまず呼吸だけでも頑張ることにしたのに意識すればするほどどんどん息が狭くなって苦しい。ヴィダがまた頬をひっぱたく。
「ぶっ殺されたくなきゃアあと一回ぶん殴るうちに息ぐらい自分でしろ。みっともねえ。たく、いつまで経ってもめんどくせえクソガキだなお前はンとに……」
純粋にあと一回はたかれるのを嫌だなと思った次の瞬間どうやら無意識にいじってしまっていたらしい丸出しの前をびっくりするぐらい強い力で握られてプラセルは犬みたいにぎゃんと鳴いてしまった。
あんまり唐突なことだったので勢いで射精してしまった挙句ついでに盛大に失禁してしまう始末、それでもヴィダは濡れた手を緩めずぎっちりと握ったままに最悪だなと嘲笑う。
「お前あんだけ人殺してスッキリした♡とか言ってんのに精子もたまんのか。随分面倒なチンコだな。ねじ切っちまうか」
「ン、ウ、ヤダ……マジトーン、怖いからあ……」
「至ってマジだが。オルカがいりゃあ死ぬまでヤッてもらえたのにな。馬鹿で可哀相なプラセルクンだな」
「ア゛っ……、だめそのまま、きつい、キツ、イく、ぃ、」
鬱血しそうな程にきつく掴まれたままゆっくりと根元に向かってヴィダが手を滑らせる。オーガズムを捉える寸前の限界値の苦悶にいやいやと泣きながら首を振るプラセルなのに今度は根本から微塵も動いてくれる気配がしなくて戦慄く。完全に堰き止められる快感、先程から期待しているのか腸液をだらしなく床に垂らし痙攣する腹の奥には爆発しそうな何かが今もどんどん溜まっていくのが分かる。解放されたら張り詰めた溜まりはたちまち破れる。破れたら間違いなく全身に巡り零れるであろうその甘い衝動が怖くて怖くて仕方ない。浮いた腰ががくがくと揺れた。
「っ……あ、も……もう、」
「なア? ちゃあんと聞けプラセル。お人よしも大概にしろよ。変なもんにハマったらそれは死んだも同然だ。生きたまま穴に蹴落としてやるから勝手に死ぬまで狂ってろよ」
「ぃ、っあ、やだ、……ううう、う、イ、はなしてえ、離してっ……」
「汚え女とヤんのも一緒だ。夜行のプライドを捨てた奴に同情すんな。触んな。見ろ、こんなに弱くなる」
瞳孔の開いたヴィダの目が真剣にブチ切れているのを察したもののもうこのままだとちんちんが死ぬか腹が爆発するかそれとも頭の血管が切れて死ぬかの絶対どれかだとプラセルは震えた。もう死ぬからやめてと訴えたいけれど今はヴィダがめちゃくちゃに怒っているのでそれも言ったらいけない。こういう時は反省している事を分かってもらうためにじっと黙っているのが効果的。対処法もこの通り分かる。ちゃんと分かっている。分かっているのだが。
「っヴィ、ダあぁ、ボクのぢんぢん血が止ま゛っ゛て゛る゛う゛ナカでもイッちゃうきもちいのもうヤバいからしんじゃううう助けてええ」
「………………クッソビッチが」
青筋を浮かべつつ呆れた風に苦く呟くヴィダの手がやっとこ根元から離れたと同時に強烈な最後の一打がプラセルの右頬を殴るのであった。
「オー……さすがの絶倫ゴッドハンドの俺様もキメセク野郎のガンギマリ具合にゃ疲れてきたわ。ヴィダ交代」
「知るか。捨て置け。さもなきゃ穴にぶちこんでこい」
「え~~やだよ~よちよちサミシイなあ~プラセルウ~ダメだろお~クスリなんてひろってくっちゃ~~」
一体幾度体位を変えたところで軽く四時間以上はずっとセックスに没頭しているのにプラセルの乾きは未だ満たされない様子、普段食事を摂るテーブルに仰向けに乗せられたまま声なんて出ていない、もう半分意識が無いぐらいの勢いでそれでもまだか弱く離さないで寂しいサミシイと零す。
たまの酒池肉林を浴び深い時間に帰ってきたら何故かプラセルが一人でしっかり出来上がっていたので面白半分で付き合ってやっていたオルカだったがここまでくると最早心霊現象だ。憑りつかれている。人形みたいにぐったり身体を開いたまま、がばがばの入口からは永遠にオルカの精子が零れ落ち、萎えないでずっと反り返ったままの前からなんてもう何だか分からない液体が水みたいに出続けている。
こりゃもう人間に非ず。ひどい様である。ヤクブツってーのは怖いなあ~と半笑いのオルカがうつろなプラセルの腹を撫でる。
「ダハハ、俺の日々の開発が無ければこ~んなキマることも無かったかもな」
「元々だろ。人殺して精通したぐらいだからな。そろそろ脱水で死ね」
「才能オオアリだったわけだ。ママがおみじゅの時間でちゅってよプラセルくん~~~~おくちあけてください~~~~~」
「こんなアホ産んだ覚えはねえ」
赤く腫れていた頬を軽く叩いてオルカがそう呼ぶと熱っぽい唇が小さく開いてゆらっと上がった両手は力なくオルカを求める。
抱き起こし数回に分けて口移す間も奥深くまで繋がったまま、口が交わる度にビクと腹を痙攣させオーガズムに酔いしれるのだから呆れるより他ない。
「ああーー重てえ、しがみつくな」
「ン、やだ……離れたらサミシイから……」
散々喘いでがすがすになった声でまだサミシイと言うプラセルはオルカの首にがっちりとしがみついたままその先で我関せずとハンモックに揺られているヴィダに向かってまで手を伸ばした。
朦朧と揺れる瞳。強い性の麻薬に癒着され蝕まれたプラセルの一際弱い部分を惜しげもなく曝け出す。
「ヴィダも…………寂しい、こっち来て……」
「うぜえな。命令すんな」
「だめだめ~ヴィダ様はおインポなのでセックスじゃコーフンしませんってよ」
「ハアアアアン? オイコルァオルカァ。誰がインポだアア?」
「ヤアン! オァ、あいでででででででウマジで髪はダメ抜ける禿げるやめろってえええ」
「あ? てめーのこのクソひりだすしか能のねえ立派なケツ穴に拳食わすぞゴルァ」
「ギブ! ギブ!! ハ、ハア、ハア、待て俺の頭皮ッ……血出てない!? イッタア……コッワ……」
「……っ、来たあ、嬉しい、……触って、ここきて」
オルカのケツに渾身のローキックをかましにやってきたヴィダの手をすかさず弱く掴んだプラセルがああさも心底幸福そうにぽろっと涙を零してまで笑うのにはオルカもヴィダも目を逸らし揃って床に唾を吐く。
やれ転んで泣き喚く歳からプラセルのことを見てきた。初めて人を殺した日の夜は「これで二人に置いていかれなくていい」と心から高揚し嬉しいと思ったそうだ。なんて残酷な一歩。されど殺さないで生き伸びるにはあまりにもこの世界は厳しく険しい。夜行の流れに逆らえない自分達はどうすることも出来なかった。
惨状を前にしても気が付けば二人の真ん中で二人の手を取り嬉しそうにほほ笑むなんてことが普通に出来るのがプラセルだった。おまけに寂しいだの悲しいだの可哀相だの辛いだの地獄に生きるには不必要ないらないものばかり持っていた。
まともな思考でそれを持っていたらとてもじゃないが夜行で生きてはゆかれない。生き残る為に必死になって削いで剥がして憎しみに変えそれでいて残ったのが奪い殺し堕とす快楽だけだなんて全く笑えなかったのだけれど。
「ハア。我ながら突っ込んだままで言うのもアレだが激萎えゲロ案件だな」
オルカはそう言うが幸か不幸かプラセルはべろべろの陶酔状態、まずもってここが夜行だなんて今は微塵も思っちゃいないのだろう。明日の飯のこともこれからの自分達の生活のことも忘れオルカとセックスで繋がりヴィダが側で触れていてくれるたったそれだけが嬉しくてほほ笑むだなんてああ、なんて地獄だ。
同時に仕方がないともヴィダには思える。
だって実際に現実問題、正真正銘ここが地獄だということは夜行である限り死んだって生きていたって変わりのない事実なのだから。ならば簡単な話だ。
「ハアーーーー、仕方ねえなア。チンカス相手じゃ勃つモンも勃たねえが、特別に相手してやるか」
「ええええ????? あま……?? どこでヤル気出たんだ????????」
「まあ、地獄だったらなんなんだって話だぜ」
「え???????? お前が一番地獄だな??????」
俎上の鯉たるプラセルの腰を掴んだまま困惑した顔のオルカはさておきそうと決まればさっさとズボンを下げ意気揚々と鯉に跨るヴィダである。お漏らし状態のだらしないペニスを引っ掴むと自らの入口にあてがって躊躇なく押し込んでいく。
性欲などなんのことやら生まれる時にマリアの腹に置いてきた。繁栄に関さないセックスなんてくだらなくて反吐が出る。特段なんとも思わないしそもそも感じないので苦痛も快楽もこの身体ではよもや知ったこっちゃあないけれど。
だがまあただ一つ、壊れたなりに理解したことがあるとしたらここが地獄なら地獄なりに楽しめばいいだけのこと。何故なら死ぬまで滑稽に踊るのがここに産まれた人間全てに与えられたたった一つの役割。それを全うするのが務めなのだから。
「っ、ぁ……」
一方、急に根元まで一気に食まれキツく締められるというひどい仕打ちにプラセルの焦点の合っていなかった朦朧とした視線が心なしハッキリとヴィダを捉えた様にも思う。弛緩しきっていた身体が急激に強張ったのをヴィダはさもつまらなさそうに一瞥する。
「おい全っ然何も感じねえが。もっと腰振れプラセル」
「い、いいたいいう、ウウ吐きそ……具合わるい、てかキッツ、うっ頭いたいい……ウ……、ヴィ……」
「今更素面に戻ったところで許さねえぞヤリチンが」
「いいいいたあああああううう何なにもう何これいたいいたいいたいっオエっ」
「……」
目を丸くしたオルカはよもやこの汚らしいとも言えるであろうプラセルとの身体の関係性にいとも簡単に割入ってきたヴィダの冷たい背中をしげしげと見つめていると何だかあくる日の夜行の在り方を懐かしく思い出した。
今よりももっと人が居て今よりももう少しは活気があった。生きるのがしんどい土地に変わりは無かったけれど頼るべき人が居てヴィダも多少人間味のある顔をしていた気がする。許されていたのだと思う。決してあの頃は自分自身の責任だけでは生きていなかった。
歳を経る度自分達の前に立つ背中が少しずつ減っていく中で呪われた冷血人たる地上の悪鬼と言えども背負った重たいものにそれなりに傷ついてきたのに違いない。
飯が美味いと言わなくなった、浅い眠りでいつも一番に目を醒ました、果てに射精を必要としない身体になったヴィダが、これ以上捨てられるものなどもう恐らく何も無いのだろう。あとはその身が擦り切れ無くなってしまうのをただただ最強の名の元に待つだけの惨めな踊り子。
だからこそヴィダはプラセルを見た目よりとてもとても大事にしている。まるで自分の心みたいに、下手をしたら夜行よりも。無論、オルカだってそれに近しい気持ちが分からないでもない故に弱いものから死んでいくのがセオリーのこの世界でそうならないようにいつだって細心の注意を払っている。
この先もきっと人を捨てたヴィダが気まぐれにでも身体を許すのなんてプラセルだけだ。
死んだら必ず同じ場所へ。繰り返し繰り返し呪いみたいに唱えた夜行の運命は暴力的で束縛が酷く決して気持ちよくはない生き方だけれど生まれたら必ず死ななければならない人間にとってみたらもしかしたらこれほど慈悲深いことは無いのかもしれない。
誰が先に死んでも誰が後に残っても、還る場所はたったひとつ。ならば寂しいはずもないのだから。
「うう、やばい、しぬ、くすり切れてきたからあ……あたまあ、いったいからあ……もおやめてえ……あのオンナまじでぶっ殺す……おかねかえして……」
「お前金までとられたの? どんな悪女? よかった? ところで俺はヴィダ様に触っていいのか?」
「あ? てめーは触ったら殺す」
「……オーマイロード……アーーメン……」
今更十字を切ったところで救ってくれる物好きな神などいやしないだろうが構わない。我らが揃って信仰する親愛なる裸の主は夜行唯一の「喜び」にあるのだから。
Episode03ビットマップ(オルプラ、プラヴィ)
ヴィダはと言えばいつも片足を立ててつまらなそうに食事を摂った。
肉も魚もパンもリンゴもヴィダにとってはただの「食い物」でありそれ以下でもそれ以上でもないようだった。
腹は減っているのだと思う。骨格こそ細いがぎっちりと詰まったひとつの無駄もない筋肉は飢えと死への抵抗の賜物だったがその過程のうちに欲のひとつも顔に出せなくなったのは日々がどんどん黒縄夜行を蝕んでいる、つまりヴィダという存在を少しずつ少しずつ食い殺しているからに違いなかった。
まだ夜行にも人が多くいた頃は組織としても成り立った。性質上かなり早くから人を狩る術を知った幼いヴィダよりももちろん、強い人間だってかつては居た。
その頃に比べたら今は死んだも同然のツラばかりしている。本来のヴィダは飯だってもっと美味そうに食えたはずなのに。
「久々の肉うまいなあ~。ねえヴィダ~~。ボクさ、今日さあ? 何人やったと思う?」
「あ? 知らねえ。五億人ぐらいか」
「…………」
「五億ヤったらさすがの俺もびっくりしてやるよ」
「いやだってさ、それそんなに地上に人いなくない?」
対するプラセルなんかは昔よりも随分身体もでかくなったしおつむは一向に馬鹿だけれどさすがは悪鬼が適当なりにも面倒を見ただけはある。
そっちの仕込みはヴィダが全てだったが飯の美味さと布団の温さ、それからセックスの良さという人並みの欲の植え付けだけは煩悩の尽きない人間らしさの塊であるオルカの入れ知恵だった。
「ま、どんだけ居たってどうせみんな居なくなる。関係ねえだろ。邪魔する奴は全部ぶっ殺しゃいいんだよ」
「そうだけどさあ……」
やれ天候に邪魔されてあまり上手くない日が続いたが三日ぶりの肉はここ数日の厳しい寒さにあてがうエネルギーとしては十分だ。機嫌悪そうにむっつりと喋らなかったヴィダも今日は軽く笑ったりなんかしている。
たったそれだけだがきっと、プラセルは嬉しいのだと思う。
「ヴィダあ?」
「何ださっきからうるせえ」
「肉食ったしセックスしよ~」
「断る。オルカに突っ込んでもらえ」
「えーーーーーーー、ヴィダもしようよー。なあオルカ?」
「あん? ほら、見たことか。言った通りだったろ? よくもまあとんだクソビッチに育っちまって俺は心底悲しいよプラセル」
「アハハ、そりゃないでしょー。誰のせいだってのな」
皮肉交じりにせせら笑うその口は既にじっとりと熟れた性器のようだ。鶏の脂のついたぎとぎとの指を丁寧に舐める仕種は紛れもない性的な色を漂わせ、淡く期待する澄んだ目が人の本能である雄の生殖衝動をどうしようもなく上手に煽り立てた。
「ハ、……ほんっとくだらねえ」
即座にむらっとしたオルカの真正面でそう呟いたヴィダは興味のひとつもなさそうにして丈夫な白い歯でがぶりと鶏を齧った。
(ビットマップ)Ⅰオルカ
「…………あー、…………」
月がてっぺんに昇る頃、蓄えと言うには少々頼りないチップを数え生きていくための様々な数字を日々緻密に割り出す。それは三人のうちオルカだけが担う役割だったがこれを見誤ると下手をしたら数週間で三人とも野垂れ死ぬことになる。
動くためのエネルギー、底の見え隠れするギリギリの動力と最低限度満たしてやらなくてはいけない精神力とのバランスを細かく管理し調整する。精一杯なのは仕方がないのでせめて冗談を言い合える程の余力ぐらいは今ほど最強とは言えないその頃の自分達には必要だった。
やれこの分だといいところひと月。ただでさえ育ち盛りのプラセルは言葉にこそしないがいつも腹をぐうぐう鳴らしながら寝床に入っている。もっと腹いっぱいに食うには或いは食わせるにはどうしたらいいだろう。
そんな悩みの尽きない深夜のオルカの頬杖にたびたびプラセルはやってきた。
何をしに来ているのかを聞いたことはないが何となしにくだらない話をぶつぶつしていったり黙って金を数える手を見ていたりかと思えばたまにそのまま眠ってしまうこともあった。
「オルカ……」
呼ばれて顔をあげると今日はやけに青ざめている。というかよく見たら下半身が丸出しだった。
「……何してんだ……?」
「っ……オルカ、ボク、病気かもっ」
「ああ……?」
「ちっ……」
「……」
「ちんちんから膿出たあ~~~~!!!!!」
「……? はあ……ナンダ……」
大げさに肩を竦めたオルカを見てプラセルが必死の形相で首を振る。
「なんだじゃないよ! 死んじゃうのかっ……!? ちんちん腐る!? 切り落とす!? 痛いかなあ! ?」
「揺するな揺するな。はは、あー、もうお前もそんな歳かあ。死ぬかもなあ。手遅れになる前にヴィダに切ってもらってきたらどうだ」
「エエっ……ウ、し、死ぬよか、マシ、だよね、ウ、怖い、ちんちん切ったらおしっこどこから出すんだろ……」
「ダハハ、いの一番にしょんべんの心配かよ、お前はほんとに大物だな」
面白半分で身を乗り出して濡れて光るプラセルの精通の光景を眺める。発育に十分な栄養が足りていないからか平均よりは大分遅かったと思う。だが迎えてしまったからにはプラセルは今日から死ぬまで一生、残せないくせに種だけは元気に作られるわけだ。滑稽な本能だ。おかしくなるほど。オルカは自虐的に笑ってからソファに腰かけた。
「まあ待て。俺が先に見てやるよ。治せるかもしれないからな」
「マジ……?」
昔から何かとすぐに泣きたがる癖があり精神的にはとても弱かったプラセルだがそれをどうにか矯正したかったらしいヴィダが泣いたらその度に五回本気のビンタでひっぱたくという無理無理な躾を繰り返したところ、いいか悪いかはこの際別としてあんまり泣かなくなった、否泣けなくなったのは事実だ。
故に目から涙こそ出ていなかったが心底不安気な顔をしながら鼻水だけ出たり引っ込んだりしている。
「おーよしよし。そんじゃまずは膿を出さなくちゃアな」
舌なめずりをしながら成長過程の細い骨格を後ろから抱え込んで大きく足を割り開く。欲に飢えているのはオルカとて同じだ。腹が減るし種も溜まれば性欲だって人並みにおこる。欲求に対しての発散の手立ては幾つあっても足りなくて一度腹いっぱいに飯を食う満足を知ればそれを維持しなくてはいられなくなるだろう。
禁欲は理性だ。我慢が出来る人間程無欲を装い細くも生きられる。はずなのだ。理解はもちろんしているけれど。
性の知識など現時点では微塵も持たないであろうプラセルはそれでもオルカの手がやんわりと前を握るとためらいもなく甘やかな声を喉から漏らした。
「ん……」
「手はこうだ。軽く握る」
「……こう」
「そう、そんで、やさし~く扱く」
「ンっ……え、し、しごくって……?」
「こうだ」
今しがた初めての射精を迎えたばかりで熱を孕むウブでいたいけなプラセルの昂りをオルカが慣れた手つきでゆっくりと上下してやると息を殺してぎくりと全身を硬直させるプラセルである。
「痛いか?」
「いた、くな、い」
「……気持ちいいか」
「き……きもちいい、って……?」
明らかに腫れはじめる幼い雄の象徴をじっと二人で見つめながら緩く扱いていると次第に切羽詰まった快感の声音を漏らすプラセルが身を捩って悶えだす。
「ちょ、オルカ待って……! 漏れるっおしっこっ……!」
「しょんべんじゃない。今から膿出るから見てろ」
「っあ、ちがう、ちがっホント、にっ……」
嫌がるプラセルの決死の抵抗虚しく乾いた剥き出しのコンクリートに若い精液がばたばたと零れ落ち一際大きな喘ぎが反響しこだまする。しなる身体が射精の余韻で二、三大きく震えた。
数秒ののちちょうど帰ったヴィダが扉を開ける。どこを歩いてきたのか乾いた枯葉がそこかしこにくっついていたが長くこちらは見ずに上着を脱ぎ捨て問答無用でハンモックに飛び乗る。
「……何やってんだてめーら」
「ほけんたいく」
「あ、ン、……お、おかえりヴィダ……今オルカにちんちんの病気、治してもらってるっ……」
「……騒ぐなら外でやれ。うるせえと殺すぞ」
「ようやくプラセルくんが男になったんだから喜べよヴィダ様~」
「お、おとこ、?」
言葉とは裏腹にびくびくと素直に揺れたプラセルの腰にオルカが眉を顰めた。
「っまた漏らしたらどうすんだよ、もうごしごしすんのやめろっ……」
「どうにもヤリチンになりそうだなお前は……よそにびゅんびゅん種まくなよプラセル」
「……オイ、冗談じゃねえ。撒かせんなよオルカ。ちゃんと躾しとけ」
静観していたヴィダが面倒そうにしながらも釘をさすのでオルカは含み笑いで多少は感じていた一抹の罪悪を一蹴する。手を汚す出来立ての迸りをプラセルの腹で拭きつつ耳の側で囁く。
「さてと、いいかプラセル。真面目な話をしとく。今のがオナニーの仕方ってやつだ。精子が作れる身体になったってことは女とヤればガキが出来る。ちゅーことはお前もパパになれるってこったな。だが出来たところで食わせる余力は今の俺達には無い。それに、夜行は他とは交わらない。分かるな。これからは"膿"が溜まったら自分でするんだ」
大層酷な現実だが事実なので仕方がない。ただ、脳内麻薬にもなり得る絶頂の記憶はどうせ覚えるのならば断然良い方がイイに決まっていた。
要はライフハックだ。誤魔化す為の快楽を覚えるのは悪いことじゃあない。
これから先、例えば怪我をした痛みに耐えたりどうしようもない飢えに苦しんだ時気を紛らわす方法は多いに越したことはない。「快感」という鎮痛薬ならしこたま強力なうえに、タダなのだし。
「ま、しばらくは俺が面倒見てやるから安心していいぞ」
素直で純粋無垢な分無知の馬鹿で可愛い弟分だったプラセルの雄の芽吹きを毟り取り「抱けない」身体に仕立て上げるのはまんざらでもないオルカにとっても殊性欲のはけ口でもあったのだけれど。
(ビットマップ)
そうやって案の定射精を覚えた猿の如くプラセルはオルカと毎晩の様に身体を繋げていたわけだが今思えばあれはきっと既に無意識に空腹を紛らわせていたのだとも思う。
咥え込む良さを教え込んだのはオルカだし、それを黙って聞いていたのはヴィダであったがアナルセックスが何も知らない無垢な身体に上手く馴染むのと同軸でプラセルの男としての骨格もみるみる確立していった。
それはそうだ。元来身体の大きな造りだと分かるプラセルが育ちたいのだと鳴く腹の悲鳴を黙って自分達が見過ごせるわけも無い。別にプラセルに限ったことでは決してなかったが、いつふいに死ぬかも分からないと思うと自ずと弱い順に守られていくのは群れの性でもあったから。
そうして地獄なりに精一杯丁寧に育てたつもりでいてもしばらくすると教えていないはずの遊びもどこからかやはり覚える風で、時折ふらりと外へ出ては隠しきれない女の匂いをさせて帰ってくることもしばしばあった。
その点オルカは昔から枕営業よろしく平然とよその女を抱きまくっては殺していたのでそれはオルカ独自の生きる術でついでの欲の捌け口として目をつぶってきたがまさかそれを習って真似事にしているならば当然、さまざまな理由を差し引いても不愉快な匂いに敏感になるのも無理は無い。
何も言わずにヴィダが唾を吐き捨て汚れたであろう身体を睨むと、プラセルはさもおかしそうに「ちゃんと殺したよお」とせせら笑うのだった。
肉体も精神も各々が強くなればなるほど、はたまた日を追うごとになのかは分からない。奇しくも夜行の情勢としては一層厳しくなるばかりだ。
人は圧倒的に減りゆく中でも厳しい死線のレベルにばかり適応していく。否が応にもそろそろ血液型の匂いですらも嗅ぎ分けられそうなほどには毎日濃く濃く血を浴びるようにもなっていった。
「アハハ、今日の収穫ほんとえぐいね。これでちょっとは贅沢できる?」
「言ってろ。この調子だと人生最後の日ぐらいだわ、贅沢なんて出来んのは」
「……もう一巡する。行くぞ」
それから、仕方がないこととは言え争いの傷が元になったりそうでなくとも飢えて朽ちた仲間の死体を黒縄夜行の「墓」であるあのバカでかい大穴に投げ入れていくことが増えると、その度にプラセルは「可哀相だ」と口にする様になった。
ヴィダにとっては煩わしいと感じる弱い言葉の一つであったがプラセルの乾いた声音で再生されるそれをどうしてかどうにも否定は出来ず、どころか自分自身が前よりもずっと滅びの一族を生きる意味について思いを巡らせてしまうことが増えてしまったのは事実で。
芳しくない成果の夜は飯の味もしない。眠ろうにも血が冷えたようになり身体が熱を生まない。思考だけが遠く遠くこの広い第十二地区の端から端までの音を拾っているかの様に敏感に冴え休まるどころかひどく疲れた。そうなると仕様がないので眠れやしなくとも目を閉じて息を潜め静かに平坦に呼吸を繰り返した。
まるで夜に見つかったら二度と朝とは出会えないみたいで、「怖かった」。
「……ヴィダあ?」
まったく何故なのか理由は分からない。知ってか知らずかそんな夜に限り決まってプラセルがハンモックの横に立った。ヴィダが気配に起きないわけもない。面倒なので馬鹿みたいに寝たふりを決め込み知らん顔をしてやっているというのに木枯らしみたいな冷たい声。可哀相だと零すそれとまるで同じ風にしてプラセルは「抱かせて」と懇願した。
(ビットマップ)Ⅱヴィダ
そもそもいくら地上の悪鬼と言えどはじめから死神然たる冷血人だったわけではない。
どころか人より微かに全ての物事に敏感で人より微かに善人だった。たったそれだけがヴィダを黒縄夜行に選ばれし悪鬼としてしまった理由である。
全てを捨て常人離れした強さに到達する以前のヴィダを大事に大事に育ててくれた夜行の人間は皆あの穴の中でこの土地の呪いとなって生き続けている。
だからそこにいる以上、それに報いる為に、たったそれだけの為に、今も尚残りの夜行を守る為奪い殺し夜行以外に決して染まらずいつか来る滅びという許しまではどうにか生きなくてはいけない。
つまり、滅びる運命に逆らえなかったその時点で負けは確定している。
この世界に生きている間中地獄は途切れることは無く、黒縄夜行のヴィダという人間である限りどうしても続いていくというのだから致し方ない。
トータルとして全く意味のない殺戮を理不尽と詰る余力はとっくの昔に尽きた。
誰がそんな育て方をしたというのかプラセルは黒縄夜行である自分達は可哀相だと言う。しかし底辺から上を見たらそりゃあ何だって幸福そうにみえるものだ。
だってあるもので我慢するにも限度があって、奪うのが悪なら飢えて死ぬのは正義か。殺すのが間違っているならじゃあ、野垂れ死ぬのは正解なのか? 仮に滅ぶと知っていてそれに抵抗するのはそんなにいけないことか。
では誰がまともな答えを知っているというのだ。夜行の生きるルールは自分達で決めた事だというのに。
プラセルはじゃれつく猫みたいな甘えた声で言い訳がましくハンモックをゆすった。
「ねえー。いいだろ、肋骨折れたっぽくて痛いんだよ、オルカもいないしこのままじゃ眠れないからさあ」
「知るか。何でも人に頼るんじゃねえ。折れたとこぶん殴って気絶させるぞ」
「……究極それでもいいけどさあ……なんだよ、どうせヴィダだって眠れないくせにさあ……」
語尾を濁らせながら口を尖らすプラセルには無性にカチンときたヴィダである。苛立ちを殺気に変えて片目を開けて牽制する。
「ウルセエ。てめーでマスかいてろ」
プラセルは不満げにしながらも口をつぐんだがしばらくそこに立ったままぼんやりとしていた。ヴィダがせっかく素知らぬ顔を貫いてその気配が過ぎ去るのを待ってやっていたというのに。
「…………昨日さあ」
続けて、穴から赤ん坊の泣き声がしてさ、と抑揚なく低く掠れたその声はプラセルという名前の意味とはまるで正反対の湿度を含んだ虚しさだった。
「腹減ったって泣いてた気がしたんだあ」
「…………」
「別にどうしてやりたかったとかじゃないけどさ……うまくいえない。なんか、今はこうだけど、いつか腹いっぱい食って、あったかいきれいなとこで寝てさ、贅沢、できるといいよなあ。あいつだけじゃなくて、夜行のみんなも、……いつかボクたちもさ」
「……」
ヴィダは呆れる程に何も言えないままに仕方なく目を開けた。言葉で大泣きしているのは十分わかるのにプラセルの目からは一ミリも水分は零れなかった。それはそうだ。心当たりもある。悲しい時に泣く術をプラセルから奪ったのはヴィダだったから。
それがどれほどプラセルにとって不幸だったかを今更になって思い知る。
何を知っても何をどれほど失い得たとしても泣きたい時に泣けない人間はこんなにも、
「あー、でも……ボクにはヴィダとオルカが居るから、本当は他のやつらよりもずっとずっと贅沢、してるのかもしれないよね」
こんなにも不幸に笑うしかなくなってしまった。
最も悪鬼と成された今のヴィダに性欲は微塵も無い。種を遺そうという本能自体が焼き切れて失われてしまったかのように射精そのものを必要としなくなったのはもう随分昔の事だ。
まだ人らしい暮らしが許されていた若い頃は線の細さや身体の薄さから確かに求められることの方が多かった。応える事に何の疑問も持たず素直に人の温もりに安堵した事があるのも性的な刺激から満たされる感覚が分かるのも事実だ。
けれど愛情を以てこの身体に触れてくれたあんなにたくさんあった全部の掌は、今はもう暗過ぎて深過ぎてまるで光の届かない深海の様なあの穴の中にある。
だからあれらの手指でない限り、物理的な行為を以てしても少しも性的な興奮を覚えない身体に成り果ててしまったのは悪鬼としてはこの上なく都合の良い強さでありヴィダの朽ち尽きボロボロに崩れ去った心の残骸でもあるのだ。
プラセルへの仕打ちを不憫に思う心からか知れないがごくたまにこの身体を触らせてもいい気分になることがある。どんなに丹念に擦られても勃起しないヴィダの身体をプラセルは毎度毎度優しく触った。反応しないと分かっているのに丁寧に前戯をした挙句一人で腹の奥に零してはその度に言う。ヴィダとボクの子供ならすごい強くなるのにもったいないよね、などと。
(ビットマップ)
精通を期にオルカにセックスを強いられる様になってからは、ただひたすらに脳が求め続けていた「満足」を貪る様にして快感を受け入れた。
何と言っても生まれてこのかた腹いっぱいになったことなどただの一度もないプラセルにとっては満たされるという中毒的な感覚は本物の麻薬みたいだった。
わけがわからないなりにもオーガズムを上手く掴む才能はある様で身体に素直に気持ちの良い方向へ流されていくのはとても楽ちんだった。それにその時だけはここが地上とか自分達が黒縄夜行だとか殺すとか奪うとか生きるとか死ぬとか、そういった全てのしがらみから解放されていた。だがプラセルはある時ふと思った。
どうしてこんなに満たされてしまうのかと。
生き地獄である毎日の真っ最中、性と死がプラセルの中で結びついた瞬間だった。
冷静に考えたら何の為に身体を番うのかなどそんなものは無論決まっている。生殖活動の本能だ。死と隣合わせで生きていくための危機管理能力。本気で遺そうとしている。この遺伝子を、この生き様を、次へ次へと繋げたくて必死になって生き物としての役割を果たそうとしているのだ。
だからこれは間違いなくバグだった。繋がらないのに繋げた気になってたくさんの空虚で夢みたいな夜行の未来を量産する。満たされたのは空腹なんかじゃない。空想上の繁殖機能だ。奇しくも紛うことなき絶滅危惧種の夜行という人種であるプラセルはそれを果たされないが故に理解してしまった。
「本当、可哀相だよね……ボク達、は……」
珍しく相手をしてくれる気になったヴィダはプラセルの欲を根本まで食んでも表情を変えずにギチギチに締めてくる。初めて許された時のヴィダの腹の中はこれまで試してみたどんな女との交わりよりも圧倒的に気持ち良くてびっくりした。より強い鎮痛薬、はたまた麻薬と言うべきか、一度覚えてしまった強烈な刺激を求めプラセルはそれ以来オルカとヴィダ以外と身体を交えるのが悪癖となってしまった。
今日も相変わらず萎れたまま微動だにしないヴィダの前にそっと触れ撫でてみるもつまらなさそうに睫毛を伏せるだけで何の反応もない。
それでもプラセルにとっては十分に愛おしい行為に代わりない。無駄でくだらない可哀相な生殖本能だけじゃ決して収まりきらない。家族として他人としてヴィダという人間への憧れも信頼も感謝も崇拝もそして愛情すらも全て詰まったこの行為こそが腹を満たすより人を殺すより何より重要な孤独な種族の虚無を埋める為の、生きる為の、贅沢ごっこだった。
(ビットマップ)ENDプラセル
滅多にないけれどヴィダが何も言わないでセックスの相手をしてくれる夜は大抵ヴィダ自身も寂しい時なのだとプラセルは思った。こんな世界だからと人を殺して奪い生きることに何も感じなくなったとしても、気持ちの空虚は誤魔化せない。
実の所食っても食えなくても命は日々終わりに向かって止まらない。還る場所も決まっているし例えば世界が幸福になったとて、もし仮に夜行が他との交わりを許したとしてもヴィダはいつか死ぬしオルカだって死ぬ。自分だって。
だからこそヴィダは産まれる場所も生きる場所も選べない夜行の理不尽さを全部背負って強くなった。強ければ奪われない。奪われない限り、殺されることもない。せめてある命を精一杯誰にも奪われないで全うするのがヴィダの、ひいては黒縄夜行のプライドだ。
現在進行形で刻一刻と迫りくる終焉の兆しは当然ながら黒縄夜行だけでなく他の地区に巣食う人間にとっても同じ事らしく地上が枯れるのも時間の問題なのだと言う。既に枯れている夜行の土地がどんなに寂れた乾いたところかを身を以て知っているつもりなのでさすがのプラセルにだって事態の深刻さは多少なりとも察する事が出来た。
それでも、あるところから根こそぎ奪って生きながらえるという自分達のスタンスは大して変わらない。変えられない。尽きるまで、決して失わないようにするだけのことで。
「っ……おわ、おわりっていっ、た……のに」
飯が済んだと思ったらすぐになし崩しに始まってしまったオルカとの情事だったが当然の事ながら男同士の性行為をアシストしてくれるようなアイテムなどここには満足に無い。その身一つで受け入れる側であるプラセルからしたら精神的にも肉体的にも快楽の負担は異常なほどに重たかった。常日頃からかなりタフに鍛え上げられてきたはずの身体でもってもオルカと繋がるその度に冗談みたいに摩耗され人を殺すのなんかより断然くたくたになってしまった。
確かにセックスの技術として見れば上手いのだとは分かるのだけれど自分が満足するまで絶対にやめてはくれないのがオルカの常。それに合わせて一度で三回よりももっと吐精を強いられてしまうとあっては毎度毎度は付き合いきれないのも事実だ。今日だって果てても尽きても離してくれない度の過ぎたオーガズムの余韻が辛くて首を振ってどうにか必死にもう終わりだと主張する。
「ん、分かった分かった。終わり終わり、力抜いて」
「っう、……しっつこいんだよ、ばかあ……」
「あん? 元はと言えば誘ったのお前だろうがよ」
「だ、としても、じゃんか……っ……限度ってもんがあんだろお、毎回毎回さあ……」
汗でびたびたに濡れた身体をやっとこ解放され息も絶え絶えゆっくりと小さく丸まったプラセルは強い疲労感でぼんやりとしてくる頭に抗わないで漂う。きつく抱かれたせいか未だ腹の奥がじんわりと甘い熱に侵されたままでまるで湯の中に浮いている様だ。次第に心地よく思えて来る。
肉を食べた日、セックスした日、なんでもあれ僅かでも空虚の埋まる日には明日のことなどすっかり忘れた。抱き潰されて疲れ切った空っぽの身体を横たえまどろんだプラセルにこの先の夜行の行く末だとかこの行為に何の意味があるかだなんて本当に微塵も憂える余白など無い。確かなことはあるうち生きる。腹が減ったら奪って食うしか方法が無いと言うのならばきっとそうしていくしかないということ。ヴィダとオルカ、そして自分がここに一緒に居る限り。
「にしてもそれちょっと金使い荒くないかあ? 成功する保障もないのに」
「この際雑魚でも集める価値はある。どうせ捨て駒だ。数いりゃなんとでもなる」
「はあ。しかし天子ねえ。お空で一体どんないい暮らししてんだかな」
一時的な満腹感に酔ったふりをして考えることを投げ出したプラセルとは反対にオルカは裸のまますぐさま紫煙を濃く燻らせた。
ヴィダは例え二人が性行為の最中であったとてまるで構わず真面目な話をしてくる。倦怠感に重だるく沈む身体のままプラセルは黙って一人寝床からそれらの様子を眺めた。
「どうでもいい。リーベルの野郎がわざわざハチの巣つついて持ち出してくれるってんなら好都合。そいつさえ居れば俺たちは死ぬまで不自由しない金が手に入る。奪わない理由がねえだろ。それだけだ」
「そう上手くいくもんかねえ」
「知らねえ。どうせ失敗したところでこれ以下はねえんだ。やるだけやったっていいだろ」
「そりゃそうかもしんないけど……。ま、明日弾いとくわ。今夜は疲れたからもうおしまい」
難しい話になるとヴィダもオルカもまるで人が変わった様に真剣な顔をした。混ざって聞いていたところで自分の役割としては言われたことを全力でやるだけなのだから結果は一つ、余計なことはあまり考えないことにしている。
(金……かあ……)
されど、死ぬまで不自由しない金、というヴィダの言葉にはさすがのプラセルも頭の中で反芻してしまったわけだが今更いざ金持ちになったあとの幸福なんて漠然とし過ぎていて見当もつかなかったのには我ながら呆れてしまった。
だって、自分達は金持ちになったところで夜行でいる限り滅びるのはもう決まっている。なら反対に金持ちは死ぬまで毎日何を考えて生きるだろう。
ヴィダとオルカが居るから間違いなく自分は黒縄夜行でいられるのだが、また、二人がいるからこそ黒縄夜行からは生涯絶対に逃げられないのだとも分かっているのだから愚かで仕様がないと思った。
きっと二人だってとっくの昔に気がついている。もちろん、金持ちになったってそれは同じことだろうに。
分かっていたとてプラセル一人の力では今更何一つどうにも出来なかった。こんな風に知っているのにどうしようもなくて結局どれもやめられないのはきっとそれこそこの土地ならではの忌むべき呪縛なのだろうけれど。
「…………」
慣れない思案も相俟ってかいよいよ眠たくて眦がびりびりとしてくる。
重い瞼を閉じるのを躊躇するのは、眠るにも死ぬのにもその姿形がそっくりであることにいつしか気が付いてしまったからだ。それ以来眠る為には目を閉じなければいけないことにプラセルは人知れず苦悩する。だってただ眠ろうとしただけなのに万一間違って穴へ落とされてしまったらと思うとぞっとしたのだ。古い信仰のルールからは逃れられずにいたとしてもその誰もが一様に死ぬのを恐れているからこそ他を傷つけてでも生きようともがいていた。
そしてその象徴である奈落こそが黒縄夜行全員の結末であり母であることはこれからも恐らく何ら変わりなくあり続ける。どんなに無残な生き方、或いは死に方をしても夜行に産まれ落ちたならそれだけで誰であろうと無条件であそこに還り一緒くたになって愛される権利があった。どうしたって捨てられないし守り抜いたら最後はきっと愛されたいのだ。それが自分達に残された唯一の救いなのだといっそ盲目的に思えでもしたのなら。
「……ヴィダ……オルカ……」
弱く吐露するプラセルの意識はまさに奈落との狭間である。
寝ても覚めても汚い毛布のこの寝床がこんな世界のどこにも敵わぬ安心の匂いに満ちているせいで夜行の生き方がどれだけ理不尽でどれだけ虚しいのだとしても寝る時だけは全てを許された気になる。なってしまう。
「……さき、寝てもいい……?」
言いながら返事も待たずに落ちていってしまった先は果たして眠りか死か。その深い孤独と安寧を慰める術を未だプラセルは知らないままでいるのである。